[#5字下げ]二一[#「二一」は中見出し]
「僕は君を迎えに来たんだよ。今日は洗濯がばかに長かったじゃないか」とペトリーツキイがいった。「どうだい、もうすんだかい?」
「すんだよ」とヴロンスキイは、目だけで笑いながらそう答えて、口髭の先を用心ぶかくひねった。それは、自分の用事をきちんと整理したあとは、なんにもせよ思い切った荒い動作は、この整頓をぶちこわすおそれがある、とでもいうようであった。
「君はいつもあれをやったあとは、まるで湯から出てきたようだね」とペトリーツキイはいった。「僕はグリーツコ(彼らは連隊長のことをこう呼んでいた)のところからきたんだ。君の行くのを待ってるぜ」
ヴロンスキイは返事もせず、ほかのことを考えながら、友を見つめていた。
「ええ、あの音楽は連隊長のとこなんだね?」耳へはいってくるきき慣れた軍楽隊の響き、ポルカやワルツに聞き入りながら、彼はこうきいた。「なんのお祝だね?」
「セルプホフスコイがやってきたんだよ」
「あーあ!」とヴロンスキイはいった。「それは知らなかった」
彼の目の微笑は、ひときわ明るく輝きだした。
自分はあの恋で幸福なのだから、そのために名誉心など犠牲にしたのだと、いったんこころに決めた彼は――少なくとも、そういう役割を自分にふりあてたヴロンスキイは、もうセルプホフスコイに対する羨望も、彼が連隊へきながら、一番に彼を訪問しなかったいまいましさも、感じるわけにいかなかった。セルプホフスコイは親友であるから、したがって、彼がきたのはうれしい。
「ああ、そうか、大いに愉快だ」
連隊長のデーミンは、大きな地主邸を占領していた。一同は階下《した》の広々としたバルコンに集っていた。庭内で、まずヴロンスキイの目に入ったものは、ウォートカの小|樽《たる》のそばに立っている白い上衣の唱歌手たちと、将校連にとり巻かれた連隊長の頑丈な、愉快らしい姿であった。連隊長はバルコンの一段目へおりて、オッフェンバッハのカドリールを演奏している軍楽隊をどなり負かすほどの大声で、何やら命令しながら、ちょっとわきのほうに立っている兵士たちに手をふりまわしていた。ひとかたまりの兵士と、曹長と、幾人かの下士が、ヴロンスキイといっしょにバルコンへ近づいた。テーブルへひっ返した連隊長は、またもや盃を手に入れ入口階段のとこへ出て、乾杯を提唱した。「われわれのかつての同僚であり、勇敢な将軍であるセルプホフスコイ公爵の健康を祝す。ウラア!」
連隊長のうしろから、盃を持ってにこにこしながら、セルプホフスコイも出てきた。
「ポンダレンコ、おまえはいつみても若いな」自分のまん前に立っている、第二期勤務に残った、頬の赤い、いなせな曹長に向って、彼はこう話しかけた。
ヴロンスキイは三年間、セルプホフスコイに会わなかった。彼は頬|髯《ひげ》など生やして、老成ぶってはいたけれど、相変らず、すらりとして、人の目につくほどの美貌ではなかったが、顔や姿が優しく上品なのも、もとのとおりであった。ただ一つヴロンスキイの気のついた変化は、何かことに成功して、その成功が万人に認められていると確信している人に自然とあらわれる、あの静かな不断の輝きであった。ヴロンスキイはこの輝きを知っていたので、すぐさまそれを、セルプホフスコイの顔に認めたのである。
段をおりながら、セルプホフスコイはヴロンスキイに気がついた。喜びの微笑がセルプホフスコイの顔を照らした。彼は頭を上へしゃくり、ヴロンスキイを歓迎する意味で盃をさし上げたが、同時にこの身ぶりで、もう不動の姿勢をして、接吻の用意に口をつぼめている曹長の方へ、先に行かぬわけにいかぬという気持を現わした。
「ああ、やっと来た!」と連隊長はいった。「ヤーシュヴィンの話によると、君は例の陰気な気分になってるそうだな」
セルプホフスコイは、いなせな曹長の湿っぽいみずみずした唇に接吻すると、ハンカチで口を拭きながら、ヴロンスキイのそばへきた。
「いや、じつにうれしいよ!」とヴロンスキイに握手して、わきのほうへ連れていきながら、彼はこういった。
「あの男の世話を焼いてやってくれ!」と連隊長はヴロンスキイを指しながら、ヤーシュヴィンにそういって、兵士らの方へおりていった。
「どうして君は昨日、競馬にこなかったんだね? 僕はあすこで、君に会えると思っていたのに」とヴロンスキイは、セルプホフスコイを見まわしながらいった。
「行ったんだけど、遅かったんだ。すまん」とつけ加えて、彼は副官の方をふりむいた。「ひとつおれからだといって、一人あたま平等に分けてやってやれ」
といって、彼はせかせかと百ルーブリ札《さつ》を三枚紙入れからとりだし、顔を赤らめた。
「ヴロンスキイ! 何か食うか、それとも飲むか?」とヤーシュヴィンがたずねた。「おい、ここへ伯爵の食べるものを持ってこい! ところで、これを飲め」
連隊長の宴会は長いことつづいた。
みんなしこたま飲んだ。セルプホフスコイは胴上げされた。それから、連隊長も胴上げされた。そのあとで、連隊長とペトリーツキイが、唱歌手の前で踊り出した。やがて、もう少々弱ってきた連隊長は、庭の床几《しょうぎ》に腰をかけて、プロシャにロシヤのすぐれた点、特に騎兵の優越を、ヤーシュヴィン相手に証明しはじめ、宴席はいっとき静かになった。セルプホフスコイは家へ入って、手を洗いにトイレットへ入ると、そこでヴロンスキイを見つけた。ヴロンスキイは水を浴びているところであった。彼は上衣をぬいで、毛だらけの赤い頸筋を水栓の下へつき出して、両手で頸と頭を洗っているのであった。それがすむと、ヴロンスキイはセルプホフスコイのそばに腰をおろした。二人はそこの小さな長椅子に腰をかけると、そこで両人にとって、きわめて興味ある会話がはじまった。
「僕は君のことを、女房を通して始終きいていたが」とセルプホフスコイはいった。「君がよくあれを訪《たず》ねてくれるのを、うれしく思っていたよ」
「君の奥さんは嫂《あね》のヴァーリャと仲がいいのでね。あの二人は、ペテルブルグで僕が会って気持のいい唯一の女性だよ」とヴロンスキイは微笑しながらいった。彼が微笑したのは、会話の進んでいくテーマを発見して、それがうれしかったからである。
「唯一のだって?」とセルプホフスコイは、にやにやしながらきき返した。
「僕だって君のことを知っていたよ、ただし奥さんを通してばかりじゃないがね」きびしい顔の表情で、そのあてこすりをさしとめながら、ヴロンスキイはこういった。「僕は、君の成功をとてもうれしく思ったが、しかしちっとも驚きはしなかったよ。僕はむしろそれ以上を期待していたからね」
セルプホフスコイはにっこり笑った。彼は明らかに、自分に関する相手の意見が快く、またそれを隠す必要も感じないらしかった。
「ところが、あけすけに白状するがね、僕は反対に、その以下を期待していたんだよ。しかし、うれしい、大いにうれしい。僕は名誉心が強くってね、それが弱点なんだよ、あえて白状するがね」
「しかし、もし君が成功していなかったら、白状しなかったかもしれないね」とヴロンスキイはいった。
「そうは思わないね」とセルプホフスコイは、また微笑しながら答えた。「それがなければ生きる価値がないとはいわんが、それでも淋しいだろうな。もちろん、これは僕の考え違いかもしれないが、僕は自分の選んだ活動の分野では、ある程度の才能をもっているらしい。そして、僕の手にある権力は、たとえどんなものにもせよ、もし本当にあるとすれば、僕の知っている多くの人の手にあるよりも、ましだと思う」自分の成功を意識する輝かしい気持で、セルプホフスコイはこういった。「だから、その権力に近づけば近づくほど、僕は満足なのさ」
