20240808木曜、15,10,20,10分、校正
20240809、45分、15分、10分、20分、10分、
20240810土曜
0900-0907、P192上―192下
0913-0928、P151上―P164下、誤字脱字を直す、8カ所
1924-1944、P164上―P192上、誤字脱字を直す、8か所
「ああなんたら因果な目」、底本ママ
「手っぱる」、対抗するの意味、底本ママ
20240813
■56-■22、26分、P145―P176、注記部分と段落わけの校正、34カ所
■28-■37、11分、P177-192、注記部分と段落わけの校正、4カ所
(144-192、「バクルーシン」「バクルシーン」の混在)
に、こう声をかけた。「このでくの坊め!」と彼は付け加えて、しょげかえったブールキンをさもばかにしたようにさきへ通し、またもやバラライカを掻き鳴らし始めた。
しかし、このむっとするような乱痴気騒ぎを、くだくだしく書き立てたところでしょうがない! ついにこの息づまるような一日も終わった。囚人たちは寝板の上で、重苦しい眠りに落ちていく。眠りながらも、彼らはいつもの晩より余計に寝言をいったり、うなされたりするのだ。そこここにはまだマイダンをやっている者もある。長いこと待ちこがれた祭日も過ぎてしまった。あすからはまた平日で、また仕事に行くのだ。
[#3字下げ]11 芝居[#「11 芝居」は中見出し]
クリスマスの三日めの晩、わたしたちの劇場で第一回の芝居が催された。それまでにするについては、おそらく大変な骨折りだったろうが、役者たちが何もかも一手に引き受けてしまったので、わたしたちほかの連中は、どういうことになっているのか、どんなことをしているのか、知らないほどであった。それどころか、どんな芝居をやるのかさえも、はっきりしたことはわからなかった。役者たちはこの三日間というもの、仕事に出ながら、すこしでも余計に衣装を手に入れようと苦心していた。バクルーシンはわたしと出会うたびに、うれしさのあまり指をぱちりと鳴らすのみであった。どうやら、要塞参謀のほうも風の吹きまわしがよさそうであった。もっとも、彼が芝居のことを知っているのかどうか、わたしたちにはてんで見当がつかなかった。もし知っているものとすれば、公然と許可したものやら、それともただ見て見ぬふりをしていようと腹を決めたものか、それならば、できるだけ不始末がないようにと念を押したうえで、囚人たちのしたいことをさせておけ、と諦めをつけたものに相違ない。わたしの考えるところでは、彼は芝居のことを知っていたらしい。知らないはずがないからである。しかし、これを禁止したら、かえって結果が悪いかもしれない、囚人たちは悪戯をしたり、酔っぱらい騒ぎを始めたりするだろうから、何かほかのことに熱中させておいたほうがいいと分別して、干渉がましいことを控えたに相違ない。ただし、わたしが要塞参謀の腹を推量して、このような分別をしただろうというのも、要するにそれが最も自然な、最も間違いのない、常識にかなった考えだからである。それどころか、もし囚人たちが祭日に芝居をやるなり、もしくは何かこれに類したことをしなかったら、むしろ当局自身がそれを考え出してやるべきである、とこうもいうことができよう。しかし、わが要塞参謀はほかの人間とくらべて、まったく正反対な考えかたをする人間だったから、彼が芝居のことを承知の上でさし許したものと想像したわたしは、大きな過ちを犯しているかもしれないのである。要塞参謀のような人間は、どこへ行ってもだれかを押えつけたり、何かを取りあげたり、人の権利を剥奪したりして、要するに、何か権勢をふるわなければいられないのであった。この意味で、彼は町じゅうに響き渡っていた。こういう圧制のために、万一獄内で騒動が起こったところで、彼にとっては別段こまることはないのだ。わるふざけをすれば、それに対して刑罰というものがあるし(わが要塞参謀みたいな人間は、こういうものの考えかたをするものである)、囚人の悪党どもに対しては厳格な処置があり、文字どおりの絶え間なき法の適用がある。――これが要求されるいっさいなのだ! こうしたぼんくらな法の執行者は、つぎのことを理解しない、というよりまるで理解する力がないのだ、――法の精神を弁えないで、意味もなく文字どおりにそれを実施しただけでは、ただ混乱をひき起こすばかりであって、けっしてそれ以外の結果を見ることはできないのである。ところが、彼らは『法律にこう書いてあるのだから、それ以上なにが必要なのだ?』と称して、法文のほかに、なお常識や冷静な頭脳を要求されると、心底からあきれ返る始末である。ことに冷静な頭脳にいたっては、彼らの多数にとって余計な、いまいましい贅沢のように思われ、やりきれない窮屈なものに感じられるのである。
それはともあれ、古参下士はべつに囚人たちを咎め立てしなかった。こちらはまたそこがつけめなのである。わたしは断乎としていいきるが、クリスマスの間にたいした不始末が一件も獄内に起こらなかったのは、芝居をするということと、それを許可してもらったという感謝の念が原因しているのだ。じっさい、たちの悪い喧嘩もなければ、盗みひとつなかったのである。それどころか、芝居をさしとめられたら大変だというただこれだけの口実で、あまりはめをはずした酔っぱらいや喧嘩している連中を、仲間同士がなだめたもので、現にわたしもそういう場面を目撃した。下士は囚人たちに、万事穏やかにして行状を良くすると約束さした。こちらは喜んでそれに応じ、神妙に約束を守った。自分たちの言葉を信用してもらえるということも、おおいにうれしかったのである。もっとも、断わっておかなければならないが、芝居を許可するのは当局にとってなんの造作もないことで、全然犠牲を払う必要がなかったのだ。あらかじめ場所を囲っておくようなこともないので、劇場はわずか十五分ばかりで組み立てて、取りこわすことができた。芝居は一時間半ばかりかかったが、もしとつぜん当局《かみ》からの命令で演技を中止しなければならなくなっても、見る間に万事片づいてしまったに相違ない。衣装は囚人たちの箱の内にしまってあった。しかし、劇場の設備がどんなふうで、また衣装がどんなものであったかを説明する前に、芝居の筋書き、つまり、何を演ずる予定になっていたかを一言しておこう。
とくに書かれた筋書きというものはなかった。が、第二回、第三回の開演に対しては、初演の時に来場の栄を与えてくれた将校連や、その他一般の上客のために、バクルーシンの筆になる筋書きが一部だけさし出された。というのは、おえらがたの中でいつもやって来るのは衛兵将校で、そのほか当直将校も一度見物に来たことがある。同様に工兵将校も一度顔を見せた。つまり、こういう人たちの来場に備えて、筋書きが作られたのである。監獄劇場の名声は遠く要塞の外にまで轟いて、町じゅうに響き渡るだろうという見込みであった。まして、ここの町には劇場がなかったのだからなおさらである。一度素人芝居が催されたといううわさだが、ただそれだけの話である。囚人たちはまるで子供のように、わずかな成功にもいちいち、うちょうてんになって、これをみえ[#「みえ」に傍点]にしていたくらいである。『なんともいえたもんじゃねえぜ』と彼らは腹の中で考えたり、仲間同士で話し合ったりした。『もしかしたら、司令官までがうわさを聞き伝えて、見物に見えるかもしれねえぜ、その時こそ、囚人がどんなものかわかってもらえるだろうよ。なにしろ、えたいのしれねえかがしみてえなものや、ふわふわ浮いている舟や、歩きまわる熊や山羊などの出て来る、ただの兵隊芝居たあ、わけが違うんだからな。こっちにゃなにしろ役者がいるんだ、本物の役者がいて、旦那がたのやる喜劇をして見せるんだからな、こんな芝居は町にだってありゃしねえや。一度アブロシーモフ将軍のところでやったことがあるし、またこのさきでもやるそうだが、なあに、そんなのはただ衣装で見せるばかりで、せりふにかけちゃおれたちのほうに敵《かな》いっこありゃしねえ! ひょっとしたら、県知事の耳にまで入って、――この世にゃどんなことが起こらねえとも限らねえから、ご自分で見物に来たいとおっしゃるかもしれねえぞ。なんせ、町にゃ芝居がねえんだからな……』手っ取り早くいえば、囚人たちの空想は祭日の間に、ことに初演の成功を見たあとでは、もう絶頂に達して、賞与でも出はしないか、労務時間を減らしてもらえはしないか、などと考えかねまじい勢いであった。そのくせ、彼らはほとんどそれと同時に、いとも長閑《のどか》な気持ちで自分で自分を笑うのであった。要するに、彼らは子供であった。これらの子供の中には、四十|面《づら》さげたのもいたが、それにもかかわらず、ずぶの子供であった。筋書きはなかったものの、わたしは上演の予定になっていた芝居を、もうあらまし知っていた。一番目の狂言は『フィラートカ、ミローシカ、悪の鞘当て』というのであった。バクルーシンは芝居の開く一週間も前から、自分は主人公のフィラートカの役を引き受けたが、それこそサンクト[#「サンクト」に傍点]・ペテルブルグの劇場でも見られないほど、りっぱに仕こなして見せると、わたしに自慢したものである。彼は監房という監房を歩きまわって、無遠慮に臆面もなく、同時に心から無邪気な調子で得意げに吹き立てるのであった。ときおり思いがけなく何か『芝居がかりで』やり出す。つまり、自分の持ち役のせりふや仕ぐさをやって見せるのである。すると一同は、彼のいったりしたりすることが、おかしかろうとおかしくなかろうと、どっとばかり声を揃えて笑った。もっとも、こんな場合でも、囚人たちが自制して品位を保つことを心得ていたのは、認めてやらなければならない。バクルーシンの突飛な仕ぐさや、目前に迫った芝居の話にうちょうてんになっていたのは、程合いということを知らぬ、嘴《くちばし》の黄色いごくの若造か、さもなくば、囚人の中でも一番しっかりした連中だけであった。この連中は、自分たちの権威が確固不動なものになっていたので、ざっくばらんに自分の感じを表白するのに、なんのおそれるところもなかったのである。たとえそれがどんなものであろうとも、どんなに無邪気なものであろうとも(監獄内の観念にしたがうと、これは最も不体裁なものであった)、いっこうにかけかまいがなかった。その他の連中は、黙っていろいろな取り沙汰やうわさ話を聞いていた。べつに非難や反対はしなかったが、芝居のうわさに対してはできるだけ無関心な、いくぶん見くだすような態度をとろうと努めていた。やっと日が迫って来て、いよいよ芝居の当日ということになった時、人々ははじめて興味を示すようになった。いったいなにをやるのだろう? 仲間の役者連はどんなふうにやりこなすか? 要塞参謀はどんなに見ているのか? おとどしと同じようにうまくいくだろうか? 云々、云々。バクルーシンがわたしに力説したところによると、役者はすばらしい粒揃いで、みんな一人残らず『役がらに嵌まっている』ということだった。そのほか緞帳《どんちょう》までもできるはずだとか、フィラートカの許嫁をやるのはシロートキンだが、あれが女の衣装をつけたところはどんなふうだか、まあひとつご自分で見てくだせえといったようなことを、彼は目を細め舌鼓を打ちながら話すのであった。慈善家の女地主は、裾飾りのある着物を着て、小さなマントを肩にかけ、手にはパラソルを持って出るはずだし、慈善家の地主は参謀紐章のついた将校の制服を着こみ、ステッキを突いて出るはずである。さて、そのつぎは二番目の狂言で、『大飯食いのケドリール』という戯曲である。この芸題はいたくわたしの興味をそそったが、どんなにその脚本のことを根掘り葉掘り聞いてみても、あらかじめ何ひとつ知ることができなかった。ただそれが本から取ったものでなく『書き抜き』によったものだ、ということだけ突きとめた。この脚本は町はずれに住んでいる予備の下士か何かのところで手に入れたのだが、おそらくこの男はいつか兵隊芝居で、自分でもこれを演じたに相違ない、とのことであった。わが国の辺鄙な町や県などに、だれも知る人のなさそうな脚本、おそらく一度も印刷されたことがなく、どこからともなくひとりでに現われて、ロシヤの一定地域内にあるすべての『民衆劇場』にとって欠くべからざる付属品となっているような脚本が、存在するのは事実である。もしわが国の研究家の何人《なんびと》かが民衆劇場について、従来よりもいっそう綿密な新研究に従事したら、おおいに、おおいに好ましいことであろう。この民衆劇場は現に存在しているばかりでなく、あながち取るに足らぬものではなさそうである。わたしがその後、わが監獄劇場で見たすべてのものが、仲間の囚人たちによって考え出されたものだと信じたくない。そこにはかならずや伝統の継承と、古い記憶によって代々伝えられていく一定した手法と、概念があるに相違ない。それらのものは兵隊や職工の間に、工場町に、あるいはさらに進んで、名も知れぬ田舎町の町人の間にすらさがし求めなければなるまい。それはまた村々や、県庁所在の都市などで、大地主の召使の間にも保存されているのだ。それどころか、わたしの想像するところでは、古い脚本の多くはほかならぬ地主の召使を通して、写本の形でロシヤ全国にひろまったに相違ない。昔の古い地主やモスクワの貴族たちは、農奴の役者から組織された個人経営の劇団をかかえていた。つまり、こうした劇団がわが民衆演劇の濫觴《らんしょう》になったので、その徴候は疑う余地がない。ところで、『大飯食いのケドリール』はどうかというに、舞台に悪魔が現われて、ケドリールを地獄へ連れて行くというよりほか、どんなに所望しても、この脚本についてなんら予備知識を得ることができなかった。しかし、そもそもケドリールとは何を意味するのか、それに第一、なぜキリールでなくてケドリールなのか? それはロシヤの出来事なのか、それとも外国で起こったことか、その点はついに突きとめられなかった。それから、切り狂言として『音楽入りの無言劇』があるという触れ込みだった。もちろん、それは興味をそそるものである。役者は十五人ばかり、――みな揃って威勢のいい元気者ばかりであった。彼らは内証でこそこそやったり、ときどきは監房裏で稽古をしたり、どこかに隠れたり、いかにも秘密めかしくやっていた。要するに、何か飛び離れた思いがけない趣向で、わたしたち一同をあっといわせようというのだ。
ふだんは、夜になるが早いか、監獄は早くから閉められてしまった。が、クリスマスの間だけは例外で、夜半を告げる太鼓が鳴るまで閉められなかった。この特典はじつのところ、芝居のために与えられたのである。祭の間じゅうたいてい毎日夕刻前に、監獄から衛兵将校のところへ使を出して、『芝居を許可してもらえるように、またなるべく長いこと監獄を閉めないでおくように』と折り入って頼み込むのであった。そのさいに、昨夜も芝居があって、長いこと閉めないでおいたが、何ひとつ不始末はなかった、とつけ加えたものである。衛兵将校はつぎのように考える、『きのうはじっさい、不始末なんかなかった。それに、今夜も間違いないと自分のほうから保証している以上、つまり自分たちで気をつけるつもりなのだろう。してみると、これほど確かなことはない。それに、もし芝居を許可しなかったら、あるいはわざと当てつけに、何かとんでもないことを仕出かして、監視のものを困らせるかもしれない(なにしろ懲役人のことだから、何をやり出すかわかったもんじゃない!)』最後にこんなことも考える、――衛兵所に詰めているのは退屈だが、ちょうどそこへ芝居と来た、しかもただの兵隊芝居とちがって、囚人の芝居である。囚人というものは面白い連中だから、見物したら気が晴れるだろう。衛兵将校はいつでも見る権利があるのだ。
当番将校がやって来る。『衛兵将校はどこにいる?』『囚人どもの点呼をして、監房を閉めに監獄へ行きました』まっすぐな答えであり、まっすぐな弁解である。こういうわけで、衛兵将校は祭の間じゅう毎晩芝居を許可して、夜半の太鼓までずっと監房を閉めないでおいた。囚人たちも、衛兵所のほうから故障の出ないことを前から知っていたので、落ちつき払っていた。
六時すぎごろ、ペトロフがわたしを迎えに来たので、わたしたちは打ち揃って芝居見物に出かけた。わたしたちの監房からは、チェルニゴフの旧教信者とポーランド人たちを除くほか、ほとんどぜんぶ出かけた。ポーランド人たちはやっと一月四日の千秋楽の日に、見物に行こうという決心がついたが、それもみんなの者から、芝居は面白くって愉快だし、おまけに危険もないと、さんざん勧められたあげくのことであった。ポーランド人たちの気むずかしげな態度も、囚人たちをいささかも怒らせはしなかった。彼らは一月の四日に、きわめて慇懃にポーランド人たちを迎えたのであった。むしろ上等の席へ通したほどである。チェルケス人たちや、ことにイサイ・フォミッチはどうかというと、彼らにとってわたしたちの芝居は心からの喜びであった。イサイ・フォミッチは、そのつど三コペイカずつ出したが、最後の日などは皿の上に十コペイカ載せた。その顔には幸福の色が浮かんでいた。役者たちは芝居の費用や、自分たちの元気[#「元気」に傍点]づけに当てるために、見物人から応分の祝儀を集めることに決めたのである。ペトロフは、小屋がどんなに鮨《すし》づめになっていても、わたしはかならず上等席に通されると請け合った。わたしがだれよりも一番の金持ちだから、祝儀もおそらく余計にはずむだろうし、おまけに、人よりも芝居がよくわかっているから、とのことであった。はたしてじじつそのとおりになった。が、まず最初に見物席と舞台の構造を述べることにしよう。
