1921年
東京都港区生まれ
1933年
青山小学校卒業
1942年
補充兵として近衞野砲兵第1連隊 入隊
衛生兵として東部ニューギニアへ
1945年
ラバウルで終戦を迎える
1946年
復員、海産物の卸問屋を営む
[1] 衛生兵で入隊 04:23
[2] 危険な海域 04:50
[3] 「ぼすとん丸」沈没 09:31
[4] 失われた軍旗 03:04
[5] 「皇軍の象徴」だった軍旗 03:58
[6] ラバウルに送られてきた傷病兵 05:42
[7] 取り残されていくラバウル 07:39
[8] 終戦 05:08
[1] 衛生兵で入隊 04:23
昭和17年の6月1日に陸軍衛生兵として召集。それで召集されて、それで世田谷の東部12部隊に入隊して、そこで今の第2国立(病院 現・東京医療センター)ですね、そこで教育を受けました。ただ、今さっき言った療工兵っていうのは、衛生兵と別なんですよ。衛生兵っていうのはみんなあの、大蔵って、世田谷に大蔵病院ってあるんですよ、あの陸軍の。今第二の何かになってるか知らないんですけど。そこの、そこで衛生兵は教育を受けたんですけど。
Q:3か月の教育期間はどんなことを?
それはねぇ、まあ私なんかだと、その衛生兵で、療工兵ってのは特別だから、あの今の駒沢の第二国立病院、あそこが第二国立病院ってことになってた、軍のね。そこで学課もう朝から、朝8時半ごろ行って、で夕方5時までやって、それで毎日通いですよ。12部隊から。他の者は全部大蔵に行って、そこで寝泊りしてしごかれてんだけど私ら20人は、12部隊の10人と13部隊の10人は毎日通って。だから交代で、「おい、今日渡辺、おまえ指揮とれ」って、営門を出るときにはね、「気をつけ!」ってやってこうやってね。
それでもう途中はダラダラ。結構将校が通る。兵隊、いわゆる軍隊ばっかりですから。だからよっぽど気を遣わな、「おい、向こうから来たぞ」とかってあった。と、将校が通ると「歩調を取れ!」って、タッタッタッって。こうやって指揮とってる、自分がこうって。あと「休め」とかね、そんな風な状態。で毎日通う。毎日通ったって2か月。1か月は本科の訓練やって、あと2か月は学課。
私は療工兵のために、この第二陸軍病院のそこで、特別に20人教育を受けて、それでもう9月には召集。まぁ最初は、本当は、臨時召集って名前だったんですけど、そのままもう帰れずに。戦況が悪くなったからでしょうけどね。それでシンガポール経由でサイゴン。でサイゴンで、独混21の野戦病院に追っついたっていうかね、着いたわけです。
[2] 危険な海域 04:50
Q:サイゴンにいた期間は?
いやぁもう、シンガポール、サイゴンっていうのは、1か月もいないんじゃないですかねぇ。
Q:じゃあもうドタバタで・・・。
もうバタバタしてるのと、何がなんだか分かんないで。まぁ2等兵ですからね、まだ。12月1日まで2等兵だから、そんな。それでサイゴン、あれメコン川ていったかな、その港からもう乗って出たけど、あのわざと台風の中みたいなとこ通ってね。
Q:それはなぜか?
いやぁ潜水艦にやられちゃうから。潜水艦の方がもっと上手をいってるらしいけどね。なんかその時、ちょうど荒れてるときですよね。あの、太平洋でもそうだけど、9月までは凪(なぎ)だけど、9月から後はもう海は荒れるでしょ。ちょうどそのときだから、もう船がローリングとかピッチングとかって、どっちだか知らないけど、そういうことをやって、途中、一人全然危篤になっちゃったんで、フィリピンに寄って。それでグアムまで行ったわけですよ。
そしたらもう南方の状況が悪くて。すぐ本当はグアム島の守備隊に行ったんですけれども、グアム島に着くと同時に、もうそこも上陸もしないで、すぐニューギニアの方に行けってことでしょ。まぁそのときは知らないですけどね。それですぐ飲料水積んで。それから何て言ったっけな、何島って・・海軍のその、ちょっと思い出せないな。そこへ寄って物資を積んで。あ、パラオか。それで積んで4時間かそこらでボカチン。潜水艦にやられて、それで一隻。あ、自分たちの船は残ってね。
あの、「ぼすとん丸」はやられて、私らの船にみんなケガした人やなんか積んで、そんで船の中でもう野戦病院やってたわけですよ。
乗ったらまだ船に走り出す前から、もうこっからここの間、潜水艦の監視してろ、海面を見てろって言うでしょう。2時間、2時間当番で。で、交代でまた見るわけ。で、ずーっと下関から、あそこから出てずっと台湾のとこ行く間、もう全部船の周り対潜監視しとって。みんな素人だけども見て。目が悪いのとかやったって分かるわけないと思うんだけども。で、もう24時間勤務ですよ。それ交代で。で現実にやられてんだからね。情報入ってんだからね。
Q:じゃあ、危ないという認識はあった?
