『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」6-06~6-10(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]六[#「六」は中見出し]

 子供のお茶のあいだ、大人たちはバルコンに腰かけて、何ごともなかったようなふりをして、世間話をしていた。そのくせ一同は、ことにコズヌイシェフとヴァーレンカは、否定的なものではあるけれど、きわめて重大な事実が生じたことを、はっきりと知りぬいているのであった。彼らは二人とも同じように、試験に失敗して原級に残されたか、それとも永遠に学籍を除かれた生徒のような気持を経験していた。その場に居合わすすべての人も、何ごとかが起ったのを感じて、わざとにぎやかによそごとを話すのであった。レーヴィンとキチイはこの晩、とくに幸福な、愛情に満ちみちた気持になっていた。しかも、彼らが自分たちのために幸福であるということは、同じものを望んで得られなかった人々にたいして、不快なあてこすりになるので、二人はなんとなく気がさした。
「わたしのいうことを、ちゃんと覚えてちょうだい、お父さまはお見えになりゃしないから」と老公爵夫人はいった。
 今晩の汽車で、オブロンスキイがくるはずになっていたが、老公爵もひょっとしたらいっしょにくるかもしれない、という手紙だったのである。
「わたしは、そのわけもちゃんと知っています」と公爵夫人は言葉をつづけた。「お父さまはね、若夫婦ははじめのうち、かってにうっちゃっとかなくちゃいけないって、そういってらっしゃるのだから」
「ええ、それでなくっても、パパはあたしたちを、うっちゃらかしにしてらっしゃるわ。あたしたちはまるでお父さまを見ないんですもの」とキチイはいった。「それにあたしたち、なんで若夫婦なものですか? もういいかげん旧夫婦ですわ」
「ただね、もしお父さまがいらっしゃらなかったら、わたしお暇しますよ」と公爵夫人は悲しげに、吐息をついていった。
「あら、どうしてですの、ママ」と二人の娘が一時にくってかかった。
「だって、おまえ、考えてもごらん、お父さまがどんなだか? なにしろ今じゃ……」
 と、全く思いがけなく、老公爵夫人の声がふるえだした。二人の娘は口をつぐんで、目を見合わせた。
『ママはいつでも、何か悲しいことを見つけ出すのだわ』と彼女らは、その目つきでいうのであった。しかし、公爵夫人にとっては、娘のところがいかに居心地がよくっても、またここでは自分が必要な人物だということを、どんなによく承知しているにせよ、最後に残った愛娘《まなむすめ》を嫁にやって、家庭の巣が空になってからこのかた、自分にしても、良人の心を思いやっても、たまらなく淋しい気持でいるということを、娘たちは知らなかったのである。
「なんの用、アガーフィヤ・ミハイロヴナ?」なにかしら秘密めかしい、意味ありげな顔つきをして、そばにたたずんだアガーフィヤを見てキチイは急にこうたずねた。
「お夜食のことにつきまして」
「ああ、それはちょうどいいわ」とドリイがいった。
「あんた行って、指図をしてらっしゃい。わたしはグリーシャのとこへ行って、勉強を見てやりますから。だって、今日あの子は、なんにもしなかったんですもの」
「いや、そりゃ僕の受持だ! いけません、ドリイ、僕が行きますよ」とレーヴィンは跳《と》び起きて、そういった。
 もう中学へ入ったグリーシャは、夏のうちに宿題をしなければならないのであった。まだモスクワにいる時分から、息子といっしょにラテン語を勉強していたドリイは、レーヴィンの家へ来てから、たとえ一日に一度でもわが子を相手に、宿題の中でも一番むずかしい算術と、ラテン語を復習することに、ちゃんと規則を決めていた。レーヴィンがそれにたいして、代りを務めようと申し出たが、母親はいちどレーヴィンの授業を聞いて、モスクワで教師がしたのとやりかたが違うのに気がつき、はたと当惑した。で、レーヴィンの気を悪くしないように気をつけながらも、断乎とした調子で、教師がしたように、本のとおりをしなければならないから、自分でやったほうがぐあいがいい、と申し出た。レーヴィンは、オブロンスキイがだらしないために、子供の勉強の監督を自分がしないで、何もわからない母親におしつけているのが、いまいましかったし、それに、子供にまちがった教え方をしている教師も癇ざわりであった。しかし、義姉には、お望みどおりの勉強のさせかたをするからと約束して、グリーシャの指導をつづけたが、しかしもう自分の思いどおりでなく、教科書のとおりにやっていった。こういうわけで、もうあまり気乗りがせず、よく勉強時間を忘れるのであった。今日もそうだったので。
「いや、僕が行きますよ、ドリイ、あなたはそこにいらっしゃい」と彼はいった。「ちゃんと規程どおりに、本のとおりにしますから。ただし、やがてスチーヴァがやってきたら、僕たちは猟に行きますからね。そのときは休ましてもらいますよ」
 そういって、レーヴィンはグリーシャの方へ行った。
 それと同じことを、ヴァーレンカがキチイにいった。ヴァーレンカは、よく整った幸福なレーヴィンの家庭にあっても、調法がられるこつ[#「こつ」に傍点]を心得ていた。
「お夜食はわたしがいいつけますから、あなたは坐ってらっしゃい」と彼女はいい、アガーフィヤのところへ行った。「そう、そう、きっと、雛《ひな》が見つからなかったのよ。それだったら家の鶏を……」と、キチイはいった。
「わたし、アガーフィヤ・ミハイロヴナとよく相談しますわ」とヴァーレンカは、老婆といっしょに姿をかくした。
「なんてかわいい娘さんだろうね!」と公爵夫人はいった。
「かわいいなんていうのじゃなくて、類のないほどすばらしいひとよ、ママ」
「じゃ、あなたがたは今晩、スチェパン・アルカージッチを待ってらっしゃるんですね?」明らかにヴァーレンカの話をつづけたくない様子で、コズヌイシェフはこういった。「お宅の二人のお婿さんほど、お互に似たところの少ない人は、ちょっと珍しいでしょうね」微妙なほほえみを浮べながらつづけた。「一人はただ人中に出たときだけ、魚が水を得たごとく生きいきとして活動的になるし、もう一人は、コスチャは活気があって、敏捷で、すべてにたいして敏感なくせに、人中へ出るが早いか、たちまち麻痺したようになって、陸《おか》へ上げられた魚同然、わけもわからず、ただもがいてるだけなんですからね」
「ええ、あの人はどうも軽はずみでしてね」と公爵夫人はコズヌイシェフにいった。「あなた、ぜひあの人とよく話して下さいませんか。あの子は(とキチイをさして)、ここにこのままいるわけにまいりません、どうしてもモスクワへ出てこなくちゃなりませんの。あの人は医者を呼ぶといっておりますけれど……」
「ママ、あの人はなんでもちゃんとしますわよ、何事も異存ないといってるんですもの」こういう問題に、コズヌイシェフを裁き役にしようとする母がいまいましくて、キチイはそういった。
 こういう会話のあいだに、馬の鼻嵐と車輪の砂利にきしむ響きが、並木道の方から聞えた。
 ドリイが良人を迎えに立ちあがる暇もなく、もうグリーシャの勉強していた階下《した》の部屋の窓から、ぱっとレーヴィンが跳び出して、グリーシャを抱きおろした。
「あれはスチーヴァだ!」とレーヴィンがバルコンの下で叫んだ。「もう授業はすみましたよ、ドリイ、どうか心配しないで!」とつけ加え、子供のように馬車の方へ飛んで行った。