劇場に当てられた軍事犯の監房は、奥行き十五歩ばかりあった。外から入るには、まず入り口階段にあがり、入り口階段から控え室へ、控え室から監房へ、という順になっていた。この長細い監房は、前にもいったとおり、特殊な構造になっていた。寝板が壁に沿って並んでいたので、部屋の真ん中は、ゆったりとしていたのである。出入り口に近い室の半分は、見物席に当てられ、ほかの監房に通ずる残りの半分は、舞台に使われていた。劈頭第一にわたしを驚かしたのは幕である。それは幅十歩ばかりある監房いっぱいに張られていた。幕は豪奢をきわめたもので、たしかに一驚に値いした。のみならず、油絵具で一面に模様が描かれ、木や、四阿《あずまや》や、池や、星などが現わされてあった。それは、いろんな人からできるだけ寄付してもらった新旧さまざまの布切れを継《つ》ぎ合わせたものである。古い囚人用の脚絆やシャツの類を、どうにかこうにかひとつの大きな布に縫い合わせ、最後に布の足りなかったところには、ただの紙を張りつけてあった。この紙も同様に、方々の事務所や役所から一枚ずつもらって来たものである。監獄内のペンキ屋たちが、――その中にはかのブリューロフ、すなわちA―フが群を抜いていた――この幕に模様を書いたり色を塗ったりするのに、一|臂《ぴ》の労をかしたわけでる。効果は驚くべきものがあった。こうした豪奢ぶりは、とくに気むずかしい文句屋の囚人たちまでも喜ばした。彼らは芝居が始まるやいなや、最も熱心に待ち焦れていた連中と同様、一人の例外もなく、みんな子供のようになってしまった。だれもかもが満足しきっていたが、それは誇りの交じった満足感であった。照明は、いくつかに切り分けられた五、六本の脂蝋燭であった。幕の前には、炊事場から持って来たベンチが二つ据えられ、ベンチの前には下士官室にあった椅子が三、四脚おいてあった。椅子は万一最上等のお客、すなわち将校がたの見えた場合のために用意されたもので、ベンチは下士とか、工兵隊の書記とか、監督とか、そのほか役人ではあるけれども、将校の官等を持っていない人たちが、ひょいと監獄へ顔をのぞけた時のために備えられたのである。はたして外部からの見物は、祭の間じゅう絶え間がなかった。その時その時によって、人数に多少の差はあったけれど、千秋楽《らく》の晩などは、ベンチにひとつの空席も残らなかったほどである。最後に、そのベンチからうしろが囚人たちの席になっていて、彼らは来賓に敬意を表して脱帽のまま立っていたが、室内の空気が息苦しく蒸れ返っているにもかかわらず、上着のみか半外套を着ている者もあった。もちろん、囚人たちに当てられた場所はあまりにも狭すぎた。しかし、彼らは文字どおり重なりあっていたし、――とくに後列のほうではそれがはなはだしかったが、なおそのほか寝板や袖のそばまでが占領された。それどころか、なかにはのべつ小屋を通り抜けて、隣の監房へ入り込み、そこの楽屋裏から芝居をのぞき見する、という好劇家もあった。監房の手前半分の狭苦しさといったら、ほんとうと思えないくらいで、おそらくわたしがつい最近目撃した浴場の狭苦しさと雑沓に、匹敵するばかりであった。控え室の戸はあけ放されてあった。零下二十度もあるこの控え室でも、やっぱり大勢おし合いへし合いしていた。わたしとペトロフとはすぐさま前のほうへ、ほとんどベンチのすぐそばへ通してもらったが、そこは後列にくらべるとはるかに見よかった。これもひとつはみんながわたしというものを、本場の芝居を見慣れて来た劇通であり、鑑賞家であると見なしたからであろう。それに、この間からしじゅうバクルーシンがわたしに相談を持ちかけて、わたしに敬意を表しているのを見て来たので、そのために今こういう名誉が与えられ、上席が譲られたものに相違ない。かりに囚人たちが極度に虚栄心の強い、軽薄な人間であるとしても、それはみんな表面《うわべ》だけの付け焼刃である。囚人たちは労役の時など、わたしがあまり役に立たないのを見て嘲笑したが、それもかまわない。アルマーソフは雪花石膏を焼く腕を鼻にかけて、わたしたち貴族を侮蔑の目で見たが、それもかまったことではない。彼らがわたしたちを迫害し、嘲笑するのには、まだほかの原因が交じっていた。われわれはかつて貴族であった。つまり、彼らとしては、よき記憶をいだくはずのない彼らの旧主と同じ階級に属していたのだ。ところが、今この劇場では、彼らはわたしに道を譲ってくれた。この方面にかけては、わたしのほうが彼らより優れた鑑賞力を持っていること、わたしのほうが彼らより多く見、多く知っているということを、彼ら自身が認めたわけである。なかでも、わたしに対してとくに好感をいだかない連中でさえも(わたしはそれを承知している)、今は自分たちの芝居をわたしたちから褒めてもらいたさに、なんら屈辱の念もなく、わたしを上席へ通してくれたのである。わたしは当時の印象を思い起こしながら、今こんなふうに考えている。わたしは当時すでに感じたことだが、――今でもそれを覚えている、――彼らの公平な自己判断にはけっして屈辱など交じっていず、むしろ自己の品位を守る気持ちがあったのだ。わが民衆の性格を示す最も顕著な最高の特色は、ほかでもない、公正の感情とこれに対する渇望である。当人にそれだけの価値があろうと、なかろうと、いかなる場所でも遮二無二[#「遮二無二」に傍点]みんなの前に出しゃばろうとする雄鶏じみた癖は、わが民衆の中には認められない。ただちょっと表面にくっついている皮を剥いで、先入見なしに注意ぶかくちかぢかとその核心をのぞいてみたら、わが民衆の中に想像もしなかったようなものを発見する人があるに相違ない。われわれ仲間の賢人たちは、民衆にあまり多くのことを教えるわけにいかないのだ。わたしはむしろ断言するが、かえって彼らこそ民衆に学ばなければならないのだ。
ペトロフは、まだ二人で芝居へ出かける支度をしている時に、わたしはきっと前のほうへ通してもらえるに相違ないが、それはわたしが金をよけいに出すということも原因のひとつなのだ、とこんな意味のことを無邪気な調子でわたしにいったものである。まったく決まった相場というものはなくて、みんなできるだけのもの、気のむいただけのものを出すことになっていた。ほとんどすべての者が、皿を持って金を集めに来る時、よしんば二コペイカでも、何がしかの金をその中へ入れた。しかし、わたしが前のほうへ通してもらったのも多少は金のおかげであって、わたしが人よりもよけい出すだろうという予想にもとづいたとしても、そこにはやはり測り知れないほどの自尊心が隠れているのだ! 『おまえはおれより金持ちなのだから、前のほうへ出るがいい。ここではみんな平等ではあるけれども、おまえはおれたちよりよけいに出すだろうから、してみればおまえのような見物人は役者たちにとって一倍うれしいわけだ。だから、おまえに上席を譲ろう。なぜといって、おれたちはみんな、金でここへ来ているのではなく、尊敬の気持ちからやって来てるんだから、したがって見物の部わけも自分たちでしなくちゃならないんだ』こういった気持ちの中には、真に潔白な誇りが、どれほど含まれているかしれない! これは金に対する尊敬ではなくて、おのれ自身に対する尊敬である。概して監獄では、金や富に対して特殊の尊敬を払わなかった。囚人たちを一団として、組合として無差別に見る時には、ことにしかりである。よしんば彼らを一人ずつ、別々に見たとしても、金のために心から卑下するような人間は、ついぞ一人も覚えていないくらいである。なかには無心者もいて、わたしなどもゆすり倒されたほうである。しかし、その無心には直接の意味よりも、悪戯やわるふざけの気分がむしろ勝っていた。そこにはユーモアや無邪気な分子のほうが多かった。わたしのいいかたはわかりいいかどうか、われながら怪しいものだが……しかし芝居のほうをお留守にしていた。本題に立ち返ろう。
幕があがるまでというもの、監房内は奇妙な生き生きした光景を呈していた。第一には見物人の群れで、彼らは四方八方から押しつけられ、締めつけられて、体を煎餅のようにしながら、顔にさも幸福そうな色を浮かべて、辛抱づよく幕あきを待っている。後列のほうでは重なり合うようにして、鈴なりになっている人々、彼らの多くは炊事場から薪を持って来て、その太い丸太ん棒をどうやらこうやら壁に立てかけ、前に立っている男の肩に両手でつかまって、その上によじのぼり、そのまま位置を変えずに、かれこれ二時間のあいだ、自分と自分の席に満足しきって立ちどおすのだ。またあるものは、暖炉の出っぱったところに足をかけて、手でひしとしがみつきながら、やはり前のものに凭《もた》れかかって、そのまま始めからしまいまで立ちどおした。それは最後列の壁際なのである。横のほうでは、寝板の上にあがった連中が、同じく隙間のない群れを作って、楽手たちのうしろに立っていた。そこは上等の席だった。五人ばかりのものは暖炉の上に陣取って、のうのうと横になったまま下を見おろしていた。これこそ極楽である。反対がわの壁には窓があって、その窓じきりの上には遅れて来たり、いい席の見つからなかった連中が、やはり鈴なりになってうようよしていた。だれもかもが静粛に行儀よくしていた。みんな役人がたや来賓たちに自分のいいところを見せたかったのである。だれの顔を見ても、このうえもなく無邪気な期待が描かれていた。どの顔もどの顔もまっ赤になって、温気《うんき》と息苦しさのために汗ぐっしょりになっていた。これらの烙印で醜くされた額や頬に、今まで陰気で気むずかしかった人々の眼ざしに、かつてものすごい火を燃え立たしたこれらの瞳に、子供らしい喜びと愛すべき純真な満足の色が、なんと奇妙に輝いていたことか! みんな帽子なしでいたので、一様に右側を剃られた頭がわたしの目に映った。けれども、やがて舞台の上で忙しげにざわざわする物音が聞こえ始めた。もうじき幕があがるのだ。と、オーケストラが演奏を始めた……このオーケストラは一言の価値がある。横のほうの寝板の上に、八人ばかりの楽手が陣取っていたが、そのうち二人はバイオリンで(一挺は監獄内に見つかったし、もう一挺は要塞のだれかに借りたのである。弾き手は囚人仲間にあった)、三人がバラライカ、これはみんな手製である。――二人がギター、コントラバスのかわりに羯鼓《タンバリン》というわけである。バイオリンはただきいきいと騒々しい音を立てるばかりだし、ギターはやくざなものだったが、そのかわりバラライカは、今まで聞いたことのないほどすばらしいものであった。絃を掻き鳴らす指の速さは、最も巧妙な手品にくらべてもだんぜんひけを取らなかった。演奏されたのは舞踏曲ばかりであった。踊りの勘どころへ来ると、バラライカ弾きたちは指の節でバラライカの胴板をたたいた。調子、味、演奏の手ぎわ、楽器の扱いかた、曲節の伝えかたの特質、――それらはすべて個性のある独創的なもので、いかにも囚人音楽らしかった。ギター弾きの一人も、やはりりっぱに自分の楽器を呑み込んでいた。それは例の父親を殺した貴族出の男であった。羯鼓《タンバリン》にいたっては、ただもう奇蹟というよりほかはない。一本指の上でぐるぐるまわしたり、拇指《おやゆび》で皮の上を擦《こす》ったりするのであった。ときには細かく震動する、響きの高い、単調な音が続いているかと思うと、ときにはまた不意にその強い明瞭な音が、さながら豆でも撒いたように、さらさらするするという数知れぬ小さな音に砕け散るのであった。最後に、なお二梃の手風琴が現われた。わたしはそれまで、こうした単純な民衆楽器でどんなことをなしうるのか、まるで理解をもっていなかったのである。音の調和、こなれた演奏ぶり、それからとくにモチーフの解釈とその本質表現の性格、これらはただもう驚嘆すべきものであった。わたしはその時はじめて、ロシヤの奔放で大胆な舞踏歌の中に含まれている奔放大胆なものがはたしてなんであるかを、完全に了解したのであった。ついに幕があがった。一同はざわざわとして足を踏み変えた。後列のものは爪立《つまだ》ちになった。だれやら薪の上から落ちたものがある。だれもかれもが一様に口をぽかんとあけて、目を見据えた。深い沈黙があたりを領した……芝居が始まった。
わたしのそばにはアレイが、二人の兄をはじめ、その他のチェルケスたちと一団になって立っていた。彼らはすべて芝居におそろしく熱を上げて、その後も毎晩のように見物に来た。すべて回教徒、ダッタン人などという連中は、わたしの数次観察したところによると、総じて見世物類を夢中になって好むようである。彼らのそばには、イサイ・フォミッチもうずくまっていたが、彼は幕があがると同時に、全身聴覚と視覚に化し、奇蹟と享楽に対するきわめて無邪気な、貪るような期待にみたされ尽くしたらしい。もしこの期待を裏切られたら、さぞやみじめなものだったろうと思われるほどであった。アレイの可憐な顔はなんともいえない子供らしい、美しい喜びに輝いていたので、わたしは正直なところ、その顔を見るのが楽しくてたまらなかった。忘れもしない、役者が何か滑稽なうまいしぐさをして、満場どっと笑い崩れるような時、わたしはそのつどわれともなしにアレイのほうを振り返って、その顔をのぞき込むようにしたものである。が、彼はわたしのほうを見なかった、――わたしどころの騒ぎではなかったのである! わたしの左手の、さほど遠くも離れていないところに、一人の囚人が立っていた。いつもしかめっ面をして、いつも不平らしくぶつぶついっている男であった。これもやはりアレイに目がとまって、幾度もなかば笑うような目つきで彼を眺めているのに、わたしは気がついた。それほど彼は愛らしかったのである。この男はどういうわけか知らないが、彼のことを「アレイ・セミョーヌイチ」と呼んでいた。
『フィラートカとミローシカ』が始まった。フィラートカ(バクルーシン)は、なるほどりっぱなものだった。彼は驚くばかり正確に自分の役を演じた。見受けたところ、彼は自分の発する一言一句、一挙一動に思いを潜めたものらしい。なんでもないせりふや、ちょっとしたしぐさの一つ一つに、彼は役の性根にぴったり嵌まった意味と感じを与えたのである。この努力とこの研究に、驚くばかり自然な快活さと、単純昧と、無技巧の技巧をつけ加えてみるがよい。諸君も自分でバクルーシンを見たならば、これこそ大きな才能を持った、生まれながらの真の俳優であることに、かならずや同意されるに相違ない。わたしはこの『フィラートカ』を、モスクワやペテルブルグの劇場で再三見たことがあるので、はっきり断言するが、フィラートカの役を演じた両首都の俳優は、その演技において、二人ながらバクルーシンに劣るものである。バクルーシンにくらべると、彼らはフランスの農夫《ペーザン》であって、ほんとうの百姓《ムジック》ではない。彼らはあまり百姓らしく見せようとし過ぎたのである。のみならず、バクルーシンは競争心にも励まされていた。二番目狂言でケドリールの役を演ずるのが、ポツェイキンという囚人であることは、一同に知れ渡っていた。みんなは、なぜかこの男のほうがバクルーシンより才能があって、役者が一枚上だと思っていたので、そのためにバクルーシンは子供のように苦しんでいた。この数日間に彼は何度わたしのところへ来て、自分の気持ちをくどくど訴えたことか! 芝居の始まる二時間ばかり前から、彼は熱病やみのようにふるえていた。見物席にどっと爆笑が起こって、『凄いぞバクルーシン! よう、よう、大出来!』と声がかかると、彼の顔は幸福に輝きわたって、目には真の感興がきらめくのであった。ミローシカと接吻の場面になって、フィラートカが前もって『口を拭け!』と相手に叫んで、自分でも袖を拭くところなどは、なんともいえないほどうまく滑稽にいった。一同は腹をかかえて笑った。
しかし、わたしにとって何より興味が深かったのは、見物人のほうである。ここではもうみんなが、腹の底まであけひろげであった。彼らは余念なく自分の楽しみに浸りきっていた。賞讃の叫びはいよいよ頻繁になった。あるものは友だちを突っつきながら、そばにだれが立っているかということにも頓着なしに、というより、むしろそんなものなど目にも入らない様子で、早口に自分の印象を伝えている。あるものは何か滑稽な場面に出会うと、とつぜん、さもうれしくてたまらないように、群集のほうへくるりと振り返り、素早く一同を見まわして、みんないっしょに笑えとでもいいたげに手を振って、それからすぐに、また貪るような視線を舞台に転ずる。またあるものはただ舌鼓を打ったり、指を鳴らしたりしながら、じっと静かにひとつところに立っていられないらしいのだが、それかといって、どこへも動くわけにいかないので、ただかわるがわる足を踏みかえるばかりである。一番目の終わりごろには、一同の浮き浮きした気分は最高潮に達した。わたしは何ひとつ誇張などしていない。ひとつ想像していただきたいものだが、監獄、足枷、自由を奪われた境涯、まだまだ前途に控えている憂欝な年月、わびしい秋の日の雨だれのように単調な生活、こうして圧迫され幽閉されている人々に、とつぜん、ほんのいっときではあるが、羽をひろげて浮かれ楽しみ、重苦しい夢を忘れて、本物の芝居をすることが許されたのだ。しかも、それがどんな芝居かというと、どうだおれたちの腕を知ったか、囚人ってこんなもんだぞ! とばかり鼻を高くして、町じゅうをあっといわせるていのものなのだ。彼らはもちろん、なんでも、たとえば衣装にしても、珍しいのだ。彼らにとっては、たとえば、ヴァンカ・オトペートイとか、ネツヴェターエフとか、バクルーシンとかいう連中が、もう何年も毎日見慣れて来たのとは、まるで違う衣装で出て来るのを見るのが、もの珍しくてたまらなかったのである。『なにしろあれが囚人なんだからな、こちとらと同じように、足枷をがちゃがちゃ鳴らしている囚人でありながら、今はこうしてフロックを着こみ、山高帽をかぶって、マントなんか羽織って出て来るじゃねえか、――まるで文官みてえだ! 髭なんかくっつけて、髪もちゃんと伸ばしていやがる。ほら、赤いハンカチをポケットから引っぱり出して、振りまわすところはどうだ。旦那になって見せてるわけだが、ほんとうの旦那にそっくりそのままだあ!』というわけで、みんな、うちょうてんなのである。『慈善家の地主』は、かなり草臥《くたび》れたものではあったが、参謀紐章のついた副官の軍服を着て、徽章つきの帽子をかぶって登場し、すばらしい効果を引き起こした。この役には二人の望み手があって、――人はほんとうにしないかもしれないが、――どちらがこの役を演ずるかということで、二人とも小さい子供のようにやっきとなって争論した。どちらも参謀紐章のついた将校服を着て、みんなの前に現われたかったのである! そこでやむなく、ほかの役者たちが仲裁に入って、多数決でネツヴェターエフにその役を振ることに決めた。が、それは彼がりっぱで押し出しがよく、したがってよけい旦那らしく見えるからではなく、ただネツヴェターエフが一同に向かって、自分はステッキを持って舞台へ出、本物の旦那、ちゃきちゃきの洒落者そっくりに、そいつを振りまわしたり、地面に輪を描いたりすることができるけれども、ヴァンカー・オトベートイと来たら、ついぞ一度もほんとうの旦那を見たことがないから、そんな真似なんか夢にもできやしない、と力説したがゆえである。はたせるかな、ネツヴェターエフは夫人同伴で見物の前へ出るが早いか、すぐにどこから手に入れたのか知らないが、細い籐のステッキをちょこちょこと動かして、地面に輪を描くのばかり仕事にしていた。おそらく、それが最も上流の紳士がたの特色であり、流行の尖端を行くしゃれたしぐさと思い込んでいたらしい。察するに、かつてまだ子供の時分に地主邸に奉公して、はだしで駆けずりまわっていたころ、美々しく着飾った旦那が、ステッキを振りまわしているところをたまたま目にとめて、その振りまわしかたの鮮かさに恍惚となった、その印象が永久に消ゆることなく彼の心に残ったので、いま三十の年になって、すべてが記億によみがえり、一同の心をとりこにしようと企てたのであろう。ネツヴェターエフは、すっかり自分のしぐさに気をとられてしまって、もうだれの顔も見なければ、いっさいほかのほうへ向きもしないで、話をするにも目さえ上げず、ただ自分のステッキとそのさきを見つめるのに余念がなかった。
