『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

ふつうのくつや 医師衛生兵関連その03 略あり 山西省「ロアン」従軍

1921年三重県飯南郡河内村(現・松阪市)に生まれる
1934年大河内第一尋常小学校卒業後、名古屋の羅紗問屋で働く
1942年現役兵として独立歩兵第13大隊に入隊。中国山西省太原を経て路安陸軍病院に配属
1945年路安陸軍病院にて終戦を迎える
1946年復員 農作業衣や裁縫用品の卸売業を営む


[1] 中国山西省へ 03:54
[2] 衛生兵の教育 04:19
[3] 路安陸軍病院へ 06:39
[4] 傷病兵であふれる病院 03:22
[5] 遺体の解剖 04:57
[6] 沖縄へ行った傷病兵 03:12
[7] 路安陸軍病院の絵 04:43
[8] 安置所の記憶 04:17
[9] 手術演習について 01:07



[1] 中国山西省へ 03:54
あれはね、昭和、まだ17年のね、1月にね、太原(中国・山西省)っていうところのね、ショウテン門の外に閻錫山という、まあ、将軍ですな、山西省の。その人の、私兵というか部隊があったわけです。で、そのショウテン門を出たところに、山西軍の兵舎が空いていたもんですから、で、そこで軍人の何ですな、基本の教育を受けたわけです。それは、京都の師団でしてね。で、そこで3か月。それは、まあ、初めて軍隊というところを知らないから、行ったところが、1週間目ぐらいでしたかな、班付きちゅうのがおるんですよ。部隊にはね、教育隊には。それは、3年兵の兵長さんと2年兵の上等兵と。で、私らの部隊は2人とも3年兵でしたが、

「軍人精神を教えてやる」と言うて、最初にもろうたのが往復ビンタって言ってね、スパーンと叩(たた)いた。その今度は返りの手の甲で向けて、バーンと叩き返すわけですな。それで、初めてもろうたが、その40人おるんですから、最初の者はどんなことをされるか分からんで、なっともない(何ともない)けども、私らはあんた、20番や30番になってくると、もう分かっていますからね。それはもう向かえの叩かれている人の顔を見たら、それはもう顔の形が変わります。叩かれる前から。それで、初めて受けたのはそれでした。それから、2月の11日のあれ紀元節ですか。昔のね。あのときに、そのー、もう1人の兵長の人が、この人は京都の人でしたけれども、この人が保衛班でいっぱい飲んで、一杯機嫌で帰ってきてですな、それで、あれ11時ごろでしたやろうね、「起床!」って言って。それで皆、起床って言うから起きるでしょう。「全部脱げ」。寝るときは、もう襦袢と胯下だけで寝とるわけです。それを全部外せと。すると、軍隊ですから、越中フンドシっていうてね、紐(ひも)のこうやってする。よく病院でT字帯とか言ってありますけど、あれのこう簡単なさらしのものです。それが、皆、付けとるわけですよ。それでです、その、いわゆる兵舎の外の運動場へみんな並ばされたわけです。それはそれはもうものが言えまへんな、寒うて。もうそやで、こう、踵(かかと)とつま先だけで立っとるのが精一杯。力を入れるともう何ともなりません。で、それをやられましてね。それで、いわゆる竹刀で切り返しをされたんです。だから人によっては、この肩からね、血出す人ありましたけどね。


[2] 衛生兵の教育 04:19
衛生兵の教育は、私らは入隊前から衛生兵でしてんや。これはもう軍直轄でね。それで、留守部隊が東京の第2陸軍病院でしてな。だから、もう初めから教育を、基本教育を受けたら病院へ行くという決まっていました。そうすると、そのほかに入ったときは歩兵とか、機関銃とか自動車とか、いろいろ科、この兵科がありますけども、これも3か月の基本教育を受けて、軍人としての基本教育を受けた後、中隊で選抜されるわけですな。そういう人らは隊付け衛生兵っていいますのや。部隊に付くわけですわ。その人らと一緒に、私らは5か月、衛生兵の教育を受けたわけです。その人らは教育を受けると、まだ各原隊へ復帰していくわけですね。で、そこで部隊が行動したときに一緒に付いてて、負傷者をやっぱりするとか、そういいことのないときは、中隊の兵隊で加減が悪いとかいうときは診察を受けて、それで病院へ送ってくるとか、そういう仕事をするのが隊付け衛生兵なんです。