「Is, ea, id, ejus, ejus!(ラテン語の変化)」とグリーシャは、並木道を跳ねて行きながら叫んだ。
「あ、まだほかにだれかいる。きっとパパだろう!」並木の入口のところに立ちどまって、レーヴィンはわめいた。「キチイ、その急な階段をおりちゃいけないよ、まわっておいで」
 しかしレーヴィンが、幌馬車の中に坐っている人を老公爵と思ったのは、まちがいであった。馬車へ近よったとき、彼の目に入ったのは公爵ではなくて、長いリボンをうしろにたらしたスコットランドふうの帽子をかぶった、美しい、肥りじしの青年が、オブロンスキイと並んで坐っているのであった。それはシチェルバーツキイの又従弟《またいとこ》にあたる、ヴァーセンカ・ヴェスローフスキイといって、ペテルブルグでもモスクワでも、名の通った若手の花形で、オブロンスキイの紹介した言葉を借りると、『どこへ出しても恥ずかしくない青年で、熱心な狩猟家』であった。
 自分が老公爵でなかったためにひき起した、相手の失望にはいささかも当惑せず、ヴェスローフスキイは快活な調子でレーヴィンにあいさつをし、以前知り合っていたことを思い出させた。それから、グリーシャを馬車の中へ抱き入れて、オブロンスキイの連れてきたポインター種の犬のむこう側に坐らした。
 レーヴィンは馬車に乗らないで、あとから歩いて行った。彼はいささかいまいましかった。深く知れば知るほど好きになる老公爵がこないで、まるで親しみのない、よけい者のヴァーセンカ・ヴェスローフスキイがやってきたからである。レーヴィンが、大人や子供のおおぜい集って騒いでいる入口階段に近づいたとき、このヴァーセンカ・ヴェスローフスキイが、特に優しい都雅《とが》なかっこうで、キチイの手に接吻しているのを見たとき、レーヴィンはいよいよ、この男が親しみのないよけいなものに思われた。
「私と奥さんとは従兄妹《クザン》同士で、古いなじみなんですよ」またもやレーヴィンの手を固く固く握りしめながら、ヴァーセンカ・ヴェスローフスキイはいった。
「どうだね、鳥はいるかい?」一人一人にたいするあいさつに追われながらも、オブロンスキイはレーヴィンに問いかけた。「僕らは、残忍この上ない計画をもってきたんだからね。お母さん、この二人はあれっきりモスクワヘこないんですよ。さあ、ターニャ、いいおみやげがあるよ! 馬車のうしろにある荷物をとっておくれ」と彼は四方八方へいった。「ドーレンカ、おまえはとても生きいきしてきたね」もういちど妻の手を接吻して、その手をはなさず、もう一方の手で甲のほうを軽く叩きながら、彼はドリイにこういった。
 つい先ほどまでこの上もなく楽しい気分でいたレーヴィンが、今は暗い目つきで一同をながめていた。なにもかも気に入らないのであった。 
『いったい昨日はあの唇で、だれを接吻したんだろう?』妻にたいするオブロンスキイの優しいしぐさを見て、彼は心にそう思った。彼はドリイの方を見やったが、この義姉も彼の気にくわなかった。
『だって、自分の亭主の愛を信じていないんじゃないか。してみれば、いったいなにをうれしがってるんだろう? けがらわしい!』とレーヴィンは考えるのであった。
 彼は公爵夫人の方を見た。と、ついさっきまで、あれほど感じのよかった姑《しゅうと》なのに、今は彼女がまるで自分の家のように、あのリボンをたらしたヴァーセンカを歓迎している、その態度が気にくわなかった。
 同じように玄関口へ出てきたコズヌイシェフまでが、うわべばかりさも親しげに、オブロンスキイを迎える態度のために、不愉快に思われた。なぜなら、兄がオブロンスキイを好いてもいなければ、尊敬してもいないのを、レーヴィンはよく知っていたからである。
 ヴァーレンカでさえ、彼にはいやらしく感じられた。というのは、どうかして結婚したいと、ただそればかり考えているくせに、いつもの sainte nitouche(偽善者ぶり)で、例の青年紳士と初対面のあいさつをしていたからである。
 だれよりもいやらしく思われたのは、キチイである。自分がこの田舎へ来たのを、自分にとっても一同にとっても、まるでお祭かなんぞのように思っているこの紳士の浮れ調子に、キチイはついつりこまれているのであった。特に不愉快に感じられたのは、彼の微笑にこたえるキチイの一種とくべつなほほえみであった。
 にぎやかに話し合いながら、一同は家の中へ入った。けれど、みんなが座につくが早いか、レーヴィンはくるりと踵《くびす》を転じて、部屋を出てしまった。
 キチイは、良人がどうかしているのを見てとった。彼女はおりをみて、良人とさしむかいで話そうと思っていたが、彼は事務所に用があるといって、急いで妻のそばを離れてしまった。今日ほど農場の仕事が重大に思われたのは、久しくないことであった。『みんなは、いつでも祭日のように思っているが』と彼は考えた。『こっちはお祭どころか、待ったなしの仕事があって、それをしなくちゃ生きていけないんだからな』

[#5字下げ]七[#「七」は中見出し]

 レーヴィンは夜食の知らせがあってから、やっと家へ帰った。階段の上にはキチイとアガーフィヤが立って、夜食に出す酒のことを相談していた。
「いったいおまえたちはなんだってそんな fuss(大騒ぎ)をしてるんだね。いつものとおりのものを出したらいいじゃないか」
「いいえ、スチーヴァはあんなのお飲みになりませんわ……コスチャ、ちょっと待って、あんたいったいどうなすったの!」とキチイは良人のあとを追いながら、こういったが、彼は情容赦なく、彼女を待たないで、大股に食堂へ入ってしまった。そして、ヴァーセンカ・ヴェスローフスキイとオブロンスキイの中心になっている、にぎやかな一座の世間話に、さっそく仲間入りした。
「ときに、どうだね、明日は出かけるかね?」とオブロンスキイはいった。
「どうぞ、そういうことにしていただきたいものですね」とヴェスローフスキイは別の椅子に移って、横向きに坐りながら、ふとった一方の足をいま一方の腿《もも》の下に敷いて、こういった。
「僕も大賛成、出かけましょう。ときに、あなたは今年もう猟に行かれましたか?」とレーヴィンは注意ぶかくその足を見まわしながら、ヴェスローフスキイに問いかけたが、そのお愛想はつくりものであった。キチイにはそれがちゃんとわかっていて、彼にはひどく不似合いなのであった。「田鴫《たしぎ》は見つかるかどうか知りませんが、鷸《しぎ》ならうんといますよ。ただ朝早く出発しなくちゃなりません。あなた疲れはなさいませんね? 君、疲れちゃいない、スチーヴァ?」
「僕が疲れたかって? 僕は決して疲れたことなんかありゃしないよ。今晩は夜っぴて寝ないことにしようじゃないか! 散歩に出よう!」
「本当に徹夜しましょう! こいつはすてきだ!」とヴェスローフスキイが相槌を打った。
「そりゃもうまちがいなしですわ、あなたが夜っぴて眠らないで、ほかのものも寝させないのがお得意なのはね」とドリイは、ようやくそれと気のつくほどの皮肉な調子で、良人にそういった。今では良人に何かいうときには、たいていいつもこの調子なのであった。「ところが、もうそろそろやすむ時だと思いますわ。わたし失礼しますわ、お夜食はいたしませんから」
「いや、ドーレンカ、もう少しおいでよ」一同の坐っている大きな食卓をぐるりとまわって、妻のほうの側に移りながら、オブロンスキイはこういった。「まだうんと話があるんだから」