ありましたね。だから船に乗ったら船に任せるほかしょうがないですよね。ただそんなにねぇ、怖いとは思わなかったです。まあ諦めてるのか、それか、教育の恐ろしさかな。そういう風な教育されてきてるからね。天皇陛下のためと、それはほんとにみんなそう思ってたもん。だからまあ教育の恐ろしさが一番。戦争終わったあとでも思ったよなあ、これ教育だよなあ。もう今度は今はおっかなくてしょうがないもんなぁ、なんて話をしてますよね。
[3] 「ぼすとん丸」沈没 09:31
Q:17年11月16日、「ぼすとん丸」沈没日の、朝からの状況は?
それはねえ、もう全然。我々兵隊もそれから偉い人も分かんなかったろうと思いますよ。素っ裸で、ふんどし一丁で歌(軍歌演習)うたってるところやられてんですからね。それはもう情報ってのは入ってなかったんでしょうね。ただ潜水艦がね、天気がいい日で、潜水艦がそこいらウロチョロしてるっていうのは、もう十分わかってたろうと思うんですよね。でもそれは、船長とその船に乗ってる船舶工兵とか、そういうのの仕事ですからね。私ら目的地まで連れていってもらえばいいだけですからねえ。だから何の、普通の天気のいい日と同じですよ。最初から潜水艦がウロウロして危ないっつったら、そんな歌なんか裸になって歌わない、歌ってらんないですからね。
Q:その後突然?
ええ。もうボカーンて来たらすぐ。もう命令も何もないです。すぐ、あの船の中の階段て、こんな急なんですよ。もうがにまたで歩いて、自分の場所へ行って、着れるものは着て、救命胴衣を着けて上ってきたら、そしたら、船がもうこういう風におっ立っちゃってて。立ったら最後、スーですよ。もう轟沈(ごうちん)いうのかねえ。だから3分かそこらじゃなかったですかね。時計はかってたわけじゃないからあれだけど。でも恐ろしいとか、なんとかっつうのがなかったのは、海の中へ入ったら、こっちはどうしようもないなって思ってた。私は泳げないって最初から言ってたから、その隊長と一緒の救命胴衣(ボート)に乗るって言われてて。
まあ、まだ他の者より何分か長生きできるかななんて思って、そんなことしか考えてなかったですね。でも救命胴衣が、あれなんか48時間ぐらい浮いてるそうですよ。そうなりゃもう鉄砲も捨てちゃうだろうし。それで助けに来るだろうということは考えてましたね。もし海の中入ってもね。すごく天気のいい日でねぇ。波もなかったから。多少のうねりはあってもね。だからね、本当に怖いなんてことなかったですね。不思議なくらい怖いってことはなかったですね
Q:ぼすとん丸が沈んで、他の船はどうしたか?
あ、もうそのままね、もうどうしようもない、全速力で逃げるのと、それから対潜監視というか、アメリカの魚雷は泡を吹いてこう来ると。航跡っていうのかな。日本のは、それがないんですってね。だからそれを監視しろと。で航跡きたらなんか合図しろって。もう全速力で逃げてたんでしょうね。
Q:邦雄さんの乗っていた船も、ただちにその場から?
