『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」6-26~6-32(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]二六[#「二六」は中見出し]

 九月に、レーヴィンはキチイのお産のため、モスクワへ移った。彼はもうまる一月、なんにもしないでモスクワに暮した。そのとき、カーシン県に領地をもっていて、近く迫った選挙に非常な関心を有しているコズヌイシェフが、選挙に出かけるしたくをととのえていた。彼は弟にも同行をすすめた。レーヴィンはセレズネフ郡の関係で、一票をもっていたのである。なおそのほか、レーヴィンは外国に住んでいる姉のために、どうしてもカーシンヘ行かなければならぬ用事があった。それは後見問題と、償還金受取に関する件である。
 レーヴィンは、いつまでも決心がつかないでいたが、良人がモスクワで退屈しているのを見たキチイが、彼にこの旅行をすすめ、黙って良人のために、八十ルーブリもする貴族団の制服を注文してしまった。制服のために支払われたこの八十ルーブリが、レーヴィンに旅行を決心させたおもな原因であった。彼はカーシンヘ向けて出発した。
 レーヴィンはカーシンヘ来て、もう六日目になる。毎日、集会へ出たり、いつまでも片づかない姉の用件で奔走したりしていた。貴族団長たちはみんな、選挙のほうに忙殺されていたので、後見に関するきわめて簡単な事件が、いっこうに要領を得ないのであった。もう一つの償還金受取の件も、同様に障碍にぶっつかった。禁止解除のために長いこと奔走したあげく、やっと金を支払ってもらえることになったが、公証人はなかなか親切な人間であったにもかかわらず、証明書を交付することができなかった。というのは、それには貴族団長の署名が必要だったのに、貴族団長が事務の引継ぎをしないで、会議のほうへ行ってしまったからである。すべてこうしためんどうくさい心づかい、役所から役所へのお百度通い、請願者の立場の不快さを十分に承知しながら、なんの助けにもならない、しごく善良なやさしい人たちとの会談、なんの結果をももたらさないむなしい緊張は、ちょうど夢の中で腕力を使おうとするときに経験する、あのいまいましい無力感に似た悩ましい気持を、レーヴィンに感じさせるのであった。自分の依頼したしごく人のいい弁護士と話しているとき、彼はよくこの気持を経験した。この弁護士は、レーヴィンを困った立場から救い出すために、できるだけのことをし、自分の知力を残らず緊張さしているらしかった。「じゃ、一つこうしてごらんなさい」と彼は一再ならずいうのであった。「これこれのところへ行ってらっしゃい」そういって弁護士は、いっさいの障碍となっている根本的な原因を避けるために、堂々たるプランを立ててくれた。が、すぐそのあとから、「それでもやっぱり、おさえられることでしょうな。だが、まあ、やってごらんなさい」とつけ加えた。で、レーヴィンはやってみた。あちこち歩きまわったり、車を乗りまわしたりした。だれもかれも善良で、愛想がよかったけれども、とどのつまり、うまく避けて通ったと思ったものが、最後にまたもや立ちはだかって、ふたたび行手をふさいでしまうのであった。レーヴィンにとって特にしゃくにさわるのは、いったいだれと闘っているのか、自分の事件が片づかないために、いったいだれが得をするのか、どうしても合点がいかないことであった。この点になると、だれもわからないらしかった。弁護士もわからなかった。停車場の出札口へ近よるには、必ず列をつくらなければならない、それはちゃんとわかっているが、それと同じように、この場合も理屈がはっきりわかっていたら、レーヴィンも別に腹がたたず、いまいましくもなかったに相違ない。しかし、この事件で彼の遭遇した障碍は、いったいなんのために存在しているのやら、だれひとり説明することができないのであった。
 しかし、レーヴィンは結婚してからこのかた、すっかり人間が変ってしまった。彼は辛抱づよくなったので、どうしてそんなふうになっているのか、納得《なっとく》がいかなかったときには、自分は全部を知りつくしているのではないから、是非の判断をすることはできない、おそらくこうあるのが必要なのだろうとひとりごちて、むやみに憤慨しないようにつとめた。
 今度も選挙に立ち会い、親しくそれに参加したとき、彼はやはり非難もしなければ、議論もしないようにつとめ、自分の尊敬する潔白でりっぱな人たちが、あれほど夢中になって真剣に打ちこんでいる事柄を、できるだけ理解しようとした。レーヴィンは結婚してからというもの、以前は軽はずみな見方から、つまらぬもののように思われていたことに、いろいろと新しいまじめな点を発見したので、この選挙にもまじめな意味があるだろうと想像し、それを見いだそうとしたのである。
 コズヌイシェフは、この選挙に予想されている変革の意義を、彼に説明して聞かせた。県の貴族団長――法律によってきわめて多くの重要な社会事業、後見の問題(今レーヴィンが悩まされている当の問題)、貴族団に属するばくだいの金、女子、男子、軍人の諸中等学校、新規程による国民教育、それから最後に地方自治体までを掌中に握っている、県貴族団長のスネトコフは、ばくだいな財産を蕩尽してしまった、人のいい、ある意味では正直な男であったけれども、新時代の要求を全く理解しない、古い型の貴族であった。彼は徹頭徹尾、貴族階級の味方で、国民教育の普及に頭から反対し、きわめて重大な意義を有すべき地方自治体に、階級的な性格を賦与するというふうであった。で、その位置にぜんぜん新しい、溌剌とした、現代的な、活動的な人物を据える必要があった。そして、単なる階級としてでなく、地方自治体の一分子として、貴族階級に与えられているいっさいの権利から、できうる限り自治上の利益をひき出せるように、仕事を運んでいかなければならない。何ごとにつけても、つねに他県に先んじている富源の豊かなカーシン県には、今や驚くべき力が蓄えられてきたので、この際、方向を誤らず実施されたことは、他県のために、いや、全ロシヤのために、模範となるかもしれないのであった。こういうわけで、このことは全体として、非常に大きな意義を有しているのであった。スネトコフのあとに新しい貴族団長として、スヴィヤージュスキイを据えようか、それとも、ネヴェードフスキイを推したほうがさらによくないか、という予想が行われていた。ネヴェードフスキイは前大学教授で、図抜けて聡明な大物で、コズヌイシェフは大の親友であった。
 会議は知事によって開かれた。彼は貴族一同に、諸君はすべからく個人的情誼によらず、国家の利益のために、しかるべき資質によって役員を選挙されたい、おそらくカーシン県の貴族諸君は、従来の選挙と同様に、神聖におのれの義務を遂行し、君主の高き信任に副《そ》い奉るものと庶幾《しょき》する次第である、と開会の弁を述べた。
 演説を終ると、知事は会場を出た。貴族たちは元気よく、がやがやとそのあとに従った。中には、感激で有頂天になっているものさえあった。そして、知事が外套を着ながら、県貴族団長と親しげに話をしているあいだ、そのまわりをとり囲んだ。レーヴィンはすべてを理解して、何一つ見落すまいと思ったので、同じくその群の中に立っていた。「どうかマリア・イヴァーノヴナによろしくお伝えを願います。妻は養育院へ行かなければならないので、お会いできないのをたいへん残念がっております」という知事の言葉が、彼の耳に入った。それから、貴族たちはにぎやかにそれぞれ外套を着て、町の中央会堂へおもむいた。
 会堂では、レーヴィンもほかの連中といっしょに、片手を上げて僧正の言葉をくりかえしながら、知事の庶幾《しょき》したいっさいを履行する由を、恐ろしい文句で宣誓した。教会の儀式は、いつもレーヴィンにある影響を与えた。で、『われ十字架に口づけす』という言葉を唱えながら、同じことをくりかえしているこの老若さまざまな群をふりかえったとき、彼はなにか感動したような気分を覚えた。
