『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」5-11~5-15(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]一一[#「一一」は中見出し]

 アトリエの中へ入ると、画家のミハイロフはもう一度客を見まわして、さらにヴロンスキイの顔、ことにその頬骨の表情を、自分の想像の中へとり入れた。彼の芸術家的感情はたえまなく働いて、素材を蒐集していたにもかかわらず、また自分の作品の批評される時が近づいてくるために、いよいよはげしく興奮を覚えていたにもかかわらず、彼はほとんど目に立たぬほどの徴候によって、この三人の人物に関する概念を、敏速かつ繊細につくりあげていった。あれ(ゴレニーシチェフ)はこの土地のロシヤ人であるが、ミハイロフはその姓名も、どこで会ったかも、何を話したかも覚えていなかった。彼はどんな顔でも、いちど見た以上のこらず覚えているので、ゴレニーシチェフの場合も、顔だけは覚えがあった。しかし、なおそのうえに彼の記憶の中では、こけおどかしのものものしさばかりで、表情の乏しい顔という、きわめて大きな部門に編入されている顔の一つであることも、同様に覚えていた。大きく盛りあがった髪と、恐ろしく開けっぱなしの額は、その顔に外面的なものものしさを与えていたけれども、その実はただ小っぽけな、子供らしい不安げな表情があるばかりで、それは迫った鼻筋に集中されているのである。ヴロンスキイとカレーニナは、ミハイロフの想像によると、身分の高い富裕なロシヤ人の例にもれず、芸術など少しもわからないくせに、その愛好家かつ鑑賞家を気どっているのである。
『きっともう古い画はすっかり見つくして、今はドイツの山勘絵かきや、イギリスのばかげたラファエル前派など、新しい流派のアトリエを廻って歩いているので、おれのとこへはただ見聞の充実という意味で、やって来ただけの話だろう』と彼は思った。彼はこうしたジレッタントの癖を、よく知りぬいていた(彼らは賢ければ賢いほど、ますますいけないのである)この連中が現代のアトリエを見てまわる目的は、ただ『芸術は堕落した、新しい作品を数多く見れば見るほど、古い巨匠たちの模倣を許さぬ偉大さがわかってくる』とこういう権利を得るためにすぎないのだ。彼はそれを期待していたばかりでなく、彼らの顔つきにもそれを見てとったし、また彼らが互に話しあったり、模像や胸像をながめたり、今にも画家が作品のおおいをとって見せるだろうと待ちもうけながら、自由にその辺を歩きまわったりする、その無関心で無造作な態度にも、それがまざまざと見えていた。が、それにもかかわらず、自分のデッサンをめくって見せたり、ブラインドを上げたり、おおい布をとりのけたりしている間、彼ははげしい胸騒ぎを感じた。身分の高い富裕なロシヤ人は、彼の観念によると、みんなばかの畜生にきまっているにもかかわらず、ヴロンスキイと、ことにアンナが気に入ったので、その胸騒ぎはいよいよ強くなってきた。
「これはいかがですか?」と彼は、例のちょこちょこ歩きで脇の方へのいて、ある一つの画をさしながらたずねた。「これはピラトの訓戒です。マタイ伝第二十七章の」興奮のために唇がふるえはじめるのを感じながら、彼はこういった。彼はそこを離れて、二人のうしろに立った。
 訪問客が黙って画面をながめている幾秒かの間、ミハイロフも同様に無関心な、他人のような目でながめていた。この幾秒かの間に、最高の公平無私な批評が、ほかでもない、つい一分前まであんなに軽蔑していた、この訪問客の口から発せられるに違いない、と彼は前もって信じきっていた。彼は以前、制作中の三年間、この画について考えていたことを、残らず忘れてしまった。今まで彼にとって、疑いの余地のなかったこの画の長所を、ことごとく忘れつくして、彼はいま無関心な、他人のような、新しい目でながめた。そして、何一ついいところが発見できなかった。前景にピラトのいまいましげな顔と、キリストのおちついた顔、そのうしろにピラトの家来たちの姿と、その場の様子に見入っているヨハネの顔がある。一つ一つの顔はなみなみならぬ探求と、多くの誤謬と訂正を経た後、おのおの特殊な性格となって、彼の心に生え抜いたものであり、彼に無量の苦悶と喜びを与えたものである。全体の調和のために、幾度となく置き変えられたこれらの顔、筆紙につくせぬ困苦によって到達したすべての色彩と、調子のニュアンス――これらいっさいのものが、今この訪問客の目で見ると、百度も千度もくりかえされた俗悪なもののように思われてきた。彼にとって最も貴い顔、はじめて発見したときには、彼にあれほどの歓喜をもたらした、画面の中心であるキリストの顔も、いま彼らの目で見ると、彼にとって、いっさい無価値になってしまった。彼はただよく描かれた(いや、それさえいいとはいわれない、今は無数の欠点がありありと彼の目に映った)、チチアン、ラファエル、ルーベンスというふうに、無限にあるキリスト、兵士、ピラトの反覆を見るばかりであった。それらはみな俗悪で、貧弱で、古くさく、おまけにできばえも悪かった――色がごちゃごちゃして、力がない。彼らは画家の前では、わざとらしく慇懃《いんぎん》な文句を並べて、自分たちだけになると、気の毒がったり冷笑したりするだろうが、それはもっともせんばんである。
 彼は、この沈黙があまりにも苦しくなったので(そのくせ、一分以上はつづかなかったのである)その沈黙を破って、自分は興奮などしていないことを見せるために、強いて自ら努力しながら、ゴレニーシチェフに話しかけた。
「たしか、あなたにはお目にかかったことがあるように思いますが」といいながらも、彼は不安げに、アンナとヴロンスキイを、かわるがわるふり返っては、その顔の表情の一点一画をも見おとすまいとした。
「そりゃもう! 私たちはロッシイのとこでお会いしました。ほら、覚えておいででしょう、あのイタリーのお嬢さん、新しいラシェルが朗読をした晩ですよ」いっこうなごりの惜しげな様子もなく、画から目を離して、画家の方へ向きながら、ゴレニーシチェフは自由な態度でしゃべりだした。