「きっとなんにもないんでしょう」
「じゃ、おまえ知ってるかい、ヴェスローフスキイはアンナのところへ行ってきたんだよ。そればかりか、またあの二人のところへ出入りするようになったんだ。だってあの二人は、ここからつい七十露里のとこにいるんだからね。僕もかならず訪ねていく。ヴェスローフスキイ、こっちへ来たまえ」
 ヴァーセンカは婦人連の方へ移って、キチイと並んで腰をおろした。
「まあ、どうか様子を聞かせて下さいまし。あなた、アンナのところへいらしたんですって? あのひと、どんなふうですの?」とドリイは彼のほうへ話しかけた。
 レーヴィンは食卓の反対のはしに残って、公爵夫人とヴァーレンカとのべつ話をしながらも、オブロンスキイと、ドリイと、キチイと、ヴェスローフスキイのあいだに、秘密めかしい話がはずんでいるのを、見てとった。秘密めかしい話がはずんでいるばかりでなく、何かさかんにしゃべっているヴァーセンカの美しい顔を、じっと目もはなさず見つめている妻の顔に、真剣な感情が現われているのを見てとったのである。
「あすこはじつにうまくいっていますよ」とヴァーセンカは、ヴロンスキイとアンナのことを話した。「私はもちろん、とかくの批判を避けますが、あの人たちのところへ行っていると、まるでわが家のような気持になりますね」
「いったいあの人たちは、どうするつもりなんでしょう?」
「この冬はモスクワへ行くつもりです」
「あの二人のとこでうまく落ち合えたら、どんなに愉快だろう? 君はいつ訪ねて行くね?」とオブロンスキイはヴァーセンカにきいた。
「僕はあすこで七月いっぱいすごすつもりだ」
「おまえもいくかい?」とオブロンスキイは妻に問いかけた。
「わたし、前から行きたいと思ってたんですから、ぜひ行きますわ」とドリイは答えた。「あのひとが気の毒なの。わたし、あのひとをよく知っていますもの。あれはりっぱな婦人ですわ。わたしはあなたがお帰りになってから、一人で行きます。そうすれば、どなたの迷惑にもなりませんからね。それどころか、あなたがいらっしゃらないほうがいいくらいですわ」
「そりゃけっこう」とオブロンスキイはいった。「ところで、おまえは、キチイ?」
「あたし? あたしがなんのためにいくんですの?」さっと顔を真赤にして、キチイはこういうと、良人のほうをふり返った。
「あなたは、アンナ・アルカージエヴナとお知り合いですか?」とヴェスローフスキイはたずねた。「なかなか魅力のある婦人ですよ」
「そうですわね」前よりもっと赤くなりながら、彼女はヴェスローフスキイに答え、席を立って、良人のそばへよった。
「じゃ、あした猟にいらっしゃるのね?」と彼女はいった。
 レーヴィンの嫉妬はこの数分間に、たちまち深入りしてしまった。それはことに、キチイがヴェスローフスキイと話しているあいだに、顔じゅう真赤になったからである。今や彼は妻の言葉を聞きながら、もうそれを自己流に解釈してしまった。あとでこのことを思い出すと、われながらふしぎな気がしたが、今はもう明瞭に感じられた――彼女が明日は猟に行くのかときいたのは、それはほかでもない、彼の観察によると、もうキチイの惚れこんでしまったヴァーセンカ・ヴェスローフスキイが、その猟で楽しめるかどうか知りたいので、そのために興味をもったに相違ない。
「ああ、いくよ」と彼は不自然な、われながらいまわしい声で答えた。
「いえ、それよりあすは家にいてちょうだい。だって、ドリイはろくに旦那さまを見ることができないじゃありませんか。明後日になさいよ」とキチイはいった。
 キチイの言葉は、もう今度はレーヴィンによって、次のように翻訳された。『あたしをあの人[#「あの人」に傍点]と引き分けないでちょうだい。あんたが出て行くのは、あたしどうだってかまわないけど、あの美しい青年といっしょにいたり、話したりする楽しみを、十分に味わわしてもらいたいわ』
「ああ、もしそれがおまえの望みなら、あすは家にいるよ」かくべつ気持のいい調子で、レーヴィンは答えた。
 その間にヴァーセンカは、自分がいるためにそんな苦しみをさせているとは露知らず、キチイのあとから食卓を立って、微笑を含んだ優しいまなざしを絶えずはなさないで、彼女のあとからついて行った。レーヴィンはその目つきに気がついた。彼はさっと蒼くなって、いっとき息もつけなかった。
『よくもひとの女房を、ああいう目つきで見られたもんだ!』彼は胸の中が煮えくりかえるようであった。
「では、あしたですね? どうぞそう願います」椅子にちょっと腰をおろして、例の癖で、またもや片足を腿の下へ入れながら、ヴァーセンカはそういった。
 レーヴィンの嫉妬はさらに深入りした。早くも彼は、自分が欺かれた良人であると思いこんでしまった。自分が妻と情夫に必要なのは、ただ彼らに生活の便宜と満足を与えるためにすぎないのだ……が、それにもかかわらず、彼は愛想のいい亭主らしく、ヴァーセンカにむかって、彼の今までやった猟のことや、鉄砲のことや、靴のことなど、いろいろとたずねたあげく、あす出かけることに同意した。
 レーヴィンにとってしあわせなことには、老公爵夫人が自分から立ちあがって、キチイに早く行っておやすみといったので、彼の苦しみは中断された。しかし、それでもレーヴィンは、新しい苦しみを見ずにはすまなかった。主婦と別れのあいさつをしながら、ヴァーセンカはまたその手を接吻しようとした。けれどもキチイは顔を赤らめて無邪気な無作法さで(そのために母夫人は、あとで彼女を叱った)、その手をひっこめながらいった。
「家じゃ、そんなことしないことになっていますの」
 レーヴィンの目から見ると、ヴァーセンカをそんな態度に出させるように仕向けたのは、やっぱりキチイが悪いのであった。それよりさらに悪いのは、彼が気に入らないということを、あんな拙《まず》いしかたで示したことである。
「ふん、眠るなんていい物好きだなあ!」夜食のあいだに、もう幾杯も飲んだ酒のおかげで、いつものひどく愛嬌のある、詩的な気分になったオブロンスキイは、こういった。「キチイ、見てごらん」菩提樹《ぼだいじゅ》の陰からさし昇った月をさしながら、彼はいった。「なんてすばらしい景色だろう! ヴェスローフスキイ、今こそセレナーデをやるときだよ。おまえ、知ってるかい、この男はいい声をしてるんだよ。われわれは途中いっしょに歌ってきたんだよ。この男はすばらしいロマンスの譜を持ってきたよ。新しいのを二冊。ヴァルヴァーラ・アンドレエヴナと合唱したらいいだろうなあ」

 一同、別れわかれになってから、オブロンスキイはまだ長いこと、ヴェスローフスキイといっしょに、並木道を歩きまわった。新しいロマンスを合唱する二人の声が聞えていた。
 妻の寝室で、その声を聞きながら、レーヴィンはむずかしい顔をして、肘椅子に腰かけたまま、どうしたのかという妻の問いにたいして、頑固に沈黙を守っていた。しかし、ついにキチイが臆病そうな微笑を浮べながら、自分のほうから、
「もしかしたら、ヴェスローフスキイのことで、何か気に入らないことでもあったんですの?」ときいたとき、彼はもうがまんができなくなり、なにもかもいってしまった。けれど、自分のしゃべったことが彼自身を侮辱するので、そのためにますますいらだってくるのであった。