 翌日と翌々日は、貴族団の金と女学校に関する議事がつづいたが、それはコズヌイシェフの説明によると、なんら重大性をもたないものであった。で、自分の奔走している事件に忙しいレーヴィンは、それにはさして注意を払わなかった。四日目には、団長のテーブルで県貴族団の財産の検査が行われた。すると、そのときはじめて新旧両党の間に衝突が起った。金額の検査を託された委員会が、全額そっくりしていると報告した。県貴族団長は立ちあがって、貴族たちの示してくれた信頼を感謝しながら、つい涙ぐんだほどである。貴族一同は声高にかっさいして、団長に握手した。しかし、そのときコズヌイシェフの党に属する一人の貴族が、委員会は在庫金を検査することを団長にたいする侮辱と考えて、あえて検査を実行しなかったのだ、と指摘した。委員の一人が不用意にも、それを裏書きした。すると、ちょっと見にはごく若そうだけれど、なかなか皮肉な柄の小さい貴族が、その金額に関しては正確な報告を提出したほうが、団長にとって欣快《きんかい》なことに相違あるまい、委員たちのよけいな遠慮は、団長からこの精神的満足を奪うことになるだろう、といいだした。そのとき委員連は、自分たちの声明を撤回《てっかい》した。コズヌイシェフは、貴族団の金が委員会によって検査されたものと認めるか、さもなければ、検査されていないことを認めるか、そのいずれかが必要であると、論理的に証明をしはじめ、このジレンマを詳細に展開させた。反対党の饒舌漢《じょうぜつかん》がコズヌイシェフの提唱に反駁した。そのあとでスヴィヤージュスキイが発言し、それから皮肉な紳士がまた一言した。論争は長く続いて、けっきょくなんとも決定がつかずに終った。レーヴィンは、なんだってこんなことを、こんなに長く論争するのかと、ふしぎに思った。ことに彼がコズヌイシェフに向って、「あなたは、その金が使いこみになっていると思うか」とたずねたのにたいして、コズヌイシェフが次のように答えたので、なおさらあきれてしまった。
「いや、とんでもない! あれは潔白な人間だからね。ただ貴族団の事務を扱う古い家長的なやりかたを、少しゆすぶってやる必要があるからさ」
 五日目は、郡貴族団長の選挙であった。この日は、二三の郡に関して、かなり波瀾が巻き起された。セレズネフ郡では、スヴィヤージュスキイが無投票満場一致で推薦され、その晩、彼の住居で宴会が催された。

[#5字下げ]二七[#「二七」は中見出し]

 六日目には、県貴族団長の選挙が行われることになっていた。大小の広間はことごとく、さまざまな制服を着けた貴族たちでいっぱいになっていた。たいていの人は、ただこの日だけやってきたのである。あるものはクリミヤから、あるものはペテルブルグから、またあるものは外国からやってきて、ひさびさに知人同士、あちこちの広間で顔を合わすものが多かった。皇帝の肖像をいただいた県貴族団長の大テーブルでは、論争が行われた。
 貴族たちは大小の広間で、それぞれの陣営に分れて集っていた。その敵意にみちた疑ぐりぶかそうな目つきや、他人がそばへよるとぴったりやんでしまう話し声や、あるものはひそひそささやきあいながら、遠い廊下の方まで人を避けて行くその様子などで、双方ともそれぞれ、敵にたいして秘密のあることが察せられた。外見からいうと、貴族たちは新旧二つの種類にかっきりと分たれた。旧派に属する連中は概して、古い宮中礼服のボタンをきちんとかけ、剣を吊るし、帽子をかぶっているか、またはそれぞれの武勲に応じて、海軍なり、騎兵なり、歩兵なりの礼装をしていた。旧派の貴族たちの礼服は旧式な仕立て方で、肩に綿など入っていた。見るからに全体が小さく、腰の辺が短くて狭いらしく、まるで着ている当人が、服の中で大きくなったようなかっこうであった。若い連中は、腰のくくりが下のほうについた、肩のゆったりした、ボタンをかけない貴族団の制服に、白いチョッキを着ているか、それとも司法省のしるしの月桂樹を刺繍した、黒い襟の礼服を着用に及んでいた。若い連中の仲間には宮中服もまじって、群衆のそこここで異彩を放っていた。
 とはいえ、新旧両派の分類は、党別と一致しなかった。レーヴィンの観察によると、若手のあるものは旧派に属しているかと思うと、その反対に一番古い貴族でも、スヴィヤージュスキイと耳打ちなどして、新派の熱烈な味方らしいのがあった。
 レーヴィンは、喫煙室兼ブフェーになっている小さな広間で、自分の仲間がかたまっているそばに立って、みんなの話していることに耳をすましながら、その内容を悟ろうと、精神力をいっぱいに緊張させて、むなしい努力をしていた。コズヌイシェフは、また別なグループの中心になっていた。彼は今スヴィヤージュスキイと、同じ党派に属する別な郡の貴族団長、フリュストフの話を聞いていた。フリュストフは、自分の郡の貴族たちを引率して、スネトコフのところへ行き、候補に立ってくれと頼むのはいやだ、というのであったが、スヴィヤージュスキイは是非そうするように、説き伏せにかかっていた。コズヌイシェフも、その提案に賛成なのである。いったいなんのために反対党が、自分たちとして当選を望んでいない貴族団長に、立候補を懇願する必要があるのか、レーヴィンにはわけがわからなかった。
 たったいまひと口やり、一杯飲んだばかりのオブロンスキイは、香水の匂いのぷんぷんする縁縫《ふちぬい》のしてある精麻《バチスト》のハンカチで口を拭きながら、侍従の制服を着て、彼らのそばへよってきた。
「陣地は着々占領しつつあるよ」両頬の髯を左右に撫で分けながら、彼はそういった。「セルゲイ・イヴァーノヴィッチ!」
 それから、人々の会話に耳を傾けて、スヴィヤージュスキイの意見に裏書きした。
「一郡だけでたくさんですよ。スヴィヤージュスキイはもう反対派だってことが明瞭なんだから」と彼は、レーヴィンだけに意味のわからないことをいった。
「どうだね、コスチャ、君もどうやらおもしろみがわかってきたようだね?」と彼はレーヴィンのほうへむいてつけ足しながら、その腕をとった。レーヴィンもおもしろみがわかりたいのはやまやまながら、なんのことか合点がいかなかった。話し合っている人々から数歩離れたとき、なぜ貴族団長に立候補を頼むのかという疑念を、オブロンスキイに話した。
「O sancta simplicitas!(おお聖なる単純さよ)」といって、オブロンスキイは簡単明瞭にことの仔細を説明した。
 もしこの前の選挙のように、すべての郡が揃って貴族団長に懇願したら、彼は満場一致で選出されてしまうが、それでは困る。ところで今は、八つの郡が懇願説に同意しているが、もし二つの郡がそれを拒否すれば、スネトコフはおそらく立候補を断念するだろう。そのとき、旧陣営は自党の中から別の人物を選ぶだろうが、それでは彼らの目算がすっかりはずれてしまうわけである。しかし、もしもスヴィヤージュスキイの郡だけ、懇願組に加わらなかったら、スネトコフは立候補するに相違ない。そこで、みんな彼を選ぶことにして、わざと彼のほうへ票をまわす、すると反対党は計算をまごついてしまって、わが党のほうから候補者を押し出したとき、敵のほうがこの候補者に票をまわすだろう。レーヴィンはやっと合点がいったけれども、きれいさっぱり、疑念かはれたというわけではなかったので、もう二つ三つ質問しようと思ったとき、ふいにみんなががやがやしゃべりだして、大きいほうの広間をさして歩きだした。
『何ごとだ? どうしたのだ? だれだ?』『信任? だれを? なんで?』『排斥しているって?』『信任じゃない』『フレーロフの選挙権を認めないというんだ』『裁判を受けてるからって、それがなんだ?』『そんなことは卑劣だ』『そんなふうにしたら、だれひとり入れてもらえやしない』『しかし法律だもの!』という声が、四方八方からレーヴィンの耳に入った。そして、何か見のがすのを恐れるかのように、どこかへ急ぐ人々とともに、彼も大広間へ足を向け、貴族たちにぐいぐい押されながら、貴族団長のテーブルに近づいて行った。そこでは県貴族団長と、スヴィヤージュスキイと、そのほかのリーダー連が、なにやらはげしい議論を闘わしているのであった。

[#5字下げ]二八[#「二八」は中見出し]

 レーヴィンはかなり遠く離れて立っていた。はあはあせいせいと息をするそばの紳士と、厚い靴の裏皮をぎしぎしきしませるもう一人の紳士が、はっきり聞き分ける邪魔をした。彼はただ遠くのほうから、県貴族団長の柔らかみのある声と、皮肉な貴族のきいきい声と、それからスヴィヤージュスキイの声を、耳にしたばかりである。彼の理解した限りでは、彼らはある法文の条項の意義と、予審下にあるもの[#「予審下にあるもの」に傍点]という言葉の意味について、論争しているらしかった。
 と、群衆は左右に分れて、テーブルに近よってくるコズヌイシェフに道を開いた。コズヌイシェフは、皮肉な貴族の演説が終るのを待って、何よりも正確なのは、じきじき条文を調べて見ることだと思うといって、秘書に条文を探して出してほしいと頼んだ。その条文には、意見不一致の場合は、投票に付すべしとなっていた。
 コズヌイシェフは条文を読みあげて、その意味を説明しはじめたが、そのとき、背が高くて、猫背の、口髭を染めた、襟が頸筋をつき上げるような窮屈そうな制服を着た一人の地主が、いきなり彼をさえぎった。彼はテーブルのそばへよって、指輪でこつんとその上を叩きながら、大きな声で叫んだ。
「投票することだ! 投票だ! 何もかれこれいうことはない! 投票だ!」
 そのとき一時にいくたりもの声が、がやがやいいだしたので、指輪をはめた背の高い貴族は、ますますいきりたちながら、だんだん声を高めてどなるのであった。しかし、彼のいっているのはなんのことやら、いっこうに聞き分けられなかった。
