『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

『スチェパンチコヴォ村とその住人』P101ーP150(1回目の校正完了)

も、心配ごとがあり余るんですから!」と彼女は哀願するような声でいったが、その美しい唇には軽い嘲笑の翳《かげ》がひらめいた。
「ああ! どうかぼくを馬鹿扱いにしないでください!」とわたしは熱くなって叫んだ。「あなたはぼくに対し、先入見を持っていらっしゃるようですね。もしかしたら、だれかあなたにぼくのことを、悪しざまに吹きこんだのかもしれませんね? それとも、ぼくがさっきあそこでへま[#「へま」に傍点]なことをやった、そのせいかもわかりませんね? しかし、そんなことはなんでもありません、――ぼく誓っていいます。ぼくがどんな間抜け面をして、あなたの前に立っているか、それは自分でも心得ていますよ。どうかぼくを冷笑しないでください! ぼくは自分でも何をいってるかわからないんですが……それというのも、要するに、ぼくの二十二という年齢のさせる業なんでしょう、いまいましい!」
「まあ、どうしましょう! なぜそうなんですの?」
「え、なぜそうなのかっておっしゃるんですね? だって、二十二や三の人間は、ちゃんとそいつが顔に書いてあるんですもの。たとえば、さっきぼくが部屋のまん中へとび出した時にしても、また現に今あなたの前に立っている様子にしても……まったく癪にさわる年齢ですよ!」
「あら、そんなことありませんわ。そんなことありませんわ!」やっとの思いで笑いをこらえながら、ナスチェンカは答えた。
「あなたが、優しい、気持ちのいい、賢い人だってことは、わたしちゃんと信じきっているんですの。これはまったく心底からいってることですのよ! けれど、あなたはたいへん自尊心の強いお方ですわ。もっともそれもだんだんお直りになるでしょうけど」
「ぼくは必要なだけの自尊心しか持ち合わせないつもりなんですが」
「でも、違いますわ。さっきあなたはみんなの前で照れておしまいんなったでしょう? それはなぜでしょう? ほかでもありません、部屋へ入る時につまずきなすったからですわ!………あなたはいったいどんな権利があって、ああまであなたのために尽くしてくだすった、善良な、度量の大きい叔父さんを、笑い草になすったんですの? ご自分が滑稽な立場になったからって、なぜその気まずさを人に塗りつけようとなすったんですの? それはいけないことですわ、恥ずかしいことですわ! それはあなたの名誉になることじゃありません。わたし白状しますけど、あの時あなたという人がいやでいやでたまりませんでしたわ。さあ、いってあげました!」
「それは本当です! ぼくは間抜けでした! いや、それどころか、卑劣なことさえしました! その卑劣さをあなたに見つけられたので、ぼくはもうさっそく罰を受けたわけです! ぼくを罵倒してください、冷笑してください。しかしね、ことによったら、あなたも結局、ぼくに関する意見を変えてくださるかもしれませんよ」一種奇怪な感情にひきずられながら、わたしはこういい足した。「あなたはまだ幾らもぼくという人間をごぞんじないから、今後もう少し何かのことをお聞きになったら、その時は……或いは……」
「後生ですから、もうその話をやめにしましょう……」さもじれったそうな様子で、ナスチェンカは叫んだ。
「よろしい、よろしい、やめましょう! しかし……今度はどこでお会いできるでしょうか?」
「え、どこで会うかですって?」
「だって、ナスターシヤ・エヴグラーフォヴナ、これがぼくたちの最後の言葉だなんて、そんな法はないじゃありませんか! お願いですから、また会うと約束してください、今日すぐにも。もっとも、今はもう暗くなって来たから、そうですね、できることなら、明日の朝すこし早めに願います。ぼくもわざと早めに起こしてもらいますから。ねえ、あの池のそばに亭があるでしょう。だって、ぼくはよく覚えてるんですもの。ちゃんと道を知っています。なにしろ子供の時分、ここで暮らしたんですからね」
「また会うんですって! でも、なんのためにそんなことをするんですの? だって、そんなことをしなくっても、わたしたちはいま現に話し合ってるじゃありませんか」
「しかし、ナスターシヤ・エヴグラーフォヴナ、ぼくは今まだ何も知らないんですものね。ぼくはまず最初に、叔父からいっさいのことを知ろうと思うんです。実際、叔父も結局はぼくに何もかも話さなければならないわけですからね。それを聞いたら、ぼくもあるきわめて重大なことを、あなたに申し上げるかもしれないんです……」
「いいえ、いいえ、そんなことはいりませんわ、いりませんわ!」とナスチェンカは叫んだ。「こんな話はもうこれきり、きっぱりおしまいにして、もう二度と持ち出さないようにしましょう。そして、あの亭へも行くのをおよしなさい、無駄ですわ。わたしきっぱりいっておきますけれど、けっしてまいりませんから、そんな馬鹿げた考えは頭からほうり出しておしまいなさい、――まじめにお願いしますわ……」
「それじゃ、叔父さんがぼくにとった態度は、まるで狂気の沙汰じゃありませんか!」とわたしはいまいましさの念に駆られて叫んだ。「そういうことなら、なんだってぼくを呼び寄せたんだろう?………だが、なんでしょう、あの騒ぎは?」
 わたしたちは家のそば近くまで来ていた。開け放した窓の中から黄いろい金切り声と、何かしら容易ならぬ叫び声が聞こえて来た。
「ああ、どうしましょう!」と、彼女はあおくなっていった。「また始まった! わたし、こんなことだろうと虫が知らせてたわ!
「虫が知らせていた? ナスターシヤ・エヴグラーフォヴナ、もう一つ質問を許してください、もちろん、ぼくはまるきっきりそんな権利など持っていないのですが、しかし一同の幸福のために、思いきってこの最後の質問を提出します。ねえ――これはぼくだけの秘密にしておきますから、腹蔵なくいってください、――叔父さんはあなたに恋しているのですか、どうでしょう?」
「ああ! お願いですから、そんな馬鹿げた考えは、きれいに頭のなかからほうり出しておしまいなさい!」彼女は憤怒のあまりかっとなってこう叫んだ。「あなたまでがそんなことを! もし恋していらっしゃるものなら、わたしをあなたに世話するなんて、そんな気をお起こしになるはずがないじゃありませんか」と彼女は苦い薄笑いを浮かべながらいい足した。「いったいどこから、どういうところから、そんなことをお考え出しになったんですの? それがどんな話かってことがあなたにはおわかりになりませんの? あの騒々しい声、聞こえるでしょう?」
「でも……あれはフォマー・フォミッチでしょう……」
「ええ、むろんフォマー・フォミッチですわ。けれど、今の騒ぎはわたしがもとなんですの。あの人たちもあなたと同じように、ばかばかしいことをいってるんですからね。やはり、あの人がわたしを恋してるなどと邪推を廻してるんですの。わたしは貧しいつまらない女ですから、わたしに恥を掻かすことなんか平気でしょう? だから、みんなであの人をほかの女と結婚させようと思って、まず面倒をなくするために、わたしを父のところへ追い返せと、やかましくいってるんですの。ところが、あの人はこの話を持ち出されると、すぐに前後を忘れてしまって、フォマー・フォミッチさえも八裂きにしかねないような勢いになるんですからね。現に今もあそこで、そのことをどなりあってるんでしょう。わたし勘でわかりますわ、そのことに違いありません」
「じゃ、あれはみんな本当なんですね! そうしてみると、叔父さんは必ずあのタチヤーナと結婚するわけですね?」
「タチヤーナってだれのことですの?」
「ほら、あの馬鹿女のことですよ」
「ちっとも馬鹿女じゃなくってよ! あれはいい人なんですのよ。あなたそんなことをおっしゃる権利はありません! あのひとは気高い心を持っています。いろいろ大勢の人に較べても、けっして劣らないほどの気高い心をね。あのひとが不仕合わせだからって、それはあのひとの罪じゃありませんもの」
「ごめんなさい。仮りにそれはおっしゃるとおりだとしても、あなたは肝腎なところを誤解してらっしゃるのじゃありませんか? ねえ、みんながあなたのお父さんを好遇しているのに気がつきましたか、あれはいったいどういうわけでしょう? だって、もしおっしゃるとおり、みんながそれほどあなたに腹をたてて、あなたをここから追い出そうとしてるんだったら、お父さんにも腹をたてて、もっと冷遇しそうなものじゃありませんか」
「まあ、あなた気がつきませんの、父はわたしのためにあんなことをしているのですよ! 父はみんなの前で道化の役廻りをしているんですの! 父がうまくフォマー・フォミッチに取り入ったばかりに、ああいう待遇もしてもらえるんですわ。フォマー・フォミッチは自分が道化役を勤めたものだから、今度は自分も道化役をかかえているのが、いい気持ちなんですの。父はあんなことをだれのためにしているのでしょう、あなたどうお思いになって? ほかでもない、わたしのためなんです、ただわたしのためを思えばこそですわ。自分のためなら、あんなことをする必要はありませんの。父は自分のためにはだれの前にも頭を下げない人ですからね。そりゃ人様の目から見たら、父はずいぶん滑稽に見えるかもしれませんけど、あれは高潔な人ですのよ! 父はどういうわけか知りませんが、――いえ、けっしてわたしがここでいい給料をいただいてるからじゃありません、そんなことはけっしてありません、誓って申しますわ――父はわたしがここに残ってるほうがいいと、なぜか思い込んでいるんですの。けれども、今度こそいよいよきっぱりした手紙を書いて、父の考え違いを悟らせてやりました。父がまいりましたのも、わたしを引き取るためなんですの。もしよくせきの事情になったら、わたしは明日にでもすぐ出て行きます。だって、事情はまったくぎりぎり決着の所まで行ってしまったんですから。みんなわたしを食い殺しても飽き足りないくらいなんですもの。現に、今あそこで騒いでいるのも、きっとわたしのことに相違ありません。ちゃんとわかってますわ。みんながわたしのためにあの人[#「あの人」に傍点]を八裂きにしてるんですもの。あの人[#「あの人」に傍点]の一生を台なしにしようとしてるんですもの! あの人[#「あの人」に傍点]はわたしにとって父親も同じことです、――おわかりになって? いいえ、親身の父親以上ですわ! わたし、のんべんだらりと待ってはいられません。わたしはほかの人よりずっと余計事情を知ってるんですから。明日にも、明日にもさっそくここから出て行きます! ことによったら、そのためにたとい一時だけでも、あの人[#「あの人」に傍点]とタチヤーナ・イヴァーノヴナとの結婚を、延期するようになるかもしれませんからね……さあ、これですっかりお話ししてしまいました。このことをあの人にも話してくださいましな。だって、今ではあの人と話もできないんですもの。みんながわたしたちを監視してるんですの、ことにあのペレペリーツィナがね。どうかあの人[#「あの人」に傍点]に、わたしのことを心配なさらないようにと、そういってくださいな。わたしはここであの人[#「あの人」に傍点]の苦しみの原因をつくるよりも、父の貧乏小屋に暮らして、黒パンを食べているほうがましですわ。わたしは貧乏な人間ですから、貧乏人らしく暮らさなければなりません。でも、まあ、なんて騒ぎでしょう! あのどなり声! いったいまだ何をしてるんでしょう? かまわない、わたしどうなっても、すぐあちらへ行ってみますわ! みんなに面と向かって、すっかりいってやりますわ。どんなことが起こったってかまやしない! どうしてもそうしなくちゃならない。さようなら!」
 彼女は走って行ってしまった。わたしはいま自分の演じた役割の滑稽さを、しみじみと自覚しながら、じっと同じ処に立ちつくしていた。これがいったいどんなふうになって行くのか、かいもく合点がいかなかった。わたしは不幸な娘を気の毒に思うと同時に、叔父のことが心がかりだった。と、思いがけなくわたしのそばに、ガヴリーラが立っていた。相変わらず例の手帳を手に持っている。
「どうぞ叔父様のところへいらしってくださいまし!」と彼は元気のない声でいった。
 わたしははっとわれに返った。
「叔父さんのところへ? 叔父さんはどこにいらっしゃるのだ? いったいどうかしたのか?」
「お茶の間にいらっしゃいます。さきほどお茶を召しあがったあの部屋で」
「だれかそばにいるかい?」
「お一人で。お待ちになっていらっしゃいます」
「だれを? ぼくをかい?」
フォマー・フォミッチを迎えにおやりになりました。わたしどもの仕合わせな時代は、もう過ぎてしまいましたよ!」と深い溜め息をつきながら、彼はいい足した。
フォマー・フォミッチを迎えに? ふむ! で、ほかの人はどこだね? 奥様はどこにいらっしゃる?」
「ご自分のお部屋にいらっしゃいます。気が遠くおなりになりまして、いま無我夢中でお臥せりになったまま、泣いていらっしゃいます」
 こんなことを話し合いながら、わたしたちはテラスのそばまで来た。外はもうほとんど真っ暗だった。はたして叔父はたった一人で、さきほどわたしがフォマーとやり合った部屋の中を、大股に歩き廻っていた。テーブルの上には幾本かの蝋燭が燃えていた。わたしの姿を見ると、叔父はいきなり飛んで来て、両手を固く捩りしめた。彼は真っ青な顔をして、さも苦しそうに息をついていた。その両手はわなわなと顫え、神経性の戦慄がときどき全身を走るのであった。
[#3字下げ]9 閣下[#「9 閣下」は中見出し]
「セリョージャ! もう万事おわった、いっさいは解決したよ!」と彼は妙に悲劇的な声で、半ばささやくようにいった。
「叔父さん」とわたしはいった。「何かどなり声が聞こえていましたが……」
「どなり声、そりゃどなり声も聞こえたろうよ。ありとあらゆる声でどなったんだからな! お母さんは気絶なさるし、何もかも上を下への大騒ぎだ。しかし、わたしはすっかりはらをきめて、どこまでも主張を通すんだ。わたしはもうだれも恐れやしないよ、セリョージャ。わたしにだって性根があることを、やつらに見せてやろうと思うんだ。見せてやるとも! それに力をかしてもらおうと思って、わざわざお前を呼びにやったんだよ……わたしの心はうち砕かれたんだ、セリョージャ……しかし、わたしはどこまでも、厳正な態度をとらなくちゃならない。とるべき義務がある。正義は、情実によって曲ぐべきではないからね!」
「ですから、叔父さん、いったい何ごとが起こったんです?」
「わたしはフォマーと別れたいんだ」と、叔父は断固たる調子でいった。
「叔父さん!」とわたしはうちょうてんになって叫んだ。「それ以上にいい考えはありませんよ! もしぼくがいくらかでもその決心のお役にたてば、いつでもぼくを使ってください」