 ひそめた眉の下から、恐ろしいほど目をぎらぎらさせ、さながら自分で自分をおさえるために、全力を緊張させているかのごとく、たくましい腕を胸の上に組んで、彼は妻の前につっ立っていた。その顔の表情はきびしかった。もしそれと同時に、妻の心を動かすような苦痛の色がなかったら、その表情はむしろ恐ろしいほどであった。彼の頬骨はがくがくふるえ、声はとぎれがちであった。
「おまえわかっておくれ、僕はやきもちなんかやいちゃいないんだから。そんなのはいまわしい言葉だ。僕はやきもちなんかやくわけにいかないし、信じることもできない……僕は自分が何を感じているか、いうことはできないけれども、これは恐ろしいことだ……僕はやきもちをやいちゃいないけれど、だれかが失礼千万にも何か考えたり、おまえをあんな目で見たりするので、侮辱を感じたのだ、卑下されたのだ……」
「まあ、いったいどんな目ですの?」今夜の話や、身ぶりや、そのニュアンスを、できるだけ良心的に、残るくまなく思い起そうとつとめながら、キチイはこうたずねた。
 心の深い奥底では、ヴェスローフスキイが自分のあとを追って、食卓の反対の端へ移ったちょうどそのとき、何かがあったのを感じたが、彼女は自分自身にさえ、それを白状する勇気がなかった。まして、それを良人にいって、その苦痛を増す決断はつかなかった。
「いったいあたしにどんな魅力があるとおっしゃるの? いったいあたしはどんな女なんですの?……」
「ああ!」とレーヴィンは、頭をかかえながら叫んだ。「いっそ、おまえものをいわないでくれ? じゃ、つまりなんだな、もしおまえに魅力があったら……」
「いえ、そうじゃないのよ、コスチャ、まあ、待ってちょうだい、まあ、聞いてちょうだい!」さも苦しげな同情の色を浮べて良人を見ながら、キチイはそういった。「いったいあんたは、何を考えてらっしゃるんでしょう? あたしにとってほかに男はないのに……ええ、ありませんわ、ありませんとも! じゃ、あんたはあたしがだれも見ないようにしたいのね?」
 最初、彼女は良人の嫉妬が侮辱に感じられた。ほんのちょっとした、ごくごく罪のないたのしみも、自分には禁じられているかと思うと、彼女はいまいましかった。しかし今では、良人がなめているような苦しみをさせないためには、良人の心を安めるためには、そんなつまらないことどころか、なにもかも喜んで犠牲にしてもいい、という気になった。
「まあ、おまえ、僕の立場の恐ろしさ、こっけいさを察しておくれよ」と彼は、絶望的なひそひそ声でつづけた。「あの男は自分の家のお客さんで、あのざっくばらんな態度と、片足を腿の下に敷く癖よりほかには、別に何一つ無作法なまねをしたわけじゃない。あの男はそれをごく粋《いき》なやりかただと思ってるんだから、僕はあの男に愛想よくしなくちゃならないんだ」
「でも、コスチャ、あんたは大げさに考えてるのよ」いま良人の嫉妬に表現された愛の力強さに、内心ひそかに喜びながら、キチイはこういった。
「何よりも恐ろしいのは、おまえはいつものとおりのおまえであり、僕にとって神聖な存在であり、われわれはとても幸福で――かくべつ幸福でいる今というときに、突然あんなくだらない男が……いや、くだらない男じゃない、なんのために僕はあの男の悪口をいってるんだ? あんな男になんの用もありゃしない。しかし、なんだって僕の幸福が、おまえの幸福が?……」
「ねえ、どうしてこんなことになったか、わたしわかるわ」キチイがいいだした。
「どうしてだね? どうしてだね?」
「あたしがお夜食のテーブルで、あの人と話しているとき、あんたがあたしたちを見てらっしゃるのに、あたし気がついてたの」
「うん、それで、それで?」とレーヴィンはおびえたようにいった。
 彼女は、二人がなんの話をしていたかを物語った。そして、その話をしながら、興奮のあまり息を切らすのであった。レーヴィンはしばらく黙っていたが、やがて妻の蒼ざめた、おびえたようなまなざしをじっと見つめて、ふいに両手で頭をかかえた。
「カーチャ、僕はおまえをとんだ目にあわせてしまった! キチイ、ゆるしてくれ! あれは狂気の沙汰だった! カーチャ、なにもかも僕が悪かった。そんなばかげたことで、ああまで苦しむって法があるものか」
「いいえ、あたしあんたが気の毒だわ」
「僕が? 僕が? 僕が気ちがいだったことが?……それなら、おまえはなんのために苦しんだんだ? これは考えても恐ろしい、縁もゆかりもない他人が、だれでもかでも、われわれの幸福を破壊することができるんだからなあ」
「そりゃもう、腹のたつことですわ」
「いや、こうなったら、僕はわざとあの男を夏じゅううちへ泊まらして、ありたけのお愛想をふりまくよ」とレーヴィンは、妻の手を接吻しながらいった。「まあ、見ててごらん。明日は……そうだ、本当に明日は出かけるんだ」

[#5字下げ]八[#「八」は中見出し]

 あくる朝、婦人連がまだ床を離れないうちに、狩猟用の馬車や、小馬車や、荷車が、車寄せで待っており、もう早朝から狩猟に行くことを悟ったラスカは、腹に足るほどきゃんきゃんほえたり、跳《おど》りまわったりしたあげく、馭者と並んで小馬車に乗りこんで、出発が遅れるのでわくわくしながら、困ったものだというように、戸口の方ばかりながめていたが、猟人たちはいつまでも出てこなかった。第一番に現われたのはヴァーセンカで、大腿《ふともも》の半分どころまで届く大きな新しい長靴をはき、緑色の上っぱりに、革の臭《にお》いのぷんぷんする新しい弾丸《たま》入れのバンドを締め、例のリボン付きの帽子をかぶり、負革《おいかわ》なしの新しいイギリス銃を持っていた。ラスカはそのそばへ飛んでいって、歓迎の意を表し、ちょっと跳ね廻ってから、もうまもなくみんな出てくるかと、一流の方法でたずねたが、返事がもらえなかったので、また自分の期待の場所へ帰って、首を脇腹へくるりと曲げ、片耳を立てて、ふたたびじっと静まりかえった。ついに、扉が騒々しく開いて、オブロンスキイの愛犬でクラークという、淡黄色の斑《ぶち》のあるポインターが、きりきり舞いをし、宙返りをしながら、飛び出したと思うと、当のオブロンスキイも猟銃を手に、葉巻を口にくわえて現われた。「こら、こら、クラーク!」両の前足を腹や胸にかけて、獲物袋にからみつく犬を、彼は優しく叱りつけた。オブロンスキイは破れたズボンに短い外套を着、サンダルにゲートルといういでたちであった。頭にかぶっているのは、何か帽子の廃墟とでもいうようなものであったが、最新式の猟銃は玩具のように軽そうで、獲物袋も弾薬入れも使い古したものではあったが、最上等の品であった。
 ヴァーセンカ・ヴェスローフスキイは、以前こうした本物の猟師らしいしゃれかた、つまり、ぼろを着て最上等の猟具を持つ、という行き方を解しなかったが、今こういうぼろを着て、しかも優美な、飽満した、愉快らしい貴族風の姿をした、輝くばかりのオブロンスキイを見て、やっとそのことを合点した。で、この次の猟には、ぜひああいうふうにやろうと肚《はら》を決めた。
「ところで、こちらのご主人はどうしました?」と彼はきいた。
「なにぶん、細君が若いんだからね」とオブロンスキイは、にやにやしながらいった。
「おまけに、あんなすばらしい奥さんですからね」
「もうちゃんとしたくはできたんだからなあ。きっとまた細君のところへ走って行ったんだろう」
