「いってみよー、どこまでセコイ大口を叩けるか!」という、見る者をなめきったバラエティー番組のふざけた企画であれば、と思った。
歴史学者兼”売れっ子の書き手”、本郷和人氏の以下の記事である。
早川タダノリ氏のツイートで知ったのだが、私は読んで悪性の胸やけがした。
「専門家」って誰だろう?:「ぼくは右でも左でもないつもり……でも、そんなぼくでも先日の韓国の徴用工判決には驚いた。大統領主導の猿芝居による裁判(専門家の説得力をもつ指摘あり)にもかかわらず「司法の判断を尊重」と強弁し……」https://t.co/lj54anc4fu
— 早川タダノリ (@hayakawa2600) December 8, 2018
第一、本郷氏は産経新聞が超極右歴史観・「日本はなにがなんでも絶対一つ」歴史観を日々発信していることの危険性をどう考えているのだろうか。
2017年11月に亡くなられたが、佐藤進一という歴史家がいた。本郷氏の指導教官である石井進の指導教官であるから、本郷氏は孫弟子にあたる。代表作は1965年に出版された「日本の歴史9 南北朝の動乱」で、50年以上の時をへた現在も南北朝の通史として名高い。ちなみに、本郷氏自身の話によると、配偶者の本郷恵子氏(専門は日本中世)は佐藤氏から激励の手紙をもらったことがあるという(※1)。
佐藤氏は研究思想も政治思想も穏健派だったようだが、1968年の東大紛争の時に「造反教官」となり、約一年後に辞職している。以下の記事に佐藤氏の言動がある。
あとがき4 「造反教官」の1970年 : 佐藤進一『日本の中世国家』(岩波現代文庫、2007年) - あとがき愛読党ブログ
佐藤教授は九月八日に辞表を提出し、十月七日の文学部教授会で受理された。辞表提出にさいし同教授は「退官の趣意に関する覚書」を全文学部教授に配った。要旨は「哲学科学生の処分はすべきでなかったと考えるし、従ってこの処分を行なった教授会の構成員である私は、当然その責任を明らかにしなければならない」というもの。九日夜、東京・練馬区関町の自宅で同氏は退陣の弁を語った。
「一ついえるのは、処分についてもっと本筋にかえって考えるべきで、処分の理由となった事実をもう一度はっきりさせるべきですよ。これが何よりの前提で、教授会の議論には欠けていた……」
本郷氏は、蔵書に確実にあるであろう、佐藤氏の著書にどんな姿勢で臨んでいるのだろうか。私は非常に気になる。
本郷氏は、今はほぼまったく更新されない自身のHPで、以下のように書いている。
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/kazuto/new-up/15.html
我が国での史料の解析は、明治時代に始まる史料編纂所での歴史資料の編纂事業を中核として進められてきた。一方で欧米からの歴史理論の受容の必要性が等閑視されたわけではなく、例えば東京帝国大学教授の三上参次は後任の助教授、平泉澄に理論研究の重要性を強く説いたと言われる。1930(昭和5)年の平泉(35歳)の外遊はまさにそれを目的としたものであったが、彼の研鑽は皮肉なことに、およそ科学とはかけ離れた皇国史観として結実したのであった。
敗戦後の皇国史観の徹底的な否定は、正反対の位相を有する唯物史観の隆盛を招来するが、それもやがて新たな理論に批判的に継承されるべきであった。ところが、ベルリンの壁の崩壊やソビエトの瓦解を目の当たりにした今日ですら、唯物史観はしぶとく根を張り、これを凌駕する潮流はなかなか見えてこない。研究者の怠慢はまさに責められるべきであるが、では彼らは如何にして給料分の活動を持続しているかといえば、実証性を口実に史料解釈に安易に依存しているのである。
アマゾンでの著作リストを見るかぎり、本郷氏は”サブカルチャー”の力をおおいに”動員”して理論(合理的)的史観を広めようとしているようだが、「フレキシブルに売れる人間になってくれ」が基本原理の高度消費社会への警戒心がほぼまったくない。その証拠に、たとえば2018年のうちに7冊以上も本を出している。いや、同程度のスピードで本をだした(本郷氏の仮想論敵の一人であるらしい)網野善彦氏の例もあるが、いくら網野氏でも1年のうちに5冊以上も本を出したことはない。それに、CiNiiで調べるかぎり、本郷氏は少なくとも2010年ごろからほとんど研究論文を書いていない。この点も、最晩年に人生の最後に決着をつけようと「古文書返却始末記」などを書き続けた網野氏と対照的である(※2)。指導教官の石井進氏と五味文彦氏のうち、石井氏はもう亡くなられたが、五味氏はまだ『吾妻鑑』現代語訳を執筆するなど健在でおられるようである。「少し腰を落ち着けて本を書いたらどう?」と教え子に一言でも苦言をいうべきではないだろうか(※3)。サービス精神あふれるのもいいが、その結果無残なものを書いてしまうのならば、「サービス精神」は人をむやみに刺すトゲにしかならない。
