『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

239連隊 その07 略あり

1922年北海道に生まれる
1941年陸軍士官学校入学
1942年第41師団歩兵第239連隊に配属
1943年ニューギニア・マグファインにて連隊赴任
1944年アイタペ作戦当時、第2中隊長 中尉
1945年第2機関銃中隊長として終戦、陸軍大尉
1946年神奈川・浦賀にて復員
 海産商などを経て、文具・化粧品店を開業


[1] 密林での飛行場づくり 01:34
[2] マダンへと東に 02:08
[3] 大和魂と水と空気のみ 04:24
[4] 行く手の難所 セピック河 05:31
[5] 中隊長の任務 08:15
[6] 突入の命令 05:58
[7] 密林への撤退 06:39
[8] 斬り込み攻撃 05:23
[9] 消えた第2大隊 05:17
[10] 投降勧告 04:13
[11] 終戦 03:39



[1] 密林での飛行場づくり 01:34
(両手を広げて)大きいスコップじゃないですよ。背のうにつけるようなこんな円匙(エンピ、軍用シャベル)でもって、本来なら工兵がやる仕事を道路建設だとか、飛行場作業だとかを歩兵の僕らがする。だから、それを言ったんだね。だから、そんなのさしてさ、体力消耗してマラリアにさしてるよりは、そういう仕事、道路作業なんてのはなんも無理してさせる必要ないんと思うんだけどもさ。まったく。

僕はタバコ飲まないけれども、タバコもらってきて、兵隊さんにくれてやる。そうすると兵隊さんは喜ぶ。そういうことで情報収集して、兵隊さんに喜ばれるようなことをして、ということで、日曜日は作業もお休みでしたし、そういうことをしてました。


[2] マダンへと東に 02:08
だからマダンまで行く途中に、大変なわけだ。大発輸送機っていたけれども、日中の陸路も空襲の危険のがあるのを、あることを体験して、船でアレキスまで行くこととなった。マダンのそばにアレキスっていう飛行場があるんです。そこまで船で行くことに。こういうふうに。日中の陸路も空襲の危険のがあることを体験して、船でアレキスまで行くこととなった。夕方行動を開始。接岸航行である。昼間は行けないから。暁部隊(陸軍船舶部隊)の人にすべてを任せて、途中、敵のパトロール軍が。哨戒に来るんだ。飛行艇で「ブゥー」っと。あえば、陸路に強行上陸の体制をとりながら、東進、東に進む。わが軍の輸送船が撃沈され、積み荷の砲弾が一定間隔で破裂しているその場を通過するときの気味の悪いこと。沈んでいたわけ船が。それで「ドオ~ン」。しばらくして「ドオ~ン」って、弾が。気味悪いよ。輸送船のあの砲弾の破裂。アレキスの波止場に着いてやっと陸地の人となった。


[3] 大和魂と水と空気のみ 04:24
アイタペに4月の20何日(連合軍が)あがっちゃってる(上陸している)。だから、泡食って、こっちにあがったから、こっちにいたマダン、この辺にいたのみんな敵に、ほらぁ、ここアイタペでしょ、ここに広くあがっちゃたから、こう、ね。こうあがっちゃたから、で、我々この、ここにあったから、今度これを迎え撃ってね。後ろへ下がれ、下がれって、下がっていくわけですね。

Q:敵がここに上陸するのは日本軍の読みと違ったわけですよね?

まさかと思ったね。せいぜい、ハンサか、この辺ハンサだからハンサあたりかな、せいぜい、ウエワクかなと思ったら、アイタペに一部、主力はホウリャンじゃって。だからもう、これはもうひどいもんだよね。

やっぱり、僕は大和魂と水と空気の戦であって、あれもない、弾もない、薬もない、そして食料はもちろんない。そうすると、何、食ってたのっちゅうたら、その辺のジャングルのあれを、ジャンクルの、ジャングルブキとか、いがらっぽいんですよね。だけども、それは、しょうがないから、1回茹(ゆ)でた感じで、ざっと煮て、水はありますから。だからもう、それでもって食べる。そして、結局あれは、兵器は、死んだ人の持ってたのを、あれです。