「ありがとう、感謝するよ! しかし、今はもういっさいが決定してしまったんだ。今フォマーを待ってるところなんだよ、もうさっき呼びにやったのでね。あの男かわたしか、二人に一人だ! われわれは別れなくちゃならない。明日にもフォマーがこの家を出て行くか、さもなければ、誓っていうが、わたしは何もかも捨ててしまって、また軽騎兵隊へ入って行くかだ! たぶん採用して、大隊くらい持たしてくれるだろう。こんなシステムなんか、おしまいだ! これからは何もかも新規蒔直しさ! なんだってお前はフランス語の手帳なんか持ってるんだい?」ガヴリーラのほうへふり向きながら、彼は猛然と叫んだ。「うっちゃってしまえ! ひっさぶいて、踏みにじって、焼いてしまえ! おれがお前の主人だ。おれが命令するんだから、フランス語なんか勉強することはならん。お前はおれの命令に背くわけにはいかないぞ、お前の主人はおれで、フォマー・フォミッチじゃないんだからな!」
「やれやれ、ありがたいことで!」とガヴリーラは口の中でつぶやいた。
 これはどう見ても、もう冗談ごとではないらしかった。
「ねえ、セリョージャ!」と叔父は深い感情をこめながら、言葉をつづけた。「あの連中はわたしに不可能なことを要求するんだ! お前はどうかわたしを裁いてくれ。これから公平無私な裁判官として、あの男とわたしの間に立ってくれ。お前は知らないだろう、お前は知らないだろうが、あの連中はとんでもないことをわたしに要求するばかりか、とうとうそいつを、正式に持ち出したんだ、すっかりあけすけにいってしまったのだ! しかし、それは人間愛に背くことなんだよ。高潔な正義感に悖《もと》ることなんだよ……すっかりお前に話して聞かせるが、まず初めに……」
「ぼくはもうすっかり承知していますよ、叔父さん!」とわたしは相手をさえぎりながら叫んだ。「ぼくほぼ察しがついています……ぼくは今ナスターシヤ・エヴグラーフォヴナと話をしたんですよ」
「お前、今そのことをいっちゃいけない、ひと口もいっちゃいけない!」叔父はおびえたように、あわててわたしの言葉をさえぎった。
「後でわたしが自分の口からすっかり話して聞かせるが、今のところは……おい、どうした?」と彼は入って来たヴィドプリャーソフに声をかけた。「いったいフォマー・フォミッチはどこにいるんだ?」
 ヴィドプリャーソフがやって来たのは『フォマー・フォミッチは、ここへ来るのはいやだとおっしゃいます。こっちへ出向いて来いなどと要求するのは、あきれ返った失礼なやり口だといって、大変お怒りになっていらっしゃいます』という報告を持って来たのである。
「あいつをここへ連れて来い! 引っぱって来い! 力ずくで引っぱって来い!」と叔父はじだんだを踏みながらわめいた。
 ヴィドプリャーソフは、今まで主人がこんなに怒ったのを見たことがないのでびっくりして引きさがった。わたしも驚いた。
『こういう性格の人がこれほどまでに腹を立てて、これほどまでの決心をしたところを見ると、何かよくよく重大なことが起こったに相違ない』とわたしは考えた。
 叔父はしばらくのあいだ、自分自身と闘うようなふうで、無言のまま部屋を歩き廻っていた。
「だがな、その手帳を破るのは、見合わせるがいい」とうとう、彼はガヴリーラに向かってこういった。「そして、お前もここで待っておいで。またなにか用があるかもしれないから。――それから、セリョージャ」わたしのほうへふり向きながら、彼はこうつけ加えた。「わたしは今どうやら、あまり大きな声でわめきすぎたらしい。すべて物ごとは、男らしく威厳を保ってやらなくちゃならない。どなったり怒ったりしながらじゃ駄目だ。そうだとも。ねえ、セリョージャ、お前はここを遠慮したほうがよくはないだろうか? どうせ後ですっかり話して聞かせるから――え? なんと思う? お願いだから、わたしのためにそうしてくれ」
「あなたは怖くなったんですか、叔父さん? 後悔したんですか?」とわたしはじっと相手の顔を見つめながらいった。
「違う、違うよ、お前、後悔なんかしやしない!」と彼は前に倍して熱心な調子で叫んだ。「もうこうなったら、なんにも怖いものはないよ。わたしは断固たる処置をとったんだ! あの連中がわたしに何を要求したか、それをお前は知らないのだよ。それはお前も想像がつかないくらいだ! あんなことにわたしが同意しなくちゃならないというのか? とんでもない、わたしはやつらに証明して見せてやる! いったん蹶起した以上、立派に証明して見せるとも! わたしだっていつかは証明して見せなけりゃならんじゃないか! だがね、セリョージャ、わたしはお前を呼んだのを後悔してるんだよ。お前までがここにいて、いわばあの男の屈辱の目撃者となったら、フォマーだって、ずいぶん苦しいだろうじゃないか。実はね、わたしは恥ずかしい思いをさせないように、上品な態度で、あの男の同居を断わろうと思うんだよ。もっとも、恥ずかしい思いをさせないように、などと、口ではいってみるものの、なにしろ事柄が事柄だから、いくら言葉を綺麗に飾ってみたところで、やっぱり癪にさわる話だからな。おまけに、わたしは教育のないがさつ者だから、自分でも後でいやになるようなことを、無考えにいってしまうかもしれないんだ。なんといったって、あの男はわたしのためにいろいろ尽くしてくれたからな……セリョージャ、ここをはずしておくれ……だが、もう、あの男を連れて来たようだ、連れて来ている! お願いだから、はずしておくれ! 後で何もかも話して聞かせるから。後生だ、出て行っておくれ!」
 叔父がわたしをテラスへ引っぱり出した瞬間に、フォマーは部屋へ入って来た。しかし、わたしは今さら後悔する次第だが、その場をはずしてしまわないで、テラスに残っていようと決心した。そこは真っ暗だったから、部屋からわたしを見つけることはできないわけだ。わたしは立聞きすることにはらを決めたのである。
 わたしは、けっして自分の行為を弁解するわけではないが、この三十分間テラスに立ちつくして、堪忍袋の緒を切らさずにいたのは、とりも直さず、受難者の苦行を成就したものだと思う。それはあえて断言することができる。わたしの立っていた場所からは、よく話が聞こえたばかりでなく、中の様子まで手に取るように見えた。ドアがガラスばりだったのである。そこで、拒絶すれば力ずくで引きたてる、という威嚇のもとに出頭を命ぜられた[#「命ぜられた」に傍点]フォマー・フォミッチが、どんな形相をしていたかは、よろしく読者の想像にまかせる。
「大佐、ああいう脅迫がましいことを聞いたのは、あれはわたしの耳の間違いでしょうな?」フォマーは部屋へ入りながら、金切り声でわめきたてた。「本当にあんな命令をお伝えなさったのですか?」
「そうだよ、そうだよ、フォマー! 落ちついてくれたまえ」と叔父は勇気を振るってこう答えた。「まあ、掛けたまえ。一つまじめに兄弟として、隔てなく話したいことがあるんだ。さあ、掛けてくれたまえ、フォマー」
 フォマーはものものしい態度で、肘掛けいすに腰をおろした。叔父は何から切り出したらいいかと、いかにも思い惑う様子で、不揃いなせわしない足どりで部屋を歩き廻っていた。
「まったく、兄弟として話したいんだ」と彼はくり返した。「どうかわたしの気持ちを察してくれたまえ、フォマー。きみも子供じゃないし、わたしも子供とは違う……一口にいえば、わたしたちは二人とも相当の年輩なんだからね……ふむ! ねえ、フォマー、わたしたちはある点てどうしても折り合わない……そう、まったくある二、三の点でね。だから、フォマー、いっそ別れたほうがよくないだろうか? きみが高潔な人間で、わたしのためを思ってくれるのは、よくわかっているんだが……しかし、何もくどくどいうことはない! フォマー、わたしは永久にきみの親友だ。それはあらゆる聖者のみ名にかけて立派に誓うよ。ここに銀貨で一万五千ルーブリある。これはきみ、ぼくの身上ありったけだ。これはわたしが家族のものを盗むようにして、なけなしのはした銭をかき集めてこしらえたものなんだ。遠慮なくとってくれたまえ! わたしとしては、きみの生活を保障しなければならない、その義務があるんだ。ここにあるのは、ほとんど全部が手形で、現金は幾らもないんだよ。遠慮なくとってくれたまえ! きみはわたしにたいして、夢にも借金などすることにはなりゃしない。きみが今まで尽くしてくれたいっさいのことに対しては、永久に報いることができないほどだからね。そうだ、まったくそのとおりだ。わたしはそれを感じているよ。もっとも、今では一ばん重要な点で、二人の意見がくい違っているけれどね、明日か明後日か……それとも、いつでもきみの都合のいい時に別れようじゃないか。フォマー! ここから一ばん近い町へ越してくれたまえ。道のりは僅か十露里しかない。あの町には教会のうしろにある取っつきの横丁に、青い鎧戸のついた小さな家がある。司祭の後家さんが住んでいる気の利いたかわいい家で、まるできみのためにわざわざ建てたような気がするくらいだ。その後家さんが売物に出しているから、わたしがその家をきみに買ってあげよう。この金は別としてだよ。あれなら、すぐ目と鼻の間だから、あそこに落ちついてくれたまえ。静かに文学や科学の仕事をしていたら、やがては名声を博するようになるだろう……あの町の役人たちはみんな揃いも揃って上品で、愛想がよくって、欲のない人たちばかりだし、坊さんもなかなかの学者だよ。日曜祭日ごとに家へ遊びに来るようにしてもらうと、――それこそわれわれの生活は楽園みたいになってしまうよ、望みかね、どうだね!」
『ははあ、こんな条件でフォマーを追い出そうというのか!』とわたしは考えた。『叔父はぼくに金のことを隠していたんだ』
 長いあいだ深い沈黙が一座を領していた。フォマーは雷にでも打たれたように、肘掛けいすに腰を掛けたまま、じっと叔父を見つめていた。こちらはその沈黙とその凝視のために、ばつが悪くなって来たらしい。
「金ですと!」なんだかわざとらしく弱々しい声で、とうとうフォマーはこう口を切った。「それはどこにあるのです、その金はどこにあるのです? それをもらいましょう、すぐここへ出してもらいましょう!」
「さあ、これだよ、フォマー、家じゅうのなけなしの金をかきあつめたもので、ちょうど一万五千ある。手形と債券でね――まあ、自分で見てくれたまえ……そら!」
「ガヴリーラ! その金を取っておくがいい」とフォマーは、つつましやかな調子でいった。「お前の老後の役に立つだろう、――いや、待ってくれ!」何かしら並はずれた黄いろい調子を声に響かせながら彼はわめき出した。「いけない! そいつを、その金をまずわしによこせ、ガヴリーラ! わしに貸してくれ! わしに貸してくれ! その千万金をわしによこせ。わしがこの足で踏みにじって、引き破って、唾を吐きかけて、そうして、まき散らしてやるんだ。わしがこの金を穢して、値打ちをなくしてやるんだ!………わしに、わしに金を提供するなんて! わしを、この家から出すために買収するなんて! いったいそれは、わしがこの耳で聞いたことだろうか? いったいわしがこんないいようもないほどの生き恥をさらすことになったのか? さあ、さあ、これがあなたの千万金ですぞ! ごらんなさい、これ、これ、これ、このとおりです。フォマー・オピースキンはこういうふうにするんですぞ、大佐、今までごぞんじなかったら、見せて上げましょうわい!」
 こういいながら、フォマーは紙幣の束をすっかり部屋じゅうへまき散らした。ここに注意すべきは、彼が自分で広言きったように、一枚の紙幣も破ったり、唾を吐きかけたりしなかったことである。ただ、少しばかり揉みくたにしたばかりで、それもかなり用心深く手加減をしたのである。ガヴリーラは飛んで行って、それを床から拾い集め、やがて、フォマーが出て行った後で、大事そうに主人に引き渡した。
 フォマーの行為は叔父を棒立ちにさせてしまった。今度は叔父のほうが口をぽかんと開けて、彼の前にじっと無意味な目つきをして立っていた。その間にフォマーはまた肘掛けいすに腰をおろし、言語に絶した興奮に堪えかねるという恰好で、はあはあ息を切らしていた。
「きみは高尚な人物だ、フォマー!」やっとわれに返って、叔父はこう叫んだ。「きみはありとあらゆる人間の中で、もっとも高尚な人物だ!」
「それは自分で知っていますよ」弱々しい声ではあったが、筆紙に尽くし難いほどの威厳を示しながら、フォマーは答えた。
フォマー、どうかわたしをゆるしてくれたまえ! わたしはきみに対して一個の卑劣漢だよ、フォマー!」
「そうです、卑劣漢です」とフォマーは相槌を打った。
フォマー! わたしはきみの高潔心に驚くというよりも」と叔父は感激に駆られながら、言葉をつづけた。「どうして自分がああまで粗野な、盲目な、卑劣な心持ちになって、あんな条件できみに金を提供する気になれたかと、それが不思議なんだよ! しかし、フォマー、きみもたった一つだけ、考え違いをしている。わたしはけっしてきみを買収したんでもなければ、きみにこの家を出てもらうために、その代償を払ったのでもない。わたしはただただきみに金を持ってもらいたい、わたしから離れて不自由しないようになってもらいたいと、そう思っただけなんだよ。それはきみに誓っていい! わたしは膝を突いて、きみの前に膝を突いて、ゆるしを乞うてもいいくらいに思っているよ、フォマー。もしお望みなら、今すぐにでも膝を突くよ……ただ望みならばだ……」
「わたしはあなたの膝なんかいりませんわい、大佐!………」
「しかし、困ったなあ! フォマー! 考えてもみてくれたまえ! わたしは興奮して、夢中になったものだから、つい前後を忘れて……どうかいってくれ……いったいどうしたら、この侮辱を拭うことができるか、ちゃんと名ざしていってくれたまえ! 教えてくれたまえ、ひと言洩らしてくれたまえ……」
「だめです、だめです、大佐! わたしは断言するが、わたしは明日にもさっそくこの家の閾で自分の靴の塵を払い落として、永久に去ってしまいます」
 フォマーは肘掛けいすから体を持ち上げにかかった。叔父はぞっとした様子で、また彼をひき止めに、飛んで行った。
「いや、フォマー、きみを行かせやしない、断じて行かせやしない!」と叔父は叫んだ。「靴だの塵だのと、何もそんなことをいうわけはないよ、フォマー! きみを行かせやしない。それでなければ、わたしがきみの後を追って、世界の果てまでついて行く。きみがゆるすというまでは、どこまでも離れやしない……まったくだよ、フォマー、わたしはそのとおりにするから!」