 彼はコズヌイシェフと、同じことをいっているのであったが、明らかに彼は、コズヌイシェフとその一党を憎んでいるらしかった。この憎悪感が党ぜんたいに感染したために、反対党の側からも、比較的紳士らしい態度ではあったが、対抗的に同じような憤激がわき起った。叫喚の声が起って、いっときなにもかもこんぐらかってしまったので、県貴族団長は静粛の注意を促さなければならなかった。
『投票だ、投票だ! 貴族である以上、ちゃんとわかってる』『われわれは血を流すことも、あえて辞せない……君主のご信任……貴族団長を責めることはない、団長は番頭じゃないんだから……いや、そんな問題じゃない……じゃ、票決しましょう? けがらわしい……』という激昂したものすごい叫びが、四方から聞えてきた。しかし、人々の顔や目つきのほうが、声よりもずっと毒々しく、ものすごかった。それは、和解の余地のない憎悪を示していた。レーヴィンは、なんのことかさっぱりわからなかったが、フレーロフに関する件を、投票に付すべきかいなかの問題を論議する、その熱狂ぶりに一驚を喫した。彼は、あとでコズヌイシェフの説明したところによると、例の三段論法を忘れたのである。一般の福祉のためには、貴族団長を追い落す必要があり、団長を追い落すためには、票数の獲得が必要であり、票数の獲得のためには、フレーロフに投票権を与える必要があった。ところが、フレーロフの資格を認めるためには、条文をいかに解釈するかを、説明する必要があったのである。
「ただの一票が事態を決するのだから、一般の福祉に奉仕しようと思ったら、真剣になって順序を踏まなくちゃならないのさ」とコズヌイシェフは言葉を結んだ。けれども、レーヴィンはそのことを忘れてしまって、自分の尊敬する善良な人々が、かくも不快な毒々しい興奮に陥っているのを、見るのも苦しいような気がした。この重苦しい感じをのがれるために、彼は論争の終るのを待たないで、小さいほうの広間へ出て行った。そこには、ブフェーのそばのボーイ連のほか、だれもいなかった。食器洗いや、皿や杯を並べるのに忙しそうな人たちを見、彼らのおちついた、しかも生きいきした顔を見ると、レーヴィンはまるで悪臭ぷんぷんたる室内から、すがすがしい外気の中へ出たように、思いがけなく気持の軽くなるのを覚えた。彼は満足感をいだいて、ボーイたちをながめながら、あちこち歩きまわりはじめた。白い頬ひげを生やした一人のボーイが、自分をからかうほかの若い連中に、侮蔑の色を見せながら、ナプキンのたたみかたを教えているのが、彼は非常に気に入った。レーヴィンが、この老給仕と話をはじめようとしたとき、貴族後見会の秘書で、全県の貴族の姓名を残らず知っているのが専門の老人が、彼の注意をそらした。
「コンスタンチン・ドミートリッチ」と老人はいった。「お兄さまがお呼びでいらっしゃいます。投票がはじまりましたので」
 レーヴィンは大広間へ入って、小さな白い玉を受け取って、兄のコズヌイシェフといっしょに、テーブルのそばへ近よった。そこにはスヴィヤージュスキイが、ものものしい皮肉な顔つきで、頤《あご》ひげをひと握りににぎって、しきりにその臭いをかぎながら立っていた。コズヌイシェフは箱の中へ手をつっこんで、どこかへ自分の玉を入れ、レーヴィンに場所をゆずると、すぐそばに立ちどまった。レーヴィンはテーブルのそばへよったが、なんのことやらとんと忘れてしまって、もじもじしながら、コズヌイシェフの方へふりむいて、「どこへ入れたらいいのです?」ときいた。彼は、みんながまわりで話しているとき、小さな声できいたので、この問いは、人々の耳に入らないだろうと、あてにしたのである。けれど、しゃべっていた人たちがぴったり口をつぐんだ。彼の無作法な質問は、聞かれてしまったのである。コズヌイシェフは眉をひそめた。
「それは各個人の信念の問題だよ」と彼はいかめしい調子で答えた。
 二三の人々は微笑した。レーヴィンは顔を赤らめ、急いでラシャの下へ手をつっこみ、右側へ投票した。玉が右手にあったからである。入れてしまってから、左手もつっこまなければならないことを思い出して、そうしたけれど、もう手遅れであった。で、なおいっそうてれてしまって、こそこそと一番うしろの列へ入ってしまった。
「賛成投票百二十六! 不賛成九十八票!」Rを発音しない秘書の声が響き渡った。つづいて笑い声が聞えた。投票箱の中にボタンが一つと、胡桃《くるみ》が二つ入っていたのである。貴族フレーロフは投票権を認められ、新人側の勝利となった。
 しかし、旧派も負けたとは思わなかった。レーヴィンは、スネトコフに立候補してほしいと頼む声を耳にし、何やらいっている県貴族団長をとり囲んだ貴族たちの一群を見受けた。レーヴィンは少しそばへよって行った。スネトコフはその貴族たちに答えながら、諸君の自分にたいする信頼と愛情を謝した後、自分はもうそうしていただく価値がない、自分の功績というのは、貴族階級にたいする信服に尽きており、その貴族階級のために、十二年の勤務生活を捧げたにすぎないのだから、といった。彼はいくども、「自分は力の及ぶ限り、信と真とをもって奉仕しました。諸君のご好意はうれしく思い、感謝に堪えん次第であります」とくりかえしていたが、とつぜん、涙に喉がつまって言葉を切り、大広間を出てしまった。その涙の原因は、自分にたいする人々の不当な処置を意識したためか、貴族階級にたいする愛のためか、自分が敵に包囲されているのを感じて、あまりにその状態が緊張していたためか、その点はっきりしなかったけれども、その興奮はしだいに伝染して、大多数の貴族は感動してしまった。レーヴィンも、スネトコフに対する優しい愛情を感じた。
 戸口のところで、県貴族団長はぱったりレーヴィンに行き会った。
「失礼、ごめんなさい」と彼は、まるで知らない人のようにいったが、レーヴィンであると気がつくと、臆病らしく微笑した。彼は何かいおうとしたけれど、興奮のあまり言葉が出なかった、というようにレーヴィンの目には映った。その顔の表情も、制服をまとい、勲章をかけつらね、金モール入りの白ズボンをはいたそのぜんたいのかっこうも、こいつはいけないぞと見てとった巻狩の野獣を、レーヴィンに連想させるのであった。団長の顔にあらわれたこの表情は、レーヴィンにとって特に痛ましい感じがした。というのは、つい昨日、後見の事件で彼の邸を訪問して、善良な家庭人としての彼の威容を見たばかりだったからである。古い伝来の家具を備えた大きな邸宅、明らかに主人を変えないでいる以前の農奴らしい、あまりしゃれたなりをしていない、いくらか汚らしい感じのする、いんぎんな、年とった従僕たち、レースの室内帽をかぶり、トルコ・ショールをまとって、小さなかわいい孫娘――娘の娘をあやしている肥えた気立てのよさそうな夫人、中学校からやってきて、父親にあいさつしながら、その大きな手に接吻した中学六年生の息子、主人公の噛んで含めるような優しい言葉や身ぶり――これらすべては、つい昨日レーヴィンの心に、知らずしらず尊敬と、同感を呼び起したものである。今はレーヴィンの目に、この老人が痛ましくかわいそうに思われた。で、何か彼のために、気持のいいことがいってやりたくなった。
「してみると、あなたはまたわれわれの団長でいて下さるんでしょうね」と彼はいった。
「さあ、覚束《おぼつか》ないですな」と団長はおびえたように、うしろをふりかえっていった。「私はもう疲れましたよ、老人ですからな。私なんかより実力のある若い人がいるのだから、そんな人がご奉公したらいいのですよ」
 そういって、貴族団長は横の方の戸の陰に姿を消した。
 いよいよ最も荘重な瞬間が訪れた。さっそく選挙にかからなければならなかったのである。両党のリーダーたちは、白と黒を指折り数えていた。
 フレーロフに関する論争は、新党のために一票を加えたばかりでなく、時をかせいでくれたので、旧派側の奸計で選挙に参加できなくなった三人の貴族を、ひっぱってくることができたのである。酒に目のない二人は、スネトコフの手先に盛りつぶされたし、もう一人は貴族団の制服を持っていかれたのである。
 この事情をかぎつけるやいなや、新人派はフレーロフに関する論争のあいだに、仲間を辻馬車で駆けつけさせて、一人の貴族にはちゃんと制服を着せるし、盛りつぶされた二人のうち一人を、選挙場へ連れてくることができた。
「一人だけひっぱってきて、水を頭からぶっかけてやりましたよ」と迎えに行った一人の地主が、スヴィヤージュスキイのそばへ行ってこういった。「大丈夫、役に立ちますよ」
「へべれけじゃありませんか、倒れやしませんかね?」とスヴィヤージュスキイは、小首をひねりながらたずねた。
「なあに、元気なものですよ。ただここで飲まされさえしなけりゃ……私はブフェーのボーイに、どんなことがあっても飲ませちゃならん、といっておきましたよ」

