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軽蔑しているのではないかとさえ疑われた。それはほんとうにそうあるべきはずだ。なぜなら、ズヴェーレフは群集であり、市井人であって、こんな手合いはいつも成功の前にのみ跪くからである。 「で、ヴェルシーロフさんはそのことを知らないのかい?」と彼がきいた。 「もちろん、知らないさ」 「じゃ、きみはどんな権利があって、あの事件に干渉するんだい? これがまあ、第一さ。第二に、きみはそんなことをして何を証明しようというんだい?」 わたしはまえからこういう反対を見抜いていたので、この行為は彼が思ってるほどばかげていないことを、立ちどころに論証しはじめた・第一、この行為によって、われわれの階級にも廉恥のなんたるやを解する人間があることを、あの暴慢な公爵に立証することができるし、第二にヴェルシーロフ白身も、これがため廉恥を感じて、大いに悟るところがあるに相違ない。第三として(これが最も重大な理由であるが)、たとえヴェルシーロフに道理があるとしても、jたとえ彼が公爵に決闘を申し込まないで、のめのめ平手打ちを忍ぶことに決心したのは、何か信念によるところがあるにもせよ、少なくとも、彼の屈辱をわがことのように痛感して、彼の利害のためなら身命を賭するのもいとわない人間が、この世にいるということを、彼に思い知らすことができる……もっとも、この人問は永久に彼と別れようとしているのだけれど。 「まあ、待ちたまえ、そう大きな声をしないでくれたまえ、
叔母さんがいやがるから。ぽく一つきみにたずねるが、そのソコーリスキイ公爵てのは、今ヴェルシーロフさんと遺産のことで、法廷で争っているのと同じ人じゃないか? そうすると、これは訴訟に勝つきわめて新しい奇抜な方法だね、―決闘で相手を殺してしまうんだからね」 わたしはen toutes lettres (あけすけに)彼に説明してやった、―お前はなんのことはない、ばかで高慢なのだ、お前の唇の薄笑いがだんだんひろがっていくのは、たんにお前のうぬぽれと凡庸を説明するにすぎない。この事件はとうていお前などの想像の及ぶところでない、訴訟云々の想像は最初から自分の頭にもなかったことで、お前のような複雑な頭を持った人間でなければ、とうてい思い浮かばないところだ、と喝破しておいて、それから、ぶっつづけにまくし立ててやった、-訴訟はすでにヴェルシーロフの勝ちに帰してしまった。そればかりか、相手はソコーリスキイ公爵一人きりでなく、ツコーリスキイ公爵兄弟だから、たとえ兄弟のうち一人だけ殺されたとしても、まだ後の連中が残るわけだ。けれど、決闘の申し込みはもちろん控訴の期限まで猶予しなければならぬ。もっとも、公爵兄弟は控訴などしやしないだろうが、礼儀上それだけのことをしておくのだ。控訴期間が経過したら、決闘という段取りなのである。自分が今日来たのも、決闘こそ今すぐではないというものの、自分にはだれひとり知人がなく、したがって、ほかに介添人を頼む心あたりがないから、今から話をきめて安心するためだ、もしズヴェーレフが拒絶するなら、少なくともその時期までに、だれか
かわりの人を物色しなければならぬから、それでわざわざやって来たのだ。「じゃ、そのときになって話しに来たらいいじゃないか、何もはるばる遠路のところを無駄足ふまなくったってさ」 彼は立ちあがり、帽子を取った。 「じゃ、そのときには来てくれるかね?」 「いや、むろん行かない」 「なぜ?」 「なぜって、もしいまぼくが行くといって引き受けたら、きみはその控訴期限の間じゅう毎日のように、ぼくんとこへのこのこやって来るだろう、それ一つだけでもおことわりだよ。それに何もかも第一、そんなことはみんな無意味だよ、それっきりさ。それに、きみのために一生を傷ものにして、たまるものかね? もし公爵が出しぬけにぼくをつかまえて、『いったいお前はだれに頼まれて来た?』ときいたら、ぼくは『ドルゴルーキイ』と答える。『いったいなんだってドルゴルーキイが、ヴェルシーロフのことに干渉するのだ?』といわれたとき、ぼくはきみの系図でも述べ立てなきゃならないのかい? そんなこといったら、公爵が腹をかかえて笑 「そうしたら、きみあいつのつらを張り曲げてやるがいいI」 「ふん、そんなことはただのお話だよ!」 「怖いのかい? きみは、そんな大きな図体をしてさ。きみは中学でもいちばん力が強かったじゃないか」 「脯いよ、もちろん怖いよ。それに第てだれでも対等の相
手でなけりや決闘しないから、それだけの理由でも公爵は受けつけやしないさ」 「ぼくだって発達の点からいえば、同じようなゼントルマンだよ。ぼくだって人としての権利はもっているぜ。ぼくは対等の敵手だよ……いや、かえって反対に、公爵のほうが相手として不足なくらいだ」 「いや、きみは子供だ」 「どうして子供だい?」 「どうしても子供だ。ぼくらは二人とも子供だが、向こうは立派な大人だからね」 「きみはなんてばかだ! 法律からいえば、ぼくはもう一年も前から結婚する資格があるんだぜ」 「そんなら結婚したまえ。しかし、なんといったって……キゝみもまだもっと大きくなるさ!」 わたしはもちろん、こいつ生意気に人を茶にしようと思いついたんだなと悟った。この愚かな挿話は、よしんば闇から闇に葬れるとしても、人に話さないほうがよかったのは、疑いもないことである。それに、かなり重大な結果をもたらしたとはいえ、浅薄で必然性の欠けている点がいとわしかった。 しかし、さらに自分自身を罰するために、も少し詳しいことを書こう。ズヴェーレフが人を茶にしてるなと見分けがつくと、わたしは右の于で、-というより、むしろ右の拳で彼の肩を一突き突いた。そのとき彼はこっちの両肩をつかんで、顔を広っぱへねじ向けた。そして、ほんとうに彼が中学 一番の腕力家だったことを事実において証明したのである。
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2 読者はもちろん、わたしがズグェーレフのもとを立ち去っ’たとき、凄じい気分になりきっているように想像するだろうが、それは大間違いなのである。偶然、子供じみた中学生ら‐しい結果にはおわったものの、事件のまじめな性質は、いさ・さかも傷つけられなかったことを、わたしは十分すぎるほど理解していたのだ。わたしはわざとペテルブルグ区にある、昨日の安料理屋の前を通り過ぎ、ヴァシーリエフスキイ島ま。で来て、コーヒーを飲んだ。わたしはあの料理屋と鶯とが、一倍憎らしくなってきたのだ。奇妙な性質だが、わたしは場賍だの物だのを、人間と同じように憎むことができるのだ。そのかわり、わたしはペテルブルグにいくつかの幸福な場所を持っている。つまり、かつて何かのことで幸福を感じた場所なのだ。ところが、どうだろう、わたしはこういう場所を大切にしまっといて、なるべくそこへ行かないようにする。それは後日わたしがまったく孤独で不幸な身の上になったとき、そこへ行って憂愁と追憶に耽るためなのだ。 コーヒーを飲んでる間に、わたしはことごとくズヴェーレフを是として、その健全な判断を承認しないわけにはいかなかった。そうだ、いかにも彼はわたしより実際的である。が、現実的だといえるかどうか、おぼつかない。自分の鼻の先までしかとどかないようなリアリズムは、最も狂的な妄想癖よりかえって危険だ、それは盲目だからである。しかし、ズヴェーレフ(彼は多分その瞬間、わたしが往来を歩きなが
ら声高にののしってる、とでも思っていたに相違ない)を是としながら、なおかつわたしはおのれの信念から一歩も退かなかった。また今でも決して退きはしないのだ。よく世間には、たったバケッー杯のひや水を浴びせられただけで、自分の行為ばかりか理想をも否定してしまって、つい一時間まえまで神聖視していたものまで、平然と冷笑するような人間がいる。わたしもそういう連中を見受けたことがある。いやはや、そのやり方の無造作なこと! まあ、かりに事件の本質においても、ズヴェーレフの説が正しく、わたしはばかの中でも選り抜きのばかもので、ただ空威張りに威張ったのでしかないとしても、それでもわたしの心の奥の奥には、何かある一つの点があって、その上に立つときはわたしもやはり正しいということになるのだ。何かわたしには、正しいあるものが、とくにかんじんなのは、彼などのどうしても理解できないようなものが存在するということだ。 フォンタンカのセミョーノフ橋に近い、ヴァージンの家へ着いたのは、ほとんど正十二時だったが、彼は家にいなかった。彼はヴァシーリエフスキイ島に勤め囗を持っていて、いつも正確に定めの時刻(たいてい十二時)に帰って来るのだった。のみならず、何かの祭日にあたってもいたから、わたしは大丈夫、在宅に相違ないと思っていた。ところが留守だったので、わたしは初めての訪問なのにもかかわらず、待つことにきめた。 わたしはこういうふうに考えたのだ、--遺産に関する手紙の件は良心の問題だから、わたしはヴ″Iシンを審判官に
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逅ぷことによって、彼に対するこちらの尊敬を底までひらいて見せるわけである。それはむろん、彼の心に娟『びるに相違ない。もっとも、わたしがしんからこの手紙のことを心にかけて、第三者の決定を必要と信じていたのはほんとうだが、しかし思うに、そのときはもういっさい第三者の助力なしに、この苦境を切り抜けることもできるだろう。しかもわたしは自分でその方法を知っていたのだ。ほかでもない、例の手紙をいきなりヴェルシーロフの手へ引きわたして、その後ほなんとでも彼の心次第にまかせる、iとこういう決心だ うたのである。自分で自分をこのような事件の審判者、決定丿者とするのは、はなはだしく不正当なことである。無言のま・ま手紙を手から手へわたして、局外へ身を引いてしまえば、・わたしはその行為によって、ヴェルシーロフよりいちだん高い位置に立つことになるから、かえって自分のとくになるわ・けである。わたし自身に関する遺産相続の利益をいっさい拒絶してしまえば(なぜなら、わたしはグェルシーロフの息子‐だから、この財産のいくぶんかはわたしの手にはいるに相違’ない。これは今すぐではなく先の話なのだ)、わたしはこれから先きずっとヴェルシーロフの行為に対して、最高の道徳的批判権を保つことができるわけだ。またソコーリスキイ公爵兄弟の運命を葬ったなどといって、わたしを非難することももうとうできないはずである。それはこの手紙が法律から皃て、決定的価値を持っていないからである。 わたしはがらんとしたヴ″Iシンの部屋にすわったまま、こういうふうなことを考えつづけて、ついにすべてを自分の
腹の中で明らかにした。と、思いがけなく、わたしの頭に次のような考えが浮かんだ、1わたしがこんなにヴ″Iシンの忠言を渇望して、わざわざここへやって来たのは、ただただ自分がどれくらい高潔無私な人間であるかを彼に知らせたうえ、それによって、きのう彼の前で演じた屈辱の埋め合わせをするためではなかろうか? こう意識すると、わたしは無性にいまいましくなった。が、それでも帰ろうとはせず、そのまますわっていた。とはいえ、このいまいましさは五分ごとに、いよいよ募っていくばかりなのを、自分でもはっきり見抜いていたのだ。 わたしは何よりもまずヴ″Iシンの部屋が、いやでいやでたまらなかった。『まず汝の部屋を示せ、しからば汝の性格を知らん』とでもいいたいくらいだ。ヴァージンは、借家人から又借りした道具つきの部屋に住んでいた。その借家人というのは大分の貧乏人で、彼のほかにもまだ下宿人をおいて、それで囗すぎをしているらしかった。こういうふうに、申しわけばかりの家具を据えたくせに贅沢らしく見せかけようという野心のある長細い小部屋は、わたしにも馴染みがあった。そこには必ず古物市場から持って来た、動かすのも剣呑なような布張りの長いすだの、洗面台だの、屏風で境をした鉄の寝台だのが置いてあるものだ。ヴァージンは見受けたところ、ここで最上等の下宿人として、いちばん望みを嘱されているらしい。こうした最上等の大切な下宿人というやつは、どこの素人屋へ行っても必ず一人あって特別ちやほやと待遇されるものだ。こういう人の部屋は、特別念入りに片づ
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けたり、掃いたり、長いすの上には何か石版刷の画をかけたり、テーブルの下には肺病にでもかかったような、みすぼらしい絨毯を敷いたりするのが紋切型である。 こういうしみったれた清潔さや、ことに主婦のちやほやしたお世辞を好くような人間は、夫子自身からして少々うさん臭いのだ。わたしはこの最上等のお客様という肩書が、ヴァージン自身にも御意に入ってるにちがいないと思った。どういうわけか知らないけれど、わたしは本を山ほど積んだ二つのテーブルを見ると、次第に癪にさわってたまらなくなった。本や、紙や、インキ壺やIすべてが実になんともいえないくらい、いやにちんまりと整頓している。こういう人間の理想は、ドイツ人の主婦やそれに使われている女中の人生観と、一致してるに相違ない。本はずいぶんたくさんあった。しかも、それが新聞や雑誌などでなくほんとうの書物なのである。彼は明らかにそれを読んでいるのだ。きっととほうもなくものものしい几帳面な顔つきをして、読書や書きものにとりかかるに違いない。なぜか知らないが、わたしはどちらかといえば、本が乱雑に取り散らされてるほうが好きだ。少なくとも、仕事を神聖視するのはきらいだ。きっと、このヴァージンは訪問客に対して丁寧だろうが、それでも彼の身振りの一つ一つが、『ぽくはきみとこうして一時間半ばかり話をするが、きみが帰って行ったら、後でまじめな仕事にとりかかるのだ』といいたげに見えるに相違ない。彼は客を相手に、きわめて興味のある会話を交換し、何か珍しい事実を伝えることができるだろうが、しかし、『ぼくは今これから
話をして、ずいぶんきみを面白がらせてやろうが、きみが帰って行ったら、それこそほんとうにいちばん面白い仕事にとりかかるよ……』とでもいいたそうな様子をするに相違ない。けれど、わたしは依然かえりもしないで、じっとすわっていた。もう今は、彼の忠言などぜんぜん必要がないということを、わたしも明白に確信してしまった。 わたしはもう一時間以上もすわっていた。それは窓際の擘へくっつけてある二つの籐いすの一つだった。それに、時間がずんずんたっていくのも業腹であった。晩方までに、住居を見つけなければならないのだ。退屈ざましに何か本を取ろうとしたが、自分で自分をごまかそうとしているなと考えただけで、わたしはなお一倍いまわしい気持ちがした。一時間。以上というものなみなみならぬ静寂がつづいた。と、ふいにどこか非常に近いところで、-多分、長いすで通れなくしてある戸の向こう辺だろう、だんだんと高まっていくひそひ’そ話が、われともなく次第に耳につきだした。話し声はどうやら二人の女らしかった。それだけはわかるけれども、言罘を聴き分けることはまるでできなかった。とはいえ、わたしは退屈まぎれに、聞くともなく耳を傾けはじめた。二人は一生懸命に、熱した調子で話していたが、明らかに裁ち方のことなどではなく、何やら申し合わせでもしているか、それとも淨いでもしているらしかった。一人の声がしきりにすかしたり頼んだりすると、いま一方はそれを聴かないで反対していた。きっとほかの下宿人なのだろう。が、わたしはそれにもすぐあきあきし、耳も馴れっこになってしまったので、引
きつづき聞いてはいたものの、ほんの機械的で、どうかするとまるで聞いているのを忘れることがあった。 とふいに、何かしら容易ならぬことがもちあがった。それはだれかが両足をとんと突いて、椅子から立ちあがったか、それとも急にその場でおどりあがって、地団太でも踏んだかと覚しい物音だった。それからつづいて、妙な呻き声が聞こえたと思うと、だしぬけに高い叫びが起こった。それは叫びというよりむしろ動物的な、憤怒の絶頂に達したような悲鳴で、もうこうなったら、大が聞こうとどうしようとかまわない、といった心持ちが響いていた。わたしは戸口へ飛んで行って、ドアを開けた。するとそれといっしょに、廊下の端にあるもう一つの戸が開いて(後で聞いたら、それは女主人の居間だそうだ)、そこから物好きらしい首が二つのぞいた。しかし叫び声はすぐやんだ、Iと思うと、ふいにすぐ隣りの部屋の戸がさっと開いて、一人の若い女(とわたしには思われた)が、矢のように飛び出して階段を駆けおりた。もう一人の年とったほうの女は、それを引き止めようとしたが、力が及ばず、ただ後から呻くようにこう叫んだ。 「オーリャ、オーリャ、どこへ行くの? あIあ!」 しかし、ほかの部屋の戸が二つも開け放されているのに気がつくと、彼女はちょっと細目に隙間を残して、すばやく戸をたてきり、階段を駆けおりたオーリャの足音が、すっかり聞こえなくなるまで、じっとその隙間から耳をすましていた。わたしはまた前の窓のそばへ引っ返した。すっかり静かになった。これはつまらない偶然の出来事である。あるいは滑稽
なことかもしれない。で、わたしはこのことを考えるのをやめてしまった。。かれこれ十五分ばかりたったころ、ヴァージンの戸口のすぐ外の廊下から、だれやらくだけた調子で話す、男の高い声が聞こえた。その男は(ンドルに手をかけ、ほんの心もち戸を開けた。わたしはだれかしら背の高い男が廊下に立っている、とだけしか見分けることができなかった。向こうはわたしの姿を見たのみならず、どんな人間かということまで見分けたらしかったが、それでも部屋へ入って来ようとはせず、(ンドルに手をかけたまま、廊下越しに女主人と話しつづけている。女主人は黄色いはしゃいだ声で彼と叫び交わしていたが、その声から察するところ、彼女はすでにとうからこの訪問客と知合いで、立派な紳士、愉快な話相手として、彼を’尊敬し、大切に扱っているらしかった。愉快な紳士は大声でわめき立てながら洒落をいっていたが、その話は要するにヴァージンが不在だ、自分はいつ来ても会うことができない。しかし、これはもう生まれ落ちるときに定まった自分の運命だから、またあのときのように待ち合わすことにしよう、というだけにすぎないのだが、女主人にとってはこれがユーモアの極致のように思われたらしい。やがて、彼はさっと力まかせに戸を押し開いて、部屋の中へはいって来た。 彼は上手な仕立屋に縫わせたらしい立派な服を着込んで、いわゆる『貴族風』のりゅうとした薗装をしていたが、そのくせからだつきには貴族らしいところなぞ微塵もなかった。もっともそれがほしくてたまらないような気持ちだけは十分
