『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

239連隊 その10 略あり

1914年東京市世田谷に生まれる
1939年習志野騎兵第15連隊に入隊
 騎兵第41連隊に配属、北支山西省
1941年第18軍創設に伴い第41師団司令部付将校に転じる
1943年ニューギニア・ウエワク上陸
1944年アイタペ作戦当時、大尉
1945年終戦 当時、陸軍大尉
1946年神奈川浦賀にて復員


[1] アイタペ作戦 04:16
[2] 移動を阻むジャングル、川、湿地 03:19
[3] 密林へ 02:11
[4] 驚きの「集団投降」 04:52
[5] 玉砕命令 02:26
[6] 収容所での出会い 06:37
[7] ニューギニアの戦いを振り返って 02:26



[1] アイタペ作戦 04:16
もうね、中央ってか東京っていうか、本部というか・・・補給を全然してないでしょう。食料とか弾薬。それでね、「アイタペやっつけろ」なんてことは言えませんわな。だからね、上もうまいこと言うんだな、そりゃもう「選択に任せる」と。

補給がなくなったのは、もうね、とにかく船で運んでくるでしょ。目の前でね。制空権を奪われたからね、飛行機はこっちはダメだから。そうするとね、船が入ってきても目の前でね、我々の食べるものなんか積んだ船がボカンボカンやられるんだ、目の前でやられるんだから悔しいよねー。
あと蓄えね。やっぱ、あれ、その蓄えって相当なもんなんだな。昔は船で運ぶといっぱい。で、ウエワクにはたくさん、この貨物所ってのがあって、そこに蓄えがあったんでしょうね。するとやっぱり敵はね、今度はそういうその蓄えたところを爆弾が落ちてくる。分かるんだから。だからそれはますます食べるものが無くなってしまいますよね。

だから、安達さん(41師団が所属する第18軍司令官 安達二十三中将)としては本来ならば、歩兵っていうかな、もう戦争しないで山の中に入り込んじゃってもいいわけよ。命令違反じゃないわけ。そういう道もあったの。だけど彼としては、まぁずいぶん苦しいんだろうけどね、これは「日本男児ここにあり」ってことだ。「敵が目の前にいるのに、のこのこ下がることはできない」ってことだ。「やろう」ってすごい決意をしてね、やるってことにしたの。

もう敵が目の前にいるのにね、尻尾を巻いて逃げるとは、男子として面白くない。「一発やろうと、やろうじゃないか!」となると皆ワーッてそういう気になるんだよな、日本人ってのはもう。こちらもそうだけど。「ようしゃ、やろう」ってことで、それで鎧(よろい)を固めてもうやろうってやった。

僕らはね、マダンまでいったんですよ。そしたらどっこい、敵さんはね、ずーっと迂回(うかい)してね、ずっと後ろの方のホーランディア。後ろの方ですよ、こっちから見たら、こっち(マダン方面)に攻めてたんだから。どうも上がった(上陸した)っていうんで、こりゃいかんと。それじゃ回れ右して、そっちの敵からまず、アイタペね。だから我々はせっかくマダンまで行ったのをね、とことことことこまた帰るのはね、大変なんだもう。

昼間は飛行機が来るから、夜こっそり川行ったりして、やっとね、ウエワクに戻ってきて。さぁこれから、それじゃあ、今までこっちに攻めていってから、今度はこっちね。アイダペの方に攻めに行かんって。ウエワクで準備して、ありとあらゆる物資を使って、それでアイタぺに行こうっていうわけで。


[2] 移動を阻むジャングル、川、湿地 03:19
アイタペよりか、ホーランディア、ホーランディア攻めろとか、初めは。とてもホーランディアまでは行けそうにないけ、アイタペで敵がしっかり軍備しちゃったもんだから。
それをね、川を越したりしてね、やっとね。それがアイタペ作戦。アイタペ作戦のときはね、向こうはね、全部こう船で資材運んでるから準備できちゃってるわけよ。こっちは遮二無二突っ込んでいって、

とにかく攻めたんだけども、向こうはもう飛行機もあるし、大砲もあるし、それこそメチャクチャですよ。こっちはもうさんざんやられて、また山の中に逃げ込んじゃってね。

川、坂東川(ドリニュモール河)とかいったなぁ。その川を、向こうとにかく攻めるんで、やっと渡ったな。やっとこだ。一応僕なんかは、参謀と一緒に坂東川渡ったんだ。で、行こうと思ったら、お先に行った部隊がもうやられてね。引っ込むとこだった。

