1921年京都府船井郡に生まれる
1942年歩兵第128連隊に入隊後、豊橋陸軍予備士官学校へ
1943年見習士官として独立混成第4旅団独立歩兵第13大隊へ
1944年新編成の第62師団の移動にともない沖縄へ
1945年沖縄で終戦
1946年1月復員。戦後、中学校の教師に
[1] 見習士官として中国へ 07:04
私は周智農林(静岡)を出ましたんけど、そのときに友だちに、「おい、教練の成績は」って友だちに言われて。それは教練の好きな男やったから、「お前の成績では甲か乙か丙か」言うて、「良くて乙やな」と。「だいたい乙が普通で、甲はほとんどもろうたことない」って言ってましたよ。「それは兵隊行ってから苦労する」ちゅうて、「教練成績が、今の学校の成績が甲やなかったら将校にはなれへんよ」て言うてくれましたよ。「あ、そうか」って。で、成績が卒業のときに士官適(甲種)か下士適(乙種)、兵適ちゅうその3ランクが教練成績によってあって、「士官適でなかったら将校になれへんよ」ということはお互いの間で流行ってましたよ。
それは友だちが言うてくれて、「兵隊行ってから苦労する」と。「士官適(甲種)でなかったら将校なれへん」て、やっぱり士官適でないとあかんなあと思うて、それからもうひとつ「京都にある・・甲になる学校に入れ」ちゅうたさかい、京都の師範学校にある青年師範に入りましたよ。青年学校の教師になれる。そこで教練ばかり頑張ったら確かに、入隊したときに、昭和17年の1月10日に入営しましてん。そしたら中隊長が「ちょっと来い」いうて、叱られるのかなと思うたら、「貴様は士官適の生徒やねん頑張れ」ちゅうて。あ、ほんまやな思うて。それから教練頑張りましたよ。
同じ軍人になるならできるだけ上の階級が欲しいというので頑張りました。また親父も「幹候目指して頑張れ」と言うて、常に励ましてくれるもんだから。ここに書いとるようにね、「太陽を尊び、帝国軍人としての心身を鍛えよ。真面目と不断の努力とをもって、幹候の、幹部候補生でんな、希望達成に進め。全力を尽くして、前に進まならずとも決して悲観してはならん。ますますご奉公に励め。必ずいつかは報いられるもの。信じ、」何て書いてあるのかな・・・いっそうか、「いっそうご奉公の誠を尽くせ」というようなことを親父が。
Q:じゃあ畑中さん、実際に中国に渡ったのはいつぐらいになるんですか?
それはね、私は昭和17年に、1月10日に入営をしまして、そして入営したら3か月から4月に、3か月の一期の検閲が終わりましたら、一期の検閲の実践の演習でやね、成績を含めて、幹部候補生の試験がありましたよ。そのときは幹部候補生合格とだけでは、下士官になるか、士官になるか分かりませんねん。今度は甲幹、甲種幹部候補生にもう一回試験がありますねん。そしてそれの甲種幹部候補生に受かったら、将校になれるし、受からんもんは下士官止まりと。同じく受けるなら受からなあかんなあと、親父も励ましてくれるし。受けましたら、士官適任者になって、そして豊橋の予備士官学校6か月、そこへ入隊、入校やな、豊橋予備士官学校へ入りましてん。
ほんで見習い士官や。見習い士官で中国へ、太原(たいげん)へ、山西省太原の、独立歩兵第13大隊へ入隊しました。
[2] 「焼かず、殺さず、犯さず」 08:32
Q:初めて山西省に行ったときの印象は何か覚えてますか?