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見えた。彼はくだけた態度、というより、むしろなんとなく 高慢ちきな態度を示していたが、それでも世間によくある、 鏡の前で体のこなしを研究した小生意気な連中よりは、まあ いくらか我慢のしいいほうであった。心もち白髪のまじった 黒っぽい髪や、黒い眉や、立派なあご鬚や、大きな目など も、彼の個性を裏づける足しにならず、かえって万人に共通 した一般的な表情を与えるのであった。こうした人間はよく 笑う、ちょっとしたことでもすぐ笑いたがる。が、こんな男 と話しても、どういうわけかさっぱり愉快にならないのだ。 彼はさもおかしそうな表情から、急にしかつめらしい顔つき に変わったり、しかつめらしい顔からふざけた表情に飛び移 って、目を細くして見せたりする。が、それが妙にでたらめ で、まるで原因がわからないのだ…… けれど、何もこんなに先まわりをして、詳しく書き立てる 必要はない。この男は後でもっと深く、近しく知るようにな ったので、今は自然と、彼が戸を開けてはいって来たこの瞬 間よりも、ずっとよくわかっているものとして、この男を描 き出したくなるのだ。もっとも、今でもわたしは、彼に正確 な定義を下すのに、困難を感じるに相違ない。なぜなら、こ ういう連中の特質は、仕上げのかかっていない、散漫な、取、り留めのないところにあるのだから。 彼がまだ腰をおろさないうちに、これはきっとスチェベリ コフとかいうヴァージンの義父に相違ない、という考えがち らと頭をかすめた。わたしはこの男について以前何か聞いた ことがあるけれど、はたしてどんな話だったか、それさえ思
い出せないほど漠然としているのだ。ただなんでもよくないうわさだった、とだけは覚えている。わたしの知っているところでは、ヴァージンは長いこと頼りない孤児として、この男の保護を受けていたが、もうだいぶ前から彼の勢力範囲を脱してしまったので、今では二人とも目的と利害を異にし、すべての点においてぜんぜん相反した生活をしている。それからまた、このスチェペリコフが小金を持っていること、彼がもういっぱしの資本家で、ちょこちょこ抜け目なく飛びまわっていること、なども思い出した。手短かにいうと、わたしは彼のことをまだ何か知っていたのかもしれないが、もうきれいに忘れてしまった。 彼は会釈もしないで、じろっとわたしを見まわすと、シルク(ツトを長いすの前のテープルにのせ、大風に足で椅子を押しのけながら、妙にめきめき音がするので、わたしが掛けえなかった長いすに腰をおろした、というよりも、いきなり体を投げ出したのである。そして、両足をぶらぶらさせながら、エナメルを塗った右の靴先を高々と上げて、て心にそれに見とれはじめた。が、もちろん、じきわたしのほうへ振り向いて、じっと勁かない大きな目で、人を見まわしにかかった。「どうしても会えませんよ!」と彼は軽くわたしにうなずいて見せた。 わたしはおし黙っていた。「どうもきまりのない男でしてな、すべて一風かわったものの見方をするんですよ1・ ペテルブルグ区から?」
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「といって、つまりあなたがペテルブルグ区から来たんですか?」とわたしは問い返した。 「いや、わたしはあんたにきいてるんですよ」 「ぼくですか……ぽくはペテルブルグ区から来ましたが、しかしどうしてあなたはそれを知ってるんです?」 「どうして? ふむ1………」 彼はちょっと目を細めたが、べつに説明してくれなかった。 「つまりね、ぼくはペテルブルグ区に住んでるわけじゃないけれど、いまペテルブルグ区へ出かけて行って、そこからこっちへまわったわけなんですよ」 彼は依然として無言のまま、妙に意味ありげな微笑を浮かべていたが。その微笑が大いにわたしの気にくわなかった。この目を細める仕草の中に、なんだかばかげたところがあった。 「デルガチョフ氏のとこに?」とうとう彼は囗を切った。 「何がデルガチョフ氏のとこになんです?・」とわたしは目を丸くした。 彼は勝ち誇ったようにわたしを見つめた。 「ぼくは知りもしないんですよ」 「ふむI」 「どうともご勝手に」とわたしは答えた。 わたしは彼がいやでたまらなくなった。「ふむ!………そうですか。いや、失礼ですが、お聞きなさい。かりにあんたがある店で、ある品を買うとする。する
と、すぐ隣りの別な店で別な買い手が、あなたが自分で買いたいと思った別な品を買ってるのです? 金は高利貸と呼ばれる商人の手にある……なぜって、金だってやはり品物でしょう、そして、高利貸だってやはり商人でしょう?……あなた、聞いていますか?」 「まあね、聞いてますよ」 「そこへ、第三の買い手が通りかかって、一つのほうを指さしながら、『これはしっかりしている』といい、いま一方の店を指して、『これはしっかりしていない』といいました。いったいわたしはこの買い于について、どう結論したらいい 「ぼくがなんで知るもんですか?」 「いや、失礼。では、わたし自分を例に取りましょう。人間の生活はいい例ですな。わたしがネーフスキイの通りを歩いてると、向こう側の歩道を一人の紳士が歩いて行くのに気がついて、その人の性格を究めたくなる。わたしたちが別々の側を歩いてモルスカヤ街の四つ角、例のイギリス商店のところまでやって来ると、たったいま馬に踏まれたばかりの第三の通行人に気がつく、さあ、これからよく聞いてください。そこへ第四の通行人がやって来て、われわれ三人(馬に踏まれた男もよせて)の性格を、実際的、徹底的見地から究めようとする……あんたわかりますか?」 「失礼ですが、あまりよくわかりませんね」・ {よろしい、わたしもそうだろうと思った。じゃ、}つ話題を変えましょう。今度はわたしがドイツのある温泉場にいる
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としましょう。それは実際、わたしがたびたびいったことのある温泉場なんで。なんというところかって、1そんなことはどうだっていい。温泉場をめぐっていると、イギリス人の一団に出会うとする。しかし、ご承知のとおり、イギリス大と近づきになるのは非常にむずかしい。しかし、二か月たって湯治もすんだとき、わたしたちはみんなで山岳地方へ行ったとしましょう。登山会を組織して、先の尖った杖にすがって、山のぼりをする、I何山だろうと同じことでさ。曲り角で、いや、宿泊所でI例の坊さんたちがシャルトルーズ酒をこしらえている宿泊所で(この点を覚えていてください)わたしはたったひとり淋しそうに立って、無言のままこちらを眺めている土地の者に会ったとしましょう。わたしは、この男がしっかりした人間かどうか、突き止めたくなりました。そこで、あんたどう考えます? わたしは温泉場にいる間じゅう、話しかける腕がなかったというだけの理由で、この場合、同行のイギリス大のむれに意見をきくことができるでしょうか?」 「そんなことぽくの知ったことですか。失敬ですが、あなたの話を聞いてるのは実に厄介です」 「厄介ですかね?」 「それに、あなたの話を聞いていると、疲れてきますよ」 「ふむ」彼はちょっと目を細めて、手で何か妙な仕草をしたが、それはきっと何かひどくしかつめらしい、得々たる気持ちを表わすつもりだったに違いない。それから、きわめてもったいぶった、落ちつきはらった于つきで、たったいま買っ
て来たらしい新聞を、ポケットから取り出して拡げながら。最後のページ(匹場)を読みはじめた。どうやら今度こそいよいよわたしを暢気にうっちゃらかしてくれたらしい。五分ばかり、彼はわたしのほうを見向きもしなかった。 「ブレストーグラーエヴォ鉄道はぽしゃらなかったですな、え? なかなかうまくやりおった、引きつづいてうまくやりおるわい!・ わたしの知っている連中でも、ずいぶん大勢ぼしゃりましたからね」 彼はひたとわたしを見つめた。 「ぼくは今のところ、取引所のことはあまりよくわかりません」とわたしは答えた。 「否定しますか?」 「何を?」 「金ですよ」 「ぽくは金を否定しやしません、しかし……しかし、ぼくの考えでは、最初が理想で、金は二の次です」 「といって、失礼ながら、どういうわけです……かりに、こ’こに自分自身の資本を持った人がいるとする……」 「まず最初が最高の理想で、金はその次に来るのです。金ばかりあって、最高の理想を持たない社会は、必ず崩壊をまぬ’がれません」 わたしはなんのためにこう熱くなったのか、自分でも合点がいかないくらいである。彼はまるで何がなんだかわからなくなったように、鈍そうな目つきでじっとわたしを見つめていたが、とつぜん、彼の顔一面になんともいえない愉快そう
な、狡猾な微笑が拡がった・ 「じゃ、ヴェルシーロフさんは? あの人だって、うんと掻き込んだんじゃありませんか! きのう判決があったでしょう、え?」 わたしはとつぜん思いがけなく、この男がもうとうからわたしの身分を知っているばかりでなく、まだいろいろたくさんのことを知りぬいているらしい、と気がついたのである。ただどういうわけか知らないが、わたしは急にぱっと顔を赤くしながら、瞬きもせずにばかげきった顔つきをして、相手を見つめたものである。彼はいかにも得々たる様子だった。さながら微妙な奸計を弄して、わたしの本性を見やぶったかなんぞのように、さも愉快らしくわたしを見まもっている。 「だめですよ」と彼は双の眉を吊り上げた。「そのヴェルシーロフ氏のことなら、わたしにおききなさい! わたしは今しっかりした性質ということをいいましたが、あれはなんだかおわかりになりますか? 一年半前にあの大は例の赤ん坊を利用して、ある事件を成就することもできたが、しかし結局、失敗しましたね」 「赤ん坊ってだれのことです?」 「そら、今のあの大が内緒でやしなっている乳呑児のことですよ。だが、あんなことをしたって、なんにもなりゃしない……なぜといって御覧じ……」 「いったいどんな乳呑児です? あなたは何をいってるんです?」「もちろんあの人の子ですよ。m‐11c 7ジヤーアフマーコヴ
アに生ましたあの人の実子です……『艶なる乙女はわれをめでにき』か……例の黄燐マ″チはどうですIえ?・」「なんてばかなこと、なんという奇怪な話だ! あの大は決してアフマーコヴァ嬢などに子を生ましたことはありません!」「おやおや! しかしまあ、わたしがどこにいたと思います。実のところ、わたしは医者ですよ。産科医ですよ。名前はスチェベリコフというのです、聞いたことはありませんか? もっとも、わたしはその時分とうから実地診断はやめていましたが、実際の場合に、実際的な勧告をすることはで。きたのです」 「あなたが産科医ですって7………じゃ、あなたはアフマーコ’ヴァ嬢の赤ん坊を取り上げたんですか?」 「いや、わたしは何もアフマーコヴ″嬢を診察したわけじゃないですがね、あの町の郊 外にグランツといって、大勢の家族をかかえた医者があったのです。診察料は一人前半夕Iレルずつしか取れないうえに(あの辺では医者の謝礼はそんなところだったのです)、おまけにだれ一人として頼み于がなかったのですが、この男がわたしにかわって、あのひとの世話をした……わたしは秘密を重んずるために、ことさらこの男をすすめたのです。あんた聞いていますか? わたしはただヴェルシーロフ氏についてIごくごく秘密な事件について、二人きりさし向かいの席で実際的の勧告をしただけです。けれど、ヴェルシーロフ氏は二兎を追ったのですね」 わたしは深い驚愕の念をいだきながら、耳を傾けた。
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「二兎を追うものは一兎をもえず、という格言、いや正しくは俗諺がありますが、わたしは『常にくり返さるる例外は、一般の法則となる』とこういいたい。第二の兎(これをロシヤ語に翻訳すると、第二の婦人ということになります)を追うものは、なんらの結果をもうることができません。もし何かつかんだら、もう一生懸命にそいつを抑えてるにかぎりますね。グェルシーロフ氏は、事をはやめなきゃならないようなところで、ぐずぐずと煮えきらない大でね。ヴェルシーロフは『女の予言者』と、こうソコーリスキイの若公爵が、あの当時わたしのいる席で定義を下したものだが、なかなかうまくいいましたよ。いや、あんた少しわたしのとこへいらっしゃい!・ もしヴェルシーロフ氏のことをいろいろ聞きたかったら、ぜひわたしのところへいらっしゃい」 驚きのあまりぽかんと開けたわたしの口を、彼はさも気持ちよげに眺めていた。わたしは今までとんと乳呑児の話など、聞いたことがなかったのだ。ところが、ちょうどこの瞬間、とつぜん隣りの戸ががたんと開いて、だれやら足早に部屋へはいったらしい様子だった。 「ヴェルシーロフはね、セミョーノフ連隊、モジャイスク街、リトヴィーノヴアの持家、第十七号に住んでいます。あたし自分で住所調査部へ行って聞いて来たのI」といういらいらした女の声が高く響きわたった。一語一語はっきりとこちらまで聞こえるのだ。スチェペリコフはきっと眉を吊り上げ、自分の頭の上へ指を一本さし上げた。 「わたしたちがここであの人のことを話していると、向こケ
でもやっぱりあの人のことを……’』れがつまり、たびたびくり返される例外なんですよ‐’Quand on parlc d’unc corde……(人が紐のことをいうときは……)」 彼はいきなり跳りあがって、長いすに膝をつき、その向こうの戸口に耳を傾けて聞き入るのであった・わたしも恐ろしく度胆を抜かれた。これは多分さっきあんなに興奮して駆け出した、あの若い婦人の叫び声に相違ない、とわたしは心に思った。しかし、どういうわけでヴェルシーロフが、彼らに関係を持っているのだろう? と、だしぬけに、またもやさっきと同じような叫び声が起こった。それは、何かほしい物。がもらえないとか、あるいはしたいことを止められるかした人間が、蜩を立てて、野獣のようになって上げる狂暴な叫び声だった。たださきほどと違っているのは、叫び声や泣き声がながくつづくことだった。何やら相争う物音や、早口にいくどとなく『いやよ、いやよ、出してちょうだい、すぐ出してちょうだい!・』といったような言葉が聞こえたが、はっきり思い出すことができない。つづいてまたさっきと同じように、だれかが一目散に戸口へ駆け出して、ドアをさっと開けた。二人の女はばたばたと廊下に飛び出したが、やはりさっきのように一人の女が、もう一人のほうを止めているらしかった。 もう前から長いすを飛びおりて、さも愉快そうに聞き耳を立てていたスチェベリコフは、いきなり戸口のほうへ飛んで行って、すぐさま無遠慮に廊下へおどり出ると、隣室の婦大のそばへずかずかと寄って行った。もちろん、わたしも同様
戸口のほうへ駆け出した。しかし、彼が姿を現わしたのは、女たちにとってバケツに一杯、ひや水を浴びせられたくらい効果があった。ふたりはそこそこに姿を隠し、ばたんと扉を閉めてしまった。スチェベリコフはその後から飛んで行こうとしたが、やがて立ちどまって、指を一本立て、にやにや笑いながら何やら思案していた。このとき、わたしは彼の笑いの中になんともいえないいやな、気味の悪い、陰惨な表情を読んだのである。居間の戸口に立っている女あるじに気がつくと、彼は爪先立ちで足早に廊下を横切り、そのほうへ走って行った。そして、二分間ばかり、何やらひそひそ話をして、むろんのこと情報を受け取ると、彼はもはや堂々たる態度で、断乎たる色を浮かべながら部屋へ引っ返し、テーブルの上からシルク(ツトを取り、ちょっと鏡の中をのぞいて髪をかき上げると、いかにも得意らしい自足の色を浮かべ、わたしのほうを見向きもせず、隣りの部屋へ出かけて行った。そして、ちょっと戸口へ耳を持っていって、様子をうかがいながら、廊下ごしに女あるじに得意らしく目ばたきをして見せた。こちらは指を立てて、脅かすような真似をしながら、しきりに首を振るのであった。その様子は、『まあ、なんて悪戯っ子でしょうね!』とでもいいたそうだった。それから、彼は思いきったような、だがいかにも婉曲な顔をして、さも慇懃そうに小腰さえかがめながら、指でこつこつと隣りの部屋の戸をノ″クした。すると中から、「そこにいるのはどなた?」という声が聞こえた。「恐れ入りますが、ちょっとはいらしていただけませんか。
重大な用件なのです」とスチェペリコフはしかつめらしく大きな声でいった。 二人はいっとき躊躇したが、それでもほんの少しばかり四分の一ほどドアを開けた。けれど、スチェベリコフはすぐにしっかと扉の(ンドルを握って、もう二度と閉められないようにしてしまった。やがて会話がはじまった。スチェペリコフはしじゅう中へはいろうとあせりながら、大きな声でしゃべりだした。わたしはいちいち言葉まで党えていないけれど、どうやらヴェルシーロフのことや、自分はなんでも話して聞かすことができる、なんでも詳しく説明することができるだの、『いや、まあ、あなたわたしにきいてごらんなさい』だの、『いや、まあ、あなた少しわたしの家へいらっしゃい』というようなことだった。彼は間もなく中へ通された。 わたしは長いすへ引き返して、盗み聴きしようとしたが、どうもよく聞き分けられなかった。ただしょっちゅうヴェルシーロフの名を口にすることだけはわかった。わたしは声の調子から推して、スチェベリコフが早くも一座の会話を操っているのを察した。もののいいぶりも、前のようにおずおずした調子ではなく、さっきわたしに向いていったように、『あなたわかりますか?・さあ、これから気をつけて聞いて‘下さい』といったようなことを、えらそうに威張りかえってならべているらしかった。もっとも、婦人に対しては、恐ろ』しく慇懃な態度をとっているらしく、もう二度ばかり彼の高らかな笑い声が聞こえた。が、これはあまり場所柄にはまった笑い方でなかったに相違ない。なぜなら、彼の声と並行し