 しかし、ミハイロフが画の批評を待っているのに気がつくと、彼はこういった。
「あなたの画は、このまえ拝見したときから比べると、たいへん進捗しましたね。あのときもそうでしたが、今でも私はピラトの姿に、異常なショックを感じますよ。善良で気持のいい男ではあるけれども、自分で自分が何をしているかわきまえない、腹の底までの役人であるこの人物が、じつによくわかりますよ。しかし、私の見るところでは……」
 ミハイロフのよく動く顔ぜんたいが、ふいにさっと明るく輝いて、その目はぎらぎら光りだした。彼は何かいおうとしたが、興奮のために言葉を発することができず、咳ばらいをするようなふりをした。彼はゴレニーシチェフの芸術理解力を、きわめて低く評価していたにもかかわらず――役人としてのピラトの顔の表情が正確であるという、決まりきった意見は、つまらないものであったにもかかわらず――もっとも重要な点を不問に付して、まず第一番にこんなつまらないことを問題にされたのは、彼としてずいぶん癪に障ることだったにもかかわらず――ミハイロフはこの評言に、有頂天になってしまった。彼自身もピラトの姿については、ゴレニーシチェフがいったのと同じことを考えていた。こうした批評は、いずれも肯綮《こうけい》を穿《うが》つに相違ない幾千万というその他の批評の一つにすぎないことは、ミハイロフも確かに承知しているくせに、それでも彼にとって、ゴレニーシチェフの言葉は価値を減じなかった。彼はこの評言のために、ゴレニーシチェフが好きになり、意気銷沈の状態から、一足飛びに有頂天になってしまった。たちまちその画面は、生けるものの名状し難い複雑さを十二分に発揮して、彼の目の前によみがえってきた。ミハイロフはまたしても、自分もピラトをそのように解釈している、といおうと試みたが、唇はいうことをきかずに、ぶるぶるとふるえ、何一つ言葉が出なかった。ヴロンスキイとアンナも、何か小さな声でいった。それはいくぶん、画家を侮辱しないためでもあったが、またいくぶんかは、絵の展覧会などで美術を語る場合、よく人がうかうかと口にしやすいばかげたことを、大きな声でしゃべらない用心であった。ミハイロフは、自分の画がこの二人にも印象を与えたように感じた。で、彼はそのそばへよっていった。
「キリストの表情の、まあすてきですこと!」とアンナはいった。今まで見たうちで、この表情がいちばん彼女の気に入った。彼女はこれが画の中心であるから、この賛辞は画家にとってうれしいだろう、と感じたのである。「ピラトをかわいそうに思ってるのが、ありありと見えていますわ」
 これもまた彼の画の中にも、キリストの顔の中にも発見することのできる、幾千万の肯綮を穿った評言の一つであった。彼女は、キリストはピラトがかわいそうなのだ、といった。キリストの表情には、きっと憐愍もあったに相違ない。なぜなら、そこには愛と、この世ならぬおちつきと、死の覚悟と、言葉の無益《むえき》にたいする意識の表情があったからである。もちろん、ピラトに役人らしい表情があり、キリストに憐愍の表情があるのはいうまでもない。なぜなら、一は肉的生活の具象であり、他は精神的生活の権化だからである。そういったようなことや、そのほか多くのことが、ミハイロフの頭に閃いた。と、またしても彼の顔は歓喜の色に輝いた。
「そう、この人物の出来ばえはどうです、そして空気の満ち溢れていること、あのうしろが廻れそうなくらいです」とゴレニーシチェフはいったが、明らかにその評言によって、この人物の内容と思想に感服しないことを、示そうとするらしかった。
「そう、驚くべき手腕だ!」とヴロンスキイはいった。「あの背景の人物の、くっきりと浮き出してることはどうだ! これがテクニックなんだ」と彼はゴレニーシチェフに向っていったが、それはかつて二人で話しあったとき、ヴロンスキイがこのテクニックを身につけるのに失望したといったのを、ほのめかしたものである。
「そう、そう、すてきです!」とゴレニーシチェフとアンナは、相槌を打った。
 興奮した心の状態であったにもかかわらず、テクニックうんぬんという評言は、ひどくミハイロフの気持をかきむしった。で、彼は腹だたしげにヴロンスキイを見やったが、急にしかめ面になってしまった。彼はよくこのテクニックという言葉を聞いたが、その言葉のもとにいかなる意味が蔵されているのか、とんと合点がいかなかった。彼の理解するところによれば、この言葉の陰には、内容とはぜんぜん無関係な、描いたり塗ったりする機械的な才能が意味されていた。今の賛辞と同様に、悪いものをよく描くことができるかのように、テクニックを内面的価値に対立させるのは、彼のしばしばみとめたところである。彼は知っていた、おおい布をとるとき、自分の作品を損《そこな》わないために、またすべてのおおいをとるためには、非常な注意と細心を必要とする。しかし、画を描く技術のためには、そこになんらのテクニックも必要でない。もし幼い子供や台所女中に、彼の見たのと同じものが啓示されたら、彼らも自分の目に映ったものを、ちゃんとひんむいて見せたに相違ない。ところで、どんなに経験を積んだ巧妙な技巧家の絵かきでも、その前に内容の限界が啓示されない以上は、単なる機械的の能力だけでは、何一つ描くことができないはずである。のみならず、もしテクニックを口にする以上、テクニックのために自分を褒めるわけにいかないのを、彼はちゃんと悟っていた。自分の描きつつあるもの、すでに描き終ったものの全部に、彼は一見して目を射る幾多の欠点を認めていた。それは、おおいをとるときの不用意から生じたもので、今となっては、作品の全部を損わずに、もはやそれを訂正することができないのである。ほとんどすべての姿や顔に、まだ十分おおいをとらなかった痕跡があり、それが画面をそこなっているのを、ちゃんと見てとっていた。
「ただ一ついうことができるのは……ただし、あなたがその感想を述べさせて下さればですが……」とゴレニーシチェフがいった。