ええ、もう。そのバーンてきたら目の・・すぐ一緒に並んでてこっちだもん。で私はこっちで。それでこっちは見えてるから、もう下へ降りてって救命胴衣つけるのが一番最初ね。救命胴衣がなきゃ、こっちは死んじゃうんだから。それはもうみんな揃って上って来ましたよ。それでもう、そうなるとね、潜水艦だって怖いからねえ。爆雷落っことして逃げてるんだから、こっちは。だからそばには来ませんよ。だからこれで大丈夫だなぁとは思った。で、今晩が怖いよなんて思って。それで島陰でケガしたみんな積んでね、こっちは野戦病院の船だから。だからそれで上がってケガしたの治療してね。
いやあでもこっちのほうが一番良い席で見てたようなもんだからね。他の人よりもちゃんと。バーンくらって、2発くらってそれで傾いて、それでスーって入るまで、ずーっと見てるんだもの。スロービデオでこう見てるようなもんだもんね。
Q:兵士が飛び込んでるのは見ましたか?
いやあ、そこまでねえ。あの終わった後、その沈んだ後に浮いてたのは見たけども、こんな立ってるとき、それは何かゴミかなんかが、こう落っこってくのは見えますよね。なんだか、そのこんなもんにこう縄がこうついててね、10人ぐらい引っ張って持つことができる、そういうのが落っこっていくのは見えたけれども、人間が見えるほど近くは・・まあ見えたんでしょうけども、私にはそんな見えなかったなあ。
Q:積んでた兵器、戦車とかも一緒に落ちた?
戦車なんか甲板に積んであるからね。だからそこまで、私はあれが戦車だ、これが装甲車だって、そこまで思わなかった。分かんなかったね。何かゴミがいっぱい落っこってくのは見えたね。そりゃあ見えるぐらい冷静ならまたたいしたもんですけどね。
Q:じゃあ北光丸に乗っていた人も、ただちに離れようと?
ええ、もう中にいて、全部銃を持つ者は銃を持って。みんないつでも、もし潜水艦が浮上してね、来たらそれに備えろとかって、そうゆう準備はしてますよ。だけどその、ぼすとん丸がやられて、やられたあれから何が落っこってったとか、何かゴミのようなものは落っこったのは分かるけどね、それほど近くないからねぇ。やっぱし随分離れてたと思いますよ。こっから行ったら、まあ戸越銀座ぐらいまで離れてるんじゃないかなぁ。
Q:病人を、野戦病院の船だから移乗して?
みんな医者も薬品も積んで持ってるから、乗ってるからね。でこっちの船、救助したわけです。
Q:助かった人たちはどんな様子でしたか?
だからでもう、こっちはもう重傷しか見ないもん。だから片腕なくしたとか、片足、片足の人はもうだめで、こっからのこぎりで切るんですよね。腿(もも)のとこから。そんなときはねぇいくら麻酔かけてもね、もう断末魔というかね、すごい悲鳴。でもね「これは痛くないんだよ」っつって、医者はそう言ってます。うん、「こんな声出してるけどね、痛くないんだよ」って言って。手伝ってる私のが嫌になっちゃうぐらい。それでこう、皮をめくって5センチくらい多くあれを切って、それで包んで縫うわけ。それはまあ助かったらしいけど、内地へ帰ったらしいけど。そんな、話じゃなく自分で見聞きしたのはそれですよね。
Q:その人たちは関西のほうの歩兵の170連隊?
ええ、そうそう、だったと思いますよ。だけどその170連隊っていうのが、私は全然その、お城の中で育ったみたいなもんだから、司令部のね。だから、どんなことがあったかっていうことは、本当にわかんないですね。
[4] 失われた軍旗 03:04
Q:沈没のときに兵士だけじゃなく、軍旗も沈んだのはご存じ?
だからそれはそうでしょうね。あんなものだって持って、いくら少尉だ中尉だったって、そんな持ってられるわけないもんね。ただ、よっぽど時間があれば、旗をはずして腹巻にして、それでゆわえて飛び込むっていうことはあるでしょうね。
旗手なんてかわいそうなもんで、そうなるとね。でもそれは天皇陛下の代わりみたいなもんなんだから。それを捨てて逃げるなんてわけには、それは絶対いけない。私もそういう風に聞いてきてましたからね。それまでも昭和7、8年ころ、まだ12、3のころから近衛4連隊の兵隊に聞いてました。すぐうちから3軒離れたところに奥さんもおって、それで特務曹長、特務曹長ってのは准尉ですけど、それが4連隊に行ったんだ。その人から聞いた。だから軍旗を持ったら軍旗と一緒に。軍旗をなくすぐらいなら、もう死んじゃうわけだよね。
(略)