「それはあるいは、君のためにそうかもしれないが、すべての人にとってじゃないよ。僕もやはりそう思っていたが、今ではこういう生活をしていて、そのためばかりでは生きる価値がないと思うよ」とヴロンスキイはいった。
「それだ! それだ!」とセルプホフスコイは、笑いながらいった。「だから、僕はまず第一番に君のことで聞きこんだ話、例の拒絶一件からきりだしたんだよ……もちろん、僕はそれに賛成した。が、何事でもやり方というものがあるからね。で、僕の考えじゃ、行為そのものはよかったんだが、やり方がまちがっていたよ」
「すんだことはすんだことさ。君も知ってるとおり、僕は自分のしたことを決して否定しない人間なんだ。それだから、僕はいい気持なのさ」
「いい気持なのは一時だけのことだよ。しかし、君はそれで満足できるだろうか? 僕は君の兄さんだったら、こんなこといいはしないがね。あれは愛すべき子供で、ここのご主人公と同じなんだ」と彼は『ウラア』の叫びに耳を傾けながらいった。「あの人なら愉快に相違ないが、君はそんなことに満足できやしないよ」
「だから、僕も満足できるとはいわないさ」
「いや、そればかりじゃない。君のような人間は必要なんだよ」
「だれに」
「だれにだって? 社会にさ、ロシヤにさ。ロシヤには人材が必要なんだ、党が必要なんだ。さもないと、なにもかもめちゃめちゃになっていく、いや、めちゃめちゃになってしまう」
「といって、なんのことだね? ロシヤの共産党に対峙《たいじ》するベルチュニョフの党かね?」
「いや」と、そんなばかげたことを疑われたいまいましさに、セルプホフスコイは眉をひそめてこういった。「〔Tout c,a est une blague.〕(そんなことは無意味だよ)そんなことは、いつでもあったし、またこれからもあるだろうよ。共産党なんてものは、てんで存在してやしない。しかし、陰謀家にとってはいつだって、有害で危険な党を考え出す必要があるのさ。それは昔からのお定まりだからね。僕のいうのはそうじゃなくって、僕や君みたいに独立|不羈《ふき》な人間の権力をもった政党が必要なんだ」
「だが、どうして」とヴロンスキイは、権力を有するいくたりかの人の名前をあげた。「どうしてこういう連中が独立不羈でないんだね?」
「ほかでもない、彼らは財的に独立性をもっていないからだ、あるいは生れながらにして、持っていなかったからだ、ただそれだけさ。全く持っていなかったんだね、われわれが生れる時の環境だった太陽に近い世界、これがなかったんだ。彼らは金なり恩寵《おんちょう》なりで、買収することができたのさ。そこで、彼らは自分の地位を維持するために、主義方向を考え出す必要があったわけだ。そこで、彼らは自分で信じてもいない、世に害毒を流すような思想や主義をかつぎだすが、その思想も主義もただ官舎とか、そこばくの俸給にありつくだけのためなんだからね。やつらのカルタの手をのぞいてみると、Cela n'est pas plus fin que c,a.(そんなことは、それほど手の込んだものじゃないよ)あるいは、僕はやつらよりばかで、劣っているかもしれんが、しかし僕が彼らより劣っていなくちゃならんという理由も、別に見あたらないがね。ただ一つまちがいなく重大な長所は、僕にしても君にしても、彼らより買収しにくいってことだ。しかも、そういう人間が今もっとも必要なんだからね」
ヴロンスキイは注意ぶかく聞いていた。が、彼の興味をひいたのは、言葉の内容そのものではなく、セルプホフスコイの事に対する態度であった。ヴロンスキイの勤務上の興味といったら、ただ自分の中隊だけに限られているのに、彼はもう政界に自己の好悪《こうお》を有し、早くも権力者と闘うことを考えているではないか。それからまたヴロンスキイは、セルプホフスコイほど物事を深く考え理解する優れた能力をもち、自分などの住んでいる世界ではめったに見られない知力と、弁舌を備えていたら、どれほど有力な人物になれるかわからない、ということを了解した。彼は気恥ずかしいことではあったが、うらやまずにはいられなかった。
「しかし、なんといっても、僕はそれに必要な最も重大なものが一つ欠けている」と彼は答えた。「つまり、権力に対する渇望が不足してるんだよ。もとはあったが、もう過去のものとなってしまった」
「失敬な言い分だが、それは嘘だよ」とセルプホフスコイは、笑いながらいった。
「いや、本当だ、本当だ!………今のところはだ正直にいうとね」とヴロンスキイはつけ加えた。
「ああ、今のところ[#「今のところ」に傍点]本当。それなら話が別だ。しかし、その今は永久じゃないからね」
そうかもしれない、とヴロンスキイは答えた。
「君はそうかもしれない[#「そうかもしれない」に傍点]というが」あたかも相手の胸のうちを察したかのように、セルプホフスコイはつづけた。「僕は確かに[#「確かに」に傍点]というね。つまり、このために君に会いたかったのだ。君は当然しなければならぬように行動した。それは僕にもわかる。しかし、〔Perse've'rer〕(強情をはる)のはいけないよ。僕が君に頼むのはただCarte blanche(行動の自由)ということだ。僕は何も君にたいして保護者めいた態度をとるわけじゃない……もっとも、保護者めいた態度をとってならん、という法もないな。君だって何度も、僕を保護してくれたことがあるからね! 僕らの友情は、そういうことを超越してると信じるよ。そうだ」女のように優しい微笑を浮べながら、彼はいった。「僕にその Carte blanche をくれたまえ、連隊をやめたまえ、僕が目に立たないように、君をひっぱりこむから」
「しかし、全くのところ、僕はなんにもいらないんだよ」とヴロンスキイはいった。「ただすべてが、現在のままであればいいのだ」
セルプホフスコイは立ちあがって、彼にひたと向きあった。
「すべてが現在のままであればいい、と君はいうんだね。それがどういう意味か、僕にはわかってるよ。しかしまあ聞いてくれ。僕らは同年だが、女を知った数からいえば、おそらく君のほうが上だろう」セルプホフスコイの微笑と身ぶりは、ヴロンスキイにむかって、何も恐れるには及ばない、そろっと優しく痛いところへさわるから、といっているようであった。「しかし、僕は女房をもっているから、信用してもらいたいんだ。だれかも書いているように、自分の愛している妻を一人完全に識ったら、数千人の女を知ったよりも、よりよくすべての女を認識するようになるからね」
「いま行くよ!」部屋の中へ首をつっこんで、連隊長のとこへ行こうと誘った将校に向って、ヴロンスキイはこう叫んだ。
今ヴロンスキイはしまいまで耳を傾けて、セルプホフスコイが何をいうか聞きたくなったのである。