「あなたをゆるすんですって! あなたに罪があるんですか?」とフォマーはいった。「しかし、そのほかにも、あなたはわたしに対して罪を犯しておられるのをごぞんじですか? あなたがここで、わたしに一片のパンを与えてくださったそのことすら、今となってみると、わたしに対して罪を犯したことになったんですよ。それがおわかりになりますかな? わたしがお宅で今まで頂戴したパンの一きれ一きれを、今たった一瞬間で毒に変えてしまわれた、それがあなたにおわかりですか? あなたは今、そのパンのことでわたしを非難なさった。もうわたしが食べてしまったパンの一口一口に対して、わたしを責めるような口吻をお洩らしなさった。あなたはたったいまご自分の口で、わたしがこの家に奴隷として、下男として暮らしておったということを――わたしはあなたのぴかぴか光る靴を磨くぼろ切れにすぎないということを、証明なさったのです! ところが、わたしは根が正直者だから、つい今の今まで、自分はこの家に親友として、兄弟として暮らしておるのだと、思いこんでおりましたぞ! また現にあなたご自身も蛇のように巧みな言葉で、何百ぺんも何千べんも、この兄弟としての関係をわたしに誓われたじゃありませんか! なぜあなたはそんな秘密の罠を作ったのです? わたしは馬鹿なものだから、まんまとそれにかかったのです。なぜあなたは暗々裡に狼穽を掘って、今その中へわたしを突きおとすような真似をしたのです? なぜ、その前にこの棍棒か何かで一思いに、がんと打ち倒してくれなかったんです? なぜ、最初から雄鶏の頸でもしめるように、わたしの首を捩じ切ってくれなかったんです……つまり、早い話が卵を産まない鶏としてですな……そう、まったくそのとおりだ! わたしはこの比喩をどこまでも固守しますぞ。これは地方的生活から取材したもので、現代文学の瑣末な調子を帯びてはおりますが、あえてこの比喩を固守します。というのは、その中にあなたの非難の無意味さが完全に現われておるからです。わたしがあなたに対して罪があるのは、ちょうどこの仮定された雄鶏が、卵を産まぬというそのことによって、軽薄な飼い主の気に入らんかったのと同じような関係ですからな! 大佐、とんでもないことですぞ! いったい親友や兄弟に金で勘定をすましてよいものですか、――しかも、それはなんの勘定でしょう? さあ、ここが肝腎のところですぞ。『さあ、愛すべき兄弟よ、わたしはきみにたいへん恩になった。きみはぼくの命を救ってくれた。ここにそくばくのユダの銀貨がある。これをきみにあげるから、わたしの目に触れないところへ行ってくれ!』これじゃあまり幼稚すぎるわい! あなたはわたしに対して、礼を失した行ないをされたんですぞ。わたしはただあなたの幸福を全うさせたいと、地上の楽園的な気持ちをいだいているのに、あなたはわたしが、黄白《こうはく》のみに渇しておるなどと考えて、わたしの心を粉々に打ち砕いてしまわれたのだ! あなたはまるで、悪戯っ子が根っこ遊びでもするように、高潔この上もないわたしの感情を弄ばれたのです! 大佐、わたしはもうずっとずっと前から、このことをすっかり予想しておりました。だからこそ、わたしは初めからあなたのパンに喉をつまらせておったのです! だからこそ、あなたの羽根蒲団におし潰されそうな気がしたのです。そうです、温めいたわってくれるのでなくて、押し潰しそうだったのです! だからこそ、あなたの砂糖や菓子はわたしにとって甘くなく、胡椒のような味がしたのだ! いや、大佐! どうか一人で呑気にお暮らしなさい。フォマーは袋を背負って、悲しい道をたどらしてもらいましょう。もうそれにきまったです、大佐!」
「いけない、フォマー、いけない! そんなことはさせない、そんなことをさしてよいものか!」もうすっかりぴしゃんこにされた叔父は、呻くようにこういった。
「そうなんです、大佐、そうなんですよ! 本当にそうします、それが当然な方法なんだから。わたしは明日にもこの家を去ります。あなたはご自分の千万金をまき散らして、わたしのたどって行く道を――モスクワまでの街道を、すっかり紙幣で敷きつめておしまいなさい。わたしは傲然と、侮蔑の微笑を浮かべながら、あなたの紙幣を踏んで行きましょうわい。大佐、この足があなたの紙幣を踏みにじり、泥濘の中へおしこんでしまうのです。フォマー・オピースキンは、ただ自分の高潔な精神のみで充ち足りる男なのです。わたしはいったことをちゃんと証明して見せました! さらば、大佐!………」
 こういいながら、フォマーはまた肘掛けいすから身を起こそうとした。
「ゆるしてくれ、ゆるしてくれたまえ、フォマー! 忘れてくれたまえ!………」と叔父は哀願するような声でくり返した。
「ゆるしてくれですと! なんのためにわたしのゆるしが要るのです? まあ、仮りにわたしがあなたをゆるすとしましょう。わたしはキリスト教徒だから、ゆるさないわけにはいきません。今でもほとんどゆるしておるくらいです。しかしご自分で考えてごらんなさい、――もしわたしが今たとえ一分間でも、あなたの家に踏みとどまるとしたら、それは多少とも健全な常識判断と、高潔なる精神に合致するでしょうか? だって、あなたは現にわたしを追い出そうとしたんですからな!」
「合致してるよ、フォマー! うけ合って合致してるよ!」
「合致しておるんですと? しかし、いまわたしたちはお互い同士平等でしょうかな? いったいあなたはわからんのですか、――わたしはいわば自分の高潔な精神であなたを粉砕するし、あなたはその卑劣な行為で自分で自分を粉砕なさった。あなたは粉砕された人間であって、わたしは高揚された人間です。それだのに、そもそもどこに平等というものがあります? この平等なしには、親友関係は存立し得んじゃありませんか? わたしがこんなことをいうのは、衷心より悲痛の叫びを発しながら直言するのであって、けっして高みから見おろしながら勝ち誇っていうのじゃありませんぞ。もっとも、あなたはそんなことを考えておられるかもしれませんがな」
「なに、それはわたしのほうこそ、衷心より悲痛の叫びを発してるんだよ、フォマー、まったくのところ……」
「しかも、その人がだれかというと」峻厳な調子を感激に変えながら、フォマーは言葉をつづけた。「わたしが夜も寝ないくらいにして、ためを思いつづけたその当人なんですぞ! よく寝られない夜な夜な、わたしは寝床から起きあがって、蝋燭に火をともし、こう独りごちたものです。『いまあの人は、お前を頼りにして、穏かに眠っておるが、フォマー、お前は眠らずにいて、あの人のために頭を働かすがよい。ことによったら、あの人の幸福のために、またなにか考え出すかもしれんからな』こんなふうに、フォマーは夜も寝ずに考えておったのですぞ、大佐! ところが、それに対する大佐の酬いはこの始末です! しかし、もうたくさんだ、たくさんだ!……」
「でも、フォマー、わたしはその埋め合わせをするよ、また、お前の友情をとり戻すだけのことをして見せるよ――かならず!」
「埋め合わせをするんですと? しかし、その保証はどこにあります? わたしは、キリスト教徒として、あなたをゆるすばかりか、あなたを愛しさえもするつもりです。しかし、人間として、高潔なる人間として、わたしは心ならずも、あなたを軽蔑せずにはおられません。わたしは道徳の名においても、そうせずにはおれません、そうするのが義務です。なぜといって、ごらんなさい――くり返して申しますが、――あなたは自分で自分を穢したけれども、わたしはこの世で最も高潔な行ないをしたのですからな。え、いったいあなた方の仲間で[#「あなた方の仲間で」に傍点]、こういう行ないのできる人間がありますか? こんな大枚な金額を拒絶するような人が、だれかあるでしょうか? ところが、みんなに軽蔑されている乞食同然のフォマーが、偉大な徳行に対する愛のために、みんごと拒絶したのですぞ! いや、大佐、わたしと肩を並べようと思ったら、あなたはこれからたくさんの功業をたてんけりゃなりません。しかし、あなたはわたしに対して同等な人間らしく、『あなた』という言葉さえ使えないで、まるで下男あつかいに『お前』呼ばわりされるんですからな、どんな功業もたてられそうにないですわい……」
フォマー[#「フォマー」は底本では「ファマー」]、しかし、わたしはただ心安だてに、きみという言葉を使っていたんだよ!」と叔父は悲鳴をあげた。「それがきみに不愉快だなどとは、まるで気がつかなかった……ああ! もしそれがわかっていたら……」
「あなたは」フォマーはつづけた。「あなたはわたしを将軍として、『閣下』と呼んでくださいとお願いした時、この些細なつまらない頼みさえ実行ができなかった、というより、実行することを欲しなかったんですからな……」
「しかし、フォマー、それはいわば人民として、最高の官位を僣することだからね、フォマー」
「最高の官位を僣するんですって! あなたは何か書物の中の言葉を暗記して、鸚鵡のようにそればかりくり返しておられる! あなたはおわかりにならんかもしれないけれど、あなたは、わたしを『閣下』と呼ぶのを拒絶して、わたしの要求の原因も知らぬくせに、瘋癲病院おくりにしてもいいほどの気まぐれな馬鹿者あつかいにされたが、それはわたしを侮辱し、わたしの名誉を毀損する行為ですぞ! そりゃわたしだってわかっております。わたしはそんな官位とか、地上の光栄だとかいうものを軽蔑しておるのですぞ。もし徳行の光に照らされなかったら、そんなものなどそれ自体なんの価値もありゃしない、――こう悟っておるわたしが、無意味に閣下と呼んでもらいたいなどという気を起こしたら、それこそわたしのほうが滑稽に感じられるに相違ありません。徳行を伴わぬ将軍の官等なんぞ、千万金を積んでくれても、受けとりゃせんです。ところが、あなたはわたしを気ちがい扱いになさった! わたしはあなたのためを思えばこそ、わが自尊心を犠牲にしても、あなたやあなたの好きな学者連[#「学者連」に傍点]から気ちがい扱いにされる惧れがあるのを、甘んじて許容したのですぞ! わたしはただあなたの知性を照らし、あなたの徳性を啓発し、あなたに新しい思想の光を浴びせかけるために、将軍の尊称を要求したのです。それというのもほかではない、向後あなたに将軍などというものを、この地上における最高の精神のように考えさせまいと思えばこそです。高潔な精神を伴わぬ官等などは無に等しい。したがって、すぐそばに徳行に輝く人間が控えておるのに、将軍の来訪をありがたがって騒ぐ必要はないということを、あなたに証明したかったのですわい! ところが、あなたはいつもわたしに大佐の官等を自慢しておられるものだから、わたしにむかって『閣下』というのが容易ならぬことに思える。原因はつまりここにあるのです! ここにこそ原因を求めるべきで、最高の官位を僣するとかなんとか、そんなことが問題じゃありませんぞ! いっさいの原因は、あなたが大佐であって、わたしがただのフォマーにすぎんということです……」
「違う、フォマー、ちがうよ! 誓っていうが、それは考え違いだ。きみは学者だ。ただのフォマーじゃない……わたしは尊敬しているよ……」
「尊敬しているんですと! よろしい! もし尊敬しておられるとならば、一つ聞かしてもらいましょう。わたしは将軍の官等に相当する人間か、或いは違いますか、あなたのご意見は? 即刻きっぱりした返事を聞かせてください。相当しますか、しませんか? わたしはあなたの頭脳を見たいです、その発達の程度を見たいです」
「そりゃ正直な点からいっても、無欲恬淡なことからいっても、頭脳からいっても、この上もない高潔な精神からいっても、十分に相当するよ!」叔父は傲然とこういいきった。
「相当するのなら、なぜあなたはわたしに『閣下』といわないんです?」
フォマー、なんならいってもいいがね……」
「いや、わたしは要求します! わたしは今こそ要求しますぞ、大佐、どこまでも固執しますぞ! あなたはそれがいかにもつらそうに見えるから、なおのこと要求します。この犠牲はあなたにとって功業の第一歩になるでしょう。なにしろ、わたしと肩を並べるためには、これから、いろいろの功業をたてんけりゃならんのですからな、――それを忘れちゃいけませんぞ。あなたは自己を克服せんけりゃなりません。そうしたら、わたしも初めてあなたの誠実を信じますわい……」
「明日にもさっそく『閣下』というよ、フォマー!」
「いや、明日じゃいけません、大佐。明日のことはいうまでもない話で、あなたが今この場で、わたしに『閣下』といってくださるのを要求するんです」
「よろしい、フォマー、わたしはいつでもかまわないが……しかし、それはどういうわけなんだね、フォマー、今すぐでなくちゃならないなんて?………」
「なぜ、今じゃいけないんです? それとも恥ずかしいんですか? そんなことじゃ、あなたが恥ずかしいなぞと思っておるのじゃ、わたしは気持ちが悪いですからな」
「いや、よろしい、フォマー、わたしにはその用意ができている……わたしはむしろ誇りとしているくらいだ……ただどうしたものだろうね、フォマー? なんのきっかけもなしに、いきなり、『こんにちは、閣下!』なんて、そんなことはいえないじゃないか……」
「いや、『こんにちは、閣下』じゃない。それはもう侮辱的な調子です。それじゃ冗談か道化芝居じみて来る。わたしはそんな洒落を許すわけにいかんです。反省しなさい、大佐、今すぐ反省しなさい! その調子を棄てんけりゃなりません!」
「いったいきみは、冗談をいってるんじゃないだろうね、フォマー?」
「エゴール・イリッチ、第一にわたしは『きみ』じゃなくって、『あなた』です、――これを忘れないでください。そしてフォマーじゃなくて、フォマー・フォミッチです」
「いや、フォマー・フォミッチ、まったくのところ、わたしは嬉しいよ! 心底から嬉しく思うよ……ただなんといったらいいのだろう?」
「あなたは言葉の終わりに『閣下』とつけるのに困っておいでですな、――それはもっともなことです。それならそうと、早く率直にいってくださればよかったものを! それは恕し得べきことですよ。ことに著述家でない[#「著述家でない」に傍点]人が、上品な言葉づかいをしようと思う場合は、なおさらですな。じゃ、あなたは著述家ではないのだから、わたしが力をかして上げましょう。さあ、わたしについて、いってごらんなさい、『閣下』……」
「じゃ、閣下」
「いや、『じゃ[#「じゃ」に傍点]閣下』ではいけない、ただ『閣下』です! だから、大佐、わたしはその調子を棄てんけりゃならないといっておるんですよ! それから、こういうことを申し出ても、侮辱を感じはなさらんだろうと思いますが、あなたはそれをいいながら軽く頭をさげ、同時に上体を前へかがめながら、相手に対する尊敬の情と、命に応じてどこへでも飛んで行く、という心がまえを示してもらいたいものですな。わたしは自分でも将軍たちと交際したことがあるので、その辺はすっかり知り抜いておりますよ……さあ、『閣下』……」
「閣下……」
「『わたしは最初、閣下の精神を理解しなかったことについて、いまようやくご寛恕を乞う機会が到来したのを、言葉につくし難いほど喜ばしく感じまする。向後は一般の福祉のために、自己の薄弱な意志にいささかも仮惜を加えないということを、あえてお誓い申し上げます……』まあ、これくらいでたくさんでしょうかな!」
 かわいそうに、叔父はこの寝言をひと言ひと言、一句一句くり返さなければならなかったのだ! わたしは外に立ったまま、自分が悪いことでもしたように真っ赤になった。わたしは憤慨のあまり息がつまりそうだった。
「さて」と拷問官は言葉をつづけた。「あなたはいま急に、胸が軽くなったような気がしませんか? 何か天使でも心の中へ舞いくだったような感じがしませんかな?……その天使があなたの体内に宿っているのを感じませんか? 返事をなさい!」
「ああ、フォマー、なんだか本当に気持ちが軽くなったようだよ」と叔父は答えた。
「あなたは自己を克服した後で、いわば心臓が聖油の中にでも浸ったような気がするでしょうな?」
「そうだよ、フォマー、本当に油の上でもすべるように、万事すらすらと……」
