『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「R・M」の供述書(原文P01~P40)(作業中)

・以下は撫順戦犯収容所に収容されていた戦犯「
R ・ M 」の自筆供述書の一部である。
・底本として、国会図書館にも収蔵されている「日本侵華戰犯筆供」(
2005 年、中國 檔案出版社)の第 5 巻、お
よび
http://japanese.cri.cn/781/2014/07/03/Zt145s223191.htm
を使用した。
[家族構成、経歴][原文
P01 P07 ]
次に私が犯した罪惡は、一九三九年六月下旬より一九四〇年一月二十五日まで、私は河南省開封縣朱仙鎮に於て、
朱仙鎮宣撫班の宣撫官庶務主任でありましたが、この間中国農民大衆に對する宣傳宣撫については、元来から私
は、中國人は文化の程度が低く、永い[原文 P07 ]
間の内戦で自國の統一政府さえ樹立し得ない、政治自覚の低い民族だと輕視していたので、戦禍にまみれたこの
農民大衆を皇軍の恩威に浴せしめ、皇軍に頼ることにより前途への希望を見出せてやるとの考えで、當宣撫班に
於ける施療を通じ、小學校教育を通じ、青年教育を通じ、毎月一 日と十五日に日軍朱仙鎮警備隊で行はれる村長
會議を通じ又は日軍の示威行軍に従軍して村落を通過する機會を捉らえ或は日頃の民衆との接觸面において、あ
らゆる機會を利用して次の宣傳を行いました。即ち中日戦争の責任は蒋介石政府の抗日侮日の政策に基因するも
のである。隣國同士であり、同文同種である中日両國は互に親善を計り、互に協力して東亞の平和を守るべきで
ある。戦争の責任は日本政府にはない、必ず蒋介石政府を打倒して満洲國のような王道楽土の新中國を皆の手で
建設せねばならぬ、と宣傳しました。又私自身が當時はそのように考えていま した。尚この宣傳工作は開封市の
豫東道宣傳指揮班班長××某の指揮を受け、宣傳ビラは毎月一箇月分を當指揮班より受領しました。故に私はそ
の指揮と宣傳ビラの内容に應じて宣傳を行いましたがその根本[ P08 ]
内容は前述の通りであります。このようにして数多の中國農民大衆の反帝闘争の自覺を麻痺し日帝の侵略のため
に私は働きました。斯くして施療は一九三九年七月頃より同年十二月末まで當宣撫班で患者があれば殆んど毎日
行いました。又患者は一人二人の時もあれば十人位のこともありました。同年八月當宣撫班長××××の命をう
け私は朱仙鎮 の開封縣第一區公所史所長に命じて、朱仙鎮内の就學児童男女約五十人を集めさせ朱仙鎮小學校を
設立して、私は最初は毎日、十月以後は三日に一度行つて日語を教えるかたわら教育に名をかり前途の如き宣傳
を行い将来中國を背負つてたつ児童等の奴隷化を圖りました。同年八月日軍朱仙鎮警備隊が朱仙鎮東方約十二粁
附近まで、九月には朱仙鎮東南方約八粁附近まで、十月には朱仙鎮西方約十粁まで、十一月には朱仙鎮西南方約
八粁まで示威行軍又は討伐行軍をした時私は朱仙鎮宣撫班長××××と共に宣撫官として従軍し通過した幾多
の村落で、××通訳、××宣 撫員に指示して前途の宣傳ビラを散布或は部落の要所に貼布し又は村落に施療をな
すことにより人々を集め聖戦なるもの説いて幾百千の農民の反帝闘争を麻[ P09 ]
痺しました。同年八月朱仙鎮宣撫班に於て、朱仙鎮及びその附近約三十箇村から村長を通じて約五十名の青年を
集め約一箇月間訓練しました。私はこの時精神教育を擔任し、今次戦争に於ける日本の正義を説き、反蒋と中日
親善を説き日本軍への協力を要望しました。尚情報教育は班長××××が擔任しました。この訓練が終つてから
九月上旬には班長××××の提案で前記訓練生の中から六名を選 出し、この六名に對し約一週間の秘密情報訓練
をして、朱仙鎮東南方三箇村に遁傳式の秘密情報網をを作りました。この時私は班長××××より一面秘密情報
網配置の實際を學びながら一面私は訓練生に前期訓練と同じく精神教育をなし班長の仕事を援助しました。この
結果は同年十月にはこの秘密情報網の通知により朱仙鎮東南方約四粁の某村で、當宣撫班××××が中央軍秘密
偵員一名を逮捕して歸りました。私はこの逮捕には参加しておりませんが、當宣撫班事務室で私と班長××××
偵員一名を逮捕して歸りました。私はこの逮捕には参加しておりませんが、當宣撫班事務室で私と班長××××とでこの密偵を取調ようとしましたが言葉はよく通じないし何を尋ねても語らとでこの密偵を取調ようとしましたが言葉はよく通じないし何を尋ねても語らないので、こんな奴は殺した方がないので、こんな奴は殺した方が手早いと考え、私は彼を日軍朱仙鎮警備隊に送り日軍の手で斬殺しました。そ[手早いと考え、私は彼を日軍朱仙鎮警備隊に送り日軍の手で斬殺しました。そ[P10P10]]
の惨殺場所は朱仙鎮缶飛廟東方約百米の砂丘であると後で聞いております。平和な居民の奴役については一九三
の惨殺場所は朱仙鎮缶飛廟東方約百米の砂丘であると後で聞いております。平和な居民の奴役については一九三九年七月下旬朱仙鎮南門外の日軍朱仙鎮警備隊南門分哨前の道路が惡いので排水口を掘るよう當宣撫班長××九年七月下旬朱仙鎮南門外の日軍朱仙鎮警備隊南門分哨前の道路が惡いので排水口を掘るよう當宣撫班長××××より命ぜられました。この時私はこの地の道路の排水を良くするのだから朱仙鎮の住民が當然なすべきだと××より命ぜられました。この時私はこの地の道路の排水を良くするのだから朱仙鎮の住民が當然なすべきだと考え、當地の開封縣第一區公所に命じて朱仙鎮の平和な居民約五十名を二日間奴役しました。この間私は午前と考え、當地の開封縣第一區公所に命じて朱仙鎮の平和な居民約五十名を二日間奴役しました。この間私は午前と午後と一回づつ行つてこの工事を監督しました。又九月には朱仙鎮北門から開封市に通ずる自動車道路約一粁の午後と一回づつ行つてこの工事を監督しました。又九月には朱仙鎮北門から開封市に通ずる自動車道路約一粁の修理を命ぜられ、私は前記と同じ氣持で開封縣第一區公所史所長に命じて、朱仙鎮の平和な居民約百名を三日間修理を命ぜられ、私は前記と同じ氣持で開封縣第一區公所史所長に命じて、朱仙鎮の平和な居民約百名を三日間奴役しました。私はこの間午前又午後一日一回行つてこの工事を監督しました。一九三九年十月朱仙鎮の缶飛廟奴役しました。私はこの間午前又午後一日一回行つてこの工事を監督しました。一九三九年十月朱仙鎮の缶飛廟東方約百米の砂丘上の鐡條網桿が約十五本抜き取られたことがあり、朱仙鎮宣撫班は日軍朱仙鎮警備隊より、前東方約百米の砂丘上の鐡條網桿が約十五本抜き取られたことがあり、朱仙鎮宣撫班は日軍朱仙鎮警備隊より、前記のことは抗日行為であるので厳重に取調るよう命ぜられ、私は班長××××に随つて朱仙鎮東門外某村で、當記のことは抗日行為であるので厳重に取調るよう命ぜられ、私は班長××××に随つて朱仙鎮東門外某村で、當宣傳班××通宣傳班××通訳、××宣撫員をして関係あると思はれる者十名、婦人二名を[訳、××宣撫員をして関係あると思はれる者十名、婦人二名を[P11P11]]
當宣撫班へ連行し××通訳、××宣撫員をして取調させました結果二名の婦人が知つているとのことから班長×
