『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」3-11~3-15(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]一一[#「一一」は中見出し]

 七月の中旬、ポクローフスコエから二十露里はなれた姉の村の組頭が、農園の状態や草刈りの報告を持って、レーヴィンのところへやってきた。姉の領地のおもな財源は、川添いの草場からあがる収入であった。ずっと以前は、毎年一|町歩《デシャチーナ》二十ルーブリの割で、百姓たちがそこの草を買い取ることになっていたが、レーヴィンが姉の領地の管理を引き受けることになった時、彼は草場を検分して、これはもっと値うちがあると見込みをつけ、一町歩二十五ルーブリという相場を決めた。百姓たちは、それだけの金を出そうとしなかったし、レーヴィンのにらんだところでは、ほかの買手も追っぱらってしまった様子であった。その時レーヴィンは、親しく現場へ乗り出して行って、一部は日雇いで、一部は歩合制度で、草場の刈入れをするよう手配した。村の百姓たちは、この改革を根《こん》かぎり妨害したが、仕事はどんどん進行して、最初の年は、草場のあがりがほとんど二倍に達した。一昨年も去年も、相変らず百姓たちの妨害運動がつづけられたが、取入れは同じ方法で行われた。ところが、今年は三分の一という歩合で、全部の草場を引き受けることになった。で、いま組頭がやってきて、次のような報告をした。草刈りはぜんぶ終了したが、雨のやってくる心配があったので、事務所から番頭を呼んで、その立会の上で分割し、もうご主人の分として十一|禾堆《にお》積み上げた、とのことである。一番大きな草場で、乾草がどれだけ取れたかときかれた時、その返事があやふやであったところからみても、組頭が相談もなしに、あたふたと乾草を分けたところからみても、全体にこの百姓の調子からみても、レーヴィンはこの分配に、何か臭いところがあるなと直覚して、親しく事の審理に出向くことに決めた。
 食事時分に村へ着くと、兄の乳母の亭主で、つねづね懇意にしている老人の家に馬をつないで、レーヴィンは乾草の取入れについて詳細を聞くため、老人のいる養蜂場《ようほうじょう》へ入っていった。品のいい顔をした話好きなパルメヌイチ老人は、大喜びでレーヴィンを迎え、自分のやっている仕事を残らず見せたうえ、自分の蜜蜂や今年の寄りぐあいのことなど、いとも詳細に物語った。しかし、草刈りのことをレーヴィンにきかれると、あいまいなことをしぶしぶ答えるばかりであった。それがますます、レーヴィンの推測を確かめた。彼は草場へ行って、禾堆《にお》を見た。一つ一つの禾堆は五十車ずつもありそうになかった。で、百姓たちの面皮を剥《は》がすために、さっそく乾草運びの荷車を集めさせ、一つの禾堆を起して、小屋へ移すように命じた。移してみると、三十二車しかなかった。組頭は、草がふわふわしているので、禾堆の中で嵩《かさ》が減ったのだと力説し、何から何まで真正直にしたと誓ったが、それにもかかわらず、レーヴィンは自説に[#「自説に」は底本では「自説を」]固執して、自分の命令なしに勝手に分けたのだ。から、この乾草は一|禾堆《にお》五十車として受け取るわけにいかない、といった。長いこと議論したあげく、百姓たちがその十一禾堆を五十車ずつとして、村のほうへ引き取り、地主の分としては新しく分けることに話がきまった。この交渉と禾堆の分配は小昼《こびる》まで続いた。いよいよ最後の乾草を分け終った時、レーヴィンは残った分の分配を番頭にまかせて、楊《やなぎ》の棒でしるしをした禾堆に腰をかけ、人のうようよしている草場をながめはじめた。
 彼の目の前には、小さい沼のむこうにある川の曲り角で、女房どもが朗らかな声で躍やかに、ぺちゃくちゃしゃべりながら、色とりどりな列をつくって動いていた。そして、一面に散らばっている刈草は、見るみるうちに、うす緑の草の上に、灰色の土塁《どるい》のように、えんえんと延びていった。女のあとからは、叉竿を持った百姓たちが進んで、刈草の土塁は幅の広い、ふっくりと高い禾堆に変っていった。もう取り片づけられた草場の左側には、荷馬車の轍の音ががらがらと鳴って、禾堆《にお》は大きな叉竿《またざお》で掻きくずされながら、一つ一つ消えて行き、そのかわりに香りの高い乾草が重い荷車の上に、馬の尻が隠れるほど積まれていった。
「この日和に取り入れたら、ええ乾草ができますべ!」と一人の老人が、レーヴィンのそばに腰をおろして、いった。「まるでお茶だ、――乾草なんていわれやしねえ! まるで家鴨《あひる》に麦粒まいてやったみてえに、あのさっさと拾いあげることはどうでがす!」しだいに高くなっていく禾堆を指さしながら、彼はこうつけ加えた。「昼飯からこっち、けっこう半分がた運んじめえましたよ」
「それでおしめえか、おい?」荷馬車の馭者台に立って、麻の手綱の端をふりふり、そばを通りかかった一人の若い衆に、老人はこう呼びかけた。
「おしめえだよ、父つぁん!」と若者は、馬の手綱を控えながらわめき返すと、にこにこしながら、同じようににこにこ顔で馭者台に腰かけている、赤い頬をした陽気そうな若い女房をふり返って、そのまま先へ追って行った。
「あれはだれだい? 息子かね?」とレーヴィンはたずねた。
「わしの末っ子でごぜえます」と優しい笑顔で老人は答えた。
「いい若い衆じゃないか!」
「なに、できの悪いほうじゃごわせん」
「もう嫁があるんだね?」
「へえ、この間の聖フィリップ祭で、ちょうど三年目でごぜえますよ」
「で、何かね、子供もあるかね?」
「なんの、子供なんか! まる一年の間、なんにもわかんねえでいたくれえでがすもん。それに、わしらが恥を知らせてやりますでな」と老人は答えた。「いやはや、てえした乾草だ! まるで本当の茶に変りなしだ」と彼は話題を変えようとして、こんなことをいった。
 レーヴィンはヴァンカ・パルメノフ夫婦を、気をつけて観察しはじめた。彼らはあまり遠くないところで、乾草を積んでいた。ヴァンカは荷車の上に立って、美しい若女房がはじめは両手にかかえて、あとでは叉竿にのせてさし出す乾草の大きな塊《かたま》りを受け取っては、それをならしたり、踏みつけたりしていた。若女房は軽々と、さも楽しげに、要領よく働いていた。大きく固まっている禾堆《にお》の乾草は、なかなかすぐ叉竿で起せなかった。彼女ははじめ叉竿をつっこんではほぐしたのち、弾力のある素早い動作で、叉竿の上に全身の重みをのしかけ、すぐさま赤い帯を結んだ背をくねらせて体を起すと、白い上っ張りの下からのぞいている白い胸をぐっとつき出して、器用な身のこなしで、叉竿を持った両手を握り変え、乾草の塊りを高々と荷車の上へほうりあげた。ヴァンカは、一瞬間も女房にむだな骨を折らせまいとするもののように、急いで両手を大きくひろげながら、さし出される乾草を受け取っては、それを車の上にひろげるのであった。最後の乾草を叉竿で渡すと、女房は首筋に入ったごみをはらって、日に焼けてない白い額もむきだしにうしろへずれている赤い布《きれ》をなおすと、荷に綱をかけるために、馬車の下へもぐりこんだ。ヴァンカは轅《ながえ》に綱をかけるやりかたを教えていたが、何か女房のいった言葉に、大きな声でからからと笑った。二人の顔には、目ざめてまもない、力強い、若々しい愛が、ありありと見えていた。

