1917年
宮城県本吉区に生まれる
1943年
東北大学医学部卒業
1944年
フィリピンにある海軍103病院に軍医として配属
1946年
マニラのアメリカ野戦病院にて終戦を迎える。当時、28歳、海軍中尉。復員後は気仙沼にて医師として暮らす。
(略)
[2] 米軍侵攻始まる 08:51
Q:先生はそのころ、もうすぐマニラで、激しい市街戦が始まるって、感じられてました?
それはもう。だって、すごいんですもの。飛行機が来る、あるいは砲撃ね。女子職員を帰したのが1月5日ですか。それで、7日に上陸してるんですね。それで1か月くらいして、もう、どんどん侵攻して、それで2月。それに書いてあるんです。2月5日にね、あの、病院長以下、大半がね、北部へ転進ということになった。そのときの院長のね、言葉が本当忘れられない。
Q:なんとおっしゃったんですか?
あのね、「わたしたちは命(めい)により北部に転進する」と。「タグチ少佐、カマタ少佐、移川中尉」あ、いやいや、もうひとり。もうひとり大尉と、中尉、わたし、薬剤中尉ひとり、それから、もうひとり少尉の方6人、ですか。以下、50名くらい、40~50名、残ることになる、と。それで、「決してね、捕りょになどなるような、なって、軍人として、不名誉なことをしてはいけない」そういう、訓示だったんですよ。だから、最後は自決とか、何とかしろという事でしょうね。これは、もう忘れられないですね。さっさと院長たちはもう、北へ行っちゃったんですね。
Q:そのとき、残った先生たちは何人くらい?
だから今、士官が6人、あと兵隊さんが40~50人いなかったと思うんですよ。それでもう、あとすぐ、夜だけしか動けないんで、患者さんをどんどん、ババタミの方へ運んでね、医療品やら何やら。いよいよもう、すぐ近くまで、来てるんですよ。バシグ川なんか、その近くまで来て、もう、すごいんです夜は。真っ赤になってね、燃え盛る、あれで。すぐ近くまで、来たんで、もうこれは、ダメだって言うかね、最後だと。こういうこと、言った士官もいるんですよ。「この病院をおくと、残しておくと、敵に利用されるから、爆破しようじゃないか」と。ホールに爆弾仕掛けて、破壊してしまおうという、話も出たと思う。これは結局、やらなかったんですね。
Q:動けない患者さんもそのままいる?
もう大体、運んじゃってね。それで、その話は実行されないで、あと、今度いよいよ、脱出ですよね。脱出は、もうわたしら士官、3人残ったんです。両少佐とね、カマダ、タグチ、それから、わたし、中尉、車庫長って、車の運転の長です。車庫長・カナモリさんっていう方の運転でね、夜10時ごろかな。そこにありますけど、脱出したんだけど、もう、バリケードやら、地雷やらで、行けないんですよ。行ったり、戻ったり、もうほんとに、やっとの思いで、ワーダマについて、ほっとしたんです。
Q:先生たち、その2月5日ですか? 5日に上の方たちだけが、移動されて先生たちに残れと、そういう訓辞を言われたとき、先生のお気持ち、忘れられないとおっしゃってましたが、どういうお気持ち?
訓辞でしょ。とにかく、夢中ですね。ただ聞いてると。「ええっ?」っていうような感じですよね。いや、そのときの気持ちと言われると、本当にただ聞いてたですね。
Q:米軍が確か、マニラに入ってきたのが2月3日ですよね。その3日、入ってきたころっていうのは病院内はどう?
患者さん、来てますから、手術着のまま、不眠不休っていうんですか。特に、わたし外科だったんですけどね。同期の者もいたけど、これ内科なんで、いつの間にかどっか行っちゃった。ははは。
Q:米軍が入ってきてすぐに決まったんですか? 上の方たちの?
いや、急に言われたんです。全く、何も予告なしに。誰々残るなんてこと、知らせられない。そのとき、初めてわかったんです。
Q:先生が病院から外に見えた景色はどのように?
夜、昼はあまりね、音でしょ? 夜なら赤いあれ、そっちにもこっちにも。夜空にね、日中はちょっと、音が主ですよね。
米軍。音がとにかく、すごかったですよ。バリバリバリとかバシンバシン。
あと、病院の近くのフィリピンの方々のゲリラ化したという、情報まで入って、それで逃げ出したんですね。
4~500メーター、5~600メーターくらい先まで来たときですか。わたしら逃げ出したのは。
Q:市街戦で、けがをなさった兵隊さんたちは来ましたか?