當宣撫班へ連行し××通訳、××宣撫員をして取調させました結果二名の婦人が知つているとのことから班長××××と私と××通訳、××宣撫員とで、當宣撫班裏で班長××××が主となり××通譯を使つて訊問し、×××××と私と××通訳、××宣撫員とで、當宣撫班裏で班長××××が主となり××通譯を使つて訊問し、××××は婦人は裸體にすればすぐに白状するよ、といつて××通訳をして先ず三十歳位の婦人に脱衣を命じ裸體に××は婦人は裸體にすればすぐに白状するよ、といつて××通訳をして先ず三十歳位の婦人に脱衣を命じ裸體にしたが尚白状しないので今度は二十歳位の婦人に脱衣を命じ、上衣を脱ぎ次に下衣を脱ぐよう命じたが彼女は之したが尚白状しないので今度は二十歳位の婦人に脱衣を命じ、上衣を脱ぎ次に下衣を脱ぐよう命じたが彼女は之れを拒絶し一切を白状しました。それによればれを拒絶し一切を白状しました。それによれば子供が薪にするために盗んだことが判明しました。當時私は中國子供が薪にするために盗んだことが判明しました。當時私は中國人だから又は我々は中國人を保護してやつているのだから反抗する者はどんな過酷な取調をしても當然のこと人だから又は我々は中國人を保護してやつているのだから反抗
總會事務局と改稱)で庶務主任でありましたが三月より四月にかけて、私は當事務局次長××××と合議
總會事務局と改稱)で庶務主任でありましたが三月より四月にかけて、私は當事務局次長××××と合議の上、の上、開封城壁の東西南北の外壁と城内十数箇所の壁に中日一家、明朗開封、共存共榮、同文同種、和平東亞、中日親開封城壁の東西南北の外壁と城内十数箇所の壁に中日一家、明朗開封、共存共榮、同文同種、和平東亞、中日親善、反共和平、打倒蒋介石、擁護汪精衛等の標語を××宣撫員に書かせました。當時の私は、日本があるので東善、反共和平、打倒蒋介石、擁護汪精衛等の標語を××宣撫員に書かせました。當時の私は、日本があるので東亞は平和であり従つて中國も平和であることが出来る、だから中國人は日本の政策に當然従はせねばならぬと考亞は平和であり従つて中國も平和であることが出来る、だから中國人は日本の政策に當然従はせねばならぬと考えていました。二月一日頃より五月三十一日まで當宣撫班で殆んど毎日のように施療しました。そしてこの施療えていました。二月一日頃より五月三十一日まで當宣撫班で殆んど毎日のように施療しました。そしてこの施療を[を[P14P14]]
通じて市民に對し宣傳宣撫を行いました。その内容は朱仙鎮宣撫班當時と同じく反蒋と中日親善であ
通じて市民に對し宣傳宣撫を行いました。その内容は朱仙鎮宣撫班當時と同じく反蒋と中日親善でありましたが、りましたが、この外には特に汪精衛の義挙を賞賛し汪精衛の擁護と反共宣傳をしました。又東亞新秩序の建設をも宣傳しましこの外には特に汪精衛の義挙を賞賛し汪精衛の擁護と反共宣傳をしました。又東亞新秩序の建設をも宣傳しました。それから又患者には街の情報を知らせてくれるように頼みました。このような工作の結果は五月になつて、た。それから又患者には街の情報を知らせてくれるように頼みました。このような工作の結果は五月になつて、三月頃私に足の腫物の治療を受けたことのある南関に住んでいると自稱する三十歳位の男から大きな情報を得三月頃私に足の腫物の治療を受けたことのある南関に住んでいると自稱する三十歳位の男から大きな情報を得ました。それによると中央軍約五千人が開封城攻略のため、今朝黄河を渡り北進しているとの情報をその日の正ました。それによると中央軍約五千人が開封城攻略のため、今朝黄河を渡り北進しているとの情報をその日の正午頃入手したので、私は當事務局次長××××に報告し、××××は直ちに××部隊と開封陸軍特務機関に報告午頃入手したので、私は當事務局次長××××に報告し、××××は直ちに××部隊と開封陸軍特務機関に報告ししましたが全く信じられませんでした。然るにその夜は十一時頃より開封券南関鐡道沿線に於て已に戦闘が開始ましたが全く信じられませんでした。然るにその夜は十一時頃より開封券南関鐡道沿線に於て已に戦闘が開始され翌日の午後五時頃まで激戦しました。城内では西門内の一部と西北角が中央軍に占領され翌日夜明け頃よりされ翌日の午後五時頃まで激戦しました。城内では西門内の一部と西北角が中央軍に占領され翌日夜明け頃より午後五時頃まで西門内市街戦が展開されました。この西門内の戦闘だけでも中央軍約百五十人が戦死しました。午後五時頃まで西門内市街戦が展開されました。この西門内の戦闘だけでも中央軍約百五十人が戦死しました。この戦闘中私は次長××××と相談して、民衆の動揺を鎮め、且叛乱を[この戦闘中私は次長××××と相談して、民衆の動揺を鎮め、且叛乱を[P15P15]]
豫期しその防止策として、数十枚の日本軍戦勝のデマ宣傳を書いて××通訳、××雇員に命じて南関一帯と城内
豫期しその防止策として、数十枚の日本軍戦勝のデマ宣傳を書いて××通訳、××雇員に命じて南関一帯と城内南部方面に貼布し又街頭宣傳をさせまし南部方面に貼布し又街頭宣傳をさせました。このようにして私は日帝の侵略によつて貧困に陥つた開封市民に對た。このようにして私は日帝の侵略によつて貧困に陥つた開封市民に對し施療という僞善をも
中國人は無智で薄情で又中國人の習慣だ位にしか考えていませんでした。之等の状態は
中國人は無智で薄情で又中國人の習慣だ位にしか考えていませんでした。之等の状態は縣下の民衆の生活が日益縣下の民衆の生活が日益に逼迫し貧困化しつつある明かな反映でありました。總て私の重税制作の結果でありました。又私が縣政府事務に逼迫し貧困化しつつある明かな反映でありました。總て私の重税制作の結果でありました。又私が縣政府事務室で財政科長に對し税収の督促をした一言は直ちに民衆の生活を脅かし幾多の農民、商人或は村長を縣政府に抑室で財政科長に對し税収の督促をした一言は直ちに民衆の生活を脅かし幾多の農民、商人或は村長を縣政府に抑留したことは想像に難くありません。一九四二年四月には臨汾縣城内の冀寧道公署で臨汾陸軍特務機関長×××留したことは想像に難くありません。一九四二年四月には臨汾縣城内の冀寧道公署で臨汾陸軍特務機関長××××中佐の命令で當道公署の主催の下に、管下各縣長と財政科長の會議が開催された時、私は上記××中佐の命に×中佐の命令で當道公署の主催の下に、管下各縣長と財政科長の會議が開催された時、私は上記××中佐の命によつて二日間に約八時間、各縣長と財政科長に對し豫算制度について講義し、治安費の増加を強調しよつて二日間に約八時間、各縣長と財政科長に對し豫算制度について講義し、治安費の増加を強調しました。こました。この會議に参加した縣は臨汾縣は勿論襄陵、汾城、曲沃、翼城、浮山、洪洞、趙城、霍縣、靈石、安澤、平遥、※の會議に参加した縣は臨汾縣は勿論襄陵、汾城、曲沃、翼城、浮山、洪洞、趙城、霍縣、靈石、安澤、平遥、※[#「示+おおざと」]縣でありました。私が強調した豫算制度の確立は臨汾縣の事實から見ても以上十三縣下の[#「示+おおざと」]縣でありました。私が強調した豫算制度の確立は臨汾縣の事實から見ても以上十三縣下の数百数十萬の平和な居民の生活を益々貧困と飢餓に陥れました。一九四一年八月臨汾縣城東方約八粁の浮山縣に数百数十萬の平和な居民の生活を益々貧困と飢餓に陥れました。一九四一年八月臨汾縣城東方約八粁の浮山縣に通ずる自動車道路より南に五百米くらいは入つた其村で、私は新民會臨汾縣總會事務局次長[通ずる自動車道路より南に五百米くらいは入つた其村で、私は新民會臨汾縣總會事務局次長[P18P18]]
××と共に臨汾縣保安隊約三十名を率いてこの部落の北端の農家から綿花約五百斤と小麥三百斤を掠奪しまし