[#5字下げ]一二[#「一二」は中見出し]

 荷馬車には綱がかけられた。ヴァンカは車から飛びおりて、よくこえた見事な馬の手綱を取って、曳いてきた。女房は乾草の上へ叉竿をほうりあげて、輪舞《ホロウォード》でもするように集っている女連の方へ、両手をふりながら、元気な足どりで行った。ヴァンカは道路へ出て、ほかの荷馬車の列に入った。女連は叉竿を肩に担ぎ、はなやかな色を輝かし、朗らかな声をにぎやかに響かせながら、車のあとにしたがった。一人の女房が、野性的な感じのする粗《あら》い声で、歌をうたいだした。繰り返しのところまでくると、五十人ばかりの、いろいろさまざまな、あるいはあらあらしい、あるいは細い、あるいは健康な声がいちどきに調子を揃えて、また同じ歌をはじめからうたいだした。
 女房たちは歌声とともに、レーヴィンの方へ近づいてきた。と彼は、喜びの雷気を孕《はら》んだ夕立雲が、頭上におおいかかってくるような気がした。夕立雲はついに襲ってきて、彼をつつんだ。すると、彼の横たわっている禾堆《にお》も、そのほかの禾堆も、遠い野につらなる草場ぜんたいも、――何から何までがいちどきに動きだして、かん高い叫びや、口笛や、はやし声のまじった、この思い切り陽気な、野性味をおびた歌の拍手につれて、揺らぎはじめた。レーヴィンは、この健康な楽しみがうらやましくなり、この喜ばしい生命の表現に参加したくなってきた。しかし、彼は何一つすることができなかった。ただそこに横たわって、見、聞くよりほかなかった。群衆が歌声とともに視界から去り、聴覚から消えた時、おのれの孤独、おのれの肉体的無為、この世界に対するおのれの無縁を思う重苦しい気持が、レーヴィンを捕えたのであった。
 乾草のことでだれよりもいちばん彼と争った百姓、彼が侮辱を与えた百姓、あるいは彼を欺こうとした百姓、――そういう百姓たちが、楽しげに彼に会釈して、彼に対してなんの敵意もいだかず、なんの後悔も感じないばかりか、彼を欺こうとしたことさえ、まるで憶えていないらしい。そんなことはみな、共同の楽しい労働の大海中に没してしまったのである。神はこの一日を与え、神は力を与えた。そして、この一日も力も労働に捧げられ、労働そのものの中に報酬があるのだ。だれのための労働か? その労働の結果はどうであるか? そうした考量は第二義的な、とるに足らぬものである。
 レーヴィンはしばしば、この生活を恍惚として見とれ、この生活を生活している人々に、しばしば羨望の念を感じたものであるが、今日ははじめて、ことにイヴァン・パルメノフ夫婦の関係を見た印象に支配されたため、レーヴィンの頭にはじめて、こういう考えがはっきりと浮んだ。――今まで自分の生きてきた重苦しい無為の生活、人工的で個人的な生活を、あの清らかな美しい共同的な労働の生活に変えるのは、自分一人の意志で自由になることだ。
 いっしょに坐っていた老人は、もうとうに家へ帰ってしまった。群衆も全部ちりぢりになった。近所のものは家へ帰り、遠方のものは草場で食事をし、一夜を明かすために、ひと所に集っていた。レーヴィンは人々に気づかれないまま、やはり禾堆《にお》の上に横たわって、見、聞き、考えつづけた。草場に泊まるために残った連中は、夏の短夜をほとんど寝ずに明かした。はじめの間は、食事しながらの楽しい話し声や、高笑いが聞えていたが、そのうちにまた歌と笑いがひびきはじめた。
 長い労働の一日も、彼らには楽しい気分のほか、なんらの痕跡《こんせき》も残さなかった。東の白みはじめる前に、あたりがひっそりしてきた。耳に入る夜の響きは、沼の中でひっきりなしになき立てる蛙《かえる》の声と、夜明に立ち昇った霧の中で、馬が草場のあちこちに鼻を鳴らす音ばかりであった。
 ふとわれに返って、レーヴィンは禾堆《にお》から起きあがり、星を見上げた時、夜がすぎたのを知った。
『さあ、そこでおれはなんとしたものだろう? どんなふうにやったものだろう?』と彼はひとりごち、この短夜に考え尽したいっさいのことを、自分自身のために表現しようと努めた。彼の考え尽くし、感じ尽くしたいっさいのことは、それぞれ異なる三つの思想の系列であった。第一は、自分の古い生活、なんの必要もない自分の教養を否定することであった。この否定は、彼に喜びをもたらすものであって、彼としては簡単容易であった。第二の思想と空想は、いま彼が生きようと望んでいる生活に関するものであった。彼はその生活の単純さ、清浄さ、合法性を明瞭に感じ、自分が不断に病的なほど渇望している満足と、おちつきと、品位とを、その中にこそ見いだしうるものと確信していた。第三の系列に属する思想は、この旧生活から新生活への転換をいかになすべきか、という問題の上を彷徨《ほうこう》していた。が、そこには何一つ、はっきりしたものが浮んでこなかった。
『妻をもつことだ。労働を、労働の必要をもつことだ。ポクローフスコエを棄てたものだろうか? 土地を買ったものだろうか? 村組合に加入するか? 百姓娘と結婚するか? いったいそれをどんなふうにするんだ』と彼はまた自問したが、答えを見いだすことはできなかった。『もっとも、おれは夜っぴて眠らなかったんだから、自分でも何がなんだか、はっきりしないのだ』と彼はひとりごちた。『あとではっきりさせよう。ただ一つ確かなのは、この一夜がおれの運命を決したことだ。結婚生活に関して以前おれの考えたことは、みんなナンセンスだ、見当ちがいだ』と彼は自分で自分にいった。『それはみんなはるかに簡単で、しかもはるかに優れているのだ……』
『ああ、じつに美しい!』頭の真上の中空にじっとして動かぬ、小羊のような白雲の作りなおしている真珠貝のような奇《あや》しい形をながめながら、彼はこう考えた。『この美しい夜は、見るものがみなじつにすばらしい! あの真珠貝は、いったいいつできたんだろう? ついさっき空を見た時には、たった二つの白い筋のほか、なんにもありゃしなかった。そうだ、ちょうどあれと同じように、おれの人生観も、いつとも知れず変ってしまったのだ!』
 彼は草場を出て、街道づたいに村の方へ歩き出した。軽い風が起って、空は灰色に曇ってきた。たいていいつも夜明け前、闇に対する光の完全な勝利に先立って訪れる、あのうっとうしいひとときがきたのである。
 レーヴィンは寒さに身をちぢめて、地面ばかり見ながら、早足に歩いた。『あれはなんだろう。だれが乗ってくるんだろう?』ふと鈴の音を聞きつけて、彼はこう考えながら、頭を上げた。四十歩ばかり離れたところを、彼の歩いているのと同じ草深い街道づたいに、四頭立ての箱馬車がむこうから来ていた。轅《ながえ》につけられた二頭の馬は、轍《わだち》の跡を避けて、轅にくっついてしまったが、馭者台の上に横坐りに掛けていた馭者は、巧みに轅を轍の跡に沿って向けなおしたので、車はまたなめらかに走り出した。
 レーヴィンは、ただそれだけのことに気がついたばかりで、だれが乗っているかということなどは考えもせず、ぼんやりと箱馬車の中を見やった。