「ああ、それは喜んで伺います。どうぞ」とミハイロフは、わざとらしく微笑しながらいった。
「ほかでもありませんが、あなたのキリストは神人でなくて人神です。もっとも、あなたがそうしようとお思いになったのは、承知していますが」
「私は自分の心にある以外のキリストを、描くことができなかったのです」とミハイロフは陰気な調子で答えた。
「さよう、しかし、そういうわけでしたら、もしあなたが私の考えをいうことを許してくだされば……あなたの画はじつにりっぱなのですから、私の感想などが、その価値を傷つけることはできませんし、それにこれは私一箇の意見ですからね。あなたのはこりゃ別です。またテーマそのものも別ですが、まあ、かりにイヴァノフを例にとってみましょう[#「みましょう」は底本では「みましよう」]。私の考えでは、もしキリストが歴史的人物の段階にひき下げられたのなら、イヴァノフとしてはもっと別な、人の手をつけてない、新しい歴史的テーマを選んだほうがよかったでしょう」
「しかし、これがもし芸術に与えられた最大のテーマだとしたら?」
「さがしたら、もっとほかなのが見つかりますよ。しかし、問題はですね、芸術が論争や理屈を容れないということです。イヴァノフの画の前に立っていると、信仰者にとっても、不信仰者にとっても、これは神であるや否やという疑問が浮んできて、印象の統一を破壊するのです」
「なぜでしょう? 私は教養のある人にとっては」とミハイルはいった。「論争などありえないと思われますが」
 ゴレニーシチェフはそれに同意せず、自分が最初に述べた芸術に必要な印象の統一説を固執して、ミハイロフを論破した。
 ミハイロフは躍起《やっき》となったけれども、自説の弁護に何一ついうことができなかった。

[#5字下げ]一二[#「一二」は中見出し]

 アンナとヴロンスキイは、もう前から目を見合わせて、自分の友だちの賢明な饒舌《じょうぜつ》を哀れんでいた。とうとう、ヴロンスキイは主人の案内を待ち切れないで、次の小さな画に移った。
「ああ! なんとすばらしい、じつにすばらしい! 奇蹟だ! ほんとにすばらしい!」と二人は異口同音に叫んだ。
『いったいなにがそんなに気に入ったんだろう?』とミハイロフは思った。三年前に描いたこの画のことなど、とんと忘れてしまっていた。何ヵ月かの間、寝ても覚めても、この画が気にかかっていた時分に経験したいっさいの苦悶も、喜びも、すべて完成した画のことを忘れる癖として、ころりと忘れていたのである。彼はその画を見ることさえ好まず、ただそれを買おうといったイギリス人を待っていたために、並べておいたに、すぎないのである。
「これはちょっとしたもので、だいぶまえの習作です」と彼はいった。
「じつにいい!」これも同様、心からこの画の美に打たれたらしく、ゴレニーシチェフはそういった。
 二人の少年が楊《やなぎ》の陰で魚を釣っていた。一人年かさのほうは、たったいま糸を投げたばかりで、一生懸命に茂みの中から浮きをひき出しながら、その仕事に注意を呑みつくされている。もう一人年下のほうは、草の上にねそべって、白っぽい髪のもつれた頭を両腕にのせ、もの思わしげな空色の目で、水面をながめている。いったい何を考えているだろう?
 この画に対する一同の感嘆は、ミハイロフの心に以前の興奮を呼びさました。しかし、彼はこうした暢気《のんき》な懐旧の念を恐れ、かつ嫌っていたので、この賞賛はうれしかったにもかかわらず、彼は訪問客を、三番目の画のほうへひっぱっていこうとした。
 しかし、ヴロンスキイは、この画を売っていただけるでしょうか、とたずねた。今この訪問客のために興奮しているミハイロフにとって、金の話はきわめて不愉快であった。
「そりゃ売るために並べてあるのですから」と彼は陰気くさく、眉をひそめながら答えた。
 客が立ち去った後ミハイロフは、ピラトとキリストの画の前に腰をおろして、客のいったことや、口には出さないまでも、客が暗にほのめかしたことを、心の中でくりかえしていた。と、ふしぎにも、客がそこにいて、彼が心中ひそかに彼らの見地に立っていたときは、あれほどの重みをもっていた言葉が、忽然としていっさいの意味を失ってしまった。彼は自分の完全な芸術的見方で、画をながめはじめた。そして、自分の画が完璧であり、したがって、重大な意義をもっているという自信に到達した。それは、他のあらゆる興味を排除する緊張感のために必要なのであって、彼はただこういうときにのみ、仕事をすることができたのである。
 下から見上げるように描かれたキリストの足は、なんといっても的がはずれていた。彼はパレットをとって、仕事にかかった。足をなおしながら、彼は背景になっているヨハネの姿に見入っていた。訪問客は気にとめなかったけれども、それが完成の極致であることを、彼は承知していた。足がすむと、彼はこの人物にとりかかろうとしたが、この仕事のためにあまり興奮しすぎていると感じた。彼は冷淡な気持でいるときも、またあまり感動しすぎて、なにもかも見えすぎるときも、同じように仕事ができないのであった。仕事ができるためには、冷静から感激に移る過程のうち、たった一つの段階があった。が、今はあまりにも興奮しすぎていた。彼は画面におおいをかけようとしたが、ちょっとその手をとめて、おおい布を持ったまま、幸福げにほほえみながら、ヨハネの姿を長いことうちまもっていた。やがてとうとう、何か悲しげな目を放して、おおいをかけ、疲れてはいたが幸福な気持で、住居のほうへ帰って行った。
 ヴロンスキイと、アンナと、ゴレニーシチェフは、帰る道すがら、かくべつ活気づいて、快活であった。彼らは、ミハイロフとその作品の話をした。才能[#「才能」に傍点]という言葉――それは彼らの使い方によると、知性と心情を超越した生れながらの、ほとんど生理的ともいうべき能力であって、彼らはこの言葉によって、画家の体験するいっさいを呼びたかったのであるが、この言葉が彼らの話の中に、かくべつひんぱんに出てきた。なぜなら、自分たちがなんの観念ももっていないくせに、話したくてたまらないことをさしていうのに、必要かくべからざるものだったからである。彼らはこんなことをいった――ミハイロフの才能は否定できないけれども、ロシヤの画家のすべてに共通の不幸である教養の不足のために、才能は伸びていくことができない、と。しかし、二少年の画は彼らの記憶に根をおろして、ともすれば話がそれに帰っていった。