慈善家の地主夫人も、それ相当に注目すべきものであった。彼女は、着古して正真正銘のぼろになりきった古いモスリンの着物をき、両腕と首筋をむき出しにし、顔には紅や白粉をこてこてと塗り立て、キャラコの寝室用の帽子をあごに結びつけ、片手にはパラソルを持ち、片手には紙に模様を描いた扇を持って、のべつ煽ぎ立てるのであった。人々は哄笑の一斉射撃でこの夫人を迎えた。すると、当の令夫人もたまりかねて、幾度もぷっと吹き出したのである。この奥様を演じたのは、イヴァノフという囚人であった。少女に扮したシロートキンは、じつに可憐であった。対句《クブレット》になったせりふもうまくいった。てっとり早くいえば、一同の十二分な満足のうちに、一番目狂言は幕になったのである。批評がましい言葉などは聞かれなかった、またそんなものがあろうはずはなかった。
もう一度『家よわが家よ』の開幕楽《ウベルチュール》が演奏されて、ふたたび幕はあがった。これが『ケドリール』なのである。『ケドリール』はなにか『ドン・ファン』みたいなところがあった。すくなくとも大詰には主人と下男が、悪魔のために地獄へさらわれて行くのである。一幕完全に上演されたが、それはあきらかに断片であって、始めと終わりは台本が紛失してしまったものらしい。そこには意味もなければ、筋も通っていなかった。場面はどこかロシヤの旅籠《はたご》屋なのであった。亭主が、外套をまとってこわれた山高をかぶった旦那を部屋へ案内して来る。そのあとから下男のケドリールが、カバンと青い紙にくるんだ鶏をさげてついて来る。ケドリールは半外套を着て、召使ふうの帽子をかぶっている。これがつまり大飯食いなのである。バクルーシンの競争者であるポツェイキンという囚人が、これに扮しているのだ。旦那の役を演じているのは、一番目で慈善家の地主夫人になった、例のイヴァノフである。ネツヴェターエフの扮した旅籠屋の亭主は、この部屋には悪魔がいますと断わっておいて、引っ込んでしまう。何か心配事のあるらしい陰気な様子をした旦那は、そんなことなどとっくに知っている、と口の中でつぶやいて、ケドリールに荷物を解き、夕食の支度をするようにいいつける。ケドリールは臆病者で大飯食いなのである。悪魔と聞くが早いか、真っ青になって木の葉のようにふるえ出す。彼はさっさと逃げ出すはずなのだが、しかし旦那が怖いのだ。そのうえ腹がへっている。彼は好色漢《すきもの》で、ばかのくせに一流のずるいところがあり、臆病で、一歩ごとに主人をだましていながら、同時にその主人が怖いのである。それは下男としてりっぱな典型をなしており、どこかしら朧《おぼろ》げながらもレポレロ([#割り注]ドン・ファンの従者[#割り注終わり])の面影がしのばれる。そして、実際みごとに移植されているのである。ポツェイキンはたいした才能を持っていて、わたしの見たところでは、役者としてバクルーシンより一段と優れていた。わたしはもちろん、その翌日バクルシーンと出会った時、あまりはっきりとは自分の意見を述べなかった。そんなことをしようものなら、すっかり彼を落胆させてしまったに相違ない。旦那を演じた囚人も悪くなかった。彼はなんともかともいえないばかげきった出たらめかしゃべり散らしたが、せりふまわしは正確で生き生きとしており、しぐさもちぐはぐではなかった。ケドリールがカバンをいじくりまわしている間、旦那はもの思わしげに舞台を歩きまわりながら、今夜で自分の放浪もいよいよおしまいだと、さも聞こえよがしにいうのである。ケドリールはもの好きらしく聞き耳を立て、滑稽な顔をしながら a parte (傍白)をいって、ひと言ごとに見物を笑わす。彼は旦那など気の毒でもなんでもないけれど、悪魔ということを聞き込んでいるので、いったいどういうものか知りたくてたまらない、それで旦那に話しかけて、根掘り葉掘りし始める。とどのつまり、旦那は彼に向かって、むかしなにかで困ったとき、地獄の助けをよんだところ、悪魔が力をかして、自分を救い出てくれたが、きょうはちょうど期限の満ちる日だから、もしかしたら、悪魔が約束どおり、魂を受け取りにやって来るかもしれない、と説明する。ケドリールはやたらに臆病風をふかしはじめる。しかし、旦那は狼狽しないで、夕食の支度を命じる。夕食と聞くと、ケドリールはまたぞろ元気づいて、鶏を出したり、酒を出したりする。――そして隙を見ては、ちょいちょい鶏の身をむしって、自分で味ききをする。見物はどっとばかり笑う。ふと扉がぎいと軋《きし》み、風が鎧戸をたたく。ケドリールはがたがたふるえながら大急ぎで、ほとんど無意識に、大きな鶏の肉を口に押し込むが、呑み込むことができない。またどっと高笑いが起こる。『もうできたか?』と旦那は歩きまわりながらどなる。『へえ、ただいま……いまわたしが……支度をしておるところなんで』とケドリールはいいながら、自分がテーブルに向かって腰をおろし、悠々然として主人のご馳走を頬ばりはじめる。見物はあきらかに、下男のはしっこくてずるいのと、主人がばかな役まわりをしているのが、おおいに御意に召したらしい。なおポツェイキンがしんじつ賞讃に値いしたということも、認めてやらなければならない。『へえ、ただ今、いま、支度をしているところなんで』というせりふを、彼はあざやかにやってのけた。テーブルに向かうと、彼は貪るように食いはじめたが、もしや自分の横着を気づかれはしないかと、旦那の足音がするたびに、いちいちふるえあがり、旦那がくるりと向きを変えると、大急ぎでテーブルの下へ潜り込み、鶏もいっしょに引っぱり込むのであった。さて、やっとのことで一応腹の虫をおさえると、今度は旦那のことも考えてやる番である。『ケドリール、もうすぐかい?』と旦那が叫ぶ。『へい、できました』とケドリールは元気に答えたが、ふと気がついてみると、旦那の分といっては、ほとんどなんにも残っていない。皿の上にはじっさい、鶏の足が一本のこっているだけである。心配そうな沈んだ様子をした旦那は、いっこう気もつかないでテーブルにつく。ケドリールはナプキンを持って、旦那の椅子のうしろへ控える。彼が見物に向かって、間抜けな旦那をあごでしゃくって見せる時のせりふ、しぐさ、しかめ面の一つ一つが、見物から押えきれない笑いをもって迎えられるのであった。が、そのうちに、旦那が食事に取りかかろうとした瞬間に、悪魔が姿を現わす。ここのところはもういっこうにわけがわからない。悪魔の現われかたが、なんだかあまりに人間ばなれしているのである。書割の袖についている扉が開いて、何か白装束のものが現われる。頭がなくて、そのかわりに蝋燭をつけた提灯を載っけている。もう一人のお化けも頭に提灯をのせ、手に大鎌を持っている。なんのための提灯、なんのための大鎌だろう、なんのために悪魔が白装束をしているのだろう? それはだれにも説明がつかない。もっとも、だれ一人として、そんなことを考えるものはいないのだ。きっとそうしなくてはならぬことになっているものらしい。旦那はかなり勇敢に悪魔のほうへ振り向いて、おれはちゃんと覚悟ができているから、いつでも取って行くがいい、と叫ぶ。しかし、ケドリールは兎のように戦々兢々としている。彼はテーブルの下へ潜り込むが、すっかりおびえあがっているにもかかわらず、テーブルの上から酒のびんをさらって行くことは忘れない。悪魔どもは、ちょっとのま姿をかくす。ケドリールはテーブルの下からのこのこはい出して来る。しかし、旦那がまた鶏にフォークをつけようとすると、ふたたび三人の悪魔が部屋へ闖入して来て、うしろから旦那を引っつかみ、地獄へ引っぱって行く。『ケドリール! 助けてくれ!』と旦那は叫ぶ。が、ケドリールはそれどころではないのだ。今度は酒のびんも、皿も、パンさえも、テーブルの下へ引っぱり込んでしまう。こうして、彼はいま一人きりで、悪魔もいなければ旦那もいない。ケドリールはのこのこはい出して、あたりを見まわす。と、微笑が彼の顔をさっと照らし出すのだ。彼はずるそうに目を細め、旦那の椅子に腰をおろして、見物にうなずいて見せながら、なかばささやくようにいう。
『さあ、これでおれ一人になったぞ……旦那もいねえし!……』
一同は、彼が旦那なしでいるのがおかしいといって、きゃっきゃっと笑う。ところが、彼はさらに見物人のほうに向かって、いよいよ愉快そうに片目をぱちつかせながら、なかばささやくような声で、さも親しげにつけ加える。
『旦那は悪魔にさらわれちゃったよ!………』
見物の歓喜は果てしがないくらいである! 旦那が悪魔にさらわれたという事実のほかに、この一句はいかにもずるそうな調子で、人をばかにした得意げなしかめ面をしていわれたので、まったく拍手せずにはいられないのであった。しかし、ケドリールの幸福もそう長くは続かなかった。彼が酒びんをわがもの顔にして、コップになみなみと注ぎ、さておもむろに飲もうとするとたん、思いがけなく悪魔どもが引っ返して来て、そっと爪立ちでうしろから忍びより、いきなりその両脇に手をかけた。ケドリールはありったけの声を出してわめき立てる。恐ろしさのあまり、うしろを振り向く勇気さえないのだ。わが身を防ぐこともできない、両手にはびんとコップを持っていて、それがどうしても離せないのだ。恐怖のために口をぽかんとあけ、大きな目をむいて見物を見つめながら、三十秒ばかりじっとすわっていたが、その臆病な驚きの表情がじつに滑稽なので、そのままそっくりひとつの画面になりそうなほどであった。ついに彼は担ぎ上げられ、運び去られる。彼はびんを持ったまま両足をばたばたさせて、いつまでも叫び続ける。その叫び声は、舞台裏からもまだ聞こえて来るのだ。しかし、幕は下りて、一同はどっとばかり笑い崩れる、みんな、うちょうてんなのである……楽隊はカマリンスカヤを奏し始める。
はじめは静かな調子で、やっと聞こえるか聞こえないかであったが、やがてモチーフがだんだん発展して、テンポが早くなり、バラライカの胴板を打つ元気な音が聞こえて来る……これはカマリンスカヤが最高調に達したしるしである。もしグリンカ([#割り注]ロシヤの有名な作曲家、歌劇「命はきみのため」(イワン・スーサーニン)は代表作[#割り注終わり])が何かの偶然で、この曲をわたしたちの監獄で聞いたら、どんなによかったかもしれない。音楽に合わせて無言劇が始まった。カマリンスカヤは無言劇の続いている間じゅう、ずっと鳴りを静めない。舞台は百姓家の内部である。粉屋とその女房が舞台つきで出ている。粉屋は片隅で馬具の手入れをしているし、女房は別のほうで麻を紡《つむ》いでいる。女房に扮したのはシロートキンで、粉屋はネツヴェターエフである。
断わっておくが、わたしたちの芝居の舞台装置ははなはだ貧弱である。この狂言にしても、その前の幕にしても、見物は自分の目で見るというよりも、むしろ想像で補わなければならないのである。正面の壁のかわりに、何か絨毯《じゅうたん》のようなものか、さもなくば馬衣が引きまわされてあるし、わきのほうにはえたいの知れぬやくざな衝立《ついたて》が置いてある。左がわにいたっては何ひとつ道具がないので、寝板がまる見えという始末である。けれど、見物はやかましい文句屋ではないから、想像で現実を補うのに異議を申し立てない。ことに囚人は、その点ちゃんと素質を持っているのである。『庭だというんだから、庭のつもりでいればいいじゃないか。部屋なら部屋、百姓家なら百姓家だ、――どうせ同じことなんで、なにもたいして改まることはありゃしねえ』といった気持ちである。若女房に扮したシロートキンはなかなかかわいかった。見物の間には、いくたりかの褒め言葉が小声に発せられた。粉屋は仕事を終わると、帽子をとり、鞭を手にして、女房に近より、これから出かけて行かなくちゃならないが、もし自分の留守にだれかを引っぱりこんだら、それこそ……と彼は鞭を指して見せる。万事、仕方で説明するのである。女房は聞いてうなずいて見せる。どうやら、この鞭は彼女に馴染みの深いものらしい。女房は亭主に内証で浮気をしているのだ。亭主は出て行く。亭主が戸のかげに隠れるが早いか、女房はそのうしろから拳固を振り上げて、脅かすしぐさがある。やがて、戸をたたく音が聞こえる。戸が開いて、近所の男が現われる。同じく粉屋で長外套《カフタン》を着た鬚男である。その手には、贈り物の赤い頭布《きれ》を持っている。女房は笑う。けれども、この隣人が彼女をだこうとするとたんに、またもや戸をたたく音がする。どこへ隠れたものか? 女房は手早く男をテーブルの下へ隠し、自分はまた糸紡ぎをはじめる。と第二の崇拝者が登場する。これは軍服を着た書記である。ここまでは、無言劇は申し分なくすらすらといった。身ぶりも点の打ちどころがないくらい正確であった。こうした即席の役者たちを見ていると、感嘆の念さえいだかされる。そして、わがロシヤにはどれほど多くの力と才能が滅びていくことか、ときとしては、自由を奪われた苦しい運命の中で、いたずらに滅びていくことかと、われともなしに考えさせられてしまうのである! ところで、書記に扮した囚人はおそらく以前、田舎芝居か素人芝居にいたことがあるらしく、ここの役者どもは一人残らず芝居がわからなくて、舞台を歩くすべさえ知らない、と思いあがったものらしい。そこで彼は、いわば昔の芝居で時代物の英雄が登場するような足取りで、舞台へ出て来たものである。大きく片足を踏み出すと、まだ次の足を出さない前に、とつぜん立ちどまって、全身と頭をうしろに反らせ、傲然とあたりを睥睨《へいげい》した後、さてようやく片足を踏み出すのである。こうした歩きぶりが、時代物の英雄の場合でさえ滑稽であったとすれば、喜劇に出て来る軍隊書記の場合では、なおさら滑稽なわけである。しかし、わが見物たちは、多分これはそうあるべきものと考えて、のっぽの書記の堂々たる濶歩を、既成の事実として受け入れ、かくべつ批評がましいことをいわなかった。書記がやっと舞台の真ん中へ歩み出るか出ないかに、またぞろ戸をたたく音がした。女房はまたあたふたしはじめる。どこへ書記を隠したものか、長持の中がよかろう、さいわい蓋もあいている。書記は長持の中へ潜りこみ、女房がその上から蓋をする。今度の客は変わり種で、やはりぞっこん惚れ込んではいるのだが、少少たちがちがうのだ。それは婆羅門《ばらもん》僧で、ちゃんとその衣装までつけている。抑えきれない高笑いが、見物の間に起こった。婆羅門僧を演じたのはコーシュキンという囚人で、なかなか芸がよかった。第一、からだつきが婆羅門然としているのだ。彼は身ぶり手真似で思いのたけを打ちあける。両手を高く空に上げて、今度はそれを胸に当て、心臓を押えてみせる。けれども、彼がでれでれしはじめるが早いか、戸を激しくたたく音が響き渡る。そのたたきかたで亭主だと知れる。女房はびっくり仰天して前後を忘れるし、婆羅門僧は気ちがいのように跳びまわって、どこかへ隠してくれと哀願する。女房は大急ぎで、彼を戸棚の陰に立たせ、自分は戸をあけることを忘れて、糸車のほうへ飛んで行き、亭主がどんどん戸をたたく音を耳にも入れず、夢中になって紡ぎ続ける。が、あまりあわてて、手に持っていない糸を撚《よ》ったり、紡錘《つむ》を床の上に落としたまま空車をまわしている。シロートキンはこのあわてぶりを、すこぶる巧みに演じて効果を上げた。しかし、亭主は戸を蹴破って、鞭を手に女房のそばへ迫って来た。彼は外に見張って、何もかも見届けたので、いきなり三人の男が隠れていることを三本指で示す。それから隠れた男をさがし出すのだが、まず第一に、近所の男を見つけて部屋からたたき出す。おじけづいた書記は逃げ出そうとして、頭で蓋を持ち上げ、それで自分から所在を知らせてしまう。亭主は鞭で打ちのめす。すると、今度は恋いこがれている書記も、時代物の英雄とは似ても似つかぬ足取りで、逃げ出してしまう。そこで、残ったのは婆羅門僧である。亭主は長いことさがしまわったあげく、片隅の戸棚の陰に見いだし、丁寧にお辞儀をして、あご鬚をつかんで舞台の真ん中へ引っぱり出す。婆羅門僧は身を守ろうとして、『こん畜生、こん畜生!』と叫ぶ(これが無言劇の中で発せられた唯一の言葉である)。しかし、亭主はそれに耳もかさず、思う存分に成敗する。女房は今度こそいよいよ自分の番だと見てとって、糸も紡錘《つむ》もほうり出して、部屋から逃げ出してしまう。その拍子に腰掛けがひっくり返る。囚人たちはどっと笑いころげる。アレイはわたしの顔を見ないで手を引っぱりながら、『ごらんよ! 婆羅門が、婆羅門が!』と叫んで、じっと立っていられないほど笑い崩れるのであった。幕が下りた。つぎの狂言が始まるのだ。
