『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

ふつうのくつや ルソン島、第17連隊05 略あり

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1922年秋田県横手市十文字町にて生まれる。
1936年植田尋常小学校卒業。
1943年歩兵第17連隊入隊。
 第3機関銃中隊に配属
1945年フィリピン・ルソン島にて終戦を迎える。終戦当時、伍長
1946年復員。復員後は農業を営む。

[1] 南方への派遣 05:38

「戦時体制に編成を替えろ」と言うわけで、わたし、服から何から新しいのと交換させたわけですよ。ところが、新しい服っていうのが「夏服」なんですよ。満州って寒いとこでしょ?で「夏服、あ、これは南方へ行くんだな」と、そういう予感をしたわけですね。で、本当にね、比島に行くってのは、いったん九州に来て、三池港という炭鉱の町があるんです港ね、そこへ来て初めて分かったらしいんですよ、「お前らフィリピンに行け」と。最高の偉い部隊長さんに、そういう大本営の、命令、それまでは分からなかった。よくほら、ドガンとアメリカにやられて船が沈んだりを想定して、1週間ばかり船の高いところから海へ飛び込んで泳ぐ練習、1週間ばかりやったんですよ。

して船に乗って「さあ出港」て時にね、若いお姉さんがたが「兵隊さん頑張ってね」って、こんなに豆粒ぐらで小さい、船は高いから、あの声が忘れられなかったな。年頃だから、そういうお嬢さんがたがら励ましの言葉を、して、行ったんですよ。で、ずっと行って台湾に寄る予定だったんだけど、アメリカの潜水艦が来て、「ドーン」と船が沈められたという情報が入ったので、航路をう回してなんとか比島に、ルソン島に着いたと。

Q.その途中、航海の途中、米軍の潜水艦がそんなにいたんですか。

すぐそごら辺まで、九州の近くまで来てらった、日本の飛行機もたまには飛ぶけども、そのときはもうかなりは、落とされてしまってるでしょう?だがら、夜、行動するしかできなかったわけですよ。本当に緊張の1週間というかなあ。ルソン島でも一番北、手前の北サンフェルナンドってどこさ、たいした港では無いんだけれど、急きょ、そこを港にしてそこさ上陸したんですよ。とにかく船さ乗ってるうちが危ないって。

我々を降ろしたところは港と言っても名前ばかりの港だったんですよ。あどほれ、弾薬とか大きい兵器とかはマニラさ降ろさなければだめなわけですね。で、マニラまで兵器を積んだ船が下がったわけですよ、我々の部隊はなんとかかんとか見つからずにあれだけど、マニラの港の入口で(船が)ドンとやられて沈んだ船が何隻もあったって言うね。わたしは見た事はないけど。わたしなんか北サン(サンフェルナンド)てルソン島の一番北の港さ上陸して、どうして南の方さ行ったかっていうと、果物でヤシの実、の中を採って殻を捨てるでしょ。非常に油気の強いものなんだな、身は採って殻ばり(殻だけ)、それの乾燥したものを燃料にしてね走る電車(汽車)がおったんですよ、ちっちゃいので、それさ乗って50キロか60キロぐらい行ったんじゃねえがな。ああいう汽車…石炭たくのが普通だけど、南方のヤシの実ね、乾燥したそれ燃料にして走る。びっくり…なにも見るもの聞くもの何も、言葉は通じないし、外国だなと思ったんし。


[2] フィリピン住民の変化 07:27

Q.初めて行ったフィリピンの印象て、どんな感じでしたか。

うん、とにかくね、秋田も寒いし、満州も寒いでしょ?もうそこは、パンツ一つでも暑いでしょ?もう非常に開放的だと言うかなあ、開放感があったね、で、向こうに行くと向こうの言葉を早ぐ覚えたぐてね、ある程度自分が覚えた時、街中である女の人と若い女の人と会ったんですよ、ひでほら(そしてほら)覚えた言葉を使ってみたいもんだから、「貴女は、きれいなお姉さんですね」というような意味の向こうの言葉を使ったわけよ、そしたらよ、向こうもさすが負けないな、「あなたも、なかなかの色男ね」みたいな、なんかそういう意味の事を言われてよ、俺初めて顔真っ赤にした覚えがある。まだ女てよ、兵隊さ行くまで女の人と手つなぐごどもでぎないし、並んで歩くごと、そのあたりのことは出来なかったでしょ?なんとところが、比島ってスペインが最初に占領して、そいがら、今度はアメリカがそこを植民地にしていだとこだがら、考え方がまったく欧米のような考え方なんですよ。女の人だって別に特別な目で見たりはしないような。我々は、ほら、まず兵隊さ行くまでは女の人と一緒に歩くなんてこと、まず無かったしね、だがら教養の違いというか、随分明るい感じしたねルソン島というとこは。薄気味の悪い、戦争状態になったがらんだべども、非常に開放的な…あの~。ある時ね一回だけどタールっていう街にね、あの~そこに歩哨で居た時、「お昼ご飯食べに行こう」ってタールの市長さんだっけよ、おんや、余程気に入られたど思ってよ、街角で服装検査どがしてらった時期なわげよ、で、「お昼食べに行こう」って言うがら早速行ったらよ、やっぱり市長さんの家で、娘さんがいてお嬢さんがいて、ピアノ弾いでやってらったのな、ピアノの練習だがやってらっけ、してやっぱり、ご飯はおかゆみでった、ああいう物をこういう洋皿ひとつご馳走になって、それで帰って来たことあったね。で、フィリピン人も親日派と日本に深く親しみ持っている人と、逆な人といるんですよね、それは、我々は全然わがらないわげですよ。