「油の上でもすべるようにですと? ふむ!………もっとも、わたしはその油のことをいったのじゃない……が、まあ、どちらでもよろしい! 大佐、義務を履行するということは、そうしたものなんですぞ! これからもせいぜい自己を克服なさい。あなたは自尊心が強い、底の知れないほど強いですよ!」
「なるほど自尊心が強い、今こそわかったよ、フォマー」叔父は溜め息つきつきこう答えた。
「あなたは利己主義者、陰気くさい利己主義者ですぞ……」
「わたしが利己主義者だということは間違いないよ、フォマー、それはまったくだ、自分でもわかる。きみという人を知ってから以来、このことを悟ったよ」
「わたしはいま父親として、優しい母親としていいますが……あなたはすべての人を身辺から退けてしまって、優しい仔牛は二匹の牝牛の乳房を吸うということを、忘れておいでになるのですぞ」
「それもそのとおりだよ、フォマー!」
「あなたはがさつです、あなたは他人の心へ乱暴にとび込んで行く人です。あなたは利己的な態度で人の注意を自分に向けさせようとされるから、だれだって紳士といわれるような人たちは、尻に帆をあげてあなたのそばから逃げ出したくなるのですよ!」
 叔父はもう一ど深い溜め息をついた。
「他人にもっと優しく、注意ぶかく、愛情をもって向かうようになさい。人のために自分を忘れるようにしたら、その時は人もあなたのことを思い起こしてくれるでしょう。自分も生活し、人にも生活させる――これがわたしの原則ですわい! 堪え忍べ、働け、祈れ、希望を持て、――これこそわたしが全世界の人類に一気に吹き込もうと思っておる真理! この真理を守っていかれれば、その時こそわたしはまず第一番に自分の衷心をあなたに開いて見せて、あなたの胸に顔を埋めて泣きもしましょう……もしその必要があればですな……ところが、一にもおれ、二にもおれ、万事につけておれ様の一点ばりですからな! あなたのおれ様なんかそのうちには飽き飽きしてしまいますわい、失礼な申し分ながら」
「ほんとに話上手なお人だ!」とガヴリーラは感服しきった調子でいった。
「それはほんとだよ、フォマー、それはわたしもよく感じているよ」と叔父はすっかり感動して相槌を打った。「しかし何もかもわたしが悪いというわけじゃないよ、フォマー。わたしはもともとそんなふうに教育された人間で、兵隊どもといっしょに暮らして来たんだからな。誓っていうがね、フォマー、わたしだって、感情は持っていたんだよ。連隊と別れる時に、わたしの大隊にいた軽騎兵たちは、ただもうおいおい泣いたものだよ、わたしのような人間はまたと二人ないといってね!………そのときわたしも考えたものさ、おれだってまだ全然しようのない人間でもないらしい、ってな」
「また利己主義が顔を覗けましたぞ! またあなたの自尊心の尻尾を押えましたぞ! あなたは軽騎兵どもの涙を吹聴しながら、ついでにわたしに非難の矢を向けたんです。お前はだれの涙も自慢することができないだろう、というわけで。それくらいのものはないわけでもないんだが、――けっしてないわけでもないんだが」
「あれはつい口がすべったんだよ、フォマー、つい我慢しきれなくって、昔の楽しかった時代を思い出したのだ」
「楽しい時代は天から降って来るものではなくて、われわれが自分でつくるものですぞ。それはわれわれの心にあるのです、エゴール・イリッチ。なぜわたしはいつも幸福なのか、それをご承知ですか? いろいろな苦しみがあるにもかかわらず、常に満足して、精神の平静を保ち、だれにもうるさがられずにおるのは、どういうわけだと思います? もっとも、馬鹿者でおっちょこちょいの学者ども[#「学者ども」に傍点]は別で、この連中はわたしも容赦せんし、また容赦しようとも思わんです。わたしは馬鹿が大きらいだ! いったいあの学者とは何者です? 『科学の人』だって! あんなやつの科学なんか、大風呂敷のまやかしもので、学問でもなんでもありゃせん。え、いったいあいつはさっきなんといいました? あいつ[#「あいつ」に傍点]をここへよこしなさい! 学者どもをみんなここへよこしなさい! わたしはなんでも反駁することができます。やつらの定理なんか、一つ残さず反駁してみせますわい! 高潔なる精神なぞということは、改めていうまでのこともないくらいだ……」
「もちろんだよ、フォマー、もちろんだよ。だれもそれを疑う者はありゃしないよ」
「たとえば先ほども、わたしは卓越した頭脳と才能、驚くべき博識、人間心理の知識、現代文学に関する造詣を披瀝して、才能ある人間はつまらんコマーリンスキイの話から、高尚な会話のテーマを展開することができるという事実を、いとも鮮やかに示したではありませんか。ところが、どうです? 彼らのうちだれか一人でも、わたしの価値を実質どおりに評価してくれましたか? どうして! みんな顔をそむけてしまった! あいつはもうあなたに向かって、わたしがなんにも知らぬ人間だといいふらしたに相違ない。ところが、あに図らんや、やつの前に坐っていたのはマキャヴェリか、メルカダンテ([#割り注]サヴォリオ、十九世紀イタリアの作曲家[#割り注終わり])そこのけの大人物だったかもしれないのだが、ただ貧乏の悲しさに、無名の境涯に甘んじておるにすぎんです……いや、あれはそのままですますわけにいかん! それから、またコローフキンとかいう人間の噂が聞こえたが、それはいったいどんなしろ物です?」
「それはね、フォマー、賢い人間なんだよ、科学の人なんだよ……わたしはその人を待ちかねているんだ。これこそきっと間違いなく立派な人間だよ、フォマー!」
「ふむ! 怪しいものですな。たぶん本をしこたま荷鞍につけた現代の驢馬でしょうて。そういう手合いには魂なんかありゃしない、心というものがないんですよ、大佐! 徳のない学問なんか何になります?」
「違うよ、フォマー、違うよ! その人が家庭の幸福を論じた話しぶりを、きみに聞かしたいくらいだったよ! それこそ自然に心が生きて、躍り出すくらいだからね、フォマー!」
「ふむ、どんなものか見てやろう。そのコローフキンも試験してやるのだ。しかしもうたくさんです」とフォマーは肘掛けいすから身を起こしながら言葉を結んだ。「しかし、まだすっかりあなたをゆるすわけにはいきませんよ、大佐、なにぶん血のにじむような侮辱を加えられたんですからな。が、すこし祈祷でもしたら、神様が辱しめられた心に平安を送ってくださるかもしれませんて。このことを明日もう一ど話すとして、今は失礼さしていただきます。わたしは疲れて、よろよろして来ましたよ……」
「ああ、フォマー!」と叔父はあたふたし始めた。「きみは本当に疲れたようだ! ああ、そうだ、何か元気のつくようなものでも食べてみたら? わたしがすぐにいいつけよう」
「食べるもの! はははは! 食べるものですと!」フォマーは嘲るような高笑いで答えた。「まず人に毒を飲ませておいて、それから何か食べたくないかとたずねるとは? 魂の手傷を茸の煮つけや、砂糖漬の林檎なんぞで癒そうというのですか! あなたはなんという憐れむべき唯物主義者でしょう、大佐!」
「いや、フォマー、わたしはまったくのところ、心底から……」
「まあ、よろしい。その話はたくさんです。わたしはあちらへ行きますが、あなたはこれからさっそくお母様のところへ出かけて、膝をついて涙を流しながら、ゆるしを哀願なさい、――それはあなたの義務ですぞ」
「ああ、フォマー、わたしは始終そのことばかり思っていたんだよ。今もきみと話をしながら、やはりそのことを考えていたようなわけでね。わたしは夜が明けるまででも、お母さんの前に膝をついてる覚悟だよ。しかし、フォマー、考えてもみてくれたまえ、いったいお母さんはわたしになんということを要求なさるんだろう。あれは不公平じゃないか、残酷じゃないか、フォマー! どうか本当に寛大な気持ちになって、わたしをすっかり幸福にしてくれたまえ、よく考えて解決してくれたら、その時は……その時は……誓って!」
「いや、エゴール・イリッチ、それはわたしの知ったことではないです」とフォマーは答えた。「わたしがその話に少しも立ち入らないということは、あなたもご承知のはずじゃありませんか。よしんば、仮りにあなたが、わたしをこの事件の原因のように思いこんでおられるにせよ、わたしは誓って申しますが、そもそもの初めから局外に立つことにきめておるのです。これはただご母堂の意志一つであって、しかもご母堂はむろん、あなたのためを思っておっしゃるのですぞ……さあ、早くお行きなさい、とんで行って恭順の意を示し、それによって、事態を収拾することが肝要です……こういう状態で日を暮らしてはいけない! わたしは……わたしは一晩じゅうあなたのために祈っておりましょうわい。わたしはもう大分まえから、眠りというものがどんなものか、覚えがないくらいですぞ、エゴール・イリッチ。では、さようなら! 爺さん、お前もゆるしてやるよ」彼はガヴリーラのほうへふり向きながら、こういい足した。「お前の振舞いが正気でなかったということは、わたしにもちゃんとわかっておる。またわたしが何かお前の気にさわるようなことがあったら、これもゆるしてもらいたい……さようなら、皆さんご機嫌よう。どうか皆さんに神様の祝福がありますよう!……」
 フォマーは出て行った。わたしはすぐ部屋の中へとび込んだ。
「お前は立聞きしていたんだね?」と叔父は叫んだ。
「そうです、叔父さん、立聞きしました! よくもあなたは、よくもあんなやつに、『閣下』などといえましたね!……」
「どうも仕方がないじゃないか、セルゲイ。わたしはむしろ誇りとしているくらいだよ。高尚な功業をたてるためには、そんなことたんかなんでもありゃしない。だが、なんという高潔で、無欲恬淡な、偉大な人物だろう! セルゲイ、――お前も聞いていたろう……どうしてわたしはあんな金を提供するなんてことができたんだろう。われながら気が知れない! ねえ、お前! わたしはあんまり激していたものだから、つい夢中になってしまったんだ。あの人を理解しなかったんだ。わたしはあの人を疑って、あの人を悪く思っていたんだからな……とんでもないことだ! あの人がわたしの敵になるわけがない、――今こそはっきりわかった……お前も覚えているだろう、――あの人が金を拒絶したとき、じつに高潔な表情をしていたじゃないか!」
「よろしい、叔父さん、いくらでも腹に足りるだけ自慢なさい。ぼくはもう帰ります。このうえ辛抱はしきれない! ただ最後に一つ伺いますが、いったいあなたは何をぼくに要求なさるんです? なんのためにぼくを呼び寄せたんです、何を期待していらっしゃるんです? もう何もかもおしまいになったとすれば、ぼくはもうあなたに用はないんだから、これでお暇《いとま》します。こんな場面を我慢して見ているわけにいかない! 今日にもすぐ立ってしまいます」
「セリョージャ……」と叔父はいつもの癖であわて出した。
「ただほんの一、二分でいいから待っておくれ。わたしはこれからお母さんのところへ行って……大事な、重大な、偉大な仕事を片づけて来なくちゃならないんだ!………その間お前は自分の部屋へ帰っててくれ。ガヴリーラにお前を夏の離れへ案内させるから。お前、夏の離れって知ってるかい? 庭のまん中にある建物だよ。もうちゃんと指図をしておいたから、お前のカバンもそちらへ運んだはずだ。わたしはお母さんのところへ行って、是が非でも詫びをかなえてもらうつもりだ。思いきって、あることを決行するんだ、――今こそわたしもどうしたらいいかわかった、――その後でさっそくお前のところへ行って、何もかも洗いざらい話してしまうよ。胸中を一さい吐露してしまうよ。そうすれば……そうすれば……やがていつかわたしたちにも幸福な時がやって来るよ! 一、二分、たった一、二分だけ待ってくれ、セルゲイ!」
 彼はわたしの手を握って、あたふたと出て行った。どうも仕方がないので、わたしはまたガヴリーラといっしょに、自分の部屋をさして出かけた。
[#3字下げ]10 ミジンチコフ[#「10 ミジンチコフ」は中見出し]
 ガヴリーラが案内してくれた離れは、昔ながらの慣わしで「新築」と呼ばれていたけれど、実際はもうずっと前に以前の地主の手で造られたものである。それは気の利いた木造家屋で、母屋から少し離れた庭のまん中にあった。亭々とした古い菩提樹が三方からこの建物をとり巻き、枝を屋根に触れていた。四つの部屋はかなり贅沢な家具で飾られ、来客用にあてられていた。もうカバンまで持ちこまれている部屋へ入った時、わたしは寝台の前の小テーブルの前に、一葉の書簡箋を発見した。それは花房や唐草模様などに飾られ、さまざまな変わった書体で見事に細かく書きつめてあり、頭文字と花房はいろいろな絵具で彩色してあった。それは全体から見ると、実に美しい能書術の作品という形だったが、初め一、二行読んでみると、すぐにわたしあての依頼状だとわかった。しかも、わたしのことを、『教養ある保護者殿』という言葉で呼んでいるのだ。表題には『ヴィドプリャーソフの哀泣』と据えてあった。その文面から何かつかもうとして、いかに注意を緊張さしてみても、わたしの努力は徒労に終わった。それは乙に気どった下男式の文章で綴った、思いきりくだらない寝言の羅列だった。ただやっと想像ができたのは、ヴィドプリャーソフが何か窮境に陥って、わたしの助力を願っている、というくらいのことだった。彼は『高き教養のゆえに』何やらたいへんわたしを当てにしているというようなことをいって、最後に叔父に対する斡旋を乞い、『貴下の機械によって』叔父を動かしてほしいと結んであった。これは書面の文言そのままなのである。わたしがまだ手紙を読んでいるうちに、突然ドアが開いて、ミジンチコフが入って来た。
「失礼ですが、どうかお心やすく願います」わたしに手をさし伸べながら、彼は恐ろしく丁寧な、そのくせ砕けた調子でこういった。「さっきはろくろくお話もできませんでしたが、しかし一目見るなり、しんみりお話ししたい要求を感じましたので」
 わたしはこの上もない不愉快な気持ちになっていたけれど、すぐに、『こちらこそ大いに愉快です』といったようなことを答えた。二人は腰をおろした。
「あなたの持っていらっしゃるのはなんですか?」わたしがまだ手に持っている紙きれを見て、彼はこうたずねた。「またヴィドプリャーソフの哀泣じゃないですか? やっぱりそうだ! ヴィドプリャーソフのやつ、あなたもきっと攻撃するに相違ないと、ぼくちゃんと見抜いていましたよ。あいつはぼくにもそれと同じような哀泣を並べた、同じような紙きれをよこしましたよ。あの男は、もう前からあなたを待ち受けていたので、おそらく、あらかじめ用意していたのでしょう。まあ、びっくりなさらないように。ここにはずいぶん珍妙なことがたくさんあるから、笑う種にはことを欠きませんよ」
「ただ笑うだけですか?」
「そうですよ、だって泣くわけにもいかないじゃありませんか! もしなんなら、ヴィドプリャーソフ伝を一席講じましょうか。きっとお笑いになるに違いないから」
「正直なところ、ぼくはいまヴィドプリャーソフどころじゃないんですよ」とわたしはいまいましげに答えた。
 ミジンチコフ氏が知己を求めて来たのも、その愛想のいい話ぶりも、すべてなにか当てあってのことで、ミジンチコフ氏がわたしという人間を必要としているのは、立派に見えすいていた。さっき気むずかしい顔をして、まじめくさって控えていた彼が、今は面白そうににこにこしながら、長い話までして聞かそうとしている。この男が自己制御に長じて、人間というものを知り抜いているらしいのは、一見して明瞭だった。