「じつにすばらしい? どうしてああ単純にうまくいったんだろう? あの男は、あの画がどんなにいいかわからないのだ! そうだ、機会をのがさずに、あれを買わなくちゃならない」とヴロンスキイはいった。

[#5字下げ]一三[#「一三」は中見出し]

 ミハイロフはヴロンスキイに自分の画を売って、アンナの肖像を描くことを承諾した。約束の日にやって来て、仕事をはじめた。
 その肖像は、五回目あたりから一同、特にヴロンスキイを驚かした。それは、ただよく似ているからというだけでなく、一種特別な美のためであった。その特別な美を、どうしてミハイロフが見いだしえたか、ふしぎなくらいである。『彼女のこうした美しい精神的表情を発見するためには、おれと同じように彼女を知り、かつ愛さなければならぬはずだ』とヴロンスキイは考えた。そのくせ、彼自身この肖像によって、彼女のこうした美しい精神美を発見したのである。けれども、その表情がいかにも真実みに満ちていたので、彼にしても、またほかの人にしても、前からそれを知っているような気がした。
「僕はあんなに長いこと苦労しているのに、なんにもしでかせないでいるが」と彼は自分の肖像画のことを、そういった。「あの男はちょっと見て、たちまち描いてしまった。これがつまりテクニックなんだ」
「それは今にできるさ」とゴレニーシチェフは、彼を慰めた。彼の考えによると、ヴロンスキイは才能、ことに教養があるから、これが芸術にたいして、高邁《こうまい》なる見解を与えるのであった。なおそのほか、ゴレニーシチェフがヴロンスキイの才能を、固く信じていたのは、自分の論文や思想にたいするヴロンスキイの同感や、賞賛が必要だったからでもある。賞賛や支持は、相互的なものでなくてはならない、そう彼は感じていた。
 ミハイロフは他人の家、ことにヴロンスキイの邸宅《パラッツォ》では、自分のアトリエにいるときとは、まるで別人のようになった。さながら、自分の尊敬しない人々との接近をおそれるかのように、彼は固く城壁をかまえたような、うやうやしい態度を持《じ》していた。彼はヴロンスキイを御前と呼び、アンナやヴロンスキイが招待しても、決して食事に残らず、画を描くときよりほかには、訪ねてこなかった。アンナはほかのだれよりも彼に優しくして、肖像画のことを感謝していた。ヴロンスキイは彼に対して、慇懃以上の態度をとり、明らかに、自分の画に対するこの画家の批評に興味をもっているらしかった。ゴレニーシチェフは、ミハイロフに真の芸術観を吹きこむ機を、のがそうとしなかった。しかしミハイロフは、すべての人に対して、どこまでも冷淡であった。アンナは彼の目つきによって、彼が自分を見るのを喜んでいるなと感じたが、彼はアンナと話すのを避けるようにしていた。ヴロンスキイが絵画の話をしむけても、彼はかたくなに沈黙を守り、ヴロンスキイの作品を見せられても、同じく頑固におし黙っているのであった。そして、ゴレニーシチェフの話も明らかに苦痛であるらしく、少しも反駁しなかった。
 要するに、ミハイロフの控えめな、まるで敵意でもいだいているような不快な態度のため、三人は彼を近しく知るようになってから、ひどく気に入らなくなってしまった。で、写生が終って、みごとな肖像が手に残り、彼がやってこなくなった時、彼らはほっとしたように喜んだ。
 ゴレニーシチェフは、みんなが心にいだいていた考えを、まず第一番に口に出した。つまり、ミハイロフはなんのことはない、ただヴロンスキイをうらやんでいるのだ。
「まあ、やっかんでまではいないかもしれない。だってあの男には才能[#「才能」に傍点]があるのだからね。しかし、宮内官で、金持で、おまけに伯爵(なにしろ、彼らはすべてこういうことを憎悪しているからね)こういう人間が、格別なんの苦労もなしに、この道に一生を捧げたあの男より、優れた仕事とはいえないまでも、同じことをしているのが、いまいましいんだよ。何よりも第一に教養さ――あの男のもっていない教養さ」
 ヴロンスキイはミハイロフを弁護したが、心の深い底のほうでは、その説を信じていた。なぜなら、彼の見解によると、自分より低い別の世界に属する人間は、羨望するのがあたりまえだからである。
 彼とミハイロフが同じように、モデルを写して描いたアンナの肖像は、彼とミハイロフの間に存在する相違を、当然ヴロンスキイに証明すべきはずでありながら、彼はその差違に気がつかなかった。ただ彼はミハイロフの肖像ができあがると、自分のアンナ像を描くのをやめてしまった。それは今むだなことだ、と決めたのである。しかし、中世時代を主題とした画は、相変らずつづけていた。彼自身も、ゴレニーシチェフも、ことにアンナは、それがたいへんよくできていると思った。というのは、ミハイロフの画よりも、ずっと有名な傑作に似ていたからである。
 ミハイロフは、アンナの肖像に心からうちこんだにもかかわらず、画が完成して、もはやゴレニーシチェフのお説教を聞くこともなく、ヴロンスキイの画を見なくともすむようになったとき、むしろ彼ら以上に喜んだ。ヴロンスキイが画をおもちゃにするのを、さし止めるわけにはいかない、彼はそれを知っていた。自分にしても、またすべてのジレッタントにしても、なんでも好きなものを描く権利があるのは承知していたが、それでも彼は不愉快であった。人が大きな蝋人形をつくって、それに接吻するのをさし止めるわけにはいかない。しかし、かりにこの人が人形を持って、相愛の男女の前に坐りこみ、恋するものが相手の女を愛撫するように、その人形を愛撫しはじめたら、恋するものはきっと不快に相違ない。ミハイロフはヴロンスキイの画を見るとき、それと同じ不快感を覚えたのである。彼はおかしくもあれば、いまいましくもあり、みじめでもあれば、腹だたしくもあったのである。