初年兵のときに、救急法を習ったときに、162名運動場で、春でしたけどな、もう全裸になるんですよ。フンドシまで取れって言うんです。で、初めはね、ちゃんとしとって、上のとこは、この脇の下のここに脈どころがあるんです。ここへこうグッと押さえると、これ、ビュッとしびれますわ。それはこう脈どころがあって、ここを押さえると止血しますんや。で、手の先をやったら、こういうところ、横からこうやったら必ず止まります。そういうのを教えてもらうわけですわな。こうしたところが、いよいよ、この下半身になってくると、ズボンを履いているもんで駄目でしょう。「皆、脱げ」って、皆脱いでフンドシ一丁になたらやね、フンドシも取れって言うんですよ。「フンドシ取れ」って、「そんなことかなわん」って言ったら、やっぱり軍隊ですわな。「貴様らはそれでも日本の軍人か」っていうようなことで、班長さんが竹刀を持って回るんですよ。「何が恥ずかしいんじゃ、取れ」って言ってね。言うもんで、しゃあない、みんなしぶしぶと取る。そしたら、その班長さんが言う。「偉い、おまえらは偉い。さすが日本の兵隊さんじゃ。うん。立派なもんじゃ」って言ってね、ずっと見てね。「それにしても大小いろいろあるな」って。「よりどりやね」って、こう言うた。そんなんで、ワーッとみんな笑うて、それからスッとした。そしたら、この、ここの股関節のここにね、こうやって当てるとね、脈どころがあるんですよ。で、これをこう押さえてね、それで、その足のほうの何が、膝から下がやられたとか、ここをやられたという場合は、これをびゅっと押さえといて、それで、その平たい石やとか木の端をこれへ当てて、で、三角帯ってあるんです。三角巾っていうものがあるんですよ。それでもってびゅっとこう縛るか、ばっと外して縛ってやれと、そういうことを教えてもらうんですけどね。私ら病院の兵隊には関係ないですわ、そんなことは。恐らく。だけど隊付きの兵隊は、それは、ためになったと思いますね。実際に脈どころ、ここにあるって言ったって、実際に現物を見て、現物に自分のものを見るわけないですからね。相手のを見て、ああ、ここかって。あ、よう脈打っとるって分かる。だから、隊付きの人らは(勉強になる)。軍隊ってそんなところなんですよ。もうそんなもの、もうやれって言ったら、もうやらんならんです。


[3] 路安陸軍病院へ 06:39
Q:路安(*「路」は実際には「さんずい」に「路」)の病院に着いたときはどんな感じだったんですか?

路安(現・山西省長治市)の病院は、その教育が終わってから。路安、太原から路安までにね、このー、鉄道はね、日本軍が引いたんですよ。だから、その幅も狭いんです。それで、朝、太原の兵站でお弁当をもろうて、それで私ら23人が乗って、それで夕方、夜着いたんですよ。そうしたところが停車場らしいものがないんですよ。真っ暗で降りたところは線路でしたね。それで、まあ、向こうから、病院の方から週番の人と2、3人、あれ、迎えに来てくださったんですかな。で、そこで引率されて行った。そうしたところが、路安というところは、もう少し何か町らしいんかと思ったら、まあ、夜着いて分かりませんでしたけども、もうそれは道路はほこりだらけです。それで両側の、いわゆる中国人のその店ですね、中国人の人の。店じゃない、家なんですよ。住まい。それがね、コーリャンっていうて、日本で言うとトウキビっていうのありますな。あれ、いわゆる、トウモロコシの何に似よりたもんですよ。あれを乾燥させて、それでずっと並べて、それに泥を塗るんですよ。そんなお家でね、実際、小窓から見える明かりはね、何かロウソクかカンテラか、そういうもの、明かりしかない。電気はないんです。で、そこで、まあ、歩いて、それで何ですわ、病院へ行った。そしたら、まあ、病院は一部は電気が、自家発電でやっとるんですけどな、あれはもう消灯になったら、皆、カンテラです。で、まあ、えらいところへ来たなっていうのが、そのときに思った実感でしたな。

Q:どのぐらいの規模の病院だったんですか?

