『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

インターネットとツイッターのある社会の中をどう生きるか(草稿その5)――自信のないインターネット、多少でも自信のある図書館

これもメモである。

いつごろからだろうか、インターネットが情報の宝庫だと言われなくなったのは。いや、情報の洪水という言葉は使われるはずだが。

最近、これは大事な事だとよく思うのだが、(とりあえず日本の)インターネット文化をになう人々は、いったい何を自信にしているのだろうか? 中くらいの詐欺師や強盗ならば簡単になれることが自信だとでもいうのだろうか。もちろん、「詐欺師」というのは、「ひろゆき」などのことをさしている。よりによって、「ひろゆき」などを再評価しなくてもいいだろうに、言ってることは怪しいところだらけだろうが、と言いたくもなる。そもそも現在の支持者が「再評価」とか、「自信がついた」と思っているのかどうかもそうとう疑問だが。「ひろゆき」がインターネット文化の、すくなくとも無視できない悪名高い部分をつくったという歴史を考えると、歴史認識運動は、1990年代以降の日本の歴史も広く取り組むべきではないかと真剣に考えている。これは、インターネット文化の今後に関わる問題。しかし、倉橋耕平氏中西新太郎氏など、重要な研究があるものの、なんとなく研究者が謙虚か、それか日本のレイシズムの歴史に無神経か、なんとなく人々をアッコレハ、というものがないように思える。

インターネット文化の特徴を踏み台にして梶村秀樹先生の再評価をする、という作業はいまのところ成功したといえない。これは認めざるをえない。わたしの非力もあるの。しかし、インターネット文化自体に、「売れ筋」の動きを無視して再評価をすべきだという流れなり情熱なりが非常にとぼしい。何度も言っているが、だいたいインターネットはパソコン通信が一定の広がりを示した1990年から数えて30年以上の歴史がある。しかし、田中一村クラスの再評価ができたかというと、非常に疑問だ。

改めて、twitterの10人分のアカウントで調べたのだが、情報の宝庫として、インターネットと図書館、どっちを熱心に語るかといったら、図書館のほうが多かった。それと、「インターネットはもっとしっかりしてくれ」という発言がなかった。このことはショックだった。ひょっとしたら私の調べ方がまずかったからかもしれないが。もしからしたら、改善について諦められている?


青空文庫、projectgutenbergなどの電子図書館の所蔵作品群形成の歴史と受容・利用の歴史、もうすこししっかり調べる必要がありそうだ。インターネットで調べてもぱっと出てこない。関心があつまっていない。

ひろゆき」の復権をしたせいで、多少なりとも筋をとおす人たちから、インターネット文化がまた馬鹿にされる。わたしもインターネット文化に愛情は無いが、もっと広く視野をもて、公益を考えろ、とはいう。これは高木仁三郎氏から教わった事だ。


ひろしまタイムライン事件で、ツイッターという形式がバカにされたという認識がほとんどなかったことは改めて驚くべきことだ。

通俗道徳論は、半分ぐらいは反体制運動が世界を凝視しなくてもいいための道具だとおもっている。

わたしは、アニメとマンガとゲーム、つまりサブカルチャーを愛しているというのをやめます。つきはなします。そう宣言します。この3つがなくても、食べ物があればとりあえず生きていけるじゃないか。そういわれたらどうする気なのか。

歴史家の段位をきめるもの、鶴見俊輔網野善彦

貧困論はとりあえず復活したが、疎外論はまだ。疎外論それ自体の排除は何を意味しているのか。

石母田正という人はどういう人だったのか気にしなくていい歴史記述などうんざりだ。

小林よしのりと「カリスマ」

高度成長期の後の歴史記述の欠落。

全体史への関心の鈍さ。なぜすべてを掛けないのか、という疑問のなさ。

インターネットはもっとここをふやしてくれ、とかそういった期待は、非常に早い段階から薄れていった。出版文化はまだともかく。

全体を見ろ、と一般論ではなく具体的に言える人が、さあ何人いるだろうか。

インターネットのおかげで助かったことはどのぐらいだろうか? ケアか福祉かはおいておく。

少なくとも、ひろしまタイムライン事件以後、ツイッターは自分の将来を何も考えられないろくでなしの集まりと言われてもしかたがないと思っている。わたしはいやだけれど実害があるから面倒をみてやっているだけ。相手はなめきっているではないか。しかも半分以上無自覚に。

ツイッターは自分の未来というか将来というか、それを簡単に投げ出してしまった。わたしはこのことが絶対に許せない。

まさか、青空文庫以外においていたら発見しません、だとは思わなかった。

インターネット、最初は情報の宝庫、次がリアルタイム、その次がつながり(将来がメタバースらしいが)、すぐに文化として全部だめになった。もっとやれたことがあるはずなのに。

できのわるいコスプレが、すくなくとも普通の男性にとって自他ともに危険でないという保証はどこにもない。危険だという証拠はいくらでもあるが。

消費文化が人権や公益にとって無害なものだというのは、とんでもない錯覚である。

金をくいつぶされるならまだいい。過去の遺産、歴史をくいつぶされてはすべての意味でたえられない。

狭い意味でも広い意味でも運動団体が電子図書館のコレクションに寄与した分はほとんどない。宮本百合子や戸坂潤の電子テキストのコレクションはよくもわるくもただの個人がやっている。

自暴自棄を「無敵の人」といい、「運」を「ガチャ」に限定することは、堕落である。通俗的な作品をみても、このおかしさはすぐわかる。

「自分」だけが語ることが自信なのだろうか? 「対象」がおのずから語るようにすることも自信ではないのか?

大学の教師なんかなんだ! おれが越えてやる、といえないだらしなさ。

あの程度のコンプレックスしかないのか、驚いた。