印象ちゅうのは、部隊長は喜多大佐ちゅう方で、「中国に来たことは戦争が仕事や」と、「しかし、部隊長の言うこと3原則をよく聞いて守らなあかん」と。「焼かず、殺さず、犯さずや、その3つをやね、守れ」と。「その他の考えは邪道じゃ」と。喜多大佐いうて大佐やったけど、陸軍士官学校出はったお方やと思うねんけど、もうだいぶお年のお方で、「焼かず、殺さず、犯さず、これを鉄則にして守れ」と。
非常に道理の通る部隊長で、愛情のあるお方やったと、それにちょっと敬服をして、しましたけど、やはり殺さず・・・「戦争ちゅうのは殺し合いや」と、「殺さずちゅうのはそれは戦争できなへんなあ」と。そういう部隊長にそれを質問したことあります。その、「殺すちゅうことをはじめから持って戦争しとるのは、それは邪道じゃあ」言うて、大佐は。「やむを得ず撃ち合いをせなあかんかったらしかたない」と。「殺し合いが軍人の本分やと思うたら間違いだ」と言うて、それを大隊長がな、喜多大佐。そういうはじめ振出しにそんな温情のある大隊長に仕えたいうことは今考えたら幸せやったなと思います。人間味のある方。
Q:着いて最初にそういうことを言われたんですか?
そうね。北支、・・・部隊長に、そして最初、戦闘に参加しますやろ。ほいだら敵が出てくる、そしたらその部隊長がやね、「撃ち方待て」、と。「あの敵よりも20ミリ右へ外して撃て」、と。そしたら敵逃げますやろ。逃げたら前進。そしたらもう、あのちょっと馬に乗っとって、ここにダーンと当たって、もうお年やから、落馬して後送なされましたんや、部隊長が。・・・ちゅう、そしたら今度はもう兵隊がやね、今までそんなことなかったのに、駐屯するとこで、休憩するとこで、鶏がきゃんきゃんきゃんきゃんいうてるところへ、鶏を追いかけとるわ、豚はつぶすわやね、無茶苦茶やった。で、その部隊長は「焼かず、殺さず、犯さず」でっしゃろ、で部隊長がその後送される間でも、担架に乗せてもろうて、上をサーと煙が、ちょうどこの煙があがっとるのは直径何センチくらいのものを燃やしとるか、見てきて報告せいと。すごいこんなもんやったらかまわなけど、これくらい太かったら、後払い書を太原の13大隊へ、その代金を払う、取りに来てくれいうことをやね、ちゃんと書いて、後払い書を置いて、それを置かしたら前進でんねん。で、敵が来たら、外して撃っといて、敵が逃げたら前進。そんな部隊長でした。その代り、部隊長は営外居住で、私らは太原の門を入ったとこの兵営やったけど、部隊長はどっかこう毎日、馬で送ってもろうて、また馬で帰らはりまんねん、官舎へ。そしたら部隊長が朝来はる道、帰らはる道に、向こうの苦力(中国の下層労働者)ちゅう方が、貧しいお方が中国の、「もういやあ、ご苦労」と、中国の困ったひとと握手して出勤したり、帰ったりするような部隊長やった。そんで部隊長の行き来しはる道にも、いわゆる日本でいう乞食でんな、乞食がいっぱい部隊長のお通りを待って、恵みをいただきたいということで、ま、そんな部隊長でしたわ。
Q: じゃあその厳しくやる人がいなくなっちゃったんで・・・。
そう、いなくなったらね、途端にやね。それも私ら初めて中国行って、そいで戦闘に出たときですわ。そんな状況でやな、
あの部隊長が後送されたことによって、悪いことするなあ思うて、考えさせられましたわ。
Q: 取り締まる人がいなくなっちゃったってことですかね?
畑中 そういうことです。
やはり中国の戦争いうたら人殺し、というのが戦争やけど、どっからの思想かなあ、とにかく、喜多大佐の言うこと聞いとったら、焼かず、殺さず、犯さずやったらもう戦争ができひん、人殺しができひん、戦争が成立たへん。そんで殺さず、戦争は人殺しやで、殺さんはいいけど、焼かず、家焼いたり、犯したりはせんでも、殺すことできなんだ戦争にならん。せやけど、その部隊長お年やって、後送されてから、部隊長が変わってからやね、やっぱり鶏とったり、休憩すっときに、豚殺したりやりよった。
[3] 住民か兵士か 15:21
Q:八路軍というのは装備は弱かったですけども、かなり戦いずらい相手だったというように聞くんですけどね?