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で、ときには彼の声を圧倒して、まるっきり愉快な感情を表わしていない二人の声が、聞こえてくるからであった。しか・し、さきほど鋭い叫びを上げた若いほうの声が、とくべつ耳に立った。彼女はいかにも公正な裁きを審判官に求めるような調子で、何やらしきりにあばき訴えながら、早口に神経的’な声で、無性にしゃべり立てるのであった。しかし、スチェベリコフもなかなか負けていず、いよいよ頻繁に高笑いを連発するのだった。こういう連中は他人の話を聞くのが下手なものである。 わたしは間もなく長いすを下りた。立ち聴きなどするのがE恥ずかしくなったからである。わたしはもとの席、窓のそばの籐いすに戻った。ヴァージンはこの男を、木の端くれほどにも思っていないのだが、もしわたしがそれと同じ意見を口に出していったら、彼はたちまちまじめくさったもったいらしい様子をして、『あれは今の実業家の一人として実際的な人間だから、われわれの普遍的な、抽象的な見地から批判するわけにはいかない』などとお説教じみたことをいって、弁護するに相違ない、わたしはこう信じて疑わなかった。今でも覚えているが、わたしはこのとき精神的に、完膚なきまで打ちひしがれたようになり、心臓は烈しく鼓動していた。そして疑いもなく、何事か叫右ヤるのを期待していたのだ。 十分ぽかりたった。と、彼がまた破裂するように笑いつづけていた最中に、だれやらちょうどさきほどと同じように椅子からおどりあがった。そして、二人の女の叫びが起こったと思うと、つづいてスチェベリコフも飛びあがったふうであ
る。彼はまるで声を変えてしまいながら、どうか終わりまで聞いてくれ……と頼むように、何やらしきりといいわけをはじめた。けれど、相手は終わりまで聞いていなかった。『出て行って下さい! あなたは悪者です、あなたは恥知らずです’・』という腹立たしげな叫び声が聞こえた。要するに、もう明らかに、彼は追ん出されているのだ。わたしが戸を開けて見ると、ちょうど彼が隣りの部屋から飛び出したところだった。実際、文字どおりに手で突き出されたものらしい。わたしの顔を見ると、いきなりわたしを指さしながら、わめいた。 「ああ、これがヴェルシーロフの息子です1・ もしわたしのいうことをほんとうになさらんのなら、ここにあの人の息子がいます、これがあの人の実子です! さあ、どうぞ!」と、彼は威張りかえって、わたしの手をつかんだ。「これがあの人の息子です! あの人の実子です!・」わたしを婦人連のほうへ連れて行きながら、それ以上いっさい証明の言葉を加えないで、彼はこうくり返すのだった。 若い婦人は廊下に、年とったほうはI歩うしろの戸口に立っていた。わたしはただ、この娘が年の頃二十歳ばかりで、器量もなかなか悪くないけれど、やせた病的な顔をして、旻も赤っ茶けていたことと、顔つきがなんとなくわたしの妹に似ていたことIだけしか覚えていない。ただこれだけがちょっと目に映り、記憶に残っているばかりだ。しかし、リーザはかつて、この娘のような烈しい憤怒に落ちたこともなければ、またもちろん、落ちうるはずがないのである。娘の唇
は真白になり、明るい灰色の目はぎらぎらと輝き、全身憤怒のあまりわなわなふるえていた。今でも覚えているが、わたしは恐ろしくばかばかしい、つまらない立場におかれてしまった。なぜなら、この出過ぎ者のおかげで、なんといっていいか、かいもくわからなくなったからである。 「息子ならどうしたというんです! この大だってあなたといっし。なら、いずれ悪者にきまってるわ。ねえ、あなたがヴェルシーロフの息子さんなら」彼女はふいにわたしのほうへ振り向いた。「あたしからだといって、お父さんに取次いでくださいな、-あの大は悪者です、あきれた恥知らずです。あたしあの人のお金なんかいりません……吻ゝあ、さあ、さあ、このお金をお父さんにわたしてください!・」 彼女は手早くポケットから幾枚かの紙幣を取り出したが、乍とったほうが(後で母親だとわかった)その于を抑えた。 「オーリヤ、だって違うかもしれないじゃないか、もしかしたら、このお方はあの大の息子さんじゃないかもしれない オーリヤはちらと母の顔を見て、何やら思案したらしく、きも軽蔑しきったような目つきで、わたしを見すえると、そのままくるりと部屋の中へ引き返した。が、戸を閉める前に、閾の上に立ちどまって、もう一度憤怒の情に堪えぬように、スチェベリコフに叫んだ。 「出て行け!・」 おまけに地団太さえ踏んで見せた。やがて戸はぱったり閉うて、今度はもうぴんと鍵をかけてしまった。スチェベリコ
フは、相変わらずわたしの肩をつかんだまま、脅かすように指を一本立てて、間の伸びたもの思わしげな微笑に囗を弛めながら、何やら問いかけるような目つきで、じっとわたしを見つめた。 「ぽくはね、ぼくに対するあなたの行為を、滑稽で卑屈なものだと思います」とわたしは不満の念を抑えかねて、こう切り出した。 しかし、彼はわたしのいうことを聞こうともしなかった。そのくせ、わたしの顔から目も離さないでいるのだ。 「これは大いに調査しなけりゃならんぞ!・」と彼はもの思わしげにつぶやいた。 「しかし、それにしても、あなたはどういう権利があってぼくまで巻き添えにしたんですか? いったいあれは何者です?いったいあの女は何です? あなたはぼくの肩をつかんで引っぱって行きました、-あれはぜんたい何事です?」「ええ、うるさい! 純潔を失った処女とか、なんとかいうんでしょうよ……つまり、『たえずくり返される除外例』でさあ……あんた聞いていますか?」 こういって、彼は指でわたしの胸を押した。 「ええ、うるさい!」とわたしは彼の指を払いのけた。 しかし、彼はとつぜん思いがけなく、聞こえるか聞こえないかくらいの低い声で、長々とさも愉快そうに笑いだした。やがてようやく帽子をかぶり、急に顔の様子を変えて、暗い表情に移りながら、眉をひそめていった。 「ここの細君に教えてやらなけりゃならん……あんなやつら
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は追ん出してしまわなきゃだめだ、1ほんとうに。それもなるべく早くしなきや。そうせんと、あいつらがまた……いや、今に見ておいでなさい! まあ、わたしのいったことを覚えておいでなさい、今に思いあたることがありますからね! ほんとうにあん畜生!」と彼はまた急に浮かれだした。「ところで、あなたはグリーシヤ(訌懸)をお待ちになりますか?・」 「いや、ぼくは待ちません」わたしは断乎たる調子で答えた。 「まあ、それはどちらでも同じこってす……」 彼はもうそれ以上うんともすんともいわないで、くるりと踵を転じて、部屋を出て行った。そして、彼から説明と報告を待ち設けているらしい女あるじには目もくれず、階段をどんどん降りてしまった。わたしも同様に帽子を取り、ドルゴルーキイというものが来たことを、ヴァージンに伝えてくれと女主倉頼んでヽ階段を駆けおりた。 ヨ わたしはただ無駄に時間を潰したばかりだった。外へ出ると、すぐ部屋さがしにかかった。しかし、頭がすっかり散漫になっていたので、何時間か街をぶらついて五六軒くらい貸間札の出ている家へはいったけれど、二十軒くらいは気づかず素通りしたに相違ない。部屋を借りるのがこんなにまでむダかしかろうとは、想像もしなかった。これがなおのこといまいましくてたまらなかった。どこへ行っても、部屋はヴァ
Iシンのようなのか、あるいはそれ以下で、しかも間代は滅法界もなく高い、というより、わたしの予算にてんで合わないのだった。わたしはただほんの寝起きするだけの隅っこを要求したのだ。すると、先方はそんなら『長屋』へでも行くがいいといわないばかりに答えた。それに、どこへ行っても、変てこな下宿人がうようよしていて、一目見ただけでも、とてもそんな連中といっしょに暮らせそうもない。それどころか、彼らといっしょに暮らさないですむためには、こっちから金を出してもいい、と思われるような風体なのだった。それはたいてい上着なしのチョ″キーつで、あご鬚をもじゃもじゃさした、妙に無遠慮な、好奇心の強そうな連中ばかり。ある小さな部屋の中には、十人ばかりの男が、カルタの勝負を争いながらビールを飲んでいたが、その隣りを貸してやろうとすすめるのであった。またあるところではわたし自身が、主人の問いに対して、思いきりばかげた返事をしたので、相手はあきれたような顔をして、じろじろわたしを見まわした。また一軒の家では喧嘩沙汰にまでなった。 が、こんな下らないことを、こまごま書き立てる必要はない。ただわたしがいいたいと思うのは、もうだいぶ暗くなったころ、恐ろしく疲れてしまったので、ある安料理屋で何か食べたことである。そのとき、わたしはこれからすぐに出かけて行って、例の遺産相続に関する手紙を、ヴェルシーロフに手渡したうえ(余計な口はいっさいきかないのだ)、屋根裏にあるわたしの荷物を鞄と風呂敷に詰めて、一晩くらいは宿屋で泊まってもいいから、引っ越してしまおう、と決心し
たのである。オブーホフ通りのはずれの凱旄門のそばに旅籠厘があるが、そこでは三十コペイカ出せば、別室さえ取ることができるのを、わたしは知っていた。一晩だけそれくらいのことは奮発してもかまわない、ただただヴェルシーロフの棠には泊まりたくない。 ところが、工芸専門学校のそばを通りかかったとき、わたしはなぜかとつぜん、タチヤーナ叔母のところへ寄ってみようという気になった。叔母はちょうどその工芸専門学校の向かいに住んでいるのだ。ほんとうは、ここへ寄ろうという口実は、やはり例の遺産相続事件に関する手紙のことだったが、しかし、ぜひ寄ってみたいという抑えきれない欲求を感じた原因は、もちろんほかにあるのだ。しかし、今わたしはそれを明らかにする力がない。ただそこには、『乳呑児』のことだの、『一般の法則となった除外例』のことだの、そんなものが頭の中で、ごっちゃごちゃに入り乱れていたのである。そもそもわたしは叔母に何か話がしたかったのか、それとも自慢がしたかったのか、それとも喧嘩がしたかったのか、あるいはまた泣きたかったのか、-そのへんはよくわからない。とにかく、タチヤーナ叔母の住居をさして階段を昇って行った。わたしは今まで一度しかここへ来たことがない。それはわたしがモスクワから来て間もないころで、母から何か用事を頼まれて出かけたのだが、はいっても腰さえおろさないで、じき帰ってしまった。叔母もまたべつにかけろともいわなかったので。 ベルを鳴らすと、料理女がすぐに戸を開けて、黙りこくっ
たままわたしを中へ通した。まったくこうしたデテールが必要なのである。それでなかったら、後々まであんなに大きな影響を及ぼした、ああいう気ちがいめいた事件がどうして起こったか、とても理解できないのだ。まず最初に料理女のことを書こう。これは鼻の平ったい意地悪なフィンランド生まれの女で、主人のタチヤーナ叔母を憎んでいるらしかったが、こちらはかえってこの女に妙な執着があって、どうしても別れることができない。それは老嬢などによくある、鼻の湿った狆だとか、いつも寝てばかりいる猫だとか、そんなものに対する執着に似ているらしかった。このフィンランド女は時にはぷりぷり怒ったり、時には無作法な真似をしたり、時には喧嘩をしたあげく、一週間も無言の行をしたりして、自分の主人にお灸をすえるのだった。きっとこのときも、こうした無言の行にあたっていたのだろう、わたしが『奥さんはお家かい?』ときいても(わたしがこの問いを発したのはたしかに覚えている)、彼女は返事もしないで、無言のまま台所へ引っこんでしまった。こういうわけで、当然、主人は在宅だと信じたので、わたしはずんずん客間へはいって行った。が、だれ一人そこにいなかったので、今にタチヤーナ叔母が寝室から出て来るだろうと思って(実際そうでなかったら、料理女がわたしを通すはずがないではないか?)、そのままじっと待っていることにした。わたしはすわりもしないで二三分間待っていた。もうとっぷり日が暮れてしまって、さらでだに薄っ暗いタチヤーナ叔母の住居は、一面に際限なく垂らしてある更紗のために、ひときわ陰気くさく見えた。
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ところで、事件のはじまった場所の観念を明らかにするために、このけち臭い住居のことを、一言しておこうと思う。タチヤーナ叔母は頑固で権高い性質と、古い地主時代の習慣のために、道具つきの部屋を又借りするようなことができず、自分で独立した一家のあるじとなりたいばかりに、この真似事のような住居を借りたのである。この二つの部屋は、ちょうど大小二つの鳥籠をくっつけ合わしたようなもので、おまけに三階にあり、窓はみんな裏庭に向いているのだ。入口の戸を開けると、そこはいきなり、幅一アルシン半ばかり(m言)の狹っくるしい廊下になっていて、その左側には例の鳥籠が二つならび、廊下の突きあたりは小さな台所へはいろ戸口になっている。人間ひとり十二時間に必要な十立方フィートの空気は、おそらくこの二つの部屋にあるかもしれないが、まあ、そんなところが関の山で、それ以上はなさそうだった。この二つの部屋は見苦しいまでに天井が低く、しかも何よりばかばかしいのは、窓も戸も家具も何から何まで、すっかり更紗で蔆われていることだった。もっとも、それは上等のフランス更紗で、おまけに刺繍で飾ってあったけれど、そのために部屋がひとしお薄暗くなり、旅行馬車の内部みたいに見える。わたしの待っていた部屋は、道具類がいっぱいになっていたが、まあ、体を動かすだけの余地はあった。ただしその道具類はなかなか気のきいたものだった。青銅の飾りのついた寄木細工のテーブルがいろいろあるし、箱もいくつか飾ってあり、洒落た贅沢な化粧台もあった。わたしがすわりこんで、タチヤーナ叔母の出るのを待っていた部
屋の次は寝室で、厚いカーテンでぴったりと仕切られてあったが、後で見ると、まったく寝台一つきりしかなかった。こうしたデテールは、後でしでかしたばかげた行為を理解するために、ぜひ必要なのである。 こうして、わたしはもうとう疑いをはさまないで待っていた。とふいに、表でベルの音がした。わたしは料理女がゆっくりと廊下を通り抜けて、先刻と同じように黙りこくってだれやら中へ入れる物音を聞いた。それは二人の婦人で、二人とも大きな声で話していた。が、わたしの驚きはどんなだったか、-一人はタチヤーナ叔母の声で、もう一人は今こんな場所で会おうと夢にも予期していなかった例の婦人ではないか! 思い違いなどしようはずがない。この響きのいい、力のこもった金属的な声は昨日たった三分間しか聞かなかったけれど、わたしの胸にまざまざと残っていたのだ。そうだ、それは『昨日の女』だ。いったいわたしはどうしたらいいのだ? もっとも、わたしはこの問いを読者に向けて発しているのではない。ただ自身でその瞬間を思い浮かべているまでである。実際、わたしはどういうわけでとつぜんカーテンの向こうへ飛び込み、タチヤーナ叔母の寝室へ姿を濳めたのか、今だに説明ができない。てっとりばやくいえば、わたしは隠れたのだ。そして、やっとカーテンの陰へ飛び込むか込まないかに、早くも二人ははいって来たのである。なぜわたしは平気で二人を迎えないで隠れたのか、1それはわれながらわからない。すべては偶然に、純然たる無意識のうちに行なわれたのだ。
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寝室へ飛び込んでべ″ドに突きあたると、そこから台所へ抜ける戸口があるのに、わたしはすぐさま気がついた。つまり、この不幸からのがれる道があるわけだ、きれいにここを抜け出す方法があるわけだ、―しかし、まあ、なんという恐ろしいことだろうI・ 戸にはちゃんと鍵がかかっていて、鍵穴に鍵もないではないか。わたしは絶望のあまり、寝台にぺったり腰を落とした。自分は、してみると、これから人の話を盗み聴きしようとしてるんだ、こういう想念がはっきりとわたしの頭に浮かんだ。しかも、最初の数句、最初の数音によって、二人の会話が秘密な、尻くすぐったいものであることを佰った。むろん、潔白で高尚な人間なら、こうなってしまってからでも、やはりこの部屋を出て行って、『ぼくがここにいます、ちょっと待ってください1・』と声高に叫んだ後、自分の立場がいかに滑杤であろうとも、そのままずんずん出て行くのがほんとうだった。ところが、わたしは立ちあがりもしなければ、出て行こうともしなかった。勇気がなかったのだ。卑怯千万にもおじけがついたのだ。「ねえ、わたしの大好きなカチェリーナさん、あなたはほんとうにわたしをがっかりさせておしまいなさるわ」とタチヤーナ叔母は訴えるようにいった。「もうこれっきりで、そんな心配はすっかり捨てておしまいなさい、そんなことは、あなたのお気性に似合わないじゃありませんか。あなたのいらっしゃるところへは、どこへでも悦びがついてまわるような気がしていたのに、今度は思いがけない……あなたもわたしのいうことだけは、昔どおり信用してくださることと思いま
すが、わたしがまあ、どのくらいあなたを思ってるか、自分でよく知ってらっしゃるんでしょう。少なくも、ヴェルシーロフさんのためを思う心に劣らないほどですわ。まったくヴェルシーロフさんに対して、生涯かわらない信服の念をいだいていることは、わたし決して包み隠しをしませんがね。まあ、こういうわけですから、わたしのいうことを信じてください、わたし自分の名誉にかけて誓いますわ。そんな手紙はあの人の手にありゃしません。いえ、ことによったら、だれの手にもないかもしれませんよ。それに、あの大はそんな小細工のできる大じゃありません。それを疑うのは、あなた罪ですよ。あなた方は双方とも、自分でそんな不和を作り出したんです」 「いえ、手紙はあります。そして、あの大はどんな卑劣なことでもできる大です。それに、どうでしょう、昨日お父様のお部屋にはいって見たら、珍しい初対面の大がいるじゃありませんか、‐ce Pctlt esplon(あの小さい間諜が)。あの大があんなものをお父様に押しつけたんですわ」 「ええ、まあ、cc Petlt csplonだなんて、第一、あれはそんなesPlonなんかじゃありません。だって、あれはわたしが先に立って、老公のところへ入れたんですもの。そうでもしないと、あれはモスクワで気ちがいになるか、餓え死にでもしそうだったんですからね、Iまったく向こうからそういって来たんですよ。第一、あの無作法な小僧っ子は、まるでずぶばかものじゃありませんか、どうしてあれにスパイなんかできるもんですか!・」
