『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

239連隊 その03 略あり

1917年長野県に生まれる
1938年現役兵として松本第50連隊に入隊
1939年盛岡予備仕官学校入学
卒業後、第239連隊第4中隊小隊長を命ぜられ、北支山西省
1943年ニューギニア・ウエワク上陸
1944年アイタペ作戦当時、中尉
1945年第6中隊長として終戦 当時、陸軍大尉
1947年福岡・博多にて復員 復員後は、教諭に

[1] 中国・山西省からニューギニアへ 05:34
場所は秘密で出発するのも秘密になっていますがね、そこを出て、もう出た途端に。具体的には潜水艦が来ていてね。敵の方の。それで爆薬を積んで、我が船の方に向かって撃って来るんだよね。ドンドンドンドン。だからもう、あのころ、「日本海まで来ていたっていう事が、とにかく、情報が入っていた」っていう事ですよね。まぁそこをよけて、途中に2か所ばかり、日本軍の占領した場所があって。そこへ2,3回泊まってね。そうしてまぁ、船の状況を見て。船は、当時、オリンピックを日本でやるっていう、その準備のために作った大きな船でね。それで1万(人)ぐらい乗ったかねぇ。無理しても。それで、2、3日かけて、ようやくニューギニアに到着した。そこで、すぐ浅くてね。船で岸に行かないと着かないっていうもんで、まぁそんな事で、ようやく岸に着いた。そのときは、ほとんどニューギニアの人たちは全部いなくてね。それで、我々と日本の軍隊も我々だけでね。そこに上陸して。それで準備をして。
すぐにね、2,3日たってから、「お前たちは一個中隊山を越えて行け」という事で山を越えて。セピック川っていう川があるんですが。そこの上流の方へ行って準備をした。いうような状況だったです。それから準備をして、まぁそのころは、近くのところには、アメリカ軍だかオーストラリアの軍隊だかが来ていたようですがね。具体的には、まだ我々のところにはこなかったんですね。そんな事で行ったんですが。そこで少したってから、中隊長が指揮して、「上の方に、軍隊の一部が来ちゃいないか」と。というのは、川を缶詰のような空き缶が流れて来るんですね。だから「これは(連合軍が)上に多分いる」という事で、「じゃぁ、行ってみよう」という事でね。それで、10隻ばかりのカヌーっていうか、木で作った船で土人と一緒に乗ってね。そこまで行って。そうしたら案の定いてね。いたのも、結局、あれは中尉かなんか、上官だったね。そこで、こっちから連れて行った土人と一緒になって、そこを射撃してね。そうして、そこで一人きりなんでね。それをとっつかまえて、いろいろ調べて、その捕まった将校だったがね。戦死してね。そんな事で第一はそんな事。第二は、やっぱり、「同じように、上流かなんかにいりゃしないか」っていう事で、またその上に上ってね。それで、そこでまたやっぱりいてね。そこでやっぱり戦闘をして、それを殺して、そうして帰って来たんですけれどね。まぁそんな事が2回ありましたね。


[2] セピック川上流の集落で 05:02
その後、今度は、少し大きな情報が入ったものですから、「そこへ行こう」という事で、一個中隊連れてね、土人の船に乗って、その場所へ着いたんですが、そのときは、こっちも銃を構えて、戦うつもりで行ったんですがね。そこでも、やはり、わずかの土人だけで。部落が多くてね。それで人口は100人足らずかなぁ。それで、色々交渉をして。「ここで、あれをしよう」っていう事でね。そこは、前に敵が入っていて、もう「そこの土人を使って、いろいろ我が方の宣伝というか、情報を探っていた」っていう事でね。そこで、まぁ苦労して「みんな男を集めろ」と。女はみんな逃げちゃっていないんでね。「男を集めろ」って言って、100人はいたかな。100人以上男が集まってね、それで俺たちが「集めなければ、お前たちをやっつけちゃう」って、だまかして、それで、集めて、いろいろ後の状況を調査したんですがね。それで、「ここの男の土人を、全部やっつけてしまえ」と。そうすると100人以上いたんですよね。そこで、みんな座らせて。ちょうど爆弾の穴があってね。そこへ全部座らせて。それで色々調べて、その後「こんなところに、生かしておくわけにはいかない」っていう事で、ちょうど99人かな。そこで全部銃で突き刺して殺したんです。ちょうど99人だったかね。それで1人逃げて。逃げたけれども、それは機関銃で撃って。やはり途中で倒れてね。そんな事がニューギニアの最初の戦いっていうか。戦いだったわけだね。そんなような事がありました。