[#5字下げ]二九[#「二九」は中見出し]

 喫茶室兼ブフェーになっている長細いホールは、貴族たちでいっぱいだった。興奮はしだいに募って、だれの顔にも不安の色が認められた。ことに、いっさいの事情に詳しく通じて、票の数を知り尽しているリーダーたちは、ひどく興奮していた。それらは、目前に迫った戦闘の指揮官であった。そのほかの連中は戦闘前の一兵卒なので、戦いの覚悟はできていたけれども、今のところは気晴しを求めていた。あるものは立ったり腰かけたりして、むしゃむしゃやっているし、あるものは巻タバコをくわえて、長細いホールをあちこち歩きまわりながら、久しく会わなかった友だちと話をしていた。
 レーヴィンは別に食べたくもなかったし、それに不断からタバコもすわなかった。それかといって、自分の仲間、つまりコズヌイシェフや、オブロンスキイや、スヴィヤージュスキイなどと合流する気にもなれなかった。なぜなら、彼らといっしょに、主馬寮長《しゅめのりょうちょう》の制服を着たヴロンスキイが、活溌な会話をまじえながら、立っていたからである。昨日もレーヴィンは、選挙場で彼の顔を見かけたが、顔を合わせたくなかったので、つとめて避けるようにしたものである。彼は窓のそばに腰をおろして、さまざまなグループをながめまわしながら、周囲でいってることに耳をすましていた。彼は憂鬱であった。見受けたところ、みんな活気に満ちて、心配そうにし、忙しそうにしているのに、自分一人だけは、そばに坐ったひどく高齢な、海軍の礼服を着て、歯のない口でもぐもぐいう老人を相手に、興味もなければ、なすこともないありさまなので、とくに憂鬱であった。
「あいつはしようのない悪党だ! 私はあいつにいってやったんですが、やっぱりだめだ。そうですとも! あいつは三年の間に、集めることができなかったんですからね」ポマードをこてこてつけた髪を、金で刺繍《ぬい》した礼服の襟にたらした、丈の高くない、やや猫背の地主が、一見して選挙のためにおろしたらしい、新しい靴の踵《かかと》をかたかた鳴らしながら、元気のいい声でこういった。地主はレーヴィンに不満げな一瞥《いちべつ》を投げると、くるりとそっぽを向いてしまった。
「そうですとも、あの事件は臭いですよ、いわずと知れてまさあ」と小柄な地主が、細い声でこういった。
 そのあとから、ふとった将軍をとりまいた地主の一群が、せかせかとレーヴィンの方へ近づいて来た。地主連は、人に聞かれないで話し合うために、場所をさがしているらしかった。
「私があの男のズボンを盗むようにいいつけたなんて、よくもそんな失敬なことがいえたもんだ! やつはきっと、そのズボンを飲んじまったんでしょう、私はそう睨《にら》みますよ。やつが公爵だからって、そんなこと屁《へ》でもありゃしない。そんな失敬なことをいうべきじゃない、それは厚顔無恥な所行《しょぎょう》だ!」
「しかし、まあ、考えてごらんなさい! あの連中は条文をたてにとってるんですからね」とまた別のグループではいっていた。「妻は貴族として籍が入っているべきですよ」
「条文なんてくそくらえだ! 僕は誠心誠意いってるんですからね。ありがたいことに、われわれは生れながらの貴族なんですから、信頼してもらいたいもんですね」
「閣下、fine champagne(上等のシャンパン)をやりに行きましょう」
 また別の一群は、何やら大声にわめいている貴族のあとから、羊のむれのようについて行った、それは盛りつぶされた三人の中の一人であった。
「私はいつもマリア・セミョーノヴナに、土地は貸したほうがいいと忠告したものですよ。だって、あのひとには見当がつかないんだから」参謀本部付大佐の制服を着て、ゴマ塩の口ひげを生やした地主が、気持のいい声でそういった。それは、レーヴィンがスヴィヤージュスキイの家で会った例の地主であった。彼はすぐさまそれと気がついた。地主のほうでもレーヴィンに目をつけて、二人はあいさつをした。
「やあ、これは愉快ですな! どういたしまして! よく覚えておりますとも。去年、郡の貴族団長のニコライ・イヴァーノヴィッチのとこでお会いしました」
「ときに、お宅の農場はどんなふうにいっています?」とレーヴィンはきいた。
「相変らず欠損ですよ」地主は彼のそばに立ちどまって、忍従の微笑を浮べながら答えたが、その表情は、それが当然だといったような、おちつきと確信をあらわしていた。「ところで、どうしてあなたはわれわれの県に入られたのです!」と彼はたずねた。「われわれの 〔coup d'e'tat〕(クーデター)に仲間入りするために、こられたんですか?」まずいけれどしっかりとフランス語を発音しながら、彼はいった。
「ロシヤ全国がここへ集ったんですよ。侍従も、大臣といっていいほどの人たちさえね」と、白ズボンに侍従の制服を着て、将軍といっしょに歩きまわっている、オブロンスキイの堂々たる姿をさして見せた。
「正直に白状しなくちゃなりませんが、僕は貴族団の選挙の意味が、よくわからないんです」とレーヴィンはいった。
 地主はレーヴィンの顔をながめた。
「何もわかるもわからんもありゃしませんよ。意味なんかてんでないんですものな。ただの惰力で動いているすたれた制度にすぎませんよ。あの制服をごらんなさい――あれがちゃんとそう言っていますよ。これは治安判事、常任委員、等々の集りで、貴族の集会じゃありませんて」
「じゃ、あなたはなんのためにお出かけになったんです?」とレーヴィンはきいた。
「ただの習慣ですな。それに、つながりというやつも維持していく必要があります。ある意味における精神的義務ですな。それに、正直のところを申しますと、自分の利害もあるんですよ。娘の婿が、常任委員に立候補したがっておるのですが、なにしろ金といってはそうないから、うまく引きまわしてやらなくちゃならんのです。ところで、あの連中はなんのためにやってくるんでしょう?」貴族団長のテーブルのそばで論じたてている、皮肉な紳士をさしながら、彼はこういった。
「あれは貴族階級の新世代ですよ」
「新は新かも知れませんか、ただし貴族階級じゃありません。あれは土地所有者で、われわれは地主なんです。あの連中は貴族階級として、われとわが身に手をくだしているようなものですよ」
「しかし、あなたはそうおっしゃったじゃありませんか、これはすたれた制度だって」
「すたれた制度はすたれた制度ですが、しかしなんといっても、もう少し敬意をもって遇すべきですよ。あのスネトコフにしても……いいにしろ悪いにしろ、とにかくわれわれは千年以上も、生長をつづけてきた存在ですからな。たとえていえば、家の前にちょっとした庭を造ることにして、地割りをしようという段になって、ちょうどそこのとこに、何百年もたった古い木が生えてるとしましょう……それは曲りくねった老木ではありますが、なんといっても、ちょいとした花壇をつくるために、古い木を伐《か》り倒すなんて法はありません、むしろ、その木を利用するように、花壇の地割りをしなくちゃなりますまい。そういう大木は、一年で成長さすことはできないんですからな」と彼は用心ぶかい調子でいって、すぐ話題を転じた。「ところで、あなたがたの農場はいかがですな?」
「どうもいけません。やっと五分の収益ですね」
「ははあ、しかしあなたは、ご自分を勘定に入れていらっしゃらんが、あなただって何かの値うちがおありになるはずじゃありませんか。ところで、私は自分のことを申しあげましょう。私は農場をはじめるまでは、勤務で年俸三千ルーブリもらっておりました。今じゃ私は勤務以上に働いておりますが、あなたと同じことで、五分の利益しかあがりません。しかも、それだって運のいいほうなんですよ。だから、自分の働きというものは、ただになってしまうわけでさあ」
「では、なんのためにあなたは、そういうことをなさるんです? もし、てんから損耗《そんもう》とわかっていたら?」
「ところが、それでもするんですなあ! なんともいたしかたがありませんわい。習慣というやつで。それに、そうしなけりゃならんということが、自分でもわかっておるのですよ。それどころか、もっと詳しくお話しますと」と地主は窓に肘杖《ひじづえ》ついて、すっかり話に脂が乗ったふうで、言葉をつづけた。「せがれが農事にいっこう気がなくて、どうやら学問のほうがやりたいらしいのです。だから、だれも跡を継ぐものがないというわけですが、それでも私はやっぱり続けておりますよ。現に今年も、新しく果樹園をつくりましてな」
「そうです、そうです」とレーヴィンはいった。「それは全くおっしゃるとおりです。私も始終、自分の農場では本当の意味の採算などありえない、と感じているのですが、そのくせやっぱりつづけている……なにかしら土地にたいする義務、といったようなものを感じるんですね」