 絵画と中世時代にたいするヴロンスキイの熱中も、あまり長くはつづかなかった。彼は相当、絵画にたいする趣味をもっていたので、自分の画を完成することができなかった。作品は頓挫してしまった。はじめはあまり目立たなかった欠点が、続けていくにしたがって、人を驚かすようになるだろう、それを彼はおぼろげながら感じたのである。彼の心には、ゴレニーシェチフと同じようなことが生じたのであった。ゴレニーシチェフは、自分は何もいうことがないと感じながら、たえず自ら欺いて、まだ思想が熟さないから、今のところ想を練りながら、材料を集めているのだ、といっていた。しかし、ゴレニーシチェフはそのために癇をたてて、自分で苦しんでいたが、ヴロンスキイはみずから欺いたり、苦しんだり、ことに癇をたてたりすることができなかった。彼は持ちまえの思い切りのよい性質で、なんの説明も弁解もなく、画を描くことをやめてしまった。
 けれども、こういう仕事がなくなると、イタリーの町におけるヴロンスキイとアンナの生活は(彼女は男の幻滅に呆《あき》れていた)、退屈きわまりないものに思われてきた。邸宅《パラッツォ》は突然、見るからに古ぼけて汚くなり、窓掛のしみや、床のひび割れや、蛇腹の漆喰《しっくい》の剥げたところが、やたらに不愉快に目についてきた。そして、いつも変らぬゴレニーシチェフや、イタリー人の教授や、ドイツの漫遊者が、たまらなく鼻についてきたので、生活を一変する必要が生じてきた。二人はロシヤヘ帰って、田舎へひっこむことに決めた。ペテルブルグでは、ヴロンスキイは兄と遺産分割の話をとり決め、アンナはわが子に会おうと考えていた。夏はヴロンスキイの大きな領地ですごそう、という計画であった。

[#5字下げ]一四[#「一四」は中見出し]

 レーヴィンが結婚して、三月目になった。彼は幸福だった。けれども、それは彼が期待していたのとは、まるで違っていた。彼は一歩ごとに以前の空想の幻滅と、新しい思いがけない魅惑にぶつかったのである。彼は幸福だったが、結婚生活に入ってみると、自分の想像していたものとは全然ちがうということを、一歩ごとに知らされたのである。湖上を滑《なめ》らかにすべる小舟の、幸福げな動きに見とれていた人が、その後、自分でその小舟に乗ってみて感ずるような、そうした気持を、一歩一歩に経験したのである。つまり、体を揺すぶらないようにしながら、平均を保って乗っているだけでは足りない――どの方向をさしていかねばならぬかということや、板子一枚下は水で、その上を漕いでいかねばならぬということや、慣れない腕にはその仕事がつらいということや、ただ見ていたときは楽そうだったけれど、自分でやってみると、非常に楽しくはあるけれども、きわめて困難な仕事だということなどを、瞬時も忘れずに、しじゅう気を配っていなければならない――彼はそれを悟ったのである。
 独身時代には、他人の結婚生活を観察して、彼らのこせこせしたくだらない心配や、いさかいや、嫉妬さわぎなどを見ると、彼は内心ひそかに、軽蔑の微笑を洩らすだけであった。彼の確信に従えば、彼の未来の夫婦生活には、そのようなことはいっさいありえないのみならず、すべての外面的な形式までが、あらゆる点において、他人の生活とは全然ちがっていなければならないように思われた。ところが、思いがけなくその期待に反して、彼と妻との生活は特殊な形をとらなかったばかりか、かえってすべてが何から何まで、以前あれほど軽蔑していた、思い切ってつまらない、些末《さまつ》なことで固まってしまったのである。しかも、その些末なことが、今では彼の意志に反して、否むことのできない、なみなみならぬ意義をおびてくるのであった。そのうえにレーヴィンは、こうしたいっさいの些末なことをきずきあげていくのが、前に考えていたほど、さほど容易なわざではないのを悟った。レーヴィンは結婚生活というものについて、きわめて正確な観念をもっているように思いこんでいたにもかかわらず、やはりすべての男性と同じように、結婚生活というものを、何ものからも障碍を受けることのありえない、また些末な心づかいにまぎらされたりするようなことのありえない、単なる愛の享楽というふうに、知らずしらず想像していたのである。彼の解釈によれば、彼は自分の仕事にいそしんで、その休息を愛の幸福の中にもとむべきであった。彼女は愛せられさえすればいいので、それ以上のものであってはならなかった。しかし、彼はすべての男性とおなじように、妻も働かなければならぬということを、忘れていたのであった。で、レーヴィンは彼女が――この詩的な美しいキチイが、結婚生活の最初の週、いや。それどころか最初の日から、テーブル・クロースだの、家具だの、来客用の敷蒲団だの、盆だの、料理人だの、食事だの、そういったふうのことを考えたり、覚えたり、心配したりすることが、どうしてできるのだろうと、一驚を喫したほどである。まだ婚約時代から、彼女が外国旅行を拒絶して、自分はほかに、大事なことのあるのを承知しているので、恋以外に別のことを考えることもできるといったような按配《あんばい》で、田舎行きに決めたそのはっきりした態度に、レーヴィンは面くらったものである。そのときも、彼はそれに侮辱を感じたが、今でも彼女がこまごました些末なことに、あくせくして心を配るのに、彼はいくどとなく侮辱を感じさせられるのであった。けれども、彼女として、それはやむをえないことだと悟った。で、彼は妻を愛していたがゆえに、なぜということはわからなかったし、また、そうした心づかいをひやかしていたけれど、やっぱりそれに見とれないではいられなかった。彼女が、モスクワから持ってきた家具を配置したり、自分の部屋と良人の部屋を新しく飾りなおしたり、窓掛をかけたり、来客やドリイのために、あらかじめ部屋の割り当てをしたり、自分のつれてきた新しい小間使に居間を整えてやったり、年寄りの料理人に食事をいいつけたり、アガーフィヤ・ミハイロヴナを食料係の位置から遠ざけて、そのために彼女と口論したりするのを見て、彼はそれを茶化していた。彼はまた、年寄りの料理人が彼女に見とれながら、そのいかにも不慣れらしい不可能な命令を聞いて、にやにや笑っているのを見た。またアガーフィヤが、若奥さまの食料品貯蔵に関する新しいやり口に驚いて、考え深そうに、優しく首をふっているのも見た。それからキチイが、泣いたり笑ったりしながら、小間使のマーシャが前からの癖で、自分のことをお嬢さまと呼ぶために、だれも自分のいうことをきかないといって、彼のところへ訴えにきたとき、その様子がいつにも増してかわいらしかった、それをも彼は見てとった。こういうことは、彼の目にかわいくも感じられたが、また変てこにも思われた。で、こういうことはないほうがよさそうだと考えた。