 馬車の中には、一人の老婦人が片すみでまどろんでおり、窓ぎわにはたったいま目をさましたばかりらしい若い令嬢が、白い室内帽のリボンを両手に持って坐っていた。レーヴィンには縁のない、優美で複雑な内部生活にみちた、明朗な感じのするこの令嬢は、物思わしげな風情で、彼の頭を越して、日の出前の空焼けを眺めていた。
 この幻影がもはや消え失せたそのせつな、真実みのこもった二つの目が、彼をちらっと見た。彼女は、彼がだれであるかに気がついた。と、驚異の喜びが彼女の顔を照らした。
 彼は思い違いなどするわけがなかった。あの目はこの世にたった二つしかありはしない。彼のために、生活のすべての光と意味を集中する力をもった人は、この世にただ一人しかいない。それは彼女であった。キチイであった。彼女は鉄道の停車場から、エルグショーヴォヘ行くところなのだ、と彼は悟った。すると、この寝られぬ一夜に、レーヴィンを興奮させたいっさいのもの、彼のとったいっさいの決意、――なにもかもかせつなに消えてしまった。彼は百姓娘と結婚しようなどと空想したことを思い出して、嫌悪の念を覚えた。あそこに、見るみる遠ざかりながら、道路の反対側へ移るあの箱馬車の中――、ただあの中にのみ、最近あれほど悩まし苦しめた生活上の謎《なぞ》を解決する鍵があるのだ。
 彼女はもうそれきり顔をのぞけなかった。車の発条《ばね》の音は聞えなくなって、ただ鈴の音ばかりがかすかに響いてくる。犬のほえ声は、馬車が村を通り抜けたことを示した、――まわりにはただがらんとした野原と、前方の村と、それから荒れた街道をただ一人進んで行く、いっさいのものに縁のない、孤独な彼自身がとり残された。
 先ほど見とれたかの真珠貝を見いだそうと思って、彼は空をふり仰いだ。それは彼にとって、昨夜の思想と感情の動きを、ぜんぶ象徴するものであった。が、空にはもう真珠貝に似たものは、何一つなかった。そのはかり知れぬ高みでは、すでに神秘な変化が成就されていた。そこには真珠貝など痕形《あとかた》もなく、たいらな毛氈《もうせん》が一枚、半空ぜんたいにひろがって、小羊のような模様は、先へ行くほどしだいに小さく、小さくなっていく。空は淡いコバルト色に輝きはじめた。そして、彼の物問いたげなまなざしに対しては、依然たる優しみを示しながらも、しかし依然として近より難い厳しさをもって応《こた》えるのであった。
『いや』と彼はひとりごちた。『あの単純な労働生活がどんなにいいからって、もうそこへ戻ることはできない。おれは彼女[#「彼女」に傍点]を愛している』

[#5字下げ]一三[#「一三」は中見出し]

 カレーニンに最も近い人々を除いてはだれ一人として、この一見して冷静な、分別に長《た》けた男が、その性格の全体の傾向と矛盾する一つの弱点をもっていることを、知るものはなかった。カレーニンは、子供や女が泣くのを、平気で見たり、聞いたりすることはできないのであった。涙を見ると、途方にくれたような気持になり、物事を考え合わす力を失ってしまう。彼の事務主任や秘書官は、そのことを知っていたので、婦人の請願者に向って、もし事をぶちこわしたくなかったら、決して泣いてはいけないと、あらかじめ注意したものである。「閣下は腹をおたてになって、あなたのいうことをお聞きになりはしませんよ」と彼らはいって聞かすのであった、事実、こういう場合、涙のためにひき起されるカレーニンの心の乱れは、性急な憤怒《ふんぬ》となって現われた。「私は何もするわけにはいきません。とっとと帰って下さい!」そういった場合、彼はたいていこんなふうにどなったものである。
 競馬からの帰り途、アンナが自分とヴロンスキイの関係を声明したのち、いきなり両手で顔をおおって泣き出した時、カレーニンは妻に対する憎悪が湧き起ったにもかかわらず、それと同時に、いつも涙に呼びさまされる心の乱れが、潮のようにさしてくるのを感じた。自分でもそれを承知し、またこの瞬間の自分の感情表現が、事態にふさわしくないことを承知していたので、彼は自分の内部の生命感の表出をいっさいせきとめ、したがって、身じろぎもしなければ、妻の方を見ようともしなかった。こういうわけで彼の顔には、かのアンナをぎょっとさした、奇怪な、死人のような表情が浮んでいたのである。
 別荘へつくと、彼は妻を馬車からおろし、しいて自らおさえながら、いつもの慇懃《いんぎん》な態度で別れを告げ、例のなんらおのれを束縛しない言葉を発した。明日、自分の決心を知らせるから、といったのである。
 最悪の疑惑を裏書きした妻の言葉は、カレーニンの心に無慚《むざん》な苦痛を与えた。この苦痛は、妻の涙が呼び起したふしぎな肉体的憐愍感のために、いっそう強められたのである。しかし、馬車の中で一人きりになると、カレーニンはその憐愍の情からも、最近しじゅう彼を苦しめていた嫉妬の疑惑や苦しみからも、完全に解放されているのを感じて、驚きながらも、同時にうれしかった。
 彼は、長いこと痛みつづけていた歯を、ひと思いに抜いた人のような気持を経験した。恐ろしい苦痛と、何かしら巨大な、頭よりも大きなものを、頤《あご》からひっこ抜かれるような感じを覚えたのち、病人は突如として、あれほど長く自分の生活を毒し、いっさいの注意を釘づけにしていたものが、もはや存在しなくなったのを感じ、これからまた生活し、考え、自分の歯以外のものにも興味をいだきうることを知って、いまだに自分の幸福を信じることができないでいる。この感じをカレーニンは経験したのである。その苦痛はふしぎな、恐ろしいものではあったけれども、今はそれをすぎてしまった。彼は、自分がふたたび生活することができ、妻以外のことも考えることができるのを直感した。
『恥も知らなければ、真心も宗教もない堕落した女だ! おれは前からそれがわかっていた。あれをかわいそうに思って、自分で自分を欺こうと努力してはいたが、前からそれはちゃんとわかっていたのだ』と彼は自分で自分にいって聞かせた。すると、本当に前からそれを見抜いていたような気になった。以前べつだん悪いとも思われなかった過去の夫婦生活を、こまかい点まで思い起しはじめた。すると、今ではこれらのデテールが、あれは前から堕落女だったということを、明らかに証明するのであった。
『あの女と生涯を結びあわしたのは、おれのまちがいだった。しかし、おれの誤りには何一つ悪いことはない、だからおれは不幸者になるわけにいかん。悪いのはおれじゃなくて』と彼は考えた。『あいつなのだ。しかし、あんな女はおれになんの用もない。あいつはおれにとって存在しておらんのだ』
 彼女と息子に襲いかかったいっさいのことは(この息子に対しても彼の感情は、妻に対するものと同様に、がらりと一変してしまった)、もはや彼の興味をひかなくなった。いま彼の心を占めている唯一のものは、どうしたら一番うまく、世間体《せけんてい》よく、自分に都合のいいように、したがって最も公平に、妻の堕落によってひっかけられた泥をはらい落し、廉潔で有益な活動的生活の歩みをつづけることができるか、という問題であった。