「さよう、こういうこともありますよ」と地主はつづけた。「私の隣にある商人が、地所を持っておりましてな、あるときいっしょに、畑や果樹園などを歩いてみました。商人がいうには、『いや、スチェパン・ヴァシーリッチ、お宅はなにもかもきちんといっておりますが、ただ庭がうっちゃらかしになっておりますな』ところが、私の庭は手入れが届いておるのです。『私の勘考《かんこう》では、あの菩提樹は伐《き》り倒したほうがよろしいですな。ただ養分をむだに吸うばかりで、ああいうふうの菩提樹が千本くらいあるでしょうが、一本からいい皮が二枚ずつ取れるでしょうよ。いま木の皮の値が出ていますから、私なら皮用の菩提樹を、どんどん伐り出すんですがな』とこんなことをいうじゃありませんか」
「その金で先生、牛馬でも買い占めるでしょうね。それとも、土地をただ同然に買って、百姓たちに貸しつけますかね」とレーヴィンは薄笑いを浮べながら、話の締めくくりをつけた。明らかに、もう一度や二度でなく、そういう算盤の取り方にぶつかったことがあるらしい。「こうして、商人は身代をつくり上げてるのに、私やあなたはただ持ってるものを失くさないで、子供たちに残すことができれば、ありがたいしあわせというありさまなんですからね」
「あなたは結婚なさったとかで、私は噂を聞きましたが?」と地主はいった。
「そうです」とレーヴィンは、誇らしい満足感をいだきながら答えた。「全く、これは何か妙なことですね」と彼はつづけた。「われわれはこうして、なんの採算もなしに暮しているんですからね、まるでご神火を守る昔の巫子《みこ》かなんぞのように、われわれは土地に付き人としておかれてる形ですね」
 地主は白い口ひげの下でにっと笑った。
「私どもの中にも変ったのがありますよ、そら、お互に知り合いのニコライ・イヴァーノヴィッチとか、今度こちらへ移って来たヴロンスキイ伯爵などで、あの衆は農業を、大きな事業としてやっていこうとしておりますが、こいつは今までのところ、ただ資本をねかすだけで、なんの結果も得られんのが普通でしてな」
「どうしてわれわれも、商人みたいにしないんでしょう? なぜ木の皮を取るために、庭の立ち木を伐らないんでしょう?」強い印象を与えられた想念に立ち戻りながら、レーヴィンはこういった。
「つまりそれは、あなたのいわれたとおり、ご神火を守るためですな。あんなやりくちは、貴族のなすべき仕事じゃありませんて。われわれ貴族のなすべき仕事は、こんな選挙場にはなくて、あちらの住み慣れた片すみにあるのです。それにまた、何をしなければならんか、何をしてはならんかということについても、やっぱり階級的本能というやつがありましてな。百姓にしてもやっぱり同じことで、私はときどきあの連中を観察しておりますが、よい百姓はできるだけよけいに、土地を借りようとします。どんなに悪い土地でも、せっせと耕している。これも採算のとれん話どころか、てんで欠損なんですからな」
「われわれもそれと同じわけなんですね」とレーヴィンはいった。「いや、お目にかかれて、じつにじつに愉快でした」むこうからやってくるスヴィヤージュスキイを見て、彼はこうつけ足した。
「お宅でお近づきになって以来、はじめてお目にかかったところ」と地主はいった。「すっかり話がもててしまいましてな[#「話がもててしまいましてな」はママ]」
「どうです、新しい制度の悪口じゃありませんでしたか?」
「多少それもありましたよ」
「それで鬱憤《うっぷん》を晴らしたというわけですね」

[#5字下げ]三〇[#「三〇」は中見出し]

 スヴィヤージュスキイはレーヴィンと腕を組んで、自分の仲間のほうへ行った。
 今となっては、ヴロンスキイとの対面を避けるわけにいかない。彼はオブロンスキイとコズヌイシェフと並んで、近づいてくるレーヴィンをまともにながめていた。
「非常に愉快です、たしかいちど拝顔の栄を得たようですね……シチェルバーツキイ公爵家で」と彼は、レーヴィンに手をさしのべながらいった。
「あのときのことはよく覚えています」とレーヴィンはいい、紫色に見えるほど真赤になって、すぐそっぽを向いてしまい、兄と話をはじめた。
 ヴロンスキイは軽くにやっと笑って、スヴィヤージュスキイと話をつづけた。明らかに、レーヴィンと話をはじめたいという希望は、いささかももっていないらしい、ところが、レーヴィンは兄と話をしながらも、たえずヴロンスキイのほうをふりかえって、自分の無作法を償うために、どんな話をもちだしたらいいか、思案をめぐらすのであった。
「いま問題は何なのです?」スヴィヤージュスキイとヴロンスキイのほうをふりかえりながら、レーヴィンは問いかけた。
「スネトコフのことなんだ。あの男に承諾するか、辞退するかしてもらいたいのさ」とスヴィヤージュスキイは答えた。
「それで、どうなんです、承諾したんですか、辞退したんですか?」
「ところが、そのどっちでもないから困るんですよ」とヴロンスキイはいった。
「もし辞退したら、だれが候補に立つんです?」とレーヴィンは、ヴロンスキイのほうをふりむきながらたずねた。
「有志のものですよ」とスヴィヤージュスキイが答えた。
「あなたは立ちますか?」
「いや、私に限ってそんなことは」コズヌイシェフのそばに立っている皮肉な紳士に、おびえたような視線をちらっと投げて、スヴィヤージュスキイはどぎまぎしながら、そういった。
「じゃだれです? ネヴェードフスキイですか?」とレーヴィンは、しどろもどろになったのを感じながらいった。
 しかし、それはもっといけなかった。ネヴェードフスキイもスヴィヤージュスキイも、二人ながら候補者だったのである。
「ただし、僕だけはどんなことがあってもまっぴらです」と皮肉な紳士はいった。
 それが当のネヴェードフスキイであった。スヴィヤージュスキイは、レーヴィンをひき合わせた。
「どうだね、君もだいぶ真剣になってきたようだな?」とオブロンスキイは、ヴロンスキイに目配《めくば》せしながらいった。「これも一種の競馬だからね。賭だってできるぜ」
「そう、こいつも全く真剣になれるよ」とヴロンスキイは答えた。「いちど手を出すと、最後までやりとげたくなるね。戦争だよ!」眉をひそめ、たくましい頬骨をぐっと締めて、彼はこういった。
「スヴィヤージュスキイはたいしたやり手ですね! あの男にかかると、たちまち万事はっきりしますからね」
「そりゃまったくです」とヴロンスキイは、そわそわした調子でいった。
 沈黙が襲った。その間に、ヴロンスキイは何か見なくてはならないので、レーヴィンの方へ視線を向けた。はじめ足、それから制服、最後に顔をながめたが、自分にそそがれている暗い目つきにぶつかると、ただ何かいうためにこういった。
「どうしてあなたは年じゅう、田舎に暮していらっしゃりながら、治安判事をなさらないんですか? あなたは治安判事の制服を着ていらっしゃいませんね?」
「ほかでもありません、治安判事なんかばかけた制度だと思うからです」こんど会ったら必ず自分の無作法を償うために、ヴロンスキイと胸襟を開いて語ろうと、その機会を待っていたにもかかわらず、レーヴィンは暗い調子でこう答えた。
「僕はそう思いませんね。むしろその反対です」とヴロンスキイは、おちついた驚きの調子でこういった。
「あんなものは玩具《おもちゃ》ですよ」とレーヴィンはさえぎった。「治安判事なんてものは、われわれに必要がありません。僕は八年間に、一度も訴訟を起したことがありませんからね。いちど起したところ、まるっきり逆の判決を受けましたよ。治安判事は、僕の家から四十露里も離れたとこにいるものだから、二ルーブリの事件のために弁護人をやって、十五ルーブリから礼を出さなくちゃならないという始末です」
 それから彼は、ある百姓が水車場の粉を盗んだので、水車場の主人がそれをなじったところ、百姓は誹譏罪《ひきざい》の訴訟を起した顛末《てんまつ》を話したが、それが変にとってつけたようで、まが抜けていた。レーヴィンも話しながら、自分でそれを感じた。
「いやはや、どうも相変らずの変人だよ!」とオブロンスキイ[#「オブロンスキイ」は底本では「オブロンスキー」]は、例のアメンドウのような微笑を浮べて言った。「だが、そろそろ出かけようよ。どうやら投票がはじまったようだ……」
 それで、彼らは別れわかれになった。
「どうもわからんね」弟のとっぴょうしもない話しぶりを見ていたコズヌイシェフは、こう言って注意した。「どうしてあんなにまで政治的なこつ[#「こつ」に傍点]を欠いていられるか、わけがわからん。これがわれわれロシヤ人に欠けているものなんだね。県貴族団長はわれわれの敵なのに、おまえはあの男と ami cochon(親しい仲)で、候補に立ってくれなんて頼んでる。ところでヴロンスキイ伯爵は……僕はあの男を親友にしようとは思わない。あの男は晩餐に呼んでいるけれど、こっちは行く気はない。しかし、それでもあの男はわが党なのに、何もあの男を敵にすることはないじゃないか? それからまた、おまえはネヴェードフスキイに、候補に立つかなんてきいたけれど、あんなことを言うものはありゃしない」