Amazon.co.jp: 本郷和人[https://www.amazon.co.jp/%E6%9C%AC%E9%83%B7-%E5%92%8C%E4%BA%BA/e/B001I7S1QY:titl
CiNii Articles 検索 - 本郷和人
私は戦国時代については勉強不足なので言及できない(※4)が、本記事の幕末期についての文章には、どうしても一点批判をしたい。それは以下の点である。
「なぜ、「実は西郷です」と書いて、「実は、西郷(隆盛)と大久保(利通)です」と書かなかったのか?」
西郷隆盛といえば、江戸城無血開城が最大級の政治的功績の一つとして有名である。西郷が大規模戦争を望んでいただけのならば、なぜ江戸城を無血開城させることができたのか理解不能になってしまう。”ひどく冷たい”と評価されることの多い大久保の名前を入れていれば、決定的な記述ミスにはならなかったはずである。ちなみに、西郷隆盛の有名なエピソードの一つとして、戊辰戦争において庄内藩に寛大な措置を行ったことも挙げられる。これが現在も入手容易な『南洲翁遺訓』が庄内藩関係者によって編集された理由である。関係書籍によく出てくるエピソードなので、本郷氏が知らないはずがない。
家近良樹氏の著書『西郷隆盛 人を相手にせず、天を相手にせよ』(2017年、ミネルヴァ書房、索引をさしひいて567頁!)のP312~P325に、徳川慶喜の処罰問題~江戸城無血開城についての記述があるが、家近氏は特にP322で
柔らかな対応
夕暮れにようやく終わった、この日の会談に臨んだ西郷の態度は、後年の勝の回想によると、ひどく「おおらか」で寛大なものだったらしい。(略)
大久保は、西郷に劣らない「胆力」の持ち主ではあったが、彼では西郷のような柔らかな対応はなしえなかったであろう。ましてや、「逃げの小五郎」といわれた木戸の「胆力」では西郷のマネはとうていできなかったとみなせる。まさに心中に余裕のある千両役者なればこそとりうる風格の漂う対応となった。
と指摘している。今の本郷氏に、家近氏のこのレベルの洞察がどれだけ期待できるだろうか。私には非常に困難だと考える。
私は、政治的立場の違いを認めたうえで、この西郷隆盛の伝記の著者・家近良樹氏を敬愛しているが、家近氏は講演「敗者の側から幕末維新史を振り返る ――会津藩や徳川慶喜はなぜ敗れたのか――」の最後のほうにおいて、以下のように語っている。
歴史学をやってまして、いろんな経験が一方的に不幸だと受けとめなくて済むようになったということが、この年まで生きてきて一番ありかたいなと思いますね(※5)。
本郷氏は、いや失礼、”今の”本郷氏は、この言葉の”奥深さ”を、どこまで理解できるだろうか?
ここまで書いてきて、私は怒りとともに、深い深い失望感を感じざるをえない。日本近現代史の「おはぎとオレンジジュース」のエピソードを思い出してしまった。何のことか、以下に説明する。
1995年3月20日の早朝に、地下鉄サリン事件を引き起こした実行犯たちは衣類と傘などを処分(場所は多摩川周辺だと証言されている)して、夜もふけた頃第六サティアンに戻り、松本(麻原)に報告をした。そのとき、松本(麻原)は実行犯たちに「マントラを一万回唱えなさい」と言ったのは有名なエピソードなのだが、同時に”報酬”として渡したのが「おはぎとオレンジジュース」なのである。この記述はwikipediaの記述だが、「[27]降幡賢一『オウム法廷5』 p.307」という出典が書かれているので信用できる記述だろう。関連資料すべてを確認したわけではないが、「オウム「教祖」法廷全記録1 恩讐の師弟対決」に杉本繁郎(現・無期懲役囚)の証言として、たしかにこうある。
P284
検察官「部屋を出た後、証人らは何をしましたか」
証人「麻原からもらったおはぎを食べ、ジュースを飲みました。」
私はこの記述を読んで、頭に血がのぼった。「こんな無神経極まる人間が教祖だったとは!」と。
あまり知られていないが、警察は、3月22日以降の薬品などの証拠押収だけでは警察はオウム真理教教団のサリン製造を立証できず、結局、1995年5月6日の林郁夫の全面自供をまたねばならなかった。4月23日に中枢幹部の村井秀夫が刺殺されたことを考えると、オウム教団側の証拠隠しは「うまくいってしまった」のであって、その分、林郁夫の全面自供は非常に重要だった(※6)。
もし仮に、実行犯たちが地下鉄サリン事件から帰ったとき、松本(麻原)が「私も一緒に唱えるから、マントラ一万回となえることにしよう。今日は身を清めるために絶食だ。」などと言ったらならば、林郁夫(※7)たちの性格から判断すると、実行犯たちの自供までにかかった時間は、二カ月どころでは済まなかった可能性は非常に高い。この「おはぎとオレンジジュース」は、オウム教団の精神的荒廃と、その大規模殺人を可能にした方法論の一端が示されていると私には思われてならない。
