『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」8-16~8-19(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#5字下げ]一六[#「一六」は中見出し]

 弁証に経験を積んだコズヌイシェフは、それには反駁しないで、いきなり話を別のほうへもっていった。
「そうだね、もしおまえが数学的な方法で、民衆の精神を知ろうというのなら、その目的を達するのは、もちろん、非常に困難だよ。ロシヤには投票の制度がないからね。もっとも、それは実施するわけにいかないのだ。そんなものじゃ民衆の意志は表示されないからね。しかし、そのためには別の方法がある。それは空気の匂いでわかるんだ、心臓で感じられるんだ。民衆の停滞した海の中に動いている底流、だれでも偏見をもっていない人には明瞭にわかる底流については、私はあえていわないことにするが、まあ狭い意味の社会をちょっと見るがいい。インテリゲンチャの世界に属する種々雑多な党派、以前はあれほどにらみあっていた党派という党派が、みんな一つに合流してしまったじゃないか。意見の相違はすっかり片づけられてしまって、すべての公共機関が同じことをいいだした。つまり、みんなわれわれをつかんで、同じ方向へひっぱっていく本然的な力を、直覚したんだね」
「そう、そりゃ新聞はみんな、同じことをいいだしたよ」と老公が口をはさんだ。「それはそのとおりだよ。だが、あんまり同じことすぎて、まるで夕立ちの来る前の蛙どもみたいだよ。おかげで何一つ聞えやせんわい」
「蛙か蛙でないか――私は新聞を発行しちゃいないから、その弁護はしたくありません。私がいうのは、インテリゲンチャの世界における考え方の一致ということなんだ」とコズヌイシェフは、弟のほうへ向いていった。
 レーヴィンがそれに答えようとすると、老公がさえぎった。「いや、その考え方の一致ということについちゃ、まだ別のことがいえるよ」と老公はいった。「そら、わしの婿のスチェパン・アルカージッチだが、あんたごぞんじだね。あれが今度なんとか[#「なんとか」は底本では「なとんか」]連合委員会――わしはよく覚えておらんが――の理事になったわけだ。ところが、そこじゃなんにもすることがないんだよ。――なに、かまわんよ。ドリイ、これは秘密じゃないのだからな――ところが、年俸は八千ルーブリなんだ。そこでひとつ、あれにきいてごらんなさい、君の仕事は社会に貢献するものか? って。あれはきっと、最も重要なものだと証明してみせるだろうよ。しかも、あれは正直な男なんだが、それにしても八千ルーブリのご利益は、信じないわけにいかんて」
「ああ、そうそう、あの人は就職の話がきまったことを、ダーリヤ・アレクサンドロヴナにいってくれと、私に頼まれましたよ」老公が的はずれのことをいっていると思って、コズヌイシェフは不満げにいった。
「つまり、新聞の論調が一致してるのも、それと同じことなんだよ。わしはよく説明を聞いたんだが、戦争がはじまるが早いか、とたんに新聞の収入は、二倍に殖えるそうだよ。だから新聞としては、国民の運命とか、スラヴ民族の運命とか……そういったものを、勘定に入れずにおられるものかね?」
「私はたいていの新聞は嫌いですが、それは当を失した見方ですね?」とコズヌイシェフはいった。
「わしはただ一つ条件をつけたいな」と老公はつづけた。「アルフォンス・カルルが、普仏戦争の前に、こういう卓説《たくせつ》を吐いたことがある。『諸君は戦争が必要であるとお考えですな? よろしい。戦争を宣伝するものは、先頭の特別部隊に編入して、まっさきに突撃させることにしましょう』とな」
「いや、編集者たちのかっこうは、みごとなものでしょうな!」とカタヴァーソフは、からからと笑いながらいった。自分の知り合いの編集者たちが、この選抜隊に編入されたところを、想像してみたのである。
「だって、しようがないじゃありませんの、逃げ出すばかりですわ」とドリイはいった。「ただじゃまになるばかりですわ」