え、ああ、規模ですか。まあ、第一線に近かったですからね。あれで、どうですかね、3等陸軍病院ですかな。隊長以下、軍医さんが10名足らずです。で、そのほかに薬剤官と、それから主計官と衛生官とで、まあ、12~13名と違いましたかな。そのぐらいの方がみえました、将校は。で、下士官は約40、あ、20名ぐらいみえましたな。それから看護婦さんが8名ぐらいいましたかな。それから、病院ですから賄いの、そのね、いろいろかの献立料理を作る厨士(コックのこと)さんって言うんですか、ああいう人と、それから通訳と。それから、あとはまあ、車の運転ですな。運転士。そんなので、やっぱり10名ぐらいはいまして、全部でどうですやろう、130名か。兵隊は80名ぐらいで、まあ、まあ、140、150・・50名はありませんでしたな。130名ぐらいじゃなかったですかと思います。

Q:衛生兵はどんな仕事をしていたんですか? その病院で。

病院ですか。そうですね、病院はね、いろいろ科あるんですよ。本部で庶務で仕事をしなさる人と、それから内科の病棟で勤務する、外科の病棟で勤務する、伝染病棟で勤務する、そして路安の場合はね、特別病棟というのがありましてね、重症患者ばっか、その病棟に入っているんですよ。それで廊下を中心に向かって左側は、あ、右側は内科、左側は外科となっちょって。そこには、やっぱり将校病棟もあれば、一般居留民の人がたまに病気で入って来た場合で、婦人が入る部屋も2つぐらいありました。それで看護婦がね、やっぱり、加減が悪いときには観察する部屋があるんです、いるもんですから。だから、将校病棟の右側に婦人の入る、看護婦さんやとか一般居留民がありますからね、そういう人が来たときに入院させるようなところがそこでやると。だから、そういうふうにして、もうやっぱり、もう何ですね、いろいろ科、その勤務先があって、そこへ向けて、教育が終わると割り当てられるわけです。だから、中にはもう本部でずっとしまいまで、勤務しとった人なんかは、まあ、極端なことを言うと注射はできませんな。やっぱりそういう病室へ行って、もういろいろ科へ当たっている人は、そういうことを当たり前やけども、これは本部で事務をとっとったら何も知らない。私も教育終わって1年半ばっか本部の関係におりましたでな。それで、今度、交代して、特別病棟の重症病棟へ行ったときは、本当に困りました。衛生兵の教育で基礎教育を受けとるだけですから。で、行って、そこで注射せいといったって、そんな簡単にできるもんやありませんのでね。だから、もう一生懸命でね、古い人や古い看護婦さん、そういう人に、まあ、教わるっていうか、しょっちゅうそういうところへ行って見とってね。で、手術室も行きましたし。で、まあ、どうやらこうやらやりますけども、これは経理関係におる人やなんかもう、私らの同級生でも炊事をずっとやって、最後は炊事班長やっていましたけども、あの人なんかも、そんなに何ですやろうな、看護っていうことに立つとあんまり詳しくないと思います。


[4] 傷病兵であふれる病院 03:22
私らは初年兵で入ったときに夜中に起こされるんですよ。そうするとね、患者を乗せた車がいっぱい来るんです。負傷兵ですわ。それで、もう担架でね、ずーっと移して。病室へそんな入るだけの余裕ないんですよ。そのぐらい来ていました。そんなときが2、3回ありましたな。だから、もう来る人は、戦傷患者ばっかりでしたな。たまにその中に、内科の重症患者が来るというような状態で。まあ、入ってくる患者は、ほとんどそんな患者多かったです。で、作戦が終了してないときになりますと、あの辺はいちばん怖いのが、チフスですな。腸チフスとか。そういうもんにかかった。それから赤痢ね。まあ、亡くなるのはそういう。それからあとは、まあ、結核患者。まあ、こういった、そういう人らは、もう直に内地後送で、元気なうちにもう後方へ送りますわな。だけども、チフスやとか赤痢やとかというのは、やっぱり治療してまた原隊へ返さなならんですからね。だから、そんな簡単に後送ちゅうようなことがなしに、そこで路安の陸軍病院で治療して原隊へ復帰させる。そんなところでした。

(略)