本郷氏の、はっきりいえば、”精神的荒廃”ぶりは、この「おはぎとオレンジジュース」のエピソードと、「無神経極まる態度、そして”現実認識のちゃぶ台がえし”という精神的勝利法のとてつもない危険性」という点で、根本的に共通している。本郷氏は物理的に人を殺すことは決してないだろう。それは間違いない。だが、この記事では現に、言葉で他人を殴っている。だから私は、そう判断せざるをえない(※8)。
最後に本郷氏に、一言。
「本郷さん、あなたには心底失望したよ!!! ”売れっ子”ほど危険だと思ってたけど、あなたもだとはね!!! はっきりいって、筆を折ることも考えたほうがいい!!! 今後20年間は絶対にあなたの本を買わないからね! あと、恵子さんはじめ、友人・関係者の著者の本は全部、私の「一人につき十年に一冊だけ購入」のリストに入れておくからね!! 一人の読者にも、それぐらいの意地というものがありますからね!!!」
※1 「本郷和人 戦士から統治者としての王へ」https://www.youtube.com/watch?v=DzTNPyQgPgE の20分~25分あたりを参照。
※2 2000年の書評記事、「細川重男著, 『鎌倉政権得宗専制論』, 吉川弘文館, 二〇〇〇・一刊, A5, 五六七頁, 一三〇〇〇円」の、特に「4 まとめ」の部分を参照。18年という年月があるとはいえ、同じ人物が書いたとはとても思えないほど丁寧な記述である。一部引用しよう。
P116
「これをもとに百十七頁にもわたる鎌倉政権上級職員表、それに寄合関係基本資料、鎌倉政権要職就任者関係諸系図はこうして完成をみた。まこちに、得宗研究の根本史料と呼ぶに相応しい仕事である。これをもとに展開される細川氏の所論もまた、やがて乗り越えられていくのかもしれない。しかしこの膨大な史料部分は、湯学問的成果として後世に残っていく。これから得宗研究をこころざす研究者すべての財産になるに違いない。」
細川重男氏といえば、鎌倉政権成立時の資料をいわゆる「ヤンキー言葉」で現代語訳した本を出して、鎌倉~室町時代の武士(および民衆)の実像は「(ある種の)粗暴さ」抜きに考えられないことを、清水克行氏らと同時期に認知させた歴史家である。細川氏は自身のHPで活動を報告されているが、現在の本郷氏の言動をみて、何か思うところがあるのではないだろうか、と私は勝手ながら推測するのだが……。
https://ameblo.jp/hirugakojima11800817/
※3 2014年の書評記事によると、本郷氏は「研究者として決定的に格が違う」という理由から、五味氏に頭が上がらないようなのだが……
自然の背景に人間の営みを見る|好書好日
※4 中世史研究者としては、徳川幕府と李氏朝鮮との国交再開交渉をめぐる有名な「対馬藩の国書偽造事件(についての両国の政治的決断)」に言及すべきでは、と素人ながら思う。
※5 「敗者の側から幕末維新史を振り返る ――会津藩や徳川慶喜はなぜ敗れたのか――」(家近良樹)の紹介 - s3731127306973のブログ
※6 即死性の薬物による大規模化学犯罪事件の立証が日本裁判史上ほぼ例がないこと、1995年3月中旬ごろまでには警察が仮谷清志さん監禁致死事件についての一定の立証ができていたことをふまえても、林郁夫の全面供述の重要性はほぼ揺らがない。これがなければ少なくともあとまる1年は裁判が長引いただろう。
※7 林郁夫の送迎役が、危険な意味で”無邪気”な、送迎役の中で唯一の死刑囚である新実智光だったことなどを考えると、1995年3月の時点で松本(麻原)は林郁夫の「真面目な」性格を十分判断できる判断力があったと判定できる。ちなみに、林郁夫と同姓だが親類関係のない、同じく教団内で「真面目」と評価されていたらしい林泰男の送迎役が、上で証言を紹介した杉本繁郎である。杉本は最古参幹部の一人で、専属運転手という、秘書のような立場だったことで、松本(麻原)の俗物性や危険性をかなりよく知ることができたのはほぼ確かである。林郁夫などの「あえて危険な、もしくは重大犯罪をさせて、脱走させにくくした」という推測は本質的に当たっているだろう。
補足になってしまうが、実行役と送迎役の人選がどのような思考過程で決定されたかは、論者の死角になっているようだが、非常に重要だと考えるべきである。オウムという教団の”カラー”がくっきりと出ているとみてよいからである。
※8 上で紹介した家近氏は、西郷隆盛について、P531で「だが、本書中で描写してきたように、本来の西郷隆盛は(略)たしかに豪傑肌で、これ以上ない大役を与えられても、見事に演じきれるだけの力量があった千両役者だったが、半面律儀で繊細な神経の持ち主であった。そして、そのぶん、彼は苦悶に満ちた人生を歩みつづけ、最後は城山で悲惨な死を迎えざるをえなかった。」と書いていることを付記しておくことにする。