戦闘が上手やったということですやろ?
Q:八路軍の特徴ってのはどんなもんだったんですかね?
まず宣撫がうまいちゅうことやな。その宣撫班。
Q:宣伝工作みたいなこと?
そうそう。
Q:それは現地の住民に対してもやるわけですか?
現地の住民もみな抱えとる感じや。そんで日本軍が来たら山の上でバーンと音出して、みんな中国人は逃げる前に家の門に地雷を仕掛けといたり、あるいは兵隊の通りそうな、日本軍の通りそうなところへ地雷を伏せて、それから逃げると。そんで早いこと監視兵がおって、「日本が来た」ちゅう合図をやったらちゃんと地雷を住民は伏せといて、そして自分の山の壕(ごう)の方へ逃げる姿は見たけど。
最初これはどうしたらいいんやろなと。みんな伏せといて、そこの住民が敵が来たっちゅう印に山の上に音が鳴って、したら住民が荷物持って逃げる前に、地雷を伏せといてそいで逃げとるということを知ってからやね。これは住民も後ろ手にくくって、道の幅だけ竹にくくって、そいでちょっとツマ(先)にひっかけて先歩ませた。自分たちがいけとん(仕掛けている)さかい、うまいことよけて通ると。そしたら前進で行けまんねん。もう地雷でみねこうたことありますわ。わしの前歩いとる兵隊がガタンとはまって、湿っとったんやな、煙がうーわうーわ上がって、「伏せ!地雷!」言うて、伏せてしばらくしたらドーンと。あれほんまやったらやられとるなあと。助かったこともありました。
八路軍の地雷は岩石に穴開けて、そこに爆薬詰めて弾かせとるというくらいで、まともに受けたら馬が腹当たって、ハラワタ出して、廃馬になった例もありますけど。人間やったら目、やられまんねん。まともやったら石ころの破片やさかい、腹でもやられたらしりませんけども、八路軍の地雷は、地方軍(国民党軍)の、蒋介石の地雷ほど恐れることはなかったと。しかし、そういうふうにして、いけといて(仕掛けておいて)逃げる、逃げとる住民をまず先走りにして行軍したこともあります。
Q: 地雷が埋めてあるわけですか?
そうそう、あの、入っていくときは何ともない。そこを通過するときに大きな部落やったら必ずいったん休憩しますやろ。そしたらドーンと音さして山の上でみんな住民は逃げる。今度は大きな、中国ではね地下に、地下に逃げ道を作っとる。
Q: 地下道ですか?
地下道やな。地下道にもう日本軍来たら恐ろしいて、地下に寝床はちゃんとしたるとこもあるし。地下、あの・・・でない地下に入ってやね、なんかこう樽が置いてあるで樽を動かしたらそこがフタになっとって、そっから住民が逃げる逃げ道がちゃんと作ってある。そんでここらだったらそんなことしたら土がもろいで、中国では赤土のなんぼ穴ほっても雨が少ないのと、そういう地下に隠れる場所をこしらえてましたな。そんで迂闊(うかつ)に入ってやられたもんもおるし。
Q:穴に?じゃ、敵が待ち伏せしてるんですか?
そういうことじゃな。敵が中におった場合は。そして必ずどっか逃げ道がある、別なところにあるんや、入ったとこと。入ったのは家の炊事場の下やとか、入る場所は。しかし入ったらまた逃げ道が作ったる。
Q: それはどうやって捕まえるんですか?