「なに、逃げ出したら、あとから榴弾《りゅうだん》をくらわすか、それともコサックに鞭を持たせて、見張らしたらいいさ」と老公はいった。
「いや、そんな冗談を。失礼ですが、公爵、それはよくない冗談ですよ」とコズヌイシェフがいった。
「僕はそれを冗談だとは思いませんね。それは……」とレーヴィンがいいかけたが、コズヌイシェフはさえぎった。
「社会の各員はそれぞれ、自分に相当した仕事をする使命をおびています」と彼はいった。「で、思想人も世論を表明することによって、おのれの任務を実行しています。心を一つにして、完全に世論を表明するのが、新聞雑誌の功績であるとともに、喜ぶべき現象であります。これが二十年前だったら、われわれは沈黙していたでしょうが、今はロシヤ国民の声が聞えます。彼らはあたかも、一人の人間のごとく立ちあがって、迫害されている同胞のために、おのれを犠牲にする覚悟なのです。これは偉大な一歩前進で、力の証明です」
「しかし、犠牲になるばかりじゃなくて、トルコ人を殺すんじゃありませんか」とレーヴィンは、臆病そうにいった。「民衆が犠牲になっているのは、犠牲になる覚悟でいるのは、魂の救いのためで、殺人のためじゃないでしょう」自分の心を占めている想念に、知らずしらず話を結びつけながら、彼はこうつけ足した。
「え、魂のためだって? それはどうも、自然科学者にとってはやっかいな表現ですな。いったい魂とはなんです?」とカタヴァーソフが、微笑を浮べながらいった。
「ああ、君にはわかってるでしょう!」
「ところが、全くのところ、てんでなんの観念ももっていませんよ!」とカタヴァーソフは大声に、笑い笑い答えた。
「われは平和《やわらぎ》にあらず剣《つるぎ》を持ちきたれるなり、とキリストもいってるからね」いつもレーヴィンにとってつまずきとなる福音書の一句を、さもわかりきったことのように、ざっくばらんな調子で引用しながら、コズヌイシェフもまた自分の反駁を試みた。
「そりゃそのとおりでごぜえます」偶然、自分のほうへ投げられた一瞥《いちべつ》に答えながら、そばに立っていた爺さんが、またこうくりかえした。
「いや、君、敗北だよ、敗北だよ、完全な敗北だよ!」とカタヴァーソフはさも愉快そうに叫んだ。
 レーヴィンはいまいましさに顔を赤くした。それは、自分が敗れたからでなく、ついがまんしきれないで、議論などはじめたからである。
『いや、おれはあの人たちと議論しちゃいけないんだ』と彼は考えた。『あの人たちは、刃の立たないような鎧《よろい》を着ているのに、おれは丸裸なんだからな』
 彼は、兄やカタヴァーソフを説伏することも不可能だが、彼らに同意することはさらに不可能なのをみてとった。彼らの宣伝していることは、危く彼を破滅させようとした、かの慢心にほかならない。兄をもまじえた数十人の人々が、両首都へやってきた話上手な数百人の義勇兵のいったことを基にして、自分らこそは各新聞とともに、民衆の意志と思想を代表している、と声明する権利をもっているという、そんなことに同意するわけにいかない。しかも、その思想は復讐と、殺人に表現されるのではないか。彼がそれに同意することができなかったのは、自分の生活環境をなしている民衆の中に、そういう思想の表現を認めなかったし、また自分の中にも、そうした思想を見いださなかったからである(彼は、ロシヤ民衆を形成している人々の一人として以外には、自分自身を考えることができなかった)。しかし、おもな理由はほかでもない。彼は民衆とともに、一般の福祉はそもそも何にあるか、ということを知らなかったけれども、この一般の福祉は、各人に啓示された善の掟《おきて》を、厳重に実行することによってのみ、達しられるということは、しかと承知していた。したがって、彼は戦争を望むわけにいかず、いかなる一般的目的のためであろうとも、これを宣伝するわけにいかないのであった。彼はミハイルイチや民衆とともに、ものをいっているのであった。この民衆はヴァリャーグ人([#割り注]スカンジナヴィヤ人の古名、ロシヤ最初の王となったリューリックは、その酋長[#割り注終わり])の招聘に関する伝説の中で、自分の思想を表白したのである。曰《いわ》く、『すべからく王となってわれらを支配せよ。われらは欣然《きんぜん》として完全なる服従を誓うべし。いっさいの労苦、いっさいの屈辱、いっさいの犠牲を、われらはこの身に負わん。されど、われらは裁き決することなかるべし』この民衆が今や、コズヌイシェフ一派の言葉によると、かほどの高い価によって購《あがな》われた権利を、放棄せんとしているのである。