しかし、一つ一つの狂言を残らず書き立てることもいるまい、まだ後に二幕か三幕あったが、それらはすべて滑稽であり、擽《くすぐ》りならぬ愉快なものばかりであった。それは、囚人たちが自分で作ったものでないにしても、すくなくとも、その一つ一つに自分たちの案を加えていた。ほとんどすべての役者が、自分の考えで即興的なせりふやしぐさを入れたので、つぎの日には、同じ役者が同じ役を演じても、多少ちがったところがあった。幻想的な性質を帯びた最後の無言劇は、バレーで幕になった。死人を葬る場面であった。婆羅門僧が大勢の伴《とも》を連れて、棺に向かってさまざまな呪法を試みるが、何ひとつききめを現わさない。ついに『日は傾きて』の歌が響き始めると、死人は息を吹き返し、一同は喜びのあまり踊り出す。婆羅門僧は死人といっしょに踊るが、それはまるで風変わりな婆羅門式の踊りである。それで、芝居はつぎの晩まで幕をおろしてしまうのだ。わたしたちはみんな浮き浮きと上機嫌で、散りぢりになり、役者を褒めたり、下士に感謝したりする。争論の声など聞こえない。一同は例になく満足した気持ちで、なんだか幸福なようにさえ感じ、いつもと違った落ちついた気分で眠りにつく。――何がそれほどうれしいかと思われるくらいである。しかし、これはわたしの空想から生まれた幻ではない。これはほんとうなのである、真実なのである。ほんのいっとき、これらの貧しい人々に思いのままの生活をさせ、人間なみに楽しませ、わずかながらも、監獄ばなれのした時を与えたところ、人々はたとえ一時のことにもせよ、精神的に人が変わったのである……しかし、もう夜も更けわたった。わたしはぶるっと身ぶるいして、ふと目をさました。老人はまだ暖炉の上でお祈りをしている、夜の明けるまで、こうして祈り続けることだろう。アレイはわたしのそばで、すやすやと眠っている、わたしは、彼が眠りにつきながらも、兄たちといっしょに芝居のうわさをして、笑い興じていたことを思い出し、われともなしに、その穏やかな子供らしい寝顔に見入った。やがて、次第次第にわたしはいっさいのことを思い浮かべた。きょうの一日、クリスマス、この一か月の間のこと……と、わたしは物におびえたように頭を持ち上げて、お上《かみ》から支給される六分の一斤蝋燭のかすかにふるえおののく灯影を透かして、眠れる仲間の人々を見まわした。彼らの貧相な顔や、貧しい寝床や、手のつけられぬほどの貧しい無一物ぶりを眺める、――じっと眺め入っているうちに、――これははたして醜悪な夢の続きではなくて、ありのままの現実であるかどうかを、確かめたいような気になって来る。しかし、これは現実なのだ。やがてだれかの呻き声が聞こえ、だれかが重々しく腕を投げ出し、がちゃりと鎖の音を立てる。まただれやら夢の中で身ぶるいして寝言をいい出す。暖炉の上の爺さんはすべての『キリスト正教徒たち』のために祈りをささげ、『主イエス・クリスト、われらを憐みたまえ!………』という静かな規則ただしい、間のびのした文句が聞こえて来る。
『おれはなにも永久にここにいるわけじゃない、もう何年かの辛抱じゃないか!』とわたしは考えて、ふたたび枕に頭を落とすのであった。
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[#1字下げ]第二部[#「第二部」は大見出し]
[#3字下げ]1 病院[#「1 病院」は中見出し]
祭日後、間もなく、わたしは病気になって、要塞の衛戍《えいじゅ》病院へ入った。それは要塞から半露里のところに、ひと構えだけ離れて立っていた。黄色いペンキを塗った、長細い平家だった。夏、修繕工事がはじまると、この建物のためにおびただしい赭石が使われるのであった。病院の広い構内には、雑用の建物や、医員の住宅や、その他の付属建築が設けられていた。本館はぜんぶ病室にあてられているのであった。病室はたくさんあったけれども、囚人用の部屋は二つきりで、それがいつも満員だった。ことに夏などは、寝台を詰め合わせなければならぬほどであった。わたしたちの病室は、あらゆる種類の「不仕合わせな人たち」でいっぱいだった。そこへはわたしたちのほうからも出かけて行くし、方々の営倉に入れられている各種軍法会議の被告たち、既決囚、未決囚、護送囚なども入院した。懲治隊からやって来るものもあった。懲治隊というのは妙な制度で、そこへはちょっとした過失を犯した兵隊や、あまり見込みのない兵隊が矯正のために送られるのだが、二年かそこいらの期間を過ぎて出て来ると、たいていはちょっと類のない悪人になっているのであった。わたしたちの監獄では、囚人が病気をすると、おおむね朝のうちにそのことを下士官に届け出る。すると、さっそく帳簿へ書き込まれて、病人はその帳簿といっしょに、警護つきで大隊の医務室へ送られる。そこで軍医があらかじめ、要塞内の各隊から来た病人をぜんぶ診察して、じじつ、病気に違いないと認めたものを病院にまわすのである。わたしも帳簿に記入されて、午後一時すぎ、仲間がみんな監獄から午後の労役に出かけるころに、病院へおもむいた。病囚は普通、できるだけ金とパンを携えて行く。というのは、当日すぐ病院の食事を当てにすることはできなかったからである。そのほか、小さなパイプと、たばこ入れと、燧石《ひうちいし》と、打ち金を用意した。このたばこ道具は、長靴の胴に用心ぶかく隠されるのだ。わたしは、自分のまだ経験しないこの囚人生活の新しい変態《バリエーション》に対して、多少の好奇心を覚えながら、病院の構内へ入って行った。
なま暖かな、どんより曇った、もの悲しい日、――病院などといった種類の建物が、とくに事務的な、悩ましい、苦りきった表情を見せるような日のひとつであった。わたしは警護兵といっしょに診察室へ入って行った。そこには真鍮《しんちゅう》の浴盤が二つ据えてあり、未決の病囚が二人、おなじく警護兵つきで控えていた。看護手が入って来て、大儀そうな横柄な目つきでわたしたちを一瞥すると、さらに大儀そうな足どりで、当番医師に報告に行った。医師は間もなく姿を現わして、ひととおり診察したが、その態度がすこぶる優しかった。彼はわたしたちの名を書いてある「患者票」を渡してくれた。それからさきの、病名記入、薬餌の指定その他は、囚人病室の常置医師に一任されていた。わたしは、囚人たちが医師を無性に褒めちぎっているということを、もう前から聞いていた。「おやじもいらねえほどだ!」と、わたしが病院へ出かける時、彼らはわたしの問いに答えて、そういったものである。やがて、わたしたちは着換えをした。着て行った服や肌着は取り上げられて、患者用の肌着を着せられた。その上に長靴下、上靴、頭巾、それから布《きれ》とも膏薬ともつかぬ裏のついている、褐色をした厚いラシャの部屋着が渡された。てっとり早くいうと、この部屋着はお話にならぬほど不潔をきわめていたのだが、それとじゅうぶんに見きわめたのは、すでに自分の席へ落ちついてからのことであった。それからわたしたちは、天井の高い、清潔な、ばか長い廊下のはずれにある囚人病室へ導かれた。どこへ行っても、一見したところは、申し分なく清潔が保たれていた。最初目に映るものは、何から何までつやつやしているのであった。もっとも、それは監獄生活に慣れたあとなどで、そう思われただけかもしれない。二人の未決囚は左手の、わたしは右手の室へ入った。鉄の閂《かんぬき》を嵌めた扉口には、銃を持った歩哨が立っており、そのそばには交代兵が控えていた。伍長(病院の衛兵)が通せと命令すると、わたしは長細い室の中の人となった。両側の壁に沿って、かれこれ二十ばかりの寝台が並べてあったが、その中の三、四台は空いていた。寝台は、緑色のペンキを塗った木製で、わがロシヤではだれしも馴染みの深いものである。――つまり、何かの宿命で、どうしても南京虫なしにはすまないやつなのである。わたしは窓のある側の片隅に陣取った。
前にもすでに述べたとおり、ここにはわたしたちの監獄の囚人仲間も来ていた。その中の幾人かは、もうわたしを知っていた。すくなくとも、前に顔だけは見たことがあるのだ。が、未決囚と懲治隊の連中のほうがずっと多かった。重病人、すなわち床を離れることのできない病人は、さほど多くなかった。そのほかの軽症患者や回復期の病人は、寝台の上にすわったり、部屋の中をあちこち歩きまわったりしていた。二列に並んだ寝台の間に、散歩するにはじゅうぶんなだけの余地があったのである。病室内には、病院独特の、烈しい、息づまるような臭気が漂っていた。ほとんど終日、そこの一隅で暖炉を焚いていたにもかかわらず、空気はさまざまな不快な分泌物や、薬品の臭気に毒されきっていた。わたしの寝台には、縞のカヴァーが掛けてあった。わたしはそれを取って見た。カヴァーの下には、布の裏のついたラシャの掛蒲団と、いかさま清潔といわれそうもない厚いシーツが現われた。寝台のそばには小テーブルがあって、その上に水飲みと錫の茶碗が載っていた。それらのものが、お体裁に、わたしに支給された小さなタオルで蔽われているのだ。小テーブルの下にはもう一つ棚があって、お茶を飲む人間なら、急須とか、クワス入れの壺とかいうものが置いてある。が、病人の間にはお茶を飲むものは少なかった。ところで、パイプとたばこ入れは、肺病患者でさえ例外なく、ほとんどすべての者が持っていたが、これは寝台の下に用心ぶかくかくされた。医師その他の当局の人々は、ほとんどそんなものを検閲しなかったし、またたとえだれかがパイプを喫っているところを見つけても、見て見ぬふりをするのであった。とはいうものの、病人のほうでもたいていはいつも気をつけて、たばこを喫うときには暖炉のそばへ行くことにしていた。ただ夜になると、大っぴらに寝台の上でふかしたが、しかし夜はほんのときおり、病院衛兵所の上官をしている将校がやって来るほか、だれも病室をまわって見るものはなかった。
それまでわたしはどこにもあれ、病院というものに一度も入ったことがなかった。だから、周囲のものが何もかも、わたしにはひどく珍しく思われた。わたしは自分が多少好奇心の対象となっているのに気がついた。みんなはもうわたしのことを聞いていたので、思いきって無遠慮にわたしをじろじろ見まわした。その目つきには、学校で新入生を見るか、それとも官庁で請願人を眺めまわすような、ある優越感さえもこもっていた。わたしの右手には一人の未決囚が臥《ね》ていた。さる退職大尉の私生児で、書記を勤めていた男である。贋造紙幣の事件で裁判中なのだが、もはや一年近くも入院している。見たところ、どこも悪くなさそうなのだけれども、当人は医師たちに動脈瘤だといい張っている。彼はついに目的を達した。まんまと徒刑と体刑を免れて、さらに二年後にはT―kへ送られて、どこかの病院に収容せられることになった。それは年ごろ二十八、九の、がっしりした、肉づきのいい若者で、なかなか煮ても焼いても食えぬ男、法律に明るくて頭も相当よいほうだが、態度がいやに馴れ馴れしくうぬぼれが強くて、病的なほど自尊心が勝っている。自分から心底まじめに、この世におれほど正直で潔白な人間はない、それどころか、おれは何ひとつ悪いことなどした覚えがないと思い込み、どこまでもその信念をもって押し通している。彼はだれよりも真っ先にわたしに話をしかけ、好奇の色を表わしながら、何かと根掘り葉掘りしたあげく、病院の外部的な事がらについて、かなり詳しく説明してくれた。何よりもまず、自分は大尉の息子であると名乗ったことはいうまでもない。彼は貴族でなければ、すくなくとも「お上品な」仲間のように見られたくてたまらないのである。それと入れ違いに、懲治隊から来ている病囚が、わたしのそばへやって来て、自分は以前流刑になって来た貴族を大勢知っているといい、それぞれの名前や父称まで呼び上げだした。彼はもう白い頭をした兵隊であったが、そのいうことがいちいち出たらめだということは、ちゃんと顔に書いてあった。彼はチェクノフといった。どうやら、わたしが金を持っているとにらんで、わたしに取り入ろうとしているらしかった。わたしがお茶の包みと砂糖を持っているのを見て、彼はさっそくお世話しましょうと申し出た。急須を手に入れて、わたしにお茶を入れてやろうというのだ。急須は、M―ツキイが、あす病院へ労役にかよっている囚人のだれかに託《こと》づけて、監獄から届けてやると約束したのである。しかし、チェクノフは勝手に自分のしたいことをしてしまった。彼は何かしら釜みたいなものと、茶碗まで持って来て、湯を沸かし、茶を入れた。ひと口にいえば、度はずれなほど懸命に世話を焼いたので、さっそく一人の病人にふた言み言、毒々しい嘲笑を浴びせられたくらいである。その病人というのは肺病患者で、わたしの向かいがわに臥ていた。苗字をウスチヤンツェフといって、未決囚の兵隊であった。例の笞刑を恐れて、たばこを濃くしみ出させた一杯の葡萄酒をあおり、それで肺病を背負《しょ》い込んだ男である。この男のことは、わたしも何かのおりに以前ちょっと書いて置いた。それまで彼は苦しげな息づかいをしながら、黙って寝台に横たわったまま、じっとまじめにわたしの様子をうかがい、憤慨の面持ちでチェクノフを見まもっていたのである。そのなみはずれた癇癪持ちらしいまじめな様子が、彼の憤慨にかくべつ滑稽な感じを与えた。とどのつまり、彼は我慢しきれなくなった。
「ちぇっ、下司めが! いい旦那を目っけやがった!」と彼は興奮のあまり息を切らせながら、途切れ途切れにいった。彼はもはや余命いくばくもなかったのである。
チェクノフは憤然としてそのほうへ振り向いた。
「下司って、そりゃいったいだれのこったい?」と彼はさげすむように、ウスチヤンツェフを見つめながら問い返した。
「てめえが下司だってことよ!」と彼は、チェクノフを叱りつける当然の権利を持っているのみならず、そのためにわざわざ付き添いを命ぜられてでもいるように、自信たっぷりの調子で答えた。
「おれが下司だって?」
「そうよ、てめえよ。え、どうだい、みんな、こいつほんとにしねえんだぜ! びっくりしてやがるんだからな!」
「それがてめえにどうしたってえんだ! 見ろ、この人は一人ぼっちで、いわば手がねえのも同然の有様じゃねえか。下男なしでやって行くのが不慣れなこたあ、わかりきってらあな! どうして世話をしてあげちゃならねえんだ、この口のへらねえひょっとこ野郎め!」
「そりゃだれのこったい、口のへらねえひょっとこ野郎たあ?」
「てめえが口のへらねえひょっとこ野郎よ」
「おれが口のへらねえひょっとこ野郎だと?」
「そうともよ!」
「そういうてめえはとんだ色男だあな。そのご面相はなんだ、鴉《からす》の卵よろしくのくせに……もしおれが口のへらねえひょっとこ野郎ならよ」
「口のへらねえひょっとこ野郎に決まってるじゃねえか! もう神様に見放されたからだなんだから、おとなしく臥てて死んでいきゃいいものを! へん、人なみに口を出しやがって! いったいなんのご託を並べてやがるんだ!」
「なんだって! おれあてめえみてえな草鞋《わらじ》野郎に頭を下げるくらいなら、いっそ長靴にお辞儀でもしたほうがましだい。おれの親爺もそうだったし、おれにもそうしろっていったんだ。おれあ……おれあ……」
彼はまだ言葉を続けようとしたが、おそろしく咳き込んで、しばらく咳きやまず、血まで喀《は》くのであった。間もなく、消耗性の冷たい汗がその狭い額に滲み出た。もし咳が邪魔をしなかったら、いつまでもしゃべり続けたに相違ない。いかにも悪態をつきたくてたまらない様子は、その目つきにも見えていたが、彼はぐったりと力抜けがして、ただ片手を振るだけであった。で、チェクノフもついにはこの男のことなど忘れてしまった。
わたしは、肺病患者の憎悪がチェクノフよりも、むしろわたしに向けられていることを感じた。人の世話を焼いて、それで一コペイカの金を手に入れようというチェクノフの望みに対しては、だれも腹を立てたり、とくに侮蔑の目を向けたりするはずがないのだ。彼がそんなことをするのは、ただ金が目当てであることは、だれもがちゃんと承知している。この点については、一般民衆はけっしてさほど神経過敏でなく、こまやかに事理をわきまえるだけの頭の働きを持っていた。ウスチヤンツェフは、要するにわたしが気にくわなかったのである。わたしのお茶が気にくわず、足枷をつけられているくせに旦那気取りで、人に世話をさせなければやっていけないということが、気にくわなかったのである。もっとも、わたしは自分でチェクノフを呼んだのでもなければ、だれの手を借りたいといったわけでもないのだ、まったくのところ、わたしはいつも自分でいっさいのことをしたいと思い、自分が白い手をした優男《やさおとこ》然として、旦那ぶっているなどということは、そぶりにも見せないようにしようと、とくに心を使っていたほどである。話のついでにいってしまうが、その中には多少わたしの自尊心さえ交じっていたのである。ところが、こういった始末で、――どうしていつもこういうことになるのか、ふつふつ合点がいかないが、――わたしは種々さまざまな世話焼きやご用づとめの連中を、ついぞ断わりきれないのであった。彼らは自分のほうからわたしにまつわりついて、しまいにはわたしを完全に占領してしまうので、事実上かれらのほうがわたしの主人になり、わたしが彼らの下男になるのだが、表面的にはわたしがまさしく旦那様であって、人に世話を焼いてもらわなければ立ちいかず、貴族然とすましているといったようなふうに、なぜか自然となってしまうのであった。それはもちろん、わたしに取って、じつに心外千万なことだった。しかし、ウスチヤンツェフは肺病やみで、いらだちやすくなった人間である。ほかの病人たちは無関心のふうつきを装って、いくらかお高くとまっているようなところさえあった。今でも覚えているが、みんなあるひとつの事がらに気を取られていたのである。わたしは囚人たちの話で、いま笞刑を受けている一人の未決囚が、今晩ここへ連れられて来るということを知った。囚人たちはいくらか好奇心をいだいて、その新米を待ち設けていた。もっとも、人々の話によると、刑は軽いほうで、笞五百とのことであった。