「そこで、僕の意見はこうだ。女というやつは男の活動に対して、最も大きなつまずきの石だ。女を愛しながら何かしようというのは、困難なわざだよ。そのためには、つまり障碍なしに愛しうる唯一の便利な方法は――結婚だ。ええと、どうしたら僕の考えてることを、うまく君にいえるかなあ」と比喩《ひゆ》の好きなセルプホフスコイはいった。「待ってくれ、待ってくれ! そうだ、fardeau(重荷)を持ちながら、両手で何かすることができるのは、ただその fardeau が背中に縛りつけられた時だけだ。これがつまり結婚なのさ。僕も結婚してそれを感じたよ。急に両手が自由になってね。ところで、結婚しないでこの重荷をひっぱって行けば、両手はふさがってしまって、何をすることもできやしない。マザンコフやクルーポフを見たまえ。あの連中は女のために、栄達をふいにしてしまったじゃないか」
「その女がさ!」いま名をあげられた二人の関係していたフランス女や、女優を思い起しながら、ヴロンスキイはこういった。
「いや、かえっていけない、女の社会上の地位がしっかりしていればいるほど、かえっていけないんだよ。それはもう重荷を両手にかかえて行くどころじゃなくて、他人のものをもぎ取ろうとするのと、同じことだからね」
「君は一度も恋したことがないんだよ」とヴロンスキイはじっと目の前を見つめて、アンナのことを考えながら、小さな声でいった。
「そうかもしれない。しかし、君、僕のいったことを思い出してくれ。それから、もう一つ、――女ってみんな男よりも物質的なものでね、われわれは愛から何か偉大なものを創り出そうとするが、女は常に 〔terre-a`-terre〕(卑俗)だよ」
「すぐ、今すぐ!」と彼は入ってきた従僕にいった。しかし従僕は、彼が考えたように、二人を呼びにきたのでなく、ヴロンスキイに手紙を持ってきたのである。
「トヴェルスカヤ公爵夫人の使のものが、あなたにこれを持ってまいりました」
ヴロンスキイは手紙の封を切って、かっと赤くなった。
「僕は頭痛がしてきた、家へ帰るよ」と彼はセルプホフスコイにいった。
「そうか、じゃ失敬。君 Carte blanche をくれるね?」
「それはまたあとで話そう。ペテルブルグで君をさがしだすから」
[#5字下げ]二二[#「二二」は中見出し]
もう五時をまわっていたので、うまく時間にまにあうように、またそれと同時に、みんなに知られている自分の馬車を避ける必要があったために、ヴロンスキイはヤーシュヴィンの雇っていた辻馬車に乗って、できるだけ急ぐように命じた。古い四人乗りの辻馬車は、ゆったりしていた。彼は片すみに腰をおろして、前の席へ足をのばしながら、もの思いに沈んだ。
仕事の目鼻がついて、せいせいしたという漠然とした意識、彼を必要な人物と認めてくれたセルプホフスコイの友誼と、愛想のいい言葉を、思い出すともなく思い出す気持、それから何よりも主なのはあいびきの期待――これらのすべてのものが、生の歓びという一つの印象に溶けあうのであった。この気持があまりに強烈だったので、彼は思わずにこにこと、微笑をもらしたほどである。彼は足を下へおろして、膝の上で互に組みあわせ、片方の足を手でおさえて、きのう落馬したとき打ち身になった、弾力性のある腓《こむら》にさわってみた。それから、うしろへ身を投げ出すようにして、幾度か胸いっぱいに吐息をついた。
『すてきだ、じつにすてきだ!』と彼はひとりごちた。自分の肉体を意識する歓ばしい気持を経験したのは、これまでも珍しいことではなかったが、しかし今ほどわが身を、わが肉体をいとしく思ったことは、これまでかつてなかったのである。たくましい足に軽い痛みを覚えるのも快かったし、呼吸するたびに胸の筋肉が動く感触も気持がよかった。アンナにはあれほど絶望的な感じをもって働きかけた、寒いほど清澄な八月の日も、彼には刺激に富んだ生きいきしたものに感ぜられ、水のためにほてっている顔や頸筋を気持よく冷やしてくれた。彼の髯《ひげ》から発散する髪香水の匂いは、この新鮮な空気の中で、とりわけ快適に感じられた。馬車の窓外に見えるすべてのもの、この冷えびえとした清澄な空気に包まれ、弱々しい日没の光を受けたすべてのものが、彼自身と同じようにさわやかで、楽しげに力強く思われた。傾きかかった太陽の光線に輝いている家々の屋根や、塀や建物の角のくっきりした輪郭、まれに行き会う行人の馬車の姿、木や草のじっと動かぬ緑、規則正しく畦を切ってある馬鈴薯畑、家や、木や、藪や、馬鈴薯の畦が投じている斜めな影――なにもかもすべてのものが、たったいま仕上って漆《うるし》を塗られたばかりの、きれいな風景画のように美しかった。
「急いだ、急いだ!」彼は窓から身を乗り出して、馭者にこういった。そして、ポケットから三ルーブリをとりだして、ふり返った馭者の手に握らせた。馭者の手が洋燈《ライト》のそばで何か探ったと思うと、鞭のひゅうと鳴る音が聞えて、馬車は坦々《たんたん》たる国道を、まっしぐらに走り出した。
『この幸福さえあれば、なんにも、何ひとつおれはいらない』窓と窓の間にあるベルのボタンを見ながら、アンナの姿を最後に見た時のままに思い描きながら、彼は考えた。『時がたてばたつほど、おれはだんだんあの女がかわいくなってくる。おや、あれはもうヴレーデの国有別荘の庭だ。あれはどの辺にいるかしらん? どこだろう? あっ! なんだってあれはこんなところを選んだのだろう。そして、またなんだってベッチイの手紙などに書きこんだのだろう?』と、彼は今やっとはじめて考えついた。けれど、もう考えている暇はなかった。彼は並木路まで行かないうちに馭者をとめて、ドアを開き、まだ動いているうちに馬車から飛びおりて、家の方へ通ずる並木路へ入っていった。並木路にはだれもいなかった。ふと左手の方へ目を向けると、彼女の姿が瞳《ひとみ》に映った。彼女の顔はヴェールに包まれていたが、彼はすぐ歓喜にみちたまなざしで、彼女にしか見られない歩きぶりや、肩のなだらかな線や、頭のすえ方などを見てとった。と、たちまち何か電流のようなものが、彼の全身を流れ走った。彼はまたもや新しい力をもって、弾力にみちた足の運動から呼吸するたびに動く肺の収縮にいたるまで、自分の全身をはっきりと感じた。何かに唇をくすぐられるような気がしてきた。
男といっしょになると、アンナはかたくその手を握った。
「あなた、わたしが呼び出しなんかかけたのでお怒りになりはしなかった? わたしどうしてもお目にかからなくちゃならなかったものですから」と彼女はいった。そのとき彼は、彼女のヴェールの下からまじめな、いかつい唇の線を認めると、たちどころに気分が一変してしまった。
「僕が、怒るって! だが、あなたはどうしてやってきたんです? そして、これからどこへ?」
「そんなこと、どうだっていいわ」男の手の上へ自分の手を重ねながら、彼女はこういった。「いきましょう、わたし少しお話があるんですの」
なにか事が起った、このあいびきは喜ばしいものではない、と彼は悟った。彼女の前に出ると、彼は自分の意志というものをもたないのであった。女の心痛の原因はわからないながらに、もういつとなくそれと同じ不安が、自分にも伝わっているのを感じた。
「どうしたんです、え、どうしたんです?」肘《ひじ》で女の腕をしめつけて、顔色で腹の中を読もうと努めながら、彼はこうたずねた。
彼女は呼吸を整えるように、無言のまま幾足か運んだが、ふいにぴたりと立ち止った。
「わたし昨日お話しなかったけれど」せかせかと重々しく息をつきながら、彼女はいいだした。「アレクセイ・アレクサンドロヴィッチといっしょに家へ帰る道で、わたしなにもかもいってしまったの……あの、わたしはもうあの人の妻となっていられないって、そういったんですの……そして、すっかりありのままをいってしまったんですの」