 彼はなおそのうえに、もし世論が神聖侵すべからざる審判者であるならば、なぜ革命やコムミューンが、スラヴ救済運動と同じく、正当なものと認められないのか? ということもいいたかったのである。しかし、それらはすべて、何ものをも解決することのできない思想にすぎなかった。ただ一つまちがいなくわかっているのは、ほかでもない、今のところ、議論がコズヌイシェフをいらいらさせているから、議論するのはよくない、ということであった。で、レーヴィンは口をつぐんで、黒雲がひろがってきているから、雨にあわない先に家へ帰ったほうがいいといって、客人たちの注意をそらした。

[#5字下げ]一七[#「一七」は中見出し]

 老公とコズヌイシェフは馬車に乗って、行ってしまった。ほかの人たちは足を早めて、徒歩《かち》で家路へ向った。
 しかし、雨雲はときに白くなったり、ときに黒くなったりしながら、見るみるうちに、頭上にひろがってきたので、雨のこぬ先に帰りつくには、なおさらに歩みを早めなければならなかった。先頭に立っている、煤《すす》をまぜた煙のように黒い低い雲は、恐ろしい早さで空を走っていた。家まではまだ二百歩もあるのに、もう風が起って、いつ驟雨《しゅうう》がやってくるかわからなかった。
 子供らはおびえたような、うれしそうな叫びを立てながら、まっさきに駆けだした。ドリイは、足に巻きつくスカートと悪戦苦闘しながらも、子供たちから寸時も目をはなさず、もう歩くというより走っていた。男たちは帽子をおさえながら、大股に歩いた。一行がやっと入口階段まで来たとき、大粒の雨が、ブリキの樋《とい》の端にあたって砕けた。子供らと、それにつづいて大人たちは、にぎやかな話し声といっしょに、屋根|庇《ひさし》の下へ駆けこんだ。
「奥さんは?」頭にかぶる巾《きれ》や膝掛を持って、控室で一行を出迎えたアガーフィヤに、レーヴィンはこう問いかけた。
「ごいっしょだと存じておりましたが」と彼女は答えた。
「じゃ、ミーチャは?」
「きっとコーロックでございましょう、ばあやがついております」
 レーヴィンは膝掛をひったくって、コーロックのほうへ駆けだした。
 このわずかなあいだに、雨雲は早くも、その中心に太陽を包んでしまったので、あたりは日食のように暗くなった。風は執拗におのれを主張するかのごとく、レーヴィンを先へやるまいとし、菩提樹の葉や花をひきむしり、白樺の白白とした枝を奇怪に醜くむきだしにし、アカシヤも、草花も、野ごぼうも、雑草も、木々の梢も、なにもかも一方へおし傾けるのであった。庭で働いていた女中たちは、金切り声を上げながら、下男部屋の庇の下へ飛びこんだ。抜けるように降る雨の帷《とばり》は、もう遠方に見える森と、近くの畑の半ばをおおい隠して、見るみるコーロックのほうへ迫っていた。砕けてこまかい雫《しずく》になる雨の湿気が、大気の中に感じられた。
 首を前へかがめて、かぶっている巾《きれ》をむしり取ろうとする風と戦いながら、レーヴィンはもうコーロックの間近に駆けよって、※[#「木+解」、第 3水準 1-86-22]《かし》の大木の陰に、何か白いものさえ認めたが、その瞬間、ふいにあたりが一面にぱっと明るくなった。さながら大地が燃えあがって、頭上の穹窿《きゅうりゅう》がまっ二つに裂けたか、と思われるばかりであった。くらんだ目を開けて見たとき、レーヴィンは思わず慄然《りつぜん》とした。今は、彼とコーロックを隔てている厚い雨の帷《とばり》を透して、まず第一に目に映ったのは、森のまんなかにあるなじみの深い※[#「木+解」、第 3水準 1-86-22]《かし》の青々とした頂きが、奇妙に位置を変えていることであった。『雷にやられたのか?』とレーヴィンが考える暇もなく、※[#「木+解」、第 3水準 1-86-22]の頂きはしだいしだいに運動を早めながら、木立ちのうしろに隠れてしまった。と、ほかの木々の上に倒れかかる巨木の、めりめりという音が聞えた。