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「ええ、まったくなんだかばかみたいな子供ですよ、だけども、それだからって、べつに卑劣な人間になれないわけはありませんわ。わたしあのとき、いまいましくてしようがなかったんですが、そうでなかったら、ほんとうに笑い転げるところでしたよ。だって、急に真っ青になって、ちょこちょことそばへ駆け寄って、足ずりをしながら、フランス語で何やらいいだすんですもの。モスクワではマリヤさんがあの子のことを、まるで天才かなんぞのように話していらっしたけど。しかし、あの不運な手紙がまだ無事に残っていて、どこかいちばんけんのんな場所にあるってことは、何より、わたしあのマリヤさんの顔つきで確信しましたの」 「まあ、カチェリーナさん、あのひとのところになんにもないってことは、あなた自身でもいってらっしゃるじゃありませんか!」 「ところが、あるんですよ。あのひとはただうそをいってるんですよ。わたしはっきりいっておきますが、あのひとは実に芝居が上手なんですよ!・ わたしもまだモスクワへ行くまでは、手紙なんか決して残ってやしないって希望を持っていましたけど、あのひとに会ってからは初めて……」 「まあ、あなた、それはまるで反対ですよ。あのひとは実に優しい、分別のある婦人だって評判じゃありませんか。故人もあのひとを大勢の姪御の中で、いちばん大切にしていたということですもの。もっとも、わたしはあのひとをそう深く知りませんけれど、しかし、-あなたはあのひとを丸め込んでおしまいになるとよござんしたにねえ、カチェリーナさ
ん!・ あなたにとっては、あのひとを征服するくらいわけなかったでしょうに、わたしみたいなお婆さんでも、このとおりあなたに惚れ込んじまって、今もさっそくあなたを接吻しようと思ってるくらいですもの……ねえ、あの大を丸め込むくらい、なんでもないじゃありませんか!」 「わたしも丸め込もうとかかったんですのよ。タチヤーナさん、やってみたんですよ。それどころか、夢中にしてしまったほどなんですの。だけど、あのひとはほんとうにずるいですね……まったくあのひとはしっかりした気性です。おまけに、モスクワ式の気性ですの……どうでしょう、あのひとはわたしに向かって、ここに住んでいるクラフトとかいう大に相談してみろ、とすすめるじゃありませんか。それは、アンドロニコフの助手だった大だから、ひょっとしたら、この人が承知してるかもしれない、というんですもの。このクラフトとかって人のことは、わたしもうすうす知っていますし。一度ちょっと会ったこともあるように覚えています。だけど、あのひとがクラフトのことをいったとき、わたしはもうたしかそうと信じました、-あのひとは知っていないどころじゃなく、かえって上手にうそをついてるのです。ええ、何もかも知り抜いています」 「いったいなぜですの、どういうわけですの? だって、ほんとうにその男にきいてみたらいいじゃありませんか! あのドイツつぼのクラフトはおしゃべりじゃありません。そして、わたしも覚えていますが、この上もない潔白な人間ですよ。ほんとうにあの男によくきいてみるといいわ!・ ただあ
の男はいまペテルブルグにいないらしいですね……」 「ところが、ついきのう帰って来ました。わたしたったいま行って見たばかりですの……だから、わたしは心配で心配で夢中になって、あなたのところへ飛んで来たんですよ。ほら、わたしこんなに手や足がふるえるんですもの。ねえ、夕チヤーナさん、あなたはだれでもみんなごぞんじだから、あなたにおききしようと思って来たんですがねえ……どうでしょう、あの人の書類の中からでも、さがし出すことはできないでしょうか。だって、あの人の後に、いろんな書類が残ってるに相違ないでしょう。してみると、それは今度だれの手にわたるんでしょう? あなたのご意見を伺おうと思って、飛んで来たんですの」 「というと、いったいどんな書類です?」タチヤーナ叔母は合点がゆかなかった。「だって、あなたご自身でたった今、クラフトのところへ行ったとおっしゃったじゃありませんか」 「行きました、行きました。たったいま行ってみました。ところが、あの人は、自殺しちゃったんですの! つい昨日の晩!」 わたしは寝台からおどりあがった。先刻まわし者だの、ばかだのいわれたときには、まだじっとすわっていることができた。そして、二人の会話がだんだん進行するにつれて、わたしはますます姿を現わすことができなくなってしまった。そんなことは考えることさえ不可能だ!・ わたしはタチヤーナ叔母が客を送り出してしまうまで(もし運よく、タチヤーナ叔母がその前に何かの用で、自分から寝室へはいって来る
ようなことがなかったら)、それまでじっとすわっていよう、それからアフマーコヴアが帰った後は、タチヤーナと取っ組んだってかまやあしない1………とこうひそかに決心したのである。ところが、いまとつぜんクラフトのことを聞くと、わたしはふいに寝台から飛びあがった。まるで全身が痙攣の発作に襲われたような気がした。もうなんにも考えなければ、いっさい分別や思案などというものもなく、わたしは反射的に足を踏み出して、カーテンを押し上げ、二人の前に姿を現わした。全身わなわなとふるえているわたしの青白い顔を見分けるには、あたりはまだ十分あかるかった……一一人はあっと叫んだ。実際、どうして叫ばずにいられよう。 「クラフトが?」とわたしはアフマーコヴアに向かってつぶやいた。「自殺したんですって? 昨日? 日没ごろに?」 「お前さんは、どこにいたんだい? どこから出て来たんだい?」タチヤーナ叔母はこうわめきながら、まったく形容でなくわたしの肩につかみかかった。「お前さんはまわし者の真似をしてるんだね? お前さんは立ち聴きしてたんだね?」 「タチヤーナさん、今わたしあなたになんていいました!」カチェリーナ夫人はわたしを指さしながら、長いすから立ちあがった。 わたしはかっとなり、われを忘れた。 「うそです、でたらめです’・」わたしは獰猛な声で彼女をさえぎった。「あなたはいまぽくをまわし者だといいましたね。ああ、なんてことだろう! いったいあなたのような人に対
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して、スパイなんかする価値がありますか? それどころか、そばで暮らすのさえ穢らわしいくらいです! 高潔な人間は自殺をもって終わります。クラフトは思想のために、ヘキューバのために(勁ごに衽片一ペーJ町妻、)自殺しました……(もっとも、あなたなぞヘキューバが何か知る必要もありませんよ)……ところが、ひるがえってあなた方を見ると、権謀術数の中に住み、偽りと陥穽の周囲をあくせくしてるのです……そんなお付合いなんかたくさんですI」 「ほっぺたを一つ見舞っておやりなさい! ほっぺたを一つ見舞って!・」とタチヤーナ叔母はわめいたが、カチェリーナ夫人はじっと瞬きもせずに、わたしの顔を見つめているのみで(わたしは彼女の一線一画も洩らさず覚えている)、その場を一歩も動こうとしなかった。もうI瞬間おそかったら、叔母はたしかに自分の勧告をみずから実行したに相違ない。で、わたしは自分の顔を防ぐために、覚えず于を上げたものである。ところが、叔母はこの動作を、自分のほうから手を振り上げたものと解釈した。 「さあ、おぶち、おぶち!・ お前さん、自分が生まれつきの下司だってことを証明おし。お前さんは女より強いんだから、何も遠慮することはないじゃないか1・」 「そんないいがかりはたくさんです、たくさんです1・」とわたしは吽んだ。「ぼくは決して婦人に手を振り上げたことなんかありませんI タチヤーナ叔母さん、あなたこそ恥知らずです。あなたはいつでもぼくを軽蔑してたんですよ。ああ、人に対するには、まるで相手を尊敬しないことが必要な
んですI カチェリーナさん、あなたはたぶんぼくの恰好を笑ってらっしゃるでしょう。ええ、どうせぼくは侍従武官などのような洒落た体つきを、神様から授からなかったんですから。しかし、それでも、ぽくはあなたの目の前で屈辱なんか感じやしません。それどころか、かえって前より高いところへ引き上げられたような感じがします……いや、とにかくいいまわしはどうだろうと、要するにぼくは少しもやましくないのです! ぼくは偶然ここへ落ち合ったんですよ、タチヤーナ叔母さん。惡いのはあなたの女中です。いや、あの女中に対するあなたの妙な執着、といったほうがいいでしょう。なんだってあの女はぼくの質問に答えないで、いきなりぼくをここへ案内したのでしょう? それからまた、ぼくは婦人の寝室から飛び出すのが、なんともいえないモンストラスなことに思われたので、ぼくはむしろ潔く無言であなた方の侮辱を忍びながら、姿を現わさないことにしようと決心したのです……あなたはまた笑ってらっしゃいますね、カチェリーナさん?」 「出て行きなさい、出て行きなさい、とっとと出て行っておくれ」ほとんど地団太を踏まないばかりに、タチヤーナ叔母はわめいた。「カチェリーナさん、この小僧のでたらめなんか気にかけないでください。さっきもいったとおり、あちらからもこの小僧のことを、気ちがいだと銘打って来たんですからね!」「気ちがいだって? あちらから? あちらからって、いったいだれがそんなことをいって来たんでしょう? が、ま
あ、どうでもいい、たくさんです、カチェリーナさん!・ ぼくはこの世にありとあらゆる神聖なものに賭けて誓いますが、この会話もまたぼくの聴いたいっさいのことも、必ずこの場限りにしておきます……偶然あなたの秘密を知ったからって、それがどうしてぼくの罪なのでしょう? それに、あなたのお父さんのほうの勤めも、さっそく、あすからやめてしまうつもりですから、お探しになっている例の手紙のことについては、あなたもご安心なすってよろしゅうございます!」 「それはなんのことです?・:::あなたのおっしゃる手紙というのは、なんのことですの?」とカチェリーナ夫人はへどもどした調子でそういって、顔の色さえ真っ青にしてしまった。しかしそれはただわたしにそう思われただけかもしれない。わたしはあまりたくさんいいすぎたのに気がついた。 わたしは急ぎ足で外へ出た。二人は無言のままわたしを目送したが、その目の中には極度な驚異の色が表われていた。手短かにいえば、わたしは彼らに謎をかけたのだ……
第Q)章 二つの死
j わたしはわが家へ急いだ。そして奇態なことには、すっかり自分で自分に満足しきっていた。むろん、婦人たちに対して、しかもああいう人たちに対して、あんなもののいい方を
する者はない。いや、婦人たちでなく、たんに婦人といったほうが適切だ。なぜなら、タチヤーナ叔母など勘定に入れる必要がないからだ。 「あなた方の陰謀なんか、唾でも吐きかけてやりたいくらいだ」などという乱暴な言葉は、決して婦人に向かって発すべきものではないかもしれない。にもかかわらず、わたしはそれを発し、そのために満足を感じたのだ。余事はしばらくおくとして、少なくともこの言葉の調子によって、あのときの自分の立場に含まれていた滑稽な分子を、きれいさっぱり拭い取ったものと信じている。けれど、わたしはあまりこのことばかり考えている暇がなかった。わたしの頭の中はクラフトのことでIぱいだった。べつに彼の死がひどくわたしを悩ましたというわけではないが、それでも、わたしは腹の底から強い衝動をうけたのである。そのため、ふつうは人間が他人の不幸、たとえば足を挫いたとか、名誉を失墜したとか、愛するものを喪ったとか、そういうことを見聞きしたときに感ずる一種の愉悦感、陋劣な満足感は痰なく消えて、きわめて純一なほかの感情、―悲哀に場所を譲ったのである。それは、クラフトに対する哀惜の情か何か知らないけれど、とにかく一種強烈な、そして善良な感情だった。これにもわたしは同様、満足だった。人間というものは、何か異常な報知によって、全心を揺り動かされたようなとき、本来ならば、ほかの感情や無関係な想念なぞはいっさい圧迫し、駆逐してしまうべきはずなのに、かえっていろんな無関係な妄想が、後から後からと心に浮かんでくるものである。驚くべきこと
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だ・ことに浅薄な想念がかえってうるさく浮かんでくるのだ。今でも覚えているが、かなり感情的な戦慄が、次第にわたしの全身を襲ってきて、家へ帰ってヴェルシーロフと交渉しているあいださえ、依然としてつづいていたほどである。 この交渉はきわめて奇怪なとっぴな状態のもとに行なわれた。もはや前にものべておいたとおり、わたしたちは庭の中にたった一軒立っている離れに住んでいたが、この家には十三番という番号がついていた。まだわたしが門へはいらないうちから、いらいらしたじれったそうな、だれかに大声でたずねている女の声が聞こえた。 「十三号の家はどこにありますの?」 それは一人の婦人が、門のそばにあった小売店の戸を開けてたずねたのである。しかし、この店ではまるで返事をしなかったか、それとも、てんから追い出してしまうかしたらしく、女はぷりぷり怒りながら、にくにくしげな顔つきをして、小さな店さきの階段をおりて来た。 「ほんとうに、いったいここの庭番はどこにいるんだろう?」と彼女は地団太を踏みながら叫んだ。わたしは早くもこの声がだれだか気づいていた。 「ぼくもやはり十三号の家へ行くところですが」とわたしは彼女に近づいた。「だれをたずねてらっしゃるんです?」 「あたしはまる一時間、庭番をさがしているんですの。会う人ごとにたずねてるんです。どの階段にも、どの階段にも昇ってみましたわ」「十三号は庭の中にあるんです。あなたはぼくにお気がつき
ませんか?」 が、彼女は早くもわたしが何者であるかを思い出した。 「あなたはヴェルシーロフをさがしてらっしゃるんでしょう? あの男に用事があるんでしょう? ぼくもやはりそうなんです」とわたしは語りつづけた。「ぼくは永久にあの男ときれいに片をつけるために来たのです。いっしょに行きま 「あなたはあの人の息子さんですか?」 「そんなことはなんの意味もありゃしません。しかしまあ、かりにぽくをあの男の息子としといてもかまいませんよ。もっともぼくはドルゴルーキイといって、私生児なんですがね。あの男には数えきれないくらい私生児があるんですよ。しかし、良心と名誉が要求するときには、肉親の息子だって家出をすることがあります。それは、聖書にも書いてあるとおりです。それに、あの男は遺産を相続しましたが、ぼくはその分配にあずかりたかありません。ぽくは自分の腕一本で生活するのです。高潔な心を持った人間は、必要な場合、自分の生活をさえ犠牲にします。クラフトはピストルで自殺しました。クラフトは思想のために死んだのです。まあ、考えてごらんなさい、まだ若い前途有望の青年だったのです……こちらです、こちらです! ぼくらはI軒だちの離れに住んでるんです。実際、もう聖書時代から、子供は父のもとを離れて、おのれの巣を営む、としるされています……もし思想の牽引があるならば……もし思想があるならば! 何よりかも思想が一等大切です、思想の中にいっさいが含まれている
のです……」 わたしは自分の住居へ上って行く間じゅう、やみまなしにこんなふうのことをしゃべりつづけた。読者は、わたしが自分というものに寸毫も容赦せず、必要な場合には、立派に自己批評をしていることに、おそらく気がつかれたに相違ない。わたしは真実を語ることを学びたいのだ。ヴェルシーロフはうちに居合わせた。わたしは外套を脱がないで、中へはいって行った。彼女はそれにならった。彼女は恐ろしくみすぼらしいなりをしていた。じみな着物の上からは、何かのきれがぶらぶらしていたが、おそらくこれはコートかケープのつもりなのだろう。頭には、古い継ぎはぎだらけの水兵帽をかぶっていたが、それがてんで飾りになっていないのだ。わたしたちがホールへはいって行ったとき、母はいつもの場所へすわって、仕事をしているし、妹は様子をうかがいに、自分の部屋から出て、戸口のところへ立ちどまった。ヴェルシーロフは例の癖で、なんにもしていなかったので、わたしたちを出迎えるように席を立った。彼はいかつい、もの問いたげな目つきで、じっとわたしを見すえた。 「ぼくはこれになんの関係もないのです」とわたしは急いで、振りはらうようにいい、わきへのいた。「ぼくはついそこの門のところで、このひとに会っただけです。このひとがしきりにあなたをたずねていられたのに、だれひとり教えてやるものがなかったのです。ぼくも自分の用事があって来たのですが、それはこのひとの後で申し上げます」 ヴェルシーロフはそれでも依然、好奇に充ちた目でわたし
を見つづけた。「失礼ですが」と娘はじりじりした声で切り出した。 ヴェルシーロフは彼女のほうへ振り向いた。 「あたしはね、なぜ昨日あなたが、あたしのところへあんなお金を置いてくだすったか、そのわけを長いこと考えました……あたしは……つまり、簡単にいいますと……六ゝあ、これがあなたのお金です!」彼女はさきほどと同じような黄色い さっ声でこう叫ぶと、いきなり紙幣の束をテーブルの上へなげ出した。「あたし住所調査部で、あなたの住所をさがさなければならなかったんです。それでなかったら、もっと早く持って来たはずなんだけど。ねえ、あなたI」とつぜん彼女は、母のほうへ振り向いた。母は真っ青になっていた。「あたし、あなたを侮辱しようなどとは思っていません。あなたは潔白らしい様子をしてらっしゃいますもの。あの方はあなたの娘さんでいらっしゃるのでしょう。あなたがこちらの奥さんかどうか知りませんが、まあ、聞いてください。この方は貧しい保姆や女教師がなけなしの金をはたいて広告している新聞を切り抜いて、こういう不幸な女の家をまわり歩きながら、不義の快楽を求めて、こういう女たちを金で不幸に引きずり込んでいるのです。あたしはどうして昨日、この人からお金なんぞ受け取ったのか、自分で合点がいかないくらいですの。この人があまり潔白な、正直らしい顔をしていたものですから……どいてください、一口もものをいわないでください! あなたは悪党です、ええ、そうです! たとえあなたがきれいな考えを持ってらしったとしても、それでもあた
