『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」2-16~2-20(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]一六[#「一六」は中見出し]

 家へ帰る道々、レーヴィンはキチイの病気と、シチェルバーツキイの計画について詳細のことを、一つ残らずききだした。そんなことを認めるのは、われながら良心が咎めたけれども、彼はそれを聞いて気持がよかった。気持がよかったというのは、そこにまた希望が生じたからでもあるが、なおそのほか、自分にあれほどつらい思いをさせた彼女が、いまつらい思いをしているからでもあった。けれども、オブロンスキイがキチイの病気の原因を語りはじめて、ヴロンスキイの名を口にした時、レーヴィンはそれをさえぎった。
「僕はね、よその家庭の細かい内輪話を知る権利なんか、もっていないんだよ、いや、正直なところをいうと、その興味さえ全然ないのだ」
 オブロンスキイは、束《つか》の間《ま》に友の顔に現われたなじみの深い変化を、早くも見てとって、にやりと笑った。ほんの一分前まで浮きうきしていたレーヴィンが、それと同じ程度に、陰鬱になってしまったのである。
「君、森のことだが、リャビーニンとの話、すっかり済んでしまったのかね?」とレーヴィンは問いかけた。
「ああ、済んでしまったよ。申し分のない相場でね、三万八千ルーブリなのさ。八千ルーブリ前払いで、あとは六年年賦ということにした。あいつを相手に、ずいぶんやっさもっさしたよ。だれもそれ以上買おうとしないのでね」
「それじゃ、君、ただで森をやったようなもんじゃないか」とレーヴィンは陰気くさい調子でいった。
「といって、なぜただでやることになるんだね?」今はレーヴィンの目から見ると、なにもかもよろしくないということが、前からちゃんとわかっていたので、オブロンスキイは好人物らしい微笑を浮べながらきいた。
「なぜって、あの森は少なくとも、一|町歩《デシャチーナ》あたり五百ルーブリするんだもの」とレーヴィンは答えた。
「いやはや、君のような農村経営者にかかったら、やりきれん!」とオブロンスキイはおどけた調子でいった。「われわれ都会人に対する君たちのその侮蔑の調子ときたら!………ところで、いざ仕事をやる段になると、われわれのほうがずっと上手にやってのけるんだからね。僕は何から何まで算盤《そろばん》をはじいてみて」と彼はいった。「あの森がいい値で売れたと思ってる。だから、先生、破談にでもしやしないかと、恐れているくらいだよ。だって、あれは木屋むきの森じゃなくって」この木屋むき[#「木屋むき」に傍点]という言葉で、レーヴィンに彼の疑念がまちがっていることをたちどころに証明しようと思って、オブロンスキイはこういった。「どっちかというと、薪を取るやつなんだからね。しかも、一町歩から三十棚([#割り注]七立方尺[#割り注終わり])以上に取れないんだぜ。それなのに、やつは一町歩二百ルーブリ出すんだからね」
 レーヴィンはばかにしたように、にたりと笑った。
『わかってるよ』と彼は考えた。『この都会人の癖は。しかも、一人だけでなく、みんなそうなんだ。十年に一、二度田舎へ来て、二つか三つ田舎の言葉を覚えると、もうなにもかもすっかり知りぬいたように思いこんで、つぼにはまろうとはまるまいと、やたらにそいつをふりまわすんだ。木屋むき[#「木屋むき」に傍点]、三十棚[#「三十棚」に傍点]。言葉だけは知ってても、ご当人なんにもわかっちゃいないんだからな』
「僕はね、君が現にお役所で書いていることを、今さら君に教えようとはしないよ」と彼はいった。「しかし、必要とあればきくがね、君はそれで森のイロハぐらいわかってるつもりなんだね。ところが、これはなかなかむずかしいものなんだよ。いったい君は立木の数を勘定したのかね?」
「え、立木の数を勘定するんだって?」相変らず友のふきげんをなおそうとして、オブロンスキイは笑いながらいった。「浜の真砂《まさご》を数えたり、遊星の光線を計算したりするのは、よしんば偉大な頭脳の所有者だって……」
「そう、ところが、リャビーニンの偉大な頭脳なら、それができるんだよ。どんな商人だって、勘定しないで買うやつは、一人もありゃしない。まあ、君のように、ただでくれてやるなら別だがね。君の森は僕も知ってるよ、毎年あすこへ猟に行くのでね。君の森は一町歩、現金で五百ルーブリの値うちがある。それなのに、やつは年賦で二百ルーブリ出すという。つまり、君はやつに三万ルーブリばかり、ただで進呈したわけさ」
「いや、お調子に乗るのはよしてくれ」とオブロンスキイはあわれっぽい声でいった。「それなら、どうしてだれもそんな値をつけなかったんだい?」
「そりゃ、やつが商人どもと共謀《ぐる》になってるからさ。みんなに手をひかすように、金を握らしたんだよ。僕はあの連中と取引したことがあるから、よく承知しているよ。だって、やつらは商人じゃなくて、高利貸みたいな連中なんだもの。あの男は一割や、一割五分の話には乗りゃしない、二十コペイカで一ルーブリのものを買う機会をねらってるんだ」
「おい、いいかげんにしろよ! 君は今ごきげんななめなんだよ」
「とんでもない」とレーヴィンは陰鬱くさい調子で答えた。その時、二人は邸の車寄せに近づいていた。