「ああ、僕は何がなんだかちっともわからない! しかし、そんなこと、みんなくだらないこってすよ」とレーヴィンは暗い調子で答えた。
「おまえはそんなふうに、なにもかもくだらないことだというが、いざ自分でやるとなると、すっかりごちゃごちゃにしてしまうんだから」
 レーヴィンは口をつぐんだ。こうして二人はいっしょに、大広間へ入って行った。
 県貴族団長は、自分のために設けられている陥穽《おとしあな》を、空中に感じたにもかかわらず、また自分に懇願したのが全員でなかったにもかかわらず、それでも立候補を決心した。大広間は闃《げき》と静まりかえった。秘書は雷霆《らいてい》のごとき声で、近衛騎兵大尉ミハイル・スチェパーノヴィッチ・スネトコフ氏、県貴族団長選挙に立候補すと宣言した。
 郡貴族団長連が、小さな玉の入った皿を持って、それぞれ自分のテーブルから県貴族団長のテーブルへ行った。こうして、選挙がはじまったのである。
「右の方へ入れるんだよ」レーヴィンが兄とともに、団長のあとからテーブルに近づいたとき、オブロンスキイは彼にそうささやいた。しかし、今レーヴィンは説明してもらった計画をどう忘れして、オブロンスキイが『右』といったのはまちがいではないか、と心配になった。なにしろ、スネトコフは敵なのである。箱のそばまで行ったとき、彼は玉を右手に持っていたが、これはまちがいだと思って、箱のすぐ手前で、左の手へ玉を持ちかえて、あけすけに左のほうへ入れた。箱のそばに立っている専門の係員は、肘の動きだけで、だれがどちらへ入れたかを察してしまうのであったが、われともなく眉をひそめた。その洞察力を働かす余地がなかったのである。
 あたりはしんとして、ただ玉を数える気配だけがしていた。やがて、ただ一人の声が賛否両票の数を読み上げた。
 貴族団長は相当の多数で選挙された。一同はざわめきたって、まっしぐらに戸口の方へおしかけて行った。スネトコフが入ってくると、貴族連はそれをとりまいて、祝辞を述べた。
「さあ、これでおしまいなんでしょう?」とレーヴィンはコズヌイシェフにきいた。
「なに、やっとはじまったばかりさ」とコズヌイシェフのかわりに、スヴィヤージュスキイは答えた。「ほかの候補者が、より以上の票数を獲得するかも知れないからね」
 レーヴィンはまたしても、それをころりと忘れていた。今になってはじめて、そこには何か微妙な魂胆があったのだと思い出したが、それがどういうことなのか、考え出すのがめんどうくさくなってきた。彼は気がくさくさしてきたので、この群衆の中から出て行きたくなった。
 だれも自分のほうに注意を払っていず、したがって、だれにも用がないらしいのをさいわい、彼はブフェーのある小さい広間へ、そっと出て行った。ふたたびボーイたちを見たとき、しんからほっとした。年とったボーイが、ひと口いかがですというので、レーヴィンは食べることにした。いんげん豆をつけあわしたカツレツを食べ終り、ボーイを相手に昔の旦那がたの噂をした後、レーヴィンはいやでたまらない大広間へ行きたくなさに、合唱隊席へ行ってみた。
 合唱隊席は、きらびやかな婦人たちでいっぱいだった。みんな手すりから乗り出して、階下《した》で話していることを、一つとして聞きもらすまいと、一生懸命であった。婦人たちのそばには、優美なかっこうをした弁護士や、中学教師や、将校などが、立ったり坐ったりしていた。話はいたるところ、選挙のことや、貴族団長がへとへとに疲れていることや、討論がすてきだったこと、などでもちきりだった。ある一群の中で、レーヴィンは兄にたいする賛辞を聞いた。一人の婦人がある弁護士にむかって、
「わたしコズヌイシェフの演説が聞かれて、本当にうれしゅうございましたわ! あれなら、おなかをすかして聞いている値うちかありますわ。すばらしいものですねえ! 本当にはっきりと、なにもかも聞えるんですもの! あなたがた、裁判関係の人で、あれほどしゃべれる人はだれもありませんもの。まあ、マイデル一人くらいのものですけど、それだってとても、あれほど雄弁じゃありませんもの」
 手すりにおいたところを見つけて、レーヴィンは上半身を乗り出しながら、見たり聞いたりにかかった。貴族たちはみんなそれぞれの郡に分れて、小さな仕切りの陰に腰かけていた。大広間のまんなかには、制服を着た男が立って、細いがかん高い声でこういっていた。
「県貴族団長候補者として、騎兵二等大尉エヴゲーニイ・イヴァーノヴィッチ・アプーフチン氏が立たれます!」
 死のような沈黙が訪れた。と、弱々しい年寄りめいた声が聞えた。
「辞退します!」
「七等官ピョートル・ペトローヴィッチ・ボール氏が立候補されます」と、また例の細い声がいいだした。
「辞退します!」という若いきいきい声が聞えた。
 またもや同じことがはじまって、またもや『辞退します』であった。こういうふうで、一時間ばかりつづいた。レーヴィンは手すりにもたれて、見かつ聞いていた。はじめ彼はあきれながら、これはなんの意味かを、合点しようとつとめていたが、やがてこんなことは理解できないと悟ると、退屈になってきた。やがて、一同の顔に認めた興奮と狂憤を思い出すと、気が重くなってきた。彼は帰ることにきめて、下へおりて行った。合唱隊の入口を通りぬけようとしたとき、眼に皮下出血した中学生が、わびしげにあちこちしているのを見受けた。また階段の上では、踵《かかと》ですたすた走ってくる婦人と、身軽そうな検事の一組に出会った。
「遅刻しやしないと、私がいったじゃありませんか」レーヴィンが婦人を通そうとして、わきへよったとき、検事はこういった。
 レーヴィンはもう出口の階段まで来て、外套の番号札をチョッキのポケットからとり出しにかかったとき、秘書が彼をつかまえた。
「コンスタンチン・ドミートリッチ、どうぞこちらへ、投票がはじまりました」
 あのだんぜん拒絶したネヴェードフスキイが、団長の候補者として、投票を受けているのであった。
 レーヴィンは大広間の戸口に近よった。扉はしまっていた。秘書がノックすると、扉があいた。と、真赤になった二人の地主が、中からちょろりと戸口をくぐって、レーヴィンのそばをすべり抜けた。
「もうやりきれんよ」と真赤になった地主の一人がいった。
 地主のあとから、県貴族団長の顔がぬっとのぞいた。その顔は困憊《こんぱい》と恐怖のために、恐ろしいほどであった。
「ちゃんとそういっといたじゃないか、だれも出しちゃならんて」と彼は小使にどなりつけた。
「わたくしは入れたのでございます、閣下!」
「ああ、なんてことだ!」と県貴族団長はため息をついて、例の白いズボンをちょこちょこと、さも疲れたように動かしながら、首をたれたまま、広間のまんなかにある大テーブルの方へ行った。
 かねての計画どおり、ネヴェードフスキイのほうが票数が多かった。こうして、彼は県貴族団長になった。多くのものは浮きうきとし、満足で幸福そうな様子をしていたが、また多くのものは不満な、ふしあわせらしいふうであった。スネトコフは絶望の色を包みきれなかった。ネヴェードフスキイが広間を出て行くとき、群衆は四方から彼をとり囲んで、歓呼の声を上げながら、そのあとにつづいた――ちょうど第一日に、知事が開会の辞を述べたとき、そのあとに従ったように、またスネトコフが貴族団長に選挙されたとき、同じくそのあとに従ったように。

[#5字下げ]三一[#「三一」は中見出し]

 新任貴族団長と勝ち誇った新人党の多数は、この晩ヴロンスキイの住居の宴会に列した。
 ヴロンスキイが選挙にやって来たのは、田舎にばかりいるのが退屈で、アンナにたいする自分の権利を声明するためでもあったが、また地方自治体の選挙のとき、ヴロンスキイのために奔走したスヴィヤージュスキイを、今度の選挙で支持するためでもあった。しかし、最もおもな理由は、みずから選び定めた貴族として、土地所有者としての義務を、残らず履行するためなのであった。しかし、この選挙という仕事がこれほど興味があって、これほど自分を熱中させようとは、まったく意想外であったし、また自分がこれほどうまく、この仕事をやってのけようとも思わなかった。彼はこの土地の貴族仲間では、まったくの新顔であったが、しかしまちがいなく一同に認められた。彼は貴族仲間に早くも勢力を獲得したと考えたが、それは誤りではなかった。それを助けたのは、彼の富と、家柄と、市中にもっている立派な住居と(それは財政方面の仕事をしていて、カーシンで繁昌している銀行を創立した、シルコフという古い知人に譲ってもらったのである)、村のほうから連れてきた腕のいいコックと、知事との交友と(ネヴェードフスキイは彼の仲間、しかもヴロンスキイの保護を受けている仲間であった)、などであったが、何よりも力があったのは、だれにたいしても分け隔てのない、ざっくばらんな態度で、これが早くも貴族の大多数をして、あいつは高慢だという不当な判断を一変させたのである。彼は自分でも感じていた―― 〔a` propos de bottes〕(藪から棒に)なんの役にも立たないばかげたことを、自分にむかってさんざんいいちらした気違いじみた先生、キチイ・シチェルバーツカヤと結婚したレーヴィンを除いたほか、自分の近づきになったすべての貴族は、一人のこらず自分の味方になってしまった。ネヴェードフスキイの成功が彼の助力に負うところが多いのは、自身もはっきり承知しているばかりでなく、ほかの人々も認めている。で、今もわが家の食卓にむかいながら、彼は自分の推挙した当選者のために、快い勝利感を覚えた。選挙そのものもひどく興味があって、これからさき三年のあいだに結婚したら、自分でも候補に立とうという気さえ起った。それはちょうど、騎手の手柄で賞品を獲得した後、今度は自分がはしってやろうという気を起すのと、同じわけである。