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し、あなたのお恵みなんかほしくありません。一口も、一口もものをいっちゃいけません! ああ、あたしは今あなたの情婦の目の前で、あなたの本性をあらわしてあげたのが、ほんとうにうれしくてたまらない! あなたのような人は呪われるがいい」 彼女は足ばやに部屋を駆け出したが、閾のところから、またちょっと引っ返して叫んだ。 「あなたは遺産を相続したそうですね!・」 といい捨てたまま、影のごとく消えてしまった。いま一度ことわっておくが、この娘はもうすっかり逆上してしまっているのだ。ヴェルシーロフはこの出来事に深く震駭された。彼は何やら考え込んだようなふうで、じっと立っていたが、やがてだしぬけにわたしのほうへ振り向いた。 「お前はあの女をぜんぜん知らないのかね?」 「さっき偶然グァーシンのうちの廊下で、あの女が暴れて大きな声でわめきながら、あなたを呪っているところを見たんですが、しかし、べつに話もしなかったので、なんにも知りません。今は門のそばで出会っただけです。多分あれが昨日の『数学の教授をなす』という、例の女教師なんでしょ 「ああ、あの女なのだ。生涯にたった一度いいことをしたんだが……しかし、お前は何を持ってるんだね?」 「これは手紙です」とわたしは答えた。「ただし、説明は不要と思います。これはクラフトの手から出たのですが、クラフトは故人のアンドロニコフ氏から受け取ったのです。それ
は内容でおわかりになりますよ。ただひとことつけ足しておきますが、世界じゅうでこの手紙のことを知ってるのは、ぼくのほかに一人もありません、なぜって、クラフトはこれをぼくに手渡してから、ぼくが出て行くとすぐ自殺してしまったのですから」 わたしがせきこんで、息を切らしながら話しているあいだ、彼は手紙を受け取って、それを左の手に持つたまま、じっと注意ぶかくわたしの言葉に耳を傾けていた。わたしはクラフトの自殺のことを話したとき、この報知のもたらす効果を見とどけるため、特別な注意をもって彼の顔を見入った。が、どうだろう? この報知は、彼に毛筋ほどの印象も与えないではないか。眉一つ動かさないのである! それどころか、わたしがちょっと話を止めたのを見て、彼は常住坐臥手放したことのない、黒リボンのついた柄付設鏡を取り出し、手紙を蝋燭のそばへ持って行って、署名にちらと目をやった後、回心に読みはじめた。この高慢な無関心な態度に、わたしがいかぽかり憤慨したか、言葉でいい現わせるものでない。彼はよくクラフトを知っているはずだし、第一、なんといっても、これは容易ならざる報知ではないか!・ のみならず、わたしも人情として、この報知の効果を望んでいたのである。わたしはいっとき待っていたけれど、手紙がだいぶ長いのに気がつくと、くるりと背を向けて、部屋を出てしまった。 わたしの鞄はすでにとっくから用意ができていた。ただ幾品かのものを風呂敷包みにすれば、もうそれでいいのであっ
た・わたしは母のことを考えた。そして、あのまま母のそばへ寄りつかなかったのが悔やまれた。十分の後、わたしがすっかり用意をすまして、辻馬車を呼びに行こうとしたとき、わたしの小部屋へ妹がはいって来た。 「あのお母さんがね、いつかの六十ルーブリを返しますって。そして、うっかりアンドレイ・ペトローヴィチに囗をすべらしたのを、くれぐれも勘忍してもらいたいって。それから、ここにもう二十ルーブリあります。これはきのう兄さんが食費だといって、五十ルーブリ出したでしょう。ところが、お母さんのおっしゃるには、三十ルーブリ以上兄さんから取るわけにはどうしてもいかない、だって、五十ルーブリは兄さんにかかってないんですもの。だから、二十ルーブリおつりを返しますって」 「いや、ありがとう。ただし、お母さんのいうことがほんとうならばだ。ところで、ご機嫌よう、リーザぼくは出かける 「兄さんこれからどこへ行くの?」 「今夜はとりあえず宿屋へ行くよ。ここへはどうしても泊まりたくないからね、どうかお母さんにそういっておくれ、ぼくはお母さんを愛していますって」 「お母さんはそんなこと、ちゃんと知ってらっしゃるわ。お母さんはね、あんたがアンドレイーペトローヴィチもやはり愛してるのを、ちゃんと承知してらっしゃるのよ。だけど、兄さんはあの不仕合せな女の人をつれて来るなんて、よくまあ恥ずかしくないことねえ?」
「ぼくちかっていうよ、あれはぽくじゃないんだ。門のところで出会ったんだよ」 「いいえ、あれはあんたがつれて来たんだわ」 「まったくだよ、お前……」 「まあ、よく考えて自分の心に聞いてごらんなさい。そうしたら、自分もやはり原因になっていたってことが、合点ゆくから」 「なに、ぼくはただヴェルシーロフが恥をかかされたのが、うれしくってたまらなかったのさ。まあ、どうだろう、あの男はリジヤーアフマーコヴア嬢に生ました乳呑児をつれてるんだよ……もっとも、お前をつかまえて、なんてばかなことをいってるんだろう、ぼくは」 「お父さんが? 乳呑児を? だけど、あれは自分の子じゃないのよ!・ 兄さんはどこからそんなことを聞き込んで来たの?」 「ふん、お前なんかにわかってたまるもんか」 「あたしにわかるはずがないんですって? だって、あの赤ん坊はあたしが自分で、ルガにいるときお守りをしたんじゃありませんか。ねえ、兄さん、あたし前から気がついてたけど、あんたはまるで何も知らないのね。それだのに、アンドレイーペトローヴィチを侮辱して、―それに、お母さんまで同じように……」 「もしヴェルシーロフが公明正大なら、ぼくが悪いことになるだけだ、それだけの話さ。ところが、ぼくはお前やお母さんを、負けず劣らず愛してるんだよ。どうしてお前はそんな
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に赤い顔をするんだい、リーザ?・ ほうら、またよけい赤くなったじゃないか!・ いや、まあ、よろしい。しかしとにかく、ぽくはエムスでヴェルシーロフに平手打ちをくらわしたあの公爵の畜生に、決闘を申し込むつもりなんだ。もしヴェルシーロフが、アフマーコヴ″嬢に対して公明正大だとしたら、それこそなおさら容赦できないわけだ」 「兄さん、しっかりしてちょうだい、何をいってるのよう!」 「いいあんばいに、裁判所のほうもきょう片づいちまったから……おやおや、今度は青くなったね」 「だけど公爵は兄さんを相手に、そんなことなどしなくってよ」驚きの鰓から、リーザはにっこり笑ったが、それは青ざめた微笑だった。 「それなら公衆の面前で赤恥をかかしてやるさ。どうしたんだい、リーザ?」 彼女は、すっかり真っ青になって、じっとひとところに立っていることができず、長いすにべったり腰をおろしたほどである。 「リーザー」と下から母の呼ぶ声が聞こえた。 彼女は気を取り直して、立ちあがった。彼女は優しくわたしにほほ笑みかけた。「兄さん、そんなばかばかしいことは、やめておしまいなさい。それがなんなら、しばらく待ってよ、そのうちにいろいろとわかってくるから。あんたはほんとうになんにも知らないのねえ」「リーザ、ぼくが決闘するっていったとき、お前は顔を真っ
青にしたね、ぽくおぽえていようよ」 「ええ、ええ、このことも思い出してちょうだい!」と彼女はもう一度、お別れににっこりほほえんで、下へおりて行った。 わたしは辻馬車を呼び、馭者の助けをかりて、うちから自分の荷物を引き出した。家族の者はだれひとりわたしに反対する者もなければ、わたしをとめる者もなかった。わたしは、ヴェルシーロフと顔を合わすのがいやなので、母のところへ暇乞いに行かなかった。もう馬車に腰をおろしたとき、突如、わたしの頭に一つの想念が閃いた。 「フオンタンカだ、セミョーノフ橋のそばだ」とわたしはいきなりこういいつけて、ふたたびヴァーシンのもとへ出かけたのである。
2 わたしはこのとき、多分ヴ″Iシンがクラフトのことを知ってるに相違ない、もしかしたら、わたしより百倍もよけい知ってるかもわからない、とふいに考えついたのである。ところが、はたしてそのとおりだった。ヴァージンはすぐさま親切に、いっさいの状況をことこまかに物語ったが、しかし大して熱もなさそうな調子だった。わたしは、彼が疲れているに相違ないと断定したが、事実そうだった。彼はけさ自分でクラフトのとこへ行ったのである。クラフトは、昨日すっかり日が暮れてしまってから、ピストル(あの例のピストル)で自殺したのである。このことは彼の日記によって明瞭だっ
た。この日記の最後の一節は、発射の寸前に記入したものであり、ほとんど真暗な中で、字形さえ弁ぜずに書いたのだ、としるされてあった。彼は自分の死後火事などひき起こすのを恐れて、蝋燭をつけなかったとのことである。 「いったんつけたものを発射の前に、ちょうど自分の命と同じように、また消してしまうのはいやだ」ほとんど最後の行に、こういう奇妙なことがつけ足してあった。 この自殺の前の日記は、おととい彼がペテルブルグへ帰るとすぐ、まだデルガチョフのとこへ行かない前に書き始めたのだ。わたしが彼のもとを辞してからは、ほとんど十五分ごとに書き入れをしている。ことに最後の三四節は、もう五分おきくらいに書き込んでいるとのことだった。ヴァージンがこの日記を長いこと、自分の目の前にすえておきながら(彼はそれを読ましてもらったのである)その写しをとっておかなかったのを、わたしはぎょうさんにいぶかり咎めた。それに、日記は全部で大判一枚くらいのものだし、感想もみんな短いものばかりだったというから、なおさらである。 「せめて最後の一行だけでも、写しとけばよかったのに!」 するとヴァージンはほほ笑みを含みながら、彼の感想はまるっきり系統がなくって、頭に浮かんで来ることを乱雑に書き込んでいるにすぎない、とこういうのだ。わたしは、それがこの場合何よりも貴重なのだと論じかけたが、それはすぐにやめてしまい、何か思い出して話してくれ、とねだりだした。彼は死ぬちょうど一時間まえに書いた幾行かを、思い出して‘くれた。それには『寒けがして仕方がないので、体を暖
めるため酒をIぱい飲もうと思ったが、そうすれば血の出かたが多くなるだろうと考え、やめてしまった』と書いてあった。すべてこういったような調子なのだ、とヴァージンは言葉を結んだ。 「あなたは、それも下らないことだというんですねI」とわたしは叫んだ。 「いつぽくがそんなことをいいました? ぼくはただ写しをとらなかっただけです。しかし、下らんことでないとしても、実際あの日記はかなり平凡なもの、というより、むしろ自然なものでした・つまり、こういう場合に、とうぜん書かれるべき種類のものなんです……」 「しかし、なんにしたって、最後の思想じゃありませんか、最後の思想ですよ!・」 「最後の思想は、どうかすると、非常に下らないことがあるもんですよ。ある一人の自殺者が、やはりあんなふうな日記の中で、こうした重大な瞬間だから、せめて一つでも『高遠な理想』が訪れてもよさそうなものだのに、かえってどれもこれもみな浅薄な、空虚なものばかりだ、と訴えています 「寒けがするというのも、空虚な思想ですか?」 「きみはほんとうに、寒けや血のことをいってるんですか?ところがね、こういう事実が一般に知れわたっていますよ、-自殺といなとを問わず、眼前に迫っている自分の死を考える力のあるものは、たいていあとにのこる自分の死骸の体裁を心配するのですよ。この意味でクラフトも、血がたくさ
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ん流れるのを心配したんです」 「そんな事実が一般に知れわたっているものか……また、はたしてそういうものかどうか、ぼくは知りませんがね」とわたしはつぶやいた。「しかし、あなたがこの事件を、そんなふうに自然に考えられるのが、不思議でたまらないんですよ。だって、クラフトはつい昨日まで、ぼくらの間にすわって、ものをいったり、興奮したりしてたじゃありませんか。いったいあなたは、あの人がかわいそうじゃないのですか?」 「そりゃ、もちろん、かわいそうです。それはぜんぜん別問題です。どっちにしてもクラフト自身は、論理的結論として、自分の死を描き出したんです。今となってみると、昨日デルガチョフのところで、あの男についていったことは、みな肯綮にあたってたんですね。あの男の死後、学者めいた結論を集めた一冊の手帳が残ったわけなんです。その中には。ロシヤ国民が第二流の民族だということは、骨相学や頭蓋学ばかりでなく数学から推していっても証明される、したがって、ロシヤ人としては生きている価値がない、ということが書いてあるのです。なんですね、ここで最も注目すべき点は、次のことなんです。論理的結論なんかどうにでも作り上げられるけれど、その結論のためにピストルを取って自殺するということは、もちろん、ちょっと真似ができないですよ」 「少なくとも、その意気に敬意を表さなきゃなりません」 ・「ことによったら、それだけじゃないかもしれませんよ」と ヴァージンは曖昧な調子でいった。しかし、彼が理性の弱
さ、ないしは愚かさをほのめかしていることは明らかだった。こういったすべてのことがわたしをいらいらさせるのであった。 「だって、昨日はあなた自身、感情の力を説いたじゃありませんか、ヴァージン」 「今だって否定しやしません。しかし、こうして事件がおわ って見ると、極度に粗漏な誤りが目についてくるので、厳格 な批判のまなこをもって見ると、自然、気の毒という感じま で消滅してしまう」 「実はねえ、ぼくもさっきからあなたの目つきから推して、あなたがクラフトの悪口をいうってことを、察しちゃったのです。だから、その悪口が聞きたくないばかりに、あなたの意見をたたくまいと決心したんです。ところが、あなた自身それをいってしまわれたので、ぽくも否応なく、あなたに同意しなくちゃならなくなりました。が、それでも、ぼくはやはりあなたに不満なのです! ぼくはクラフトがかわいそうです」 「ねえ、ぽくらはあまり深入りしすぎたようですな……」 「ええ、ええ」とわたしはさえぎった。「しかし、少なくとも、こういう場合いつも、生き残った故人の批判者が、『実に惜しい人を殺した、気の毒なことをした、かわいそうなことをした。が、とにかくわれわれは生き残ったんだから、何もそうくよくよすることはないさ』ということができる、それがせめてもの慰めですよ」 「そう、むろんそういう見方もありますよ……ああ、きみは
冗談にいったんですね? なかなか気がきいてる。ぼくはいつもこの時刻にお茶を飲むので、これ。からすぐいいつけますが、きみも相手をしてくださるでしょうね」 彼はこういいながら、わたしの鞄と風呂敷包みをじろりと見まわして、出て行った。 実のところ、わたしはクラフトの敵討ちに、何か少し意地の惡いことをいってやりたかったので、ああいうふうにいったのだが、面白いことに、彼は初め『ぼくらのような生き残った連中』云々というわたしの言葉を、まじめにとったのだ。が、それはとにかく、なんといっても、彼はすべての点において、-感情の点からいっても、わたしより公正だった。このことはいささかの不満もなしに自覚されたが、それでもわたしはこの男がいやでたまらないと、はっきり意識したのである。 茶が運ばれたとき、わたしは彼に向かって、今夜一晩だけ泊めてもらいたいが、もしいけなかったら、遠慮なくそういってもらいたい、わたしは宿屋へでも引き移ろからと申し込んだ。それから、なるべく詳細にわたらないようにして、いよいよヴェルシーロフとの間が決裂するにいたった原因を、言葉すくなく、簡単明瞭に説明して聞かせた。ヴ″Iシンは注意ぶかく耳を傾けていたが、少しも興奮した様子はなかった。概して、彼は問われたことに答えるだけだった。もっとも、その答えはなかなか愛想がよくって、かなり内容も十分だったけれど。ところで、例の手紙の件については、先刻そのことで彼の助言を求めてたずねて来たのだが、―わたし
はまったく黙っていた。で、さきほどの訪問も単なる挨拶ということで説明しておいた。わたしはいったんヴェルシーロフに向かって、あの手紙のことはわたし以外だれも知るものはないと断言したので、この点だれにもあれ、口外する権利はないと感じたのである。それに、わたしはある種の事柄をヴァージンに伝えるのに、なぜかとくに嫌悪を感じるようになった。 しかし、それはたんにある種の事柄にかぎるので、ほかのことは必ずしもそうばかりではない。わたしは、さきほどここの廊下でもちあがり、ついにヴェルシーロフの家で終わりを告げた隣室の女の事件を話して、まんまとヴァージンの興味をそそった。彼はなみなみならぬ注意をもって聞きおわった。ことにスチェペリコフの一件に興味を持って、この男がデルガチョフのことを根錮り葉掘りした話なぞは、二度もわたしにくり返さして、考え込んだくらいである。が、それでも結局、にたりと笑った。この瞬間、わたしはふとこんなことを感じた、-ヴ″Iシンはどんなことに出会っても、いっかなとほうに暮れるなどということのない男に相違ない、と。もっとも、今でも党えているが、この点に関する最初の想念は、彼にとって有利な意味をおびていたのである。 「ぜんたいとして、ぽくはあのスチェベリコフ氏の話したことを、十分理解することができなかったのです」とわたしは結論を下した。「あの人のいうことは辻褄が合わなくて……そして、人物にもどことなく軽薄なとこがありますよ`‘ ヴァージンはとたんにまじめな顔をした。