 レーヴィンは、彼女が結婚後に経験している変化の感情を、知らなかったのである。彼女は生家《さと》にいるころには、ときどきクワスを添えたキャベツだの、菓子だのを、ほしいと思うことがあっても、そういうものを自由に手に入れるわけにはいかなかった。ところが、今はなんでもほしいものを注文することができるし、金も好きなだけ使うことができ、ケーキなども、なんなりと好きなのを注文することができたのである。
 いま彼女は、ドリイが子供たちを連れてくるのを、喜びにみちた気持で想像していた。これがかくべつうれしいわけは、ほかでもない、子供たちにめいめいの好きなケーキをこさえさせてやろう、するとドリイは、きっと新しい世帯ぶりをほめてくれるに違いない――とこう思うからであった。彼女自身はどういうわけとも、またなんのためとも知らなかったけれど、家政という仕事に、否応のない力でひかれていった。彼女は本能的に、春の近づいてくるのを感じると同時に、不幸や災厄の日があることも知っていたので、力相応、一生懸命に巣ごしらえをした。巣ごしらえをすると同時に、そのこしらえかたをも覚えこもうと、あせるのであった。
 こうしたキチイの些末な心づかいは、レーヴィンの最初いだいていた高遠なる幸福の理想に相反するもので、彼の幻滅の一つであった。と同時に、このかれんな心づかいは、その意味こそ彼にわからなかったけれど、愛さないではいられない新しい魅力の一つであった。
 いま一つの幻滅と魅惑は、いさかいであった。レーヴィンの気持では、自分と妻とのあいだには、うれしい愛情と尊敬以外に、ほかの関係などがありえようとは、てんで想像することもできなかった。ところが、結婚早々から、二人はもう喧嘩をはじめてしまって、とうとうキチイは彼にむかって、あなたはわたしを愛しているのではなくて、ただ自分自身を愛しているだけだといって、泣きながら両手をふりまわしたくらいである。
 彼らのこうした最初のいさかいは、レーヴィンが新たに設けた農園を見に出かけたとき、近道をしようとして道に迷い、半時間ばかり予定より遅れて、帰って来たのがもとだった。彼はただ彼女のことや、彼女の愛のことや、自分の幸福のことばかり考えながら、家路へ急いでいたので、わが家に近づくにつれて、妻にたいする優しい愛情が、ますます強く燃え立ってきた。彼はかつて結婚の申しこみに、シチェルバーツキイ家へおもむいたときのような、いや、それよりもっと強い愛情をいだきながら、部屋の中へ駆けこんだのである。ところが、彼を出迎えたのは、今までついぞ見たこともないほど、陰鬱な妻の表情であった。彼は妻を接吻しようとした。けれども、妻は彼をつき退けた。
「おまえどうしたの?」
「あなたお楽しみですわね……」つとめておちついた、毒々しい調子を響かせようとしながら、彼女はいいはじめた。
 けれど、彼女が口を開くやいなや、無意味な嫉妬と、窓に腰かけて身動きもせずにすごしたこの半時間、彼女を苦しめつづけたありとあらゆるむしゃくしゃが、はげしい非難の言葉となってほとばしり出た。そのとき彼ははじめて、式のあとで彼女を教会から連れて出たときに、よく了解できなかったことが、やっとはっきりわかったのである。彼女は自分にとって近しい存在であるばかりでなく、今ではもうどこまでが彼女で、どこからが自分なのかわからない――それを彼は了解したのである。この瞬間に経験した苦しい自己分裂の気持によって、彼はそれを了解したのである。彼もはじめは少しむっとしたが、すぐその瞬間に、自分は妻に腹などたてさせられるわけがない、彼女は要するに自分自身なのだからと、感じたのである。彼が最初の瞬間に経験した気持を、たとえていうならば、ふいにうしろから強い打撃を受けた人が、いまいましさのあまり、仕返しのために相手を見つけようと思って、あとをふりむいてみたところ、それは何かのはずみに自分を打ったので、だれに腹をたてることもない、じっとこらえて、痛みを鎮めるほかない、とこう悟ったときに、味わうような感じなのであった。
 もうそのあとになってからは、彼もそれほど強くその感じを経験しなかったが、そのはじめてのときは、長いあいだわれに返ることができなかった。自然の感情は、おのれの弁解をして、彼女のあやまちを証明するようにと彼に要求した。しかし、彼女の罪を証明することは、ますます彼女をいらだたせて、いっさいの不幸の原因となった決裂を、いよいよ大きくするばかりである。一つの習慣的な感情は、罪を自分からとり除いて、彼女の方へ投げかけるようにと命じたが、それよりさらに力強いもう一つの感情は、いったん生じた決裂を大きくさせないで、早く、少しも早く、それをなおさなければならぬ、というのであった。そうした不当の非難を受けっぱなしにするのは、苦しいことに相違なかったけれども、自己弁解をして彼女に痛みを与えるのは、それよりもっと悪かった。夢うつつの間に、痛みに悩んでいる人のように、彼は痛む箇所をひきちぎって、投げ棄ててしまいたいと思ったが、われに返ってみると、痛む箇所は自分自身であると感じた。ただできるだけがまんして、痛みを楽にするよりしかたがない。で、彼はそうするように努力したのである。
