『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

239連隊 その12 略あり

1920年栃木県宇都宮市に生まれる
1940年第239連隊要員として松本第50連隊に現役入隊 北支山西省
1941年保定予備仕官学校に入学 卒業後、第239連隊第2機関銃中隊小隊長を命ぜられる
1943年ニューギニア・ウエワク上陸
1944年アイタペ作戦当時、少尉
1945年終戦 当時、陸軍中尉
1946年神奈川・浦賀にて復員 復員後は、繊維商社勤務ののち独立

[1] 熱帯への転進 02:54
[2] 最初の任務 03:37
[3] 敗残兵の姿 04:10
[4] 再び湿地帯を越えウエワクへ 04:48
[5] 乾坤一擲(けんこんいってき)のアイタペ作戦 05:47
[6] アイタペ作戦中止  04:09
[7] 軍刀を持ち飛び込んだ 03:14
[8] 蛇、トカゲ、サナギも食べた 07:09
[9] 相次ぐ投降  05:29
[10] ビラで知った終戦 02:00
[11] ムッシュ島 03:50
[12] 軍司令官の訓示 01:32
[13] 刻みついているニューギニアの悪夢 02:22


[1] 熱帯への転進 02:54
中国から出発するときね、南方へね。南方へ行くときはみんな喜んで行ったんです。ということは、支那でもうね、飽き飽きしてましたしね。それにね、南方っていうといかにもねこう、気候的にもあったかいし、こうね、いいとこだっていう感じがありましたからね。ただ、ニューギニアとは知らないんです。ニューギニアとわかったのはね、青島を輸送船で出発して、パラオあたりで初めて命令受領でね、行く先がニューギニアだということがわかったんですけどね。ただニューギニアったって、ニューギニアってどんなとこだって全然知りませんからね。とにかくあったかい、あったかいとこ行くんだってみんな大喜びして。
ただね、あがってもうすぐその晩からね、マラリアの蚊ね、これでもうほんとに苦しめられた。マラリアを媒介するのはアノフェレス(ハマダラカ)っていうね、蚊なんですね。でわれわれもね、ニューギニアへ行くのに少なくとも、個人の頭へかぶる蚊帳と、それから一個連隊くらいが寝られるつりの蚊帳と、こう、持って行ったんですけどね、日本の蚊帳はもう全然もう役に立たない。というのは、アノフェレスっていうのは頭から口先が細くてね、日本の蚊帳は入ってきちゃうんですよ、いくらでもね。そんでね、もうその晩からみんなで刺されて、おそらく1週間もしないうちにマラリアの熱発が始まりましたね。だから当時は、もうほんとにもうまずマラリアに対する、なんとか防ごうっていうのが、全員のあれでね。薬はね、キニーネとかね、アスピリンだったかな、マラリアの特効薬が配られて飲んでたんですけどね、どうもあんまり効かなかったですね。


[2] 最初の任務 03:37
だいたい上陸して1週間くらいしましてね、初めて爆撃を受けたんです。夜間爆撃ね。わたしらが上がったときはね、まだ日本の海軍の航空隊とかなんかが、ある程度、ラバウルを基地にしましてね、援護してましたから。昼間はね、米軍も豪州軍も、偵察機はもう、4千メートルくらいの、航空で偵察機は来ましたけど、昼間爆撃はあんまりなかった、あまりというかほとんどなかった。ただ夜間はね、結局昼間偵察したのにもとづいて、日本軍がウエワクに上陸したってのは向こうわかったでしょうからね。そんで夜間爆撃が始まりましてね。で爆撃ってのはね、支那(中国)ではわたしは全然受けたことがなかったわけですよね。でニューギニアで上がった直後にその爆撃を受けてて、これは初めはねえ、もう驚きましたね。
ウエワクでは、最初上がって何か月の間は、飛行場、まず戦闘機が下りるような飛行場を作らにゃいかんという命令で、飛行場の構築と、でウエワクがだいたい形がついてからは、ダグワっていう、ウエワクよりちょっと西よりですが、そこへ移りましてね。それで工兵隊と一緒にダグワの飛行場の設定と、それから、ダグワから山の中へこう入る道路構築。これはねえ、なんの、どこの命令か知りませんが、ようするに、車両の通る道を作れってわけですよ。ところがね、そんなものできっこないですよ。そんで1か月くらいやりましたが、ほんのわずかしか道はできなかったですけども。

Q:飛行場建設などは通常、工兵の仕事だと思いますが、そういう仕事をやると思っていましたか? 