わたしはだんだんと、周囲のものが目に入るようになった。わたしの気づいたかぎりでは、ここに臥ているほんとうの病人というものは、主として、この地方の風土病である壊血病と眼病を患《わずら》っている連中で、そんなのが室の中に数人いた。その他の本物の病人の中では、瘧《おこり》、各種の疥癬《かいせん》、胸を病んでいるものが多かった。ここはほかの病室と違って、すべての病気がいっしょくたに集められ、花柳病患者さえ入っていた。わたしが本物の[#「本物の」に傍点]病人といったのは、ただほんの[#「ほんの」に傍点]「息休め」のために、病気でもなんでもないのにやって来たものが、幾人かいたからである。医師たちのほうでは、ことに寝台の空きが多い時などは、同情心から喜んでそんなのを入れてやった。営倉や監獄は病院にくらべて、賄《まかな》いがうんと悪いので、多くの囚人たちは、空気の濁った病室の中へ閉じこめられるのもいとわず、喜んでここへやって来るのであった。なかには病臥生活、一般に病院生活をとくに好む連中すらいた。ただし、これは懲治隊のほうに多かった。わたしは好奇の念をいだきながら、新しい仲間を見まわしたが、忘れもしない、その時とくにわたしの好奇心をそそったのは、同じ監獄から来ていた瀕死の病人であった。やはり肺病で、命|旦夕《たんせき》に迫っていたが、ウスチヤンツェフと寝台をひとつ隔てて臥ているので、ほとんどわたしの真向かいに当たるのであった。名をミハイロフといった。つい二週間前に、わたしは彼を監獄内で見受けたものである。彼はもう久しい前から病気なので、本来ならばとっくに治療を受けに行くべきはずだった。が、当人はなにか妙に強情を張って、まったくむやくな我慢をしながら、おのれを制し、じっと押しこたえていた。ようやくクリスマスになって入院したが、それは三週間後にむごたらしく肺病のために死んでいくために過ぎなかった。それはまるで、人間一人が燃え尽きていくような具合であった。いま彼の変わりきった顔を見て、わたしは思わず、はっとした、――それはわたしが監獄へ入ったとき、はじめて見た顔のひとつなので、その時どうしたものかわたしの目にとまったのである。そのそばには、懲治隊から来た兵隊が一人臥ていた。もう年とった男で、胸くその悪くなるほどだらしのないひどい物ぐさであった……けれども、すべての病人をいちいち数え上げるわけにはいくまい……わたしが今この爺さんのことを思い起こしたのは、彼がその時やはりある種の印象をわたしに与え、即座に囚人病室の特徴について、かなり完全な概念を与えてくれたからにほかならぬのである。忘れもしない、この爺さんはそのおり、猛烈な鼻風邪を引いていて、のべつ嚏《くさめ》をしていた。その後もまる一週間というもの、眠っていてさえ嚏のしつづけで、まるで一斉射撃のように、一度に五つも六つも嚏を連発し、そのたびにかならず、「ああなんたら因果な目にあうことか!」というのであった。ちょうどそのとき彼は寝床の上にすわって、紙包みの中からたばこを出しては、せっせと鼻につめていた。もっと勢いよく規則的に嚏を出そうというのである。彼は亘遍も洗って、すっかり色の褪《さ》めきった、自分の私有品である格子縞の木綿ハンカチのなかに嚏をしていたが、そのつど、小さな鼻は無数の細かい皺がよって、なんだか特別妙なふうにくしゃくしゃとなり、唾だらけの赤い歯齦《はぐき》といっしょに、黒くなった年寄りくさい乱杭歯《らんぐいば》が見えるのであった。嚏がすむと、さっそくハンカチをひろげて、その上にべったりくっついた痰を念入りに検《あらた》めて見た後、猶予なくそれを官給品である鳶色の部屋着へこすりつける。こういうわけで、痰はぜんぶ部屋着のほうに残って、ハンカチはいくらか湿っぽいくらいなことですんでしまう。これを彼は一週間ぶっ続けにやったものである。私物のハンカチを大切にして、官給の部屋着をおろそかにする、このみみっちいうすぎたないやりかたも、いっこうに病人たちから抗議を受けるわけではなかった。そのくせ、あとでは彼らの中のだれかが、この部屋着を着ることになるかもしれないのだ。しかし、わが民衆はむしろ不思議なくらい無頓着で、物事を毛ぎらいしない。が、わたしはそのとたんにぞっとして、すぐさまいやらしさと好奇心の入りまじった気持ちで、たったいま身につけた部屋着を、われともなく検《あらた》めはじめた。その時、この部屋着がもうだいぶ前から、烈しい臭気でわたしの注意をひいているのに、やっとはじめて気がついた。早くもわたしの体温で暖まったために、ますます烈しく薬品や膏薬の匂いを発散するのみか、どうやら膿の臭気まで立てているように思われた。それも不思議のない話で、なにしろ、この部屋着はいつとも知れぬ昔から、病人のからだを離れたことがないのである。もしかしたら、麻の背裏だけはいつか洗濯したことがあるかもしれないが、確かなところは保証できない。いずれにしても、今のところ、この裏地にはありとあらゆる不快な汁や、湿布や、破れた発疱膏から流れ出た液などが浸み込んでいた。そのうえ囚人病室には、たったいま笞刑を受けたばかりで、傷だらけの背中をした者がよく入って来た。彼らは湿布で手当てを受けるが、そのとき濡れたシャツの上へじかに着せかけられる部屋着は、どうしても汚れないではすまない。こういうわけで、何もかもすっかり浸み込んでしまうのだ。で、わたしが監獄生活を続けたあの数年間に、ここへ入院しなければならないようなことが起こるたびに(それはかなりしばしばあったが)、わたしはいつも、うさん臭い気持ちで、こわごわ部屋着を身につけたものである。ことにわたしの気にくわなかったのは、ときどきこの部屋着の中に見つかる虱《しらみ》であった、とほうもなく食い肥った大ぶりなやつである。囚人たちは面白がって虱退治をした。厚い無骨な囚人の爪の下で死刑にされた動物が、ぷつりと音を立てる時など、猟人の顔を見ただけでも、ご当人の満足のほどが推し測られるのであった。わたしたちは南京虫もひどくいやがっていた。で、どうかすると、退屈な冬の夜長などには、病室中が総立ちになって、南京虫狩をはじめた。病室は重苦しい臭気を別にすれば、外面から見たところ相当に清潔であったが、内面的な清潔、いわば裏面の清潔は、けっして自慢のできるほうではなかった。病人はそれに慣れて、むしろそれが当たり前のように考えていた。それに、制度そのものも特に清潔を重んずるようになっていなかった。しかし、制度についてはまた後で話すことにしよう……
チェクノフがわたしにお茶を出してくれたとたんに(ついでにいっておくが、これは病室の水を沸かして入れてくれたのである。この水は一昼夜分いちどきに運んで来るので、空気が濁っているため、あまりにも早く腐敗するのであった)、入り口の戸がやや音高く開かれて、たったいま笞刑を受けた兵隊が、特別警護のもとに連れ込まれた。わたしが受刑者を見たのは、これがはじめてだった。その後こうした連中がよく送り込まれ、なかには担ぎ込まれる者さえあった(これはごく刑の重かった連中である)。それはいつも病囚にとって大変な気晴らしであった。わたしたちは普通こうした受刑者を、おそろしく厳格な顔つきをして、いくらかわざとらしい感じのする真剣な態度で迎えたものである。もっとも、こうした態度もある程度まで犯罪の軽重、すなわち受けた笞の数によって違って来た。したたかぶちのめされて、しかも重大犯人といううわさの高いものは、ただの脱走兵、たとえば、たった今ここへ連れて来られた男などよりも、はるかに尊敬され、注意を払われるのだ。が、いずれの場合にせよ、とくべつ同情するような態度も、とくに当人をいらいらさせるような言行も見せなかった。人々は黙って不幸な男に手を貸してやったり、なにくれと介抱してやったりした。ことに、当人が人の手を借りなければならないような場合には、なおさらである。看護手たちはもうはじめから、受刑者が経験のある熟練した人々の手に委ねられるのをちゃんと承知していた。その介抱というのはたいていの場合、冷たい水に浸した敷布かシャツを傷だらけの背中に当て、それをかならず頻繁に取り替えてやることと(受刑者が意識を失っている場合などは、ことにその必要があった)、それから、よく棒が折れたために、背中に刺さった棘を、うまく傷口から抜いてやることであった。この最後の手術は、おおむね病人にとってひどく不愉快なのである。しかし、一般にいえば、受刑者が苦痛に堪えるなみはずれて毅然たる態度は、つねにわたしを驚かしたものである。わたしはずいぶんこういう連中を数多く見たばかりか、ときにはあまりにもむごたらしく打ちのめされた者をも見たけれど、ほとんどだれ一人としてうなり声を立てた者がない! ただ顔だけ相が変わって青ざめているのと、目がぎらぎらと燃えて、視線が散漫で落ちつきがなく、唇がふるえるくらいのものである。不幸な男はそのために、よく血がにじみ出すほどその唇をわざと噛みしめることがある。入って来た兵隊は年のころ二十二、三、筋骨たくましい、美しい顔をした、背のすらりと高い、肌の浅黒い若者であった。が、その背中はかなりひどく打たれていた。からだは、腰から上すっかり丸裸であった。背には濡らした敷布がかけてあったが、そのために、彼は熱病やみのように、四肢をわなわなとふるわせていた。彼は一時間半ばかり、病室をあちこち歩きまわった。わたしはその顔に眺め入った。見受けたところ、彼はこの瞬間なにも考えていないらしく、きょときょとした目つきで、奇妙な気疎《けうと》い表情をしていたが、視線を何かに集中させるということが、あきらかに苦しい様子であった。彼はじっとわたしのお茶を見たように思われた。茶は熱くって、急須から湯気がさかんに立ち昇っていた。ところが、不幸な男は凍《こご》えきって、歯をがちがち鳴らしながらふるえているのだ。わたしは一杯飲まないかと勧めた。彼は言葉もなく、急にくるりとわたしのほうへ振り向くと、いきなり茶碗を取り上げて、砂糖も入れず、立ったまま飲みほしたが、その間もひどくあわてて、わたしのほうを見ないようにかくべつ気をつかっている様子だった。すっかり飲んでしまうと、彼は黙って茶碗を置き、わたしにうなずいて見せようともせずに、またもや病室をあちこち歩き始めた。口をきいたり、うなずいたりするどころの騒ぎではなかったのである! ほかの囚人たちはどうかというと、彼らはみなはじめのうち、なぜか受刑者とてんで口をきかないようにしていた。のみならず、はじめ介抱をしておきながら、のちにはいっさい注意を払わないように、自分のほうから努めている模様であった。それは、できるだけ彼をそっとしておいて、いろんな質問や『同情』で煩《うる》さい思いをさせまいという、心づかいかもしれない。また当人も、人々のそうした態度に満足しきっているらしかった。
とかくするうちに、あたりが暗くなって、有明けに灯《ひ》が入った。その時になって、囚人のあるものが、自分の燭台まで持っていることがわかった。しかし、それはあまりたくさんではなかった。医師の晩の回診が終わると、最後に衛兵所の下士が入って来て、患者一同の点呼をし、あらかじめ夜間用の尿桶を持ち込んでおいて、病室に鍵をかけた……わたしは、この桶が終夜ここに残されるのだと聞いて、あっけにとられた。しかも、ほんとうの便所は、戸口からほんの二足ばかり隔てた、廊下のすぐ向かいがわにあるのだ。しかし、もうそういうことに規則が決まっているのであった。昼間はまだそれでも、囚人たちは病室を出るのを許されたが、それすら一分以上というわけにはいかない。夜になっては、いかなる事情があろうとも、断じて許可されない。囚人病室は普通病室と違っているので、病囚は病気の間さえ、自分の刑罰を背負わされているわけである。この制度は最初、だれが始めたのか知らない。ただわたしにわかっているのは、この点に真の制度らしいものが全然ない、ということだけである。じっさいこの一例に現われたほど、形式主義の無益な本質が、明瞭に暴露されたことはかつてないのである。この制度はもちろん、医師がわから出たものではない。くり返していうが、囚人たちは医者を褒めちぎって、彼らを父親同然に尊敬しているのだ。だれもかれもが、自分にむけられた医師の愛撫を見、優しい言葉を耳にした。いっさいの人からしりぞけられた囚人は、それがしみじみとありがたいのだ。彼らはこの優しい言葉と、愛撫のわざとならぬ真実さを認めたのである。しかも、そういうことは見られないですんだかもしれないのだ。なぜなら、よしんば医師たちがもっと別な態度、つまり粗暴な、人情味のない態度をとったからといって、だれも咎め立てするものはないわけで、要するに、彼らが真の人間愛から優しくしたということになる。そこで、彼らはいうまでもなく、病人は囚人であろうとなかろうと、身分の高低にかかわらず、だれにしても、普通の病人と同様、新鮮な空気が必要なことを承知しているのだ。たとえば、ほかの病室の患者たちは回復期に向かうと、自由に廊下を歩きまわって、必要なだけの運動をし、空気を呼吸することができた。それは、ぴったり閉め切られて、いつも息の窒《つま》るような分泌物の臭いの充満している病室の空気ほど、有害な毒を含んではいない。さて、今この尿桶が持ち込まれた時、そうでなくてさえ、夜は濁りきっているわたしたちの病室の空気が、このうえさらにどれだけ有毒なガスに満たされることか、想像するだに恐ろしくいまわしい次第である。しかも、室内が蒸し暑く、おまけに、外へ出ずにいられないような特殊な病人がいる場合には、なおさらである。わたしはいま、囚人は病気中まで刑罰を背負わされているといったが、しかしこうした制度が、ほかならぬ刑罰のために設けられているという意味ではもちろんない、今でもそんなことは考えていない。そんなことをいったら、わたしとして無意味な誹謗を放ったことになるのは、言を待たない。病人はもはや罰する必要など、毛頭ないのだ。そうであるとすれば、おそらく当局が何か退《の》っぴきならぬ峻厳な必要に迫られて、結果から見てはなはだ有害なこの手段をとるのやむなきにいたったのは、自明の理といわなければならない。では、その必要とはなんであるか? ところが、残念なことには、かかる手段の必要をいささかなりとも説明する理由が、何ひとつ見つからない。のみならず、その他多くの措置にしても、単に説明することができないばかりか、説明を予想することも不可能なほど、ふつふつ合点のいかないことばかりである。このような無益な惨酷さは、そもそも何をもって説明すべきであるか? 囚人が仮《け》病をかまえて入院し、医師を欺いて、夜《よる》便所へ行った時、闇にまぎれて逃亡する、とでもいうのだろうか? こうした考えかたの不条理をまじめに説明するのは、ほとんど不可能である。いったいどこへ逃げ出すのか? どうして逃げ出すのか? 何を着て逃げ出すのか? 昼は一人でも出すのだから、夜だって同じことができるはずではないか。戸口には、装填した銃を持った歩哨が一人立っている。便所は文字どおり、歩哨から二歩の距離しかない。それにもかかわらず、交代兵が便所の中へまで病人について行って、一刻も目を離さずにいるのだ。そこには窓がたったひとつあるきりで、それも冬と同じように二重窓になっており、鉄格子が嵌まっている。その窓の下の庭には、囚人病舎のすぐ窓ぎわを、同じく一人の歩哨が終夜歩きまわっている。窓から脱け出すためには窓枠と格子を打ち破らなければならないが、だれがそんなことをさせておこう。しかし、かりに囚人があらかじめ交代兵を殺してしまう、しかもぐうの音も立てないように殺して、だれ一人気がつかなかったと仮定しよう。このようなばかげた想像さえありうることとしても、やはり窓と格子を打ち破る必要がある。断わっておくが、歩哨のすぐそばには、病院の番人が幾人か眠っているし、十歩離れたもうひとつの囚人病舎のそばにも、別の歩哨が銃を持って立っており、そのわきには、別の交代兵と別の番人たちが控えているのだ。それに長靴下とスリッパ、病室用の部屋着に頭布という扮装《いでたち》で、冬の夜中にどこへ逃げ出せるものか? そうとすれば、これほど危険が少ないとすれば(というより、じつはまったく危険などはないのだ)、健康者以上に新鮮な空気の必要な病人に対して、その生涯における最後の数日あるいは数時間に、なぜこれほど重い圧迫を加えるのか? なんのためか? わたしはこれがどうしても会得できなかった。
しかし、もういったん『なんのために』という疑問を発した以上、話のいきがかり上、わたしは今もうひとつの疑惑をも述べずにはいられない。これは長年の間このうえもない謎めいた事実として、わたしの眼前に立ちふさがっていたのだが、これに対しても、わたしはやはり答えを見いだすことができなかったのである。わたしはこの記録を続ける前に、わずか数言なりともこのことに触れないではいられない。わたしがいうのは足枷のことで、既決囚である以上、いかなる病人といえども、これをはずしてもらえないのである。肺病患者ですら、足枷をつけたまま死んでいくのを目撃した。しかも、彼らはみなそれに慣れてしまって、なにかしら避けがたい既定の事実のように考えていた。医者でさえも、この幾年かの間にだれ一人として、重症にかかっている囚人、ことに肺病囚の足枷を取りはずすことについて、わずか一度でも当局に運動しようなどとは、夢にも考えなかったくらいであるから、だれにもせよ、このことに思いをいたしたものは、ほとんどあるかなしであった。かりに足枷はそれ自身、さほど大騒ぎをするほど重いものではないとしよう。目方にすれば、八斤から十二斤くらいのものである。十斤のものを身につけるのは、健康のものにとってさほど苦しいことではない。もっとも、幾年も足枷をつけていると、足がやせ細って来るという話を聞いた。はたしてほんとうであるかどうかは知らない。けれども、そこにはいくらかもっともらしいところもある。目方はたいしたものではなく、わずか十斤かそこいらに過ぎないとしても、永久に足につけられている以上、なんといっても、その足の重みを変態的に増すわけであるから、長い年月の間には、なんらかの悪影響を及ぼすおそれはあるだろう……しかし、健康者にとっては、これもさしたることでないと仮定しよう。が、病人にとってもはたして同様だろうか? かりに普通の病人ならなんでもないとしても、くり返していうが、重病人にとっても同じことだろうか? それでなくてさえ手足がやせ細って、藁しべ一本すら重荷に感ずるような肺病患者でも、やはり同じことなのだろうか? じっさい、もし医務の当局がせめて肺病患者にだけでも、これくらいの軽減を与えるように尽力したならば、それひとつのみでも、真に偉大な恩恵となるだろう。かりに、囚人は悪人であるから恩恵などに値いしない、などというものがだれかあるとしても、しかしすでに神のみ手の触れている者に対して、さらに刑罰を重くする必要がどこにあろう? それに、第一、これが単なる刑罰のためのみになされているとは、信じられない。肺病患者は裁判の時でも体刑を免ぜられる。してみると、そこにもやはり有効な警戒の手段として、何か重大な秘密が含まれているに相違ない。しかし、いかなる手段であるかは知る由もない。なにしろ、肺病患者が逃亡しはしないかと心配するなどということは、まったくありえない話ではないか。とくに、病勢がある程度進行していることを頭に置いたら、そんなことなど念頭にも浮かばないはずである。逃亡のために肺病を装って、医師をだますことは不可能である。この病気はそんななまやさしいものではなく、ひと目でそれと見分けられるのだ。なおついでにいっておくが、人に足枷をつけるのは逃亡を防ぐとか、あるいは逃亡を妨げるとか、ただそんな目的のみのためだろうか? 断じて否である。足枷は単に罪の烙印であり恥辱である。肉体的、精神的の重荷であるに過ぎない。すくなくともそんなふうに想像される。逃亡を妨げるものとしては、足枷などけっしてなんの役にも立ちはしない。どんなにへまで不器用な囚人でも、たいした苦労なしに手早く鑪《やすり》で切り離したり、合わせ目を石でたたきこわしたりすることができる。足枷は断じてなんの予防にもならない。もしそうであるとしたら、もし足枷が既決囚に対してただ刑罰の意味のみで適用されるのだとしたら、わたしはふたたび借問《しゃもん》する。瀕死の人間を罰する必要がはたしてあるだろうか?