 二人は仲直りした。彼女は自分の罪を認めたが、口に出してはいわなかった。ただ前よりも、彼に優しくなったばかりである。こうして二人は、前に倍した新しい愛の幸福を味わった。が、そうかといって、これに類した衝突がくりかえされるのを、防ぐ助けにはならなかった。それどころか、特に思いがけない、とるに足らぬ原因で起ることが、しばしばであった。これらの衝突は、相手にとって何が大事なのかを、知らないために起るのであったが、また結婚当座、ふたりながら不きげんでいることが多かったからでもある。一方が上きげんでいるのに、いま一方は不きげんというようなときには、平和が破られなかった。しかし、二人そろってきげんの悪いときには、あまりつまらないことなので、合点がいかぬような原因から衝突がはじまって、あとで何をいい争ったのか、われながら思い起せないほどであった。もっとも、彼らが二人ながらきげんのいいときには、生活の喜びは二倍、三倍になったとはいうものの、なんといってもこの結婚当座は、二人にとって苦しい時期であった。
 この新婚当時は、ずっとひきつづき、特にまざまざと緊張した心持が感じられた。それはちょうど、二人をむすびあわしている一本の鎖を、めいめい自分の方へかわるがわるひっぱっているようなぐあいであった。概してこの蜜月、世間の言い伝えによって、レーヴィンがあれほど多くのものを期待していた結婚後の一月は、蜜のように甘いものでなかったばかりか、生涯の最も重々しい屈辱の時期として、二人の記憶の中に残ったほどである。彼らは二人ながら、その後の生活に入ってから、ノーマルな気持でいることのまれであった、つまり、彼らが自分自身であることのまれであった、この不健全な時期の、醜い恥ずかしいことどもを、記憶の中から掻き消してしまおうとつとめた。
 やっと夫婦生活の三月目になって、二人が一月ばかりモスクワへ行って帰ってから、彼らの生活はやや平調になってきた。

[#5字下げ]一五[#「一五」は中見出し]

 彼らはモスクワから帰って来たばかりで、自分たちの世間離れた生活に歓喜していた。彼は書斎の仕事机にむかって、書きものをしていた。彼女のほうは、黒みがかった薄紫色の服を着て――それは結婚当時に着ていたものだが、今日もまたとり出して着たので、彼にとってはことに思い出の深い貴いものであった――レーヴィンの父や祖父の時代から、ずっと書斎に置かれていた、古い革張りの長椅子に腰をかけて、broderie anglaise(イギリス刺繍)をしていた。彼はたえず喜びをもって、彼女の存在を感じながら、考えては書いていた。農場のほうの仕事も、新しい農村経営の基礎を述べるはずになっている著述の仕事も、二つながら彼は放擲《ほうてき》しなかった。しかし、前はこの仕事が、全生活をおおっている暗黒に比べて、些細なとるに足らぬもののように思われていたのと同じ程度に、いまでは幸福の光をいっぱいに浴びている未来の生活に比べて、些細なとるに足らぬもののように思われるのであった。彼は自分の仕事をつづけていたが、いまでは注意の焦点がほかのほうへ移って、その結果ちがったふうに、もっと明瞭に、事態を眺めるようになったのを感じた。以前この仕事は彼にとって、人生からの救いであった。以前は、この仕事がなかったら、自分の人生はあまりにも暗黒となるであろう、とそう彼は感じていた。ところが、今は生活があまり単調に明るすぎないために、この仕事が彼にとって必要なのであった。もういちど原稿を手にとって、自分の書いたものを読み返した彼は、この仕事が力を入れる価値のあるものであることを発見して、満足の情を感じた。以前の思想の中には、よけいであり極端であると思われるものも多かったが、彼が記憶の中で問題ぜんたいを新しい目でながめたとき、今までの空白だった多くの点が、明瞭になるのであった。彼はいま、ロシヤにおける農業の不利な状態に関する新しい章を書いていた。ロシヤの貧困は単に私有土地のあやまれる分配法と、当を失した方向に起因するのみならず、最近、変態的にロシヤに接種された外面的文化、ことに鉄道交通が、ますますこれを助長している。その結果は都市中心主義、奢侈《しゃし》の向上となり、さらにその結果としては、農村を犠牲とする工業、銀行業、およびその同伴者たる投機取引の発達を招来した、それを彼は論証しようとしていた。彼の見るところによると、ある国家において富の発達がノーマルである場合、すべてこれらの現象が生じるのは、すでに農業にたいして相当の労力が注入され、農業が正しい、少なくとも、一定した条件におかれたときに限るのである。一国の富は均等に生長すべきであって、特に富の他の部門が農業を凌駕《りょうが》しないことを必要とする。農業の一定段階に応じて、交通機関もそれに相当したものがなくてはならない。しかるに、わが国のごとく、土地の利用があやまっている場合には、経済的必要でなく政治的必要によって生れた鉄道は、時期尚早であって、予期のごとく農業を助成するどころか、かえって農業を追い越してしまうために、工業と銀行業の発達を促して農業を阻止《そし》してしまう。したがって、動物の内部機関の一つが、一方的な早期の発達をした場合、その全体的発達を妨げると同様に、銀行業や鉄道や工業の発達は(これらのものは、時宜《じぎ》に適しているヨーロッパでは、疑いもなく必須《ひっしゅ》なものであるが)ロシヤの国富の全般的発達にとって、ただ害をなしたのみである。それは当面の重大問題である農業の整理を無視したからである。
 彼が原稿を書いているあいだ、彼女はこんなことを考えていた。チャールスキイ若公爵が出立の前後、ひどく無器用なやりかたで、彼女にまつわりついたが、良人は彼にたいして、不自然な愛想を示したものである。『本当にこの人は、やきもちをやいてるんだわ!』と彼女は考えた。『まあ、あきれた! なんてこの人はかわいいおばかさんなのだろう? あたしのことでやきもちをやくなんて! あたしにとってはあんな人たちなんか、料理人のピョートルとなんの変りもないのに、それをこの人に知らせてあげたいわ』われながらふしぎな専有感をいだいて、彼の後頭部や赤い頸筋を見ながら、彼女は考えるのであった。『仕事の途中でお気の毒だけれど(でも、ちゃんとまにあわせなさるわ!)いちど顔を見なくちゃならない。あたしが見てることを、感じてらっしゃるかしら? こっちを向いて下さればいいのに……向いてほしいわ、さあ!』彼女は目をさらに大きく見開いた、それで自分のまなざしの作用を強めようと思ったのである。
