『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

ふつうのくつや 医師衛生兵関連その11 略あり 独立歩兵第784大隊コムソモリスクにて収容

1922年福岡県に生まれる
 尋常高等小学校卒業
1943年満州第299部隊(野砲兵第26連隊)入隊
1945年独立歩兵第784大隊に転属
1945年南溝にて終戦 終戦時、独立歩兵第784大隊所属兵長
 収容所は、コムソモリスク
1948年舞鶴にて復員
 復員後は、漁業に従事

[1] 満州で迎えた終戦 03:52
[2] だまされた「ダモイ」 03:06
[3] シベリア抑留の始まり 02:14
[4] 「氷葬」 04:10
[5] 「民主化」運動 05:57
[6] 強いられた民主化 03:10
[7] 小隊長を糾弾 04:28
[8] 暴走していくつるし上げ 03:14
[9] 抑留3年後の「東京ダモイ」 05:59
[10] 引き揚げ船内の歓声 05:16
[11] 帰国後の仕打ち 04:11
[12] 胸に抱えたシベリアの記憶 05:37


[1] 満州で迎えた終戦 03:52
もう戦争に負けた瞬間はね、もうわたしはの場合は40名、残された兵隊が40名おったとですたい。そこに集まって、大森隊長から命令が、連絡があって、「残留戦力で、敵戦車が向かってくるから、それに、その戦車攻撃を、肉迫攻撃をやれ」ということで、衛生兵でしたけど、わたしも手りゅう弾1個もらったんですよ。それで、「衛生兵もこれ持って戦車に飛び込め」と、准尉であったね。そこで最後の水盃をしたね。
もう、水筒のフタのね、フタでこう、お互いに水盃した、とでしたい。不思議とね、気持ち落ち着きますね。「よし、やるぞ」と、いう決意に変わりまして。あのときの気持は何とも言えん、忘れきらんですね。「もう死のう」と思って、安全ピンを、手りゅう弾の安全ピンを口にくわえとった、その瞬間でした。大森部隊長から、「兵隊に告ぐ。天皇陛下の命により、全員祖国へ帰れと命令だ。命を粗末にするな」という部隊長の命令があって、止めたとでした。その手りゅう弾は、ずっと、持っていましたもんね。その手りゅう弾の武装解除されたときには、全部それを投げ捨てましたけどね。あれ持っとったら、どっかで死んどるですよ。だで、武装解除されたらね、哀れなもんやった。もう今までね、満州の人とか朝国の人、朝鮮人ね、こう日本人がもうやっぱ高いとこからいじめたでしょうが。もうわたしたちから見れば、いじめたと思います。だから今度はもう集団を作ってね、ボンボンボンボンとあんた、石をぶつけるとでしたい。すごかったね、これが。それでもう武装解除されて、鉄帽も何も、全部もう捨ててしまったでしょ。その石が頭あたるとでしたい。こうしよるけどね、もう、どっから飛んでくるかわからんですね。


[2] だまされた「ダモイ」 03:06
「もうすぐ東京に帰るぞ」って。それで喜ばしといて、貨物列車に乗せるとですよね。最初はトラックで運びますけどね。それで、トラックの、牡丹江という駅まで、満州の牡丹江という駅まで運んで。そこで、1000名ずつ集まった兵隊1000名単位で乗せて。送るとです。そのときも「これからウラジオに行って、船で帰るんだぞ」、「トーキョーダモイ」って言って、「東京に帰る」って言って、みんな喜ばして乗せるとでした。喜びましたね。うれしかった。

皆、同じですけど、今から汽車に乗ってね、シベリアじゃない・・・「あそこの、ウラジオストクにいて、あれから日本に船で帰るぞ」って。みんな喜んだですね、「ワー」って言ってね。それから、皆もう、帰る話ばっかりしながらね。それから、トラックでね、乗るときは、そういってだまされて乗った。それでもう、うれしいからね、ただ帰る話ばっかりしよったところが、「あら、少し貨車・・・あれが冷えて来たね」と。トラックがね。「おかしいぞ」って。それで、窓際に、扉の隙間におるとこ兵隊が、外を見たところが、「あ、今まで満州側のまだ野原に花やらね、いっぱい咲いとったけど、こうは、もう、花も何も無いぞ」と。
「おかしいぞ、これは騙されたんじゃないか」ということが皆気がついて。「やられた。これはもう完全にやられた」。
とうとう、「これはもうウラジオストクじゃなかったなぁ」と、言うて気がついて、もう、話しなくなってね。あきらめて。そしたら、もうわたしの場合はある森林地帯で降ろされて。そこで、千名単位で輸送しておりましたもんね。それで、500名の二つの隊に別れて、今から収容所まで歩いて行くということで、そこで別れて収容所に行ったんですけど。


[3] シベリア抑留の始まり 02:14
最初のころはね、もう収容所に入って、建物は割としっかりしとるとですよ。だけど、もうその設備が全然ないとですね。第一、そのトイレがないしね。浴場もないし。それから、食堂もないし。それでもう、食事は第一もう全然食べさせんとでした。だからね、それでもう全部はもう、それで食事食べさせんで、作業に出すでしょ。これが往生しましたね。だから、もう、寒くなってから道を歩んでいるとね、馬鈴薯(バレイショ)みたいなやつがコロコロって、こう道に転がっているんですよ。それをその皆が「ワッ」と馬鈴薯を取りあいっこするとですよ。それで、わたしはもそういう事を取って、防寒外套に入れて、「これ後で、こっそり一人になったとき、焼いて食べるぞ」って、楽しみにしてもっとって、帰って来てね、それを「よしやろう」いったらね、馬の糞なんですよね。それが凍っとるから馬鈴薯みたいになっとるんですよ。ここに入れ取るからぬくもりでね、もうそれがね、「ビシャ」っと。あら、これは失敗したと。皆ね、その事を皆がやっとるですよ。もう馬鈴薯そっくりなんですね。それでもう、そういう事をね、とにかく食べ物に夢中になるとですね。


[4] 「氷葬」 04:10
もう(マイナス)30度だったらね、もう道歩きよったって、くっと滑りゃせんかという様な感じがして、とにかく、もう作業ができんとでした。30度になったらね、仕事も休みになりました。仕事されんと。何もかも凍りついてしまってね。

Q:製材所の機械も?