 オブロンスキイの察しどおりであった。レーヴィンはまた妻のところへ駆けつけて、きのうあんなばかなまねをしたのを赦してくれるかどうかと、もう一度たずねたうえ、お願いだから、くれぐれも体に気をつけてくれ、と注意したのである。なによりも、子供たちから離れるようにしてくれ、あの連中はいつでもぶっつかってくるからと念をおした後、二日も家を明けるのに腹をたてないでくれ、そして明日の朝はだれかに馬を飛ばさせて、手紙をよこしてほしい。おまえが無事だということがわかるように、ほんのひと言でも書いてくれ、と頼むのであった。
 キチイはいつものごとく、二日も良人と別れるのがつらかったけれども、狩猟用の長靴をはいて、白い寛外套《ブルーズ》を着ている、いつもよりかくべつ大きくたくましく見える、良人の生きいきした姿を見、女にはわからない猟人らしい興奮を見て、良人の喜びのために、自分のつらいことを忘れてしまい、楽しく別れを告げた。
「どうも失敬、諸君!」入口階段へ駆け出しながら、彼はいった。「弁当は入れたかね? なんだって栗毛を右につけたんだい? いや、まあ、どうでもいい、ラスカ、よせよ、ちゃんと行って、おとなしく坐ってろ!」
「牡牛の群の中へ入れておけ」若い去勢牛のことをきこうと思って、入口階段のところで待ち受けている家畜番に、彼はこういった。「いや、失礼、またあすこに悪党めがやってくる」
 レーヴィンは、もういったん坐った小馬車から跳び下りて、物差しをもって玄関の方へやってくる請負師のそばへ行った。
「なんだ、きのう事務所へこないでおいて、いまごろひとの邪魔にやってきやがる。え、どうしたい?」
「もう一つの曲り段を作らしていただきたいんで。ほんの三段だけふやせばよろしいのですから。ちょうどうまいぐあいに納めてごらんに入れます。そのほうがずっとおちつきがよろしゅうがす」
「はじめから、おれのいうことを聞いてりゃいいものを」とレーヴィンは、いまいましそうに答えた。「はじめにまず桁《けた》をとりつけて、それから段々をつけろといったのに。今となっちゃなおせやしない。おれのいいつけたとおりにしろ、新しくやりなおすんだ」
 それは、こういうことであった。目下、普請中の離れへ階段をつけるのに、請負師が角度をよく計らないで、別に材料を切ってしまったため、その場所へ取りつけてみると、段々が斜めになって、階段ぜんたいが台なしになってしまったのである。で、いま請負師はその階段を生かすために、もう三段ふやそうというのであった。
「そのほうがずっとよろしくなりますで」
「そんなに三段もふやして、その階段はいったいどこへ出ていくんだい?」
「めっそうもございません」と大工の棟梁《とうりょう》は、ばかにしたような薄笑いを浮べて、答えた。「ちょうどうまいとこへ出るようになりますよ。まず下からこう昇って行きましてな」と彼は自信たっぷりの身ぶりでいった。「とんとんと昇って行きますと、ちょうどうまいとこへ着きますんで」
「だって、三段もそのまま縦にふやしたら……どこへ出て行くと思う?」
「つまりでございますな、下から昇って行きますと、そのままうまいとこへ出ますんで」
「天井の下へ来て、壁につき当るよ」
「とんでもございません。だって、下から昇ってまいりまして、とんとんと行きますと、うまいとこへ着きますよ」
 レーヴィンは槊杖《さくじょう》を抜いて、埃の上に階段を描いて見せた。
「どうだ、わかったか?」
「なるほど、おっしゃるとおり」ふいに目を輝かせて、大工はこういった。やっとのことで合点がいったらしい。「どうやら新しく作りなおさにゃなりませんようで」
「ね、だからいわれたとおりにやるんだよ」小馬車に乗りながら、レーヴィンは叫んだ。「さあ、やった! 犬をしっかりおさえてろよ、フィリップ!」
 今レーヴィンは、家庭や農場のわずらいをことごとくあとへ残してきたので、はげしい生の喜びと期待の念を覚え、ものをいいたくないほどであった。のみならず、すべての猟人が活動の場所へ近づくにつれて感ずる、一つに集中した興奮を覚えた。もし今なにか心配事があるとすれば、それはほかでもない、コルペンスコエの沼で何か見つかるだろうか、クラークと較べてラスカはどんなふうだろうか、また自分も今日の当りはどうだろうか、などという問題にすぎなかった。新しい知人の前で、恥をかかないようにしなくちゃならない。ひょっとオブロンスキイに、撃ち負かされるようなことはあるまいか? というような懸念も頭に浮んだ。
 オブロンスキイも似たりよったりの気持で、同様に口数が少なかった。ただヴァーセンカ・ヴェスローフスキイばかりが、のべつおもしろそうにしゃべっていた。いま彼の話を聞いているうちに、昨夜この男にたいする自分の態度が正当を欠いていたことを思い出して、レーヴィンは気が咎めてきた。ヴァーセンカは本当にさっぱりした、気だてのいい、陽気な、愛すべき青年であった。もしレーヴィンが独身時代にこの男と知り合ったら、きっと親密な間柄になったに相違ない。ただいくらかレーヴィンにとって不快だったのは、彼ののんきすぎる生活態度と、優美なものごしに、何かなれなれしいところが感じられることであった。彼は自分が爪を長くのばして、リボンのついた帽子をはじめ、その他それに応じた身なりをしているのを、まぎれもなく、りっぱな価値のあることのようにうぬぼれているらしかったが、そのかわり気だてがよくて、紳士らしい礼儀正しさを備えているので、その弱点も許されるのであった。すぐれた教養を身につけ、フランス語と英語の発音がすっきりしており、しかも自分と同じ世界の人間という意味で、レーヴィンはこの男が気に入った。
 ヴァーセンカは、左の側馬につけられている曠野《ステッピ》育ちのドン馬が、やたらに気に入った。彼はのべつ、「この曠野《ステッピ》育ちの馬に乗って、広い原中を飛ばしたら、どんなにいいでしょう、え? そうじゃありませんか?」と感嘆の声を放つのであった。彼は、曠野《ステッピ》育ちの馬に乗るということに、何か野性的な詩趣を想像していた。そんなことをしてみても、何一つ得るところはないのだけれど、その素直なところが、ことにその美貌と、愛くるしい微笑と、優美な動作といっしょになって、大きな魅力となるのであった。彼の生れながらの性質が、レーヴィンに好ましかったからか、それともレーヴィンが昨日の罪の償いに、この男のもっているいいところを、残らず見いだそうとつとめたからか、とにかく、レーヴィンは彼といっしょにいるのが快かった。
 三露里ほど離れたとき、ヴェスローフスキイは突然、シガーと紙入れがないのに気がついた。途中で落したのか、テーブルの上に忘れてきたのか、自分でもわからないのであった。紙入れの中には、三百七十ルーブリあったので、そのままにしておくわけにいかなかった。
「どうでしょう、レーヴィン、僕このドン産の脇馬に乗って、ひと走り家まで行ってこようと思うんですが? きっとすばらしいでしょう、ねえ?」早くも馬車から下りる身がまえをしながら、彼はこういった。
「いや、何もそんなことする必要はありゃしない」ヴァーセンカの体重は六プード([#割り注]約九七キログラム[#割り注終わり])以下ではあるまいと見こんだので、レーヴィンは反対した。「僕、馭者をやりますよ」
 馭者が脇馬に乗って出発した。で、レーヴィンは自分で二頭立てを馭しはじめた。

[#5字下げ]九[#「九」は中見出し]

「ときに、われわれの道筋はどんなふうなんだね? よっく聞かしてくれないか」とオブロンスキイがいった。