『卑しむべき女が罪を犯したからといって、そのためにおれが不幸になるわけにいかん。ただおれは、その女のために立たされた苦しい立場からぬけ出す、最善の方法を発見してみせるとも』と、彼はしだいに深く眉をひそめながら、考えるのであった。『こんなことはおれがはじめてでもなければ、また最後でもないのだ』
 すると、美しきエレーナ[#「美しきエレーナ」に傍点]によって、万人の記憶に新たな、メネラスを筆頭とする歴史的の事例はいうまでもなく、上流社会に起った良人に対する妻の不貞の例が、あとからあとからカレーニンの想像に浮びあがった。
『ダリヤーロフ、ポルターフスキイ、カリバーノフ公爵、パスクージン伯爵、ドラム……そう、ドラム……でさえも……あれほど潔白有為な人物でも……セミョーノフ、チャーギン、シゴーニン』とカレーニンは思い浮べるのであった。
『それはまあ、かりに、何かしら不合理な ridicule(奇怪事)が、ああいう人たちの頭上に降りかかったのだとしても、おれはその中に不幸より以外なにものをも見ようとせず、彼らに同情をいだいたものだ』とカレーニンは考えた。もっとも、それは本当のことでなく、カレーニンはかつて一度も、この種の不幸に同情したことがなかった。そして、良人にそむく妻の実例が多ければ多いほど、いよいよ高く自分というものを評価していたのである。『これはどんな人間にも降りかかる可能性のある不幸なので、その不幸が、おれに降りかかったわけだ。ただ問題は、どうしたら一番ぐあいよくこの状態をしのいでいけるかだ』彼は自分と同じ状態におかれた人々の行動を、いちいちくわしく点検しはじめた。
『ダリヤーロフは決闘をやった……』
 決闘ということは、若いころ、カレーニンの心を特につよくひきつけたものである。というのは、彼が肉体的に臆病な人間であって、自分でもそれをよく承知していたからである。カレーニンはピストルの銃口《つつぐち》が自分の方へ向けられた場合を、恐怖の念なしに想像することができなかった。それに、これまで一度も、いかなる武器をも使用したことがなかった。この恐怖心が若いころからしばしば、彼に決闘ということを考えさせ、おのれの生命を危険にさらすような状態を想像せしめたのである。官界に成功して、この人生に確乎たる位置を獲得してからというものは、彼も久しくこの感情を忘れていた。しかし、結局、感情の習性が勝利をしめて、自分の臆病心に対する恐怖が、今なおきわめて根強かったので、カレーニンは決闘という問題を長い間、あらゆる角度から検討し、心の中で愛撫しつづけた。そのくせ、どんなことがあっても、決闘などしないということを、自分でも前から承知していたのである。
『疑いもなく、ロシヤの社会はまだ相当に野蛮だから(イギリスなどとは比較にならん)、きわめて多数のものが(このきわめて多数のものの中には、カレーニンが特に尊敬して、その意見に傾聴しているような人々も含まれていた)、決闘というものを是《ぜ》とするだろうが、しかし決闘によってどんな結果がえられるというのだ? かりに、おれが決闘を申しこむとする』とカレーニンは肚《はら》の中で考えつづけたが、自分が挑戦状を発したあとにすごすべき一夜と、自分の方へ向けられたピストルをまざまざと想像したとき、彼は思わずぴくりっとした。そして、自分にはそんなことは金輪際《こんりんざい》できない、ということを悟った。『かりに、おれが決闘を申しこむとしよう。かりに、おれはやりかたを教えられて』と彼は考えつづけた。『定めの位置に立たせられ、引金をひくとしよう』と彼は目を閉じながらひとりごちた。『そして、結局、おれがあいつを殺したとしたところで』とカレーニンはいったが、この愚かしい想像を追いのけようとでもするかのごとく、頭を左右にふった。
『罪を犯した妻と、わが子に対する態度を決定するために、殺人ということがどんな意味をもつのだ? あの女に対してとるべき処置も、やっぱりそうした方法で決めなければならんのだろうか? しかし、それよりもっと確かな疑いのない事実は、おれが殺されるか、負傷するかということだ。なんの罪もない人間、単なる犠牲にすぎないおれが、殺されたり負傷したりする。こいつはもっと無意味だ。のみならず、おれのほうから決闘を申しこむのは、潔白を欠く行為となるだろう。友だちが決しておれにそんなことをさせないのは、前からわかりきっているじゃないか、――ロシヤにとって必要な国家的名士の生命が危険にさらされるのを、みんなうっちゃっておくはずがないじゃないか。で、いったいどうなるのだ? ほかでもない、事件が生命の危険というところまでいかないのを、前もって承知していながら、この挑戦によって自分に一種虚偽の光彩を添えようと考えたにすぎない。これは潔白を欠く偽りの行為だ、これは他人をも、また自分自身をも欺くことになる。決闘なんて考えることもできない、それに、だれもそんなものをおれから期待してはいない。おれの目的は、自分の活動を支障なくつづけるのに必要な名声を、安全に保証するということなんだ』以前からカレーニンの目に大きな意義を有していた勤務活動が、今では彼にとって、特に重大なものに考えられるのであった。
 決闘という問題を検討して、これを否定すると、カレーニンは離婚という問題をとりあげてみた。これは、彼の思い浮べた世の良人たちの幾人かが選んだ第二の方法なのである。自分の知っている離婚の場合を、ことごとく記憶の中で点検してみたが(それは、彼の熟知している最上流の社会では、非常な多数にのぼった)、しかしカレーニンは、自分と同じ目的で離婚した例を、一つとして発見することができなかった。どの場合をとってみても、良人は妻を譲るか売るかしており、一方、犯した罪のために結婚する権利をもたぬ相手方は、似て非なる法律に保護されて、似て非なる良人と虚構の関係に入っていくのである。さて自分の場合としてみると、カレーニンは合法的な離婚、すなわち罪を犯した妻が社会から斥《しりぞ》けられるような離婚の目的を達することは、不可能なのであった。彼のおかれている複雑な生活条件が、妻の犯罪を明らかにするために法の要求している、粗野な事実の証明を不可能にしているのを、カレーニンは認めざるをえなかった。よしんばそういう証拠があっても、この生活の有する特殊の洗練された性格が、その証拠の適用を許容せず、もしそれを適用すれば、彼は彼女以上に、社会的に信用を失墜する、それが彼にはわかっていた。
 離婚の試みは、ただ不体裁な裁判事件となって、敵のためにはもっけの儲《もう》けものとなり、誹謗《ひぼう》の種となり、彼の占めている高い社会上の地位を傷つけるにすぎない。肝心な目的は、――混乱を最小限度にとどめて事態を決定することは、離婚の方法によっても達することができなかった。のみならず、離婚してしまえば、いな、単に離婚の試みをしてさえも、妻が良人との関係を絶って、情夫と結びついてしまうのは、明瞭な話である。ところが、カレーニンはいま妻に対して、完全に侮蔑と無関心の態度をとっている(と彼には思われた)にもかかわらず、心の底のほうでは、彼女がなんの障碍もなくヴロンスキイと結びついて、その犯罪が彼女のためにかえって有利になるのを、望まない気持が強かった。ちょっとこのことを考えただけでも、カレーニンは気持がいらいらしてきて、それを心に描いてみるが早いか、内心の痛みに思わず呻《うめ》き声をたて、馬車の中で体を起し、席を変えたほどである。彼はその後も長いこと渋い顔をしながら、冷えやすい骨っぽい足を、毛のむくむくした膝掛でくるむのであった。