現にこれを書きながらも、まざまざと思い起こされるのは、肺病で死にかかっていた一人の男のことである。それはウスチヤンツェフからあまり離れてないところに臥ていて、わたしのほとんど真向かいに当たる例のミハイロフで、彼はたしかわたしの入院後、四日めに亡くなった。おそらく、わたしがいま肺病患者のことをいい出したのも、当時この男の死に関連して、わたしの脳裡に浮かんだ印象や感想を、思わず知らずくり返そうとしているのかもしれない。とはいえ、当のミハイロフはわたしもあまりよく知らなかった。彼はまだ二十五歳を出まいと思われる、やせて背の高い、珍しく整った容貌をした青年であった。特別監に入っていたが、不思議なほど口数が少なく、いつも妙に静かな、落ちついた淋しげな様子をしていた。まさしく彼は監獄で『やせ細って』いったのである。すくなくとも、その後、囚人たちは彼のことをそんなふうにうわさし合った。彼は仲間のあいだに良き記憶を残していったのである。ただわたしは彼が美しい目をしていたことを思い起こすのだが、どうしてこの男のことがこれほどまざまざと思い出されるのか、まったくわれながら合点がいかない。彼は凍《いて》の厳しい、よく晴れた日の午後三時ごろに、息を引き取った。今でも覚えているが、太陽の強い斜めな光線が、わたしたちの病室のやや凍った緑色の窓ガラスごしに射し込んでいた。その光線は不幸な男の上にも、太い流れのようにそそいでいた。彼はすでに意識を失ってからも、長いこと幾時間も苦しみ続けて死んでいったのである。もう朝のうちから彼の目は、そばへ寄ってくるものの顔を、見分けることができなくなっていた。人々はなんとかして彼を楽にしてやりたいと思った。いかにも苦しそうな様子が、見るに堪えなかったのである。彼は喉をぜいぜい鳴らしながら、さも骨の折れるふうでふかぶかと息をしていた。胸は、さも空気が足らぬとでもいうように、高く持ちあがった。彼は掛けていた毛布をかなぐりのけ、着物を全部ぬぎ捨てたうえ、はてはシャツさえ引きむしりだした。そんなものですら、重苦しく感じられたのであろう。人々は彼に手を貸して、シャツをも脱がせてやった。そのひょろひょろと長いからだ、骨と皮ばかりにやせ衰えた手足、さながら骸骨のように、肋骨が一本一本浮き出した高い胸、ぺしゃんこに落ち込んだ腹、そういうものを見るのは恐ろしかった。彼のからだじゅうに残っているものは、守り袋のついている木の十字架と、今ではそのやせ細った足から自由に抜けそうに思われる足枷だけであった。彼が息を引き取る三十分前には、みんなが妙にしんと静まり返って、ほとんどひそひそ声で話をせんばかりであった。歩いているものも、音のしないように足を運んだ。みなあまり口数をきかず、話をしても、おもによそごとばかりで、次第に烈しくぜいぜいと喉を鳴らし始めた瀕死の病人のほうを、ときおりちらちらと見やるだけであった。あげくのはてに、病人はふらふらするおぼつかない手で、胸の上の守り袋をさぐり、それをもぎ取ろうとし始めた。さながら、それさえも荷厄介となり気がかりとなって、胸を圧迫するかのようであった。で、守り袋もはずしてやった。それから、十分たって彼は死んだ。人々は扉をたたいて、衛兵に知らせた。番人が入って来て、鈍い目つきで死人を見ると、看護手のところへ出かけて行った。気の優しい若者だけれども、あまり自分の顔や容子《ようす》にかまい過ぎる看護手は(もっとも、なかなか容子のいい男ではあった)間もなくやって来た。しんとした病室の床を音高く踏み鳴らしながら、足ばやに故人のそばへ近寄ると、この場合のためにわざと考え出したのかと思われるような、格別へんにくだけた様子をして、ちょっと脈を取ってみたのち、片手をひとつ振って出てしまった。さっそく衛兵所へ知らせるために使いが出された。なにしろ、特別監から来た重大犯人なので、死んだものと認めるのにさえも、特別な手続きがいるのだった。衛兵が来るのを待っている間に、囚人のだれかが小さな声で、故人《ほとけ》の目くらい閉じてやっても悪くはなかろう、と注意した。もう一人の男は、注意ぶかくそれを聞いていたが、黙って死人のそばへ寄って、その目を閉じてやった。ふと、枕の上に落ちている十字架が目につくと、取り上げてあらためて見た後、無言のまま、ふたたびそれをミハイロフの首にかけてやった。とかくするうちに、死人の顔はこわばって来た。ひと筋の光線がその上に踊っていた。口はなかば開いて、二列の白い若々しい歯が、歯齦《はぐき》に粘りついた薄い唇の陰で光っていた。ついに、短剣を下げヘルメットをかぶった衛兵下士が入って来た。そのうしろには、二人の番人が従っていた。彼は次第に歩みをゆるめ、鳴りを静めて四方から厳しい目つきで自分のほうを眺めている囚人たちを、けげんそうに見やりながら、近づいて来た。彼は死人に一歩の距離まで近寄った時、さながらおびえたように、ぴたりとその場に釘づけになってしまった。すっかり丸裸にされてしまって、ただ足枷だけをつけている乾からびた死骸は、彼をはっとさしたのである。彼はまるでそんな必要もないのにあご紐をはずして帽子を脱ぎ、大きく十字を切った。それは白髪頭をした峻厳な軍人型の男であった。今でも覚えているが、その時すぐそばに、同じく白髪の老人であるチェクノフが立っていた。彼はしじゅう無言のまま、下士の顔をじいっと穴のあくほどまともに見つめて、なにかしら奇妙な注意をこめながら、その一挙一動を見まもっていた。二人の視線はぶっつかり合った。と、不意にチェクノフの下唇が何かぴくりとふるえた。彼は何やら妙に唇を歪めて、われともなしに、すばやく死人のほうをあごで指したのち、下士に向かっていった。
「これだってやっぱしお母《ふくろ》があったんだからね!」といったかと思うと、わきのほうへ離れて行った。
この言葉がわたしの心を刺し通したような気がしたのを、まざまざと記憶している……いったいなんのためにこんなことをいったのだろう、またどうしてこんな言葉が彼の頭に浮かんだのだろう? が、やがて人々は死骸を持ち上げにかかった。寝台ごと舁《か》き上げたのである。藁ががさがさと鳴り、あたりのしんと静まった中で、足枷が床に当たって、大きな響きを立てた……だれかがそれを始末した。死骸は運び出された。急に一同はがやがやと声高にしゃべり始めた。もう廊下へ出てから、下士がだれか鍛冶工を呼びにやる声が聞こえた。死人の足枷をはずさなければならないのだ……
しかし、わたしはわき道へそれてしまった……
[#3字下げ]2 病院(つづき)[#「2 病院(つづき)」は中見出し]
医師たちは午前に病室を回診した。毎朝、十時過ぎになると、彼らは一同うちそろって、医長の後に従いながら、わたしたちの室へ姿を現わした。その二時間半ばかり前に、わたしたちの受持ちになっている医師が、病室を訪れることになっていた。そのころ、わたしたちの受持ちをしていたのは、一人の若い医師であった。仕事のほうに明るくて、優しい愛想のいい人物なので、囚人たちにひどく好かれていた。彼らのいうところにしたがえば、「あまりどうもおとなしすぎる」のが玉に瑕《きず》なのであった。じじつ、彼は妙に口数がすくなく、わたしたちをきまり悪がるようなふうさえあって、顔をあからめんばかりであった。病人がちょっとひと言頼めば、すぐに食事を変えてくれるのはおろか、病人の依頼次第で、薬まで好きなように処方しかねまいと思われたくらいである。ともあれ、彼はじつに好青年であった。まったくのところ、ロシヤでは多くの医師が、下層の民衆から愛と尊敬を受けている。またわたしの観察したかぎりでは、それはしんじつ間違いのないことである。わたしの言葉がパラドクスに聞こえるのは、自分でも承知している。ことに、ロシヤの下層民が一般に、医学や舶来の薬品に対していだいている不信を考慮に入れるときには、なおさらである。まったくのところ、一般民衆は、長い年月ひき続き、きわめて重い病気にかかりながらも、医師に診察を乞うたり、病院に入ったりするよりも、むしろ巫女《みこ》に祈祷してもらったり、手づくりの民間薬(これはけっして蔑視できないものだ)で治療するほうを選ぶだろう。しかし、そこには医学にぜんぜん関係のない、ひとつのきわめて重大な事情が存在している。ほかでもない、すべて下層の民衆は、行政的、形式的な烙印《らくいん》を帯びているいっさいのものに、不信を感じるものである。なお、それのみならず、民衆はしばしば愚にもつかないものであるが、ときとしては相当根拠のあるうわさ話や、恐ろしい取り沙汰に脅しつけられ、病院というものに対して、先入見を持っているのである。が、何よりも主として彼らに恐怖心をいだかせるのは、病院内のドイツ式秩序であり、病中たえず周囲に充満している他人であり、食餌に関する厳重な規律であり、看護手や医師たちがひどく厳格だとか、死骸を切りこまざいたり臓腑を抜いたりするとかいう、みんなの話である。かてて加えて、民衆の考えかたによると、治療をするのは旦那がたなのである。なんといっても、医師たちは彼らにとっては旦那がたに相違ないのだ。ところが、医師と親しく知り合うようになると(多少の例外はあるにしても大部分は)、こうした恐怖はすべて間もなく消えてしまう。それはわたしの意見によると、直接わが医師たち、とくに若い医師たちの功績に帰すべきものである。彼らの大多数は、民衆の尊敬のみならず、愛すらもかちうるすべを心得ているのだ。すくなくとも、わたしは自分自身、多くの場所で再三目撃し、体験したことを書いているのであって、ほかの場所ではしばしばこれと反対のことが行なわれている、などと考える根拠はないのである。もちろん、なかには辺鄙な土地に住んでいる医師たちで、賄賂を取ったり、自分の勤めている病院をさかんに利用したり、ほとんど病人を無視し、医術をさえまったく忘れ果てたようなのもいる。そんなのもいるにはいるが、しかしわたしは大多数のものについていうのである、いな、むしろ今、現在の医学界に実現されつつある精神について、全体の傾向について語っているのである。羊群にまじった狼ともいうべきこれらの背徳者どもは、よし何をもって弁明しようとも、たとえば、環境[#「環境」に傍点]がいつしか自分を呑み尽くしてしまったのだ、などといって弁明を試みようとも、要するに、不正のやからであることに変わりがない。ましてその場合、人間愛の感情を失っていたら、なおさらである。病者に対する人間愛、優しい態度、兄弟としての同情などというものは、ときとすると、いかなる医薬にもまして必要なことがある。もはやわたしたちは、環境がわれわれを呑み尽くしたなどと、無感動な調子で訴えることをやめるべき時である。環境がわれわれの有している多くのものを呑み尽くすということは、かりに真実であるとしても、皆がみなまで呑み尽くすことはあるまい。世知に長《た》けたひとすじ繩でいかぬ狡猾な連中になると、ことに口や筆が達者な場合には、しばしばこの環境の影響をだしに使って、自分の弱点どころか、卑劣な行為すら弁護するのである。だが、わたしはまたしても本題から離れてしまった。ただわたしがいおうと思ったのは、一般の民衆が不信と反感をいだいているのは、医療の行政的方面であって、医師に対してではない。医者がどんなものであるかを実地に知ると、彼らはたちまち偏見の大部分を去ってしまうのである。とはいえ、わが国の病院の状況一般は、今日まで多くの点において、民衆の精神にぴったりせず、その秩序は今日までわが庶民の習慣に反しているので、完全に彼らの信頼と尊敬を獲得することができないのである。すくなくとも、わたし自身の受けた多少の印象を基とすると、そんなふうに思われる。
わたしたちの受持ちの医師はたいていいつも、一人一人の患者の前に足をとめて、まじめに、きわめて注意ぶかく診察したり、容態をたずねたりしたうえ、薬餌を指定するのであった。どうかすると、患者がどこも悪くないことに気づくことがあった。しかし、その囚人は労役の骨休みに来たのである。でなければ、こつこつした寝板のかわり、敷蒲団の上に身を横たえに来たのである。また最後には、青い顔をし憔悴しきった未決囚の群れが(わがロシヤの未決囚は、ほとんどいつ、どこへ行っても、青い顔をし憔悴しきっている、――つまり、彼らの給養と精神状態が既決囚のそれにくらべて、ほとんどつねに劣っている証拠である)、ぎっしり鮨づめになっている湿っぽい営倉と違って、なんといっても暖い部屋の中にいたいためである。そこで、わたしたちの受持ち医師は平然として、febris catarrhalis(カタル性熱)か何かということにして、ときによると一週間くらい置いてやる。この febris catarrhalis にはわたしたち一同、大笑いしたものである。それが医者と患者の間に成立した一種の相互協約によって、仮病を表わすひとつの公式になっていることを、みんなよく知っていたのである。『取っとき病い』と囚人たちは自分でこの febris catarhalis をこんなふうに翻訳していた。どうかすると、病人が医師のお慈悲を濫用して、強制的に追い出されるまで臥《ね》込んでいることもあった。その時、わが受持ち医師のとった態度は見ものであった。彼はいっさい文句なしに頭から、患者票に sanat est(全快)と書いて、簡単に退院させる権利を持ち過ぎるほど持っていたにもかかわらず、なんとなくおじけづいたようなふうで、早く快くなって退院願いを出せと、単刀直入にいい出すのを恥じている様子なのである。彼ははじめ謎をかけて見て、それから頼むような調子で、「どうだ、もうそろそろよかろうじゃないか? なにしろおまえはもうおおかたよくなっているのだし、病室の中も狭いからね」云々とやり出す。で、とどのつまり、病人のほうが気恥ずかしくなって、自分のほうから退院を願い出ることになるのであった。医長も情け深い真当《まっとう》な人であったが(この人も病人一同に心から好かれていた)、受持ち医師とは比較にならぬほど厳格で、てきぱきしていた。場合によっては、容赦のない峻烈さを示すことさえあったので、そのために、彼はなんだかかくべつ尊敬されていたくらいである。彼は受持ち医師のあとから、病院づきの医師一同をしたがえて姿を現わし、同じく患者を一人一人診察し、とくに重態の患者の前には長く足をとめた。いつも優しい、病人に元気をつけるような言葉をかけてやり、真情のこもった言葉を口にすることさえしばしばだったので、概して好ましい印象を与えたものである。「取っときの病い」を持って来た連中をも、彼はけっして斥けたり、追い返したりしなかったが、もし病人が自分のほうから強情を張りなどしようものなら、一も二もなく退院させてしまった。「おい、どうだ、おまえ、もういいかげん臥つづけたんだから、骨休みはできたはずだ、もう帰れ帰れ、人はほどというものを知らなくちゃだめだ」普通、強情を張るのは、働くことのきらいななまけ者か(これは夏の労働期間にとくべつ多かった)、笞刑を目前にひかえている未決囚かであった。今だに覚えているが、こういった連中の一人を退院させるために、とくに厳酷な、むしろ惨酷とさえいえるほどの手段が取られたことがある。その男は眼病でやって来たのだ。真っ赤な目をして、目の中がきりきりと刺すように痛いと訴えた。医師は発泡膏や蛭《ひる》などで治療し、何かの薬液で洗滌したり、いろいろに手を尽くして見たけれど、病気は依然として癒えず、目の充血もとれなかった。そのうち次第に、医師たちは仮病だということに気がついた。炎症はしじゅう同程度の軽さで、進行もしなければ快癒もせず、いつも同じ状態なのであった。どうもうさんくさい。当人が白状したわけではないけれども、囚人たちは彼が仮病を使って、人をだましているのを、すでに疾《と》っくの昔から承知していた。それはかなり美しい顔立ちをした若者であったが、わたしたち一同になんとなく不愉快な印象を与えた。何ごとも腹に包んでいるような、疑い深そうな顔をして、いつも眉をひそめ、だれとも話をせず、上目づかいに人の様子をうかがって、だれもかれも、うさんくさく思ってでもいるように、みんなから隠れるように隠れるようにしていた。今だに覚えているが、なかには『こいつ何かしでかしはしないかな』という考えを頭に浮かべるものさえあった。彼はもと兵隊であったが、ひどい泥棒癖がついてしまい、その罪状が暴露したために、千の笞刑と懲治隊を宣告されたのである。未決囚は、前にも述べておいたように、笞刑の執行期日を延ばすため、ときとすると、思いきった恐ろしいことをやってのけるものである。刑執行の前日に、上官のだれかなり、それとも仲間の者なりを、ナイフでぷつりと突き刺して、そのために裁判のし直しとなり、笞刑がまた二か月も延期されれば、それで当人の目的は達せられたことになるのだ。その二か月が経過したのち、二倍も三倍も厳しい刑を受けることになるのだが、当人はそんなことなどにおかまいないのである。ただ今さしあたって恐ろしい瞬間を、ほんの数日でも遠ざけさえすればよいので、それからさきはなんとなろうとままよ、である。――これらの不幸な人々の意気銷沈ぶりは、ときとして、それほどまでにはなはだしいことがあるのだ。わたしたちの中でも二、三の者は、あいつは気をつけなくちゃならない、ひょっとしたら、夜中にだれかを斬り殺すかもしれないぞ、などとひそひそささやき合ったものである。しかし、そんなことはただいってみるばかりで、彼と寝台を並べているものでさえ、かくべつ警戒するわけではなかった。もっとも、彼が毎夜、壁から剥がした石灰に何かまぜて目に擦りつけると、翌朝はまた目が赤くなっている、――それを人々は見て知っていた。とうとう、医長は串線法をするぞといって脅かした。もはやあらゆる医療法も試み尽くしたにもかかわらず、なおいつまでも続いている頑固な眼病にたいしては、医師も視力を救うために、苦しい荒療治を施すほかはないと決めた。つまり、馬と同様、串線法を病人に応用しよう、というのであった。けれど、哀れな男はそれでも全治したといって兜を脱がなかった。なんという強情なたちだったか。しかし、ことによったら、もう度はずれに憶病なたちだったのかもしれない。なにしろ、串線法は笞刑ではなかったにもせよ、やはりひどくつらい療法だったのである。医師は病人の首筋の皮をつまめるだけつまみ上げて、その部分にナイフを突き通す。すると、首筋ぜんたいに幅の広い、長い傷口ができる。医師はその傷口に、かなり広い、指一本ほどの幅のある麻の紐を通す。それから毎日、一定の時刻にこの紐を左右へ動かすので、患者はまた新たに切り裂かれるような気がする。それは、傷口がたえず膿をもっていて、癒着しないようにという目的なのである。にもかかわらず、病人は恐ろしい苦痛を忍びながら、なお数日の間この拷問を持ちこたえていたが、最後にようやく退院を同意した。彼の目は一日でけろりと癒ってしまい、当人は首筋が癒着するやいなや、営倉へ送られた、そのすぐ翌日またもや千の笞を受けるために。