Q:「生かしておくわけにはいかない」ような、日本軍の情報をあれしていたんですか。
                    
話してあったからね。そうして、敵の有利になるように取り計らっていたようですね。

Q:具体的には、どういう日本軍の情報をあれしていたんですか。

結局、「日本から何かここに連絡があったろう」と。「お前たちは、それでだいぶ近寄っているらしい」と。敵の方にね。

だから、「それを話さない」と、「我々は許さない」というわけで、そこで彼らに承知させてね。それで、「これは、ここで、やっつけた方がいいんじゃないか」と一部の将校が、「いや、ここで全部やっつけるなんて可哀想だ」っていうような事でね。そんな話も出たけれども、「いや、やっちゃえ、やっちゃえ」っていうわけでね。

主に軍医かな。軍医やなんかが反対したんです。「これは殺すのはいけないから、よせよせ」って言ったんです。結局、中隊長は「やっちゃえ、やっちゃえ」っていう事で、全部やっつけたわけですよね。


[3] 守備と自活の山中生活 04:20
Q:セピックの上流に行かれて、先ほどのチンブンケでのあれがあって、その後はどういうふうにされたんですか。

結局「お前たちは山の方を警戒しろ」と。「海岸の方はいいから、お前たちは山専門で、山の方を敵が来るから情報をよく探って、そうして、そこを警戒しろ」というような事を命じられたわけだね。

Q:一個中隊だけですか?

一個中隊だけです。

Q:戦闘も多かったんですか。

いや、山の方は別に。なかったね。ただ警戒して海岸の作戦を警戒してやっていただけですよね。

Q:そこに、どれぐらいいらっしゃったんですか。

そこで?そこはもう最後(終戦)まで。

Q:食べ物なんかはどうされていたんですか。

結局、自分で土人の作ったやつを、かっぱらうっていう事ですよね。主に芋とかね。それから、サゴヤシっていう椰子(ヤシ)から取るデンプンがあるんですがね。それなんかは取ったけれど、サゴヤシから取るヒマがなかったですよね。余裕がなかったです。だから主に、土人の作っている芋をかっぱらって、それを食べていたっていう事ですよね。茹(ゆ)でて。それも、昼間入れるわけにはいかないんで。敵の飛行機は絶えず上を回っているからね。それで煙でも出すとすぐに「ババーッ」とやって来るからね。だから、夜洗って、そこで調理して、飯ごうで炊いて、それを食べていたっていう事ですよね。だから食べ物だって本当に、あっちの方に行った連中はなかったですよね。だから、もう食べ物がなくて、コロコロ死んでいたってなんて事が大多数あったでしょう。

Q:畑があるだけねぇ。まだ良い方だったかもしれないですね。

そうそう。あれ、畑でもあればね。すぐにでかい芋でね。ちょうど里芋の大きくしたような芋でね。おいしかったですよ。だけどそれだけ食べたんじゃ、とにかく腹が減ってしょうがないっていう事でね。

Q:そういう食糧以外の塩とか弾薬とか、そういう物の補給はなかったんですか。

それはなかったですよね。特に弾薬がなかったですね。それと、あっちの方に大勢で行った人たちは、10人に鉄砲を持っている者は、5,6人だったでしょう。後はもう途中で死んだ人、2つ鉄砲を持ったってしょうがないからね。それは、そこで捨ててきて、やったっていう事ですよね。だから、あっちの西の方に行った連中は苦労したよね。ほとんど戦わずして、向こうの敵の思うままに、やられたっていう事でしょう。だから戦死した人たちは道にゴロゴロしているっていうの。戦死している人、あるいは、腹が減ってそこで倒れている人ね。そういう連中は、そこらでゴロゴロしているっていう人たちが、一杯だったね。
(略あり)