『正式の離婚以外にも、まだカリバーノフや、パスクージンや、あの善良なドラムがとったような方法もある。つまり、妻と別居するのだ』ややおちついてから、彼は考えつづけた。しかし、この方法も離婚の場合と同様に、醜聞をつくるという不便を伴っていたし、それにだいいち、――やはり正式の離婚の場合とおなじく、妻をヴロンスキイの抱擁に投じることになるのであった。
『いや、それは不可能だ、不可能だ!』またもや膝掛をひっくり返しながら、彼は大きな声でこういった。『おれは不幸になるべきでないし、彼女と彼は幸福であってはならんのだ』
 真相の不明であった時に彼を苦しめていた嫉妬感は、妻の言葉によって、苦痛とともに抜歯された瞬間、消えてしまった。が、この感情は別のものに取って代られた。それは彼女が凱歌《がいか》を奏したりしないばかりか、おのれの罪に対する報いを受けるように、という願望であった。彼はこの感情を自認しなかったけれども、心の深い奥底では、彼女が良人の平安と名誉を傷つけた罰として、苦しめばよいと望んでいたのである。こうして、決闘、離婚、別居の条件を、もう一度こころの中で点検して、ふたたびそれらを否定したのち、解決の法は一つしかないと確信した、――今度の出来事を世間から隠して妻をこれまでどおり手もとへおき、それと同時に、二人の関係を絶つこと、何よりも第一に、――これは自分でも自認しなかったことであるが、――妻を罰するために、及ぶ限りの方法を講じることであった。
『おれは自分の決意を言明しなくちゃならん、――あれのために家族の陥った困難な状態を熟慮した結果、いっさいの他の方法は、外面的 statu quo(現状維持)に比べて、双方のためにならんから、おれは後者を選ぶことに同意する。ただし、あれがおれの意志を実行する、すなわち情夫との関係を絶つという、断乎たる条件を付けるのだ』この決定がいよいよ最後的に採用されたとき、それを裏書きするような重大な考量が、さらに一つカレーニンの頭に浮んできた。『この決心をしたときにのみ、おれは宗教にも一致した行動をとることになるのだ』と彼はひとりごちた。『この決心をしたときにのみ、おれは罪ある妻を斥けないで、改悛《かいしゅん》の可能を与えるのだ。それどころか、――これはおれにとって苦しいことではあるけれど、――この改悛と救いのために、自分の力の一部を捧げることにしよう』
 カレーニンは、自分が妻に対して精神的感化力を有しえないから、したがって、この改悛の試みからは虚偽以外なんの結果も生じない、ということを承知していたし、またこの苦しい瀬戸ぎわに、宗教に啓示を求めようなどとは、一度も考えたことがなかったにもかかわらず、いま彼の決定が宗教の要求と一致したと思うと、この宗教の与える裁可《サンクション》が、彼に十二分の満足と、ある程度のおちつきをもたらしたのである。これほど重大な生活上の事件に遭遇したとき、社会一般の冷淡と無関心のただ中にあって、彼が常に高々と旗幟《きし》を掲げてきた、その宗教の掟に反する行為をとったとは、よもやだれもいうものはあるまい。そう考えると、彼はうれしくてたまらなかった。それから、なおつづいて、いろいろとこまかい点を思いめぐらしているうちに、カレーニンは自分と妻の関係が、これまでとほとんど同じものではありえないという理由が、わからないほどになってしまった、疑いもなく、彼は二度と再び、妻に対する尊敬をとり戻すことはできないだろうが、しかし彼女が悪い女であり、不貞の妻であったがために、彼が自分の生涯をめちゃめちゃにして、苦しまなければならぬという理由は少しもないし、またありえなかった。
『なに、そのうちしばらくすると、時がいっさいのものをうまくおさめてくれる、そうすれば、以前どおりの関係が復活するだろう』とカレーニンは考えた。『つまり、おれが自分の生活の流れに不都合を感じない、その程度には復活するだろうよ。あれは不幸になるのが当然だが、おれはなんの罪もないんだから、おれが不幸になるわけにはいかん』

[#5字下げ]一四[#「一四」は中見出し]

 ペテルブルグの街へ近づくにつれて、カレーニンはこの決定を動かすべからざるものと考えたばかりでなく、妻に与える手紙の文句まで、頭の中で組み立てたほどである。玄関番の部屋へ入って、本省から届けられた書類や手紙に目を走らせると、あとから書斎へ持ってくるように命じた。
「馬を車から放しておけ、そしてだれも通さんようにな」玄関番の問いに答えて、一種の満足感さえ表わしながら、『通さんように』という言葉に力を入れていった。これは彼のきげんがいいことを証明する徴候なのであった。
 書斎へ入ると、カレーニンは二度ばかり部屋の中を往復して、もう先に入ってきた従僕が、蝋燭を六本ともしていった大きな仕事テーブルのそばに立ちどまり、指をぽきぽき鳴らして、文房具をいじりながら腰をおろした。テーブルの上に両肘《りょうひじ》ついて、頭を横にかしげ、ちょっと考えたのち、それから寸時もペンを止めずに書きはじめた。彼は最初の宛名を書かず、フランス語で手紙を認めた。フランス語の vous(あなた)は、ロシヤ語の v’i ほどの冷たさをもっていないからである。

『最後の話合いの際、私はあの話合いの内容に関する自分の決定を伝えるという意向を、あなたに洩らしておきました。すべてを慎重に考慮したうえ、いま私はこの約束を実行する目的で筆をとりました。私の決定は次のとおりです。あなたの行為がいかようなものであるにもせよ私は神の権力《ちから》によって結ばれた絆《きずな》を破る権利が自分にあろうとは考えられません。家庭は夫婦の一人の気まぐれや、わがままや、いな、それどころか犯罪によってすら、破壊さるべきものではありません。したがってわれわれの生活は従前どおりに続けられるのが当然です。それは私にとっても、あなたにとっても、私たちの子供にとっても必須《ひっしゅ》であります。今あなたは、その手紙の原因となった事実について、悔悟されたこと、悔悟されつつあるものと確信します。あなたはわれわれの不和の原因を根絶し、過ぎ去ったことを忘れるために、私に協力して下さることを信じてやみません。さもなくば、何があなたとあなたの子供を待ちもうけているかはあなた自身たやすく想像しうるところであります。これらいっさいについては、面晤《めんご》の節、さらに詳しく相談しうるものと庶幾《しょき》する次第です。もはや別荘生活の季節も終りに近づいたことゆえ、できるだけ早く、火曜日までにペテルブルグへ帰ってもらいたいと思います。あなたの引越しに必要な処置は、残らずしておきます。注意しておきますが、私はこの希望の実行に、特殊の意識を賦与《ふよ》しているのです。
[#地から1字上げ]A・カレーニン
 二伸 あなたがたの経費として必要と想像される金を、この手紙に同封します』