いやいやそれは思ってませんが、しかし、工兵ってのはもう数は限定されてますからね。で、飛行場の構築なんていうともう人力ですから。ですから、われわれ戦闘部隊は、その間戦闘をやってませんからね。だから、みんなそこへ手伝い、手伝って一緒に、やるわけです。あのねえ、飛行場作るのもねえ、そのヤシ林の中へ作るわけですよ。海岸からちょっと入ったね。するとヤシの木をねえ、倒してね。倒すまではねえ、その、今の工兵が持ってる機械で木を切って、根っこがあるわけですねえ。この根っこがね大変なんですよ。掘り起こしてね、どけるのがね。それはね、結局、人力でやるよかないわけよね。だからねもう、時間がかかりますわね。


[3] 敗残兵の姿 04:10
ウエワクから本隊は貨物船、徴用の貨物船でマダンへ向かったんですが、途中ハンサってところで、爆撃でね、非常な損害を受けて、みな途中で上がって、あと徒歩でマダンへ行ったわけですね。わたしはそのときね、兵器輸送っていって、今の機関銃だとか大隊砲だとかそういもの、弾薬を輸送するために、ウエワクから漁船、静岡から徴発されたね、漁船が来てたんですよ。漁師の方ですね。それに兵器や弾薬を積みましてね、兵器輸送で直接ウエワクからマダンまで行きました。ただ、飛行機にもういつ見つかるかわからんものですからね、絶えずこう海岸線をこう小刻みに行って、夜は、昼間はもう隠れ隠れ、夜は航行して。そいで、幸いマダンまで、近くまで行ったんですがね、やっぱり最後は見つかりましてね、敵の飛行機にね。それで銃撃を受けて、まあ若干損害を出したんですが、まあなんとかマダンにたどり着けたと。それ以降は、マダンに当時41師団の軍司令部がおりまして、今の239連隊。41師団と239連隊が、マダンのねこう、マダンの、マダン川を見下ろす高台の上に、駐屯というかね、ずっとおりましたですかね。でその間は、わたしらは戦闘に参加しませんが、今の51師(団)は、もうねえ、その、山を越えて、もうやっとのことでマダンへたどり着くと。20師団もフインシハーフェンの戦闘でもう、これは大損害を出して。しかも20師団が後退する途中に、グンビ岬(サイドル)というのがありましてね、そこのグンビ岬(サイドル)にまた逆に敵に上陸されて。だから51師と、40、いや、20師団はね、わたしらがマダンにいる間に、もうほんとに、極端にいえば半分くらいになったんじゃないかと思いますね。ですから、わたしらがマダンに着いたときには、もうその、海岸通りの細い道路をですね、そのような部隊が、まあ悪く言えば敗残兵ですね、もうやっとのことで歩いて後退してくると。そのうち敵もそのような敗残兵の後を追っかけるようにその海岸道路を攻めてくると。それを撃退するために、初めて41師団はそこに立ち向かったわけですね。だけどね、全然もう歯もなにもたたないんですよね。物量が違いますしね、ですからね、もう、どの地点でも、最初多少の交戦をして、損害を受けて退いてくるという状況でしたね。


[4] 再び湿地帯を越えウエワクへ 04:48
われわれはね、41師団の、特に、わたしが所属していました第1大隊っていうのは、師団の後衛っていいまして、いちばん最後でね、要するに全部をウエワクに送り出して、最後に敵と接触しながら下がった(略)