××と共に臨汾縣保安隊約三十名を率いてこの部落の北端の農家から綿花約五百斤と小麥三百斤を掠奪しました。そた。それは臨汾縣城と浮山縣城間の連絡自動車がこの村の附近でしばしば敵の襲撃に遭つていたので部落民を懲れは臨汾縣城と浮山縣城間の連絡自動車がこの村の附近でしばしば敵の襲撃に遭つていたので部落民を懲罰し威嚇するためでありました。尚掠奪した綿花は歸途失火で全部焼却し小麥は××次長に與えました。一九四罰し威嚇するためでありました。尚掠奪した綿花は歸途失火で全部焼却し小麥は××次長に與えました。一九四二年二月頃より同年六月まで臨汾陸軍特務機関長××××中佐の命で臨汾縣金殿鎮とその附近の耕地五百町歩二年二月頃より同年六月まで臨汾陸軍特務機関長××××中佐の命で臨汾縣金殿鎮とその附近の耕地五百町歩の水田開発を行いました。その目的は日本軍の現地自活を保證するためでありましたが當時私は該地區の灌漑排の水田開発を行いました。その目的は日本軍の現地自活を保證するためでありましたが當時私は該地區の灌漑排水をよくして、水稲の品種を改良してその増産を計ることは單に農民の生活を裕福にするばかりでなく、日本軍水をよくして、水稲の品種を改良してその増産を計ることは單に農民の生活を裕福にするばかりでなく、日本軍の現地自活にも有利での現地自活にも有利であり、之れこそ中日親善の具體的表現であると考えていました。四月上旬までは私がこのあり、之れこそ中日親善の具體的表現であると考えていました。四月上旬までは私がこの開発事業の責任者でありましたがその後は臨汾縣顧問××××と交替しました。擔會計は終始私が擔任しました。開発事業の責任者でありましたがその後は臨汾縣顧問××××と交替しました。擔會計は終始私が擔任しました。工事費豫算は五十萬元で臨汾陸軍特務機関より私が受領しました。工事の設計指導及監督は華北政務委員會山西工事費豫算は五十萬元で臨汾陸軍特務機関より私が
私の功績は少しも目立たなかつたが、今度は各縣一人の顧問だから、工作の成果は目立つし且直ちに自分の立身
私の功績は少しも目立たなかつたが、今度は各縣一人の顧問だから、工作の成果は目立つし且直ちに自分の立身に重大な作用を及ぼす。今度こそ俺の[に重大な作用を及ぼす。今度こそ俺の[P21P21]]
手腕を見せてやる、成績をあげて皆をアツと驚かせてやると決意しておりました。だから私の政策を妨害し又は
手腕を見せてやる、成績をあげて皆をアツと驚かせてやると決意しておりました。だから私の政策を妨害し又は反對する者は徹底的に之れを懲罰し殺害し消滅する覺悟で總ての工作にのぞみました。赴任に際しては※[#「さ反對する者は徹底的に之れを懲罰し殺害し消滅する覺悟で總ての工作にのぞみました。赴任に際しては※[#「さんずい+路」、第んずい+路」、第33水準水準11--8787--1111]安陸軍連絡部長]安陸軍連絡部長××××××××中佐より、中佐より、軍需物資の収買、特に食糧の収買が重要任軍需物資の収買、特に食糧の収買が重要任務であるので之れに總ての力量を集中するようにとの指示を受けました。この時私は中國機関で日系の私一人が務であるので之れに總ての力量を集中するようにとの指示を受けました。この時私は中國機関で日系の私一人がどんなに頑張つても、その目的を達することは困難だ、中國人の縣長を中心とする幹部たちを煽ててうまく使用どんなに頑張つても、その目的を達することは困難だ、中國人の縣長を中心とする幹部たちを煽ててうまく使用すすることが良作だと考え、私の責任を縣長を轉嫁しました。又日軍壺関警備隊長を饗應して抱込み、その武力をることが良作だと考え、私の責任を縣長を轉嫁しました。又日軍壺関警備隊長を饗應して抱込み、その武力を充分利用することも決して忘れませんでした。新民會壺関縣總會事務局長には軍需物資の収買について、特に食充分利用することも決して忘れませんでした。新民會壺関縣總會事務局長には軍需物資の収買について、特に食糧収買について東亞新秩序の建設と結合して、民衆に對する宣傳と反共宣傳を行は糧収買について東亞新秩序の建設と結合して、民衆に對する宣傳と反共宣傳を行はせましたほかに封内外の情報せましたほかに封内外の情報蒐集や諸種の訓練や民衆組織も行はせました。以下はこの方針に基いて犯した私の臭體的罪惡であります。殺人蒐集や諸種の訓練や民衆組織も行はせました。以下はこの方針に基いて犯した私の臭體的罪惡であります。殺人については一九四三年十二月初め壺関縣城西南方約三粁の大山南村山上の縣保安隊第三中隊に属する××班長については一九四三年十二月初め壺関縣城西南方約三粁の大山南村山上の縣保安隊第三中隊に属する××班長以下[以下[P22P22]]
十三名が駐している我方の分哨が抗日壺関獨立營約二百五十名に夜間攻撃を受けた時、私は縣長××××に縣保
十三名が駐している我方の分哨が抗日壺関獨立營約二百五十名に夜間攻撃を受けた時、私は縣長××××に縣保安隊約二百名を引率させ出撃させ、一方日軍壺関警備隊長××中尉に應援を依頼して××中尉以下三十名を出撃安隊約二百名を引率させ出撃させ、一方日軍壺関警備隊長××中尉に應援を依頼して××中尉以下三十名を出撃させました。出撃に際しては私あ××××にこの戦闘は、その勝敗の如何は直させました。出撃に際しては私あ××××にこの戦闘は、その勝敗の如何は直ちに治安地區民衆の動向に影響すちに治安地區民衆の動向に影響するので絶對に勝利せねばならぬと激勵しました。その結果獨立營戦士十七名を同山上で射殺し小銃十二挺を鹵獲るので絶對に勝利せねばならぬと激勵しました。その結果獨立營戦士十七名を同山上で射殺し小銃十二挺を鹵獲したとの報告を翌朝受け、又その午後には新民會の情報で尚獨立營戦士五名が戦死したことを知りました。私はしたとの報告を翌朝受け、又その午後には新民會の情報で尚獨立營戦士五名が戦死したことを知りました。私は戦闘の翌日縣長××××に命じて南関に於て戦勝を宣傳し、我方の士気を鼓舞し、治安地區民衆を威壓するため戦闘の翌日縣長××××に命じて南関に於て戦勝を宣傳し、我方の士気を鼓舞し、治安地區民衆を威壓するため獨立營戦士遺棄死體十七名と我方保安隊戦死者一名の合同慰霊祭を行ひました。新民會にはこの戦勝を大々的に獨立營戦士遺棄死體十七名と我方保安隊戦死者一名の合同慰霊祭を行ひました。新民會にはこの戦勝を大々的に治安地區民衆に宣傳するよう事務部長××××に命じました。一九四三年十二月私は日軍壺治安地區民衆に宣傳するよう事務部長××××に命じました。一九四三年十二月私は日軍壺関警備隊長××中尉関警備隊長××中尉以下約三十名の援助を受け縣保安隊約二百名を率いて縣城東北約十粁の解放區壺関縣土河村に討伐と食糧掠奪以下約三十名の援助を受け縣保安隊約二百名を率いて縣城東北約十粁の解放區壺関縣土河村に討伐と食糧掠奪の目的を以て出撃し、民兵の抵抗を排除して部落に突入した保安隊は部落[の目的を以て出撃し、民兵の抵抗を排除して部落に突入した保安隊は部落[P23P23]]
の南端の哨舎内で熟睡していた民兵一名を逮捕しましたので私は彼を××中尉に其場で引渡し翌日午後二時頃
の南端の哨舎内で熟睡していた民兵一名を逮捕しましたので私は彼を××中尉に其場で引渡し翌日午後二時頃××准尉に斬殺させました。私は敵人を捕らえたら殺すのは當然と考えていました。一九四三年十二月縣警察所××准尉に斬殺させました。私は敵人を捕らえたら殺すのは當然と考えていました。一九四三年十二月縣警察所員が長治縣後土門村の平和な居民一名を八路だといつて逮捕してきましたので新民會事務部長××××に命じ員が長治縣後土門村の平和な居民一名を八路だといつて逮捕してきましたので新民會事務部長××××に命じて取調べさせ、縣城南て取調べさせ、縣城南関墓地に於て縣警察所員に銃殺させました。土河村民兵の斬殺場所も縣城南関墓地であり関墓地に於て縣警察所員に銃殺させました。土河村民兵の斬殺場所も縣城南関墓地であります。一九四四年四月日軍壺関警備隊長××××中尉が壺関縣辛村に部下約三十名を率いて討伐行動した時、私ます。一九四四年四月日軍壺関警備隊長××××中尉が壺関縣辛村に部下約三十名を率いて討伐行動した時、私は隊長××××中尉の要求に應じて、縣保安隊副大隊長××××以下約二百名を起してその討伐を援助させましは隊長××××中尉の要求に應じて、縣保安隊副大隊長××××以下約二百名を起してその討伐を援助させました。その結果辛村西邊の濠内で戦闘中同村兵十五名を小銃で射殺しました。私はこの報告を同日夜自殺で隊長×た。その結果辛村西邊の濠内で戦闘中同村兵十五名を小銃で射殺しました。私はこの報告を同日夜自殺で隊長××××中尉より受け之れを確認しました。一九四四年六月壺関縣修善村民より、二名の無頼漢が同村内で金品を×××中尉より受け之れを確認しました。一九四四年六月壺関縣修善村民より、二名の無頼漢が同村内で金品を強要しているとの通知を受け、私は強要しているとの通知を受け、私は新民會部員××××、雇員××××、××××、××を帯同して同村へ向い新民會部員××××、雇員××××、××××、××を帯同して同村へ向い途中縣城より約ニ粁の畑中でその二名を逮捕して歸り、日軍壺関警備隊長×[途中縣城より約ニ粁の畑中でその二名を逮捕して歸り、日軍壺関警備隊長×[P24P24]]