しかし、有効に使っておりました。例えば弾。兵隊さんは、「はぁ、ノド渇いた」って言ってね。ヤシの実を、パンって撃つ。そうすると、落ちてくる。穴あいてダダダダダダって流れてくる。それ、こう口やって、そういうことはしない、させない。

そうすると、ちゃんと、弾は使わせないで、僕はもう、ま、英語できるって、現地に英語で通用するもんだから、そしたら、現地の土人の人、ソルジャー、あれだって。「ヤシ、落として」っつうと、落としてくれる。あの人たちもそのほうがいいんですよ。自分の大事なヤシだからね。その実った実、やつね、そして、兵隊さんに飲ませるとか、そういうことはして。そして弾は、「おい、うちの中隊で射撃のうまい、ナンバーワン、ナンバーツーくらいに、弾を与えて、『鳥を撃て。』それから、『あの豚を撃て。』」そして、撃たせて、そうでないとねぇ、弾は、ノド渇いたってバンバンバンバンやってる上に、弾はあの日本少ないのにね、それ、そういう厳しくするけども、喜ばれるようなことはしてました。


[4] 行く手の難所 セピック河 05:31
我々もウエワクへ行き。ラム河は工兵の船で・・・、最大の難所はセピック越えである。小舟でしんがりから中洲へ、そして対岸へと連日の爆撃。そして、バラバラ、部隊の生き倒れ、わずかの間に乗船人数と上陸人数の差が千人、多くの人々がここで昇天いている。乗せた人数と上がった人数の差が千人ってことは、「船で沈んでる」ってこと。ね、セピックって河。で、ここラム河でしょ。ラム河超えて今度セピックへ、これ超えて今度セピック。セピック大きいからね。

Q:ここの湿地帯がすごく大きくて大変だっていうの読みましたけど。

うわごとのように最愛の奥さんの名を呼び続ける人、天皇陛下万歳で自決する人、沼地でコト切れて手だけが流れのまにまに動いている人。河の中で死んじゃってね、そして、流れにね、手だけこうして(ひじから先を揺らして)、流れにこういうふうになってんね。ひどいや。あんまり気分よくねぇや。「我々にかまわず早く行きなさい」ともとれるしね。これ(手の動き)ねぇ、「早く行け」っていうふうにもとれるし、逆に「知らんふりして通ったら、ただでおかないぞ」ともとれるし、とにかくすべてが地獄であるって書いてあるんだよね。
『生きるも地獄死しても地獄と、何のための戦いなのか。連隊本部が空襲され間一髪無事であった。連隊本部に僕行ってて、そいで、空襲されて、日中は密林湿地帯に分散して夜間渡河。』
とにかく、大変なくらい昼間はもう黙っているんだよね。
『とにかく渡河完了。対岸の部隊に、対岸の部落はさすがに平和。温かに迎えてくれた。』
ウエワクに潜水艦が迎えに来てるっていうデマがあったんですわ。ええ、ほんとう。まことしやかに流れた一縷(いちる)の希望。

Q:潜水艦は何しに来るの?

もちろん、我々を日本へ送ってくれる。「日本へ帰る潜水艦迎えに来てるんだぞ」って言うてデマがとんだわけよ。ウエワクに。「よぉし。」そしたらデマだった。
『セピック沿いに海岸に、ウエワクへと兵は進む。途中、力尽きて泥にのまれ、こときれる人、励ましのことばもうつろに病と闘う勇士たち。食糧さえあれば、全員が元気で進めるものを。残念である。我々も毎日食さがし。インド兵の首つり自殺者あった。』
インド兵首つんだよね。日本人と違って膝立てて。こう、中座してね、日本だったら、こう中座してね、こういう格好ね。

Q:インド兵もいっぱいいたんですか?

インド兵ちゅうのはね、シンガポールで、日本の捕虜になった人が、飛行場作業に、ウエワク、マダン、あの辺の飛行場作業に連れて行かれて、そして、その人たち、だから、こっちにも来てたのかな。


(略)