 車寄せには、鉄と革で頑丈に包んだ田舎馬車が、幅の広い綱で食いふとった馬をしっかりつけて、もうちゃんと乗りつけていた。車の中には、リャビーニンのために馭者がわりを勤めている、突けば血の噴《ふ》きそうな番頭が、帯をぎゅうぎゅうにしめて腰かけていた。リャビーニンはもう家の中へ入っていて、二人の友を玄関で出迎えた。リャビーニンは背の高いやせぎすの中年男で、鼻の下に髭を生やし、突き出た下頤《したあご》をきれいに剃って、飛び出たような眼はどんよりしていた。尻の下のほうまでボタンのついた、裾の長い、青いフロックコートを着用し、くるぶしのところに皺がよって、ふくらはぎの辺がまっすぐになった深い長靴をはき、その上に大きなオーヴァシューズをつけていた。彼はハンケチで顔をぐるっと円く拭いて、それでなくともきちんとしているフロックコートの前をあわせ、入ってくる二人を笑顔で迎えた。そして、まるで何かをつかもうとするようなかっこうで、オブロンスキイに手をさしのべた。
「あ、もう来てくれたんですね」とオブロンスキイは、彼と握手しながらいった。「けっこう」
「道はずいぶんひどうござんしたが、御前《ごぜん》さまのご命令に背くわけにまいらんと存じまして。途中、断然、すっかり歩かされましたが、それでも時間までにちゃんと到着いたしました。コンスタンチン・ドミートリッチ、ごきげんよろしゅう」と彼はレーヴィンに声をかけ、その手をも捕えようとした。しかし、レーヴィンは顔をしかめ、彼の手に気のつかないようなふりをして、鷸《しぎ》を袋から出していた。「猟ですか、それはご愉快でいらっしゃいました。これは、つまり、なんという鳥でございますかな?」ばかにしたように鷸を見やりながら、リャビーニンはこうつけ加えた。「やっぱり、その、味がございますのでしょうな」そういって、不賛成らしく首をふったが、その様子はまるで、こんなものに金と時間を潰す値うちがあるかと、大いに疑念をいだいているようであった。
「どうだね、書斎へ行ったら?」とレーヴィンは陰気らしく眉をひそめて、フランス語でオブロンスキイにいった。「書斎へ行って、あそこで話をしたまえ」
「いや、さしつかえありません、どこでもけっこうでございます」とリャビーニンは、人を食ったような気取った調子でいった。それは、ほかのものなら、だれにはどういう態度をとるかについて、当惑を感じるかも知れないけれど、自分はどんな場合でも困ったりなどしない、ということを思い知らせるためらしかった。
 書斎へ入ると、リャビーニンは昔からの癖で、聖像はどこにあるかと、あたりを見まわしたが、見つかったにもかかわらず十字を切らなかった。彼は本の入った戸棚や棚をじろりと見たが、鷸の時と同じような疑惑の表情を浮べ、ばかにしたようににやっと笑って、こんなことに金や時間を潰す値うちがあろうとは、どうしても考えられないとでもいうように、不賛成らしく首をふった。
「どうです、金は持って来ましたか?」とオブロンスキイはたずねた。「まあ。おかけなさい」
「わっしどもはお金のことなら、決して遅滞はござりませんが、ちょっとお目にかかって、お話しようと思ってまいりましたんで」
「話とはなんです? が、まあ、おかけなさい」
「そりゃ、かけてもよろしゅうございます」といって、リャビーニンは腰をおろし、いかにも窮屈なかっこうで、肘椅子の背に肘づきをした。「少々お負けにならなければなりませんよ、公爵、罪でございますよ。金は決定的に用意ができております、一コペイカも欠けなしに。お金のほうは決して遅滞はござりませんで」
 その間に、銃を戸棚にしまい終ったレーヴィンは、もう戸口から出ようとしていたが、商人のこの言葉を耳にはさんで、歩みをとめた。
「それでなくても、君はただ同然で森を手に入れたんじゃないかね」と彼はいった。「この男の来かたが遅かったから、しかたがないけれど、さもなければ、僕が値をつけてやったものを」
 リャビーニンは席を立って、何にもいわずにやにやしながら、レーヴィンを頭から爪先まで見まわした。
「たいそうもないおしまりかたで、コンスタンチン・ドミートリッチ」笑顔をオブロンスキイの方へ向けながら、彼はこういった。「こちらでは断然なにもいただけませんよ。小麦で商談いたしましてな、ずいぶんいい値段をつけたんでございますが」
「だって、自分のものを君にただであげるわけがないじゃないか。僕はなにも地面に落ちてるものを拾ったんでもなければ、盗んだわけでもないからね」
「ご冗談ばっかり、きょうび盗みなんか、決定的にできるこっちゃござんせん。きょうびでは断然なにもかも、公開裁判ということになっておりますから、今では万事、公明正大でございます。盗みをするどころじゃござんせん。わっしどもは正直にお話をしたのですが、あの森のおっしゃり値は、どうも高過ぎましてな、算盤がとれませんから、どうか少々引いていただきたいもので」
「いったい君たちの取引はすんでいるのか、住んでいないのか? もしすんでいるのなら、なにも押問答の必要はありゃしない。が、もしすんでいないのなら」とレーヴィンはいった。「あの森は僕が買う」
 リャビーニンの顔からは、とつぜん微笑が消えて、隼《はやぶさ》のように貪欲《どんよく》残忍な表情がそこに固定してしまった。彼は骨ばった指を機敏に働かして、フロックコートのボタンをはずし、ルバーシカやチョッキの真鍮《しんちゅう》ボタンや、時計の鎖を見せながら、手早く古い厚みのある紙入れをとり出した。
「どうぞお納めを、森はわっしのもんで」すばやく十字を切って、手をさし伸ばしながら、彼はいった。「どうぞ金を受け取って下さいまし、森はわっしのものでございます。リャビーニンの取引ぶりは、まあこんなもんで、はした金をとやかく申しませんよ」と彼は顔をしかめて、紙入れをふりまわしながらいった。