×××中尉に引渡し、その二名の殺害を依頼しました。無頼漢を殺すことにより民衆えのみせしめにもなるし、
×××中尉に引渡し、その二名の殺害を依頼しました。無頼漢を殺すことにより民衆えのみせしめにもなるし、新民會の正義の表現にもなると私は考えました。隊長××××中尉は数日後民衆えのみせしめのため、壺関縣秦新民會の正義の表現にもなると私は考えました。隊長××××中尉は数日後民衆えのみせしめのため、壺関縣秦庄村でこの二名を殺害すべく帯同して行く途中、該村近くでその一名が逃亡したので、日軍兵士が發砲したので庄村でこの二名を殺害すべく帯同して行く途中、該村近くでその一名が逃亡したので、日軍兵士が發砲したので彼の胸部を貫通したが、なおも村内へ逃亡しました。捜索の結果便所彼の胸部を貫通したが、なおも村内へ逃亡しました。捜索の結果便所に隠れていたので、その便所壺の中へ突きに隠れていたので、その便所壺の中へ突き落し、三發小銃を發砲して銃殺しました。他の一名は該村山上の日軍分哨東側谷間で日軍兵士が銃剣をもつて刺落し、三發小銃を發砲して銃殺しました。他の一名は該村山上の日軍分哨東側谷間で日軍兵士が銃剣をもつて刺
殺しました。以上の二名の殺害状況はその日のよる隊長××××中尉より自宅できいて私は之れを確認しました。
殺しました。以上の二名の殺害状況はその日のよる隊長××××中尉より自宅できいて私は之れを確認しました。一九四四年六月私は日軍壺関警備隊長××××中尉以下三十名の援助を受け縣保安隊約二百名を率いて、小麥掠一九四四年六月私は日軍壺関警備隊長××××中尉以下三十名の援助を受け縣保安隊約二百名を率いて、小麥掠奪を兼ね壺関禾登村の討伐を行いました。該村には同年八月に一回、十月に一回縣保安隊副大隊長××に命じて奪を兼ね壺関禾登村の討伐を行いました。該村には同年八月に一回、十月に一回縣保安隊副大隊長××に命じて討伐を行はせました。その戦闘中該村指導員一名と民兵十名を殺害しました。一討伐を行はせました。その戦闘中該村指導員一名と民兵十名を殺害しました。一九四四年七月より八月にかけて九四四年七月より八月にかけて日軍壺関警備隊情報班長××××伍長が壺関縣宋堡村の平和な居民を通敵者と[日軍壺関警備隊情報班長××××伍長が壺関縣宋堡村の平和な居民を通敵者と[P25P25]]
して逮捕し八名を殺害しましたが、私は之れを八路だから當然のことだとして黙認しました。一九四四年七月頃
して逮捕し八名を殺害しましたが、私は之れを八路だから當然のことだとして黙認しました。一九四四年七月頃私は縣警察所員××の報告により、新民會部員××××、××××、雇員××××、××××、××と縣保安隊私は縣警察所員××の報告により、新民會部員××××、××××、雇員××××、××××、××と縣保安隊約二百名、警察ところ約四十名を引率し壺関縣泰庄村を包圍し該村村長と村書記一名、閭長四名を通敵者として約二百名、警察ところ約四十名を引率し壺関縣泰庄村を包圍し該村村長と村書記一名、閭長四名を通敵者として逮捕し、縣城内の新民會事務室に於て雇員××××をして取調させました。取調に當つては××××は皮帯をも逮捕し、縣城内の新民會事務室に於て雇員××××をして取調させました。取調に當つては××××は皮帯をもつてこの六名を殴打しましたが私は之れを當然として黙認しました。取調後私はこの六名を日軍壺関警備隊長×つてこの六名を殴打しましたが私は之れを當然として黙認しました。取調後私はこの六名を日軍壺関警備隊長××××中尉に引渡して銃殺を依頼しました。その後約一箇月を經て縣城南関の墓地で五名を日軍の兵士の手で刺×××中尉に引渡して銃殺を依頼しました。その後約一箇月を經て縣城南関の墓地で五名を日軍の兵士の手で刺殺し、村書記一名は當時山西省縣政府衛生局長××××の救命依頼により釈放して、壺関縣労工局の書記として殺し、村書記一名は當時山西省縣政府衛生局長××××の救命依頼により釈放して、壺関縣労工局の書記として使用しました。當時私は我方の味方顔して然かも日軍分哨所在地の泰庄村で、村の幹部におさまり敵通するとは使用しました。當時私は我方の味方顔して然かも日軍分哨所在地の泰庄村で、村の幹部におさまり敵通するとは不届き奴だと憤慨してこのような惡鬼行為をしました。一九四四年九月かねてから縣保安隊中より十名を日軍壺不届き奴だと憤慨してこのような惡鬼行為をしました。一九四四年九月かねてから縣保安隊中より十名を日軍壺関警備隊に同関警備隊に同隊の工作隊として派遣していましたが、その隊員の中に二名の敵通者が[隊の工作隊として派遣していましたが、その隊員の中に二名の敵通者が[P26P26]]
あることを同隊情報班長××××伍長が摘發した時私はこの二名の殺害に同意しました。それでこの二名は日軍
あることを同隊情報班長××××伍長が摘發した時私はこの二名の殺害に同意しました。それでこの二名は日軍により殺害されました。一九四四年十月私は縣保安隊副大隊長××に命じて壺関縣北羊湖村に食糧掠奪とを兼ねにより殺害されました。一九四四年十月私は縣保安隊副大隊長××に命じて壺関縣北羊湖村に食糧掠奪とを兼ね出撃させました。この時該村の北劇山上に我方の先兵が潜行して、敵の哨舎を覗いた瞬間、その哨舎で見張して出撃させました。この時該村の北劇山上に我方の先兵が潜行して、敵の哨舎を覗いた瞬間、その哨舎で見張していた約五十歳の老婆は我方先兵の民夫に火藥を投げつけました。そしてその民夫が火焼して顔面を両手で被ひたいた約五十歳の老婆は我方先兵の民夫に火藥を投げつけました。そしてその民夫が火焼して顔面を両手で被ひたぢろぐ隙に乗じてその老婆は部落へ向ぢろぐ隙に乗じてその老婆は部落へ向つて逃げましたので、後續の我方保安隊員は彼女の後を追い、その哨舎をつて逃げましたので、後續の我方保安隊員は彼女の後を追い、その哨舎を去る北方約五十米の地點で後方よりその老婆を刺殺しました。私は縣保安隊大隊部よりこの報告を受け確認しま去る北方約五十米の地點で後方よりその老婆を刺殺しました。私は縣保安隊大隊部よりこの報告を受け確認しました。一九四四年中私が縣保安隊に對して常に敵地區への討伐を強要していました結果、縣保安隊第三中隊長×した。一九四四年中私が縣保安隊に對して常に敵地區への討伐を強要していました結果、縣保安隊第三中隊長××××は壺関縣南羊湖村に出撃して該村の平和な居民七名を殺害しました。尚一九四四年中日軍壺関警備隊長××××は壺関縣南羊湖村に出撃して該村の平和な居民七名を殺害しました。尚一九四四年中日軍壺関警備隊長××分哨長は、私が派遣して該分哨の指揮下においていた縣保安隊の一部の兵士を指揮して、壺関縣集店村の平和×分哨長は、私が派遣して該分哨の指揮下においていた縣保安隊の一部の兵士を指揮して、壺関縣集店村の平和な居民二名と該縣鳥集頭村の平和な居民三名を、該な居民二名と該縣鳥集頭村の平和な居民三名を、該分哨に食糧を[分哨に食糧を[P27P27]]