 彼は手紙を読み返してみて、そのできばえに満足した。ことに、金を封入することを思いついたのが大出来であった。そこには残忍な言葉づかいもなければ、非難や叱責もないが、さればといって、下手《したで》に出たようなところもない。肝要なのは、妻の帰宅のために黄金の橋を渡すことである。手紙を畳んで、大きなどっしりした象牙紙切りナイフで、押しをつけ、金といっしょに封筒へ入れると、いつもよく整頓のできた文房具を扱うときに感じる満足感をいだきながら、ベルを鳴らした。
「これを小使に渡して、明日、別荘のアンナ・アルカージエヴナにお届けするようにいってくれ」といって、彼は立ちあがった。
「かしこまりました、閣下。お茶はお書斎のほうへお持ちいたしましょうか?」
 カレーニンは茶を書斎へ持ってくるように命じ、例のどっしりした紙切りナイフを玩具《おもちゃ》にしながら、肘椅子の方へいった。そこにはランプと、読みかけのフランス語の本が用意してあった。それはエジプトの象形文字《しょうけいもじ》に関するものである。その肘椅子の上に、有名な画家の手でみごとに描かれたアンナの肖像が、楕円形の金縁《きんぶち》に納められてかかっていた。カレーニンはなにげなくそれを見上げた。浸透することを許さないような二つの目が、最後の話合いをしたあの晩のように、傲慢な嘲るような表情で、彼を見おろしていた。画家の筆で巧みに描かれた頭の上の黒レース、黒い髪、薬指に指輪をいっぱいはめた白い美しい手などを見ていると、カレーニンは堪え難いほどずうずうしい挑戦の印象を受けた。カレーニン肖像画をちらと見上げると、唇が躍《おど》って『ブルル』という音を立てたほど、はげしい身ぶるいをして、顔をそむけた。
 彼は大急ぎで肘椅子に腰をおろし、書物をひろげた。続きを読もうとしたけれど、どうしても以前のような、象形文字に対するあの熱心な興味を、よみがえらすことができなかった。彼は本を見ながら、ほかのことを考えているのであった。しかし、彼が考えたのは妻のことではなく、最近かれの政治活動に生じた面倒な事情で、これが近ごろの彼にとって、勤務上のおもな興味を形づくっていたのである。彼は今いつにも増してこの事件の核心《かくしん》に徹して、すばらしい考えが頭に浮かんだように感じた。この案こそは問題ぜんたいを解決して、政界における彼の位置を高め、敵を失脚させ、したがって国家に大なる利益をもたらすに相違ないとは、彼もうぬぼれぬきに断言しうるところであった。従僕が茶道具を調えて、部屋を出ていくやいなや、カレーニンは仕事テーブルヘいった。当面の問題をおさめてある折カバンを、まんなかへ引きよせると、あるかなきかの自己満足の微笑を浮べながら、筆立てから鉛筆をぬき取って、今日とりよせてきた面倒な事情に関する書類に読みふけりはじめた。面倒な事情というのはこうであった。政治家としてのカレーニンの特質、すぐれた官僚ならだれしもそなえている個人的な特質、根強い名誉心や、控えめな態度や、廉潔や、自信などとともに、彼をして今日の栄達をなさしめた特質は、ほかでもない、官省式の書類万能主義を蔑視して、往復文書を簡略化し、できうる限り生きた事件に直接ぶっつかって、金と時間と労力を節約することであった。ところが、たまたま有名な六月二日の委員会で、ザライスキイ県の耕地|灌漑《かんがい》の件が問題となった。これはカレーニンの省の管轄で、予算の浪費と事に対する文書的取扱いを代表する絶好の例であった。カレーニンは、問題になるのが当然だということを心得ていた。ザライスキイ県の耕地灌漑事業は、カレーニンの先任の先任によって着手されたが、事実この事業には莫大《ばくだい》な金が支出され、現在も支出されつつあるが、全然効果があがらず、この事業自体がなんの結果をももたらさないのは、明らかであった。カレーニンは就任とともに、すぐさまその点を洞察して、これに大|斧鉞《ふえつ》を加えようと思った。しかし、最初、彼は自分の地位がまだ鞏固《きょうこ》でないのを感じていたので、あまりに多くの人の利害にふれるこの事業に手をつけるのは、賢明[#「賢明」は底本では「腎明」]な策ではないと考えた。それからしばらくするうちに、ほかの仕事に忙殺されて、この問題をころりと忘れてしまった。で、灌漑事業はすべてのお役所仕事と同様、自然に惰力で進行していた(多数の人々がこの事業で食べていたが、ことにあるきわめて謹厳な、同時に音楽好きな家族などは、その最《さい》たるものであった。この家の娘はみんな弦楽器を弾いた。カレーニンはこの家族を知っていて、上の娘の一人の名付け親にさえなったほどである)。この事業を敵対派の省が問題にしたのは、カレーニンにいわせると、卑怯なやりかたなのである。なぜなら、どの省にも、これどころかもっとひどいことがあるのだけれど、周知のごとき役人どうしの仁義によって、だれも問題を起さないのである。しかし、すでに手袋を投げつけられた今となっては、彼は敢然《かんぜん》とそれをとりあげて、ザライスキイ県耕地灌漑委員会の仕事を研究し、検討するために、特別委員会の制定を要求したが、そのかわり、これからはもう相手がたの連中に対しても、いっさい容赦しないことにした。彼は異民族厚生の件についても、さらに特別な委員会の制定を要求した。異民族厚生の問題は、偶然六月二日の会議で提起されたのであるが、カレーニンは国内の異民族が悲惨な状態にあるのを理由として、猶予することのできない緊急事業と見なし、熱心に支持しはじめた。委員会ではこの問題が、二三の省の抗議の原因となった。カレーニンと敵対関係になる省は、異民族の状態はすこぶる良好であって、いま予想されている改革は、かえってその繁栄を滅ぼすおそれがある、もし何か良からぬことがあるとすれば、それはただカレーニンの省が、法律の命じた施設を実行しない結果である、と論証した。そこで今カレーニンは、次の要求を提出しようと考えた。第一、新しい委員会を組織して、これに異民族の現地状態の調査を委嘱《いしょく》すること、第二、もし異民族の状態が、真に委員会の手中にある公文書の示すごときものであるならば、異民族のかかる悲しむべき状態を招致した原因探究のため、別箇に新しい学術委員会を組織すること。なおその研究は、[#「(a)」は縦中横]政治的、[#「(b)」は縦中横]行政的、[#「(c)」は縦中横]経済的、[#「(d)」は縦中横]人種学的、[#「(e)」は縦中横]物質的、[#「(f)」は縦中横]宗教的見地より行うこと。第三、現在異民族の置かれている不利な条件を防止するために、敵対派の省が過去十年間にいかなる方策をとってきたかについて、該省《がいしょう》から報告を求めること。第四、最後に、何ゆえ該省は、委員会に提出された報告、すなわち一八六三年十二月五日付第一七〇一五号、および一八六四年六月七日付第一八三〇八号の示すごとく、法令集第*巻第十八条および第三十六条ただし書きの根本精神に反するごとき行動をとったかについて、該省から説明を求めること。こういった行動案の概要をさらさらと書き留めていったとき、カレーニンの顔は活気に赤らんできた。一枚の紙にびっしり書き終ると、彼は椅子から立って、ベルを鳴らし、必要な事項を調査して届けるようにという手紙を、自分の事務主任に渡した。立って部屋をひとまわりしたのも、彼はまた肖像画を見上げ、眉をひそめて、さげすむようににたりと笑った。象形文字に関する書物を少し読んで、以前の興味をとり戻すと、カレーニンは十一時に寝室へおもむいた。床の中に身を横たえながら、妻の事件を思い起した時、もうそれはさほど暗澹《あんたん》たるものとは思われなかった。