「こういう計画なんだ。これからグローズジェヴォまで行くとしよう。グローズジェヴォの手前に、田鴫《たしぎ》のたくさんいる沼があるんだ。それから、グローズジェヴォの先の方には、すばらしい鷸《しぎ》の沼があってね、そこには田鴫もいる。今は暑いから、夕方までに着いて(そこまで二十露里だ)、野営しよう。そこで一晩あかしたら、明日いよいよ大きい沼へ行くとしよう」
「その途中なんにもないのかね?」
「あるにはあるが、遅くなるよ、それに暑いし、ちょっとした場所があるけれど、さあ、獲物があるかどうかな?」
 レーヴィン自身も、ちょっとした場所へ寄りたかったが、それは家から近いところにあったので、いつでも利用することができるし、それに小さな場所で、三人づれでは射つところもない。そういうわけで、少々ずるをかまえて、どうも獲物はありそうもないといった。小さな沼のそばまで来たとき、レーヴィンは素通りしようとした。ところが、オブロンスキイの猟に慣れた目が、すぐに道路から見える葦の茂みに目をつけた。
「ひとつ寄ってみようじゃないか?」と彼は小沼を指さしながらいった。
「レーヴィン、お願いだ! じつにすばらしいじゃありませんか!」とヴァーセンカ・ヴェスローフスキイもねだりはじめたので、レーヴィンも断り切れなくなった。
 彼らが馬車をとめるかとめないかに、もう犬は互に追っかけっこしながら、沼の方へ飛んで行った。
「クラーク! ラスカ!」
 二匹の犬は戻ってきた。
「三人じゃ狭すぎる。僕はここへ残ることにするよ」犬に脅かされてぱっと飛び立ち、沼の上をあわれっぽく鳴きながら、ゆらゆらとゆらめくように飛んでいる田鳧《たけり》のほか、なんにも見つかりはしまいとたかをくくって、レーヴィンはこういった。
「いや、レーヴィン、いっしょに行きましょう、いっしょに!」とヴェスローフスキイはいった。
「まったく狭すぎますよ。ラスカ、ひっ返した! ラスカ! ねえ、君たちに犬は二匹なんていらないだろう?」
 レーヴィンは馬車のそばに残って、羨望の念をいだきながら、二人の猟人をながめていた。猟人たちは沼じゅうを歩きまわった。一羽の小|鴫《しぎ》と田鳧のほか、この沼には何もいなかった。田鳧の一羽をヴァーセンカが射《う》ちとめた。
「ねえ、ごらんのとおり、別に僕がこの沼を惜しがったわけじゃないでしょう」とレーヴィンはいった。「ただ暇つぶしになるばかりですよ」
「いや、それでも愉快でしたよ。ごらんになったでしょう?」銃と田鳧を持って、きゅうくつそうに小馬車へ入りながら、ヴァーセンカ・ヴェスローフスキイはいった。「僕がこいつを仕留めた腕前を! 相当のものじゃありませんか? さて、もうそろそろ本当の猟場へつきますかね?」
 ふいに馬がまっしぐらに飛び出したので、レーヴィンはだれかの銃身に額をぶっつけた。と、発射の音が轟き渡った。本当のところ、発射の轟きはその前だったのだけれども、レーヴィンにはそんなふうに思われた。事の次第は、ヴァーセンカ・ヴェスローフスキイが引金をおろすとき、一方の安全器を閉めただけで、もう一方をそのままにしていたのである。弾丸は地面に入って、だれも怪我をしなかった。オブロンスキイは首をひねって、ヴェスローフスキイを責めるように笑い出した。しかし、レーヴィンは彼に文句をいう気力がなかった。第一、この際、咎めだてなどしたら、もう過ぎてしまった危険にこだわることになるし、レーヴィンの額に飛び出した瘤《こぶ》を恨んでいるようにとられる。第二に、はじめは無邪気な悲観ぶりを示していたヴェスローフスキイが、やがて一同のあわてかたを見て、いかにも人のいい笑い声を立てたので、こっちもつりこまれて、笑わずにいられなかったのである。
 やがて第二の沼へ着いた。それはかなり大きくて、相当時間をとるに相違ないと思われた。レーヴィンは馬車をおりないように力説した。が、ヴェスローフスキイがまたしてもねだり倒した。今度も沼が小さかったので、レーヴィンは主人役として、馬車に残った。
 着くといきなりクラークは、沼地の中にほうぼう盛りあがった土の塊《かたま》りをさして飛んで行った。ヴァーセンカ・ヴェスローフスキイが、第一番に犬のあとから駆け出した。オブロンスキイがそばまで行くか行かないかに、早くも一羽の田鴫が飛び立った。ヴェスローフスキイが射ち損じたので、田鴫はまだ刈ってない草場へ飛び移った。この田鴫は、ヴェスローフスキイに任すことになった。クラークがまたそれを見つけて、追い出した。で、とうとうヴェスローフスキイが仕留めて、馬車へひっ返した。
「今度はあなたいらっしゃい、僕が馬を番していますから」と彼はいった。
 レーヴィンも、猟人らしい羨望がむずむずしはじめたので、手綱をヴェスローフスキイに渡し、沼をさして行った。
 もう前から悲しげにくんくん鳴いて、不当な取扱いを愁訴していたラスカは、まだクラークの踏みこまぬ、レーヴィンにはなじみの深い、有望な場所をさして、まっすぐに駆け出した。そこは、土の盛りあがりのたくさんあるところであった。
「どうしてあれを留めないんだね?」とオブロンスキイは叫んだ。
「あいつは、無暗に驚かすようなことをしやしないよ」犬のふるまいを喜んで、そのあとから急いで行きながら、レーヴィンはそう答えた。
 ラスカは、なじみの土の盛りあがりへ近づくにつれて、捜しぶりがだんだん真剣になっていった。ただ一瞬、小さな沼の鳥に気をとられたばかりである。犬は土の盛りあがりの前で、くるりと一つ廻り、もう一つくるりと廻ると、突然ぶるっと身ぶるいして、じっと息を凝らした。
「来たまえ、来たまえ、スチーヴァ!」心臓がはげしく鼓動しはじめたのを感じながら、レーヴィンは叫んだ。と、さながら緊張した耳の栓《せん》でもとれたように、ありとあらゆるものの響きが、距離の差を失って、めちゃくちゃに、しかしはっきりと、彼の耳朶《じだ》を打ちはじめた。オブロンスキイの足音が聞えると、それが遠い馬蹄の響きに感じられたり、自分の踏んだ土の盛りあがりが、草の根といっしょに片すみにくずれ落ちると、それが田鴫の飛ぶ羽音に聞えたりした。また遠からぬうしろの方で、何か水をばちゃばちゃ渡る音がしたが、彼はそれが何やら分らなかった。
 足の踏み場を選びながら、彼は犬の方へ近づいて行った。
「よし!」
 田鴫でなく本当の鷸《しぎ》が、犬の足もとからさっと飛び立った。レーヴィンが銃を向けようとしたとたん、水をばちゃばちゃいわせる音が高々と近づいてきて、何か奇妙な大声で叫んでいるヴェスローフスキイの声が、その響きにまじった。レーヴィンは、彼がうしろから銃で鷸を狙っているのを見たが、それでも火蓋を切った。
 やりそこなったのを確かめて、レーヴィンはうしろをふり返った。見ると、小馬車を曳いた馬は、街道ではなく、沼地の中に入っていた。
 ヴェスローフスキイは猟を見ようと思って、沼の方へ車をまわし、馬をぬかるみへはめてしまったのである。
『えっ、この野郎!』ぬかるみへはまった馬車の方へとって返しながら、レーヴィンはひとりごちた。「なんだって動いたんです?」とそっけない調子で彼にいい、馭者を呼んで、馬を引き出しにかかった。
 レーヴィンは、猟の邪魔をされたのも、馬をぬかるみへはめられたのも、いまいましかったけれど、何よりも、馬を引き出したり車から離したりするのに、オブロンスキイもヴェスローフスキイも、馬具がどうなっているのやら、なんの心得もないために、彼と馭者の手伝いをしないのが、癇ざわりであった。そこはぜんぜん乾いていたのだと、一生懸命に言い訳するヴァーセンカに、ひと言も返事をしないで、レーヴィンは馬を引き出そうとして、馭者と二人で黙黙と働いていた。しかし、あとになってから、あまり働いてすっかり体が温まったうえ、ヴァーセンカが一生懸命に泥よけをひっぱって、ちぎってしまったのを見たとき、レーヴィンは昨夜の気持に影響されて、あまりヴェスローフスキイに冷淡だったと、気が咎めるようになった。で、自分のそっけなさを償うため、かくべつ愛想よくしようとつとめた。やっとすっかり始末がついて、馬車が街道へ引き出されたとき、レーヴィンは弁当を出すように命じた。