納めないとの理由で殺害しました。私は之れを黙認しました。一九四四年十二月私は新民會事務部長××××に
納めないとの理由で殺害しました。私は之れを黙認しました。一九四四年十二月私は新民會事務部長××××に命じて縣保安隊約二百名、縣警察所約四十名を以て壺関縣馬駒村の平和な居民約百名を逮捕させ、縣政府に抑留命じて縣保安隊約二百名、縣警察所約四十名を以て壺関縣馬駒村の平和な居民約百名を逮捕させ、縣政府に抑留して食糧供出を強要しました。その時その平和な居民の中に、縣警察がかねて手配していた通敵者、約二十三歳して食糧供出を強要しました。その時その平和な居民の中に、縣警察がかねて手配していた通敵者、約二十三歳位の男子一名を逮捕しました。私は警察に命じて縣城南関墓地に於て銃殺させました。私はかねて縣長××××位の男子一名を逮捕しました。私は警察に命じて縣城南関墓地に於て銃殺させました。私はかねて縣長××××に縣政府各機関内の偽装分子に注意するよう命じていました。其の結果一九四五年二月中、縣長××××の調査に縣政府各機関内の偽装分子に注意するよう命じていました。其の結果一九四五年二月中、縣長××××の調査により縣政府により縣政府教育主任××××、新民小學校校長××××其他公務員六名を縣長××××が逮捕しました。この教育主任××××、新民小學校校長××××其他公務員六名を縣長××××が逮捕しました。この時私は、我方政府内で破壊活動をするような奴は殺してしまえ、他の公務員にも惡影響を及ぼすと考え、又他を時私は、我方政府内で破壊活動をするような奴は殺してしまえ、他の公務員にも惡影響を及ぼすと考え、又他を威嚇するため縣長××××に上記の者の殺害を命じました。縣長は縣保安隊に命じ縣城南関の墓地で上記の者を威嚇するため縣長××××に上記の者の殺害を命じました。縣長は縣保安隊に命じ縣城南関の墓地で上記の者を刺殺しました。又私は積極的に敵地區に向つて討伐行動を起すように、かねてから縣長××××に強要していま刺殺しました。又私は積極的に敵地區に向つて討伐行動を起すように、かねてから縣長××××に強要していました。又彼が平順縣逢善村人であるので、その地の情況にも明るく、その討伐行動も彼[した。又彼が平順縣逢善村人であるので、その地の情況にも明るく、その討伐行動も彼[P28P28]]
の意のままに放任していました。又
の意のままに放任していました。又そのようにする方が却つて私は労せずして討伐の成果をあげることが出来、そのようにする方が却つて私は労せずして討伐の成果をあげることが出来、私の成績もあがると考えていたからでありました。其の結果は一九四五年二月には××縣長は縣保安隊約二百名私の成績もあがると考えていたからでありました。其の結果は一九四五年二月には××縣長は縣保安隊約二百名と縣警察約三十名を率いて壺関縣土河村に進行し、該村民兵十八名を殺害しました。又同月頃壺関縣橋上村附近と縣警察約三十名を率いて壺関縣土河村に進行し、該村民兵十八名を殺害しました。又同月頃壺関縣橋上村附近
でも立哨中の民兵一名を彼の率いる縣保安隊員が刺殺しました。同じく同月縣長××××と縣保安隊副大隊長
でも立哨中の民兵一名を彼の率いる縣保安隊員が刺殺しました。同じく同月縣長××××と縣保安隊副大隊長井××××は保安隊約二百名を率いて壺関縣劉寨村に進行し該村民兵十四名を一軒の家と共に焼殺しました。之等××××は保安隊約二百名を率いて壺関縣劉寨村に進行し該村民兵十四名を一軒の家と共に焼殺しました。之等は皆私の責任であることを確認します。一九四五は皆私の責任であることを確認します。一九四五年三月私は日軍壺関警備隊長××××中尉以下約三十名が壺関年三月私は日軍壺関警備隊長××××中尉以下約三十名が壺関縣三王頭村を討伐するに際して、縣保安隊副大隊長××××に命じて保安隊約二百名を引率させ、その討伐を援縣三王頭村を討伐するに際して、縣保安隊副大隊長××××に命じて保安隊約二百名を引率させ、その討伐を援助させました。そしてその討伐中に於て該村の平和な居民が逃げ惑ふところを、日軍は輕機関銃を以て掃射し十助させました。そしてその討伐中に於て該村の平和な居民が逃げ惑ふところを、日軍は輕機関銃を以て掃射し十九名の平和な居民を射殺しました。私はその日の午後××××中尉よりその報告を受け之を確認しました。一九九名の平和な居民を射殺しました。私はその日の午後××××中尉よりその報告を受け之を確認しました。一九四五年四月壺関縣東歸善村民が清室空野を實行したことを私は新民會の情報四五年四月壺関縣東歸善村民が清室空野を實行したことを私は新民會の情報[P29][P29]
で知りましたので、私は日軍壺関警備隊××××中尉に援助を求め、縣保安隊副大隊長××××に命じて、該村
で知りましたので、私は日軍壺関警備隊××××中尉に援助を求め、縣保安隊副大隊長××××に命じて、該村居民の歸村を強要させました。この時該村東側山上の洞窟中に於て歸村を拒絶し、抵抗した該村幹部一名を縣保居民の歸村を強要させました。この時該村東側山上の洞窟中に於て歸村を拒絶し、抵抗した該村幹部一名を縣保安隊員が手榴弾を以て爆殺しました。私はこのことを××××中尉より聞き確認しました。一九四五年四月縣長安隊員が手榴弾を以て爆殺しました。私はこのことを××××中尉より聞き確認しました。一九四五年四月縣長××××が縣保安隊約二百五十名、縣警察約三十名を以て平順縣西社んび討伐行動を起した時、私は日軍壺関警××××が縣保安隊約二百五十名、縣警察約三十名を以て平順縣西社んび討伐行動を起した時、私は日軍壺関警備隊長××××中尉以下三十名の援助を求めました。そしてその結果は該鎮内に於て、戦闘中縣保安隊は民兵二備隊長××××中尉以下三十名の援助を求めました。そしてその結果は該鎮内に於て、戦闘中縣保安隊は民兵二名を射殺しま名を射殺しました。その外黎城縣より鹽を運搬して該鎮に到着した驢十七頭を掠奪しました。この事を××××した。その外黎城縣より鹽を運搬して該鎮に到着した驢十七頭を掠奪しました。この事を××××中尉より報告を受け私は之れを確認しました。一九四五年八月十二日頃私は縣保安隊副大隊長××××が保安隊中尉より報告を受け私は之れを確認しました。一九四五年八月十二日頃私は縣保安隊副大隊長××××が保安隊約百名を率いて示威行動中、壺関馬駒村西側山上にて、元縣警察所股長××××を逮捕して歸つたとの報告を縣約百名を率いて示威行動中、壺関馬駒村西側山上にて、元縣警察所股長××××を逮捕して歸つたとの報告を縣長××××より受けました。××××は一九四四年十一月頃通敵者として一度逮捕し縣保安隊内に抑留し、監視長××××より受けました。××××は一九四四年十一月頃通敵者として一度逮捕し縣保安隊内に抑留し、監視中逃亡した者でありましたので、私は直ちに銃殺するよう縣長××××に命中逃亡した者でありましたので、私は直ちに銃殺するよう縣長××××に命[P30][P30]
じました。××縣長は縣保安隊に命じてその日
