『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

239連隊 その14 略あり

1921年長野県に生まれる
1940年現役兵として松本第50連隊に入隊
1942年北支山西省
 師団教育隊、軍教育隊を経て、第239連隊第8中隊指揮班長
1943年ニューギニア・ウエワク上陸
1944年アイタペ作戦当時、軍曹
1945年終戦 当時、陸軍曹長
1946年神奈川・浦賀にて復員 復員後は、家業の農業に従事

[1] ニューギニアへ 02:52
[2] 突撃 04:49
[3] アイタペ攻撃 03:40
[4] 絶望的な突撃 04:16
[5] 飢餓 04:10
[6] 本能に従って生きるだけだった 05:01
[7] 自活生活 03:33
[8] 終戦のビラ 04:19
[9] 捕虜 02:57
[10] 戦後の生活 02:56



[1] ニューギニアへ 02:52
毎日、飛行場の整備ですね、ここでやって。飛行場のこれ作業やって。で、そのうちだんだん爆撃とかやって。それから飛行場。ブーツ、マルジップの構築作業で4中隊がマルジップ周りに行って、中隊が進出。ウエワク、ブーツ、これ飛行場を両方を計画。だんだんだん毎日飛行場を落とされってって。日本の飛行機1機のとこへ敵の飛行機5機が来て取り囲んじゃうんだからも、どうにもならない。

Q:敵の攻撃がこのあたりから激しかったんですか?

えぇ。もう、これを行って、ウエワク上陸してから毎日爆撃があったんですがね、爆弾投下と。ほれから、機銃掃射っていうその、ここら撃つのはね。こっからもう毎日。アメリカを結構よく爆撃と地上攻撃とやってくれたです。飛行機も日本の飛行隊は非常に技術は良かったけど、とにかく1機で、日本の飛行機1機行けば、向こうは50機100機と大量の飛行機送ってくるから、日本いくら頑張っても。ほいで、日本は無くなればやっと1機出す。向こうは爆撃、爆撃されながら増やす気です。こういうの自由になるんだから。結局下で見ててもはらはらする。空中戦ほとんど毎日見てたですが。夜は夜間爆撃。B25か、これ。もう、2000メートル高度から、編隊組んで来たもんで。ドカンドカンと毎日落としてくる、来とるわ。


[2] 突撃 04:49
そこで陣地攻撃やったのは、隊、約200名で行って。その戦闘の、やったのはうちの中隊の、うちの小隊であったから50名ばかりだねぇ。うちらの部下でこのケガをしたときの第1回目の負傷をね、ケトバ作戦ってのは。もっと上にもやってごらん。部隊はうちが多かったんだ、この作戦については。マダン・ケトバ特攻隊、120~130名だなぁ。説明悪くてあれだけど。

Q:この前の話だと北村さんが分隊長だってことで。

分隊長。はい。指揮班長っていう、その名前だったけど分隊長です。

Q:それで12、3人で行かれたんですよね?

せやで、いちばん最前線へね。突撃っていうまぁ、こう。戦争やるには、陣地攻撃するには、全部の兵隊がぞろぞろぞーって並んで行くわけにはいかないですわね。だから、こういう一個分隊前で出たら、小隊って、一個小隊がこの三個か四個分隊で一小隊ですか、ほうしたらこう陣地行って敵の陣地飛び込むんです。
それをよくよく敵の陣地のそばまで、この暗がりを這(は)って上がってってしまったわけですね。ほだから、敵に発見された時点がそれ、よくよく前行ってから発見された。敵はそんとき手りゅう弾と手りゅう弾ってのを投げたわな。だいたいこんなもんですかね。投げたら爆発するんですよ。そいで、それが。「突撃」って、わたし命令をかけて号令をかけて突っ込む際、「突撃―っ」てこうやって飛び出す姿勢をとった時点で、前におった敵の弾が破裂してこうなったわけですね。それで、その後ずうっと人事不省になっちゃたわけです。ほれで夕方、8時ごろか7時ごろ、6時か7時ごろの戦闘だったですね。詳しい正確な時間はちょっとみな忘れちゃったな。それで翌日、目が開いたんですわ。したら、お昼ごろらしかったですね。付き添いの兵隊が付いていてくれて、目覚めたわけですから。「あぁ。」っていうことで。

はじめは2か月ぐらい動けなくて。もう寝て、あおむけに寝たっきりだったですわ。まぁだから、地べたへ戸みたい寝てたら夜だこって、動けないものは、毎日、飛行機の爆撃や銃撃があるのけんども、逃げるわけにゃいかんで。足の動ける人は皆離れた、散らばってでかい木の下やジャングルへ逃げたんですがねぇ。おれの場合もう動けなかったから寝たっきりで毎日銃爆撃もう、自分の小屋の上の屋根、バタバタ焼け飛んだ、撃った機関銃の弾。抜け殻ですね。ガラガラ落ちる。そのくらいの毎日攻撃されるとこの下に、ただ寝てたんだけど、幸い命長持ちして、2か月ぐらいで動けるようなって。また部隊に追及したんです。


[3] アイタペ攻撃 03:40
連隊本部にいたね。坂東川(ドリニュモール河)作戦は、2大隊ってのがやって。連隊本部からここへおれが撤退命令を持って行ったんですが、最終的にはここでもう、陣地攻撃を、坂東川、陣地攻撃をやったんですが。これまあ早く言えば、ああみんなここでもって死ぬ覚悟で陣地へ入って、勝つ見込みなかったけど命令で、食べ物ありったけ全部食べて、突撃したわけですね。

Q:第2大隊に命令を届けに行った?

そうそう、そうです。そのとき連隊本部にいたからね。

Q:その命令の内容とはどんなものだったのか?

「この陣地を攻撃しろ」ていう、撃滅しろっていうことですね。

Q:命令を受けた第2大隊長の反応はどういったものだったか?

反応ってもう、そのころはみんなもう、「ああわかった」って。それで終わりですわ。もう何もやりようがないです、とにかく。食いもんも何もねえって中で「やれ」って言って。そうして、しかも敵が陣地を敷いたとこやれって言うんだから。悲愴な、早く言えばここで死ねっていうことだからね。

無謀なんてもんじゃないですよ。ずっとね、もう何て言うか、頭が狂っているとしか考えられないね。そばだって、後ろにいたって、それでまた包囲作戦。飛行機、あれは爆撃やそれから重砲攻撃で、すぐ日本軍は全部全滅にさせられる。

敵の陣地は、敵はちゃんとこういう小高いとこへ、こういう陣地を築いて。こういう、こっちでいう鉄条網。こういう針金の角の出るねえ、何ていうの、バリケードってことでそこへ張って。それぞれいい見張り台に、陣地に機関銃や迫撃砲を据え付けて、もうこうやって守ってんだから。日本軍鉄砲持って、ずって、腹ばいで行ったって戦争になりゃしねえさ。いろいろこう、線へ触れれば爆発するようなそういう装置もいっぱいあるから。もう無茶通らないです、日本軍が行ったって。だから特別な・・飛んで飛行機が上を通って、敵の飛行機が。その下這ってるんだから。まあ、偉い人はどこまで考えたか(知らんが)、我々兵隊はとにかく絶対だめだと思っても、「まあ行けば死んで当たり前。うまいもの食べられりゃ、これだけでいい。もうけもんだ」っていうそんなだからもう、よくよくなっちまったんだねえ、みんな。


[4] 絶望的な突撃 04:16
だって他に方法がねえから、言われた通りに動いただけであって、
(略)