Q.じゃあ上陸したころはフィリピン人の方も結構日本の兵隊さんには…

協力してくれた。

Q.親切に?

だがらアメリカの飛行機が来ないうち、地上は日本軍が占領している時はよ、やっぱり日本人さ気に合うようないろいろだ便宜を図ってくれてそうしたもんだわげです。だんだんにほら、今度、アメリカが空襲で来て日本が散々叩かれて、どうもうまぐねえーそうになった時はもう、ほとんどフィリピンは今度は勝つ方の味方なわけですねとにかく。いやあ…。まず物が無いがらな、日本は。

北サンフェルナンドという港さ兵隊ばり上陸したわげよ、荷物はマニラさ送るな?そして食い物無いでしょ。2人だが1人だが、小銃2つ持って7~8人でフィリピンの部落さ食い物探しに行ったらしいんだな、そしたら根っからのゲリラさ当たってよ、体裁いいごと言って食べ物集めて、帰る(段)になったらよ、これで(銃で)バラバラバラやられだどな。2人だしけな生きて来たのは、それは事件になってよ、書いだものもあるどもよ、そういう根っからのゲリラもいだったわげですよ。それがらどっちでも、うまい汁を吸える方さ肩を持つっていうんたまあ言ってみればね。

Q.ゲリラってのは相当居たんですか。

これはよ、ゲリラってのは増えだり減ったりするわげよ。日本側さついでる時は、あああって日本さ近寄ってうまい汁を吸えるでしょ?段々ダメになって、アメリカが強くなって来ると今度はアメリカの方さつくんだな。だがらゲリラってどこまで本当のよ、日本ひいきなのかアメリカひいきなのかこれは経済的な関係て言うかね、自分さ良くしてけるところについでるのが、まず精神的に、俺は、「アメリカが頭っからだめだ」っていう人とが、「日本はだめだ」っていう人どが、最初っからそういう人って、そんなに多くはいないと思うよ、大衆はやっぱり自分たちさ良くしてけるところさ行って、損出れば後ろ向く、といったそういう人が多くねえがな、と思うな。


[3] タスケテクダサイ 12:25

「あの部落は、もうゲリラの部落だがら、男でも女子でも子どもでも皆殺してしまえ」というわげよ、そういう指示を受けた事があって、いまは公言されね事だべどもよ、居た人全部、わらし(子ども)の果てまで一人残ったって困るべ?皆殺し。そういう、そういうのは、憲兵隊な、いやああれだっけ、ヤシ林の中でよ、一人居た、隠れていだの(人を)連れて来たって俺のどごさ、あの連れて来た女の人どごよ、連れて来たっけものな、その女の人よ、やっぱりただの女子でねえ、やっぱり…かなりの知識のある人だと思うんだ。俺の手を締めてよ、グジャッと締めて「ニッポン、テンノウヘイカ、アリマス、タスケテクダサイ」って、天皇陛下って泣く子も黙る神様だべった?日本では。天皇陛下があるって事を、皇室があるって事を俺(女)も認めるから日本を分かっているから、理解しているから、助けてくださいと、手ぇギジッ・・・と握ってよ、かなりよ教養のあるような人だっけ。うん、あそこにロスパニオス大学ってあるんですよ、そこの関係している人でねべがな?と思ったっけどもよ。そうやって俺どご離さねども、今度はほら、ヤシ林の方から(兵隊が)迎えに来たわげよ、その女子を連れで行くどって、(鷹田さんに向かって)「連れで行ぎでなら殺す」って言うのや、それでヤシ林の中へ兵隊来て連れて行ってそれっきりだ。だがら戦争て、いかに残酷だがってことだな、その女の人だって捕まえていいばよ、殺されねぐってもいがったべどもよ。三十そこそこだえった、そういう奥さんだっけ、だめだ…。

して、日本人もよ、様々なのいるんだな、こったこと、あまり人さ言われねどもよ、みんな日本の兵隊って男兵だべ?でまだ25,6だべった。珍しいんだろな、まず女を。して女子(縄で)締めてよ、本当は言われね事なんだけどよ、恥さらしだども、「尻を出すべ」と言うわげよ、その女子に、「尻出すべ」って言って、それが絶対よ、他人のかか(奥さん)なばあれだどもまだ生娘だべった、へばやっぱり「はいはい」なんてな言えねえし、「出へば(出せば)助けるし、んでねば(でなければ)殺す」って言ったったってよ、絶対抵抗してよ、して日本の兵隊も日本の兵隊だ、バチッと、殺しちゃってよ、して殺してがらサルマタ開いで見でよ、「け、こったものが(ちぇ、こんなもの)」て革靴でどんとフンマゲダリ(踏みつけたり)してよ、残酷なもんだなと思ってよ。俺らより2年ぐれ古しい(先輩の)兵隊だがら文句も言われねえわげよ。そうだっけ…。たまげた。まず戦争なんてな、良いことひとっつもね。