「〔Bon appe'tit ― bonne conscience! Ce poulet va tomber jusqu'au de fond de mes bottes.〕(良心の清らかなものは、食欲も健全ですよ! この若鶏は靴の底までおりて行くようだ)」また陽気になったヴァーセンカは、一つめの若鶏を平らげながら、フランス語で洒落《しゃれ》をいった。「さあ、これで災難もすんだから、これからは万事とんとん拍子にいきますよ。ただし、僕は自分の罪滅ぼしに、馭者台に坐らなくちゃならない。そうでしょう? だめです、だめです、僕がアウトメドン([#割り注]アキレスの馭者[#割り注終わり])です。見ててごらんなさい、僕りっぱにあなたがたを連れてってあげますから!」レーヴィンが馭者と代ってくれと頼んだとき、彼は手綱を放さないでそう答えた。「いや、僕は罪滅ぼしをしなくちゃならない。それに、馭者台はいい気持ですもの」こういって彼は、乗り出した。
 レーヴィンは、彼が馬を、ことに扱い方を知らない栗毛の左の側馬を、弱らせはしないかと、いささか心配ではあったけれども、つい相手の陽気につりこまれて、ヴェスローフスキイが馭者台に腰かけたまま、途中ずっと歌い通し、しゃべり通しのロマンスや世間話を聞いたり、イギリス式に four in hand(四頭を片手で)馭すにはどうしたらいいか、などという仕方話をながめたりしていた。こうして、一同は食後の上々きげんで、グローズジェヴォの沼へ着いた。

[#5字下げ]一〇[#「一〇」は中見出し]

 ヴァーセンカがあまり早く馬を追ったので、沼へ着いたのが早過ぎて、まだ暑かった。
 今度の猟のおもな目的である大事な沼へ近づいたとき、レーヴィンはどうしたらヴァーセンカを厄介払いして、邪魔なしに歩けるかと、知らずしらずそのことを考えていた。オブロンスキイも明らかに同じことを望んでいるらしく、レーヴィンは彼の顔にもったいらしい表情を見てとった。それは、本当の猟人がいつも猟のはじまる前に見せるものであったが、そのほか、この男に独特の人のいいずるさも現われていた。
「さあ、どんなふうにはじめたもんだろう? 沼はたいしたものらしい、それに、隼《はやぶさ》も見えているし」とオブロンスキイは、菅《すげ》の茂みの上に輪を描いている、二羽の大きな鳥を指さしながらいった。「隼がいるとこには、きっと野禽がいるんだから」
「ところで、諸君、あれが見えますか」いくらか暗い表情で長靴をひき上げ、銃の撃発装置を上からのぞいて見ながら、レーヴィンはいいだした。「あの菅が見えますか?」川の右手にひろがっている、半ば刈られた大きな水っぽい草地の中に、黒ずんだ緑色の島のようなものを指さした。「沼はすぐここから、僕らのまん前から、始ってるんですよ――ごらんなさい、緑の濃いところから、ここから右の方、そら、馬の歩きまわっている辺へむかってるんですよ。あすこに土の盛りあがりがたくさんあって、田鴫がいるんですよ。この菅の茂みのぐるりから、あの榛《はん》の木立ちと、それからあの水車場のとこまで。そら、見えるだろう。入江になったところ。これが一番いいとこなんだ。あすこで僕は一度、鷸を十七羽打ったことがある。僕らは二匹の犬をつれて、二手に分れて、あの水車場のとこで落ち合おうじゃないか」
「じゃ、だれが右へ行って、だれが左へ行くんだね?」とオブロンスキイはきいた。
「右の方が広いから、二人で行きたまえ、僕は左へ行こう」と彼は一見、無頓着らしくいった。
「結構! ひとつ二人で、あの先生を射ち負かしてやりましょう。さあ、出かけた、出かけた、出かけた!」とヴァーセンカがひきとった。
 レーヴィンも同意せざるを得なかった。で、彼らは別れわかれになった。
 彼らが沼へ入るやいなや、二匹の犬はいっしょに獲物さがしをはじめ、錆水《さびみず》の方へひかれて行った。この用心ぶかい、まだ方向の決まらないラスカの捜しぶりを、レーヴィンはよく承知していた。彼はこの場所もよく知っていたので、鷸の大群を待ちもうけていた。
「ヴェスローフスキイ、並んで、並んで来たまえ!」あとから水をぴちゃぴちゃいわせながら進んでくる仲間にむかって、彼は消え入りそうな声でいった。コルペンスコエ沼で思わぬ発射を受けてから、彼はこの男の銃の方向が、気になってしかたがないのであった。
「いや、僕はあなたの邪魔をしたくないから、どうか僕のことなんか考えないで下さい」
 しかしレーヴィンは、ひとりでに考えずにいられなかった。そして、キチイが良人を出すときにいった、『お互に撃ち合ったりしないでね』という言葉が、われともなしに頭に浮ぶのであった。二匹の犬は、しだいしだいに近づいて行く。互にやりすごしながら、めいめい自分の進路を守っている。鷸《しぎ》を期待する念があまりにも強かったので、錆におおわれた沼地からひき抜く自分の靴の音が、レーヴィンの耳には鷸の鳴き声のように思われた。彼は銃の床尾《だいじり》をつかんで握りしめた。
「ぱっ! ぱっ!」という音が、彼の耳のすぐそばで響いた。ヴァーセンカが鴨《かも》の群にむかって、火蓋を切ったのである。鴨は沼の上をくるくるまわっていたが、ちょうどそのとき、むやみに猟人たちの方へ飛んで来たのである。レーヴィンがふり返る暇もなく、一羽、二羽、三羽、それにつづいて八羽ばかりの鷸が、舌打ちでもするような鳴き声を立てて、次から次へと飛び立った。
 オブロンスキイは、一羽の鷸がジグザグを描こうとした瞬間に、どんと一発みごとに射ちとめた。と、鷸はつぶてのように沼地へ落ちた。オブロンスキイは悠々騒がず、菅の茂みの方へ低く飛んでいたもう一羽に、つつ先を向けたと思うと、銃声と共にこの鷸も落ちた。まだ下の方は傷のついていない白い翼で羽ばたきながら、刈りとられた菅の中から、ひょいひょいと跳んで出るのが見えた。
 レーヴィンはそれほど猟運がよくなかった。はじめの鷸に向けた狙いが低すぎたので、まんまとしくじった。鳥がもう上の方へあがりかけたとき、さらにつつ先を向けたが、そのとき、もう一羽足もとから飛び出したのに気をとられて、第二の失敗をしてしまった。
 彼が銃の装填《そうてん》をすましているあいだに、またもや一羽飛び立った。すると、もう二度目の装填をすましていたヴェスローフスキイが、二発の霰弾《さんだん》を水の中へ射ってしまった。オブロンスキイは自分の獲物を拾い集めて、輝かしい目でレーヴィンをながめた。
「さあ、これで別れようじゃないか」とオブロンスキイはいって、左の足で軽くびっこをひきながら、いつでも射てるように銃を用意して、口笛で犬を呼び呼び、一方へ歩き出した。レーヴィンとヴェスローフスキイは反対側へ向った。