「僕が君だったら、売り急ぎしないんだがなあ」とレーヴィンはいった。
「冗談じゃない」とオブロンスキイはあきれていった。「だって、もう約束してしまったんじゃないか」
 レーヴィンは戸をぱたんと叩きつけて、部屋を出て行った。リャビーニンはその戸を見ながら、にやにやして首をふっていた。
「なにもかもお年若のせいで、もう断然お坊ちゃん育ちですな。なんせ、わっしが買ったのは、正直、信用していただきたいんですが、ただもう名誉のためなんで、つまり、オブロンスキイ家の森を買ったのは、ほかならんリャビーニンだ、といわれたいがためなんで。まあ、運よく算盤が取れればいいがと思っとりますよ。誓って申します。さあ、どうぞ契約書にご署名を……」
 一時間ほどして、商人は下着の前を几帳面にあわせ、フロックコートのボタンをかけ、契約書をポケットに入れて、頑丈に鉄や革を張った馬車に乗って、帰路についた。
「いやはや、ああいう旦那衆ときたら!」と彼は番頭にいった。「みんな同じような連中だて」
「そりゃまったくそのとおりで」と番頭は手綱を渡して、革の膝掛をボタンで止めながら答えた。
「ときに、ミハイル・イグナーチッチ、お買物のお祝いに一つ?」
「うん、よし、よし……」

[#5字下げ]一七[#「一七」は中見出し]

 オブロンスキイは、商人から受け取った三ヵ月先払いの銀行手形で、ポケットをふくらまし、二階の部屋へ入った。森の一件も片がついて、金がふところに入っているうえに、猟の首尾もよかったので、オブロンスキイは上々のきげんであった。で、彼はなおのこと、レーヴィンのふきげんを追いはらいたくてたまらなかった。彼は夜食の間に、今日の日を始まりと同様、気持よく終らせたかったのである。
 事実レーヴィンはきげんがわるかった。好きな客を愛想よく優しくもてなそうと、一生懸命つとめたにもかかわらず、どうしてもおのれを抑制することができなかった。キチイが結婚しないという報知は、酒の酔いのように、しだいに彼の体をまわりはじめたのである。
 キチイは結婚しないで、病気している。それも、彼女を袖にした男にたいする恋患いである。この侮辱は、あたかも彼の頭上に落ちてくるような感じであった。ヴロンスキイは彼女を袖にしたが、彼女は彼レーヴィンを袖にした。従ってヴロンスキイはレーヴィンを軽蔑する権利があり、それゆえ彼の敵である。しかし、彼はそれをはっきり考えたわけではない。彼はただ、そこに何か自分にとって侮辱的なものがあると、ぼんやり感じたにすぎない。で、今も自分の心を乱した事実に腹をたてるのでなく、ただ目にふれるものみなに、八つ当りするのであった。ばかばかしい森の売買、オブロンスキイのひっかかった欺瞞、しかもそれが自分の家で行われたということが、彼をいらいらさせたのである。
「やあ、すんだかね?」と彼は二階で、オブロンスキイを迎えながらいった。「夜食、やる?」
「ああ、辞退しないよ。田舎へ来たら、がぜん食欲が出るね。ふしぎなくらい! どうして君はリャビーニンに、食事をすすめなかったんだい?」
「ふん、あんなやつまっぴらごめんだ!」
「それにしても、君のあの男をあしらう態度といったら!」とオブロンスキイはいった。「手も握ろうとしないんだからなあ。なにも握手してならんという法はなかろう?」
「それは、下男と握手しないのとおなじ理由だよ。しかも、下男のほうがあいつより百倍もましだよ」
「それにしても、君はずいぶん退嬰《たいえい》主義だなあ! じゃ、階級の融和ってことをどう思う」とオブロンスキイはいった。
「融和したい人は、どうぞごかってに、だが僕はいやだ」
「どうも見たところ、君は純然たる退嬰《たいえい》主義だよ」
「じつのところ、僕は自分が何ものかなんてことを、一度も考えたことがないね。僕はコンスタンチン・レーヴィンだ、それっきりさ」
「しかも、ごきげんはなはだ斜めなコンスタンチン・レーヴィンだろう」とオブロンスキイは笑いながらいった。
「ああ、僕はふきげんだ、それがなぜか知ってる? それはね、失礼ながら、君のばかげた取引のせいなんだよ……」
 オブロンスキイは、罪もないのに、侮辱され、気持を悪くさせられた人のように、人のいい表情で顔をしかめた。
「もう、たくさんだよ」と彼はいった。「だれかが何か売った場合、すぐそのあとで、『あれはずっと高いものだったのに』と人からいわれなかった例《ためし》は、これまでついぞないからね。ところが、売ろうとしている時には、だれ一人そんな値をつけてくれるものはありゃしない……いや、どうも見かけたところ、君はあの不運なリャビーニンに含むものがあるらしいな」
「あるかもしれない。ところで、君、なんのためかわかるかい? 君はまだ僕のことを退嬰《たいえい》主義者とかなんとか、恐ろしい言葉で呼ぶだろうが、とにかく僕は、いたるところで進行している貴族階級の貧困化を見るのか、いまいましくもあり心外でもあるのだ。僕はこの階級に属しているが、階級の融和が叫ばれているにもかかわらず、これに属することを大いに喜びとするものだ……ところで、その貧困化は奢侈《しゃし》の結果じゃないのだ。もしそうなら結構なんだ。旦那さま然《ぜん》として一生を終る――それは貴族の特色で、それができるのはただ貴族だけだからね。このごろ、われわれの周囲の百姓が土地を買い集めているが、これは僕も腹がたたない。旦那は何もしないのに、百姓は働いているのだから、無為な人間がおしのけられるわけで、それは当然の話だよ。僕は百姓のために大いに喜んでいるよ。しかし、僕はあの、なんといったらいいかわからないが、何か得体《えたい》の知れない無邪気さのために起る貧困化を見ると、腹がたってたまらない。こちらでは、土地借り専門のポーランド人が、ニイスで遊び暮しているさる奥さんから、すばらしい領地を半値で買うかと思うと、あちらでは一町歩十ルーブリの値うちのある土地を、一ルーブリで商人に貸してしまう。ここでは現に君が、なんの理由もないのに、あんなかたりに三万ルーブリくれてやったんだからなあ」