彼はわれ知らず全身を傾けながら、その姿勢で女の立場の苦しさを軽くしてやろうとでも願うように、彼女の言葉に聞き入っていた。けれど、彼女がこういってしまうが早いか、彼はふいにきっと身を反らした。その顔は傲然とした、きびしい表情をおびてきた。
「そう、そう、そのほうがいいんです。百倍も千倍もいいんです! だが、それはどんなにつらかったでしょうね、察しますよ」と彼はいった。けれど、彼女はその言葉を聞いていなかった。彼女は顔の表情で、男の心を読んでいた。とはいえ、その顔の表情が、まっさきに彼の頭に浮んだ想念――もう決闘が避け難いという想念に関連していたのを、彼女は知る由もなかった。彼女は一度も、決闘などという考えを頭に浮べたことはなかった。で、せつなに浮んで消えた彼の顔のいかめしい表情を、彼女は別な意味にとったのである。
良人の手紙を受け取った時、彼女は早くも胸の深い底のほうで、なにもかももともとどおりでおさまってしまうだろう、自分は現在の地位を無視して、わが子を棄て、情人と同棲するだけの勇気がないのを、ちゃんと知っていたのである。トヴェルスカヤ公爵夫人のもとですごした朝のひとときは、なおさら彼女のこの気持を固めたのであった。が、それにしても、このあいびきは彼女にとって、なみなみならず重大であった。彼女は、このあいびきが自分たちの状態を変え、自分を救ってくれるものと、頼みをかけていたのである。もし彼がこの知らせを聞いて、一刻の猶予もなく、断乎とした情熱的な調子で、なにもかも棄ててしまって、おれのところへ走ってこいといったならば、彼女もわが子を棄てて、彼とともに家を去ったに違いない。ところが、この知らせは、彼女の期待したような印象を彼に与えなかった。彼はただ、何かに侮辱を感じたような色を見せたばかりである。
「わたしはちっともつらいことなんかありませんでしたわ。それはひとりでにそうなったんですもの」と彼女はいらだたしげにいった。「ところが、これなんですの……」彼女は手袋の中から、良人の手紙をひき出した。
「僕わかりますよ、わかりますよ」手紙を受けとりはしたが、それを読もうともしないで、ひたすら彼女をおちつかせようと努めながら、彼はこうさえぎった。「僕の望み、僕の頼みはただ一つだけだったんです、つまりこういう状態を叩きこわして、自分の生涯をあなたの幸福に捧げることです」
「なんだってそんなことをおっしゃるの?」と彼女はいった。「いったいわたしがそれを疑うなんて、お思いになって? もし疑っているのだったら……」
「あすこへくるのはだれだろう?」むこうからやってくる二人の婦人を指さしながら、ヴロンスキイはだしぬけにこういった。「ひょっとすると、僕らを知ってる人かもしれない!」と彼はアンナをひっぱって、大急ぎでわきの細径《ほそみち》へそれていった。
「ああ、わたしもうどうだってかまわないわ!」と彼女はいった。その唇はわなわなとふるえだした。ヴロンスキイは、彼女の目がヴェールの陰からふしぎな憎悪をこめて、自分の方を見ているような気がした。「だからそんなことが問題じゃないっていうのですわ。わたしそんなことを疑うはずがありませんもの。ですけどね、あの人はこんなことを書いてるんですの。読んでみてちょうだい」彼女はまた歩みを止めた。
またしても、最初彼女と良人との決裂を聞かされた時と同じように、ヴロンスキイは手紙を読みながら、あの自然な印象にひかれていった。それは辱《はずか》しめられた良人に対する関係が、彼の心に呼びさます気持であった。今や彼はその良人の手紙を手にしながら、われともなしに、おそらく今日明日にも自分のところへ届けられる挑戦状と、決闘そのものを心に描いた。その際、彼は今もその顔に浮べているような冷たい傲然たる表情で、空中に向けてピストルを放ち、辱しめられたる良人の発射のもとに立つつもりであった。が、それと同時に、つい先ほどセルプホフスコイのいったこと、それから自分でも今朝考えた、自分で自分を縛るようなことをしないほうがいいという思案が、ちらと彼の頭を掠《かす》めたが、この考えを女に打ち明けるわけにいかないのは、彼も自分で承知していた。
手紙を読み終ってから、彼は目を上げて女を見た。が、そのまなざしには、きっぱりしたところがなかった。彼女はたちまち、男がもう前にこのことを自分一人で考えたに相違ない、と見てとった。もう彼が何をいおうとも、腹の中で考えていることとはまるで違っているのだ、それが彼女にはわかっていた。彼女は最後の希望が裏切られたのを悟った。それは期待していたこととは違っている。
「まあ、見てちょうだい、本当になんて人でしょう」と彼女はふるえる声でいいだした。「この人ったら……」
「ちょっと待って、僕はむしろこれを喜んでいるんですよ」とヴロンスキイはさえぎった。「後生だから、僕にしまいまでいわせて」どうか自分の言葉を説明する余裕を与えてくれと、哀願するような目つきをしながら、彼はこうつけ加えた。「僕が喜んでいるというのは、これが不可能なことだからです。あの人の提言しているように、現状のままでいるなんてことは、とうてい不可能だからです」
「なぜ不可能なんですの?」とアンナは涙をこらえながらいったが、見うけたところ、もう彼のいうことになんの意義も認めまいとするらしかった。彼女は自分の運命が決しられたのを感じた。
ヴロンスキイは、自分としては決闘を不可能と考えるが、そのあとで現状をつづけることは不可能だといおうと思ったのであるが、口に出したのはまるで別のことであった。
「それは不可能です。もうこうなったら、あなたもあの人を棄てるでしょうね、僕それを期待しますよ」彼はどぎまぎして、赤くなった。「僕たちの生活をよく考えて、うまく設計することを、僕に許してくれるでしょうね。明日……」と彼はいいかけた。
しかし、彼女はしまいまでいわせなかった。
「じゃ、子供は?」と彼女は叫んだ。「ごらんなさい、この人はこんなことを書いているでしょう、あれを棄てていかなければならないって。でも、わたしそんなことはできませんし、またしようとも思いません」
「しかし、後生だからよく考えて。いったいどっちがいいでしょう、子供を棄てていくか、この屈辱的な状態をつづけるか?」
「だれにとって屈辱的な状態なんですの?」
「みんなにとって、とりわけあなたにとって」
「あなた屈辱的っておっしゃるのね……どうかそんなこといわないでちょうだい。そんな言葉はわたしにとって、なんの意味もないのですから」と、彼女は声をふるわしていった。今は男に嘘をいってもらいたくなかったのである。彼女に残されているのは、ただ男の愛情のみであり、彼女はその男を愛したかったのである。「ね、わかってちょうだい、わたしにとっては、あなたを好きになったあの日から、なにもかもがぐらりと変ってしまったんですから。わたしにとってたった一つのもの、それこそたった一つのもの、それはあなたの愛なんですの。もしその愛がわたしのものなら、わたしは自分がとても高いところに、しっかりと立っているような気持だから、わたしにとって屈辱的なものなんか、何一つありえないんですの。わたしは自分の状態を誇りとしていますわ、なぜって……わたしの誇りとしているものは……誇りとして……」何を誇りとしているか、言い切れなかった。羞恥と絶望の涙が、その声を消してしまったのである。彼女は立ちどまって、慟哭《どうこく》しはじめた。