「いまいましいフォマーのやつめ!」とわたしは毒々しく拳固でテーブルをとんとたたきながら、こういい出した。「あいつはこの家に起こるいっさいの不幸の原因で、どんなことにも、みんな引っかかりをつけてるんだ、それに相違ありません! いまいましい畜生め!」
「あなたはどうも、あまりあの男に腹をたてすぎていらっしゃるようですね」と、ミジンチコフはいった。
「あまり腹をたてすぎてるんですって!」わたしはたちまちかっとなって、こう叫んだ。「むろん、ぼくはあのとき夢中になりすぎて、みんなにぼくを非難する権利を与えてしまいました。ぼくが余計な出しゃばりをやって、いろんな点でしくじったのは、自分でもわかっています。あんなことを、改まって証明する必要はなかったんですからね!………あんなことは、身分のある社会でなすべきことじゃなかった。それも承知していますけれど、まあ考えてもみてください、あれがどうして夢中にならずにいられますか? あれは気ちがい病院ですよ、遠慮なく申しますがね! それに……それに……要するに……ぼくはもう一思いにここを立ってしまいます、――それっきりです!」
「あなたは煙草をおやりになりますか?」とミジンチコフは落ちつき払ってたずねた。
「ええ」
「それじゃ、ぼくにも煙草を許してくださるでしょうね、あちらじゃ許してもらえないんで、ほとんどホームシックにかかったような有様です。なるほど」煙草に火をつけながら彼は言葉をつづけた。「確かに気ちがい病院じみたところがあります。それにはぼくも異存ありませんが、しかしぼくはあなたを非難する気なぞもうとうありません。これは誓って申します。というのはもしぼくがあなたの立場にあったら、あなたの三倍も四倍もかっとなって、前後を忘れるようなことをしたに相違ないから」
「もし、ほんとにあなたがそれほど癪にさわったのなら、どうして自分でも、かっとならなかったのです? それどころか、ぼくの覚えている限りでは、あなたは恐ろしく冷静な態度をとっておられましたね。白状すると、あの……だれにでもかれにでも見境いなしに恩恵を施そうとしている、気の毒な叔父さんの味方をなぜなさらないのかと、不思議な気がしたくらいですよ」
「ごもっともです。あの人は多くの人に恩恵を施しました。しかしあの人の味方をするのはぜんぜん無益だと思います。第一に、それはあの人のために、効果がないばかりか、なんだか屈辱になるような感じがするし、第二には、そんなことをしたら、明日にもすぐ、ぼくが追い出されてしまいますよ。うち明けて申しますが、ぼくは、この家の厚遇を尊重せざるを得ないような、そういう状況にありますのでね」
「ぼくは、あなたの状況をうち明けてくださいなどと、そんな要求をした覚えはありません、……もっとも、あなたはもうかれこれ一月ばかりも、ここで暮らしていらっしゃるから、ひとつおたずねしたいものですが……」
「さあさあ、どうぞご遠慮なくきいてください。ぼくはいつでも喜んで」と、ミジンチコフは椅子を乗り出しながら、気ぜわしそうに答えた。
「まあ、たとえば、こんな事実を説明していただけませんか。つい今しがたフォマー・フォミッチが、現在わが手に握らされた一万五千ルーブリの現金を拒絶したんですよ、――ぼくはそれをこの目で見たんです」
「え? それはいったいほんとうですかあ?」とミジンチコフは叫んだ。「そのわけを聞かしてください、お願いですから!」
 わたしは「閣下」の件だけ抜かして、いっさいのいきさつを物語った。ミジンチコフは貪るような好奇の表情を浮かべながら、耳を澄ましていた。話が一万五千ルーブリのとこまで来た時、その顔つきまでが変わったように思われた。
「うまいもんだ!」物語を聞き終わってから、彼はこういった。「フォマーとしては思いがけないくらいだ」
「しかし、金を拒絶したんですよ! それをどう説明します? まさか高潔な精神のためじゃないでしょう?」
「一万五千ルーブリを拒絶したのは、後で三万ルーブリ手に入れるためでさあ。もっとも、こういうこともあるんです」と彼はしばらく考えていい足した。「フォマーになにか目算があったかどうか、疑わしいと思うんです。あれはけっして実際的な人間じゃなくって、いわば一種風変わりな詩人なんですよ。一万五千ルーブリ……ふむ! それはですね、金は取りたかったのだけれど、ちょっと偉そうな顔をして気どってみたいという誘惑に勝てなかったんです。ぼくはあえていいますが、あれは手のつけられない意気地なしで、やくざな泣き虫なんだが、そのくせ方図の知れないほど自尊心の強い男なんですよ!」
 ミジンチコフは腹をたてているほどだった。彼はいまいましくてたまらない上に、羨しい[#「羨しい」はママ]ような気持ちさえするらしかった。わたしは好奇心を感じながらじっと彼の顔に見入っていた。
「ふむ! これは一大変化が起こるものと思わなくちゃなりませんな」と彼は考えぶかそうにいい足した。「これからエゴール・イリッチは、フォマーに手を合わせて拝みかねないことになる。わるくしたら感激のあまりに、結婚さえするかもしれない」歯の間から押し出すような調子で、彼はこうつけ足した。
「それじゃ、あなたはあの気ちがい女との不自然ないまわしい結婚が、必ず成功するものとお思いなんですね?」
 ミジンチコフは試すような目で、じっとわたしを見つめた。
「悪党ども!」とわたしはいきり立ってこう叫んだ。
「もっとも、あの連中はかなり根底のある考えを持っているんですよ。エゴール・イリッチも家族のために何かしなければならないと、こう断定しているので」
「いったい今まで叔父のしてやったことが不足だとでもいうんですか!」わたしは憤然として叫んだ。「それに、あなたも、あなたまでが、あんな俗っぽい馬鹿女と結婚するのを、根底のある考えだなんて、よくもいえましたね!」
「もちろん、あの女が馬鹿だということには、ぼくも異存ありません……ふむ! しかし、あなたがそれほど叔父さんを愛していらっしゃるのは、けっこうなことです。ぼくも同然です……もっともあの女の金で財政を円滑にするのも、悪くないと思いますがね! しかしあの連中の理由とするところは、ほかにあるんです。あの連中はですね、エゴール・イリッチがあの家庭教師と結婚しやしないかと、それを恐れているんです……覚えておいでですか、なかなか面白い味のあるかわいい娘ですよ」
「いったい……いったいそんなことがあり得るんでしょうか?」とわたしは興奮しながらたずねた。「ぼく、それは中傷にすぎないような気がするんですが……お願いだから聞かしてください、それはぼくにとって非常に興味のあることなんですから……」
「えええ、首ったけですよ! ただむろん隠してはいますがね」
「隠してる! あなたは隠しているとお思いですか? ところで、あの娘のほうは? 娘のほうでも叔父さんを愛してるんですか?」
「それは大いにありそうなことですよ。もっとも、叔父さんと結婚するのは、あの娘にとって上々吉の首尾ですがね。なにしろ非常に貧乏してるんですから」
「しかし、あなたはどういう根拠があって、あの二人が愛し合ってるとお思いですか?」
「そりゃ気がつかずにはいられませんからね。それに、二人はどうやら秘密に逢びきしているらしいんですよ、それどころか、二人は許すべからざる関係をつけていると、断言する人さえあったくらいです。ただだれにもしゃべらないでください。ぼくは秘密でお話するんですから」
「そんなことが本当になりますか!」とわたしは叫んだ。
「それに、あなたも、あなたまでが、それを本当にしているとおっしゃるんですね?」
「むろん、一から十まで本当にしているわけじゃありません。自分で現場を見たわけじゃありませんからね。もっとも、大いにあり得るこってすよ」
「え、大いにあり得ることですって! 叔父の正直で潔白な性格を思い出してください!」
「そりゃ同感です。しかし、後で必ず正式に結婚して、正しい行為にしようというつもりで、一時感情のおもむくにまかせたって、かまわないじゃありませんか。そんなことって、珍しくありませんからね。しかし、くり返していいますがね、ぼくはこの情報が絶対に正確だとは、けっしていい張りませんよ。それでなくても、この家ではあの娘の顔にさんざん泥を塗っているんです。ヴィドプリャーソフとさえ関係があった、などといいふらされたほどでね」
「そら、ごらんなさい!」とわたしは叫んだ。「ヴィドプリャーソフずれと! まあ、いったいそんなことがあり得ると 思いますか? そんなことは聞くのも穢らわしいくらいです! いったいあなたは、それまで本当にしますか?」
「ぼくはそういってるじゃありませんか、-一から十まで本当にしてるわけじゃないって」と、ミジンチコフは落ちつき払って答えた。「もっとも、ないことともいえませんよ。この世では、どんなことだってあり得るんですからね。ぼくは現場を見たわけじゃなし、おまけに自分に関係したことじゃないと思っているのでね。しかし、あなたはこの問題にたいへん関心を持っていらっしゃるようだから、義務として一言つけ加えますが、このヴィドプリャーソフとの関係云々という点は、じっさい真実性が少ないです。これはアンナ・ニーロヴナ、ほら、例のペレペリーツィナの細工にすぎません。あの女は以前自分がエゴール・イリッチの奥さんになろうと空想して、――ほんとですとも! つまり、自分が中佐の娘だからというので、そんな空想を持っていたものだから、やっかみ半分にそんな噂をふりまいたんです。つまり、空想が破れたのに、いま業腹で業腹でたまらないんですよ。もっとも、ぼくはこの件について、大ていねこそぎお話ししてしまったようだし、それに、白状しますと、ぼくはこんな陰口をたたくのが大嫌いなんです。貴重な時間を潰すばかりですからね。ぼくじつは、ちょっとしたお願いがあってお邪魔にあがったんですが」
「お願いですって? どうぞ遠慮なく、ぼくのできることならなんでも……」
「ご厚情はよくわかります。実は、多少あなたの興味を喚起することができるのではないかと、そんな気持ちさえあるくらいなんです。なぜってあなたは、お見受けしたところ、たいへん叔父さんのためを思って、あの人の結婚問題についても、非常な関心を持っていらっしゃる様子だから。しかしこのお願いの前に、もう一つ予備的なお願いがあるんです」
「いったいなんですか?」
「ほかでもありません。あなたはぼくのおもな願いをいれてくださるか、どうかはわかりませんが、いずれにしても、その内容をお話する前にひとつ折り入ってお願いしたいことがあるのです。ほかでもありません。あなたがぼくの口からお聞きになったことは、二人の間だけの秘密にしていただいて、どんなことがあっても、また、だれのためであろうとも、けっしてこの秘密をもらしもしなければ、これからぜひお話ししようと思っているぼくの案を、ご自分で利用しないということを、紳士として、貴族として、立派に誓っていただきたいのです。ご承知ですか、おいやですか?」
 なかなか厳粛な前置きだった。わたしは承諾の意を表した。
「そこで?………」とわたしは促した。
「実際のところ、ごく簡単な話なんです」とミジンチコフは言い出した。「実はですね、ぼくはタチヤーナ・イヴァーノヴナを連れ出して、結婚しようと思うんです。一口にいえば、まあ、ちょっとグレートナ・グリン([#割り注]イングランドからの駆落ちで有名なスコットランドの村、スコットランドでは証人の前で意志表示するだけで正式の結婚が成立した[#割り注終わり])めいたことをやるんです――おわかりですか?」
 わたしはミジンチコフ氏の顔をまともに眺めたまま、しばらくの間は口もきけなかった。
「正直な話、なんのことやら少しもわかりません」わたしはやっとこういい出した。「そればかりでなく」と言葉をつづけた。「ぼくは分別の深い人とお話できるものと期待していたものですから、どうもあまり思いがけないことで……」
「思いがけながら、思いがけなかったんですか」とミジンチコフはさえぎった。「それを翻訳すると、ぼくもぼくの考えも、どちらも馬鹿げているということになるんですね、――そうじゃありませんか?」
「けっしてそんなことはありません……が……」
「ああ、どうか言葉づかいのご遠慮は無用にしてください! どうぞおかまいなく。ぼくはそうしていただいたほうがかえってけっこうなんです。そのほうがぼくの目的に接近することになるんですから。もっとも、これは一見したところ、多少へんに見えるでしょう。それにはぼくも同感ですが、しかしぼくの計画は馬鹿げていないばかりか、この上もないほどの上分別なんです。それはあえて断言します。もしご好意がありましたら、事情をすっかり聞いていただきたいものですが……」
「ええ、どうぞ、どうぞ! ぼくのほうでこそ聞きたくってたまらないんです」
「とはいうものの、お話するほどのこともないくらいなんで。実は、ぼくいま借金で首が廻らなくなって、一文なしの有様でいます。そのほか、十九になる妹が一人いますが、これが天涯によるべのない身なし児となって、まる裸で人の世話になっています。それというのも、ある程度までは、ぼくにも責任があるんです。ぼくたちは遺産として、四十人の農奴つきの領地をもらいましたが、ちょうどおり悪しく、ぼくはそのころ騎兵少尉に任官されて、馬鹿遊びを始めたもんですから、初手は、まあ、むろん抵当に入れる程度のことでしたけれど、あげくのはては何もかもすっからかんにしてしまいました。馬鹿な生活をしたものでさあ。ブルツォフ([#割り注]デニス・ダヴィドフの詩にでてくる蕩児の将校[#割り注終わり])気どりで、はいからがってみたり、カルタをやったり、飲んだりして、一口にいえば馬鹿だったんです。思い出しても恥ずかしくなりますよ。今はすっかり目がさめたので、がらりと生活の様子を変えようと思うんです。しかし、そのためには、どうしても紙幣で十万ルーブリの金が要ります。ところで、勤務についたくらいじゃ、そんな金はできっこないし、自分はほとんど教養のない人間で、何一つ仕出かせそうにないから、当然、残された方法は二つしかありません。つまり、盗みをするか、金持ちの女と結婚するかです。ぼくがここへ来た時には、ほとんど履く靴もないような始末でした。歩いて来たんですよ、乗って来たんじゃありません。ぼくがモスクワを立つ時に、妹がなけなしの三ルーブリを出してくれたんでね。ここへ来て、あのタチヤーナ・イヴァーノヴナを見るが早いか、すぐに一つの案が浮かんだんです。ぼくは自分を犠牲にして、あの女と結婚することにはらを決めました。ねえ、そうじゃありませんか、これが賢い分別でなくってなんでしょう。おまけに、主として妹のためなんですからね。そりゃむろん、自分のためでもありますがね」
「しかし、失礼ですけれど、あなたはタチヤーナ・イヴァーノヴナに、正式に求婚をなさるおつもりですか?」