 電光と、雷鳴と、瞬間、総身に冷水を浴びたような感触は、レーヴィンにとって、恐怖という一つの印象に溶けてしまった。
「ああ、たいへん! たいへん! あれたちの上に倒れたのでなければいいが!」と彼は口走った。
 今はもう倒れてしまった塀のために、妻子が殺されないようにという願いが、いかに無意味なものかということは、彼もすぐ考えたけれど、この無意味な願い以外に、なすべきことを知らなかったので、彼はいくどもそれをくりかえしたのである。
 妻子がいつもよく行くところまで駆けつけたが、そこにはだれもいなかった。
 彼らは、森の反対の端にある古い菩提樹の下にいて、彼を呼んでいた。黒っぽい着物をきた(それはもと薄色だったのである)二人のものが、何かの上にかがみこんで、立っていた。それがキチイと、ばあやなのであった。レーヴィンがそのそばへ走りよったときには、雨はもうあがりぎわで、空は明るくなりかかっていた。ばあやの着物は、下のほうだけ乾いていたが、キチイの着物はずぶ濡れで、全身にべったりへばりついていた。雨はもう降ってないのに、二人は相変らず、雷の落ちたときにとったと同じ姿勢で立っていた。二人とも、青いほろのかかっている乳母車の上に、かがみこんでいるのであった。
「生きているね? 無事だったね? ああ、ありがたい!」まだ引かない水たまりの中を、水がいっぱいはいって脱げそうになる靴をぴちゃぴちゃいわせ、二人のそばへかけよりながら、彼はこういった。
 キチイの紅みのさした濡れた顔は、彼のほうへ向けられて、形の変った帽子の下で、臆病そうにほほえんでいた。
「まあ、よく恥ずかしくないこったね! どうしてそう不注意なことができるのか、合点がいかないよ!」と彼はいまいましさに、妻に食ってかかった。
「いえ、本当にあたしが悪いんじゃありませんの。ちょうど帰ろうとしたとき、この子がしくじったもんですから、おしめを変えてやらなくちゃならなくなって、やっとあたしたちが……」とキチイはいいわけを始めた。
 ミーチャは無事で、濡れもせず、すやすやと眠りをつづけている。
「いや、まあ、ありがたいことだった! 僕は自分でも、何をいってるかわからないくらいなんだよ」
 濡れたおしめはとりまとめられた。ばあやは赤ん坊を車から出し、だいて歩きだした。レーヴィンは妻のそばに並んで行きながら、癇癪を起したのをわびるように、ばあやに見つからぬよう、そっと妻の手を握りしめた。

[#5字下げ]一八[#「一八」は中見出し]

 その日は終日、種々さまざまな会話に、ただ知性のうわっつらだけで仲間入りしながら、自分の内部に一大変化が生ずるにちがいないと期待していたレーヴィンは、その点で幻滅を感じさせられたにもかかわらず、依然として心の充実を感じて、喜びを禁じえなかった。
 雨のあとはあまり道が悪いので、散歩に出るわけにもいかなかった。おまけに、夕立ち雲がいつまでも地平線を去りやらず、ここかしこと雷鳴をとどろかせ、黒く渦巻きながら、天涯を彷徨《ほうこう》していた。一同はその日の残りを家の中ですごした。
 もう議論ははじまらなかった。それどころか、食事のあとは、一同このうえないきげんであった。
 カタヴァーソフは、はじめ得意の奇抜《きばつ》な洒落《しゃれ》で、婦人たちを笑わせた。それは、はじめて近づきになったときは、必ずみんなの気に入るのであった。しかし、そのあとでコズヌイシェフに誘いかけられて、家の中にすむ蠅の雌雄の性質ばかりか、外貌の相違、その生態などについて、きわめて興味ふかい観察を物語った。コズヌイシェフもやはり快活で、お茶のとき弟に水を向けられて、近東問題の将来について、自分の意見を述べたが、それが気取りけなくおもしろかったので、みんな思わず聞きほれるほどであった。
 ただキチイばかりは、それをしまいまで聞くことができなかった。ミーチャにお湯を使わせるからといって、呼ばれたのである。
 キチイが行ってから四五分たったとき、レーヴィンも彼女のいる部屋へ呼ばれた。