ヴロンスキイもまた、何かが喉もとへこみ上げて、鼻の中がちくちくするような気がした――彼は生れてはじめて、今にも泣き出しそうになっているのを感じた。はたして何が彼を感動さしたのか、自分でもはっきりいうことはできなかったに相違ない。彼は女がかわいそうになってきたが、しかも力をかしてやることができないのを感じた。と同時に、自分がその不幸の原因なのだ、自分は何か悪いことをしたのだ、ということもわかっていた。
「いったい離婚することはできないのかしら?」と彼は弱々しい声でいった。彼女はそれには答えず、頭を横にふった。「子供をひき取って、あの人のとこを出るわけにいかないのかしら?」
「そうね。でも、そういうことはみんな、あの人次第なんですから。さ、これからわたしはあの人のとこへ行かなくちゃなりません」と彼女はそっけない調子でいった。なにもかももとどおりだろうという彼女の予感は、適中したのである。
「火曜日には、僕ペテルブルグへ行くから、そしたらなにもかも解決がつきますよ」
「ええ」と彼女はいった。「でも、その話はもうしないことにしましょう」
アンナの馬車が近づいた。彼女は帰してやる時に、ヴレーデの庭の格子のところへ迎えにこいと、命じておいたのである。アンナはヴロンスキイに別れを告げて、家路に向った。
[#5字下げ]二三[#「二三」は中見出し]
月曜日には、六月二日の委員会の定例会議があった。カレーニンは会議室へ入ると、いつものごとく同輩や議長にあいさつをして、自席におちつき、目の前に用意してある書類の上に手をのせた。その書類の中には、彼に必要な参考材料や、これからしようと思っている提案のざっとした要綱などがまじっていた。もっとも、彼には参考材料などに用がなかった。彼はなにもかも覚えていたので、これからいおうとしていることを、頭の中で復習してみる必要さえ認めなかった。やがて自分の番がきて、平然たる様子を示そうと、空しい努力をしている敵手の顔を目の前に見たら、彼の演説はいま準備などするよりむしろ手ぎわよく、自然に流れ出すのを、彼は自分で承知しているのであった。彼は、自分の演説の内容が実に大きなものであって、その一語一語が意味をもつようになるだろうと感じた。しかも、定例の報告を聞いている間は、彼の様子はきわめて無邪気な、さも平和らしい顔つきをしていた。長い指先で、前に置いてある白い紙の両端を、優しく撫でている筋の浮いた白い手や、疲れたような表情で横にかしげた首を見ていると、やがていま彼の口から、恐ろしい嵐を巻き起して、議員たちを怒号《どごう》させ、相互に妨害をさせ、議長に秩序の維持を宣告させるような弁舌がほとばしり出ようとは、だれしも想像することさえできなかった。報告が終った時、カレーニンは持ち前の静かな声で、異民族厚生問題について若干意見を具陳したい、と申し出た。一同の注意は彼の方へ向けられた。カレーニンは咳《せき》ばらいして、いつも演説をする時のきまりで、わざと自分の敵手を見ず、自分の前に坐っている男――委員会でもかつて自分の意見など発表したことのない、おとなしい小柄な老人を目標に選み出して、自説を述べはじめた。いよいよ問題が根本的、有機的な法規のことになると、敵手はおどりあがって抗議をはじめた。同じく委員の一人であるストレーモフも、同様に急所を衝《つ》かれて、弁明をはじめた。一口にいえば、議場は喧々囂々《けんけんごうごう》となったのである。しかし、カレーニンは凱歌を奏した。彼の提案は採択《さいたく》せられ、新しい三つの委員会が組織されることになったのである。翌日、ペテルブルグの官界政治界では、この委員会の噂でもちきりであった。カレーニンの成功は、彼自身の予期を越えるほどであった。
あくる火曜日、カレーニンは朝目をさますと、昨日の勝利を快く思い起した。そして、彼の事務主任が、長官のごきげんをとるために、委員会のことで自分の耳に入った噂を伝えた時、平気を装おうと思いながらも、にやりと笑わずにいられなかった。
事務主任相手の仕事にまぎれて、カレーニンは今日が火曜で、アンナに引越しを命じておいた日であることを、すっかり失念していた。そういうわけで、従僕が入ってきて妻の到着を告げた時、彼は不快な驚きを感じた。
アンナは早朝ペテルブルグへ着いた。彼女の打った電報によって、迎えの馬車がさし廻されたのである。したがってカレーニンは、妻の到着を知ることができたはずなのである。ところが、彼女の到着した時、彼は迎えに出なかった。召使は彼女に向って、旦那さまはまだ書斎からお出にならないで、事務主任とお仕事中ですといった。彼女は、自分の着いたことを良人に知らせるようにと命じ、自分の居間へ入って、荷物を整理しながら、良人がやってくるのを待っていた。が、一時間すぎても、こなかった。やがて、何かの指図にかこつけて食堂へ出、良人がここへ出てくるかと待ち受けながら、わざと大きな声で話をした。しかし、カレーニンはここへも出てこなかった。そのくせ、彼が事務主任を送って、書斎の戸口まで出てきたのは、ちゃんと彼女の耳へ入ったのである。彼女は良人がいつものしきたりで、まもなく出勤することを知っていたので、それまでに会って、自分たちの関係をはっきりさせたかったのである。
彼女は広間をひとまわりしたのち、思い切って良人のほうへ行った。彼女が書斎へ入った時、彼は明らかに出勤のしたくらしく、制服を着て、小さいテーブルに向って腰をかけ、両手を肘つきして、どんよりと目の前を見つめていた。アンナは、自分のことを考えているのを悟った。
妻の姿を見ると、彼は立ちあがろうとしたが、すぐに思いなおした。と、その顔は、アンナがついぞ今まで見たことがないほど、かっと赤くなった。やがて彼はすばやく立ちあがり、妻の目より高いところ、額か髷《まげ》の辺を見ながら進んできた。そばへよると、手をとって、坐るようにといった。
「あなたが帰ってくれて、私は非常にうれしい」妻のそばに腰をおろしながら、彼はこういった。見うけたところ、まだ何かいおうとして、口ごもったらしい。幾度も口を切ろうとしながら、そのたびにやめてしまうのであった。彼女はこの対面に心構えしながら、良人を軽蔑し非難するように、自己訓練をしていたにもかかわらず、彼女はなんといっていいかわからず、気の毒にさえなってきた。こうして、長く沈黙がつづいた。「セリョージャは元気ですか?」と彼はいったが、返事を待たずに、つけ足した。「今日は食事を家でしないから。私はこれからすぐ出かけなくちゃならない」
「わたしは、モスクワへ行ってしまうつもりでございました」と彼女はいった。
「いや、あなたが帰ってきたのはいいことでした、非常にいいことでした」と彼はいって、また口をつぐんだ。
相手が自分で話の皮切りをする力がないのをみて、彼女は自分のほうから切り出した。
「アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ」といいながら、彼女は良人を見あげたが、自分の髷《まげ》にひたとそそがれているその視線をもちこたえて、眸《ひとみ》を伏せなかった。「わたしは罪の女です、わたしは悪い女です。けれども、わたしがああなったこと、あの時あなたに申しあげたことは、わたしとして何一つ変改することができません、それを申しあげに帰ってきたのでございます」