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「あの人は実際、言葉の才能を持っていません。しかし、一見しただけで、恐ろしく正確な評言を下すことがよくあるんですよ。それに……ぜんたいとして、あれは思想を伝えるというよりも、むしろ実務の人、儲け仕事の人ですから、ああいう人たちはこの点から批判しなければなりませんよ……」 ちょうどわたしがさっき想像したのと、一分一厘ちがわないのだ。 「しかし、あの人は隣りの部屋へ行って、大変な騒ぎをひき起こしましたよ。ほんとうにどんなことになったかもしれやしない」 隣室の女のことについて、ヴ″Iシンはこういった。二人はもう三週間ばかりこの家に住んでいる、どこか田舎のほうから来たらしい。恐ろしくちっぽけな部屋で、あらゆる点から推して、貧しい暮らしをしているに相違ない。ただぼんやりと何かを待っているらしい様子である。ヴァージンは、娘が新聞に教師の広告を出したことは知らなかったが、二人のところヘヴェルシーロフが訪ねて来たことは聞いていた。それは彼の留守中にあったことだが、女主人が話して聞かせたのである。彼はこの二三日、実際、隣室の様子が変だなと心づいてはいたけれど、今日のような騒ぎは、今までなかったとのことである。こうした隣りのうわさは、ただ後に起こった事件のために、書きつけておくのだ。戸一つ隔てた隣りの部屋は、この瞬間、死のごとき沈黙に閉じこめられていた。スチェベリコフが隣室の二人のことについて、ぜひ女主人と相談しなければならぬといい、『今にごらんなさい、今にご
らんなさい!』とくり返した一条を、ヴァージンはことのほか興味をもって聴いた。 「ほんとうに今に見てごらんなさい」とヴ″Iシンがいい添えた。「あの男がそんなことを思いついたのには、曰くがあるんですよ。あの男はこういうことにかけたら、なかなか鋭い観察眼があるんだから」 「どういうんです、つまり? あなたの考えでは、あの二人を追ん出すように、細君に忠告したほうが、いいんですか?」 「いや、ぼくは追い出すだのなんだの、そんなことをいってるんじゃありません。ただ何か騒ぎが起こらなければいいと思って……しかし、そんな騒ぎはどちらにしろ結局……まあ、こんな話はよしましょう」 ヴェルシーロフが隣りの女を訪問した件については、彼は絶対に推測を拒絶した。 「どんなことだってあり得ますよ。人間はいま自分がポケ″卜に金を持ってるという感じのために……しかし、ことによったら、たんに慈善をしたにすぎないかもしれません。それは、あの人の伝説からいっても当然なことだし、それにあるいは、そういう傾向をもっているのかもしれませんよ」 わたしは、スチェベリコフがさっき『乳呑児』のことをしゃべった話をした。 「スチェベリコフもこの件については、ぜんぜん思い違いをしてるんです」一種特別まじめな力のこもった調子で、ヴァージンはいいだした(わたしはよく覚えている)。「スチェペリコフは」と彼は語りつづけた。「ときどき自分の実際的常
識を過信して、あまり性急に自己一流の論理から割り出した結論をくだす傾きがあります。もっとも、その論理は時としてヽなかなか深刻なこともあるんですがね。ところが、事実この事件は、関係人物から推して見ても、はるかにフ″ンタスチックな、意想外な色彩を持ちうるに相違ない。実際そのとおりでしょう。多少事実を知っていながら、彼はあの赤ん坊をヴェルシーロフの子だと断定したが、ほんどうはヴェルシーロフの生ました子じゃないのです」 わたしは根掘り葉錮り聞きただして、次のような驚くべき事実を知ったのである。ほかでもない、赤ん坊はセルゲイーソコーリスキイ公爵の子なのだ。リジヤーアフマーコヴァは病気のせいか、あるいはまたたんにとっぴな性質のためか知らないが、時とすると、気ちがいそっくりの真似をした。彼女はまだヴェルシーロフに近づかないうちに、この公爵に血道を上げた。ところが公爵は、ヴァージンの言葉によると、『なんの造作もなく彼女の恋を受け入れた』のである。しかし、この関係はほんの束の間で、二人はすでに前にもいったとおり諍いをして、リジヤは公爵を自分のそばから追い払ったが、『こちらはかえってそれをもっけの幸いにした』らしいとのことである。彼女はきわめて奇矯な娘で(とヴァージンはつけ加えた)、時には健全な意識を失うようなこともあったらしい。しかし、公爵がパリヘ向けて立ったときに、彼はリジヤがどんな体になっているかを、まるで知らなかった。彼は最後まで、パリから帰って来るまで、知らなかったのである。
ヴェルシーロフは、この若い婦人の親友となったとき、彼女に結婚を申し込んだ。というのは、右の事情が知れてきたからである(しかし、両親はそんなことを最後まで夢にも知らなかったらしい)。恋せる娘は有頂天になってしまい、ヴェルシーロフの申込みを’『ただの自己犠牲ばかりとは思わなかった』が、しかしそれをありがたく思ったのも事実である。『もっともヴェルシーロフはもちろん、そういうことは上手にやりますからね』とヴ″1シンはつけ足した。赤ん坊(女の児)はひと月か、ひと月半ばかり早く生まれた。そして、やはりドイツのどこかへ預けられたが、その後ヴェルシーロフが引き取って、今はロシヤのどこかへ置いている、ひょっとしたらペテルブルグかもしれない。 「で、黄燐マッチは?」 「それはぼくちっとも知りません」とヴ″Iシンは断言した。「リジヤーアフマーコヴ″は分娩後、二週間たって死んだのです。それについてどういうことがあったのか、ぽくは知りません。公爵はパリから帰って初めて、赤ん坊のできたのを知ったのですが、はじめのうちは自分の子だと信じなかったらしい。ぜんたいとして、この事件はどの方面からも、今日まで極秘にされてるんですよ」 「しかし、その公爵はなんて男でしょう!」とわたしは憤懣のあまりこう叫んだ。「病身の処女に対して、なんてことをしたものでしょう!」「リジヤはまだその当時、そんなに病身じゃなかったんですよ……それに、自分のほうから公爵を追っ払ったんですから
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ね……もっとも、公爵にしても、あまり手軽にお暇が出たのをいいことにした、というきらいはありますがね」 「あんたはそんな卑劣漢を弁護するんですか!」 「そうじゃありません。しかし、ぼくは公爵を卑劣漢と呼ぶのははぽかりますね。これにはたんに卑劣というようなもの以外に、まだ違ったものがたくさんあります。概して、この市件はかなり平凡なものですよ」 「ねえ、ヴ″Iシン、あなたはあの男を親しく知ってたんでしょう。ぼくはとくにあなたの意見も参酌したいんです。一つぼくにきわめて密接な関係を持った事件があるもんですからね」 が、これに対するヴ″Iシンの答えはなんだか極端に控え目だった。彼は公爵を知ってはいたものの、どんな事情で近づきになったかは、明らかにわざと沈黙をまもっていわなかった。つづいて、彼の説明するところによると、公爵はその性質上、かなり同情すべき人物なのである。『彼は純な傾向を有して、感受性に富んでいるが、十分に自分の欲望を統御していくだけの理性も、意力も持ち合わせていない』彼は教養の低い男で、多くの思想や現象を理解する力がないのだが、そのくせ、そういうものに夢中になって飛びかかって行くのだ。たとえば、彼はよく人をつかまえて、こんなふうのことをくり返す。「わたしは公爵で、そしてリューリ;(に言バに齟皿詔、)の後裔だ。しかし、その日の糧を儲ける必要が生じた場合、そしてほかの仕事に能がないというような場合、わたしだって靴屋の下職になってならないという理屈は
ない。看板に『靴職何々公爵』と書いたら、それこそかえって立派じゃないか」 「あの男はいったんいいだしたら、きっとしおおせます。これが最もかんじんな点なのです」とヴ″Iシンはいい添えた。「しかしそれは決して信念の力じゃなく、ほんのただ軽はずみな感受性ばかりなんです。そのかわり、後できっと後悔がやってくる。すると彼はいつでも、またぜんぜん正反対な極端へ走るのだが、つまりそこに全生命があるわけなんです。現代においては、多数の人がこういうジレンマに陥りますが」とヴ″Iシンは語を結んだ。「それはつまり、現代に生まれたためなんですよ」 わたしは知らず知らず考え込んだ。 「以前、あの男が連隊から追い出されたというのは、ほんとうでしょうか?」とわたしはきいてみた。 「追い出されたかどうか知りませんが、ある不快な事情で連隊を去ったのは事実です、あの男がちょうど去年の秋、退職になってから、ルガで二月か三月くらしていたのは、きみもご承知でしょう?」 「ぽく:…・ぽく知っています、あなたもあのとき、やはりルガに住んでたんでしょう?」 「ええ、ぽくもちょっとの問ね。公爵はリザヴェータさんとも、やはり知合いになっていましたよ」 「へえ? ぽく知らなかった。実のところ、ぼくはあまり妹と話をしたことがないものだから……しかし、いったいあの男が母の家へ出入りを許されたんでしょうか?」とわたしは
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叫んだ。 「いやいや、どうして。どこかよそで知合いになっただけで、ごく遠々しい間柄だったのです」 「ああ、なるほど、妹がぽくに赤ん坊のことをいってたっけ!・ いったい赤ん坊もルガにいたことがあるんですか?・」 「ちょっとの間」 「じゃ、今どこにいるんです?」 『きっとペテルブルグでしょう』 「どんなことがあっても、ぽくほんとうにしやしない!」とヽわたしは極度の興奮に駆られて叫んだ。「母がこの事件に、このリジヤの一件に関係してるなんて、ばかばかしい!」 「この事件には、いろいろの魂胆やいきさつがあるでしょうが、ぼくはそれを一々解剖してみようとは思いません。しかしヽそのほかにヴェルシーロフの演じた役まわりは、かくべつ非難すべきものじゃありません」ヴ″Iシンは寛大に微笑しながらいった。彼はわたしと話をするのが大儀になってきたらしいが、それでも顔には少しも出さなかった。 「ぼく、ぼくは決してほんとうにできません」とわたしはまた叫んだ。「女として自分の夫をほかの女に譲りうるなん‘て、ぼくそんなことは金輪際、信じられない! ぽくちかっ弋もいい、母は決してそんなことにかかりあいはしなかったのです」 「しかし、べつに反抗はしなかったらしいですね」 「ぼくがお母さんの位置に立ったら、たんにプライドのため・のみでも反抗しませんよ!」
「ぼくとしては、こんな事件に関する批判は断然拒絶します」とヴ″Iシンは物語を結んだ。 実際、ヴァージンはあれだけの頭脳を持っていながら、女のことはてんからわからなくって、多くの思想や現象は、彼にとって風馬牛におわったのかもしれない。わたしは囗をつぐんだ。 ヴァージンは臨時に、ある株式会社へ勤めていたので、自宅へもしょっちゅう仕事を持って帰ることを、わたしは知っていた。わたしの執拗な問いに対して、今日も仕事、計算書を持って帰っていると白状した。で、わたしはどうか自分に遠慮をしないでくれと熱心に頼んだ。彼はそれにしごく満足らしかった。しかし計算に向かう前に、彼はわたしのため長いすの上に寝床を敷きにかかった。はじめ彼はわたしにべ″ドを譲るといったが、わたしがたって辞退したので、これにも同様、満足そうな様子だった。枕や毛布などは、女主人のところから借りて来た。ヴァージンは恐ろしく丁寧で、愛想がよかったけれど、しかしわたしは自分のためにこんなに骨折ってくれるのを見るのが、なんだか胸苦しく感じられた。それより三週間ばかり前、偶然ペテルブルグ区のズヴェーレフのところで泊まったときのほうが、ずっと気持ちよかった。そのとき彼はやはり長いすの上へ、叔母に内緒で寝床を作ってくれた。それは友達が泊まりに来るのを知ったら、叔母が腹を立てるに相違ないから、となぜか想像したがためである。シーツのかわりにシャツを敷いたり、枕のかわりに外套を置いたりしたとき、わたしたちは大笑いに笑ったのを覚え
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弋いる。それからまたズヴェーレフが仕事をおえてから、愛情のこもった様子で長いすを指で弾きながら、わたしにこういったのも記憶している。「Vous dormirezcornrne unPetit.roI.(きみは小さい王様のように眠るんだね)」 このばかげたはしゃぎようと、牛が鞍を背負ったほど不似合なフランス語のおかげで、わたしはその晩ひどくいい気持ちで、この道化者のとこに休んだ。ところが、ヴ″Iシンの家ではどうかというと、彼がようやくわたしに背を向けて仕事にかかったとき、なぜかうれしくてたまらなかった。わたしは長いすの上に長くなって、彼の背を眺めながら、長いことさまざまなことを考えた。
3 それに実際、考えるべきことがあったのだ。わたしの頭の中は混濁して、何一つまとまったものがなかった。しかし、ある感触は非常にくっきりと浮き出していたが、それでもあまり数が多すぎるために、一つとしてわたしを引ぎ入れる力がなかった・すべてがどういうわけか、何の連絡も順序もなしに頭をかすめた。しかも、わたしはその中の一つを捕えて、そればかりに思いをひそめてみることも、きちんと順序を立ててみることも、まるでしたくないのであった。クラフトに関する感慨さえも、いつの間にか、第二義的な位置に退いてしまった。何より最もわたしを興奮さしたのは、わたし自身の境涯であった・自分はこうしていっさいのものと『絶縁』して、鞄もちゃんといっしょにさげて来た、もはや親の
家にはいないのだ、すべてをまったく新規にやり直すのだ、といったような感じだった。なんだか今までのわたしの志望や準備は、みんな冗談半分で、『たったいま卯鮒(これが大切な点なのだ)、ほんとうにいっさいが始められることになったのだ』というような気がした。この想念はわたしを励ました。そして、わたしの心はいろいろな原因のために混濁していたが、それでもわたしを浮き立たしてくれたのである。 しかし……しかし、まだそれよりほかの感触もあった。その中の一つは、とりわけはっきりと浮き出して、わたしの心の全部を支配しようとしていた。しかも、不思議なことには、この感触もやはり同じようにわたしを励まして、なんだか恐ろしく愉快な心持ちを誘い出すのであった。もっとも、その感触は初め恐怖から発したのだ。わたしはさっきあまり夢中になってとりのぼせ、アフマーコヴア夫人に手紙のことを口走ってしまったのを、もうだいぶ前から、-ほとんどあの瞬間から、そら恐ろしく感じだしたのである。 『そうだ、おれはあまりたくさんしゃべりすぎた』とわたしは考えた。『もしかしたら、あの二人は何か悟ったかもしれない……困ったことになったぞ! もちろん、あの二人が疑り出したら、ぼくをじっとさしておきゃしない。が、しかし……まあ、うっちゃっとくさ!・ もしかしたら、おれをさがし出せないかもしれない、-・隠れてやるんだから! だが、ほんとうにおれの後を追いまわし始めたらどうしよう……』このとき、わたしは細かなことまでふと思い出して、喜びがたかまった、-さっきカチェリーナ夫人の前に立つ
ヽたとき、彼女が傲慢なしかしひどく驚いたような目つきで、じっとわたしを見すえたものだ。が、わたしはこの驚きの中に彼女を取り残したまま外へ出ながら、腹の中で考えた。『あの女の目はすっかり真黒じゃない……ただ睫毛が恐ろしく黒いもんだから、それで目があんなに暗く見えるのだ……』 と、ふいにわたしは(今でも覚えているが)あることを思い出して、なんともいえないほどいやになってきた……そして、人も自分も一様にただいまいましく、胸惡く感じられるのだった。わたしはなぜかわれとわが身を責めて、ほかのことを考えようと努めたのである。 『いったいどういうわけで、おれは隣りの女の一件について、まるっきりヴェルシーロフに憤懣を感じないのだろう?』という疑念がふとわたしの頭に浮かんだ。 わたし一個の意見としては、ヴェルシーロフの行動は色情に関したもので、おそらく楽しむつもりでやって来たに相違ない、と信じていた。しかし、わたしが困惑を感じたのは、あながちこのためではない。まったくわたしはそれよりほかに、彼の人物を想像することができない、とさえ感じられたほどである。したがって、彼の屈辱を悦ぶ心はあるにもせよ、彼を咎めようとは思わなかった。わたしにとって重大なのは、そんなことではなかった。わたしにとって重大なのは、さっき隣りの娘といっしょに彼の家へ行ったとき、彼が・さもにくにくしげにわたしをにらんだことである。実際、彼があんな目つきをしたことは、今までなかったのだ。『とうとうヴェルシーロフも、あんなにまじめにおれを見るようにな
つた!』とわたしは胸の痺れるような思いで考えた。『ああ、もしおれがあの男を愛していなかったら、あの男に憎まれるのをこんなに悦ぶはずがないのだ!』 挙句のはてに、わたしはうとうとしかけたが、やがてぐっすり眠りに落ちてしまった。ただヴ″Iシンが仕事をおえて、几帳面に机を片づけ、じっとわたしの寝ている長いすを見つめた後、着物を脱いで蝋燭を消したのを、夢うつつに覚えているだけである。それは夜中の十二時すぎだった。
かっきり二時間ぽかりたったころ、わたしは気でも狂ったように、夢心地で床を起きあがり、長いすの上にすわっだ。隣室へ通ずる戸の向こうから、凄じい叫びや泣き声が聞こえたのだ。部屋の戸はIぱいに開け放たれて、もうあかりのついた廊下では、人々が馳せちがったり、わめいたりしていた。わたしはヴ″Iシンを呼び起こそうとしたが、もはや彼が床の中にいないのに気づいた。マ″チがどこにあるかわからないので、わたしは暗闇の中で自分の着物をさがし、大急ぎで着替えを始めた。隣りの部屋へは女主人も下宿人も駆け集まっているらしかった。もっとも、悲鳴をあげているのはI人きりだった。それは年とったほうの女で、わたしの覚えすぎるほど覚えている昨日の若いほうの女の声は、今ぴったり沈黙をまもっていた。この点がまず最初に頭へうかんだのを、今でも記憶している。わたしがまだ着替えを終わらないうちに、ヴァージンがせかせかとはいって来た。馴れたもので、
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たちまちマッチをさがし出してヽ部屋を照らした。彼はシャツの上にガウンを着て、スリッパを突っかけていたが、すぐ着替えにかかった。 「どうしたんです?」とわたしは叫んだ。 「どうもたいへんいやな、厄介なことがもちあがったんですよ!」と彼はほとんど毒々しい声で答えた。「きみが話した隣りの若い女ね、あれが自分の部屋で首を縊ったんです」 わたしは思わずあっと叫んだ。わたしの心がどれくらい痛みだしたか、とても言葉につくせない!・ わたしたちは廊下へ駆け出した。実のところ、わたしは隣りの部屋へのこのこはいって行く勇気がなく、後で不幸な若い女が繩からおろされたとき、ちょっとかいま見たばかりである。もっとも、それもシーツのかかっているのを遠方から見たっきりなので、小さな靴の踵が二つちJ』んとのぞいてるのが、目にはいっただけである。こういうわけで、なぜか顔をのぞきに行く気にはなれなかった。母親は恐ろしい状態になっていた。そのそばにはこの家の細君がいたが、さして驚いている様子とてもなかった。下宿人もみんな、その場に集まっていたけれど、人数はあまり多くなかった。いつもばかに囗やかましいわがままな気性にも似ず、今はすっかりおとなしく静まりかえっている年とった海員と、トヴェーリ県から来たかなり人品のいい官吏風の老夫婦くらいのものだった。 この夜の騒ぎを詳しく語るのはやめよう。しばらくたって、警察の臨検があった。わたしは夜の明けるまで、まったく形容でなくぶるぶるふるえ通していた。そして、なんにも