じました。××縣長は縣保安隊に命じてその日の午後五時頃縣城東北角外に於て刺殺しました。一九四三年十一の午後五時頃縣城東北角外に於て刺殺しました。一九四三年十一月二十五日より一九四五年八月十五日まで私が壺関縣政府顧問として在任中、食糧及重輕工業原材料を収奪しま月二十五日より一九四五年八月十五日まで私が壺関縣政府顧問として在任中、食糧及重輕工業原材料を収奪しましたので該縣下の平和な居民百十名を餓死させました。以上私が犯した殺人数は合計二百五十五名であります。したので該縣下の平和な居民百十名を餓死させました。以上私が犯した殺人数は合計二百五十五名であります。その内容は抗日壺関縣獨立營戦士二十二名、抗日村幹部二名、民兵六十一名、平和な居民百五十四名、治安地區その内容は抗日壺関縣獨立營戦士二十二名、抗日村幹部二名、民兵六十一名、平和な居民百五十四名、治安地區村幹部五名、縣政府公務員九名、縣保安隊員二名であります。又之れを殺害の手段により分類すれば斬殺一名、村幹部五名、縣政府公務員九名、縣保安隊員二名であります。又之れを殺害の手段により分類すれば斬殺一名、刺殺十七名、小銃又は輕機関銃をもつて射殺七十二名、手榴刺殺十七名、小銃又は輕機関銃をもつて射殺七十二名、手榴弾による爆殺一名、家屋と共に焼殺十四名、手段不弾による爆殺一名、家屋と共に焼殺十四名、手段不明四十名、食糧掠奪による餓死百十名であります。掠奪については一九四三年十一月二十五日より一九四五年八明四十名、食糧掠奪による餓死百十名であります。掠奪については一九四三年十一月二十五日より一九四五年八月十五日までの間、私が日軍や縣保安隊、縣警察の武力を使つて掠奪を行つた村は、壺関縣では橋上村、辛村、月十五日までの間、私が日軍や縣保安隊、縣警察の武力を使つて掠奪を行つた村は、壺関縣では橋上村、辛村、土河村、北羊鳳村、西山後村、西祟賢村、東祟賢村、劉寨村、三王頭村、禾登村、紫葉掌村、北羊湖村、南羊湖土河村、北羊鳳村、西山後村、西祟賢村、東祟賢村、劉寨村、三王頭村、禾登村、紫葉掌村、北羊湖村、南羊湖村の十三箇村であります。平順縣では逢善村、苗庄村、西社鎮の三箇村の十三箇村であります。平順縣では逢善村、苗庄村、西社鎮の三箇[P31][P31]
村で合計十六箇所であります。之等の村では武力を使つたばかりでなく、部落内外の地洞をあばき又
村で合計十六箇所であります。之等の村では武力を使つたばかりでなく、部落内外の地洞をあばき又は※[#「火は※[#「火+亢」、第+亢」、第44水準水準22--7979--6262]を破壊して、食糧の隠し場所を探して掠奪しました。縣政府の命令で、収買といふ形]を破壊して、食糧の隠し場所を探して掠奪しました。縣政府の命令で、収買といふ形式で諸物資を掠奪した村は壺関縣城内と東関、南関、北関は勿論のこと、董家坡村、溝西坡村、修善村、馬駒村、式で諸物資を掠奪した村は壺関縣城内と東関、南関、北関は勿論のこと、董家坡村、溝西坡村、修善村、馬駒村、楊家堆村、水池村、土門村、秦庄村、四家池村、下内村、上内村、東歸善村、西歸善村、川底村、宋堡村、南三楊家堆村、水池村、土門村、秦庄村、四家池村、下内村、上内村、東歸善村、西歸善村、川底村、宋堡村、南三家村、小山南村、大山南村、清流村、韓村、程村、盤駝底村、騫堡村、北庄村、壇上村、河口村、集店村、長井家村、小山南村、大山南村、清流村、韓村、程村、盤駝底村、騫堡村、北庄村、壇上村、河口村、集店村、長井村、東関壁村、、西関壁村、庄則上村、北三家村、天池村、烏集頭村、南羊鳳村、※[#「目+隹」村、東関壁村、、西関壁村、庄則上村、北三家村、天池村、烏集頭村、南羊鳳村、※[#「目+隹」、第、第33水準水準11--8888--8787]庄村、犁掌村、王家河村、杜家河村、王章村、常村、庄頭村の一城と四十二箇村であります。又之れを總]庄村、犁掌村、王家河村、杜家河村、王章村、常村、庄頭村の一城と四十二箇村であります。又之れを總計すれば一城と五十八箇村であります。特に一九四四年六月には新民會事務局部員計すれば一城と五十八箇村であります。特に一九四四年六月には新民會事務局部員××××××××に命じて縣保安隊約に命じて縣保安隊約二百名と縣警察約三十名を以て常村の平和居民約八十名を逮捕させ、縣政府内に一日抑留して、小麥の供出を強二百名と縣警察約三十名を以て常村の平和居民約八十名を逮捕させ、縣政府内に一日抑留して、小麥の供出を強迫して出させました。一九四四年十二月には上記と同じ手段を以て馬駒村の平和な居民約百名を縣政府内に一日迫して出させました。一九四四年十二月には上記と同じ手段を以て馬駒村の平和な居民約百名を縣政府内に一日抑抑留して、粟の供出を強迫留して、粟の供出を強迫[P32][P32]
して取りあげました。同じく十二月秦庄村の平和な居民約二
して取りあげました。同じく十二月秦庄村の平和な居民約二百名を上記と同じ手段で私が直接指揮して逮捕し、百名を上記と同じ手段で私が直接指揮して逮捕し、抑留すべく縣城へ向つて進み其の中途で脅迫し、供出を約束させ歸宅を許し、粟を取りあげました。前期の一城抑留すべく縣城へ向つて進み其の中途で脅迫し、供出を約束させ歸宅を許し、粟を取りあげました。前期の一城と五十八箇村より掠奪した粟、高粱、小麥、蜀玉米等の食糧は合計一千八十七萬斤の多量であります。羊毛は約と五十八箇村より掠奪した粟、高粱、小麥、蜀玉米等の食糧は合計一千八十七萬斤の多量であります。羊毛は約八千斤、羊皮約五百枚、牛皮約三十枚であります。武力をつかつて掠奪を行つた十六箇村からは、前記の略奪物八千斤、羊皮約五百枚、牛皮約三十枚であります。武力をつかつて掠奪を行つた十六箇村からは、前記の略奪物資の外羊約一千匹と牛、馬、驢等の農耕用家畜八十七等を略奪しました。其他農具、家具、衣類、寝具、鍋釜等資の外羊約一千匹と牛、馬、驢等の農耕用家畜八十七等を略奪しました。其他農具、家具、衣類、寝具、鍋釜等の掠奪と破壊は膨大な数字になると想像するに難くありません。食糧と羊の掠奪と破壊は膨大な数字になると想像するに難くありません。食糧と羊毛、羊皮、牛皮、若干の木材、屑鐡、毛、羊皮、牛皮、若干の木材、屑鐡、銅は日帝の現地自活と戦力強化のため※[#「さんずい+路」、第銅は日帝の現地自活と戦力強化のため※[#「さんずい+路」、第33水準水準11--8787--1111]安陸軍連絡部の命令により掠]安陸軍連絡部の命令により掠奪しました。其他の掠奪は解放地區の平和な居民の生活を破壊し共産黨の工作を妨害するため私が黙認し、或る奪しました。其他の掠奪は解放地區の平和な居民の生活を破壊し共産黨の工作を妨害するため私が黙認し、或る時は奨勵して部下に行はせたものであります。放火については、一九四四年四月日軍壺関警備隊長時は奨勵して部下に行はせたものであります。放火については、一九四四年四月日軍壺関警備隊長××××××××中尉中尉が約三十名を率いて壺関縣土河村に討伐行動した時、私は縣保安隊副大隊長が約三十名を率いて壺関縣土河村に討伐行動した時、私は縣保安隊副大隊長××××××××以下約二百名を以てその討以下約二百名を以てその討伐行伐行[P33][P33]
動を援助させました。その時××注意の命令で縣保安隊は
動を援助させました。その時××注意の命令で縣保安隊は該村小學校一棟三間房子に放火しました。私はその日該村小學校一棟三間房子に放火しました。私はその日の午後××注意より報告を受け之れを確認しました。又一九四五年二月には縣長××××と縣保安隊副大隊長×の午後××注意より報告を受け之れを確認しました。又一九四五年二月には縣長××××と縣保安隊副大隊長××××は保安隊約二百名を指揮して、壺関縣劉寨村を討伐し該村で家屋一棟を焼却しました。之れは私が常に彼×××は保安隊約二百名を指揮して、壺関縣劉寨村を討伐し該村で家屋一棟を焼却しました。之れは私が常に彼等に對し、解放地區えの討伐を強要していた結果であります。家屋破壊については、一九四四年六月頃私は新民等に對し、解放地區えの討伐を強要していた結果であります。家屋破壊については、一九四四年六月頃私は新民會部員××××に命じて、共産黨に参加している者の家屋だとの理由で、壺関縣修善村で家屋一棟三間房子を破會部員××××に命じて、共産黨に参加している者の家屋だとの理由で、壺関縣修善村で家屋一棟三間房子を破壊させ木材も掠奪させました。拷問については一九四四年七月壺関係縣壊させ木材も掠奪させました。拷問については一九四四年七月壺関係縣秦庄村公署書記××を通敵者として逮捕秦庄村公署書記××を通敵者として逮捕し縣城内新民會事務室で、新民會雇員××××をして取調させました。