 茶を飲みさしにして、同じく興味ふかい話のじゃまされたのを、残念に思いながら、それと同時に、なんのために自分を呼んだのだろう、と不安に思いながら、レーヴィンは子供部屋へ行った。こんなことは、何か重大なことがあったときに限られていたからである。
 解放された四千万のスラヴ民族が、ロシヤとともに、歴史に新しい時代を画するに相違ないという、聞きさしにしたコズヌイシェフの説は、何か彼にとってぜんぜん新しいものとして、大いに彼の興味をそそったにもかかわらず、また何用で自分を呼んだんだろう、という好奇心と不安が、胸を騒がせたにもかかわらず、彼は客間を出て一人になるやいなや、すぐさま今朝の想念を思い浮べた。すると、世界歴史におけるスラヴ的要素の意義|云々《うんぬん》という議論は、自分の心の中で成就されていることに較べて、あまりにも瑣末《さまつ》なものに感じられたので、彼はたちまちそんなことなど忘れてしまって、今朝と同じ気分に移っていった。
 彼は今、以前のように、思索の全過程を思い起しはしなかった(そんなことは、彼にとって不要なのであった)。彼はただちに自分を指導している感情、それらの思想と結びつけられている感情へ移入して行き、その感情が自分の内部で、前よりさらに強められ、明晰になっているのを発見した。以前は、ある感情を発見するために、思想の全過程をおさらえしなくてはならなかったが、今のはそういう無理にこじつけた安心と違っていた。今はその反対に、喜びとおちつきは前よりなまなましく、思想が感情に追いつけないのであった。
 彼はテラスを越して行きながら、早くも暗みはじめた空に現われた二つの星を見て、ふと思い起した。『そうだ、おれは空を見ながら、自分の見ている空の穹窿《まるてんじょう》は嘘ではない、ということを考えたっけ。そのとき、おれはまだ何か最後まで考えなかったっけ、何かしら自分で自分に隠したことがあったっけ』と彼は心に思った。『しかし、いずれにもせよ、反駁なんかありえない。ちょっと考えたら、なにもかもはっきりするのだ!』
 もう子供部屋へ入ろうとして、彼は自分で自分に隠そうとしたのが、何であるかを思い出した。それはほかでもない、もし神性のおもなる証明が、善は存在するというキリストの啓示であるとすれば、なぜこの啓示が、ただキリスト教会のみに限られているのか? という疑いであった。同じく善を宣伝し実行している仏教徒、回教徒の信仰は、この啓示にどんな関係をもっているのか?
 彼はこの疑問にたいして、答えをもっているような気がした。しかし、子供部屋へ入ったときには、まだそれをはっきりさす暇がなかった。キチイは袖をたくし上げて、赤ん坊がばちゃばちゃやっている盥《たらい》のそばに立っていたが、良人の足音を聞きつけると、顔をそのほうへ向けて、笑顔で自分のほうへさし招いた。
 彼女は、仰向《あおむ》けになって湯の中を泳ぎ、両足をひろげている、ふっくらした赤ん坊の頭を片手で支え、片手では規則ただしく筋肉を緊張させながら、赤ん坊の体の上で海綿をしぼっていた。
「まあ、ちょっと見てちょうだい、見てちょうだい!」良人がそばへよったとき、彼女はこういった。「アガーフィヤがいったことは本当よ。ちゃんとわかるのよ」
 そのわけはこうである。ミーチャが今日からまぎれもなく、自分に近しい人を、みんな見分けるようになったのである。
 レーヴィンが盥に近よるが早いか、さっそくその実験が行われて、しかも大成功であった。そのために、わざわざ呼びよせられた台所女が、赤ん坊のほうへかがみこんだが、ミーチャは顔をしかめて、いやいやをした。ところが、キチイがかがみこむと、赤ん坊は満面えみかがやき、小さな両手で海綿にしがみついて、キチイやアガーフィヤばかりか、レーヴィンさえ思いがけなく有頂天になるほど、さも満足げな異様な音を立てて、唇を鳴らした。
 赤ん坊は、片手で盥からひき上げられ、湯を浴びせられ、タオルにくるまれ、きれいに拭き取られて、長いこと金切り声を立てた後、母親に渡された。
「ああ、あたしうれしいわ、あなたがこの子をだんだんすきになって下すって」赤ん坊を腕に抱いて、いつもの場所におちついたとき、キチイは良人にそういった。「とてもうれしいわ。あたしもう少々悲観しかけていたのよ。だってあんたは、この子になんの感じもないとおっしゃるんですもの」