「私はそんなことを聞きゃしなかった」突然、断乎たる態度で、憎悪をこめて妻の目をひたと見つめながら、彼はこういった。「おおかたそんなことだろうと思っていた」憤怒の支配下におかれたために、彼はふたたび完全に自分の全能力を駆使《くし》することができるようになった。「しかし、あの時あなたにいったとおり、また手紙にも書いたとおり」と彼は鋭い細い声でいいだした。「今も繰り返していいますが、私はそういうことを知る義務はないのです。私はそんなことを無視します。ああいう愉快な[#「愉快な」に傍点]報知を、あんなに急いで良人に伝えるなんて、世間の奥さんたちは、あなたのように善良ではありませんよ」彼は『愉快な』という言葉に、ことさら力を入れた。「私は社交界にこのことが知れ渡って、私の名声に泥が塗られるまでは、このことを無視します。そういうわけで、私はただこれだけのことを、前もって申し渡しておきます。私たちの関係は今までどおりでなければならない。ただあなたが自分で自分の顔に泥を塗る[#「自分で自分の顔に泥を塗る」に傍点]ようなことをした場合には、私は自分の名誉を守るために、しかるべき方法を講じます」
「でも、わたしたちの関係は、今までどおりというわけにはまいりませんわ」とアンナはおびえたように良人を見ながら、臆病らしい声でいった。
彼女はふたたび、あのおちつきはらった身ぶりを見、あの子供のようにかん高い皮肉な声を聞いた時、嫌悪の念が先ほどの憐愍の情をもみつぶしてしまった。彼女はただもう恐ろしさばかり先に立ったが、それでも是が非でも、自分の立場をはっきりさせなければならなかった。
「わたしはあなたの妻であることはできません、なにしろわたしは……」と彼女はいいかけた。
彼は意地の悪い、冷やかな笑い声を立てた。
「きっとあなたの選んだ種類の生活が、あなたの観念に反映したものでしょう。私はそのどちらを尊敬するにしても、軽侮するにしても、ただ……私はあなたの過去を尊敬し、現在を軽侮しているから……あなたが私の言葉に加えたような解釈は、私の気持におよそ遠いものです」
アンナはため息をついて、頭《こうべ》をたれた。
「それにしても、合点がいかない、あなたのように独立心に富んでいる婦人が」と彼はしだいに熱くなりながら、言葉をつづけた。「自分の不貞を良人にはばかりなく声明して、見うけたところ、それを非難さるべきことと思ってもいないらしいのに、どうして良人に対する義務の履行をはばかるのですかね?」
「アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ! いったいわたしにどうしろとおっしゃるのです?」
「私の要求するのは、ここであの男を目にふれないようにすること、それからあなたが世間[#「世間」に傍点]からも、召使[#「召使」に傍点]からも、とやかくいわれないように身を処すること……そして、あなたがあの男に会わないこと。これならたいした要求じゃないと思いますがね。そのかわり、あなたは妻としての義務を果さないで、貞潔な妻の権利を享受することができるのです。私がいいたいと思ったのは、これだけです。もう私は出かけなければならん。食事は家でしないから」彼は立ちあがって、戸口の方へ歩き出した。
アンナも同じく立ちあがった。彼は無言に会釈して、彼女を先に通した。
[#5字下げ]二四[#「二四」は中見出し]
乾草の禾堆《にお》の上ですごした一夜は、レーヴィンにとって無意味にはすまなかった。彼は自分の経営している農事さえもいやになって、まったく興味のないものとなってしまった。すばらしい収穫があがったにもかかわらず、今年ほどたくさんの失敗を演じ、百姓との関係もひどいにらみあいの形になったことはなかった、少なくとも、彼にはそう思われた。そして、その失敗や敵視の原因が、今になってみると、彼にはわかりすぎるほどわかってきた。彼が労働そのものの中に味わった魅力、その結果として生じた百姓たちとの接近、彼が百姓たちやその生活に対して感じた羨望、この生活の中へ入っていきたいという願望(これはあの夜、彼にとってはもはや空想でなく、一つの意向となって、彼はその実行の細目を考慮したくらいである)――こうしたいろいろのことが、彼の経営している農事にたいする見方を一変して、彼はその中に、前のような興味を発見することもできなければ、いっさいの事業の基礎である労働者との不愉快な関係も、見ないですますわけにいかなくなった。パーヴァと同じように改良された牝牛の群、よく肥料を施して犂《すき》で耕された土地、生垣をめぐらした坦々《たんたん》たる九ヵ所の野、深く耕されて肥料も十分な九十町歩の畑地、播種機《はんしゅき》、等々――これらすべてのものは、ただ彼自身か、あるいは彼に共鳴する友人たちと協同でやるのだったら、りっぱなものであるに相違ない。ところが、今や彼は明瞭につぎのことを悟った(農業のおもなる要素は労働者でなければならぬ、という趣旨で筆を進めている、彼の農村経営に関する著述の仕事は、彼がこの見方をするのにあずかって力があったのである)。彼が経営している農業は、単に彼と労働者の間に執念《しゅうね》くつづけられる残忍な闘争にほかならぬ。この闘争では、一方の側、すなわち彼の側は、優良なものとされている模範に従って、いっさいのものを改良しようと、不断の緊張した努力をつづけているが、一方の側には、ただ事物の自然な順序があるばかりである。それを、彼はいま明瞭に悟ったのである。しかも、この闘争において、一方は力を最大限に緊張させ、他の一方はなんの努力もはらわず、なんの意図さえもたずに仕事をして、その結果、得られるものは、仕事がどちらの思うようにもならず、りっぱな農具や、すばらしい家畜や、土地を損《そこな》うばかりであった。彼はそれに気がついた。しかし、それよりさらに重大なのは、この事業に向けられた精力が、全然無意味に消耗《しょうもう》されるばかりでなく、この農場経営の意義が裸にむきだされた今となっては、精力の目的さえもきわめて無価値なものであることを、彼は感じないではいられなかった。煎《せん》じつめたところ、この闘争はそもそもどういうところにあるのか、彼は自分の収入については、一コペイカ二コペイカを争った(また争わずにはいられなかった。なぜなら、彼が少しでも精力をゆるめると、たちまち百姓や雇い男に払う金がなくなるのであった)。ところが、百姓や雇い男はおちついて気持よく、つまり、今までし慣れたように働くことばかりを、主張するのであった。彼の利害関係からいえば、一人一人の労働者ができるだけ多く働いて、しかも前後を忘れるようなことがなく、廻転簸《かいてんひ》や、草掻車や、打穀機《だこくき》をこわさないように気をつけ、自分の仕事をよく考えてすることが必要であった。が、一方、百姓のほうはできるだけ愉快に、休み休み働きたい――何よりも第一に、のんきにすべてを忘れて、頭になんの考えもなく働きたいのである。今年の夏、レーヴィンは一歩ごとにそれを目撃したのである。彼はうまごやしを乾草にするのに、雑草やいらくさがまじっていて、種子を取るには不向きな草場へ、草刈りをさし向けたところ、種子用にとっておいた優秀な草場を、どしどし刈ってしまって、支配人がそういうふうにいいつけたのだなどと弁解し、なに、いい乾草ができますよ、と気休めをいう始末であった。