したわけではないが、義務として床につかないことにきめた。それに、だれも彼もひどく興奮した顔つきをして、むし{ろ恬気づいているといっていいくらいだった。ヴ″Iシンなどは、どこかへ用事で出かけたほどである。女主人はかなり人品のいい婦人で、想像したよりはるかに善良な人物だった。わたしは彼女にすすめて(わたしはそれを自分の功績と思っている)、母親をこのまま娘の死骸のそばに、一人キヾりうっちゃっておくわけにはいかない、せめて明日の朝まででも、自分の部屋へ連れて行かなければならぬ、と主張した。女主人はすぐさま同意して、娘をI大うっちゃっておくのはいやだといって、もがいたり泣いたりする母親を、無理やりに引き立てて、自分の部屋へ連れて行き、さっそくサモワールを立てるようにいいつけた。 その後で下宿大たちもめいめいの部屋へ別れて、戸を閉め切ったが、それでもわたしはどうしても寝る気になれず、長いこと女主人のところにすわり込んでいた。女主人は一人でも多くの大がいて、ちょいちょいためになる注意をしてくれるのをむしろ悦んだくらいである。それにサモワールが大いに役に立った。ぜんたいにサモワールというものは、こうした異変や不幸があった場合(ことにふいな恐ろしいエクセントリ″クな場合)に、なくてはならぬ必須のロシヤの道具である。母親さえも二杯まで代えて飲んだ。もっとも、それは言葉をつくしてすすめて、ほとんど強制的に飲ませたのである。しかし、わたしは真心からいうのだが、この婦人を眺めたときほど、残忍な、ただちに心を射るような悲しみを感じ
たことはない。慟哭とヒステリイの発作が収まると、彼女は自らすすんでいろいろなことを話しだした。わたしはその話を貪るように聴いたのである。 よく不幸な人々の中には、こういう場合なるべく余計に話をさせるのが、必要な治癒法となるような種類の人がある。ことに、女にこうした性質の人が多い。のみならず、悲しみにすりへらされてしまったような性格の所有者がある。彼らは一生涯あまた数々の悲しみ、-恐ろしい大きな悲しみや、絶え間のないちょいちょいした悲しみを、しじゅう堪え忍んできたために、どんなに思いがけない破局に出会っても、つゆいささか驚くということがないばかりか、自分の最も愛する人間の棺の前でも、高い価を払ってあがなった社交の規則を、一つとして忘れないようになる。しかし、わたしは決してそれを責めているのではない。なぜなら、それは陋劣なエゴイズムのためでもなければ、こころの発達の粗笨なためでもないから。こういう人たちの胸の中には、見かけぽかり美しいヒロインなどよりも、かえって多くの美点を蔵しているものだ。ただ長い間の屈辱の習慣と、自衛の本能と、絶え間なき恐怖と圧迫が、勝ちを占めてしまうのである。 不幸な自殺者は、この点、母親に似ていなかった。もっとも、顔は二人ともよく似ていたように思う。しかし、死んだ娘はなかなか器量がよかったが、母親のほうはまだ五十前で、さまで醜い年よりというほどでもないし、同じように白っぽい亜麻のような髪をしていたけれど、目も頬もげっそり落ち込んで、大きな不揃いな歯は黄ばんでいた。それにぜん
たい、妙に黄色がかった感じを与える女で、顔や手の皮膚は硫酸紙よろしくの色あいをしているし、くすんだ着物も古びて、すっかり黄色くなっていた。しかも、右手の人差指の爪が一本だけ、なんのためだか知らないが、黄蝋で丁寧にきちんとくるんであった。 不幸な老婦人の物語は、ところどころ辻褄の合わない点があったけれど、わたしの理解し記憶しているかぎりで、次に記してみようと思う。
5 『わたしたちはモスクワから来たのでございます。わたしはもうずっと前から、後家で通しておりますが、それでも七等官の家内でございますの。つれあいは長いあいだ勤めておりましたけれど、二百ルーブリの年金のほか、何一つ残していきませんでした。ねえ、二百ルーブリくらい何になりましょう、でも、わたしはオーリャを大きくして、女学校へ入れてやりました。ところが、そのできのよいことといったら、ほんとうにできのよいことといったら、卒業のときはメダルまでもらいました……(もちろん、彼女はここでながながと泣いたのである)。ところで、亡くなったつれあいが、以前ここの商人に、かれこれ四千ルーブリの資本金を貸してやったが、貸倒れになっておりましたの。その商人が、このごろ急にまためきめき肥ってきましたので、わたしは証文を持っておりますから、いろいろ相談してみたところが、それは請求するがいい、きっと于にはいるからと、みんなが申してくれ
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ました……そこで、わたしが話を始めてみますと、商人もだんだん承知してくれそうな様子ですから、みなさまが自分で行ってみろとすすめてくださるのです。で、わたしはオーリャと支度を調えて、ひと月ばかり前にこちらへ出て来だのでございます。 『所持の金などもわずかなものですから、わたしたちはこの小部屋を借りました。それは数ある貸間の中で一等小さかったのと、それに家のかたが、れっきとしたお人のようだから、それが何よりと思ったのでございます。なんせ、わたしたちは世馴れない女ですから、どんな人間にでもだまされますものね。で、こちら様へひと月分の間代をお払いして、それからあちこち駆けまわりましたが、ペテルブルグという町はけんのんなところでございましてね、おまけにその商人は、けんもほろろに撥ねつけるのでございます。お前さんなんぞ知りゃしない、見たことも聞いたこともない、というじゃありませんか。それに、証文も規則どおりに書いてないのでございます。それはわたしも承知しております。するとある大が、一人の有名な弁護士があるから、そこへ行ってみろ、その大は大学の教授をしていたくらいで、ただの弁護士じゃない法律家だから、キこと、どういうふうにしたらいいか、教えてくれるに相違ないと、こうすすめてくれました。わたしはその弁護士のところへ、なけなしの十五ルーブリを持って行きました。すると、その人が出て来て、わたしの話を三分間と聴かないうちに、こう申すのでございます。「わかりました、合点がいきました。なに、商人さえその気になれば金
をわたしますが、いやだと思ったらわたしゃしません。もしあなたが訴訟なぞ起こしたら、ご自分のほうから金を払うようなことになるかもしれませんよ。それより示談にしたほうがいいです」といって、聖書の中から、「汝ら道にある間に和睦せよ、しからずんば、最後のIカドランを支払うに到らん」という句を引いて、洒落をいいながら、わたしを送り出して笑うじゃありませんか。こうして、わたしの十五ルーブリはむだになってしまいました! わたしはオーリャのところへ帰って来て、さし向かいにすわりながら、おいおい泣きだしました。でも、あれは泣かないで、傲然とすわったまま、ぷりぷり怒っているのでございます。あの子はずっと一生、いつもそういうふうでした。小さい時分から、決して溜息をついたり、泣いたりするようなことがなく、いつもじっとすわって、怖い目つきをしています。見てるわたしが術ないくらいでした。あなた方はほんとうになさらないかもしれませんが、わたしはあの子が怖うございました。ほんとうに怖うございました。ずっと以前から、怖かったのでございます。時によると、泣きだしたくなるくらいですけれど、あの子のまえでは、それも思いきってできないのでございます。 『とどのつまり、わたしは商人の所へ行きまして、その前でさんざん泣いてやりましたが、ただ「よろしい、よろしい」というだけで、聞こうともしないのでございます、ところで、白状しなければなりませんが、わたしたちはこう長逗留するつもりじゃなかったものですから、もうよっぽど前からお金がなくなってしまいまして、少しずつ着物など引っぱり
出しては質に入れ、それで暮らしていたのでございます。もうわたしの物はすっかり質に入れつくしたので、今度はあの子が着換えの襦袢まで出すようになりました。わたしもそのときは、術ない涙を流して泣きました。すると、あの子はとんと足で床を鳴らして、飛びあがると、そのまま自分で商人の家へ駆け出したのでございます。商人はやもめですが、あの子に向いてこういうのでございます。「あさって五時に来なさい、なんとかご挨拶するから」そこで、あの子は家へ帰って来て、うきうきした声で、「こうこういう話で、なんとか挨拶するという返事だ」と申しますので、わたしもいっしょに悦びはしたようなものの、なんとなしに心の中がひやっとしたのでございます。なんだか曰くがありそうだとは思いましたが、あの子にいろんなことをきく勇気はありませんでした。翌々日、あの子は真っ青な顔をして、商人のところから帰って来ました。そして体じゅうがたがたふるわせながら、いきなり寝台に倒れるじゃありませんか。わたしは何もかも合点がいったので、てんできこうとしませんでした。まあ、あなたどうだとお思いになります。悪党め、あの子のとこへ十五ルーブリ持って来まして、「もし十分にわしを満足させてくれたら、もう四十ルーブリ足してあげよう」と面と向かっていいながら、恥ずかしそうな顔もしないのでございます。後であの子が話して聞かせましたが、オーリャは、いきなり商人に飛びかかって行きました。すると、こちらはあの子を突き飛ばして、次の間に隠れて鍵をかけてしまいました。ところで、正直に白状してしまいますが、うちではもう
食べるものもないのでございます。で、わたしたちは兎の裏のついた上衣を売りに行きまして、それが新聞代になったのです。そのお金で、あの諸学科および算術を教授す、という広告を出したのでございます。せめて三十コペイカずつでも払ってくれるだろうと、あれはいっておりました。しまいには、あなた、あの子を見るのが恐ろしいくらいでございました。わたしに何一つ囗をきかないで、何時間も何時間も窓のそばへすわったまま、向かいの家の屋根を見つめているかと思うと、だしぬけに「ああ洗濯物をしてもいい、土捐りをしてもかまわない!」とたったひとことこんなことを叫んで、地団太を踏むのでございます。この土地にだれひとり知り人がないものですから、だれに相談のしようもありません。まあ、わたしたちはいったいどうなっていくのだろう? とわたしは肚の中で考えました。そのくせ、あの子と話すのはどうも恐ろしいのでございます。あるときオーリャは昼寝そしていましたが、ふとさめて目を見ひらくと、じっとわたしを見つめるのでございます。わたしはトランクの上にすわったまま、やはりじっとあの子を眺めておりますと、オーリャは黙って起きあがり、わたしのそばへ寄りながら、かたくかたく抱き締めるではありませんか。そこで、わたしたちは二人とも我慢しきれず、泣きだしました。じっとすわって泣きながら、お互いに抱き締めた手を離さないのでございます。あの子がこんなことをしたのは、後にも先にもたった一度でございました。こうして、二人さし向かいにすわっていますと、お宅の女中さんのナスターシャがはいって来て、どこか
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の奥さんがお見えになって、あなたに会いたいといっておられます、とこう知らせてくれました。 『それは四日前のことでございました。はいって来る奥さんを見ると、大そうもない立派な身なりをして、話はロシヤ語ですけれど、どうやらドイツ風の発音なのでございます。あなたは新聞に教師の広告をお出しになったのですか? とききますので、わたしたちはもう無性に悦んで、そのひとを椅子にすわらせますと、奥さんはなんともいえない優しい声で笑うのでございます。実は自分のとこではないが、姪のところに小さい子供がいるので、もしお望みでしたら家へ来てくださいませんか、そのうえでよく相談しましょうといって、住所を教えてくれました。それはヴォズネセンスキイ橋のそばで、何番邸の第何号だといいおいて、かえって行きました。オーレチカは出かけました。すぐその日、駆け出すように行ったのでございます。ところがどうでしょう。二時間ばかりたって帰って来たのを見ると、ヒステリイの発作を起こして、のたうちまわっているのでございます。後であの子の話を聞きますと、こういうわけなのでございます。あれが庭番に、第何号の住居はどこかとききますと、庭番はじろりとあれを見て、いったいあんたはあの家になんの用があるんですね? という、そのいい方がどうも妙だったから、そこで気がつくこともできたはずなんですが、あの子はなかなか権高い性急な娘でしたから、そんな無遠慮な質問なんか、我慢ができないのです。じゃ、いらっしゃいといって、庭番は階段を指さしすると、そのままくるりと背を向けて、自分の
部屋へ引っ込んでしまいました。まあ、あなたどうだとお思いになります? あの子がはいって行って、案内を乞うと、すぐにあっちからもこっちからも女が駆け出して来て、さあどうぞ、さあどうぞ! というじゃありませんか! どちらを向いてもみんな女ばかり、それがいやらしい恰好をして、ほお紅をうんとつけてヽ笑ったり、飛んだり、ピアノを弾いたり、あの子を引っ張ったりするのです。「あたしはその女どもを突き飛ばして、逃げようと思ったけれど、どうしても放してくれないの」とオーリャは申しておりました。あの子はすっかりおじ気づいて、足がよろよろしてきました。それに放してくれないのだから、仕方がありません。ちやほやと優しく口をききながら、黒ビールの口を抜いてしきりにあの子にすすめるのです。オーリャは飛びあかって、ぶるぶるふるえながら一生懸命な声で、放してください、放してください!・ とわめいて、戸口のほうへ飛んで行くなり、ドアにつかまって、悲鳴を上げたのでございます。そこへ、さっき家へやって来た奥さんが飛び出して、いきなり二度もつづけて、うちのオーリャの頬をなぐりつけたうえ、戸の外へ突き飛ばしながら、「この阿魔め、手前なんかこんな結構な家にいる資格はありゃしないんだよ!」すると、もう一人の女が、階段をおりて行くオーリャのうしろから、「お前、自分で頼みに来たんじゃないか。食べるものもないくせになんだよう。そんなおがめつ面なんか見たくもないや!」その晩、あの子は夜っぴて熱に浮かされ、譫言ばかりいいつづけましたが、あくる朝、目をぎらぎらさせながら起き出して、部
屋の中を歩きまわりながら、あいつを裁判所へ訴えてやらなきや、裁判所へ訴えてやらなきや!・ とひとりごとをいっているのです。わたしは黙っていました。いったい裁判所へ訴えてなんになるのだろう? どうして明しを立てようとするのだろう? と思ったからでございます。あの子は両手をよじりながら歩きまわっている。涙が後から後からと流れて、唇はじっと食いしばったまま、動かないのでございます。そのときからあの子の顔に暗い影がさして、しまいまで直りませんでした。三日目には、あの子もちっとは気分が好くなり、だいぶ落ちついたようなふうで黙っていました。ちょうどその日の夕方四時ごろ、ヴェルシーロフさんが宅へおいでになったのでございます。 『そこで、うち明けて申しますが、あのときあれほど疑り深くなっていたオーリヤが、どういうわけですぐに最初の一言から、あの人の言葉に耳を傾けだしたのか、ほとほと合点が参りません。何よりいちばんわたしたち親子をひきつけたのは、あの大が恐ろしくまじめな、いかついくらいの様子をしながら、静かな声で丁寧に、順序だった話をされたことです。その丁寧なことといったら、いっそうやうやしいといってもいいくらいで、しかも物ほしそうなふうなど、これっからさきも見えないのでございます。もう一目見ただけで、きれいな心を持った大だってことがわかりました。「わたしは、あなたの広告を新聞で読みましたが、あなたの書き方は少し違っていましたので、そのためにご損をなさるかもしれません」といっていろいろ説明してくださるのです。実のとこ
ろ、わたしはよくわかりませんでしたが、なんでも算術がどうとかいっておられました。見ていると、オーリャはも、iつ顔を真っ赤にして、いかにもいきいきした様子で耳を傾けながら、自分も悦んで話に囗を入れるのでございます。(まったく賢いお方に相違ありません!)聞いていると、あの子はお礼までいってるじゃありませんか。あの人はあれにいろんなことをこまかくきかれましたが、モスクワにも長くお暮らしになったとみえて、女学校の校長の奥さまもよく知ってらっしゃるとのことでした。「家庭教師の囗はきっと見つけて差し上げます」とおっしゃるのです。「なぜって、わたしはこ・こに大勢知合いがありますからね。それに、立派な勢力家に依頼することもできるから、もし永久的な職がお望みでしたら、それも心がけておいてよろしい……ところで、さしむき失礼ですが、一つ露骨な問いを許していただきたい。ほかにゃありませんが、今すぐ何かあなたのためになることはでき・ますまいか? もしあなたにどんなことでもつくすことを許してくださるなら、それはわたしがあなたをお悦ばせするのじゃなく、かえってあなたがわたしに満足を与えてくださることになるのです。それはあなたの借金になるけれども、あなたが職につかれたら、わずかな間に、そんな勘定はじきついてしまいます。どうかわたしの潔白を信じてください。もしわたしがいつか同じように貧窮に落ちて、あなたが反対になんの心配もない身分になられたら、そのときこそ、わたしがあなたのところへご無心にあがります。家内でも娘でもよこしますよ……」実のところ、わたしはあの人のいわれた