「とんでもない! そんなことをしようものなら、ぼくはすぐにここから追い出されてしまいますよ。それに、当人だって承知しやしません。ところが、駆落ちを勧めたら、あの女はすぐに乗って来ます。つまり、そこなんですよ。ただ何かロマンチックな舞台効果のありそうなものさえ持っていけばいいんです。いうまでもなく、それはやがて間もなく、正式の結婚で有終の美をなすわけです。ただあの女をここからおびき出しさえすればいいんでさあ!」
「しかし、なぜあの女が必ずいっしょに逃げるものと、きめこんでいらっしゃるんです?」
「ああ、ご心配はいりませんよ! それには十分な確信があるんです。タチヤーナ・イヴァーノヴナは、手あたり次第の男と、つまり、あの女の気持ちに答えてやろうという気を起こした男となら、だれとでも恋愛事件をおっ始める女なんです。つまり、そこが案の骨子なんですよ。だからこそ、ぼくはまず手初めとしてこの案を剽窃なさらないようにと、あなたに誓っていただいたわけです。あなたなら、むろんわかってくださるでしょうが、こうした好機会を利用しないのは罪悪なくらいです。ことに、ぼくのような状況にある人間としてはね」
「してみると、あの女は本物の気ちがいなんですね……あっ! ごめんなさい」と、わたしは気がついてこういい足した。「あなたがあの女に目星をつけてらっしゃるとすれば……」
「どうぞ、ご遠慮なく。もうちゃんと前にお断わりしておいたじゃありませんか。あの女が本物の気ちがいかと、おききになるんですね? さあ、なんとご返事したらいいでしょう? むろん気ちがいじゃありません。まだ瘋癲病院にぶち込まれちゃいないですからね。それに、ぼくはこの恋愛マニヤというやつを、正直なところ、かくべつ精神錯乱だとも思っちゃいない。なんといったところで、あのひとはどこへ出しても恥ずかしくない立派な処女ですよ。ごぞんじですか、あれはつい去年までひどく貧乏でしてね、生まれ落ちるとからこの方、横暴な保護者たちのそばで小さくなっていたものです。もともと並はずれて感じやすい心を持った女なんですが、嫁になどもらおうという者はだれもなかった、――そこで、たいてい想像がおつきになるでしょうけれど、いろんな空想や希望や当てどのない期待などが湧いて来て、燃えたつ胸を鎮めなければならない。そこへもって来て、保護者たちには年じゅういじめられる、――こういうことがいっしょになって、感じやすい心をめちゃくちゃに掻き廻すのは当然な話じゃありませんか。ところが、思いがけなく莫大な財産を手に入れた。まあ、察してもみてください、だれだって気が顛倒するわけでさあ。で、むろん、今じゃみんながあの女を手に入れようと、しきりに後を追い廻しているんです。以前の希望や期待が、ことごとく甦ったわけです。さっきあの女が、白いチョッキを着た伊達者の話をしたでしょう。あれは本当のことで、あの女が話したのとそっくりそのままなんです。この事実から推したら、後の事はたいてい、判断がおつきになるでしょう。溜め息、ラブレター、詩、こんなものであの女を釣り出すのは、なんの造作もありません。こんなもののほかに、絹の綱で造った縄梯子だとか、スペインふうのセレナーデだとか、そういったふうな馬鹿げたものを持って来てごらんなさい、あの女を煮て食おうと焼いて食おうと、おもいのままです。ぼくはもう小手だめしをやってみて、さっそく秘密の逢びきをものにしましたよ。ただし今はさしむき、いい折の来るまで手を控えているんです。しかし、もう四日もしたら、どうしてもあの女を連れて逃げなくちゃなりません。前の晩あたりから手管を始めて、せいぜい溜め息をついて見せるんです。わたしは相当ギターも弾けば、歌も唄えるんでね。夜は亭の逢びきで、明け方には幌馬車の用意ができている。ぼくはあの女をおびき出して、二人で馬車に乗りこむと、そのままさようならです。ねえ、おわかりでしょう、それにはなんの危険も伴わないんですよ。あの女はもう丁年に達しているし、それに万事は、当人の意志一つで決まることなんですからね。そこで、一たんぼくと駆落ちした以上、もうぼくに対して義務が生じるのは当然な話です。ぼくは貧しいながら、れっきとした家へあの女を連れて行きます、――ここから四十露里ばかり離れたところに、いよいよ結婚するまでしっかり女を預ってくれて、だれ一人そばへ寄せつけないようにしてくれる家があるんですよ。その間にぼくは一刻も無駄にしないで、三日の間に式の手続をすませてしまいます、――そりゃできますよ。もちろん、先だつものは金です。ぼくの胸算用によると、この芝居をうつのには、銀貨五百ルーブリ以内でことは足りますから、その点はエゴール・イリッチを当てにしている次第です。あの人なら、むろんわけを聞かないで、出してくれるに相違ありません。これでおわかりになりましたか?」
「わかりました」やっといっさいの事情が呑みこめたので、わたしはこう答えた。「しかし、伺いますが、それについて、ぼくがいったいなんのお役にたつんです?」
「ああ、どうしてどうして、そりゃいろいろありますよ! さもなければ、こんなお願いを持ち出しゃしませんさ。もう前にもお話ししたとおり、ぼくはれっきとした家柄だけれど、貧乏している家族のことを頭においているのです。ところが、あなたはそれについても、ぼくの力になってくださることができるばかりか、証人としても必要なんですよ。白状しますが、あなたのご助力がなかったら、ぼくは両手をもがれたも同じことです」
「じゃ、もう一つおたずねしますが、なぜあなたはまだ知りもしないぼくという人間を、そんな秘密の依頼に選抜してくだすったのでしょう。だって、ぼくはつい四、五時間まえに、ここへ着いたばかりじゃありませんか?」
「あなたの質問は」思いきり愛想のよい微笑を満面にたたえながら、ミジンチコフはこう答えた。「あなたの質問は、ざっくばらんに白状しますが、ぼくとして非常に嬉しいです。それはつまり、あなたに対する特別な尊敬を表明する機会を与えてくれるからなんで」
「ああ、それはどうも痛み入ります!」
「いや、じつはぼくさきほど、あなたをいくらか研究したのです。まあ、仮りにあなたは熱しやすい人で、そして……そして……つまり、まだお若いとしたところで、あなたはだれにもいわないと、約束なすった以上、それこそ必ず約束を守ってくださるに相違ない、――それだけはぼくも十分に確信しています。あなたはオブノースキンと違いますからね、――これが第一で、第二には、あなたは潔白な人で、ぼくの案を剽窃して自分で利用されるような心配がない。もっとも、あなたが親友として、ぼくと取引関係を結びたいとおっしゃるなら、その時はおのずから別問題です。そういうことでしたら、ぼくも自分の案を、――つまりタチヤーナ・イヴァーノヴナを、あなたにお譲りすることはもちろん、できるだけ掠奪の実行に尽力することもいといません、ただし結婚後一か月たったら、あなたから五万ルーブリいただくという条件つきです。このことはむろん、借用証書か何かの形式で、あらかじめ保証していただかなけりゃなりません。利息はとりませんがね」
「えっ!」とわたしは叫んだ。「じゃ、あなたはもうあの女をぼくに譲ろうとおっしゃるんですか?」
「それは何も不思議はないことで、あなたがよくご熟考のうえ、そうしてくれとおっしゃれば、お譲りしてもよろしいのです。ぼくはもちろん損をするわけですが、しかし……案はぼくのものですから、その案に対して金をとるのは、世間でだれでもすることじゃありませんか。第三に、ぼくがあなたを選んだのは、ほかにだれも適当な人がないからです。ところが、つらつらこの状況を考え合わせてみると、長くぐずぐずしているわけにいきません。おまけに、間もなく聖母昇天祭の精進が始まるから、教会で結婚式を扱ってくれなくなる。さあ、これでいよいよ納得がおいきになったでしょう?」
「すっかり納得がいきました。そして、あなたの秘密を絶対に厳守するということを、もう一度あらためて誓いますが、この仕事であなたの仲間になることはできません。それはこの場でさっそく宣言しておくのを、自分の義務と心得ます」
「そりゃまたなぜです?」
「なぜったって、わかりきってるじゃありませんか!」腹の中に溜った感情をとうとう一度に吐き出しながら、わたしはこう叫んだ。「そんな行為が破廉恥なものだということを、あなたはおわかりにならないんですか? あの娘さんの知恵が足りなくって、不仕合わせなマニヤにとっ憑かれているのに乗じて、あなたが立てられた計画は、完全に的確なものだとしてもよろしい。しかし、もしあなたが潔白な人間だったら、あの娘さんのそういう状態を考えただけで、計画の実行を思いとまらなくちゃならないはずです! あの女は滑稽でこそあるけれど、尊敬に値する人間だと、自分でそういわれたじゃありませんか。それだのに、あなたは十万ルーブリの金が奪い取りたいばかりに、あの女の不幸を、利用しようとなさる! もちろん、あなたはあの女のために本当の夫となって、自分の義務を忠実に守ろうとはせず、必ずぶり捨ててしまうに相違ありません……それは、実に破廉恥きわまることで、どうしてあなたがぼくを仲間にひっぱり込もうと、思いきっていい出す気になられたか、それが不思議なくらいです!」
「ちぇっ、なんてロマンチズムだ、やりきれないな!」心底からあきれたようにわたしの顔を眺めながら、ミジンチコフは叫んだ。「もっとも、これはロマンチズムじゃなくって、あなたはどうやら真相を理解されないらしい。あなたは、破廉恥だとおっしゃるけれど、このことから生ずる利益は、すべてぼくのほうじゃなくって、あの女のほうにあるんですよ……そこを一つよく考えてごらんなさい……」
「むろん、あなたの立場になっていたら、或いはタチヤーナ・イヴァーノヴナと結婚するのは、あなたとしてこの上もない義侠的な行為かもしれませんよ」とわたしは皮肉な微笑を浮かべながら答えた。
「でなくってどうします? むろんそうですとも、まったくこの上もない義侠的な行為ですとも!」自分のほうでも熱くなりながら、ミジンチコフはこう叫んだ。「よくまあ、考えてもごらんなさい。第一に、ぼくは自己を犠牲として、あの女の夫になることを承諾するんだから、これだけでも相当の報酬に値するというものじゃありませんか? 第二に、あの女は間違いなく、銀貨で十万ルーブリほど持っていますが、それにもかかわらず、ぼくはたった紙幣で十万ルーブリ([#割り注]一八三九年に廃止された時の相場は三・五紙幣ルーブリが一銀ルーブリであった[#割り注終わり])取るだけなんです。たとえもっと取れても、これ以上一コペイカもあの女から取るまいと、ちゃんと心に誓ったんです。これだって、やはりいくらかの値打ちはあるでしょう! それからですね、こういうことを考えていただきたいのです。いったいあの女が自分の生涯を、穏かに送ることができますか、え? あの女が穏かに一生を過ごそうと思ったら、持っている金をすっかり取りあげて、気ちがい病院へ入れてしまわなけりゃしようがありませんよ。なぜって、いつどんな時に、オブノースキン式のまやかしものが、――唇の下にスペインふうの小粋な口ひげを生やし、ギターなんか持ってセレナーデくらい歌ういんちきな野郎が現われて、あの女を唆かして結婚するかもしれないんですからね。そうしたら、あの女は綺麗に丸裸にされたあげく、どこか道端に捨てられちまうにきまってまさあ。現にここだって、れっきとした立派な家には相違ないけれど、ここにあの女を置いとくのは、あの女の持っている金を目あての駆引きにすぎないんですからね。こういう危険からあの女を遠ざけ、救わなくちゃならない。そこで、おわかりでしょう、あの女がぼくと結婚すると同時に、こうした危険も消滅するわけなんです。もうそうなったら、ぼくはあの女の身に、いっさい危険がちかづかないように、固く責任を負うことにします。まず第一に、あの女をモスクワへ落ちつけます。ある上品な、しかし貧しい家庭に預けます、――それは、前にいったのとは違った、別の家庭です。そして、ぼくの妹を始終そばに付き添わせ、一生懸命に監視させることにしますよ。金は、あの女の手もとに紙幣で二十五万か、三十万残るわけだから、それだけあったら、贅沢に一生すごせますよ! 舞踏会だろうと、仮装会だろうと、音楽会だろうと、なんでもありとあらゆる楽しみを享楽するばかりか、恋愛遊戯さえも空想してかまわないんです。むろん、ぼくはその点で、夫としての名誉を保証するために、十分の注意を払うことにします。つまり、空想するだけなら、いくらでもご随意だけれど、実行はけっして、けっして! 現在の状態だと、どんな男だって、あの女を凌辱することができるわけですが、その状態が一変してしまえば、あの女はもうぼくの妻で、ミジンチコフ夫人ということになるから、ぼくは自分の名を穢すような真似は、断じてさせません! これ一つだけだって、どれだけの値打ちがあるか知れやしませんよ。むろん、あの女と同棲はしません。あれはモスクワに住むし、ぼくはペテルブルグあたりで暮らします。それは、ちゃんと白状しておきますよ。なにしろ、あなたにはすっかり、洗いざらいぶちまけてるんですからね。しかし、われわれが別居するからって、それがいったいどうしたというんでしょう? まあ、考えてもごらんなさい。まあ、あの女の性格をよく観察してみてください。あの女が人の妻となって、夫と同棲することができると思いますか? あの女を相手に、永久かわらぬ夫婦生活などができるものですか! なにしろ、あれは世にも類のない軽はずみな女ですからね! あれには始終たえ間なしに変化が必要なんです。あの女は結婚した翌日に、自分が人妻になったことを忘れてしまえる女です。それに、ぼくが年じゅういっしょに暮らして、あれに厳格な義務の履行を要求したら、それこそ、あの女を不幸にしてしまうわけですよ。そこで、自然の道理として、ぼくは年に一度か、せいぜい二、三度、会いに行くことにきめました。しかし、それは金を絞りに行くんじゃありません、――それはあなたに誓ってもよろしい。ぼくはあの女から紙幣で十万ルーブリ以上は断じて取らないといいましたが、口先ばかりじゃない、ほんとに取りませんとも! 金銭のことでは、ぼくはあの女に対して、理想的に潔白な態度をとるつもりです。二、三日どまりで訪ねて行ったら、あの女を退屈させるどころか、うんと喜ばしてやりますよ。いっしょに大きな声で笑ったり、気の利いた小話をして聞かせたり、舞踏会へ連れて行ってやったり、恋愛ごっこをしたり、記念品を贈ったり、ロマンスを歌ったり、狆を買って来てやったりしたあげく、最後にロマンチックな別れ方をします。そして、愛情に充ちた手紙を取り交わすのです。そうすればあの女は、なんというロマンチックな、愛情こまやかな、おまけに陽気な夫だろうと思って、うちょうてんになるに違いありません! ぼくにいわせればそれは合理的なやり方ですよ。それこそ世の夫たちの手本にしたいくらいです。夫が妻にとって大切なのは、ただ留守の時だけです。だから、ぼくは自分のシステムにしたがって、タチヤーナ・イヴァーノヴナの心を、一生涯あまい夢で包んでしまいますよ、いったい、これ以上、あの女に何を望むことがあります? 一つ伺いたいものですね。だって、これは人間の暮らしというより、ほとんど天国の生活じゃありませんか!」