やっぱし僕らが川を渡って向こうに行こうとしたら、兵隊が7、8人、ボロボロになってやってきたんだ。「どうしたんだ」って言ったら、「退却すんのか」って言ったら、「そうじゃありません」って。部隊とこう、敵を攻めようと思ったら、目の前が全部敵で、やられると思ったから、道の横に離れた。それでここに来ちゃったんだっていうから、「そうか、それじゃまぁ一緒に行こう」って言って、また出直したりしたけどね。やっぱりあれだよね、それで行こうと思ったら本当に向こうはね、整備してるわけだ、守るほうをね。こっちはもう行きようがないもんだから、それでまたまた下がちゃって。アイタペ作戦ね。

逆にアイタペはとてもじゃないけどダメになっちゃって。それでね、いよいよもう物資も補給がなくなったから、しょうがないからってんで転進って。要するに退却ですわな。で、山の中入っちゃったの。


[3] 密林へ 02:11
(略)

[4] 驚きの「集団投降」 04:52
敵がビラまいたらしいんだ。「士官学校出のこれこれ」なんて書いてあるからね、さあ、びっくりした。軍司令官以下、日本の本当の将校は。こんなことありうるかって。士官学校ができて以来、こんな不祥事はないって。これは憤慨、大憤慨してましたね。

僕らはあんまり直接には知らないけどね、噂にも聞いたけどね。(第2大隊長)竹永さんがやはりどこどこを死守しろっていうかな、固守しろ、固守しろという命令受けて行ったわけだ。そこへ行ったところがね、何もないところだったんだ。食べ物はなければ、補給はなし。さぁどうすんだったら、僕らだったらね。やっぱしね、捕虜になっちゃうかね、手を挙げてね。どうするかっていうことですね。やっぱし、僕でもそのときだったらね、やはり敵に下ったと思うな。ただ、そういう状況だから竹永さんはやはり下ったらしいんだな。それがね、そのころはね、例の東条(英機)さんが「捕虜になるくらいなら死んじまえ」っていう命令出したんだからな。だからね、普通ならダメなんだ。で、その竹永さんは、そいつは、個人的には苦しんだと思うけど、結局はそんなんなっちゃったってことでしょうね。

僕らは竹永さんって特別良く知ってるわけじゃないけどね、噂には聞きました。そうしたら今度、そりゃあ本当の軍人さんは士官学校を始まって以来の不祥事だって、こんなことはないって。そりゃそうだろうね。東条さん。だけどね、本当の国際公法(国際法)ではね、そんなことないんですよ。本当に戦ってね、もう例えば病気なって寝てるとき捕まったら、こりゃ一種の捕虜だけどね、ちゃんとそれに対する待遇はね、国際公法で認められてる。ちゃんとして。そういうことを知らされてないわけだ。知ってりゃ頑張りゃいいんだけどね、頑張ったってとにかく東条さん、とにかく「捕虜になったら死んじまえ」って言うんだから。皆黙っておったんですよね。

その禁を犯して自分で捕虜になっちゃったってことでしょうね。大変な決心ですよ。今考えればなんでもないことだ。捕虜になったら、戦争で負けちゃったら、さんざん戦ったんだから、「もう降参」って。それは当たり前のことで。

しかしね、冷静に考えれば、これ以上やったって。とにかくもう補給が何にもないんだから。食べ物はもちろん、武器弾薬なんか全然ないんだから。それでね、ほおっておかれて。とやかく言われたもんじゃないや。自分で判断するしかないと思うわね。
やはりね、やっぱしね手を挙げるというか、「捕虜になる」という言葉が、どうもこの抵抗があるんだけど。手を挙げちゃうと「参った」という意味だ。ね、あれいい言葉だ。参ったんだよ、ほんとに参ったんだ。だって食べ物もなきゃ、武器弾薬何にもないもの。どうしろっていうんだ。参った。参った。参った、本当に参ったよ。これ以上参ることないわ。そしたらどうするか。参った参った、いい言葉だなぁ。


[5] 玉砕命令 02:26
それでね、最後はもう、こちらは物資の補給がなくなっちゃったから、それこそ食べられる草やなんか食べながら、もういよいよ玉砕命令が出ちゃってね。もうここで我々は全部全滅する、最後の、するんだっていう命令が出てね。もうすっかりだから身の回り整理しちゃって。

そりゃもう最後の一戦だ、っていうときに、(連合軍の飛行機から)バーってビラまいたのが、そのビラがね、「日本降伏セリ、速ヤカニ戦闘停止スベシ」っていうんだよ。俺は、こっちはね、ホッとしたんだけどね。上の人はね、あれは敵の謀略だって。皆呼び寄せといてね、バンってやるんだぞって言うんだけどね。こっちは内心「やれやれ」と思ってね。
(略)