もちろん、笞刑を受ける前の気持ちは、苦しいものに相違ない、おそらくは、わたしがこの恐怖を小心とか臆病とか呼ぶのは、間違いであるかもしれないと思われるほど、しかく苦しいものに相違ない。そうであってみれば、その刑が二倍三倍に増されたら、なおさら苦しいわけなのであるが、ただそれが今すぐでなければいいのだ。もっとも、最初に受けた笞の傷が背中に癒えきらぬうちから、残っている数だけの笞を受けて、裁判所の手から離れてしまうために、すこしも早く退院さしてほしいと、自分から申し出るものがあるのは、わたしのすでに一言したところである。裁判中の未決囚として営倉に入れられているのは、もちろん、だれにしても懲役以上にいやなものに違いない。しかし、気質の相違ということを別にして、あの種の囚人たちが決断と勇気を示すのには、打擲《ちょうちゃく》と体刑に対する根深い習慣も大きな役割を務めている。頻繁に打たれたものは、精神も鞏固になれば、背中の皮も丈夫になったような形で、ついには体刑というものを懐疑的な目で眺め、ほとんど何かちょっとした不便くらいにしか感ぜず、もはや恐怖をいだかなくなるのである。一般的にいって、それはほんとうである。わたしたちの監獄に特別囚の一人でアレクサンドル、あるいは仲間のうちの呼び名にしたがうと、アレクサンドラという、洗礼を受けたカルムイク人がいた。妙な男で、狡猾《こうかつ》な不敵者のくせに、またきわめて善良な心を持っていたが、これがわたしにかつて四千の笞を無事に持ちこたえた話をして聞かせた。彼は笑いながら冗談半分に話したのだが、しかし同時に大まじめで、もし自分が子供のときから、まだ東西わからぬごくごく幼い子供のころから笞の下で生長し、その集団に属している間じゅう、文字どおり背中に傷痕の絶えぬような目にあっていなかったら、この四千の笞はしょせんもちこたえられはしなかったろう、と誓ったものである。彼は物語りながらも、自分が笞の脅威下に育てられて来たことを、祝福でもするような調子であった。「おりあ箸の上げ下ろしにもぶたれたもんだよ、アレクサンドル・ペトローヴィチ!」と彼はある夕方、灯ともし前にわたしの寝台に腰をかけて、こんなふうにいったものである。「なんでもかでも、むやみやたらに打たれどおしだったよ、おれは物心つき始めてからこのかた、十五年ばかりぶっとおしに、毎日、何度も何度も引っぱたかれていたものでさ。おれを打たなかったのは、ただその気のないものだけでね、とうとうしまいにゃ、すっかりもう慣れっこになっちまったよ」どうして彼が兵隊になったのか知らない。もっとも、当人は話して聞かせたのかもわからないが、わたしは覚えていない。彼は逃亡と放浪の常習犯であった。ただ彼が上官殺害のかどで笞四千の宣告を受けた時、ひどく恐れたという話だけは、記憶している。
「おれあ今度こそ小っぴどい罰を受けるだろうと覚悟していたよ、ひょっとしたら、笞の下から生きちゃ出られねえかもしれめえと思った。いくらおれが笞に慣れてるからって、なにせ四千といったら、冗談じゃねえからな! それに役人連がみんな腹を立てちまったでなあ。そこでおれあ、こいつあただじゃすまねえ、笞の下から無事にゃ出られめえ、また出してもくれめえと覚悟した、ちゃんと覚悟を決めていたよ。おれあはじめ洗礼を受けてやろうと思い立つたんだ、もしかしたら、ゆるしてくれるかも知んねえと考えたもんでね。もっとも、仲間の連中はその時そういったもので、そんなことしたって、てんの役にも立ちゃしねえ、ゆるしてくれるもんけえ、ってね。でもおれあ、とにかくやってみよう、なんてっても洗礼を受けた人間だと、役人のほうでもいくらかかわいそうと思ってくれるかもしんねえ、とそう思ったのさ。すると、ほんとうに洗礼を許してくれて、そん時アレクサンドルって洗礼名をつけてくれたが、さあ、刑となると、それでもやっぱし笞は笞で、ただのひとつも減らしてくれやしねえ、おれあ癪にさわったくれえだよ。そこで、腹ん中で考えたよ、待てよ、ひとつてめえたちをみんなだましてやるから、って。え、アレクサンドル・ペトローヴィチ、なんとお思いになりますね、まんまと一杯くわしてやりましたぜ。おれあ死人の真似をするのがとても上手なんでさ。といっても、すっかり死人になりきるのじゃなくって、今にももう息を引き取りそうなふうにして見せるんで。さて、刑に引っぱり出されて、まずはじめの千本をすましたが、背中が灼けるようで、大声あげてわめいたもんだ。次の千本をやられた時にゃ、ああ、もうこれでおれの一生もおしめえだと考えたね。歩いてても頭がぼうっとして、膝ががくがくするじゃねえか。おれあ地べたへどっと倒れちまった。目は死人みてえになって、顔は土気色をしてさ、息なんかもありゃしねえ、口のはたにや泡を吹いてるって始末なのさ。医者がそばへやって来て、『もうすぐだめになる』っていうんだ。おれは病院へ担がれて行ったが、すぐと息を吹き返したもんでさ。それから、また後で二度、刑に引っぱり出されたが、もうみんなおれに業《ごう》を煮やして、かんかんに腹を立てていやがったよ。でも、おれあもう二度だまくらかしてやった。三千本めをやられた時、千だけで気い失った真似をしてやったよ。ところが、四千本めが始まった時は、ひと打ちごとに笞が刀みてえに、心の臓まで突き刺さるような思いでね、一本一本が三本分に当たるくれえ、そのひでえぶちようといったら! 兵隊のやつらめ、おれを目の敵《かたき》みてえに憎みやがったもんだでなあ、あのいまいましい一番あとの千と来たら(ちぇっ、くそ!………)はじめの三千みんなに手っぱるくれえだったよ。もしいよいよおしめえっていう時に死んだ真似をしなかったら(あとわずか二百というところだったので)、その場でぶち殺されていたに相違ねえ。ところが、どっこい、おれもむざむざそんな目にあわされていやしねえ。また気が遠くなったふりをして、一杯くわしてやった。そん時もまたぞろほんとうにしやがった。またどうしてほんとうにしねえでいられるもんかね、医者でせえほんとうにしたくれえだからね。もっとも残りの二百の時は、あとで力かぎり根かぎりぶったのぶたないの、普通の時の二千よりつれえほどだったが、それだって、へん、どんなもんでえ、なぐり殺されやしなかったからな。どうしてなぐり殺されなかったかっていうと、それもやっぱし餓鬼の時分から笞の下で大きくなったからさ。それだからこそ、きょうまで命があったわけでさ。いやはや、おれは今までの間にどれだけぶたれたことやら!」と彼は物語の最後に、いったい自分は幾度ぶたれたものかと、記憶を呼びさまして数え上げようと努めるかのように、わびしいもの思いに沈んだ調子でつけ加えた。「いや、どうして」と彼は束の間の沈黙ののちにいい添えるのであった。「いくらぶたれたか、勘定なんかできるもんじゃねえ、それに数えきれるわけがありゃしねえや! 数のほうが足りねえくれえだ」彼はわたしをちらと見て、あはあはと笑ったが、それがいかにも、人の好さそうな笑いかただったので、わたしのほうでも、にっこり笑い返さずにいられないほどであった。「ねえ、アレクサンドル・ペトローヴィチ、なにしろおれあ今でもよる夢を見るてえと、かならずぶたれてる夢を見るんで、そのほかの夢ってものはねえくらいでがすよ」彼はじじつ、よく夜中にわめき声を立てた。ときによると、咽喉も破れそうな声でわめき立てるので、囚人仲間がすぐさま彼を揺すぶり起こして、「やい、こんちくしょう、何をわめきやがるんでえ!」とやったものである。彼は年のころ四十五、六、背は大きくないが、はしっこくて陽気な、丈夫そうな男で、みんなとも仲よく暮らしていた。もっとも、盗みが大好きと来ているので、そのためにわたしたちの仲間でもよくぶんなぐられたが、しかしここで盗みをしないもの、盗みのためになぐられないものが、一人でもいるだろうか。
ここでひとつつけ加えておきたいことがある。すべてこれらの笞うたれた連中が、自分たちのぶたれたことや、自分たちをぶった人々のことを物語る、そのなみはずれて善良な毒のない調子には、わたしはいつも一驚を吃せざるを得なかった。この種の話に、悪心や憎悪の影すらも感じられないことはしばしばなので、ときおりそれを聞くと、わたしの胸は高まって来て、強く烈しく動悸を打ってくるのであった。彼らはよくそんな話をしながら、子供のように笑うのだ。ところが、たとえばM―ツキイなども、自分の受けた体刑の話をして聞かせたことがある。彼は貴族でないので、笞五百くらったのである。わたしはそのことをほかの者の口から聞き込んだので、いったいそれはほんとうなのか、ほんとうなら、どんなふうだったのかと、自分で彼にたずねてみた。彼はなんとなく簡単すぎるほど簡単に、心内の痛みでも忍ぶような調子で答えたが、まるでわたしのほうを見まいと努めるふうで、その顔はさっとあかくなった。三十秒ばかりして、彼はちらとわたしを見つめたが、その目には憎悪の火が燃え立ち、唇は憤りにふるえはじめた。彼はおのれの過去に属するこのページを永久に忘れることができないのだ、とわたしには感じられた。が、ロシヤ人の仲間はほとんどすべて(例外がないとは保証しないが)、それに対してまるで別の見方をしていた。わたしはときおり考えた、――彼らが自分を罪あるものと認め、刑罰を受けるのが当然だと考えているはずはこんりんざいあるまい。ことに自分たちの仲間にたいしてでなく、役人にたいして罪を犯した場合には、なおのことそうである。彼らの大部分は、ぜんぜん自分を責めなどしなかった。すでに述べたごとく、犯罪が自分たちの社会に向けられた場合でさえも、良心の呵責などわたしの目には映らなかった。役人に対して行なわれた犯罪にいたっては、言をもちいるまでもない。この場合、彼らはなにかしら特別の、いわば実際的な、いな、むしろ事実に即した自分自身の見解を有しているのではないか、というふうにときどき思われるのであった。彼らは宿命ということ、事件が避けがたいものであったということを考量に入れる、が、それは何か計画的にするわけではなく、ただなんとなく一種の信仰みたいに無意識なのである。たとえば、囚人は官憲に対する犯罪については、つねにおのれを正しいと考えたがる傾向があるので、これに関する問題は、彼らにとって考えることさえできないものではあるけれど、なんといっても、官憲のほうでは、その犯罪をぜんぜん別様に見ているから、自分は当然刑を受けなければならぬ、しかし笞刑を受けたら貸し借りなし、といったふうに実際的には意識しているのだ。それは双方のがわからの闘争である。のみならず犯人は、自分が自分自身の階級、すなわち庶民階級の裁きで無罪と認められていることを、夢にも疑わない。庶民階級は、完全に彼らを有罪と見なすようなことはけっしてなく、多くの場合、頭から無罪と認めてくれる、ただ犯罪が自分たちの仲間、自分たちの同胞、自分たち庶民階級にさえ向けられていなければいい、――このことも犯人はやはり心得ているのだ。彼らの良心は安らかである、彼らは良心的には強気であり、道徳的に困惑を感じなどしない、それが重要な点なのである。彼らはあたかも、おのれの拠るべきものが存在することを感じているかのごとくである。それゆえ、自分の身に生じたことを憎もうとせず、不可避の出来事として受け入れるのだ、つまり、それは彼らによってはじめられたものでもなく、また彼らによって終わらせられるものでもなく、ひとたび固定された消極的な、とはいえ頑強な闘争のうちに、まだ長く長く続く事実なのだ、とこんなふうに見ているのである。どんな兵隊にしたところで、自分が相手として戦っているトルコ兵を個人的に憎むものはあるまいが、しかしなにぶんにもトルコ兵は彼らを斬り、刺し、彼らに銃砲を撃ちかけるではないか。
とはいえ、こうした話がすべて完全な冷淡と、無関心の態度で語られたわけではない。たとえば、ジェレビャートニコフ中尉のことなども、多少憤慨の調子で物語られたが、しかしそれさえ慷慨悲憤というほどではない。このジェレビャートニコフ中尉とは、わたしも入院早々にお近づきになったが、もちろん、囚人たちの話を通じてである。その後、何かの拍子で実物を見かけた。その時、彼は衛兵所に立っていたのである。それは三十ちかい年配の、背の高い肥った男で、脂ののりきった頬には赤みがさし、歯は真っ白で、ノズドリョフ式の豪傑笑いをする癖があった。その顔を見ただけで、これこそ世界じゅうで最も無分別な人間だということがわかった。彼は笞刑の執行官を命ぜられた時、罪人を笞でぴしぴしと打ち据えるのが好きで、情欲に近いくらいであった。ここでさっそくつけ加えておくが、わたしはすでにその時からこのジェレビャートニコフ中尉を、そうした仲間うちでさえ一種怪物的な存在であると見なしていたが、囚人たちもやはりそんなふうに考えていた。昔は、といっても、さほど古いことではなく、『いい伝えは新しいが、どうもほんとうになりかねる』([#割り注]グリボエードフの『知恵の悲しみ』の中にある句[#割り注終わり])ような時代のことで、そのころは彼のほかにも、忠実熱心に自分の職務を履行することの好きな執行官がいたものである。しかし、その大部分は単純にやっていたので、かくべつ夢中になるようなことはなかった。ところが、中尉はこうした笞刑に関することとなると、最も洗練された美食家みたいなものになるのであった。彼は笞刑執行の技術を愛したのだ、情熱的に愛したのだ、もっぱら芸術として愛したのだ。彼はこの芸術を享楽して、あたかも快楽に疲れた頽廃時代のローマ帝国の貴族みたいに、自分の脂肥りのした心をいくらかでも刺激したり、くすぐったりして快感を覚えるために、種々さまざまな洗練された技巧や不自然な方法を案出するのであった。さて、ここに一人の囚人が笞刑のために引き出されたとする。ジェレビャートニコフがその執行者である。太い棒を手に持った兵士たちの整然とした長い列を見ただけで、早くも彼の心はおどるのである。彼は自己満足の表情で列を巡回しながら、各自が忠実に、良心的に、おのれの職責を果たさなければならない、さもないと……といったようなことを熱心にくり返す。兵士たちはこの、さもないと[#「さもないと」に傍点]が何を意味するかを、もうちゃんと心得ている。のだ。やがて、そこへ当の犯人が引き出される。ところで、もし彼がその時までジェレビャートニコフに会ったことがないか、それとも、彼のことを裏の裏までうわさに聞いていないとすれば、中尉はこういう悪戯をするのであった(もちろん、それは何百という悪戯のひとつで、そういうことを考え出すことにかけては、中尉は無尽蔵の才を持っていた)。囚人は裸にされ、両手を銃の床尾に縛りつけられると、やがて下士がその銃を持って、緑の街を端まで引きまわす、――そのとき囚人はだれにもせよ、一般の習慣にしたがって、憐れっぽい涙ごえで執行官に向かい、どうかお手柔らかにしていただきたい、あまり厳重なやりかたで刑を重くしないでほしい、と哀願を始めるのが常である。『旦那さま』と不幸な男は叫ぶ。『お慈悲でごぜえます、どうか親身の父親になり代わって、いつまでもあなたさまのことを神様にお祈りするように仕向けてくだせえまし。どうかわっしのからだが台なしにならねえように、お慈悲をかけてくだせえまし!』ジェレビャートニコフはそこが思う壺なのである。彼はすぐに刑をやめさして、同じく感傷的な様子をしながら囚人と話を始めるのであった。
「しかし、なあ、おまえ」と彼はいう。「おれにはどうもしようがないじゃないか。仕置きをするのはおれじゃなくて、法律なんだからな!」
「旦那さま、なにもかもあなたの胸ひとつにあることでごぜえます、お慈悲をかけてくだせえまし!」
「おまえはおれが気の毒に思っていないとでもいうのか? おまえのぶたれるのを見るのが、おれにとって楽しみだとでもいうのか? なにしろおれだってやはり人間だからな! おまえはどう思う、おれは人間か、人間でないか?」
「そりゃもう、旦那さま、わかりきったことでごぜえます。あなたさまは父親で、わっしたちは子供でごぜえます。どうぞ親身の父親になってくだせえまし!」と囚人は早くも希望を持ち始めながら、こう叫ぶ。
「だがな、おまえ、自分でもようく考えてみろ。おまえにも頭はあるんだから、それくらいの分別はつくだろう。そりゃおれだって人情として、おまえのような罪人でも、寛大に情け深くしてやらなけりゃならんということは、自分でもちゃんと心得ているよ」
「ほんとうにいちいちごもっともでごぜえます、旦那さま!」
「そうとも、おまえがどんなに罪の深い人間でも、情けをかけてやらなけりゃならん。しかし、なにぶんにも事を決めるのはおれじゃなくて、法律なんだからな! そこを考えてもらわんけりゃ! じっさい、おれは神様とお国に仕えている人間だから、もし法律をゆるがせにすれば、重い罪を身に引き受けることになる、そこを考えてみろ」
「旦那さま!」
「いや、もうどうなるものか! こうなったら仕方がない、何もおまえのためだ! 罪だということは承知だが、ひと思いにそうしてやろう……今度だけは慈悲をかけて、罰を軽くしてやろう。だが、もしそれがかえっておまえの身のためにならんようだと、どうしたものかなあ? いまおれがおまえに慈悲をかけて罰を軽くしてやったら、おまえはこの次もこんなことですむだろうと多寡をくくって、また罪を犯すかもしれんが、その時はいったいどうなるのだ、その責任はおれの良心に……」
「旦那さま! 誓って申します! それこそ天の神様の前に立ったつもりで……」
「いや、まあ、よし、よし! では、今後おこないを慎しむとおれに誓うんだな!」
「もしわっしが二度と悪事をしたら、神様、どうぞお罰をお当てくだせえまし、またあの世へいっても……」
「神様に誓うのはよせ、罪だよ。おれはおまえの約束だけでも信用するよ。約束するな?」
「旦那さま※[#感嘆符三つ、ページ数-行数]」
「じゃあ、いいか、おれはおまえに慈悲をかけてやる、みなしご同然のおまえの涙に免じてな。おまえはみなしごだろう?」
「みなしごでごぜえます、旦那さま、父親もなければ母親もねえ、天にも地にも一人ぼっちで……」
「よしよし、ではみなしご同然のおまえの涙に免じて、情けをかけてやろう。しかし、いいか、これが最後だぞ……さあ、こいつをつれて行け」と彼はさも慈愛にみちたような声でつけ加える。で、囚人はこうした慈悲ぶかい恩人に感謝するために、どんな祈りを神様にささげたらいいか、それさえわからないほどである。
しかし、ものすごい行列は動き出して、囚人を引っぱって行った。太鼓が鳴り響いて、第一の笞が振り上げられる……
「そいつを打ちのめせ!」とジェレビャートニコフはありったけの声で叫ぶ。「ぴしぴしとやれ! 容赦なしにやれ、容赦なしに! 目から火の出るほどやれ! もっと、もっと!あのみなしごをもうすこし小っぴどくやれ、その騙児《かたり》をもうすこし小っぴどくやれ! ぴしぴしとぶちのめせ!」
で、兵士らは力任せに彼を打ち据える。哀れな男は目から火が出るような思いで、大声にわめき始める。ジェレビャートニコフはその後にしたがって、列のそばをあちこち駆けまわりながら、からからと笑い興じるのだ。両手で脇腹を押えたまま、背をまっ直ぐに反らすことができないほど、笑いこんでしまうので、あげくのはては、見ているのが気の毒になるくらいであった。彼は面白おかしいのである。ただ、ときおり、その健康らしい朗らかな高笑いが途切れて、またしても、「そいつをやっつけろ、うんとやっつけろ! その騙児《かたり》をぶんなぐれ、そのみなしごを引っぱたけ!………」という声が聞こえる。
またそのほか、彼はこんな変わった手も考え出した。囚人が笞刑に引き出される。またもや哀願がはじまる。ジェレビャートニコフも、今度はめんをかぶったり、芝居を打ったりしないで露骨な戦法に出るのである。
「いいか、おまえ」と彼はいう。「おれは規定どおり処罰をやるぞ、おまえはそれだけの悪いことをしたんだからな。だが、おまえのためにこれだけのことはしてやってもいい、おれはおまえを銃の床尾に縛りつけないから、一人で歩いて行くがいい。ただし、新しいやりかたでな、列の端から端まで一生懸命に駆け抜けるんだ! こうすると、笞は一本一本あたるにしろ、ことが手短かにすむというもんじゃないか、どう思う? やってみるか?」
囚人は信じかねるようなふうで、けげんそうに聞きながら、腹の中で考える。『なに、もしかしたら、そのほうがとくかもしれねえ。ひとつ根かぎり早く駆け出してみよう。そうすれば、苦しみが五倍も短くて、笞も一本一本は当たらねえかもしんねえ』
「けっこうでごぜえます、旦那さま、承知しやした」
「ふむ、それなら、こっちも承知だ。さあ、やれ! いいか、みんなぼやぼやするんじゃないぞ!」と彼は兵士らに向かって叫ぶ。もっとも、笞がただの一本も罪人の背中をやり過ごすことがないのを、はじめから承知なのである。やり損なった兵隊も、あとでどんな処分に会うかを、同様によく心得ているのだ。
囚人は足に任せて『緑の街』を駆け出すが、もちろん、十五列も駆け抜けないうちに、不幸な男はあたかも薙ぎ払われたか、弾丸《たま》に打ち抜かれたように、叫び声とともにぱったり倒れてしまう。笞が太鼓の撥《ばち》か、稲妻のように、いっせいに彼の背に降って来るのだ。
「いや、旦那さま、やっぱし規則どおりにやってもらったほうがよろしゅうごぜえやす」と彼は怯えたように真っさおになって、のろのろと地べたから身を起こしながらいうのであった。
ジェレビャートニコフはこの魂胆と、それから生ずる結果とを前から知り抜いているので、からからと笑い声を立てる。しかし、彼のこうした道楽や、囚人仲間でしていた彼のうわさ話を、いちいち書き立てるわけにはいかない!