 レーヴィンはいつも、第一発を仕損じると、のぼせて癇を立てるために、一日へまばかりやるのが常であった。今日もそのとおりで、鷸はたくさんいて、犬のそばからも、猟人たちの足もとからも、のべつばたばた飛び出したにもかかわらず、レーヴィンは調子をとり戻すことができなかった。射てば射つほど、ヴェスローフスキイの前で恥をかいた。こちらはまた、距離の適不適などにはおかまいなく、おもしろ半分にぽんぽんやって、一羽も仕留めることができなかったけれど、いっこうきまりの悪そうなふうもなかった。レーヴィンはいよいよあせりにあせって、自制力を失い、のぼせあがる一方なので、ついに火蓋を切りながらも、命中しようと思わないまでに立ちいたった。ラスカもどうやら、それを感じたらしい。だんだんさがしかたが不精になって、けげんそうというか、非難するようにというか、そんな表情で、猟人たちをふりかえるのであった。発射はあとからあとからとつづいて、火薬の煙は二人の猟人の周囲に立ちこめていたが、大きなゆったりした獲物袋には、小さな軽い鷸が入っているばかり、それも一羽はヴェスローフスキイの射ったものであり、一羽は二人共同の獲物であった。ところが、沼の反対側には、オブロンスキイのあまり頻繁《ひんぱん》ではないが、手ごたえのありそうな(とレーヴィンには思われた)発射の音が聞えた。しかも、ほとんどそのたびに、『クラーク、クラーク、取ってこい!』という声が聞えた。
 そのため、レーヴィンはますます興奮してきた。鷸はたえず菅の茂みの上空を舞っていた。地上に響く舌打ちのような鳴き声、虚空《こくう》に聞える鴉《からす》に似た鳴き声は、やみまもなく四方八方から聞えた。前に驚いて飛び立って、空中に輪を描いていた鷸は、猟人たちの前にとまるのであった。前には二羽だった隼が、今は幾十羽となく、かぼそい声を立てながら、沼の上を舞っていた。
 沼を大半まわったとき、レーヴィンとヴェスローフスキイは、菅のところまで届いている、長い条《すじ》で分割された百姓の草場までたどりついた。その分け目は、足で踏みならした条もあれば、刈草の筋のところもあった。それらは大半すでに刈られていた。
 まだ刈ってないところでは、刈跡ほどの獲物を見つける望みが少なかったけれども、レーヴィンはオブロンスキイと落ち合う約束がしてあったので、自分の道づれといっしょに、刈ったところや刈らないところと、草場づたいに先へ先へと進んだ。
「おおい、猟の衆!」馬を離した荷車のそばに坐っていた百姓たちの一人が、こう叫んだ。「ここへ来て、わしらといっしょにひと口たべなさらんか! 酒もあるに!」
 レーヴィンはふりかえった。
「来さっしゃれ、かまわねえだよ!」赤い顔をした陽気者らしい鬚《ひげ》の百姓が、白い歯をむき出して、太陽に輝く青みがかった角びんを持ち上げながらどなった。
「Qu'est ce qu'ils disent?(あれは何をいってるんです?)」とヴェスローフスキイがたずねた。
「ウォートカを飲まないかといって、呼んでるんです。あの連中、きっと草場を分割してたんですよ。僕はいっぱいやってもいいですな」とレーヴィンはいくらかずるい目算もあって、こういった。ヴェスローフスキイがウォートカに誘惑されて、百姓らのほうへ行くかもしれない、とあてにしたのである。
「なんだってごちそうしようっていうんです?」
「ただ、みんないっぱいきげんでいるからですよ。全く、行ってごらんなさい、きっとおもしろいですよ」
「Allons, c'est curieux(行きましょう、そいつは風変りだ)」
「いらっしゃい、いらっしゃい、水車場へ出る道はわかるでしょう!」とレーヴィンは叫んだ。ふりかえって見ると、ヴェスローフスキイは背中をかがめ、疲れた足でつまずきがちに、だらりとのばした手に銃をさげて、沼地から百姓たちの方へ出て行く様子に、思わずうれしくなってしまった。
「おまえさんも来さっしゃい!」と百姓はレーヴィンに叫んだ。「遠慮はいらねえよ! 肉饅頭《にくまんじゅう》のさかなもあるだに!」
 レーヴィンはウォートカを一ぱいやって、パンをひときれ食べたくてたまらなかった。彼は力衰えて、もつれる足を沼地からひき抜くのが、やっとこさなのを感じた。彼はいっとき気迷いを覚えた。が、そのとき犬が歩みをとめた。すると、たちまち疲れはどこかへ消し飛んで、彼は沼地づたいに、犬のほうへ軽々と歩いて行った。と、その足もとから鷸が飛び立った。彼は火蓋を切って、まんまと仕留めた。犬はじっと立ったままでいた。『取ってこい!』犬のすぐそばから、もう一羽とび出した。レーヴィンは切って放した。が、それは運の悪い日であった。彼は仕損じたうえに、殺した獲物を捜しに行っても、それさえ見つからないのであった。彼は菅の中じゅう這《は》いまわったが、ラスカは主人が仕留めたことを信じないで、捜しにやっても、捜しているようなふりをするだけで、本気に捜さなかった。
 彼は自分の失敗の責任を、ヴァーセンカに内心ぬりつけていたが、ヴァーセンカがいなくても、レーヴィンの調子はなおらなかった。そこには鷸はたくさんいたけれども、レーヴィンは失敗をつづけるのみであった。
 斜陽はまだ暑かった。汗でべっとり濡れた服は、体に粘りつくし、水のいっぱい入った左の長靴は重くて、ぐちゃぐちゃ音がした。火薬で黒くなった顔には、玉なす汗が流れていた。口の中は苦い味がして、鼻の中には火薬と鉄錆の臭いがし、耳の中では舌打ちに似た鷸の鳴き声がのべつ聞えていた。銃身には、さわることもできなかった。火のように熱くなっていたのである。心臓は小きざみに早く打っていた。手は興奮のためにぶるぶるふるえ、疲れた足は、土の盛りあがりや沼地の悪路に、つまずいたりもつれたりする。が、彼は相変らず歩きまわって、射ちつづけていた。最後に、われながら恥さらしな失敗をしたとき、彼は銃と帽子を地べたへ叩きつけた。
『いや、気をおちつけなくちゃだめだ!』と彼はひとりごちた。で、銃と帽子を拾いあげ、ラスカを足もとへ呼んで、沼地から上がった。乾いた場所へ出ると、土の盛りあがりに腰をおろし、靴をぬいで、たまった水をこぼした。それから、沼の岸に近よって、錆の味のする水をしこたま飲み、熱しきった銃身を水に濡らし、顔と手を洗った。さっぱりした気持になってから、もう今度こそはあせるまいという固い決心で、また鷸の移った場所へ行った。
 彼はおちつこうと思ったけれども、やはり同じことであった。まだ鳥が照星《しょうせい》とぴったり合わないうちに、彼の指はもう引金《ひきがね》を引くのであった。ますますわるくなる一方である。
 沼からあがって、オブロンスキイと落ち合うはずになっている榛の木立まで来たとき、彼の獲物袋には、わずか五羽しかいなかった。
 オブロンスキイを見つけるよりさきに、彼の犬が目に入った。榛の木の掘り返された根っこの陰から、沼の臭い泥で真黒になったクラークが飛び出して、勝利者然とした様子で、ラスカと嗅ぎ合っていた。クラークにつづいて、オブロンスキイのすらりとした姿も、榛の木陰から現われた。真赤な顔をして、全身汗みどろになり、襟のボタンをはずして、相変らずこころもちびっこをひきながら、レーヴィンのほうへやって来た。
「え、どうだったね? ずいぶんぽんぽんやってたじゃないか!」と彼はたのしげにほほえみながら、声をかけた。
「ところで、君は?」レーヴィンはたずねた。が、きくまでもなかった。いっぱいにふくれた獲物袋が、早くも目に入ったからである。
「いや、わるくないよ」
 彼は十四羽も仕留めていた。
「たいした沼だよ、君はきっとヴェスローフスキイに邪魔されたんだろう。一匹の犬で二人は、ぐあいの悪いもんだよ」自分の勝利を和らげるように、オブロンスキイはこういった。