「それじゃ、どうなんだね? 立ち木を一本一本数えるのかね?」
「ぜひ数えなくちゃならないよ。君は数えなかったが、リャビーニンは数えたんだよ。で、リャビーニンには子供の生活費も、教育費も残っていくけれど、君の子供のためには、おそらくそれがないだろうよ!」
「いや、失敬ながら、そんな勘定をするやりかたは、何かみみっちくていやだね。われわれにはわれわれの仕事があり、やつらにはまたやつらの仕事がある。やつらには儲《もう》けが必要なんだよ。だが、しかし、もう取引はすんでしまって、けりがついたんだ。おや、目玉焼が出た、玉子焼の中では僕これが大好きさ。アガーフィヤ・ミハイロヴナが、またあのすばらしい薬草入りの酒を出してくれるだろうな……」
 オブロンスキイはテーブルについて、アガーフィヤと冗談話をはじめ、こんな昼餮や夜食はもう久しく食べたことがない、といい張るのであった。
「あなたさまはそういってほめて下さいますが」とアガーフィヤはいった。「うちの旦那さまは何をさしあげても、たとえパン皮であっても平気で、黙って召しあがって、ぷいといっておしまいになりますよ」
 どんなに自分をおさえようと努めてみても、レーヴィンは気が沈んで、沈黙がちであった。彼はオブロンスキイに、一つ質問しなければならぬことがあったが、どうしてもふんぎりがつかず、それにその質問の形式も見つからなければ、いつどんなふうにそれをもちだしていいかも、わからなかった。オブロンスキイはもう階下《した》の自分の部屋へおりて、服を脱ぎすて、もういちど顔を洗って、襞《ひだ》つきの夜のシャツを着て、横になった。レーヴィンはいろんな無駄話をしながら、いつまでも彼の部屋にぐずぐずしていて、自分のききたいことを切り出す勇気がなかった。
「じつにどうも、石鹸のつくりかたが上手になったもんだなあ」と彼は香りの高い石鹸の包み紙をといて、つくづくとながめながらいった。それは、アガーフィヤが客のために準備しておいたのだが、オブロンスキイの使わずにいたものである。「君、見たまえ、これはもう一箇の芸術品だよ」
「ああ、今じゃなにもかも完成の域に達したね」とオブロンスキイはうるみのある、陶然《とうぜん》たるあくびをしながらいった。「早い話が、芝居だって、それからあの娯楽場だって……あ、あ、あ!」と彼はあくびをした。「電燈も、いたるところついてるし……あ、あ!」
「そう、電燈もね」とレーヴィンはいった。「そう。ときに、ヴロンスキイは今どこにいるね?」と彼はふいに石鹸をおいてこうたずねた。
「ヴロンスキイ?」とオブロンスキイはあくびをやめていった。「ペテルブルグにいるよ。君が発《た》ったあとすぐに行っちまって、それからは一度もモスクワへやってこないんだ。ねえ、コスチャ、僕は君に本当のことをいうが」と彼はテーブルに肘《ひじ》づきし、美しいバラ色の顔を掌にのせて、言葉をつづけた。その顔には、油を流したようにどんよりした善良らしい眼が、星のように光っていた。「あれは君自身が悪かったんだよ。君が競争者を恐れたもんだから。ところが、僕はね、あのときも君にいったとおり、どっちのほうにより多くの勝味があったか、自分でもわからないんだよ。どうして君はどこまでも押していかなかったんだ? あの時も君にいったとおり……」彼は口を開けないで、顎だけであくびをした。
『この男は、おれが申込をしたことを知ってるのか、知らないのか?』とレーヴィンは彼を見つめながら考えた。『そうだ、この男の顔にはなにかずるい、外交家式のところがあるよ』自分が赤くなっていくのを感じながら、彼は無言のまま、オブロンスキイの顔をまともに見やった。
「もしあのとき彼女に何かあったとすれば、それはただ見てくれに迷わされたんだよ」とオブロンスキイは言葉をついだ。「それはね、君、全くの貴族主義と、未来の社会上の地位が作用したんだよ、彼女自身でなく母親のほうにさ」
 レーヴィンは顔をしかめた。彼の経験したあの拒絶からくる侮辱感が、さながらたった今うけたなまなましい傷のように、彼の心をひりひりと焼いた。しかし、いま彼はわが家にいたので、自分の家では四方の壁が助けになった。
「ちょっと、ちょっと」彼はオブロンスキイをさえぎりながら、いいだした。「君は貴族主義というが、ひとつ君に質問を許してもらおう。ヴロンスキイにしろだれにしろ、その貴族主義というのは、いったいなんだね? つまり、僕を軽蔑するにたる貴族主義というのは? 君はヴロンスキイを貴族《アリストクラート》とみなしているが、僕はそうは思わない。父親はつまらんところから官海游泳術で成りあがった男だし、母親はおよそどんな男とでも関係したと思われるような女……いや、失敬ながら、僕は僕自身や、僕のような人間を貴族《アリストクラート》と考えるよ。それらの人々は過去において、三代か四代の名誉ある家族、最高の教養を身につけた人々を名ざすことができるのだ(天稟《てんびん》とか頭脳とかになると――それはもう話が別だよ)。彼らは僕の父や祖父のしてきたように、いかなる人の前でも、かつて一度も卑屈なふるまいをせず、だれの保護も必要としなかった人たちだ。しかも、僕はそういう人たちを大ぜい知っている。君は、僕が立ち木を数えるのを卑しい業《わざ》と見なして、リャビーニンに三万ルーブリの金を進呈している。しかし、君には貸地の地代とか、そのほか何かしら、いろんな収入があるだろうが、僕はそんなことをしない。なぜなら、先祖伝来のもの、労働から得たものを貴ぶからだ……貴族《アリストクラート》はわれわれであって、この世の権力者のお情のみで生存をつづけている連中でもなければ、二十コペイカくらいのはした金で買収されるような連中でもないよ」