 わたしはあきれ返って、無言のまま聞いていた。ミジンチコフ氏を論駁するのは不可能な業だということが、はっきり合点がいったのである。彼はファナチックのような熱をもって、自分の計画の正当なこと、というよりむしろ偉大さを確信しきって、発明者の歓喜を声に響かせながら、話すのであった。けれども、まだ一つ非常に尻くすぐったい点が残っていて、それをはっきりさせるのは、是が非でも必要なのであった。
「あなたはお忘れになったのじゃありませんか」とわたしはいった。「あの女はもうほとんど叔父さんの許嫁、といってもいいくらいなんですよ。あの女を掠奪したら、叔父さんに非常な侮辱を与えることになるじゃありませんか。あなたはほとんど結婚の前夜に花嫁誘拐を企てて、しかもその英雄的行為を成就するために、相手の叔父さんから金を借りようというんですからね!」
「さあ、これでいよいよあなたの尻尾を押えた!」とミジンチコフは熱くなって叫んだ。「どうか心配はご無用に、ぼくはあなたの抗議をちゃんと見抜いていましたよ。第一に、そしてこれが一ばん大事な点なのですが、叔父さんはまだ結婚の申込みをしておられません。したがって、あの女を叔父さんの花嫁にしようというみんなの意向を、ぼくは知らない体にしたって差支えないわけです。おまけにご注意ねがいたいのは、ぼくはもう三週間も前に、ここの人たちの意向をちっとも知らなかった時分から、この計画をたてていたんです。だから、ぼくはあの人に対して、道徳的になんらやましい点がないばかりか、厳密に判断すれば、ぼくがあの人の許嫁を横どりするんじゃなくて、あの人こそぼくの恋人を奪おうとしていることになります。あの女とは、――お断わりしておきますが、――すでに一度亭で夜の逢びきまでしてるんですからね。それからもう一つ、失礼ながら、みんなが叔父さんを無理やりにタチヤーナ・イヴァーノヴナと結婚させようとしてるといって、つい今しがた夢中になって憤慨したのは、あなたご自身じゃなかったでしょうか。ところが、今になると急に打って変わって、この縁談を支持する態度になり一家の名誉だの、肉親の侮辱だのとおっしゃるんですからね! それどころか、ぼくはあなたの叔父さんに対して、非常な恩恵を施すことになるんですよ。ぼくはあの人を助けてあげてるんです、――それを納得していただかなくちゃなりません。叔父さんは、この結婚を考えただけでも虫ずが走るんです。おまけに、ほかの娘さんを愛していらっしゃるんですからね! どうして、タチヤーナ・イヴァーノヴナがあの人の奥さんになれるもんですか! 第一、叔父さんといっしょになったら、あの女が不仕合わせな目を見ることになる。なぜってごらんなさい、その時はあの女がやたら若い男に薔薇の花を投げないように、誓言する必要が起こるじゃありませんか。ところが、ぼくがあの女を夜中に連れ出したら、もう将軍夫人だろうが、フォマー・フォミッチだろうが、もう指一本さすことはできやしません。結婚間際に、ほかの男と駆落ちしたような花嫁を元の鞘へおさめるなんてことは、もうあまり乱暴な沙汰ですからね。ねえ、これがエゴール・イリッチに対する好意じゃないでしょうか、恩恵じゃないでしょうか?」
 白状するが、この最後の論拠はわたしの頭にぴんと響いた。
「しかし、もし叔父が明日にも求婚したらどうです?」とわたしはいった。「そうしたら、もう多少手遅れじゃありませんか。あの女は正式に叔父の許嫁になるわけですからね」
「そりゃ当然手遅れです! つまり、そういうことがないように、一働きしなくちゃならないんですよ。ぼくがあなたの助力をお願いするのは、なんのためだと思います? ぼく一人じゃ骨が折れるけれど、あなたと二人がかりだったら、エゴール・イリッチが求婚しないように頑張って、うまくことが運べるからです。ありったけの方法を講じて、邪魔をしなくちゃなりません。よくせきの場合には、フォマー・フォミッチをぶん殴って、みんなの注意をわきへそらすくらいなことは、ぜひとも必要です。そうすれば、もう結婚どころじゃありませんからね。むろんそれはただよくよくの場合のことで、ぼくはただものの譬えにいってるだけなんです。つまり、その点であなたのお力を期待している次第ですよ」
「最後にもう一つ質問さしてください。あなたはぼくよりほか、だれにもその計画をうち明けなかったでしょうね?」
 ミジンチコフは頭を掻きながら、なんともいえないしかめっ面をした。
「正直に白状しますがね」と彼は答えた。「その質問はぼくにとって、苦い丸薬より、もっとつらいんですよ。困ったことには、ぼくは自分の案を、もううち明けちまったんです……一口にいえば、お話にならん馬鹿な真似を、やっちまったんです! しかも、相手はだれだと思います? オブノースキンなんですよ! 実にわれながら、自分のしたことを信じかねるくらいです。どうしてあんなことになったのか、とんと合点がいかない! あの男、のべつその辺をうろうろしていやがったので、ぼくやつの正体をよく知らなかったものだから、妙案が浮かんでくれたのが嬉しくって、まるで熱に浮かされたような気持ちで、オブノースキンをつかまえてしゃべっちまったんです。なにしろすぐその時から、だれか助手が要ると悟ったもんですからね……実にゆるすべからざる失態だ!」
「で、オブノースキンはどういいました?」
「夢中になって賛成したんです。ところが、すぐその翌日、朝早くから姿を消しちまった。三日ばかりたって、母親というのを連れて帰って来ました。ぼくとはひと言も口をきかないで、まるで恐れてでもいるように、避けるようにするじゃありませんか。ぼくはすぐそのからくりがわかった。母親というのは海に千年、山に千年、大変なしたたか者です。ぼくはあの女を前にちょっと知っていましたのでね。やつがその母親にいっさいぶちまけてしまったのは、申すまでもありません。ぼくは黙って待機していると、やつらはスパイをやっている。かような次第で、事態はやや緊張しているんです……そこでぼくも急いでいるというわけで」
「あなたはいったいなにを恐れてるんです、彼ら親子が何を仕出かすと思います?」
「むろん、大したことはできないでしょうが、いい加減かき廻すだろうということだけは、それこそ問違いありませんよ。口どめ料と手伝いの駄賃を請求するだろうと思って、ぼくもちゃんと覚悟しているんですよ……ただあまりたくさんはやれないし、またやりもしないつもりです、……ぼくははらを決めましたよ。紙幣で三千ルーブリ以上は、できない相談ですよね? まあ、考えてみてください。三千ルーブリはそのほうへとられるし、五百ルーブリは銀貨で結婚式に要ります。だって、叔父さんには耳を揃えて綺麗に返さなくちゃならんでしょう? それに、昔の借財があるし、妹にだって少しはしてやらなくちゃたらない。たに、ほんの少しですがね。こう勘定してみると、十万ルーブリのうちから、どれだけのものが残ると思います? とんだ大痛ごとですよ!………もっとも、オブノースキン親子は帰っちまいましたよ」
「帰ってしまったんですって?」とわたしは好奇心をそそられながらたずねた。
「お茶がすんだすぐ後で。なに、あんなやつら勝手にしやがれだ! 見ていらっしゃい、明日はまた舞いもどって来るから。ところで、いかがです、ご承諾ですか?」
「正直なところ」とわたしは肩をすくめながら答えた。「なんとご返事したらいいか、それさえわからないくらいです。なにしろ、かなり尻くすぐったい問題ですからね……もちろん、ぼくはいっさい秘密を守ります。ぼくはオブノースキンじゃないから。しかし……ぼくをあてにしていただいても、しようがなさそうですね」
「お見受けしたところ」とミジンチコフは椅子から立ちあがりながら、こういった。「あなたは、まだフォマー・フォミッチとお祖母さんに、十分揉まれていらっしゃらないらしい。あなたは、善良で高潔な叔父さんを愛していながら、あの人がどのくらいいじめられているか、それを十分合点していらっしゃらないようです。あなたは、この土地じゃ新参者ですからね……しかし、辛抱が肝腎です! 明日もう一日いて、よく様子をごらんになったら、夕方までには、うんと
おっしゃるでしょう。実際、そうしなかったら、叔父さんの身は破滅ですよ、――いいですか? あの人はきっと無理往生に結婚させられます。あの人が明日の日にも、結婚の申込みをするかもしれないということをお忘れにならないように、もうそうなったら、追っつきませんよ。はらを決めるのは、今日のうちですがなあ!」
「実際、ぼくは心からご成功を祈りますが……力をお貸しするのは……どういうわけか……」
「わかっています! しかし、明日まで待つとしましょう」とミジンチコフは嘲るような微笑を浮かべながら、一人で決めてしまった。「La nuit porte conseil(夜はいい知恵を貸してくれる)ですからな、さようなら。明日の朝すこし早めに伺いますから、とっくり考えといてください……」
 彼はくるりと踵を転じて、何やら口笛を吹きながら出てしまった。
 わたしは少し外の風にあたろうと思って、ほとんどその後を追うように出て行った。月はまだ昇らなかった。暗い夜で、空気は息苦しいほど生暖かった。木々の葉はそよとも動かなかった。恐ろしく疲れてはいたけれど、わたしは少し歩いて気を紛らし、同時に考えもまとめようと思った。しかし、十歩と行かないうちに、ふと叔父の声が耳に入った。彼はだれかと離れの入口階段を昇りながら、度はずれた活気づいた調子で話していた。わたしはすぐさま引っ返して、声をかけた。叔父はヴィドプリャーソフといっしょにいるのだった。
[#3字下げ]11 極度の疑惑[#「11 極度の疑惑」は中見出し]
「叔父さん!」とわたしはいった。「やっとのことで、あなたに会えましたよ」
「セリョージャ、わたしのほうこそ、お前のところへ飛んで来たくてたまらなかったんだよ。ちょっとヴィドプリャーソフと用談をすましたら、その時こそ思う存分話し合おうよ。お前にはいろいろ聞いてもらわなくちゃならないことがあるんだから」
「え、まだヴィドプリャーソフと! なあに、あんなものは、うっちゃってお置きなさいよ、叔父さん」
「ほんの五分か十分くらいのものだよ、セルゲイ。そうしたら、わたしはもうすっかりお前のものだ。なにぶん用談があるのだから」
「なあに、きっと馬鹿げた話にきまってますよ」と、わたしはいまいましさに口走った。
「いや、どうもなんといったらいいか? くだらないことを持ちかけて来るのに、とんでもない時を狙うんだからな!おい、グリゴーリイ、そんな泣き言を並べるのに、もっとほかの折を見て来るわけにいかなかったのかい? え、いったいわたしがお前に何をしてやれるというのだ? せめてお前もわたしをかわいそうだと思ってくれるがいい。わたしはお前たちのためにへとへとになって、いわば、生きながら、まるごと食われているようなものだ! まったくこの連中にかかったら、やりきれないよ、セリョージャ!」
 叔父はしんからくさくさしてしまうというように、さっと両手を一振りした。
「のっぴきならないほど重大な用とは、いったいどんなことなんです? ぼくだって、ぜひ聞いていただきたいことがあるんですよ。叔父さん……」
「だって、お前、それでなくてさえ、わたしが召使たちの精神修養を疎かにするといって、わいわい騒ぎたててるんじゃないか! 悪くしたら、わたしの話も聞いてくれなかったなどと、告げ口するかもしれないんだ、そうしたら……」
 こういって、叔父はまた片手を振った。
「いや、それなら、早くこの男の用件を片づけておしまいなさい! なんなら、ぼくが手伝ってあげますよ。まあ、上へあがりましょう。いったいなにをいってるんです? どうしてくれというんです?」二人が部屋へ入った時、わたしはこういった。
「ほかでもないんだがね、セリョージャ、この男は自分の苗字が気に入らないので、変えてくれといってるんだよ。お前どう思う?」
「苗字ですって! どうしてそんなことが?……まあ、叔父さん、あの男が自分でいい出す前に、ぼくに一口いわしてください。いったい叔父さんの家の中では、どうしてこんな奇妙きてれつなことばかり持ちあがるんです?」あきれて両手を広げながら、わたしはきり出した。
「いや、セリョージャ! そんな両手を広げるだけのことなら、わたしにだってできるけれども、それじゃいっこうらちが明かないよ!」と叔父はいまいましそうにいった。「まあ、こっちへ来て、自分でこの男と話してみるがいい。もうかれこれ二月も、わたしにつきまとってるんだからね……」
「らちもない苗宇なので!」とヴィドプリャーソフは応じた。
「なぜらちもない苗字なんだ?」とわたしは驚いて問い返した。
「さよう、いろんな穢らわしいことを現わしている苗字なので」
「どうして穢らわしいことを現わしてるんだ? それに、どう変えようというのだい? 苗字を変える者が世の中にあるかい?」
「まあ、考えてみてくださいまし、ほかにこんな苗字を持っている人間がおりましょうか?」
「なるほど、お前の苗字が少々変ちきりんなのは、ぼくも異存ないがね」とわたしはあきれ返って言葉をつづけた。「それかといって、今さらどうもしようがないじゃないか? 現にお前の親父さんも同じ苗字だったんだろう?」
「そりゃ罹かにそのとおりで。親父さんのお蔭で、わたくしもこうして一生涯、苦労することになりました。なにしろこの名前では、ずいぶん人から馬鹿にもされるし、悲しい目にも遭いましたからな」とヴィドプリャーソフは答えた。
「叔父さん、ぼくは賭けでもしますが、これにはフォマー・フォミッチも、多少かかり合いがありますよ!」とわたしはいまいましそうに叫んだ。「そりゃ違う、お前、そりゃ違うよ。それはお前の考え違いだ。なるほど、フォマーはこの男に目をかけて、自分の秘書に取り立ててやったので、今ではそれだけが、この男の仕事になっている。むろん、いうまでもなく、フォマーはこの男を啓発して、高尚な精神で充たしてやったんだよ。だから、ある点では、この男も覚醒して来たといえるくらいだ……まあ、すっかり話して聞かせるが……」
「それは本当でございます」とヴィドプリャーソフはさえぎった。
フォマー・フォミッチは、まったくわたくしの恩人でございます。まことの恩人であればこそ、わたくしが地べたを這う虫けら同然の、しがない人間だということを悟らしてくださいました。あの方のお蔭で、わたくしは初めて自分の運命というものを、ちゃんと見抜くようになりましたので」
「実はね、セリョージャ、実はこういうわけたんだよ」いつもの癖で急ぎこみながら、叔父は言葉をつづけた。「この男は初めモスクワにいたんだ。ごく小さい頃から、ある習字の先生のところで小僧奉公をしていたんだよ。そこですっかり書道を覚えこんだんだが、それこそ見ものだよ。絵具や、金を使って、唐草の模様をつけたり、キューピッドをあしらったり、――一口にいえば、芸術家さ。イリューシャもこの男に習字を習っているよ。一ルーブリ半ずつお礼をやってね、フォマーが自分で一ルーブリ半ときめたのさ。近在の地主連のところへも三軒ばかりかよっているが、やはり礼をもらってるんだ。まあ、見てくれ、この洒落た身なりを! おまけに詩まで書くんだからな」
「詩ですって! それはどうも念が入っている!」