え、それはね、バーと荷物もって日本軍が来たちゅうことで、そしたら荷物もって穴中でばっかりでなしにバーと荷物持って逃げるのを捕まえる。しかしそれは住民かもしれんし、あの八路かもしれんし。しかし、八路を追いかけとったらパーッと百姓の姿に着替えて、そいで「へーい、へーい」言うてロバの尻たたいとる、「あれ確かに兵隊やったで」ちゅうて。そういう民兵がおんのや、中国では。
そういうことやな。バーッと追いかけてもね、いま敵、八路軍やのにや、追いかけたらバーッと服装変えて、ほーいほーい言うてロバ追うたりね、しとる姿を見た。民兵やな、見たら。
Q:それはどっかで着替えるんですか?
ちゃーとこう上着でも脱いだら百姓の服装になるように。
Q:じゃ、どっかちょっと隠れて。
そうそう、パーッと早いこと。ほんで着替えるような時間はないな。サーッと。「あれ、今、敵やったんが今度は百姓になっておうとる」というようなの見たことありまんねん。
Q:そういうのはもう怪しいから捕まえるわけですよね?
Q:捕まえたらどうするんですかね?そういう人は。
通訳でほんとに敵意を持ってやったんか調べさせて、せやけど軍人かなんか分からんで殺すわけにも、捕虜にするわけにもない、手かけとる暇はない、前進前進で。ほんで通過できたらもう捕虜としては扱わんと、軍人やないかもしれんし。ほんで敵扱いにはせなんだ。まあ、やむをえんやろなあと、後から考えたら。そいで民家入ったら、中国には門がありまんやろ、その扉を開けたら上に地雷がひっかかってやられたちゅう例もあるさかい。ほんで開けよう思ったら、手で開けんと外から石投げて開けると。怪しい思うたら。
Q:普通の住民が兵士にもなるんですか?
そうそうそう、そういう場合もあるの。ほんでそれが分かったらやな、これは「ここら逃げる中国人みんな敵や」というようなこと言うて殺される、殺す殺される場合もあるさかい、そういう戦争はもう人殺しやから住民を、敵やないもんを殺して犠牲にしている場合もあったに違いない。
Q:それは畑中さんが見てる中でもそうだったかもな、ということがあった?
もうそういうことも思いましたな。
Q:そのときの感覚としては、かわいそうだなとか思ったりするんですかね?
そうやら、やっぱりあの、先ほども言ったように、自分の戦友が殺されたりしたらやね、素直な人間の心が鬼になって、戦争はせやなかったら、まともな愛情やら、そういうこと持っとったらこちらがやられるような場合もあった。
やっぱり大事にしてやったら喜ぶし、同じやと。しかしこの戦争ちゅうのはそういうときにほんまに鬼にならなんなら戦争できへんのに。戦争ちゅうのはやりながらむごい行いやなあいうことは思いましたな。
普段はやっぱり同じ人間やと。そんでやっぱりちょっと時がたつと、これは危ないなあと、これは危ない人間やなあということは分かりますわ。こうやってパーッと百姓に、がけにみておったら日本軍に抵抗しといてやね、ダーッと日本軍が行ったら服装変えてあの、応対して、便衣隊(一般市民を装った兵士)ちゅうのがおりましたわ。「この男は兵隊や」と。
Q:そういう怪しい人は捕まえたりするわけですか?
そういうことやね。またね、あの中国人の通訳がおりまんのや、日本軍に。そして敵を捕まえたら、白状さしたり、日本軍に都合のいいようにひどいことたたいたりね、鞭で打ったり、その通訳は日本軍から金もろうてるで無茶苦茶しよる。白状させたりな、そのような場面もありましたわ。
Q:それは中国人の通訳が?
そうそうそういうことや。中国人も通訳に雇って、日本軍から報酬をもろうとると、そいで、日本軍と一緒に行動しとる。んで、そういうもんをつくらなんだら言葉も通じんわ、心が分からん、言葉が分からんほど心が通じんことはないじゃんけん。
(略)