「いったい君はだれのことをいってるんだね? しかし、僕は君の説に賛成だ」とオブロンスキイは、衷心《ちゅうしん》から楽しそうにいった。もっとも、レーヴィンが二十コペイカで買収される連中と名づけた中に、自分も含まれていることを直感していたけれど、レーヴィンの真剣な生きいきした態度は、冗談でなく気に入ったのである。「いったいだれのことをいってるんだね? 君がヴロンスキイについていったことは、まちがった点もすくなくないけれど、しかし僕がいうのは、そんなことじゃない。僕はざっくばらんにいうが、もし僕が君の立場にあったら、これからいっしょにモスクワへ出かけるね……」
「いや、君は知ってるかどうかわからないが、僕はどうだっていいんだよ。もう一つ君にいうけれど、僕は申込をして、拒絶されたんだ。だから、カチェリーナ・アレクサンドロヴナ([#割り注]キチイ[#割り注終わり])は、僕にとって苦しい、恥すべき記憶なんだよ」
「どうして? それこそくだらん話だよ!」
「しかし、その話はよそう。もし僕が、君に失敬な態度をとったなら、どうか勘忍してくれたまえ」とレーヴィンはいった。今ではなにもかもいってしまったので、また朝と同じような気分になったのである。「君、僕に腹をたてちゃいないね、スチーヴァ? どうか腹をたてないでくれよ」といって、彼はほほえみながら友の手をとった。
「なあに、ちっとも、それに、何も怒るわけがないじゃないか。それどころか、すっかり話しあったので、かえって喜んでるくらいだよ。ときに、朝の猟もどうかするといいものだぜ。ひとつ出かけようか? 僕はこのまま睡《ねむ》らなくたってかまわない、猟からすぐ駅へ行ってしまうから」
「大いにけっこう」

[#5字下げ]一八[#「一八」は中見出し]

 ヴロンスキイの内生活は、ことごとくかの情熱にみたされていたにもかかわらず、外面生活は社交界と連隊の、さまざまな関係と興味から成る、古い習慣的な軌道に沿って、前と変らず、のっぴきなしに流れていった。連隊の興味は、ヴロンスキイの生活でも、重大な位置を占めていた――それは、彼が連隊を愛していたからでもあるが、さらにまた、彼が連隊内でみなに好かれていたからである。連隊では、みながヴロンスキイを愛していたばかりでなく、彼を尊敬し、かつ誇りとしていた。莫大な財産を有し、りっぱな教養を身につけ、はなばなしい才能を有するこの男が、成功と、名誉と、栄達にむかう大道が開けているにもかかわらず、これらのいっさいを軽視して、あらゆる生活興味の中でも連隊と、将校団の興味を何より大切に考えていたので、みなはそうした彼を誇りとしていたわけである。ヴロンスキイは、自分に対する同僚のこうした考え方を知っていたので、ただにこの生活を愛したばかりでなく、連隊内に固定してしまったこの考え方を維持するのを、おのれの義務と感じるようになった。
 いうまでもなく、彼は仲間のだれにも自分の恋を話しはしなかった。どんなに羽目をはずした酒席でも、決して口をすべらすようなことはなかったし(もっとも、彼は自制力を失うほど酩酊《めいてい》したことは、かつて一度もなかったけれど)、彼の情事を匂わせようとする軽はずみな同僚には、口を割らせないように手を打ちもした。が、それにもかかわらず、彼の恋は全市中に知れ渡っていた。カレーニナに対する彼の関係は、だれもが多少なりと正確なことを想像していた。若い連中の大多数は、彼の恋で最も苦しい点、つまり、カレーニンの地位が高いために、浮名が華美《はで》なことをうらやんでいた。
 常々アンナを羨望して、彼女が節操の正しい婦人という評判をとっている[#「節操の正しい婦人という評判をとっている」に傍点]のに、もう久しい前からうんざりしていた若い婦人の多くは、自分たちの予想があたったのをうれしがり、世論の転換が確定的になるのを待って、ありったけの侮蔑を浴びせかけ、どっとばかり彼女になだれかかろうと、手ぐすねひいていた。彼らは機会が熟したとき、彼女に投げつけるはずの土くれを、早くもそれぞれ用意しているのであった。年配の連中や地位の高い人々の多くは、こうして着々準備されていく社交界のスキャンダルを、おもしろからず思っていた。
 ヴロンスキイの母親は息子の情事を知って、はじめのうちは満足していた――それは彼女の意見によると、上流社会における情事ほど、輝かしい将来をもつ青年に、最後の磨きをかけてくれるものはないからであったが、なおそのほかに、あれほどわが子の話ばかりして、彼女に好感をもたせたカレーニナが、やっぱり結局のところ、ヴロンスカヤ伯爵夫人の見解によると、やっぱりすべての美しいれっきとした夫人たちの例にもれなかったからでもある。ところが、最近になって、息子が将来の栄達のために重要な意義を有する位置をすすめられたのにもかかわらず、現在の連隊にとどまっていればカレーニナと会えるので、その申し出を断ってしまったために、上司の人々の不満を買ったという話を聞いて、母夫人は自分の意見を変えた。のみならず、この件について聞きこんだあらゆる情報から判断したところ、それは彼女の奨励するはなばなしい、優美な、社交的な情事ではなくして、何かしらウェルテルめいた命がけの恋で、わるくしたら、息子はばかげた羽目に落ちこんでしまう、こんなふうにみんないっていることも、彼女の気に入らなかった。彼女は、息子が思いがけなくモスクワを発《た》ってしまって以来会っていないので、長男を通して一度やってくるようにと命じた。