しかし彼は、この草場が刈るのに楽だから、それでこういうことになったのを知っていた。またあるときは、乾した草をひっくり返すために、新しい機械を持って行かせたところ、仕事にかかるか、かからないかに、こわしてしまった。というのは、頭の上で翼をくるくるまわしている機械の運転台にぼんやり坐っているのが、その百姓にとって退屈だったからである。しかも、レーヴィンに向って、「ご心配《しんぺえ》にゃ及びましねえ、草は女房どもがちゃっと返しちめえますだに」新式の犂《すき》は役に立たないことにされてしまった。上げてある刃《は》をおろすということが、雇い男には考えもつかなかったので、無理にひきまわして、馬をへとへとにさせたうえ、畑も台なしにしたからである。しかも、レーヴィンには、心配しないでもいいというのである。麦畑は馬に荒らされた。それは、ほかでもない、雇い男がだれもかれも、馬の夜番に出ることを嫌って、固くさしとめられているにもかかわらず、交代で夜番をはじめたところ、一日じゅう働いたヴァンカが、寝こんでしまったのである。ヴァンカは自分の失策を後悔して、いうことには、「なんともはあご随意に」である。また良種の子牛が三頭も、飼い方が悪いために死んでしまった。水槽の設けもない、三番生えのうまごやしの草場へ放してやったからである。しかも百姓たちは、子牛がうまごやしで腹をふくらし過ぎたのだとは、いつかな[#「いつかな」はママ]信じようとしないで、隣村の地主のとこでも三日のうちに、百十二匹も落ちてしまったと、そんなことを気休めに話すのであった。それらはすべて、だれかがレーヴィンなりその農場なりのため、悪しかれと思ったからではない――それどころか、百姓たちは彼を愛して(彼はそれを知っていた)、さっぱりした旦那と見なしていた。これは最大級の賛辞なのである――ただみんなが楽しく、のんきに働きたかったからであり、かつレーヴィンの利害が彼らに無縁で、理解できなかったのみならず、彼ら自身の正当な利害と、宿命的に相反していたからにすぎない、もうとくからレーヴィンは、自分の仕事に不満を感じていた。彼は、自分の乗っている小舟が浸水しているのを見ながら、その浸水口を見つけもしなければ、さがそうともしなかった。あるいは、わざと自分で自分を欺いていたのかもしれない(もしこの事業に幻滅しようものなら、彼には何一つ残るものがなかったからである)。しかし、今となっては、最早自分を欺くわけにいかなかった。彼の経営しているこの農場は、単に興味がなくなったばかりでなく、嫌悪の念さえ感じさせるようになったので、もうそれに携わることができないほどであった。
その上にかてて加えて、三十露里はなれたところには、彼が見たいと思いながら見るわけにいかぬ、キチイ・シチェルバーツカヤがいた。ダーリヤ・アレクサンドロヴナ・オブロンスカヤは、彼が訪ねて行った時、またくるようにと招待した。つまり、妹に対する求婚を復活させるために、こいというのである。キチイは、彼女の匂わしたところによると、今度は彼の申しこみを受けるらしい。当のレーヴィンも、キチイ・シチェルバーツカヤを見た時、依然として彼女を恋することをやめていないのを悟った。しかし、彼女がいるのを承知のうえで、オブロンスキイ家へ行くことはできなかった。彼が結婚を申しこんで、彼女がそれを拒絶したということは、二人の間に越え難い障壁を築いてしまったのである。
『おれはあのひとに向って、あのひとが自分の望んでいた男の妻になれないというだけの理由で、私の妻になって下さいと頼むわけにはいかない』と彼はひとりごちた。こう考えると、彼はキチイに対して冷やかな、敵意をおびた気持になるのであった。『おれは非難の気持なしには、あのひとと話をすることができない、毒念なしには、あのひとを見ることができない。それに、あのひともよけいにおれを憎むようになるだろう。それは当然な話だが、そのうえに、ダーリヤ・アレクサンドロヴナがあんな話をした今となって、どうしてのこのこ出かけて行かれるだろう? あのひとが話したことを、知らないようなふりをすることが、いったいおれにできるだろうか? しかも、おれはあのひとを赦《ゆる》し、憐愍《れんびん》をたれるという、寛大な心をもって出かけて行くのだ。おれはあのひとの前に、罪を赦して愛を恵んでやる男の役割で現われるのだ!………なんだってダーリヤ・アレクサンドロヴナは、おれにあんなことをいったんだろう? もしおれが偶然あのひとを見かけたのだったら、その時はなにもかも自然に運んだかもしれないが、今となっては不可能だ、不可能だ!』
ドリイは彼に手紙をよこして、キチイのために女鞍を貸してほしい、と頼んできた。『お宅に鞍があると伺ったものですから』と彼女は書いていた。「あなたご自分でお持ち下さるものと、お待ち申しあげております』
これはもう彼としてがまんがならなかった。どうしてあの賢い、繊細な神経をもった婦人に、かくまで妹を貶《おと》しめることができるのだろう! 彼は手紙を十ぺんも書きなおしたが、みんな破り棄ててしまって、いっさい返事なしに鞍だけを送ってやった。参上しますと書くこともできない。なぜなら、彼は行くわけにいかなかったからである。さればといって、何かさしさわりがあるとか、旅行するからといって、まいりかねますと書くのは、もっとまずかった。彼は返事なしに鞍を届けたが、その翌日、何か恥ずべきことをしたような意識をいだきながら、いやになってしまった農場の仕事を、いっさい支配人にまかして、遠い郡にいる親友のスヴィヤージュスキイのもとへおもむいた。その近所には、田|鷸《しぎ》のたくさんいるすばらしい沼があって、つい数日前も、前からの計画を実行して、しばらく逗留《とうりゅう》にくるようにという手紙がきたのである。スーロフスキイ郡の田鷸は、前からレーヴィンを誘惑していたのであるが、農園の仕事に追われて、いつも延びのびにしていた。が、今度こそは、シチェルバーツキイ家の姉妹のそばから、それに、何よりも農場から、離れる機会がきたのを喜んだ。しかも目的は、彼にとってあらゆる悲哀に対する最上の慰藉である銃猟だったのである。
[#5字下げ]二五[#「二五」は中見出し]
スーロフスキイ郡へ行くのには、鉄道も駅逓便《えきていびん》もなかったので、レーヴィンは自分の旅行馬車に乗ってでかけた。
ちょうど半分道のところで、彼は馬に飼秣《かいば》をやるために、一軒の裕福な百姓家へ寄った。頬の辺の白くなった、大きな赤い頤鬚《あごひげ》を生やした、まだみずみずしい禿頭の老人が門を開け、柱に身をよせながら三頭立てを通した。焦げた鋤《すき》のおいてある、きれいに片づいた、新しく作ったらしい、大きな内庭のひさしの下へ、馬車を入れる場所を馭者に教えておいて、老人はレーヴィンに、どうぞ中へお通りをといった。身ぎれいなかっこうをして、素足にオーヴァシューズをはいた若女房が、身をかがめて新しい玄関の床をふいていた。レーヴィンのうしろから駆けこんだ犬におびえて、若女房はきゃっと叫び声をあげたが、犬がどうもしないのを見て、すぐさま自分の驚きように、きゃっきゃっと笑った。袖《そで》をたくし上げた手で、レーヴィンに戸口をさして見せたのち、またかがみこんで、その美しい顔を隠し、掃除をはじめた。
「サモワールでもこしらえますだか?」と彼女はたずねた。