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ことを、みなまで思い出すことができません。ただそのとき、わたしは思わず涙を流しました。だって見ると、オーリヤもありがたさに唇をふるわせているんですもの。「わたしがこれをお受けするのは、お父さんのかわりともなってくださる潔白な、人道的な心を持ったお方だと、信じればこそでございます……」まったくあの子は言葉すくなに、上品に、立派にそう中したのでございます。人道的な心を持ったお方とね。ヴェルシーロフさんは、すぐ席をお立ちになりました。「家庭教師の囗も勤めの囗も、きっときっとお世話します。今日からさっそくかかりましょう。実際、あなたは立派な免状を持っておいでなんだから……」わたしは申し忘れましたけど、あの人は初めてはいって来たときから、あの子の女学校の免状をすっかり出させて、それを調べてごらんになったうえ、自分でいろんな学課を試験してみてくださったのです……「お母さん、あの人はいろんな学課でわたしを試験してくだすったわ」とオーリヤはわたしに申しました。「なんて賢いお方なんでしょう。まあ、あんな発達した頭を持った、教育のある人と話したのは、ほんとうにまあ久しぶりだわねえ……」こういってあの子はうれしさに輝きわたっているのです。六十ルーブリのお金がテーブルの上にのってるのを見て、「お母さんしまっといてちょうだい、勤め囗を世話してもらったら、第一番にできるだけ早く返して、あたしが潔白な人問だってことを証明しましょう。だけど、あたしたちが優しい。心の人間だってことは、あの方ももう見抜いてらっしゃるわねえ」それから、しばらく黙ってましたが、見ると、
あの子は深い溜息をついてるじゃありませんか。「ねえ、お母さん」とふいにいいだすのです。「もしあたしたちが不作法な人間だったら、高慢ちきな心もちのため、お金を受け取らなかったでしょうね。ところが、あたしたちは受け取ったんだから、それでもって、あたしたちの心の優しさを証明したことになるわね。あたしたちはあの大を身分のある年配の大として、信用したんですものね、そうじゃなくって?」わたしは初めのうち、よくわがらなかったものですから、「オーリャ、どうして立派な金持ちの方から、お恵みを受けち尹いけないんだえ、もしその方が、おまけに親切な心を持ってらっしゃるとすれば」すると、オーリャは顔をしかめて、「いいえ、お母さん、それは違うわ、わたしたちはお恵みがいるんじゃなくて、あの人の人道的な心がありがたいのよ。ねえ、お母さん、お金は取らないほうがよかったわね。あの人が勤め口を世話すると約束した以上、それだけでたくさんじゃありませんか……もっとも、あたしたちは困ってはいるけれど」「いいえ、オーリャ、わたしたちの困りようといったら、それこそどうしても、ご辞退することができないくらいなんだよ」と、わたしはにやりと笑ったわけでございます。で、わたしは腹の中で悦んでおりますと、一時間ばかりたって、あの子はまただしぬけにいいました。「お母さん、あのお金をつかうのは、も少し待ってちょうだい」ときっぱり中すのでございます。「どうして?」と聞くと、「どうしても、ただ」といったなり、黙り込むのです。その晩、ずっと黙り通していましたが、夜中の一時過ぎに、わたしがふと目をさましま
すと、オーリャは寝台の上で、ごそごそしているじゃありませんか。「お母さん、寝てるの?」というから、「いいえ、寢てはいないよ」「ねえ、あの大はあたしを侮辱しに来たんだわ」と申します。「お前、何をいうんだえ、何を?」「いいえ、きっとそうよ。あれは卑劣な大間なんだから、お母さん、あの男の金をIコペイカも使っちゃいけないことよ」わたしはあの子をいろいろ宥めながら、寝床の中で泣きだしたほどですけれど、あの子は壁のほうへくるりと向いてしまって、「黙ってちょうだい、あたしに寝さしてくださいよI」とこうでございます。あくる朝、見ると、あの子はまるで見違えるほどやつれて、部屋の中を歩いております。ほんとうになさるかどうか知りませんが、わたし神様の前に誓って申しますIあの子はもう正気じゃなかったのです! あの穢らわしい家で辱しめられてから、あれの心も……頭も濁ったのでございます。わたしはその朝、あの子の顔を見て、不審に思いました。わたしは恐ろしくなってきて、こりゃひとことも逆らってはいけない、と思ったのでございます。「あの大はお母さん、住所を知らせなかったわね」「それはお前、罪だよ、オーリャ。昨日は自分であの人の話を聞いてさ、帰った後で讃めちぎって、自分からありがた涙をこぼさないばかりだったじゃないか」わたしがそういうがはやいか、あの子は地団太を踏みながら、金切り声をあげて、「あなたは卑劣な感情を持った大だ。あなたは農奴制時代の旧式な教育を受けたんです……」とわめくのです。そして、なんといっても聞かないで、帽子を取って駆け出しました。わたしは後から
大きな声でわめきながら、いったいあの子はどうしたのだろう、どこへ行ったんだろう、と考えました。ところが、あの子は住所調査部へ走って行って、ヴェルシーロフさんの住んでるところを聞いて来たのです。「あたしは今日にもすぐあの男にお金を返して来る、横っ面へたたきつけてやります。あの男はサフローノフ(というのは例の商人なのです)と同じで、ひとを侮辱しようとしたのよ。ただサフローノフは無作法な、百姓みたいなやり方だったけど、あの男は狡猾な、狐みたいな手口で、侮辱しようとしているんだわ」 『ところへ悪いことに、とつぜんあの昨日の人(スチェペリコフ)が戸をたたいてはいって来て、ヴェルシーロフのうわさをしてらっしゃるのが耳にはいったが、自分もあの人についてお知らせすることがある、とこういうのです。ヴェルシーロフと聞くと、あの子はもう夢中になって、スチェベリコフに飛びかからないばかりの勢いで、しゃべってしゃべってしゃべり立てるのです。わたしはそばで見ながら、驚いてしまいました。ふだん無口な子で、だれにもあんなに口をきい・たことがないのに、思いがけない、まるで見も知らぬ人をつかまえて、頬を燃えるように赤くして、目をぎらぎらさせながら、しゃべり通すじゃありませんか……しかも、あの人はまるでわざとのように、「お嬢さん、まったくあなたのおっしゃるとおりですよ。ヴェルシーロフは、よく新聞などに書き立てる、ここの将軍連と同じような人問なんです。こういう将軍連は、ありったけの勲章を胸に飾って、新聞に家庭教師の広告をしている娘の家を歩きまわり、自分のほしいと思
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うような女を漁るのです。もしほしいと思うようなものがなくても、ぺちゃくちゃしゃべり立てて、いろんな約束をしたうえで引き上げる、それでもやはり、楽しみに相違ないですからね」という。オーリャは大きな声でからからと笑いましたが、それはさも毒々しそうな調子でした。見ると、スチェベリコフはあの子の手をとって、自分の胸へ押しあてながら、「お嬢さん、わたしは相当の財産を持った男でしてね、いつでも美しい娘さんに申込みができるんですが、しかしその前にかわいいお手に接吻しましょう……」といって、あれの手を引き寄せ、接吻しようとするのです。あれは、いきなり飛びあがりました。そして、わたしもいっしょになって、あの男を迫ん出してしまいました。その夕方オーリャは、わたしの預っていた金を盗み出して、駆け出しました。やがて引っ返して来て、「お母さん、あたしあの恥知らずに仕返ししてやったわI」「ああ、オーリャ、オーリャ、わたしたちは自分の仕合わせを棄てたのかもしれないよ、立派な情け深いお方に、恥をおかかせしたのかもしれないよ!」といって、わたしは情けなさに泣きだしました。もう我慢できなかったのでございます。すると、あの子はわたしをどなりつけて、「いやです! いやです! よしんばあの大が、この上ない立派な人間でも、それでもあたしはあの人のお情けなんかもらやしない!・ 大に憫れんでもらうなんて、そんなことあたしいやよ!」その晩わたしは寝床にはいるときも、そんなことはまるで考えもしませんでした。わたしはもと鏡のかかっていたあの壁の釘を、幾度となくじっと眺めたもんですけれ
ど、そんなことはてんで思いつかなかったのです。昨日もその以前も、まるで考えたことがありません。それに、オーリャがあんなことをしでかそうとは、思いもよらなかったのです。わたしはいつもぐっすり寝入って、鼾をかくのですが、それはきっと血が頭へのぼるのでしょう。どうかすると心臓がつまったようになって、夢にうなされるのでございます。ですから、オーリャが夜中にわたしを揺り起こして、「お母さん、どうしてそう、ぐっすり寝られるんでしょう、起こして上げようと思っても、起こされやしないわ」「ああ、オーリャ、ぐっすり寝るよ、ほんとにぐっすり寝るよ」こういうわけで、昨夜もわたしは鼾をかき始めたのでしょう。それをあの子は待ちかまえていて、少しの心配もなく、悠々と起き出したのでございます。 『あのトランクのながい革紐は、この一か月の間、しじゅう目立つところに出しゃばっておりましたので、つい昨日の朝も、「もういい加減ごろごろしないように、どこかへ片づけなきや」と考えたくらいなんですの。それから、椅子は足で蹴飛ばしたのでしょうが、音がしないように、自分のスカートを横のほうに敷いておりました。きっとそれからだいぶ長いことたったのでしょう。一時間以上も過ぎたと思うころに、わたしはふと目をさまして、「オーリャ、オーリャー」と呼びました。と、すぐに何か変な気持ちがしたものですから、わたしは大きな声であの子の名を呼び立てましたが、あれの寝床で息が聞こえなかったためか、それとも寝台が空になっているのを見透かしたのか、-なぜかわかりませんけれど、
わたしは急に跳ね起きて手を伸ばして見ますと、寝台の上にはだれもいず、枕は冷たくなっているじゃありませんか。わたしはもう、心の臓がどこかへ落ちてしまったような気がして、そのままそこへなんの感じもなく立ちすくみました。頭はもうぼっとなってしまってるのです。「どこかへ出て行ったのだな」と思って一足ふみ出し、寝台のそばに立って、じっと見透かしますと、片隅の戸口のそばに、あの子らしいものが立っているのです。わたしはじっと立つたまま、黙って見つめていますと、あの子はまるで身動きもしないで、暗闇の中からじっと、わたしのほうを見ているらしいのでございます……「なんだってあの子は椅子の上に立っているんだろう?」と考えながら、わたしは、「オーリャー・」と自分でもおじけづいて、小さい声でこういいました。「オーリャ、聞こえないのかい?」と、ふいにわたしの頭の中が、明りでもついたようになりました。わたしは一足ふみ出して、両手を伸ばしますと、いきなりあの子にぶっつかりました。抱きしめると、あの子はわたしの手のなかで、ふらふら揺れるじゃありませんか。抱くとふらふら揺れるのです。わたしは何もかも合点がいきましたが、合点したくありませんでした。大きな声で人を呼ぼうと思っても、声が出ません……ああ!と思って、わたしはそのまま床の上へばったり倒れました。と、そのとき初めて、叫び声が出たのでございます……』
「ヴ″Iシン君」もう朝の五時過ぎになって、わたしは、こういった。「もしあのスチェベリコフという人物がいなかっ
たら、こんなことは起こらなかったかもしれませんね」「それはなんともいえませんね。きっと起こったでしょう。この事件はそんなふうに判断するわけにいきませんよ。それでなくっても、もう十分下地ができてたんだから……もっとも、あのスチェペリコフはどうかすると……」 彼はしまいまでいいおわらないで、恐ろしくいやな表情をして眉をひそめた。六時ごろ彼はまたどこかへ出かけた。彼は始終いそがしそうに働いていた。わたしはとうとう一人ぽっちになった。もう夜は明けかかっていた。わたしは軽い眩暈を覚え、頭の中にはヴェルシーロフの悌がちらついていた。あの婦人の物語は、彼の姿をぜんぜん別な光で照らし出したのである。わたしは考えるのに都合がいいように、着物を着て靴をはいたまま、ちょっとヴ″Iシンの寝床に横になった。寝るつもりなどは少しもなかったのだが、いつどうしてともわからないうちに、とつぜんねむりに落ちてしまった。わたしは四時間ばかり眠った。だれも起こすものがなかったのだ。
第扣章 セルゲイ公爵
7 わたしは十時半ごろに目をさました。そして長いあいだ、自分の目を信じることができなかった。昨夜わたしの眠った長いすの上に、わたしの母がすわっているではないか。その
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そばには、不仕合わせな隣りの女、-自殺した娘の母親がならんでいるのだ。二人は互いに于を取りあいながら、たぶんわたしをおこさないためだろう、小さな声で話しあっては、二人とも泣いている。わたしは床を出ると、いきなり母に飛びかかって接吻した。母は満面悦びに輝き、わたしに接吻しながら、右の手で三ど十字を切ってくれた。わたしたちがまだ匸一言も物をいわないうちに、戸が開いて、ヴェルシーロフとヴァージンがはいって来た。母はすぐに立ちあがり、隣りの女を連れて行ってしまった。ヴァージンはわたしに手を差し伸べたが、ヴェルシーロフはわたしに一言も口をきかないで、肘掛けいすに腰をおろした、彼も母といっしょに、もうしばらくここにいるらしい。彼は眉をひそめて、心配そうな顔をしていた。 「何よりいちばん残念なのは」と、彼はヴァージンに向かっ弋、とぎれとぎれに口を切った。前に始めた会話のつづきらしい。「昨夜のうちにこれを丸く納めておかなかったことです。そうしたら、こんな恐ろしいことは起こらなかったでしまう! それに、時間の余裕もあったんですからね。まだ八時になってなかった。昨夜あの娘さんが家を駆け出すやいなや、わたしはすぐに跡をつけて行って、考えをひるがえさせようと心にきめたんですが、しかしあの思いもよらぬのっぴきならぬ用事、-といっても、今日まで……いや、一週間くらい延ばすことができたんですが、-あのいまいましい用事が邪魔をして、何もかも打ちこわしてしまったのです、まったくこういうふうにかち合うもんですねえI」
「しかし、考えをひるがえさせることはできなかったかもしれませんよ。あなたのことがなくっても、もういい加減熱して、沸騰してたんですからね」とヴァージンはちょっとついでのようにいった。 「いや、できたんです、きっとできたんです。実はわたしの代理にソフィヤをやろうか、という考えもあったのですが、それはちらと頭をかすめただけです。まったくかすめただけなんです。ソフィヤなら、一人で行ってもたしかに成功したでしょう。そして、あの不幸な娘さんも勁かったに相違ない。いや、もうこれからは……『善行』などといって、出しゃばるのをよしましょう、ほんとうに生まれてこのかた、たった一度出しゃばっただけなんですがねえ! わたしは今まで、自分は現代から遅れてはいない、新しい青年を理解していると、思い込んでいましたが、老人は若い者が成熟するより前に、老いぼれてしまうんですね。ついでですが、今の世の中には、つい昨日までそうだったからという理由で、習慣的に自分を相変わらず若き世代であると信じきって、その実もう予備にはいってることを知らない人が、ずいぶん大勢いますからね」 「あれは誤解だったのです、明白すぎるくらい明白な誤解だったのです」とヴ″Iシンは穏健な調子で注意した。「母親の話を聞きますと、あの娘さんは女郎屋で残酷な侮辱を受けてから、どうやら発狂したらしいのです。それにいま一つ、商人から受けた最初の侮辱というものを加えてごらんなさい……y』ゝついうことは、以前の時代にだって同様起こりうることで、わたしの考えでは、少しも現代の青年を特質づけては
いませんよ」 「少々せっかちですね、現代の青年は。しかし、まだそのほか、現実に対する理解が少ないという欠点があるのは、もちろんです。それはいつの時代でも青年につきものですが、今の青年はどうもことに……ところで、スチェベリコフ氏はあのとき何をしゃべったのです?」 「スチェベリコフ氏がいっさいの原因なのです」とわたしはだしぬけに囗を入れた。「もしあの人がいなかったら、何事も起こらずにすんだのです。あの人が火に油をさしたのです」 ヴェルシーロフは黙って聞きおわったが、わたしのほうを振り向こうともしなかった、ヴ″Iシンは顔をしかめた。 「わたしはそれからまた、ある一つの滑稽な点についても、自分を責めてるのです」依然ゆっくりと、一語一語ひキゝ延ばすような調子で、ヴェルシーロフは語りつづけた。「どうもわたしは悪い癖で、あのときもあの娘さんに一種のうきうきした態度をとって、例の軽薄らしい笑い方なぞをして見せた。つまりぶっきら棒で、そっ気なくて、陰気らしくする度合いが足りなかったのです。この三つの性質は、現代の青年に非常に尊重されてるようですからね。てっとりばやくいえば、わたしはあの娘さんに対して、さ迷えるセラドン翁心琵付こ犯行計数)と想像せらるべき根拠を与えたわけなのです」 「それはぜんぜん反対です」とわたしはまたもや言葉するどく囗を入れた。「隣りの母親は、あなたがまじめで、厳正。で、真摯だったために、とても立派な印象を与えられたこと
を、かくべつ力を入れて明言していました。これはあの婦人のいった言葉そのままなんです。当の死んだ娘も、あなたが帰った後で、この意味であなたを褒めたそうですよ」 「そうかね?」とうとうわたしのほうへちらと視線を向けながら、ヴェルシーロフは気のない調子でつぶやいた。「じゃ、この手紙をしまっておおきなさい。これはこの事件に関する必要書類ですからね」彼は小さな紙きれをヴ″Iシンに差し出した。 こちらはそれを受け取ったが、わたしが好奇の眼を輝かしているのを見て、読めといってわたしにわたしてくれた。それはおそらく暗闇の中で鉛筆で不揃いに走り書きした、たった二行の手紙だった。 『愛する母上様、いま人生の初舞台を中絶しようとしているわたしを、どうかおゆるしくださいまし。あなたを悲しませたオーリャより』 「それはやっと今朝見つけたんです」とヴ″Iシンがいった。 「なんて奇妙な書置きだろう!」わたしは驚いてこう叫んだ。 「どうして奇妙なのです?」ヴ″Iシンがたずねた。 「だって、こんな場合ユーモアを弄することができるものでしょうか?」 ヴァージンはいぶかしそうにわたしを見た。 「だって、奇妙なユーモアじゃありませんか」とわたしはつづけた。「これは、中学校や女学校の学生仲間で使う符牒な