 この兄も弟に不満を感じていた。彼は弟の情事がどんなものか、豊かなものか、けちけちしたものか、熱烈なものか、ちょっとした浮気か、悪徳の性質をおびているのか、そうでないのか、そんなことには頓着なかった(彼自身も子供があるくせに、あるバレーの踊子を囲《かこ》っていたくらいだから、この点では他人に対して寛大だったのである)。しかしこの情事が、お気に入る必要のある人たちの気にくわないことを知っていたところから、そのために弟の行状を困ったものだと思っていた。
 勤務と社交のほかに、ヴロンスキイはなお一つ仕事を持っていた。それは馬である。彼は熱心な馬道楽であった。
 ちょうど今年は、将校たちの障碍物《しょうがいぶつ》競馬が催されることになっていた。ヴロンスキイはこの競走に加入して、純血なイギリス種の牝馬を買った。そして、恋にうつつを抜かしながらも、目前に控えている競馬に、多少遠慮してはいたが、内心夢中になっていた。
 この二つの熱情は、互に妨げとならなかった。それどころか、彼にとっては、恋愛と関係のない仕事なり、道楽なりが必要なので、それによって、あまりに魂を興奮させる印象から、気分を一新させ、休息したかったのであった。

[#5字下げ]一九[#「一九」は中見出し]

 赤村《クラスノエ・セロ》の競馬の当日、ヴロンスキイはいつもより早目に、将校集会所の食堂へ、ビフテキを食べに行った。彼は体重がちょうど所定の四プード半に達していたから、あまり厳重に節制する必要はなかった。しかし、これ以上ふとってはいけないので、澱粉質と甘いものを避けるようにしていた。彼は上衣のボタンをはずして、白いチョッキを見せ、両手でテーブルに肘つきをして、注文のビフテキを待つあいだ、皿の上にのっていたフランス語の本を見ていた。それは、出たり入ったりする将校連と口をききたくないためで、その実は考えごとをしているのであった。
 彼は、きょう競馬のあとで会おうといったアンナの約束を、考えているのであった。しかし、彼はもう三日も彼女に会わないでいたし、良人が外国から帰って来たため、はたしてきょう会えるかどうか、わからなかった。けれど、どうしてそれをたしかめたものか、わからないのであった。いちばん最後には、公爵夫人ベッチイの別荘で会った。カレーニン家の別荘へは、なるべく行かないようにしていたが、今日はそこへ行きたくなったので、『それをどんなふうにやるか?』という問題で、頭をひねっているのであった。
『もちろん、おれはベッチイの使で、競馬に行くかどうかをたずねに来たのだといおう。どうしても行く』と彼は本から頭を上げながら、一人でこう決心した。彼女に会ったときの幸福を、まざまざと心に描いた時、彼の顔はぱっと輝きわたった。
「おれの家へ使をやって、大急ぎで、幌馬車に三頭立をつけるようにいってくれ」ビフテキを熱い銀の皿にのせて持ってきたボーイに、彼はこういいつけて、皿をひきよせ、食事にかかった。
 隣の玉突き部屋で玉のあたる音や、人の話したり笑ったりする声が聞えた。入口の戸から将校が二人あらわれた。一人はちかごろ幼年学校を出て、彼らの連隊へ入った、弱々しい細おもての若い将校で、もう一人は手に腕輪をはめた、小さい眼の隠れそうなほど、ぶよぶよふとった老将校であった。
 ヴロンスキイはちらとこの二人を見て、眉をひそめた。そして、気のつかないようなふうで、本を横目ににらみながら、同時に食べかつ読みはじめた。
「どうだね? 仕事の前に腹ごしらえしてるのかね?」と、ぶよぶよした将校は、彼の横に腰をおろしながらいった。
「ごらんのとおりさ」顔をしかめて、口を拭きふき、相手を見ないで、ヴロンスキイは答えた。
「ふとるのが怖《こわ》くはないかね?」若い将校のほうへ椅子をねじむけながら、相手はこうきいた。
「え?」とヴロンスキイは、嫌悪の情を隠そうともせず、渋い顔をして、例のびっしり並んだ歯を見せながら、さも腹だたしげに問い返した。
「ふとるのが怖くはないのかね?」
「おうい、シェリイ酒!」とヴロンスキイは返事をせずにこう叫ぶと、本を反対の側へ置きなおして、読みつづけた。
 ぶよぶよした将校は、酒の表をとりあげて、若い将校に話しかけた。
「何を飲む、君自分できめたまえ」表を渡して、相手の顔を見つめながら、彼はこういった。
「じゃ、ラインワインにするかな」ヴロンスキイのほうをおずおずと横目に見やり、やっと生えかかった口髭を、指先でつまもうと苦心しながら、若い将校はこういった。ヴロンスキイがこちらへ向かないのを見て、若い将校は立ちあがった。
「玉突き場へ行こう」と彼はいった。
 ぶよぶよした将校は、おとなしく席を立った。こうして、二人は戸口のほうへ向った。
 その時、部屋の中へ、背が高くて押し出しのいい、ヤーシュヴィン大尉が入ってきた。二人の将校のほうへ、軽蔑するように頤《あご》をしゃくって、ヴロンスキイに近よった。
「ああ! ここにいたのか!」と叫んで、彼は大きな手で強く肩章を叩いた。ヴロンスキイは怒ったようにふりかえったが、たちまちその顔は持ち前のおちついた、しっかりしたところのある、優しい表情に輝きわたった。