[#5字下げ]一五[#「一五」は中見出し]

 ヴロンスキイがアンナに向って、彼女の位置があるまじきものだといい、いっさいを良人に打ち明けるべきであると説いた時、彼女は執念《しゅうね》くやっきとなって反対したけれども、心の底では自分の位置を虚偽なもの、潔白を欠いたものと感じ、しん底からそれを一変したいと願っていた。良人といっしょに競馬から帰る途で、彼女は興奮にまかせて、なにもかもいってしまった。そして、そのとき心の痛みを覚えはしたものの、そうしたことを喜んだ。良人が彼女を残して行ったあと、彼女はこれでなにもかもはっきりしてうれしい、少なくとも虚偽や偽りはなくなるわけだ、と自分で自分にいって聞かせた。彼女は、もう今度こそ自分の位置が永久に決定する、とそういう気がしたのである。その新しい位置はよくないかもしれないが、そのかわりはっきりして、そこにはあいまいさも虚偽もなくなるのだ。あの言葉を発することによって、彼女が自分と良人にあたえた苦痛は、今後いっさいが決定するということで償われるのだ。こう彼女は考えた。その晩、彼女はヴロンスキイに会ったけれども、自分と良人とのあいだにあったことを男に話さなかった。しかし、自分の位置が決定するには、話さなければならなかったのである。
 翌朝、目をさました時、第一に彼女の頭に浮んだのは、彼女が良人にいった言葉であった。その言葉はあまりにも恐ろしいものに思われたので、今となってみると、どうしてああいう奇怪な乱暴な言葉を口にすることができたか、われながら合点がいかなかったし、またその結果がどうなるか、想像もつかないほどであった。しかし、ともあれあの言葉はすでに口から発せられ、カレーニンはなんにもいわずに行ってしまった。
『わたしはヴロンスキイに会いながら、あの人にその話をしなかった。あの人が出て行こうとした時、わたしは呼び返して話そうかと思ったのだけれど、なぜいちばんはじめにいわなかったのかと、変に思われそうな気がしたものだから、また考えなおしてしまった。いったいどうしてわたしは話そうと思いながら、いわないですましたのだろう?』
 この問いに対する答えのように、燃えんばかりの羞恥のくれないが、彼女の顔にひろがった。彼女は自分をひき留めたのがなんであるかを悟った、つまり、自分は恥ずかしかったのだと悟った。つい昨日の晩はっきりしたように思われた自分の位置が、今となってみると、はっきりしていないどころか、逃げ道がないもののように感じられた。これまで考えもしなかった恥さらしということが、急に恐ろしくなってきた。良人がどうするだろう、とただそう考えただけでも、このうえもない恐ろしい想像が彼女の頭に浮んだものである。今にも執事がやってきて、自分を家から追い出す、すると自分の恥が世界中へ吹聴《ふいちょう》される、そんな考えも浮んできた。もし家を追い出されたら、いったいどこへ行ったものだろう、と彼女は自問したが、答えを見出すことはできなかった。
 ヴロンスキイのことを考えると、彼はもう自分を愛していず、かえって自分を荷厄介にしているので、この男に自分を捧げようにも、捧げるわけにいかぬだろうと思われ、そのため彼に対して敵意を感じる始末であった。またこんな気もした、――彼女が良人にいった言葉、彼女がいま自分の心の中でたえず繰り返している言葉は、良人ばかりかみんなにいってしまったので、だれもかれもそれを聞いたに違いない。で、彼女はいっしょに住んでいる人たちの顔を、思い切って見る勇気がなかった。小間使を呼ぶ気力もなかったばかりか、階下《した》へ降りて、わが子や家庭教師の顔を見るなどということは、なおさら思いもよらなかった。
 もうだいぶ前から戸口で聞き耳を立てていた小間使は、自分のほうから彼女の部屋へ入ってきた。アンナは物問いたげに、ちらとその目を見たが、おびえたようにさっと顔を赤らめた。小間使は入ってきた詫《わび》をいい、ベルが鳴ったような気がしたので、と言い訳した。彼女は着物と、ベッチイの手紙を持ってきたのである。ベッチイは今朝自分のところへ、リーザ・メルカーロヴァと、シュトルツ男爵夫人が、崇拝者のカルージュスキイとストレーモフ老人を伴って、クロケットの競技に集ってくることになっているから、そのことで彼女に念をおしているのであった。『せめて人情研究の意味ででもいらして下さいな。お待ちしています』と彼女は結んでいた。
 アンナは手紙を読み終って、重々しくため息をついた。
「なんにも、なんにもいらないよ」と化粧机の上のピンや刷毛を、おきなおしているアンヌシカに向って、彼女はこういった。「行ってもいいよ。わたしすぐ着替えをして、出て行くから。なんにも、なんにもいらない」
 アンヌシカは出ていった。が、アンナは着替えをしようともせず、頭《こうべ》をたれ、両の手をだらりと下げたまま、同じ姿勢でじっと坐っていた。時おり、何かの身ぶりをし、何かいおうとするかのように、全身をぴくりとふるわせたかと思うと、また不動の姿に返るのであった。彼女はひっきりなしに、『ああ、神さま! ああ、神さま!』と繰り返していたが、『ああ』も『神さま』も彼女にとってなんの意味ももっていなかった。自分の状態に宗教の助けをかりようというような考えは、自分の教育環境である宗教に、一度も疑惑をいだいたことがないにもかかわらず、彼女にとって無縁のものであって、それは当のカレーニンに助けを求めるのと同じくらい無意味であった。宗教の助けが可能となるのは、ただ自分の全生活の意義となっているものを断念する、という条件がついた場合に限るのを、彼女はあらかじめ知っていた。彼女は今までかつて経験したことのない新しい心の状態を、単に苦しいと思うばかりでなく、それに対して恐怖さえ感じはじめた。彼女は自分の心の中が二つに割れてくるような気がした。それは疲れた目に、時として、物が二つに割れて見えるようなあんばいであった。どうかすると、自分が何を恐れているのか、何を望んでいるのかわからなかった。すでに出来たことを恐れているのか、あるいは望んでいるのか、それともこれから起ることなのか? そもそも何を望んでいるのか、彼女にはわからなかった。
『まあ、わたしは何をしているのだろう?』ふいに頭の両側に痛みを感じて、彼女はこうひとり言をいった。ふと気がついてみると、彼女は両手で自分のこめかみの毛をつかんで、ぎゅっと締めつけているのであった。彼女は躍りあがって、あちこち歩きはじめた。
「コーヒーのおしたくができました。そしてマドモアゼルも坊ちゃんといっしょにお待ちでございます」ふたたびひっ返してきて、またもやアンナが同じ姿勢でいるのを見て、アンヌシカがこういった。
「セリョージャ? セリョージャがどうしたの?」とふいに生きいきした顔つきになって、アンナはたずねた。この朝はじめて、わが子の存在を思い出したのである。