この時彼は皮帯をもつて××を殴打し拷し縣城内新民會事務室で、新民會雇員××××をして取調させました。この時彼は皮帯をもつて××を殴打し拷問しましたが私は之れを當然だとして黙認していました。その後私は××を日軍壺関警備隊内に約一箇抑留しま問しましたが私は之れを當然だとして黙認していました。その後私は××を日軍壺関警備隊内に約一箇抑留しました。平和な居民の奴役については、一九四四年※[#「さんずい+路」、第した。平和な居民の奴役については、一九四四年※[#「さんずい+路」、第33水準水準11--8787--1111]安陸軍連絡部長]安陸軍連絡部長××××大佐の命令で高平縣城より東大佐の命令で高平縣城より東※※[#「さんずい+路」、第[#「さんずい+路」、第33水準水準11--8787--1111]線の]線の※※[#「さんずい+路」、第[#「さんずい+路」、第33水準水準11--8787--1111]安驛までの銑鐵輸送のため、私は縣長に命じ]安驛までの銑鐵輸送のため、私は縣長に命じて縣内より九十名の民夫と二十台のて縣内より九十名の民夫と二十台の[P34][P34]
馬車を徴發させ、輸送隊を編成してこの輸送隊を編成して、この輸送に一箇月間奴役しました。その延人数は二
馬車を徴發させ、輸送隊を編成してこの輸送隊を編成して、この輸送に一箇月間奴役しました。その延人数は二千七百名であります。一九四四年十一月には※[#「さんずい+路」、第千七百名であります。一九四四年十一月には※[#「さんずい+路」、第33水準水準11--8787--1111]安陸軍連絡部長]安陸軍連絡部長××××大大佐の命令で、縣城壁の南側と西側の外濠を掘つた時、私は縣労工局に命じて毎日五十名の民夫を十日間、延人員佐の命令で、縣城壁の南側と西側の外濠を掘つた時、私は縣労工局に命じて毎日五十名の民夫を十日間、延人員五百名を奴役しました。この外濠は解放軍への進攻に備えて掘つたものでありました。一九四四年十二月初め頃五百名を奴役しました。この外濠は解放軍への進攻に備えて掘つたものでありました。一九四四年十二月初め頃より、一九四五年三月上旬までの間に、縣合作社に於て収奪したより、一九四五年三月上旬までの間に、縣合作社に於て収奪した食糧および重輕工業原材料を食糧および重輕工業原材料を※※[#「さんずい[#「さんずい+路+路」、第」、第33水準水準11--8787--1111]安城内へ輸送するため、私は縣長]安城内へ輸送するため、私は縣長××××××××に命じて、その輸送を縣下治安地區の約五に命じて、その輸送を縣下治安地區の約五十箇村の平和な居民に負擔させました。その人員は、當時輸送した物資は約五十萬斤と推定しておりますので延十箇村の平和な居民に負擔させました。その人員は、當時輸送した物資は約五十萬斤と推定しておりますので延人員約二萬名を奴役しました。以上合二萬三千二百名であります。新民會壺関縣總會事務局事務部長をして行は人員約二萬名を奴役しました。以上合二萬三千二百名であります。新民會壺関縣總會事務局事務部長をして行はせた新民會の工作は治安地區民衆の思想を統一して、華北政務委員會の治下に民衆を頼らしむることであつたのせた新民會の工作は治安地區民衆の思想を統一して、華北政務委員會の治下に民衆を頼らしむることであつたので、その宣傳は東亞新秩序の建設と中日親善、反ソ反共、反米英を宣で、その宣傳は東亞新秩序の建設と中日親善、反ソ反共、反米英を宣傳しました。又壺関縣の建設は壺関縣民の傳しました。又壺関縣の建設は壺関縣民の手で建設手で建設せよ、その爲には共産黨に反對し、我方の要求するせよ、その爲には共産黨に反對し、我方の要求する[P35][P35]
食糧及び重輕工業の原材料を供出することが即ち壺関縣の建設に盡すことであると宣傳して、其の収奪を容易に
食糧及び重輕工業の原材料を供出することが即ち壺関縣の建設に盡すことであると宣傳して、其の収奪を容易にしました。その他一九四三年十二月初め壺関縣第山南村山上に於ける抗日壺関獨立營に對する我方の戦闘の勝利しました。その他一九四三年十二月初め壺関縣第山南村山上に於ける抗日壺関獨立營に對する我方の戦闘の勝利は、新民會に之れを大々的に宣傳させ、縣政府各機関人員の士気の鼓舞に之れを利用し、同時に民衆威壓に利用は、新民會に之れを大々的に宣傳させ、縣政府各機関人員の士気の鼓舞に之れを利用し、同時に民衆威壓に利用しました。一九四四年一月下旬或は二月初め、壺関縣人民政府参議×××が我方に歸順した時は、新民會に命じしました。一九四四年一月下旬或は二月初め、壺関縣人民政府参議×××が我方に歸順した時は、新民會に命じて共産て共産黨の脅怖政治と土地没収を宣傳して平和な居民を騙り壺関縣の。そればかりでなく私はこの歸順の件を、黨の脅怖政治と土地没収を宣傳して平和な居民を騙り壺関縣の。そればかりでなく私はこの歸順の件を、自分の立身のために※[#「さんずい+路」、第自分の立身のために※[#「さんずい+路」、第33水準水準11--8787--1111]安陸軍連絡部長]安陸軍連絡部長××××××××中佐と山西省政府顧問中佐と山西省政府顧問
××××
××××に大きく報告しました。そしてに大きく報告しました。そして××××××の共産黨を誹謗した言葉は、當時の東亞新報に登録され、幾十幾の共産黨を誹謗した言葉は、當時の東亞新報に登録され、幾十幾百萬の山西省の平和な居民を欺き大きく解放を妨害しました。新民會の宣傳は分會組織を通じて行ひました。そ百萬の山西省の平和な居民を欺き大きく解放を妨害しました。新民會の宣傳は分會組織を通じて行ひました。その分會は、公務員分會は新民會壺関縣政府分會、新民會壺関縣保安隊分會、新民會壺関縣警察所分會、新民會壺の分會は、公務員分會は新民會壺関縣政府分會、新民會壺関縣保安隊分會、新民會壺関縣警察所分會、新民會壺関縣合作社関縣合作社分會があり、その會員は約四百名でありました。各村には村分會を組織し、分會があり、その會員は約四百名でありました。各村には村分會を組織し、[P36][P36]
その数は約四十箇分會でありましたがその會員数は記憶しておりません。新民會の訓練については、一九四四年
その数は約四十箇分會でありましたがその會員数は記憶しておりません。新民會の訓練については、一九四四年二月には一箇月間、縣城内の新民會壺関縣總會事務所に於て、縣政府各機関公務員五十名を、反共にかりたて、二月には一箇月間、縣城内の新民會壺関縣總會事務所に於て、縣政府各機関公務員五十名を、反共にかりたて、中日親善と東亞新秩序建設の新民精神の思想に固めるため、新民會事務部長××××をして訓練を行はせました。中日親善と東亞新秩序建設の新民精神の思想に固めるため、新民會事務部長××××をして訓練を行はせました。一九四四年十二月には一週間、縣城内の新民小學校に於て城内の青年婦女五十名に反共と中日親善を説き又婦人一九四四年十二月には一週間、縣城内の新民小學校に於て城内の青年婦女五十名に反共と中日親善を説き又婦人は男子に従う封建道徳を説き婦は男子に従う封建道徳を説き婦人の解放を阻碍しました。尚この訓練は新民會事務部長××××に行はせました。人の解放を阻碍しました。尚この訓練は新民會事務部長××××に行はせました。一九四五年八月には縣城内の新民會訓練所に於て、農村青年約四十名の訓練を新民會事務部長××××に行はせ一九四五年八月には縣城内の新民會訓練所に於て、農村青年約四十名の訓練を新民會事務部長××××に行はせましたが、日帝の投降により約十日で中止しました。私はこの間英米の東亞侵略を講義して日本帝國主義の侵略ましたが、日帝の投降により約十日で中止しました。私はこの間英米の東亞侵略を講義して日本帝國主義の侵略を正當化しました。一九四四年八月には縣城内の縣合作社に於て、食糧及び重輕工業原材料の収奪を容易にするを正當化しました。一九四四年八月には縣城内の縣合作社に於て、食糧及び重輕工業原材料の収奪を容易にするため、私は合作社顧問××××に命じて農村青年四十名を訓練させました。食糧及び重輕工業原材料収奪の目的ため、私は合作社顧問××××に命じて農村青年四十名を訓練させました。食糧及び重輕工業原材料収奪の目的を達し、自分の成績をあげるため縣政府各を達し、自分の成績をあげるため縣政府各機関の人事の移動と機関の人事の移動と[P37][P37]
