わたしがまえに、ツイッターで「インターネット老人会」で検索して違和感をもったことがある。その検索結果がゲームや玩具としてのツールの話ばかりで、たとえば電子図書館や検索機能の精度の話が1つもなかったことである。
わたしがたまたま検索したときにそういう結果がでた、ということなのかもしれないとおもったが、あちこちしらべて、それほど昔の使用者の認識としてちがっていないといまは思っている。
社会のインフラおよび「権力」の一部としての責任と公益感覚をもっていないのである(※1)結局、責任なしで遊んでいたいだけではないのだろうか? 厳密に言えば違うとおもうが、外部からそう思われてもとても擁護できない。
責任と公益感覚なしに、本当にいいものができるわけがない。これは高木仁三郎氏も言っていたことだ。
やはり、技術と文化の原則にもどるべきだ! インターネット文化は、社会のインフラおよび「権力」の一部としての責任と公益感覚をもて!
わたしが梶村秀樹先生の著作の完全電子化作業をしているのも、技術と文化の原則にもどるべきだという主張を実行しているからである。
※1「ひろしまタイムライン事件」も同じ、作りの雑さからいって、あれは差別扇動事件というだけでは説明ができない。