「どうやら、おいたをなすったようでございます」とアンヌシカはにこにこしながらいった。
「え、おいたをしたって?」
「あちらのすみのお部屋に桃がおいてございましたの。それを坊ちゃんがこっそり一つ召しあがったらしゅうございますので」
 わが子のことをいいだされた時、アンナは忽然として、今まで落ちこんでいた救いのない状態からひきだされた。彼女は、かなり誇張もありながら、部分的には真実な役割、息子のために生きている母親の役割を思い起した。彼女は過去数年来、この役割を引き受けていたのであるが、いま陥っている救いのない状態にも、良人やヴロンスキイとの関係に左右されない自分の王国があることを感じた。この王国は息子であった。たとえどんな境遇に入ろうとも、息子を見棄てることはできない。たとえ良人が自分の面皮を剥いで追い出そうとも、よしんばヴロンスキイの愛が冷《さ》めて、自分のかってな生活をつづけようとも(彼女はまたしても癇《かん》の立った非難まじりの気持で男のことを考えた)、自分は子供を見放すことはできない。自分には生活の目的がある。行動しなければならない。わが子との現在の境遇を保障するために、子供を奪い去られないために、行動を開始しなければならない。それどころか、なるべく早く、一刻も早く、自分の手から奪われないうちに、行動しなければならぬ。子供をつれて行ってしまわねばならぬ。これが、今しなければならぬ唯一のことである。この苦しい境遇から抜け出して、気持をおちつけなければならぬ。わが子に結びついた目前の仕事と、子供をつれてすぐにもどこかへ行ってしまわねばならぬという考えは、彼女にこのおちつきを与えたのである。
 彼女は手早く着替えをして、階下《した》へおり、いつもコーヒーと、セリョージャと、女家庭教師が待っている客間へ、断乎とした足どりで入った。白ずくめの服装《なり》をしたセリョージャは、姿見の下にあたるテーブルのそばに立って、背中と頭をかがめ、緊張した注意の表情で、自分の持って帰った花をどうかしていた。その表情は彼女のよく知りぬいたものであり、父親を連想さすものであった。
 家庭教師は格別きびしい様子をしていた。セリョージャはいつもよくするように、かん高い声で、「ああ、ママ!」と叫んだが、花を棄てて母親のそばへ朝の挨拶《あいさつ》をしに行ったものか、それとも花輪を仕上げて、それを持っていったものかと、決心のつかぬ様子で立ちどまった。
 家庭教師はあいさつをすましたのち、セリョージャのいたずらを長々と、はっきりしたいいかたで話しだしたが、アンナは聞いていなかった。彼女は、この女を連れていったものかどうかと考えていたが、『いや、連れていくのはよそう、あの子と二人だけでいくことにしよう』と決めた。
「そうね、それは本当によくないことですわ」とアンナはいい、わが子の肩に手をのせて、厳しいというより、むしろ臆病な目つきでその顔を見てから、接吻した。その目つきは少年をまごつかせもしたが、喜ばせもしたのである。
「ちょっとわたしたちふたりだけにして下さい」と彼女はあきれ顔の家庭教師にいって、わが子の手をはなさずに、コーヒーの用意のしてあるテーブルに着いた。
「ママ、僕は……僕は……何も……」桃事件の罰として何が自分を待っているかを、母の顔つきで察しようとつとめながら、少年はこういった。
「セリョージャ」家庭教師が部屋を出るやいなや、彼女はきりだした。「あんなことはいけませんよ。でも、坊やはもうあんなことしませんね……坊やはママが好き?」
 彼女は、涙が目にたまってくるのを感じた。『いったいこの子を愛さずにいられるものか』わが子のおびえたような、同時にさもうれしそうな目にじっと見入りながら、彼女は心にそういった。『いったいこの子も父親と一つになって、わたしを罰するのだろうか? わたしをかわいそうと思わないのだろうか?』涙は早くも彼女の顔をつたって流れた。彼女はそれを隠すため、そわそわと立ちあがり、ほとんど走るようにして露台へ出た。
 二三日つづいた雷雨のあとで、冷たく晴れた日和がやってきた。雨に洗われた木の葉を透してくる日はまぶしかったが、大気は冷えびえとしていた。
 彼女はぶるっと身ぶるいした。それは寒さのためでもあったが、清らかな大気の中で新しい力をもって彼女をつかんだ恐怖のためでもあった。
「あっちイいらっしゃい、マリエットのとこへいらっしゃい」彼女はあとを追ってきたセリョージャにそういって、露台に敷いたござの上を歩きだした。
『いったいあの人たちはわたしを赦してくれないかしら? これがみんなこうなるよりしかたなかったことを、わかってくれないかしら?』と彼女はひとりごちた。
 彼女は歩みをとめて、風にそよぐ泥楊《どろやなぎ》の梢の、冷たい太陽にきらきらと輝いている、雨に洗われた葉むらを眺めた時、――彼らは赦してくれない、すべての人は、この空のように、またこの緑のように、自分に対して情も容赦もないだろう、ということを悟った。と、またしても、彼女は自分の心が二つに割れていくのを感じた。
『もういい、考えないほうがいい』と彼女はひとりごちた。『したくしなくちゃならない。が、どこへ? いつだれを連れて行ったものかしら? そうだ、モスクワへ、晩の汽車で行くことにしよう。アンヌシカとセリョージャ、それにごくごく必要なものだけ。それにしても、前にあの二人に手紙を書かなくちゃ』
 彼女は家の中へ入って、自分の居間へ行き、テーブルにむかって、良人への手紙を書きはじめた。
『ああいうことのありました以上、わたくしはもうあなたの家にとどまっているわけにはまいりません。わたくしは出ていきます。そしてセリョージャを連れてまいります。わたくしは法律は存じませんから、男の子は二親のうちどちらにつくのかも知りません。が、とにかくわたくしは連れてまいります、なにゆえと申して、あの子なしには生きていることができませんから。どうか寛大なお心をもって、あの子はわたくしのほうへお残し下さいまし』
 ここまではすらすらと自然に書けたが、自分で認めてもいない良人の寛大心に訴える言葉と、なにか感動的な句で手紙を結ばなければならぬ必要が、彼女の手をとめた。
『わたくしは自分の罪とか、悔悟とかいうことは申しあげるわけにいきません、なぜなら……』
 ふたたび彼女は、自分の思想に脈絡を見出すことができなくて、ペンをとめた。
『いや』と彼女はひとりごちた。『なんにも必要はない』で、手紙をひき破って、寛大|云々《うんぬん》のところを抜いて書きなおし、封筒に入れた。
 もう一通、ヴロンスキイあてに書かなければならなかった。『わたしは主人にいってしまいました』と書いたが、先をつづける気力がなく、長い間じっと坐っていた。これはあまりにも粗野で、あまりにも女らしくない。『それに、いったいあの人に何を書くことができるのだろう?』と彼女は心に思った。またしても羞恥のくれないが彼女の顔をおおい、男のおちつきはらった態度が思い出された。男に対するいまいましさの情が、その一句だけ書いた紙をずたずたにひき裂かした。『なんにも書く必要はないわ』と彼女はひとりごち、吸取り紙を畳んで、二階へあがり、家庭教師をはじめ召使たちに今晩モスクワへ発《た》つといいわたし、荷ごしらえにかかった。