まずね、最初っからいえば情勢が悪くなったらよ、あすこの部落は皆ゲリラ部落だがらや、全部殺へっていうのよ。命令がな。そういうような命令だったもんだがらよ、なんとすへ(どうしたらいいか)、まさか皆そういうわけねえたって、その部落にそういう人が居ればよ、そう見られるわげだな、日本の軍部もほれ、ひじねぐなれば(苦しくなれば)そういう具合になるべった。ひどかった。

Q.全員殺せと命令を受けてどう思われましたか。

ん~ん、まずとにかく命令はそれこそ絶対絶命なんだがらな、軍隊にいる限り。命令に背くことは天皇陛下に背く事なわげよ、まず。命令ってのは絶対的なもんだ、逆らえねえもんだ、ってえことだがら、まずな。自分の命よりも大事だっていうがらな、そういう具合にまず、日本の軍隊て教育受けてらべった。そういうんだおん、教育の力ってのは怖いもんだな、って思った。なあんと…。

考える余裕が無いっていうか、もう行動が先になっちゃってよ、たとえば一軒の家さよ、そこはあまり評判の良くない部落で、居るものを皆一軒の家さ呼び込める(集める)べった、中さ入れるわげよ、して何するかっていうと「皆殺せ」って言うのよ。たとえばそうなるわげよ、へば俺ひとりよ、「そりゃだめだ」とか「明日にしたほうがいい」だとか、そんな事を言う余裕が、我々には無いわげよ、一兵卒に。ただ上の偉い兵隊さんたちに言われた通りに守らねばよ、自分の首が危ねんだ。そういう事だな、兵隊は。してやっぱりよ、ああいう戦闘状態になると常識がもう無ぐなっちゃってるな。常識があればよ、女子どもまで関係無えべった、うん、もう頭が何もねえな常識もなぐなっちゃってる。ああいう精神状態になれば。

Q.なかなかお話づらいことかと思いますが、実際にある部落があって皆殺しをしろと言われて、具体的にはどういう風にして手を下したんですか。

手を下すって、つまりよ、これはやらねんだ、危ねえは危ねえし、拳銃なり小銃なりよ、ただこれ(剣を突き刺す)。ボロっていうんだ、街の方にジャングル歩くときに民間の人も持ってるけど、ボロって両刃のよ、こういう大きい、皮のさやさ入った、やぶだって全部やるわげよ(現地のナタ)ボロ?ゴロって言ったっけがな…。

俺はそういう事は一回しか体験無えどもよ、「おめえ、そっちやれ、俺はこっちやる」とかってそういった話では…瞬間的だな、わえの脳(自分の脳)もその状態になればよ、これがら何人がの人を殺せってなればよ、これも普通じゃねえ、異常になっちゃうな。いいどが、わりいどが(良いも悪いも)ことの善悪どが考える余裕はないわげよ、ただ命令一辺倒でよ、それだけが至上命令でやらねえわげにいかねえ。やっぱり皆その気持ちだど思う、誰もよ人殺して気持ちいい人はそういねえと思うしよ、もう面でね、普通の面でねえ血の気が無くなったような顔つきしてるっけど、みんな。人殺すのはなんぼこんたわらしだってよ(いくらこんな小さな子どもでも)、大変な事だ。

Q.こういう話はこれまでどなたかに話してこられたことは?

こんなに今話したように続けざまによ、そういう話ってあまりしたごとねえがな。してや、いまの若い人って兵隊の話って「聞きでぐね」って言うらしいんだな。例えば、俺だって俺の息子いるわげだどもよ、兵隊の話なんてしたって耳貸さねな、それがらまたよ、人によってよ、「じい様、戦争の話すれで(してくれ)」といった人もたまにいるらしいんだども、俺の家なまずいね(いない)。

Q.今回テレビの前でね、なかなかお話しにくいことだと思うんですけど、どうして話していただけるのですか。

やっぱりよ、真実に勝るものはねえがら。これはやらねって言ったって現実にやってるんだから、やっぱり真実は嘘こがれねべった(うそつけないでしょ)?だがら・・・なんとなってもよ、そりゃあ裁判のなんてこった別だども、あんたとの場合なばストレートに思った事をそのまま話しても、その方がすっきりするでしょ?

Q.すっきりする?

ん?ん、まず、心の底にあるものを出へばな。なかなかそういうよ、今の若い者は戦争の話なんてのは聞きでなんて人はいね風だよ?あまり、特に若い人だべどもな。うん、そうらしい。