 ちょうど今、騎手の獲得した賞品を祝っている最中であった。ヴロンスキイが食卓の上座に坐り、その右手には、侍従将官である若い知事が座を占めていた。すべての人にとって、これは全県の命令者であり、今日の選挙をはじめるにあたって開会の辞を述べ、ヴロンスキイの見受けたところでは、一同に尊敬と畏怖《いふ》の念をいだかせた人物であるが、ヴロンスキイにとっては、自分の前でもじもじしているので、かえってこちらから 〔mettre a` son aise〕(くつろがせよう)と骨折っている、幼年学校時代の綽名《あだな》に従えば、マースロフ・カーチカにすぎないのである。左手にはネヴェードフスキイが、例の若若しい、確乎不動の、皮肉な顔つきでかけている。ヴロンスキイは彼にたいして、ざっくばらんな、相手の顔を立てるといったような態度をとっていた。
 スヴィヤージュスキイは、自分の失敗を朗かな目で見ていた。それは、彼自身もいったとおり、失敗ですらなかった。彼はシャンパンの杯を挙げて、ネヴェードフスキイにむかい、貴族階級の支持すべき新しい風潮にたいしては、これより以上の代表者は望めない、したがって、すべて廉潔の士は今日の成功の味方であって、それを祝賀しているのである、といった。
 オブロンスキイは、自分も愉快に時をすごせば、みんなも満足しているので、ご同様に大喜びであった。みごとな食事のあいだ、選挙に関する挿話があれこれともちだされた。スヴィヤージュスキイは、旧貴族団長の涙っぽい演説を、おもしろおかしくまねたあと、ネヴェードフスキイにむかって、閣下は涙などよりもっと手のこんだ、在庫金の検査方法を選ばねばなりますまい、と注意した。もう一人の冗談ずきな貴族は、旧貴族団長が舞踏会のために、絹の長靴下をはいたボーイたちを狩り集めたが、もし新団長が絹靴下付の舞踏会を開かなければ、今度はそれをもとへ帰さなければなるまい、といった。
 人々は食事のあいだ、たえずネヴェードフスキイにむかって、「わが県の貴族団長」とか、「閣下」とかいって話しかけた。
 それはちょうど、新婚の女を良人の苗字に『マダム』をつけて呼ぶ、それと同じ満足感をもって、くりかえされたのである。ネヴェードフスキイは、そんな肩書にはなんの興味もないような、またはそんなものを軽蔑しているようなふりをしたが、しかし明らかに彼は幸福であった。そして、みんなの所属している、新しい自由主義的な党派としてあるまじき、有頂天の気持を現わすまいと、手綱《たずな》をしめているらしかった。
 宴会のあいだに、選挙の経過に関心をもっている人々に、幾通かの電報が送られた。オブロンスキイは一杯機嫌になっていたので、ドリイに次のような電報を送った。『ネヴェードフスキイ二十票で当選、祝す、伝言せよ』彼はその文句を口授しながら、「あれたちも喜ばしてやらなくちゃならんからな」といった。ところが、ドリイは電報を受けとると、ただ料金の一ルーブリを思ってため息をついた。そして、これは宴会の終りごろに出したのだなと察した。スチーヴァが宴会の終りに 〔faire jouer le te'le'graphe〕(電報ごっこをする)癖があるのを、彼女はよく知っていたのである。
 なにもかもが、すばらしい食事や、ロシヤ商人の手を通したものでなく、外国で直接びん詰にした酒類とともに、上品でしかもさっぱりして楽しかった。二十人ばかりの一座は、スヴィヤージュスキイが選んだもので、志を同じうする、自由主義的な、新しい活動家であると同時に、それぞれ機智に富んだ、しかもりっぱな紳士ばかりであった。祝杯もやはり冗談まじりで、新任県貴族団長のためにも、知事のためにも、銀行の頭取のためにも、『愛想のいいこの家の主人』のためにも挙げられた。
 ヴロンスキイも満足だった。地方でこんな気持のいい応対に接しようとは、思いがけなかったのである。
 宴会の終りは、さらに愉快になってきた。知事はヴロンスキイに、同胞のための慈善音楽会に出席してくれと頼んだ。それは妻の主催にかかるもので、妻もヴロンスキイと近づきになりたいと望んでいる。
「そのあとで舞踏会があるんだが、君、この町の美人が見られるよ。本当におもしろいんだから」
「Not in my line(僕の畑じゃないがね)」この文句の好きなヴロンスキイはそう答えたが、それでもにっこり笑って、出席を約した。
 もうそろそろ食卓を離れようとして、みんながタバコを吸いはじめたとき、ヴロンスキイの従僕頭が手紙を盆にのせて、彼のそばへ近づいた。
「ヴォズドヴィージェンスコエから急の使が、これを持ってまいりました」と彼は意味ありげな表情でいった。
「あの男が検事補のスヴェンチーツキイに似てること、驚くほどだね」ヴロンスキイが顔をしかめながら手紙を読んでいる間に、客の一人が従僕頭のことを、フランス語でそういった。
 手紙はアンナからきたものであった。彼はまだ読まぬ先から、その中身がわかっていた。選挙が五日間で終るものと予想して、彼は金曜日に帰ると約束したのである。今日は土曜日であったから、手紙の内容は、彼が約束どおりに帰らなかったことを、責めたものに相違ない。彼が昨日出した手紙は、まだおそらく着かなかったのだろう。
 内容は彼の想像したとおりであったが、その形式は思いがけない、彼にとってとくべつ不快なものであった。『アニーがひどく悪くて、医者は肺炎になるかも知れぬと申しております。わたし一人でとほうに暮れております。ヴァルヴァーラ公爵令嬢は頼りになるどころか、かえって邪魔でございます。わたしは一昨日と昨日、お帰りを待っておりましたが、あなたが今どこで何をしていらっしゃるか知りたさに、この使をさし出します。わたしは自分で行こうと存じましたが、それはあなたのお気にさわることがわかっておりますので、考えなおしました。とにかく、何かお返事を下さいまし、どうしたらよいか分別がつきますから』
 赤ん坊が病気だというのに、自分で来ようと思った。娘が病気なのに、この敵意を含んだ調子。
 この当選祝賀の無邪気な楽しい空気と、自分の戻っていかなくてはならぬ重苦しい愛は、そのコントラストでヴロンスキイをぎょっとさせた。しかし、帰らなければならない。で、彼はその夜、間に合いしだいの汽車で出発した。

[#5字下げ]三二[#「三二」は中見出し]

 ヴロンスキイが選挙にむかって出発する前、彼が出て行くたびにくりかえされる痴話場は、ただ男の愛を冷ますばかりで、その心をひきつけることにはなるまいと分別して、アンナはできる限りの努力をして自分をおさえ、心静かに男との別離に耐えようと決心した。けれども、彼が旅行のことをいいに自分のところへ来たときの、あの冷たいきびしい目つきは、彼女に侮辱を感じさせた。で、まだ出発前から、早くも彼女の平静は破れたのである。
 その後ひとりになって、自由にたいする権利を現わすあの目つきを思い返しながら、彼女はいつものごとく、ただ一つの結論、おのれの卑下を意識する気持に到着した。『あの人はいつ、どこへなりと出て行く権利をもっている。ただ出て行くばかりでなく、わたしを残して行く権利なのだ。あの人はいっさいの権利をもっているのに、わたしは一つとしてもっていない。でも、あの人はそれを承知しているんだから、そんなことをしちゃならないはずだわ。それなのに、あの人はなんてことをしたのだろう?……あんな冷たい、厳しい目つきで、わたしを見たじゃないの。もちろん、それはばくぜんとして、はっきりはつかめないけれども、あの目つきにはいろいろの意味がこもっている』と彼女は考えるのであった。『あの目つきは、恋ざめのはじまっている証拠だわ』