ええ。もちろん、いっぱい来ました。
そっちこっち、頭抜かれた、普通、普通って言うよりありふれた、けがいっぱいありますけど、特別ね、弾が入ったまんまの患者さん、多かったです。弾片。どこにでも入って、そのままになってるんですね。これがね、わたしは随分やらせられたんです。弾片摘出。弾片をレントゲンでみながら、抜き出すんです。これね、わたしらは素手で、やったんです。
Q :市街戦のけがの方はだいたい何人くらい先生のほうへ、病院に運ばれて来ましたか? 2月の頭で。もう1日にどれくらい?
最初のベッド数は300だったかな。それ、だんだん1000。1000以上になったんじゃないですか。
うんうんうん。もう、とにかく廊下に、もうあらゆる人が、入りましたよ。あとは、隣の民家ね。近接の民家を借りて収容しました。1000人以上だったです。そこに、ちょっと書いてあったと思うんですけどね。手術して、何かちょっと、手が空けば、そういうところに行ってみるでしょ。衛生兵、任せに、するわけにいかないんで。
あと、もげたとか、手がないとかね。足やられたとか、もちろん、こういうとこに、弾が入ってますしね。いろいろでちょっと、特にどうっていう、記憶にないですね。とにかく滅茶苦茶。いろいろな患者さんが、こられたんで。
Q:そのとき、その薬とか、器具とか、そういうものは十分にあったんですか?
十分、そのあたりまではあったんですね。脱出するまではあったんですね。脱出するとき、できる限り、運びましたから。
Q:患者さんをですか?
患者さんと医療器具、それから食糧。
[3] 病院に逃げ込む兵士たち 02:03
お腹が痛いと言って、来るんですよ。盲腸ね、盲腸だったら一応、切るでしょ。切れば一応4~5日は病院にいるわけでしょ。そうすると、その間、戦争へ行かなくて済む。そういう患者さんね、随分あったですよ。兵隊さんだけじゃなくてね、士官、中尉、大尉、そういう方もね、痛いと言って来られて、わたしらが診察して「大丈夫だよ」って言って帰してもね、また、ものすごい痛んで来る。それで切ったら、やっぱり何もなかった。結局、戦争回避、そういう方がわりと多かったですね。これはもう、わたしが体験したんですが。そこでね、わたし、もう、一日に何件も、盲腸手術をやらされました。
(戦地が)激しかったんですね。(戦地に)出されるとダメということで。だから手術してもらえば、少なくとも3~4日は行かなくて済むと。
Q:そのとき、先生は何でもなくても、切ってあげたりってこともあったんですか?
中には、そういう方もありましたね。切るのはわたしが主にやったし、あと上の方もね、カマタ少佐と、この方もやりましたけど。二人でおかしいなと言いながら、切ったりした例もありますね。
[4] 抗日ゲリラ 04:33
Q:先生がマニラに着かれたばかりのころ、フィリピン人の対日感情はどうでしたか?
わたし着いたころは良かったですよ。もう、非常にマニラって、良い所だなあという印象でしたね。
Q:それが悪くなってきたのは、ゲリラかもしれないと思うようになってきたのは何月くらいですか? 米軍が来る前ですか? 来た後ですか?
来てからじゃないですかね。だから、わたしずっと、手術室に居たからわかりませんけどね、わかりません。とにかく情報では、近くの方々もゲリラになったと。ゲリラ化したと。だから、ここには居られないという結論になったんですね。
Q:それまで病院にも攻撃が出てきたんですか? 周りにも?
空爆、まあ、おそらく狙ってやったわけじゃないと思うんですよ。米軍の。屋根にちゃんと赤十字の、屋根にも上にも、赤十字が、あれついてますからね。現に、最上階の病室は患者さんでいっぱいで。それで、看護婦さんも泰然と勤務してました。これはもう、忘れられませんね。いくら、そういうあれがあっても、看護たちは、動揺することなく勤務したっていう。これは忘れられません。だから狙って、当たったんでなくおそらく、流れ弾とか、そういうのはあったと思うんですけどね。病院が狙われたっていう、記憶はないです。まったく。
(略)