「こりゃうまい考えだ、アリョーシャ」と大尉は声高《こわだか》なバリトンでいった。「これからひと口食べて、一杯飲もうじゃないか」
「どうもほしくないんだがな」
「つがい離れぬってやつだよ」このとき部屋から出て行こうとしている、二人の将校を嘲るように見やりながら、ヤーシュヴィンはこうつけ加えた。そして、椅子の高さにくらべてあまり長すぎる、狭い乗馬ズボンをはいた腿《もも》と脛《はぎ》を鋭角に曲げて、彼はヴロンスキイのそばに腰をおろした。「どうして昨日|赤村《クラスノエ》の劇場へこなかったんだい? ネメローヴァがじつによかったぜいったいどこへ行ってたんだい?」
「僕はトヴェルスコイのとこに腰をすえちまったんだよ」とヴロンスキイはいった。
「ははあ!」とヤーシュヴィンは答えた。
 ヤーシュヴィンはばくち打ちで、道楽者で、いっさい規範《きはん》をもたないどころか、破倫《はりん》の規範を奉ずる男であったが――このヤーシュヴィンが連隊じゅうで、一番ヴロンスキイとうまのあう親友であった。ヴロンスキイが彼を愛したのは、一つには彼の並はずれた体力のためであった。彼は酒樽のように飲むことや、徹夜しても普段と変らぬ態度でいられることで、この体力を証明したものである。また二つには、その偉大なる精神力のためで、それは上官や同僚に対したとき、相手に恐怖と尊敬を呼び起させることや、勝負をすればいつも何万という金を賭《か》け、酒を飲んでも細心で確実で、イギリス・クラブでも第一のカルタ師とされていること、などで証明された。しかし、ヴロンスキイが特に彼を敬愛したのは、ヤーシュヴィンが彼を名や富のためでなく、彼そのものを愛したがためである。多くの人の中で、ヴロンスキイが自分の恋を語ってもいいと思ったのは、この男一人だけであった。ヤーシュヴィンだけは、一見して、あらゆる愛情を軽蔑しているらしいにもかかわらず、今ヴロンスキイの全生活をみたしている激しい情熱を、理解してくれるに相違ない、ヴロンスキイはそれを直感したのである。のみならず、ヤーシュヴィンに限って、陰口やスキャンダルに興味をもたず、この感情を本当に正しく理解してくれるに違いない、つまり恋愛は冗談でもなければ、慰みでもなく、何かしらもっとまじめな、もっと重大なものであることを承知し、かつ信じている――こうヴロンスキイは確信しきっていたのである。
 ヴロンスキイは、彼に自分の恋を語りはしなかったけれども、彼がいっさいを知り、いっさいを正しく理解しているのを承知し、それを相手の眼つきで読みとるのが快かった。
「ああ、そうか!」とトヴェルスコイのところへ行ったという、ヴロンスキイの言葉に対して、彼はこういった。そして、黒い眼をぎらっと光らして、左の口髭をつまみ、いつもの悪い癖で、それを口へ入れはじめた。
「ところで、君は昨日どうした? 勝ったかい?」とヴロンスキイはきいた。
「八千ルーブリ。だが、三千はだめだ、よこしそうもない」
「ふん、それじゃ僕の分も負けるかもしれないね」とヴロンスキイは笑いながらいった(ヤーシュヴィンはヴロンスキイの競馬に、大きな睹で勝負することになっていたのである)。
「金輪際《こんりんざい》、負けるもんか。ただマホーチンだけが危いけれどな」
 それから、話は今日の競馬の予想に移った。ヴロンスキイは今このことよりほか、考えられなかったのである。
「行こう、僕はすんだんだから」とヴロンスキイはいって、立ちあがり、戸口のほうへ足を向けた。ヤーシュヴィンも、その大きな脚と長い背中をのばして、同じく立ちあがった。
「僕はまだ食事をするのは早すぎるけれど、一杯ひっかけなきゃならん。いますぐ行くよ。おうい、酒だ!」号令にかけては有名な厚みのある声で、窓ガラスをふるわせながら、彼はどなった。「いや、いらん!」とすぐにまたこう叫んだ。「君うちへ帰るのかい、じゃ、おれもいっしょに行こう」
 そういって、彼はヴロンスキイとともに外へ出た。

[#5字下げ]二〇[#「二〇」は中見出し]

 ヴロンスキイは、広々として、清潔な、二つに仕切られた、フィンランド風の田舎家に泊まっていた。ペトリーツキイは野営でも、彼といっしょに起居していた。ヴロンスキイとヤーシュヴィンが入っていった時、ペトリーツキイは眠っていた。
「起きろ、寝るのはたくさんだ」ヤーシュヴィンは仕切りのむこうへ入って、鼻を枕につっこみ、髪をふり乱して寝ている、ペトリーツキイの肩をゆすぶりながらいった。
 ペトリーツキイはいきなり起きあがって膝をつき、あたりをきょろきょろ見まわした。
「君の兄さんがここへ来たよ」と彼はヴロンスキイにいった。「いまいましい、ひとを起しゃがって、またくるといったよ」そういって、また毛布をひっかぶりながら、枕に頭をおとした。「おい、よせよ、ヤーシュヴィン」と彼は、毛布をひっぺがそうとするヤーシュヴィンに、ぷりぷりしながらいった。「よせったら!」彼は寝返りして眼を開けた。「君、それより何を[#「何を」に傍点]飲んだらいいか教えてくれ、口の中がいやあな気持だ、それこそ……」
「ウォートカが一番だ」とヤーシュヴィンは低音《バス》でいった。「テレシチェンコ、旦那にウォートカと、それから胡瓜《きゅうり》だ!」と彼は叫んだが、どうやら自分の声を聞くのが楽しみらしかった。
「ウォートカがいいと思うかい? え?」顔をしかめ、眼をこすりながら、ペトリーツキイはいった。「じゃ、君もやるかい? いっしょなら飲むとしよう! ヴロンスキイ、君もやるね?」とペトリーツキイは起きあがり、腕から下を虎の毛皮にくるまりながらいった。彼は仕切りの戸口へ出て、両手をさし上げ、フランス語で歌い出した。「トゥルに一人の王ありて……ヴロンスキイ、飲むかい?」