『そうだ、そんなものは、いっさいの滋養分を自分のほうへばかり吸ってしまって、虚偽の光彩をつけるばかりだ』と彼は手を止めて、こうつぶやいたが、妻が自分のほうを見ながら、にこにこしているのを感じて、ふり返った。
「どうだね?」徴笑を含んで立ちあがりながら、彼は問いかけた。
『本当にこっちを見たわ』と彼女は思った。
「なんでもないの、あたしただ、あなたがこっちをごらんになればいい、と思っただけなの」自分が仕事を中断したのを、良人がいまいましく思っているかどうか察しようとして、じっと相手を見つめながら、彼女はそう答えた。
「ねえ、お互に二人きりでいるのは、なんていい気持だろう! いや、それは僕のことなんだがね」妻のそばへよって、幸福の微笑に輝きながら、彼はいった。
「あたしも本当にいい気持だわ! あたし、どこへも行きゃしない、別してモスクワへは」
「いったいおまえなにを考えてたの?」
「あたし? あたしが考えていたのは……いや、いや、あっちイ行ってお書きなさいな、気を散らさないで」と彼女は唇を皺《しわ》めながらいった。「あたしこれから、ほら、この穴を切り抜かなくちゃならないから」
 キチイは鋏《はさみ》をとって、切り抜きにかかった。
「いや、何を考えてたか、いってごらん」妻のそばに腰をおろして、小さな鋏が円く動くのを見ながら、彼はこういった。
「あら、あたし何を考えてたんでしょう? わたしね、モスクワのことだの、あんたのうしろ頭のことだのを考えていたの」
「いったい僕はなんのために、こんな幸福を授かったんだろう? 不自然だ。あまりよすぎる」と彼は妻の手を接吻しながらいった。
「あたしその反対よ、よければよいほど自然な感じがするわ」
「ああ、おまえ、編髪が」と彼は用心ぶかく、妻の頭を自分のほうへ向けながらいった。「編髪が、ほらごらん、こんなに。いや、いや、僕たちは仕事をしなくちゃならないのだ!」
 けれど、もう仕事はつづけられなかった。クジマーが、お茶の用意ができたことを知らせに入ったとき、二人は悪いことでもしたもののように、さっと離れた。 
「ときに、町から郵便が届いたかい?」とレーヴィンはクジマーにたずねた。
「たったいま届きましてございます。ただいま、より分けておりますところで」
「あなた早くいらっしゃいよ」とキチイは書斎を出ながらいった。「でないと、あたしかってに手紙を読んでしまってよ。それから、ピアノの連弾をしましょうよ」
 一人きりになって、自分の手帖を妻の買ってくれた新しい折カバンにしまった後、彼はキチイとともに姿を現わした、優美な、新しい附属品のついた、新しい洗面所で手を洗いはじめた。レーヴィンは、われとわが考えに微笑すると同時に、その考えに感服しかねるといったように、首をふった。悔恨に似た感じが、彼を悩ますのであった。なにかしら恥ずかしい。遊惰《ゆうだ》に流れた、彼のいわゆるカピュア([#割り注]イタリーの古都遊惰享楽の町[#割り注終わり])式なものが、今の生活の中に含まれていた。
『こんなふうに暮すのはよくない』と彼は考えた。『もうこれでまもなく三月たってしまうが、おれはほとんどなんにもしやしない。今日はほとんどはじめて、真剣な気持で仕事にとりかかったのに、どうだ? はじめたと思うと、すぐやめてしまったじゃないか。いつもやっている仕事でさえ、ほとんどうっちゃらかしにしている。農場のほうだって、ほとんど見まわりをしやしない。時にはあれをうっちゃっておくのがかわいそうになったり、また時には、あれが退屈そうなのが目に入ったりする。おれは、結婚以前の生活はいいかげんなもので、勘定に入らないほどだけれども、結婚後には、それこそ本当の生活が始まると思っていた。ところが、やがてまる三月になるというのに、おれは遊惰な、無益な生活を送っている、こんなことは今まで、一度もありゃしなかった。いや、これじゃいけない、はじめなけりゃならん。もちろん、あれに罪はない。あれは何一つ非難するところがなかった。本当なら、おれ自身がもっとしっかりして、男性の独立を守らなくちゃならなかったのだ。こんなふうにしていたら、自分でも慣れてしまうし、あれにも遊惰を教えこむことになる……もちろん、あれが悪いのじゃない』と彼はひとりごちた。
 しかし、不満を感じている人にとって、自分の不満の原因について、だれか他人、ことに最も身近い人間を責めずにいるのは、困難なわざである。で、レーヴィンの心にも、こんなばくぜんとした考えが浮ぶのであった。別に彼女自身が悪いというわけではないが(彼女はいかなることについても、科《とが》のあろうはずがない)、ただ彼女の受けたあまりにも表面的で、軽佻《けいちょう》な教育が悪いのだ。(『あのチャールスキイのばかめ、おれにはちゃんとわかっているが、キチイはあの男を止めようと思ったのだけれども、それがうまくできなかったのだ』)
『そう、家に対する興味と(それはたしかには、自分の化粧と、|broderie anglaise《ブロドーリ・アングレース》のほかには、あれはまじめな興味がないのだ。自分の仕事にたいしても、家政にたいしても、百姓にたいしても、かなり上手な音楽にたいしても、読書にたいしても、なんの興味をもっていない。あれはなんにもしないで、すっかり満足しきっているのだ』
 レーヴィンは心の中でこんなふうに非難しながら、まだ次の事情を理解しなかったのである。彼女はやがて到来すべき活動の時期にたいして、準備をしているのであった。彼女は同時に良人の妻でもあれば、一家の主婦でもあり、また子供たちを孕《はら》んだり、乳を飲ませたり、教育したりしなければならない。彼女はそれを直覚で承知して、この恐ろしい労働にたいする準備をしていたので、愛の幸福に満ちたのんきな今のあいだに、楽しい気持で未来の巣をつくりながら、その幸福を享楽しているからといって、みずから責める気にならなかった、それを彼は理解しなかったのである。