1921年栃木県安蘇郡に生まれる
1942年第239連隊に入隊し、北支河北省へ
1943年ニューギニア・ウエワク上陸
久留米予備士官学校に入学
1944年宇都宮陸軍飛行学校、陸軍航空士官学校の教官を務める
1945年終戦 当時、陸軍中尉
復員後は、小学校・中学校教諭として勤務
校長、佐野市教育長経て退職
[1] 密林の飛行場建設 05:02
[2] 熱帯特有の風土病 01:58
[3] 集団投降に対し思うこと 04:13
[3] 集団投降に対し思うこと 04:13
これはやむを得ないと思うね。で、やっぱりそういう選択肢はあったと思う。これはもう集団で投降しようという、こうも無謀な戦いをすべきじゃないっていう、そういう将校の判断もあったと思いますよ。わたしがもし現場の将校だったとしたら、そういう考えを持たざるを得ない、そういう場面もあったと思いますね。
だって、その部下には妻も子もいるとか、まだ若い、ほんとに結婚もしてない青年だって、その親たちのことの考えたりなんかしたらね、これは前進むべきか後ろに退くべきか、それはそのときの判断で英知ですね。頭の良さですよ。
Q.それは当時の戦時中の考えであっても?
うん、と思いますね。わたしはニューギニアに行って3月の間に、この戦いはやばいなあと思ったもん。だけど一兵隊ですからね、上等兵ですから。偉い人がもう山のようにいるんですからね。で、兵隊がそういう風に思ったっていうことは、いや同じよう思った人が大変いるわけだよ。
そのアイタペ戦の結果、集団投降した人っていう、そういう人を見るときに、日本の軍規からしたら、そりゃ軍規違反だと、そういうふうになるかもしんないけれども、もっと大きい立場で考えて、人間の生っていうものを考えた場合、そんな狭い考えではいけないと思いますね。生き方はやっぱりいろんな生き方があると思う。
日本の歴史の中には、そんなきれい事じゃないものがいっぱいあるわけですよ。そういうあの、我が師団の恥だなんてのは了見が狭いと思うね。わたしだったら、そういう人も対等に同じように交際しますよ。
Q.投降を決意した方は記録も残ってないですけれども?
残さないから、残さない。で、言い訳になるからね。で、人には語りたくないから。で、またそういう人をなんだかんだ言って、助ける人も言葉を慎まなくちゃなんないからね。239連隊の記録が少ないなんてのは、わたしはそういうのもあるんかなぁと思って。37(237連隊)と38(238連隊)はいっぱいあるんですよね。239がないんですよ。
でわたしも自分が所属した部隊だからと思って、戦友会に行って、カンベさんだの、そういう先輩の人に色々聞いてみたけどもないんですよね。