懲罰を新民會の調査に基いて行いました。一九四四年三月縣合作社常務理事××を業務不積極の理由でやめさせ、
懲罰を新民會の調査に基いて行いました。一九四四年三月縣合作社常務理事××を業務不積極の理由でやめさせ、解放地區より歸順してきた×××を常務理事に任じました。同年六月縣保安隊副大隊長××××を工作不積極、解放地區より歸順してきた×××を常務理事に任じました。同年六月縣保安隊副大隊長××××を工作不積極、部下の掌把不能の理由で、屯留係へ追出し同年七月縣政府民生科長××を故意にやめさせるため、通敵の疑ひが部下の掌把不能の理由で、屯留係へ追出し同年七月縣政府民生科長××を故意にやめさせるため、通敵の疑ひがあると※[#「さんずい+路」、第あると※[#「さんずい+路」、第33水準水準11--8787--1111]安陸軍連絡部長に報告して同連絡部をして、彼を長治縣政府]安陸軍連絡部長に報告して同連絡部をして、彼を長治縣政府看守所に約三箇所月留置させました。同年八月工作不積極の理由で看守所に約三箇所月留置させました。同年八月工作不積極の理由で××××縣長を縣長をやめさせ、やめさせ、××××××××を新任させまを新任させましした。同年八月縣保安隊第一中隊長××××をやめさせるために、通敵の疑ひがあるとして※[#「さんずい+た。同年八月縣保安隊第一中隊長××××をやめさせるために、通敵の疑ひがあるとして※[#「さんずい+路」、第路」、第33水準水準11--8787--1111]安陸軍連絡部長に報告し、彼に]安陸軍連絡部長に報告し、彼に※※[#「さんずい+路」、第[#「さんずい+路」、第33水準水準11--8787--1111]安陸軍憲]安陸軍憲兵隊に送りました。一九四五年一月縣保安隊第一中隊長兵隊に送りました。一九四五年一月縣保安隊第一中隊長××××××××が工作不積極であつたので背叛をおそれ、が工作不積極であつたので背叛をおそれ、××××××××縣長の意見をとり入れ第三中隊長縣長の意見をとり入れ第三中隊長××××××××と入れ替えました。尚武力を用ひて食糧及び重輕工業原材料と入れ替えました。尚武力を用ひて食糧及び重輕工業原材料を掠奪した村名中に壺関縣石羊頭村、太陽村、固村を追加補足しまし。を掠奪した村名中に壺関縣石羊頭村、太陽村、固村を追加補足しまし。
以上以上が私が日帝時に中國で犯した罪惡であります。之れを總結すれば、殺人については中央軍密偵一名、抗日が私が日帝時に中國で犯した罪惡であります。之れを總結すれば、殺人については中央軍密偵一名、抗日壺関獨立營戦士二十壺関獨立營戦士二十[P38][P38]
二名、抗日村幹部二名、民兵六十一名、平和な居民百五十四名、治安地區村幹部五名、壺関縣政府公務員九名、
二名、抗日村幹部二名、民兵六十一名、平和な居民百五十四名、治安地區村幹部五名、壺関縣政府公務員九名、壺関縣保安隊員二名、合計二百五十六名であります。之れを殺害の手段により分類すれば斬殺二名、刺殺十七名、壺関縣保安隊員二名、合計二百五十六名であります。之れを殺害の手段により分類すれば斬殺二名、刺殺十七名、小銃又は輕機関銃を以て射殺七十二名、手榴弾による爆殺一名、家屋と共に焼殺十四名、刺殺、射殺、手榴弾に小銃又は輕機関銃を以て射殺七十二名、手榴弾による爆殺一名、家屋と共に焼殺十四名、刺殺、射殺、手榴弾による爆殺のいづれかでありますがその手段が明確でない殺害四十名、食糧掠奪による餓死百十よる爆殺のいづれかでありますがその手段が明確でない殺害四十名、食糧掠奪による餓死百十名であります。掠名であります。掠奪は食糧一千八十七萬三千斤、羊毛は約八千斤、羊皮は約五百枚、牛皮は約三十枚、羊は約一千匹、牛馬驢等の奪は食糧一千八十七萬三千斤、羊毛は約八千斤、羊皮は約五百枚、牛皮は約三十枚、羊は約一千匹、牛馬驢等の農耕用家畜合計八十七頭であり、綿花約五百斤であります。其の他農具、家具、衣類、□具、鍋釜の掠奪と破壊農耕用家畜合計八十七頭であり、綿花約五百斤であります。其の他農具、家具、衣類、□具、鍋釜の掠奪と破壊は、解放地區の平和な居民の生活を破壊するため私は或る時は奨勵し、或る時は黙認して部下のなすがままに放は、解放地區の平和な居民の生活を破壊するため私は或る時は奨勵し、或る時は黙認して部下のなすがままに放任していましたので、その数は厖大であると想像するに難くありません。家屋の放火は二棟でその中一棟は大三任していましたので、その数は厖大であると想像するに難くありません。家屋の放火は二棟でその中一棟は大三間房子で、一棟は不明であります。家屋の破壊は一棟小三間房であります。拷問は男子一名婦女二名計三名間房子で、一棟は不明であります。家屋の破壊は一棟小三間房であります。拷問は男子一名婦女二名計三名であであります。捕虜は中央軍戦士二名、逮捕して取ります。捕虜は中央軍戦士二名、逮捕して取[P39][P39]
調又一日抑留した平和な居民は約三百九十名であります。居民の奴役は十二萬三千六百名であります。強姦は二
調又一日抑留した平和な居民は約三百九十名であります。居民の奴役は十二萬三千六百名であります。強姦は二名であります。耕地の収奪は二萬三千平方米、強制して行つた水田開發面積五百町歩であります。平和な居民よ名であります。耕地の収奪は二萬三千平方米、強制して行つた水田開發面積五百町歩であります。平和な居民よ
り収奪した税金は聯合準備銀行券で約百六十萬元であります。各種の訓練は五回行いその人員は二百三十名、そ
り収奪した税金は聯合準備銀行券で約百六十萬元であります。各種の訓練は五回行いその人員は二百三十名、その日数は百七日間であります。特務組織数は四十五箇、その人員数は約二千四百六名であります。中國の平和なの日数は百七日間であります。特務組織数は四十五箇、その人員数は約二千四百六名であります。中國の平和な居民を欺瞞するために用ひました宣傳スローガンは打倒蒋介居民を欺瞞するために用ひました宣傳スローガンは打倒蒋介石、中日一衆、中日親善、同文同種、共存共榮、擁石、中日一衆、中日親善、同文同種、共存共榮、擁護汪精衛、同生共死、反蘇反共、打倒共産黨、建設東亞新秩序、以壺関人建設壺関縣等であります。護汪精衛、同生共死、反蘇反共、打倒共産黨、建設東亞新秩序、以壺関人建設壺関縣等であります。
閻錫山時私が犯した罪惡については、日本軍國主義の復活を強調して太原殘留を勸誘しました。一九四五年十閻錫山時私が犯した罪惡については、日本軍國主義の復活を強調して太原殘留を勸誘しました。一九四五年十月私は太原市上馬衛一號の當時の日僑引揚事務所で現在此處にいる××××に太原殘留を勸めました。一九四五月私は太原市上馬衛一號の當時の日僑引揚事務所で現在此處にいる××××に太原殘留を勸めました。一九四五年十一月には元日軍壺関警備隊長××××中尉に殘留を勸め、そのため彼は約十五名の部下を連れて、山西省鐡年十一月には元日軍壺関警備隊長××××中尉に殘留を勸め、そのため彼は約十五名の部下を連れて、山西省鐡道護路總隊第四團に入團しました。其後彼は晋中作戦で戦死し道護路總隊第四團に入團しました。其後彼は晋中作戦で戦死し
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