製材所なんかもう、丸太でもあれだ、凍りついてしまって、それを起こすには、蔓(かずら)返しで氷をこう落として、丸太をせなあかんとですよ。そしたらもう、丸太そのものを送ったって、中まで凍っとるから、このノコが折れてしまうとですよ、製材かけると。ノコがもう、タテノコちゅうてね、(オブノコ)が十何本かついとるとが、大きな丸太ですからね。板にするとですから、そのあれが、凍っとるから、硬いから、歯が折れてしまうったい。だから、製材所も仕事休みですよ。

Q:最初の冬に人がたくさん亡くなった話も。

もうかわいそうやったね。哀れなもんでね。お通夜しました。本当にね、般若心経あげる人がおったけどね。毎日ね、亡くなるから、般若心経、その人があげよったよ。そしたら、そのうち、その般若心経あげとった人も亡くなってしまう。それでもう、ただ、手合わせて頭下げといて、それで、しばらくそこにおったんだけど、もう、「そういう事する暇があったら、早く休みなさい」と、体が疲れとるからね、作業で。それでもう、すまなかったけど、もうお通夜もしなくなってね。そうしよると、もう、我々の兵舎の裏には、もう薪を積んだ様に高くなってね。遺体が積んであるとよね。もう、かわいそうやったね。それで「その裸体やろうが。もう腰のまわりになんか、布少し付けてくれ」って頼むけどね、「死んだ者には魂がない」って言うんですよ。それでもう、裸体でね、積み重ねて、本当にね、これをまた埋葬するときは大変でした。みんな凍っとるでしょうが。凍りついとるからね、金棒でこう起こす、外すんですよ。

Q:何を?

遺体の・・・遺体と遺体の間に金棒突っ込んでね、遺体を離すんですよ。凍りついとるでしょうが。そいだら、足が折れたり、首がね、離れたり、もうそれは本当に涙の・・・わたしたちは「氷葬」って言う、氷の葬儀って、氷の葬儀って書いて「氷葬」って言うんですよ。もう涙で処理したですね。本当にあれだけはね、たまらんやった・・・(涙)


[5] 「民主化」運動 05:57
Q:民主運動はどのように始まったのですか?

河辺:民主運動ね。これはね、もうその最初入ったときは、階級制度ね。階級つけたままで、初年兵。一つ星とか、二つ星とか本当にもう苦労するとですよ。もう、食事もね、隊長は、別に食事は食事当番もって運ぶけどね、他のものはこう、台で、こう並べて、おかゆを注ぐけどね、もう上級者からずっと行がね。飯ごうですかからね。多いとでした。それで、下の兵隊は、これでしょうが。その差ははっきりとつけとったね。最初は。階級制度によって、食事もちゃんと段階がね。そういう事で、それから、何々作業に出よって臨時の作業でもね、そういうやっぱ下級の兵隊がやっぱ出て。随分やっぱ苦労したね。そして、段々、段々、日数が経ってくるとね、今度は民主運動の始まりとして、そういう下積みされて、苦労した人がこう、ドッと盛り上がったとですね。これはもう、わたしは本当に、誰もあの生活しとったら、あのくらいにバカにされるような処遇を受けとったら、誰も反感的に、あぁいう事に態度に出ますね。わたしたちは、中間的な立場におったから、どちらも、どうちゅうことは言えなかったけど。もうやっぱ、下の人の程苦労して、そういう下の人がちょっと民主運動の勉強することになって。それから2月ないし3月の講習を受けて、さらにハバロフスクまで、ハバロフスクは民主運動の本拠地ですからね、発祥地ですから。あそこまで講習に行くんですよ。それで、出てきたら、そういう人がずっとまた収容所で指導して。勉強させて。そして、収容所は収容所で、民主運動の研修会をするとですね。そして、またそういうのの中から、ハバロフスクに研修に行ったりする。そういう人がまた上級者となって収容所に帰ってくるとですよね。そして段々と、民主運動が盛んになって、「反動分子をやっつけろ」ということになって。今まで階級制度によって苦しめとったこと、特に食事なんかでも威張って食べよった者なんか、いちばんに、つるし上げられてですね。さっき言った、こういう台の上に乗せられて、朝ですよこれは。朝の点呼のときに。それで「どの軍曹はこういう事を我々にさせて、自分だけがこうして元気良く生き延びとるんだ」って。「これに今から食事を食べさせるなと。我々が苦労しただけの食事を今から与える」って。「お前のその班長の様な態度を今日で全部取り上げてしまえ」って。それで、その500人、1000人おる人が、「そうだー、そうだー」って、それはすごいですばい。そしたらね、必ず台の上に立ってんのが、「バターン」と。生汗「バタバタバタ」と流して、必ず倒れます。そのね、大衆の「そうだー、そうだー」ちゅうとがすごい。これだけはね、わたしたちも、「そうだ、そうだ」言いましたけど、何ていいますかね、すごいやっぱ、なんて言ったらいいかね、本当にもうやっぱ、倒れる人おりはったですね。そういう事するからね、もう急展開に民主化が発展するとですよね。もう、民主同盟に全部加盟して。わたしたちは、割とその民主同盟に好かなかったから入らなかったんですけど。
(略)