 恋ざめがはじまっていると確信はついたものの、彼女としてはなんともしようがなかった、男にたいする関係をどう変えようもなかった。相変らず前と同じように、ただ愛情と美貌で男をひきとめることしかできなかった。以前と同じように、昼は仕事、夜はモルヒネの力によって、もしあの人の愛がさめたらどうしようという、恐ろしい想念を消すばかりであった。もっとも、まだほかに一つ方法があった。ひきとめるのではなく――そのためなら、彼女は男の愛よりほか何一つ望まなかった――男に接近して行くことである。すてられないような境遇になることである。その方法というのはまず離婚、ついで結婚である。で、彼女もそれを望むようになり、当の彼なりスチーヴァがいいだすのを機会に、さっそく承諾しようと肚《はら》を決めた。
 こういう想念をいだきながら、彼女は男の不在ときまった五日間を、一人ですごした。
 散歩、ヴァルヴァーラ公爵令嬢との談話、病院の訪問、それになによりも読書、あとからあとから読みつづけること、それで彼女の時間はつぶされた。けれども、六日目に馭者が、一人だけで帰って来たとき、彼女はもはやどうしても彼のことを考え、彼が何をしているかを考えずにはいられないと感じた。ちょうどそのとき娘が病気したのである。アンナはその看病をはじめたが、それでも気はまぎれなかった。まして危険な病気でないから、なおさらであった。どんなに努力してみても、彼女はこの娘を愛することができなかったし、愛情を装うことは、なお不可能であった。その晩ひとりきりになったとき、アンナは男のことを思うと、恐ろしくてたまらなくなったので、町へ出かけようと決心したが、よく考えなおしたあげく、あのヴロンスキイの受け取った、ちぐはぐな手紙を書くと、読み返しもせず、急の使をさしたてたのである。あくる朝、男の手紙を受け取って、あんな手紙を出したことを後悔した。男が帰って来たとき、ことに女の子が危篤でないと知ったとき、例の出立前に投げたあのきびしい目つきが、もう一度くりかえされるに相違ないと思うと、彼女は恐ろしくなってきた。しかし、それにもかかわらず、彼女は手紙を出したのをうれしく思った。男が自分を重荷に感じていること、哀惜の念をもって、自由を見すてて自分のもとへ帰ってくるに相違ないということを、彼女もみずから認めたのであるが、にもかかわらず、男の帰ってくるということがうれしかった。よし重荷と感じるがいい、そのかわりあの人は自分のそばにいて、自分はあの人を見、あの人の一挙一動を知ることができる。
 彼女は客間のランプの下で、テーヌの新しい著書を手に腰をおろし、外の風の音に耳を傾け、馬車が乗りこんでくるのを、今かいまかと待ちかねていた。幾度も轍《わだち》の音が聞えたような気がしたが、それは空耳《そらみみ》であった。が、とうとう、車輪の音ばかりでなく、馭者の馬を叱する声や、屋根つきの車寄せに響くこもった物音まで聞えた。ひとりカルタをしていたヴァルヴァーラ公爵令嬢までが、それを確かめたので、アンナはかっと赤くなって、立ちあがった。が、その前は二度も行って見たくせに、今度は下へおりようとしないで、そこにたたずんでいた。とつぜん、自分の嘘が恥ずかしくなったのであるが、何よりもいちばん、彼が自分にどんな態度をとるかと思うと、恐ろしくなってきたのである。侮辱感はもはやすぎてしまった。彼女はただ、男の不満の表情が恐ろしかったのである。女の子がもう昨日からすっかり快くなったのを思い出した。むしろ女の子が、ちょうど手紙を出したときに快くなったのが、いまいましいくらいであった。それから、彼がついそこにいることを思い出した。
 手も、目も、何もかも、そっくりした男がそこにいるのだ。彼女は男の声を耳にした。と、なにもかも忘れてしまって、うれしさにわくわくしながら、迎えに駆け出した。
「ええ、どうだね、アニーは?」駆けおりてくるアンナを、下から見上げながら、彼はおずおずした声できいた。
 彼は椅子に腰かけ、従僕が防寒用の長靴を、その脚からひっぱっているところであった。
「大丈夫、だいぶ快くなりましたわ」
「で、おまえは?」と彼は体をひとふりしながらいった。
 彼女は両手に男の手をとって、その顔から目をはなさず、自分の細腰の方へひきよせた。
「いや、たいへん[#「たいへん」は底本では「たへん」]けっこうだ」彼女の髪のかたちから着物まで、冷やかな目で見まわしながら、彼はこういった。自分を迎えるために着替えたものだということは、彼にもわかっていた。
 それらはすべて彼の気に入ったが、しかしいくど気に入ったことだろう! 彼女のあれほど恐れていた、きびしい、石のような表情が、その顔にじっと凍《こお》りついた。
「いや、たいへん[#「たいへん」は底本では「たへん」]けっこう。ところで、おまえは達者かね?」濡れた頤ひげをハンカチで拭いて、女の手を接吻しながら、彼はそういった。
『もうどうだっていいわ』と彼女は考えた。『この人がそばにいてくれさえしたら、そばにいれば、この人わたしを愛さずにはいられない、愛さないなんて、そんな失礼なことはできやしないから』
 その夜はヴァルヴァーラ公爵令嬢も一座して、幸福にたのしくすぎた。公爵令嬢は、アンナが留守のあいだにモルヒネをのんだことを訴えた。
「だってしようがないじゃありませんの? 眠られないんですもの……いろんな考えごとがじゃまをして。この人が家にいらっしゃるときは、わたし決してのみませんわ、まあほとんどね」
 彼は選挙の話をした。アンナは巧みに問い出して、彼を喜ばせている主《おも》なこと、彼の成功に話頭を転じていった。そして、家のほうで彼の知りたそうなことを話した。彼女の報告はどれもこれも、きわめて愉快なことばかりであった。
 しかし、その晩おそく、彼らが二人さしむかいになったとき、アンナはふたたび男の心をしっかり捕えているのを見きわめて、手紙のために男に与えたいやな印象を拭いとりたくなった。で、彼女はこういった。
「ね、白状なさい、あの手紙が届いたとき、あなたはいまいましい気がしたでしょう、本当になさらなかったでしょう?」
 彼女はこれをいうかいわないかに、たちまち悟った。彼がどんなに優しい愛情にみちた気持になっているにせよ、これだけは赦すことができないのであった。
「ああ」と彼はいった。「じつに妙な手紙だったね。アニーが病気だというかと思えば、おまえが自分で来ようと思ったなんて」
「それはみんな本当だったんですもの」
「そうさ、それは僕も疑いはしないかね」
「いいえ、あなたは疑ってらっしゃるんだわ。あなたは不満なのよ、わたしにはちゃんとわかっていますわ」
「いや、これっから先も、ただ僕は不満だね。それは本当だ。つまり、おまえはどうやら義務があるってことを、認めようとしないらしい、そのことなんだ」
「音楽会へ出かける義務ですの?……」
「いや、もういうのをよそう」と彼はいった。
「どうしてよすんですの?」と彼女はいいかえした。
「ただ僕がいいたいのはね、のっぴきならぬ用事もありうるということなのさ。現に今だって、家の用事でモスクワへ行かなくちゃならないんだ……ああ、アンナ、どうしておまえはそういらいらしやすいんだろう? おまえなしには僕は生きていかれない、それがいったいおまえにわからないの?」
「もしそうなら」とアンナは、とつぜんがらりと変った声でいった。「あなたはこの生活を荷厄介に感じてらっしゃるんですわ……だって、あなたはちょっと一日だけ来て、すぐ帰っておしまいになる、ちょうど……」
「アンナ、それは残酷だよ。僕は一生を投げ出す覚悟でいるのに……」
 けれど、彼女は聞いていなかった。
「もしあなたがモスクワへいらっしゃるのなら、わたしも行きます。わたしここに残ってなんかいませんわ。わたしたちは別れてしまうか、それともいっしょに暮すかですわ」
「だって、おまえも知ってるじゃないか、それ一つが僕の望みなんだよ。しかしそのためには……」
「離婚が必要なんでしょう? わたしあの人に手紙を書きますわ。こんなふうでは生きていけないってことが、わたしにもわかりました……でも、モスクワへはいっしょについて行きますわ」
「まるでひとをおどかしてるみたいだね。なに、それはね、おまえと別れないということは、僕の何よりも望むところだよ」とヴロンスキイ[#「ヴロンスキイ」は底本では「ヴロンスキイー」]は微笑しながらいった。
 しかし、彼がこの優しい言葉を口にしたとき、その目に光ったのは単なる冷たさではなく、追いまわされて癇《かん》の立った人間の毒々しい表情であった。
 彼女はそのまなざしを見て、その意味を正確に察した。
『もしそうだと、これは不幸だぞ!』とそのまなざしはいっていた。それはつかのまの印象であったが、彼女はその後けっしてそれを忘れなかった。
 アンナは離婚を哀願する手紙を、良人に書き送った。十一月の末、ペテルブルグへ行く用事のあるヴァルヴァーラ公爵令嬢に別れを告げて、ヴロンスキイとともにモスクワへ移った。毎日毎日、カレーニンの返事と、それにつづく離婚を待ちかねながら、二人はいま夫婦と同じように同棲したのである。
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