「いや、なんの感じもないなんて、そんなことをいったかしらん? 僕はただ幻滅を感じたと、そういっただけなんだが」
「え、この子に幻滅を感じたんですって?」
「いや、この子にというよりも、自分の気持に幻滅を感じたんだよ。僕はもっともっと期待していたのでね。自分の心の中に、新しい愉快な感じが、思いがけない贈り物みたいに、ぱっと開けてくるものと思っていたのだ。ところが、それにひきかえて、いやらしいような、かわいそうな気持が……」
 ミーチャを洗うためにはずした指輪を、細い指にはめながら、キチイは赤ん坊ごしに、良人のいうことを注意ぶかく聞いていた。
「何よりもいやなのは、うれしいよりも恐ろしかったり、かわいそうだったりでね。ところが、今日あの雷のときの恐ろしさがすんでから、どんなにこの子を愛してるかってことが、はじめてわかったよ」
 キチイの顔はえみ輝いた。
「ひどくびっくりなすって?」と彼女はいった。「あたしもよ。でもね、あたしはもうすんでしまった今のほうが、もっと恐ろしいわ。あしたあの槲《かし》の木を見に行ってこよう。でも、カタヴァーソフさん、なんていい人でしょう? それに、全体として、今日はいちんち気持がよかったわ。それにあんたも、気さえお向きになれば、コズヌイシェフさんとあんなにうまくいくんですものね……さあ、あちらへいらっしゃい。だって、ここはお湯を使わせたあと、いつも湯気で暑いんですもの……」

[#5字下げ]一九[#「一九」は中見出し]

 子供部屋を出て、一人きりになるとすぐ、レーヴィンはまたもや例の、何やらはっきりしないところのある思想を思い起した。
 話し声の聞えている客間へ行くかわりに、彼はテラスに立ちどまって、手すりに肘をつきながら、空をながめはじめた。
 もうあたりはすっかり暗くなって、彼のながめていた南のほうには、もう雨雲はなかった。雲は反対の側に集ってい、そのほうから稲妻がひらめき、遠雷が聞えた。レーヴィンは、庭の菩提樹から落ちる規則ただしい雫《しずく》の音に耳を傾け、見覚えのある三角形の星座と、そのまんなかを通っている銀河と、その支脈をながめていた。稲妻がひらめくごとに、銀河ばかりか、明るい星まで消えてしまったが、稲妻がやむと、まるで狙い正しい手で投げられたもののように、また同じ場所に現われるのであった。
『いったい何がおれを当惑させてるのだろう?』とレーヴィンはひとりごちた、――まだよくはわからないながらも、自分の疑惑の解決は、もはやこころの中にできあがっていることを予感しながら。
『そうだ、明々白々な疑う余地もない神性の発顕は、ほかでもない、全世界に啓示されている善の掟だ。それをおれは自分の内部にも感じている。それを承認することによって、おれはほかの人たちといっしょに、教会と呼ばれる信者のグループに合流している。というよりも、否応なしに合流させられているのだ。ところで、ユダヤ人や、回教徒や、儒教徒や、仏教徒などは、いったい何ものなんだろう?』われながら危険に思われる疑問を、自分で自分に発してみた。『いったいこれら数千万の人たちは、それがなかったら、生の意味もないような至福を、奪われているのだろうか?』彼はじっと考えこんだが、すぐさま自分の考えを訂正した。『だが、おれは何をきいているのだろう?』と彼はひとりごちた。『おれは、ありとあらゆる信仰をもった全人類の、神にたいする関係をきいているのだ。こうしたあいまいな斑点をもった世界ぜんたいのために、神がいかに発顕するかをきいているのだ。いったいおれは何をしているのだろう? おれ一箇には、おれの心には、理性に解し難い知識がまぎれもなく啓示されているのに、おれはまだ執拗にこの知識を、理性や言葉で表現しようとしているじゃないか。
『おれは星が運行するのでないってことを、ちゃんと知っているじゃないか』白樺の高い枝の上で早くも位置を変えた、輝かしい遊星を見つめながら、彼はこう自問した。『ところが、おれは星の運行を見ていると、地球の自転ということが想像できない。だから、星は運行するとおれがいっても、それはまちがいじゃない。