ところで、スメカーロフという中尉のことを囚人仲間で話す時には、いくらか具合がちがっていて、調子も気分も別であった。彼は、現在の要塞参謀が監獄の長官に任命されるまえに、この職務に当たっていた男である。ジェレビャートニコフの話をする時には、かくべつ憎悪の念をいだくふうもなく、かなり無関心な態度であったが、なんといっても、彼のやり口に感心したり、その人物を褒めたりするようなことはなく、あきらかに忌みきらっていた。それどころか、妙に高みから見おろして、軽蔑さえもしていたのである。ところが、スメカーロフ中尉のことになると、みんな喜んで楽しそうにうわさをし合った。というのは、彼がとくに笞刑を好むといったようなタイプとぜんぜんちがっていたからである。彼には純ジェレビャートニコフ的要素がすこしもなかった。が、それでも、彼は笞刑を毛ぎらいしたわけでもない。しかし、肝要な点は、彼の笞そのものまでがわたしたちの間では、なにかしら甘い愛情をもって思い起こされたことである。――それほどまでにこの男は、囚人たちの心をつかむこつを心得ていたのである! それは何によるのか? どうしてそれほどの人気を獲得したのか? なるほどわたしたちの仲間は、ロシヤの民衆ぜんたいがそうなのかもしれないが、たったひと言の優しい言葉のために、いっさいの苦痛を忘れかねない人々である。わたしはこのさい、いかなる側面からも分析解剖しないで、単に事実としてこれを述べるに過ぎない。この民衆に取り入って、人望を得るのは困難でないのだ。しかし、スメカーロフ中尉の獲得した人気は一種特別なもので、彼がどんな打ちかたをしたかということまで、ほとんど感動をもって追憶されるほどであった。『親身の親父もいらねえくらいだ』と囚人たちはいって、前の臨時長官であったスメカーロフの思い出と、現在の要塞参謀を引きくらべて、溜め息さえ洩らすのであった。『いい人だったなあ!』彼は率直な人間で、独自の善良ささえあった。長官の間には、単に善良なばかりでなく、度量の大きな人物でさえありながら、どうしたものか人に好かれなくて、なかには頭からいきなり笑いぐさにされるような人間も、ままあるものだ。要するに、スメカーロフは何か一種のこつを心得ていて、囚人たちみんなが彼を自分の仲間[#「自分の仲間」に傍点]扱いにするように仕向けたのである。それこそたいした腕、というより、むしろ生まれながらの才能であるが、それを持っている本人すら意識しないのだ。奇妙なことには、そうした人たちのなかには、てんで良くない人間も見受けられるが、にもかかわらず、ときとして、非常な人望を得ていることがある。彼らは、気むずかしくなく、部下を毛ぎらいなどしない、――そこに原因が潜んでいるのだと思う! 彼らには、お上品な坊ちゃん育ちらしいところがなく、貴族臭がない。なにかしら、生来の特別な平民らしい匂いがするのだ。この匂いに対して民衆はじつに敏感なのである! この匂いのためには、彼らは何ものをも惜しもうとしない。もしちょっとでも彼ら特有の粗麻《あらあさ》くさい匂いのする人間と見ると、たとえそれがきわめて厳格な人物であっても、このうえなく慈悲ぶかい人を捨てて、このほうを選ぶに相違ない。ましてこの民衆くさい匂いのする人物が、そのうえにかてて加えて、よしんば自己流であるにもせよ、しんじつ気立てのいい人であったら、その時はどんなものだろう? それこそもうその価値は無限である! スメカーロフ中尉は前にもいったとおり、ときには手厳しく処刑することもあったが、どこかそのやりかたにうまいところがあって、相手は恨みをいだかなかったばかりでなく、それからだいぶ時が経ったわたしの時代になってさえも、人々はさもうれしそうに笑いながら、彼が笞刑の時にやった思いつき[#「思いつき」に傍点]を追想するくらいであった。もっとも、彼の思いつきというのはそうたくさんなかった。芸術的な空想力がなかったのである。まったくのところ、彼の思いつきはあとにもさきにもたったひとつきりで、ほとんどまる一年、それで押し通したものである。しかし、たったひとつしかないというところが、お愛嬌だったのかもしれない。そこには、素朴さが多分に含まれていた。たとえば、罪を犯した囚人が引き出されて来ると、スメカーロフは親しく笞刑の現場へ出て来る、薄笑いを浮かべ、冗談などいいながら出て来ると、さっそく罪人になにかを問いかける。それは刑に関係のないよそごとで、彼の一身上のことか、家庭のことか、囚人生活に関することなどで、ぜんぜんなんの目的もなければ魂胆もなく、ただ単にそのことがほんとうに知りたかった[#「ほんとうに知りたかった」に傍点]からに過ぎないのだ。やがて笞が運ばれ、スメカーロフには椅子がすすめられる。彼はそれに腰をおろし、パイプさえふかし始める。彼はやたらに長いパイプを持っていた。囚人は例の哀願を始める……「だめだよ、おまえ、早く横になった、この場になって、どうしようがあるもんか……」とスメカーロフはいう。囚人はほっと溜め息をついて横になる。「ときに、おまえ、これこれの祈祷の文句を、そらでいえるかね?」「そりゃいえますとも、旦那さま、わっしらはちゃんと洗礼を受けた人間だで、ちっせえ時から習っておりますよ」「ふむ、それならやってみろ」囚人は何を唱えたらいいかもちゃんと知っているし、これを唱えると、どういうことになるかも、前もって承知していた。なにしろこの思いつきは、以前にも三十ぺんくらい、ほかの囚人の時にくり返されたからである。それに、当のスメカーロフも、囚人がそれを承知していることを心得ているのだ。それどころか、地面に身を横たえている犠牲の上に笞を振り上げたまま立っている兵士らでさえも、とうの昔にその思いつきをうわさに聞いている、それさえ先刻承知なのだが、それでも彼はまたぞろこの思いつきをくり返す。それほどすっかり御意に召しているのであった。というのは、おそらく自分で考えついたために、文学的自尊心が手伝っているのかもしれない。囚人は祈祷を唱え始め、兵士らは笞を手にして待っている。スメカーロフは身を乗り出すようにして片手を上げ、パイプを吸うのをやめて、ある一語が発せられるのを待っている。祈祷の一句を唱え終わって、ついに囚人が『与えたまえ』という言葉まで来る。ここが狙い所なのだ。『待て!』と熱しきった中尉は叫んで、そのとたんに感興にみちた身ぶりで、笞を振り上げている兵隊に向かって、『さあ、与えてやれ!』と叫ぶ。
そして、からからと笑い崩れるのだ。まわりに立っている兵士らも、同様ににやりとする。笞打つ者もにやりとすれば、笞打たれる者さえも、にやりと笑わんばかりであった。そのくせ、『与えてやれ』という号令とともに、笞はすでに空気を切って唸り、一瞬の後には、罪人のからだを剃刀のように切り裂こうとしているのだ。スメカーロフは大恐悦である。つまり、おれもなかなかうまく考えついたものだ。『与えたまえ』と『与えてやれ』の対句を自分で[#「自分で」に傍点]創作したのだ。しかもおまけに脚韻までふんでいる、こう考えると、うれしくてたまらないのである。こうして、スメカーロフはすっかり自分に満足しきって、その場を立ち去る。すると、笞刑を受けた当人も、自分に満足し、スメカーロフに満足せんばかりの気持ちで帰って行く。やがて三十分後には、早くも監獄の中で、今まで三十ぺんもくり返されたこの思いつきが、またぞろ三十一回目にきょうもくり返された次第を物語るのであった。『てっとり早くいえば、いい人だよ! 面白い人よ!』
どうかすると、この善良無比な中尉に関する追憶談は一種マニーロフ的([#割り注]ゴーゴリ『死せる魂』の中の人物、甘い人の好い現実肯定主義者の代名詞[#割り注終わり])な臭気を放つことさえあった。
「よくこんなことがあったもんだよ、皆の衆」と、ある囚人がしゃべり出す。その顔は、追憶の情に満面笑み輝くのだ。
「おれが外を通りかかると、あの人は部屋着をきて窓んとこにすわり込んでさ、お茶を飲み飲みパイプをふかしている。帽子を取ってお辞儀をすると、『アクショーノフ、どこへ行くんだね?』『へえ、仕事にめえりやす、ミハイル・ヴァシーリッチ、何はさておいても、工場へ行かなきゃなんねえんで』というと、にこにこ笑顔を見せなさる……つまり、いい人なのさ! ひと口にいやあ、ほんとうにいい人だよ!」
「あんな人あ鉦太鼓でさがしたってありゃしねえ!」と聞き手のだれかがつけ加える。
[#3字下げ]3 病院(つづき)[#「3 病院(つづき)」は中見出し]
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[#ここから29字詰め]
わたしがここに書いている刑罰、処刑関係のいっさいのことは、わたしの在監時代の話である。今ではこうしたことがすべて一変された、もしくは改革されつつあると聞き及んだ。――原注
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わたしがいま笞刑と、この興味ある職務の執行者のさまざまなタイプについて語り出したのは、ほかでもない、病院へ入ったためにはじめて、こうした方面のことについて明瞭な概念を得たからである。それまでわたしはそういうことを、ただ話に聞いていたばかりである。わたしたちの二つの病室には、ここの町とその付近一帯におかれている歩兵大隊、懲治隊、その他の特殊隊から、笞刑を受けた未決囚がぜんぶ送られて来た。わたしはまだはじめのころ、周囲に生ずるいっさいの事物を貪るような目で観察していたが、その時分、わたしにとって奇怪なこれらの制度や、すでに処刑された人々や、これから処刑されようとしている人々などは、自然の道理として、きわめて強烈な印象をわたしに与えたものである。わたしは興奮し、惑乱し、驚愕を感じた。忘れもしない、わたしはそのときとつぜん性急な気持ちで、これらの新しい現象を微に入り、細を穿《うが》って究めようとした。この問題に関する囚人仲間の会話や物語に耳を傾け、自分でも彼らに質問を発して、解決を得ようと努めたものである。なかんずく、わたしは宣告と刑の執行のあらゆる等級、その執行にともなうあらゆる陰影、それに対する囚人自身の見方などを、是が非でも知ろうとした。わたしは、笞刑におもむく人の心理状態を、みずから想像してみようとした。すでに述べたごとく、前にたびたび重い笞刑を受けた者さえも例外でなく、刑の前に冷静でいられるものはきわめてまれである。その場合、罪人は概して一種の鋭い、しかし純肉体的な恐怖に襲われる。それは意志を超越した、いや応のないもので、人間の精神を完全に圧倒してしまうのである。わたしはその後、数年監獄生活をしているうちに、笞刑を半分だけ受けて入院し、背中の傷の癒えるのを待って、翌日すぐ所定の笞の残り半分をすますために退院する、そういう未決囚をわれともなしに見つめたものである。この刑を二度に分けるやり口は、いつも現場に立ち会う医師の判定によって適用されるのであった。犯罪に応じて指定された笞の数が多く、犯人が一時に全部を受け切れないような場合には、その数を二度にも三度にも分けるのだ。それは、刑罰の執行中に医師の述べる意見にしたがうのであって、つまり、罪人がこの上なお列の間を歩み続けることができるか、それとも生命の危険をともなうか、そのいかんによるのである。普通、五百ないし千、ときには千五百という数でさえ一時にすましてしまう。が、もし宣告が二千とか三千とかいう場合には、刑の執行は二回、あるいは三回にすら分けられるのであった。前半の処刑で受けた背中の傷が癒えたのち、残り半分をすますために病院を出て行くものは、退院の前日から当日にかけておおむね陰欝で、気むずかしく、口数も少なくなる。なんとなく頭の働きが鈍くなって、何か不自然にぼんやりしたところが見受けられる。そんな連中は話など始めないで、たいていは黙りこくっている。何よりも面白いのは、ほかの囚人たちもこの連中に話をしかけず、彼を待ち受けている運命には、触れないように努めることである。よけいなこともいわなければ、慰めの言葉をかけるでもない。それどころか、一般に、あまり注意を払わないようにさえ努めるのだ。それはもちろん、当人にとってはいいことである。なかには例外があって、たとえば、前に話したオルロフなどがその一人である。刑の前半を受けた後で、彼はただ背中が長いこと癒えないために、早く退院して、残りの数だけ笞刑をすますことができないので、そればかりくやしがっていた。それは、ほかの囚人たちといっしょに、定められた流刑地へ出発して、その途中から逃亡せんがためなのである。彼はこの目的に熱中してはいたけれど、その頭の中にどんな目算があったかは、神様よりほかには知るものがないのだ。それは、激しい熱情と粘り強い生活力を持った男であった。彼は自分の感覚を抑えてはいたけれども、ひどく興奮して、すっかり満足しきっていた。というのは、まだ刑の前半を受ける前から、自分はしょせん笞の下から無事に出してはもらえまい、どうしても死ななければならない、と思っていたのである。まだ裁判中で、未決にいる時分から、早くも当局のとるべき手段について、さまざまなうわさが彼の耳にはいっていた。彼はすでにその当時から、死を覚悟していたのである。けれど、無事に刑の前半をすますと、彼は急に元気づいて来た。彼はめちゃめちゃに打ちのめされて、半死半生のていで病院へやって来た。わたしはかつて、これほどの痛々しい傷を見たことがない。しかし、彼は心に喜びをいだき、これなら大丈夫生き残られる、あのうわさは間違いだった。現にこのとおり、笞の下から無事に出してくれたではないか、こういう希望を持って入院すると、今まで長いこと未決に繋がれていた彼の心には、もう街道筋や、逃亡や、自由や、野や、森などという空想が浮かび始めた……が、退院して二日の後に、彼は残り半分の刑に堪えきれず、同じ病院の同じ寝台の上で息を引き取った。しかし、このことはもう前に書いておいた。
とはいえ、笞刑の直前にこれほど苦しい日夜を送っていた同じ囚人が、ごく小心な連中ですら例外でなく、いざ処刑となると、男らしくそれを忍ぶのであった。わたしは彼らの入院した最初の夜でさえ、呻き声を聞いたことはまれである。最も重い刑を受けて、たたきのめされた連中にあっても、それは珍しいことではなかった。概して、民衆は苦痛に堪えるすべを心得ている。わたしは痛みについていろいろとたずねてみた。その痛みはどれくらいひどいものか、また結局それを何に比較することができるか、その点をはっきり知りたかったのである。じつのところ、なぜそんなことを知りたがったのか、自分でもわからないのだ。ただ暢気な好奇心のためでなかったことだけは記憶している。くり返していうが、わたしは興奮していたばかりか、心の底まで撼《ゆす》ぶられていたのである。が、だれにきいてみても、わたしはどうしても得心のいくような答えを得られなかった。『まるで火に焼かれるようにぴりぴりする』、これがわたしの知りえたいっさいであり、一同の与えた唯一の答えであった。『ぴりぴりする』ただそれだけなのだ。わたしはこの入獄当時、Mと親しくなってから、彼にも根掘り葉掘りしてみた。『痛いですよ』と彼は答えた。『とても痛い、その感じは火で焼かれるようなんです、燃えさかる火の上で背中を炙《あぶ》られるみたい』要するに、だれもかれものいうことが、異口同音なのだ。しかし、今でも覚えているが、わたしはその当時ひとつの奇妙な観察をくだした。その正確さはとくに保証できないけれど、当の囚人たちの言葉が一致していることは、それを裏書きする有力な根拠となるのだ。それはほかでもないが、笞はその数がおびただしい数にのぼった場合、わが国で行なわれている刑罰の中で最も苦しいものだということである。これは一見したところ、愚にもつかぬ、ありうべからざることのように思われるが、しかし五百どころか、四百の笞でさえ人を打ち殺すことができるので、五百以上となると、それはほとんど確実になって来る。一時に千の笞を受けることは、いかに屈強なからだをした男でも、とうてい堪えうるものではない。ところが五百の杖刑なら、いっさい生命の危険なしに受けられるのである。千の杖は、あまり頑丈な体格をしていない男でも、命がどうこうという心配なしに受け終わらせるだろう。それどころか、二千の杖でも、中くらいの健康体の人間を打ち殺すことはできない。囚人たちはだれもかれも、笞は杖よりつらいといっていた。『笞はずっとぴりぴりして、痛みがひでえからな』と彼らはいった。もちろん、笞のほうが杖より苦しいに相違ない。それはずっと強く神経に働いていらいらさせ、限度以上に興奮させ、めちゃめちゃに撼ぶり立てるのである。今はどうか知らないが、さして遠からぬ昔には、自分の犠牲を笞打つことができると、うちょうてんになる、サド侯爵やブレンヴィリエ夫人も三舎を避けるような紳士たちがあった。思うに、この感覚の中には、これらの紳士たちの心を甘く、同時に痛々しく痺らせるような何ものかが潜んでいるのだろう。世には虎のように血に餓えている人間があるものだ。ひとたびこの権力を経験したものは、――キリストの掟によれば同胞である自分と同じ創造物の肉体と、血と、精神に対する無限の支配権を経験したものは、――神の姿をみずから現わしている他の人間を、このうえもない惨虐な方法で侮辱する完全な権力と可能性を経験したものは、すでにおのれの感覚に対して知らずしらず自制力を失って来るものである。暴虐は習慣である。それは発達すべき性能を賦与されているので、ついには募り募って病気になってしまう。どんなりっぱな人間でも、習慣の力に引きずられて、野獣の程度にまで粗暴化し、鈍化するものである、とわたしは主張する。血と権力は人を酔わすものである。粗暴な傾向と淫蕩が成長していって、あげくのはてには、最も変態的な現象でさえ、知性と感情の認めるところとなり、ついには甘美なものとさえなって来る。暴君のなかにあっては、人間と公民は永久に滅びてしまって、人間らしい品位とか悔悟の念とか更生とかに立ち返ることは、もはやほとんど不可能になるのである。のみならず、こうした我意の実例と可能性は、社会ぜんたいにも伝染病のような影響を与える。なにぶんこうした権力は誘惑的だからである。かような現象を平然と眺めている社会は、すでにそれ自身、根底において感染しているのだ。ひと口にいえば、他人に対する体刑の権利は社会の癌のひとつであり、その社会における公民思想のあらゆる萌芽と企図を絶滅するための、最も有力な手段のひとつであり、社会を避くべからざる必然の崩壊に導く最大の根拠である。
刑吏は社会で嫌悪されているが、紳士面をした刑吏はけっしてそうはされない。やっと近ごろになって、反対意見が現われ出したが、それもわずか書物の中で抽象的に述べられているに過ぎない。のみならず、そうした意見を述べている人人ですらみながみなまで、自己の内部におけるこの専制欲を抹消するにいたっていないのだ。どんな工場や事業の経営者にしても、自分のかかえている労働者が、その家族をもひっくるめて、ただ自分の胸ひとつでどうにもなるのだということに、かならずや一種刺激的な満足を感ずるに相違ない。それはまさしくそのとおりであって、人間は遺伝的に受け継い