「ああ、どうぞ」
部屋は大きくて、オランダ風の暖炉があり、仕切り板もあった。聖像の下には、色さまざまな模様のついたテーブルと、一脚の床几《しょうぎ》と、二脚の椅子が据えてあった。入口のところには、食器を入れた小さい戸棚が置いてある。よろい戸が閉めてあるので、蠅も少なく、じつにさっぱりしているので、レーヴィンは、道々ずっと走って来て、水たまりの中をばちゃばちゃやったラスカが、床を泥だらけにしはせぬかと気をもんで、戸口に近い片すみに、居場所を指図したほどである。部屋の中をひとわたり見まわして、レーヴィンは裏庭へ出た。器量のよい若女房は、例のオーヴァシューズをはいて、天秤棒に担《かつ》いだ空の水桶をぶらぶらさせながら、彼の先に立って、井戸の方へ駆け出していった。
「さっさとするだよ!」と老人はきげんよく大声でいって、レーヴィンのそばへよった。「なんですかね、旦那、ニコライ・イヴァーノヴィッチ・スヴィヤージュスキイさまんとこへおいででごぜえますかね? あの旦那もちょくちょく家へお見えになりますだよ」と彼は入口階段の手すりに肘杖つきながら、話好きらしい調子でいいだした。
老人が、スヴィヤージュスキイとのつきあいの話をしている途中、門の戸がふたたびきしんで、野良《のら》帰りの百姓たちが、鋤《すき》や耙《まぐわ》を曵いて乗り込んできた。鋤や耙をつけられた馬はよく肥えて、たくましかった。百姓たちは明瞭に家の者らしかった。その中の二人は更紗《さらさ》のルバーシカを着、目《ま》びさしつきの帽子をかぶった若者で、あと二人は大麻のルバーシカを着ていたが、これは雇い男らしく、一人は年寄り、一人は若い男であった。
老人は入口階段を離れて、馬の方へ行き、鋤や耙を解きにかかった。
「何を耕《おこ》してきたんだね?」とレーヴィンはきいた。
「馬鈴薯畑さ耕してきましただよ。これでやっぱ、地面をちっとんべえ持っとりますでな。フェドート、おめえ去勢馬《メーリン》は連れ出さねえで、飼葉槽《かいばおけ》のとこさ繋《つな》いどくだよ、ほかのを駕《つ》けるだで」
「どうだね、父つぁん、おら鋤頭《すきさき》もってこうっていっといたが、持ってきただかね?」老人の息子らしい、背の高い、頑丈な若者がこうきいた。
「ほうら……あの橇《そり》ん中さあるだよ」はずした手綱をぐるぐる巻きにして、地べたへほうり出しながら、老人は答えた。「飯くってる間に、付けちまうがええ」
器量よしの若女房が、水のいっぱい入った桶に肩を押しつけられながら、玄関の中へ入っていった。どこからかまた女房連が現われた――若くてきれいなの、中くらいの、年とって醜いの、子供づれの、子供をつれないの。
サモワールの煙突が、ごうごう音を立てはじめた。雇い男も家のものも、馬の始末をすまして、食事をしにいった。レーヴィンも馬車の中から食糧をとりだして、いっしょにお茶を飲まないかと誘った。
「いや、どうも、今日はもうすましちまっただが」見うけたところ、喜んでこの申し出を受けるらしく、老人はこういった。「まあ、おつきあいに」
茶を飲みながら、レーヴィンは老人の百姓のやり方を逐一《ちくいち》聞いた。老人は十年前に、ある女地主から百二十|町歩《デシャチーナ》借りたが、去年その土地を買い受けて、さらに近所の地主から三百町歩借りたのである。その中で一少部分で、一番わるい土地を分割して貸しに出し、四十町歩を二人の雇い男といっしょに自分たちで作っている。老人はうまくいかないとこぼしていたが、そのこぼし話はほんのお体裁《ていさい》で、その実ふくふくらしいのは、レーヴィンにもちゃんとわかっていた。もしうまくいってなかったら、一町歩百五ルーブリの割で土地を買ったり、三人の息子や甥《おい》に嫁をとってやったり、二度も火事に会って新築したりするはずがなかった。しかも、それがあとになるほどりっぱな普請《ふしん》なのである。老人はこぼし話をしながらも、自分の世帯の楽なことをはじめとして、自分の息子、甥、嫁、馬、牛などのこと、ことにこれだけの大世帯がちゃんともっていくことを自慢にしているのは、もっともな話であった、老人と話しているうちに、彼が改良農業もいちがいにしりぞけないらしいのがわかった。彼は馬鈴薯も作っているが、レーヴィンがここへくるとき見たところによると、その馬鈴薯はもう花が咲いてしまって、薯《いも》の太《ふと》っていく時季になっていた。ところが、レーヴィンの畑では、まだ花も咲きはじめないのであった。老人は馬鈴薯畑を、地主のところから借りて来た犂《ブラオ》で耕したとのことである。老人はそれをブローといっていた。彼は小麦も播《ま》いていた。老人は裸麦をまびく時、その間引き麦を馬の飼料にするといった、そのちょっとしたデテールが、とりわけレーヴィンを驚かした。レーヴィンも、この上等な飼料が無駄に棄てられるのを見て、幾度それを集めようと思ったか知れないけれども、結局それは不可能ということになった。ところが、百姓の世帯では、それが実行されているのだ。老人はその飼料をいくら自慢しても、自慢したりないふうであった。
「女どもに何ができますべえ? 束《たば》にして道ばたへ運び出しゃ、あとは車が運んでってくれますだよ」
「どうもわれわれ地主のほうは、雇い男のことがいつもうまくいかなくってね」老人に茶の入ったコップをすすめながら、レーヴィンはこういった。
「ありがとうごぜえます」と答えて、老人は茶碗をとったが、砂糖のほうは辞退して、残しておいた小さな噛りさしの塊りをさして見せた。「雇い男なんぞ相手にして、どうしてやっていけますべえ!」と彼はいった。「たんだ荒らされるばかりでごぜえますよ。早い話が、スヴィヤージュスキイさまだってそのとおり、おらたちはよく知ってますだが、たいした土地で、罌粟《けし》粒みてえな黒々とした土でごぜえますよ。だけんど、やっぱり収穫《とりいれ》は自慢するほどのもなあねえでかす。それもこれも目が届かねえからで!」
「しかし、おまえも雇い男を使ってるじゃないか?」
「なん、わしらなにぶん百姓のこったで、なんでも自分でやりますだよ。たちの悪いやつはさっさと出しちまって、家のもんでやってきますだよ」
「父つぁん、フィノゲンがタール届けてくれっていっただよ」と、オーヴァシューズをはいた女房が入ってきて、そういった。
「ま、そういったわけで、旦那」と老人は立ちながらいい、長いこと十字を切って、レーヴィンに礼をいうと、部屋を出た。
レーヴィンが自分の馭者を呼ぼうと思って、勝手のほうへ入ってみると、そこでは息子たちが食卓についていた。女房たちは立って、その給仕をしているのであった。年の若いたくましい体をした息子が、粥《カーシャ》を口いっぱいに頬ばって、何かこっけいなことを話しているらしく、みんなげらげら笑っていたが、玉菜汁《シチイ》を椀についでいたオーヴァシューズの若女房が、かくべつにぎやかな声を立てていた。
レーヴィンがこの農家から受けた裕福な印象には、このオーヴァシューズをはいた若女房の美しい顔が、大いにあずかって力あったかもしれない。が、とにかく、この印象はきわめて強烈なもので、レーヴィンはいつまでたっても、それを払い落すことができなかった。老人のところから、スヴィヤージュスキイの家へ行く道すがら、彼はともすれば、この農家のことを思い浮べた。それはまるで、この印象の中に、何か特別な注意を要請するものがあるかのようであった。