『いったい天文学者たちは、複雑多様な地球の動きをことごとく計算に入れたら、何かを理解し計量することができるだろうか? 天体の距離、重み、運行、摂動に関する彼らの驚くべき結論は、すべて不動な地球の周囲を天体が動しているという、目に映る現象に基礎を置いているのだ。その現象はいまおれの目前にあり、長い長い世紀のあいだ、数億の人々の目に同じように映ったのだ。それは常に同じようであったし、これから先も同じようであり、常にさようなものとして信じられるだろう。そこで、単に子午線《しごせん》や地平線のみに頼って、目に見えている天空の観察に基礎をおかない天文学者の結論が、空疎《くうそ》であり不安定であるのと同様に、おれの結論も、すべての人にとって常に同一であり、将来もまた同一である善の解釈――キリスト教によっておれに啓示され、常におれの心の中で信仰されうる善の解釈に基礎をおかなかったら、空疎で不安定なものに相違ない。ところで、ほかの宗教やその宗教の神にたいする関係などは、おれが決定する権利もなければ、またそんな可能[#「可能」はママ]もないのだ』
「あら、あんたまだいらっしゃらなかったの?」同じ道筋を通って客間へ向っていたキチイの声が、ふいに耳に入った。「どうなすったの、あんた、何かいやなことでもあるんですの?」星明りで、じっと良人の顔を見透かしながら、彼女はこういった。
 しかし、ふたたびかの星影を隠す稲妻が照らさなかったら、彼女は結局、良人の顔色を見分けることができなかったであろう。稲妻の光でその顔を残りなく見きわめて、良人がおちついた喜ばしい気持でいるのを見てとったとき、彼女はにっこり笑いかけた。
『これにはわかっているのだ』と彼は考えた。『おれが何を考えているか、ちゃんと知っているのだ。いってしまおうか、どうしよう? そうだ、いってしまおう』しかし、彼が口をきろうとしたとき、キチイもやはりいいだした。
「ああ、そうそう、コスチャ! お願いですから」と彼女はいった。「あのかどの部屋へ行って、セルゲイ・イヴァーノヴィッチのお休みになるしたくが、なにもかもすっかりできてるかどうか、見て下さいません? わたしが行ったら変ですもの。新しい洗面台が据えつけてありますかしら?」
「よし、必ず行ってみるよ」立ちあがって、妻を接吻しながら、レーヴィンはそういった。
『いや、いう必要はない』妻が先に立って歩きだしたとき、彼は考えた。『これはおれひとりだけに必要で、重大な秘密なんだ。言葉に現わすことはできやしない』
『この新しい感情は、おれの空想したように、急におれを一変させもしなければ、幸福にもしてくれず、内部を照らしてもくれなかった。――ちょうどミーチャにたいする感情と同じように。やっぱり、ふいの贈り物はなかったわけだ。これが信仰だか信仰でないか、それはどうか知らないが、この感情はやっぱりいつともなく、苦悩といっしょに魂の中へ入りこんで、そこにしっかりと根をおろしたのだ』
『おれは相変らず、馭者のイヴァンに腹をたてるだろうし、相変らず議論もするだろうし、とてつもないときに自分の思想を表明したりするだろう。またおれの魂の聖なるものと他人のあいだに――いや、妻とのあいだにさえも、儼然《げんぜん》たる障壁は残るだろう。相変らず、おれは自分の恐怖のために妻を責めたり、それを後悔したりするだろう。相変らず理性では、自分がなんのために祈るかわからないままに、祈りつづけることだろう――が、これからのおれの生活は、おれの生活ぜんたいは、どんなことが起ろうと、それにはかかわりなしに、その一分一刻が、今までのように無意味でないばかりか、疑いもない善の意義をもつだろう。おれは自分の生活に、それを与える権力《ちから》を有しているのだ!』


[#2字下げ]Лев Толстой:Анна Каренина



底本:「世界文學大系37 トルストイ筑摩書房
   1958(昭和33)年8月10日初版第1刷発行
入力:いとうおちゃ
校正:
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