「うるさい」従僕のさしだした上衣を着ながら、ヴロンスキイはいった。
「おや、いったいどこへ行くんだい?」とヤーシュヴィンはたずねた。「そら、三頭立が来たぜ」と、近づいてくる幌馬車を見て、つけ加えた。
「厩《うまや》へ行くんだよ。それに、僕はブリャンスキイのとこへも、馬のことで相談にいかなくちゃならないんだ」とヴロンスキイはいった。
 本当にヴロンスキイは、ペテルゴフから十露里はなれたところにいるブリャンスキイに、馬の代金を届けてやる約束をしていたので、そこへもなんとかして寄りたいと思っていた。しかし二人の友は、彼の行き先はそこばかりでないことを、たちまち見ぬいてしまった。
 ペトリーツキイは、やはり歌いつづけながら、片目をちょっとぱちつかせて、唇を尖らせたが、その様子はまるで、それがどんなブリャンスキイか、ちゃんと承知してるよ、とでもいうようであった。
「いいか、遅れないようにしろ!」とヤーシュヴィンは、ただそれだけいって、すぐ話題を変えるために、「どうだね、おれの葦毛《あしげ》は、よくご奉公してるかい?」と彼は窓の外を見ながらきいた。自分の譲った中馬のことである。
「ちょっと!」もう出ていこうとするヴロンスキイのうしろから、ペトリーツキイはこう叫んだ。「君の兄さんが手紙を置いていったよ。待ってくれ、どこへやったかな?」
 ヴロンスキイは歩みをとめた。
「さあ、いったいどこにあるんだ?」
「どこにあるかな? こいつが問題だて!」人差し指を鼻の前で上向きに立てながら、ペトリーツキイはものものしい調子でいった。
「おい、いわんか、そんなことばかげてるじゃないか!」とヴロンスキイは、にやにやしながらいった。
「ストーヴは焚《た》かなかったし、と。どこかこの辺に相違ない」
「さあ、悪ふざけはたくさんだ! どこに手紙があるんだよ?」
「いや、本当に忘れたんだ。それとも、あれは夢だったかな? 待てよ、待てよ! まあ、何もそう怒ることはないじゃないか! 君だって昨日の僕のように、一人当り四本の酒を空《から》にしてみろ、自分がどこにねてるのかも忘れてしまうから。待て待て、いま思い出すよ!」
 ペトリーツキイは仕切りのむこうへ行って、自分の寝台に横になった。
「待ってくれ! おれがこうしてねていると、あの男はこんなふうに立っていた、と。そう――そう――そう――そう……ほら、ここだ!」そういってペトリーツキイは藁《わら》蒲団の下から、しまい忘れた手紙をとりだした。
 ヴロンスキイは手紙と、兄の書き残しを受けとった。それはまさしく彼の予期していたもので、彼がこないのを責めた母の手紙であった。兄の書き残したものには、何か話があるとしたためてあった。ヴロンスキイには、相変らず例の問題だということがわかっていた。
『あの人たちになんの関係があるというのだ!』とヴロンスキイは考え、手紙をわしづかみにして、上衣のボタンの間へつっこんだ。道道ていねいに読むつもりだったのである。入口の廊下で、二人の将校にぱったり出会った。一人は同じ連隊、もう一人はほかの隊に勤めていた。
 ヴロンスキイの宿舎は、あらゆる将校の巣窟《そうくつ》になっていた。
「どこへ?」
「ペテルゴフヘ用があるんだ」
「王村《ツァールスコエ》の馬は来たかい?」
「来た、が僕はまだ見ていないんだ」
「なんでも、マホーチンのグラジアートルが、びっこをひきだしたそうだね」
「何をくだらない! それより、君、このぬかるみをどうして駆けるつもりだい?」と、も一人のほうがいった。
「ああ、おれの救い主が来た!」新しく入ってきた二人を見て、ペトリーツキイがこう叫んだ。そのまえには、ウォートカと塩漬け胡瓜を盆にのせた従卒が立っていた。「じつはね、ヤーシュヴィンが宿酔《ふつかよい》に一杯やれというんでね」
「いや、昨夜はおかげで、ひどい目にあったよ」と新来の一人がいった。「夜っぴて寝さしてもらえないんだもの」
「いや、それより結末がたいへんだったんだよ」と、ペトリーツキイは話し出した。「ヴォルコフのやつが屋根へはいたして、おれは淋しいっていうじゃないか。そこで僕が、楽隊、演奏、葬送曲だ! とやったもんだから、先生そのまま屋根の上で、葬送曲を聞きながら、寝入ってしまったってわけさ」
「飲め、ぜひともウォートカを飲むんだ。そのあとで、ソーダ水にレモンをうんと入れてな」まるで子供に薬を飲ませようとしている親よろしく、ペトリーツキイのそばに立って、ヤーシュヴィンはこういった。「それから、いよいよシャンパンだ、ほんの少し、まあ小びんだな」
「いやあ、こいつは気がきいてるぞ。待て、ヴロンスキイ、やろうよ」
「いや、失敬する、諸君、今日はぼく飲まないから」
「どうしたんだい、体が重くなるかい? じゃ、われわれだけでやろう。ソーダ水とレモンを持ってこい」
「ヴロンスキイ!」彼がもう入口の廊下へ出た時、だれかがこう叫んだ。
「なんだい?」
「君、刈込《かりこ》みをしたらいいのに、でないと、髪が重っ苦しく見えるよ、ことにその禿げたところが」
 実際、ヴロンスキイは年に似合わず、早くも頭が薄くなりかかっていた。彼はびっしり並んだ歯を見せて、愉快そうにからからと笑い、禿げたところへ帽子をずらせて、外へ出ると、幌馬車に乗った。
「厩舎《きゅうしゃ》へ!」と彼はいい、もいちど読み返そうと思って、手紙を出しかけたが、すぐにまた、馬の点検をすますまでは、気を散らさぬことに考えなおした。『あとにしよう!………』