『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

(作業中)わたし個人の、インターネットの「主流」から離れた経験に即して言うと、インターネット文化はおどろくべきことに、これが本気で必要な情報だいや必要でない、という問い自体を回避したがる傾向が非常に強い……

わたし個人の、インターネットの「主流」から離れた経験に即して言うと、インターネット文化はおどろくべきことに、これが本気で必要な情報だいや必要でない、という問い事態を回避したがる傾向が非常に強い。その「回避」のしかたは何種類かあるのだが。
3つ、例をあげる。
1、梶村秀樹先生の著作集の電子化。もう30年以上も前に亡くなられた、(少なくとも一部で)非常に評価の高い歴史学者なのだが……。
1冊のぞいて「梶村先生のこのテキストが、これからのために必要です」という話をした例というのは本当に少ない。わたしが知らないだけかもしれないが、すくなくともこのブログへのコメント欄では、2回か、それ以下。もっとおどろくことは、「いまいらないから、別のこれをしてくれ」という話もしない。これについてはもっと書きたいことがあるのだが、いまはまだ話す必要がないので、おいておく。
2、米川正夫訳のロシア文学の名作の電子化。米川正夫氏といえば、大変有名なロシア文学の翻訳者である。その翻訳作品を電子化すれば、「公益に資する」だろうと思ったのだが、2020年からの4年間、ブログでのコメント欄へのコメント欄への書きこみは、1回以下。わたしが「いらないとすらいえないのか!」ということにはっきり気がついた例である。




「生き死ににかかわるボタン」にふれたりふれなかったりすることで、まっとうでない利益をえることに固執しているように見えた。「まさかそこまで荒廃していないだろう」という人がいるかもしれないが、わたしはそれは甘い考えだとおもう。もっとじっと見つめたほうがいい。たぶん、ある一定のところまでいくと事態を投げ出す人が多い、たちがわるいことに全員が投げ出すわけではないことをいいわけにしているフシがある、ということがわかるからだ。