「詩だよ、お前、詩なんだよ。冗談だなんて思ってくれちや困る。本当の詩、つまり、作詩術なんだ。それがなかなか手に入ったもので、どんなことでもみんなこなせるのだ。なんでもすぐ詩に作ってしまうのだから、天才だね! お母さんの命名日に寓意詩を一つ作ったが、われわれはただもう、開いた口がふさがらなかったよ。神話から引いたようなことがいろいろあって、ミューズが舞い遊んでるわけなんだ。それこそどうも、その……なんといったらいいか、円満な形式でね、――手っとり早くいえば、すっかり韻を踏んでるんだよ。フォマーが直してやったのだ。なに、わたしはもちろん、何も文句をいやしない。かえって喜んでいたくらいだ。勝手に書かしておけ、ただあまり悪ふざけさえしなければいい、と思ってね。おい、グリゴーリイ、おれは父親のようなつもりでいってるんだよ。ところが、フォマーがそれを聞きつけて、この男の作った詩を見ると、なかなかうまいというわけで、自分の読み役、兼書記ということにしたんだ、――一口にいえば、教養を授けたのさ。いまこの男が恩人といったのは、まったくの話なんだよ。まあ、こういうわけで、この男の頭に高潔なロマンチズムと、独立不驚の精神が湧き出したわけだ、――これはみんな、フォマーが説明してくれたことなんだが、わたしはもう大方わすれてしまった。ただ、実のところ、わたしはフォマーにいわれなくっても、この男を自由の身にしてやりたいと思ったんだ。なんだか恥ずかしいような気がするのでね!………ところが、フォマーはそれに反対で、この男は自分に必要な人間だ、自分はこの男が好きになったというのだ。おまけに、こんなことまでいうじゃないか。『わたしは貴族として、自分の雇人の中に詩人をかかえておくのは、世間に対して名誉になる。どこかの男爵もそんなふうにしていたが、それは en grand (上流風)というものだ』なんてね。いや、上流風《アングラン》なら 上流風《アングラン》でけっこうだ! そこで、セリョージャ、わたしはもうこの男を尊敬する気になったのさ――え、どうだい?……ただそれからというもの、この男の態度がすっかり変になって来たんだ。何よりもいけないのは、その詩一件以来、召使たちの前ですっかり高慢の鼻を高くしちゃって、みんなと口をきこうともしないんだ。グリゴーリイ、お前気を悪くしちゃいけないよ、わたしは父親のようなつもりでいってるんだからな。去年の冬、この男は結婚することになっていたのだ。相手の女は屋敷で使っているマトリョーナという娘で、正直によく働くかわいい陽気な女なんだ。それを急にいやだといい出してな、ごめんこうむるの一点ばりで、とうとう断わってしまった。急に慢心が起こったためか、それともまず初めに名前を売り出して、それからどこかほかで求婚するつもりなのか……」
「それはおもに、フォマー・フォミッチのお勧めによりましたので」とヴィドプリャーソフは口をいれた。「あの方は本当にわたしのためを思ってくださる方ですから……」
「ええ、そりゃもうフォマー・フォミッチなしじゃ、何もできるはずがないにきまってるさ!」とわたしは叫んだ。
「なあに、セリョージャ、問題はそんなことじゃないよ」と叔父はあわててさえぎった。「ただね、今じゃこの男はうっかりその辺も歩かれないんだ。その娘がきかん気のしっかり者でね、みんなをけしかけて、この男の敵にしてしまったものだから、みんながからかったり、いやがらせをやったりするんだ。餓鬼どもまでが、この男を道化扱いにするんだからね……」
「おもにマトリョーナのお蔭でございます」とヴィドプリャーソフはいった。「それというのも、あれが手のつけられない馬鹿女だからでございます。手のつけられない馬鹿女でありながら、おまけに慎しみのない性分なのでございます。わたしはあの女のお蔭で、こんな苦しい生涯を送ることになってしまいました」
「おい、グリゴーリイ、だからおれのいわないことじゃない」と、たしなめるようにヴィドプリャーソフを見やりながら、叔父は言葉をつづけた。「実はね、セルゲイ、だれかがこの男の苗字をもじって、下品な落首を作ったんだ。そこで先生、わたしにつきまとって、なんとかして苗字を変えてもらえないか、もう前から響きが悪くて困っております、とねだるのだ……」
「下品な苗字でございますよ」とヴィドプリャーソフは口をはさんだ。
「ええ、黙っていろというのに、グリゴーリイ! フォマーもやっぱり賛成した……いや、賛成したというわけじゃないが、こういう思わくがあるんだよ。フォマーは、これの詩を出版する計画があるので、万一それを発表するような場合には、こんな苗字は成功の邪魔になる、という考えなのさ」
「いったいほんとうに出版する気なんですか、叔父さん?」
「出版するんだよ。それはもう既定の事実だ、――費用は私持ちで、表紙には『某氏の農奴たれそれ』と書いて、序文には教養の恩人フォマーに対して著者が謝辞を呈することになっているんだ。本ぜんたいはフォマーにデジケートされて、フォマーが自分で序文を書くはずだ。え、まあ、考えてみてくれ、その本の表紙に『ヴィドプリャーソフの詩』と印刷されたらどうだろう……」
「『ヴィドプリャーソフの哀泣』ですよ」とヴィドプリャーソフは訂正した。
「ほう、おまけにまた哀泣と来た! ねえ、なんという苗字だろう? ヴィドプリャーソフ! これじゃ、読者のデリケートな感情を傷つける惧れがある、とこうフォマーはいうんだよ。批評家なんてものは、喧嘩好きの口悪な連中ばかりだから、例えば、あのブランベウスなどのように、どんなことだって平気でやっつけてしまう! ただ苗字だけのために難癖つけて、足腰も立たないほど小っぴどくやっつけるに相違ない、――とフォマーはいってるんだよ。ところが、わたしの考えじゃ、詩集にはどんな苗字をつけてもかまわないはずだ、――ペンネームといったかな、――よく覚えていたいが、なんでもしまいがムといったっけ。わたしがそういうと、この男はどうしてもいやだと強情を張るんだ。どうかこれから召使一同に、わたしを新しい名で呼ぶようにいいつけてください、わたしの才能に似つかわしい、高尚な苗字をつけたいのですから、ってな……」
「ぼく、賭けでもしますよ、叔父さん、あなたはきっと承知したんでしょう」
「セリョージャ、わたしはもう議論するのがいやになったものだから、勝手にしろと思ってね。あの当時、わたしとフォマーの間には、ごたごたがあったもんだから……で、それからというもの、一週間ごとに一つずつ苗字を変え出した。しかも、それがみんな、オレアンドロフとか、チュリパーノフとか、優美な名前ばかり選ぶんだよ……なあ、グリゴーリイヽそうだろう。お前は初めヴェールヌイ([#割り注]誠実な人を意味する[#割り注終わり])と呼んでくれ、グリゴーリイ・ヴェールヌイという名にしたいと頼んだ。ところが、間もなくだれか悪戯なやつが、この名をもじって、スクヴェールヌイ([#割り注]穢れた人を意味する[#割り注終わり])と弥次ったものだから、自分でつけた名がいやになってしまった。お前の訴訟で、悪戯者には罰を食わしたが、それから二週間というもの、お前は新しい苗字を決めるのに苦心したっけな。どれだけ考え出したか数知れずだが、とうとうはらがきまって、ウラーノフ([#割り注]槍騎兵から出ている[#割り注終わり])と呼んでくれという頼みだ。え、おい、ウラーノフくらい馬鹿げた苗字がどこにある? だが、わたしはそれも承諾して、お前の苗字をウラーノフと変えるように二度目の命令を出してやった。それはね、セルゲイ」と叔父はわたしのほうへふり向きながら、こういい足した。「ただいい加減に厄介払いがしたかったからだ。それから、グリゴーリイ、お前は三日の間ウラーノフで通した。そして、亭の壁という壁、窓仕切という窓仕切に、鉛筆でウラーノフと楽書をし散らしたものだから、あとで塗り替えなくちゃならなくなったよ。その上に、『ウラーノフ試筆、ウラーノフ試筆』というサインの練習で、舶来の紙を一帖、書き潰してしまったじゃないか。ところがそれも結局は失敗さ。ボルヴァーノフ([#割り注]間抜けを意味する[#割り注終わり])という同じ韻でもじったやつがあったので、ボルヴァーノフの親類なんかいやだといい出して、また改名騒ぎだ! 今度はどんなのを考え出したのか、おれはもう忘れてしまったよ」
「タンツェフでざいます([#割り注]プリャーソフは踊り、タンツェフはダンスを意味する言葉から来ている[#割り注終わり])」ヴィドプリャーソフは答えた。「もうわたしの苗字が踊りを表わす約束ごとになっているのなら、いっそ外国風にタンツェフと変えて、上品にしたほうがましでございます」
「いや、そう、タンツェフ。わたしはそれもやはり承諾したよ、セルゲイ。ところが、今度はもう口に出していえないような大変な苗字をもじってからかったものだから、今日もまたやって来て、何か新しいやつを考えたといい出したんだ。わたしは請け合っておくが、この男はもうちゃんと新しい苗字を用意しているに違いない。用意しているかいないか、グリゴーリイ、白状しろ!」
「わたくしはもうまったく以前から、新しい上品な苗字をお耳に入れようとぞんじておりました」
「なんというのだ?」
エスブケートフ」
「よく恥ずかしくないことだな。グリゴーリイ、よく恥ずかしくないことだな? そりゃポマードのビンからとった苗字じゃないか! それでも賢い人間といわれるかい! きっと長い間、この苗字を考え抜いたことだろう! だって、これは香水の瓶に書いてあるじゃないか」
「うっちゃって置きなさい、叔父さん」と、わたしは半ばささやくようにいった。「こいつは馬鹿なんですよ、手のつけられない馬鹿なんですよ!」
「だって、お前、仕方がないじゃないか」とおなじく小声で叔父は答えた。「みんなまわりのものが悧巧だ、悧巧だと囃したてて、こんなこともみんな高尚な感情の現われだ、などといってるんだからね……」
「お願いですから、こんなやつはいい加減に追い返しておしまいなさい!」
「おい、グリゴーリイ! おれは今ひまがないんだから堪忍してくれよ!」叔父はヴィドプリャーソフまで恐れてでもいるように、一種哀願的な調子でいい出した。「まあ、よく考えてもみてくれ、今お前の泣き言など聞いてる暇がどこにある! お前はまたなんとかして、みんなに侮辱されたというんだね! じゃ、よろしい、誓って明日は、万事の裁きをつけてやるから、今はいい加減に引きさがってくれ、ああ、ちょっと! フォマー・フォミッチはどうした?」
「おやすみになりました。だれか人がたずねたら、お祈りをしているといってくれ、今夜は長く祈祷するつもりだから、とこうおっしゃいました」
「ふむ! じゃよろしい、行ってもよろしい! 実はね、セリョージャ、あの男はいつもフォマーの傍についているものだから、わたしはあいつが少し怖いくらいだよ。それに、召使たちがあの男を嫌っているのだ、つまり、あいつがみんなのことをなんでもかでも、フォマー・フォミッチに告げ口するからなのさ。現に今も出て行ったが、明日になったら、また何か密告するかもしれないよ! ところが、わたしはあっちの方を万事すっかりまるく納めたので、今は本当に安心した気持ちで、お前のところへ急いでやって来たんだよ。ああ、やっとのことで、またお前と二人きりになれた!」わたしの手を握りしめながら、彼は情をこめてこういった。「わたしはね、お前がかんかんに怒ってしまって、必ずそっと逃げ出すに相違ないと、お前を張番するように人をよこしたくらいだよ。さあ、今こそ落ちついた、ありがたい! さっきガヴリーラはどうだった? それにファラレイといい、お前といい、――後から後からと重なっていったものだから! だが、いいあんばいだった、いいあんばいだった! やっとのことで、思う存分お前と話ができる。わたしはお前に腹の底まで割って見せるから、帰って行っちゃいけないよ、セリョージャ。わたしの相談相手はお前しかないんだ。お前とコローフキンと……」
「しかし、伺いますが、あなたはどんなふうにことをまとめて来たんです、叔父さん? それに、あんなことがあった後で、ぼくどんな期待をいだくことができると思いますか? 正直なところ、ぼくは頭が割れそうだんですよ!」
「じゃ、わたしの頭は平気だと思うのかい? わたしの頭はもうこれで半年というもの、ワルツを踊り通しだよ! しかし、ありがたいことに、今は何もかもまるく納まった。第一に、わたしもゆるしてもらえたよ。綺麗さっぱりとゆるしてもらえたのだ、もちろん、いろんな条件つきだがね。しかし、わたしはもうほとんど何一つ恐れはしない。サーシェンカもやはりゆるしてもらえた。サーシャ、さっきサーシャはどうだった……なんという激しい気性だろう! 少々前後を忘れはしたけれど、しかし世にも珍しい心だ! わたしはあの娘を自慢にしているよ、セリョージャ。どうかあの子の上に、いつもいつも神様の祝福がありますように! お前もゆるしてもらえたよ。しかも、それが素敵なんだ。お前はなんでも自分の好きなことをしてかまわない。部屋じゅう歩き廻っても、庭を散歩してもいいし、客の前へだって出てもかまわない、――一口にいえば、何でも御意のままなんだ。ただ一つの条件があってね、明日お母さんや、フォマー・フォミッチの前で、なんにもいわないようにするんだ。つまり、それこそ一言半句も口に出さないこと、これが固い条件になっているんだ、――わたしはお前の代わりにちゃんと約束して来たが、ただ目上の人たちの……いや、これはわたしの言いそこないだ……ただほかの人の話すことを、黙って聞いてるんだよ。あの人たちはお前のことを、若いといっていたよ。セルゲイ、腹をたてないでくれ。だって、お前は本当にまだ若いんだからね……アンナ・ニーロヴナもそういってたよ……」
 もちろん、わたしはまったくの若僧だった。で、こうした侮辱的な条件を聞くと、煮え返るような憤怒の色を顔に表わして、自分のほうからそれを証明してしまった。
「ねえ、叔父さん!」とわたしはほとんど息を切らせないばかりに叫んだ。「どうかたった一つだけぼくの疑問に答えて、ぼくの気を落ちつかせてください。いったいぼくは、本物の瘋癲病院にいるんですかどうでしょう?」
「それ、それ、お前はすぐにそう開き直ってしまう! どうしても我慢ができないのかなあ」と、叔父は情けなさそうに答えた。「けっして瘋癲病院でもなんでもありゃしない、ただ両方から激しすぎたばかりだよ。しかし、お前だって認めるだろうが、お前のやり方もちっとひどかったよ! 覚えてるだろう、お前はあの男を頭ごなしにやっつけたじゃないか、――いわば、世間から尊敬される相当な年輩の人をつかまえてさ」
「あんなやつに、相当の年輩も何もあるもんですか、叔父さん」
「いや、そりゃあんまり薬が利きすぎるよ! それはもう自由思想というものだ。わたしだって道理にかなった自由思想なら、別にいなやはないけれど、それはあまりといえば無法すぎる、それにはわたしも驚いたよ、セルゲイ」
「叔父さん、おこらないでください。ぼくが悪うございました。しかし、あなたにたいして悪いだけで、あなたのフォマー・フォミッチにいたっては……」
「ほう、さっそくあなた[#「あなた」に傍点]のと来た! なあ、セルゲイ、あまりやかましくあの男を批判しないでくれ。あれはただ人間嫌いなだけで、それっきりのものだよ。つまり、病的な人間なんだ! あの男にいろんなことを喧しく要求するわけにはいかない。だが、その代わり高潔な人物だよ、およそこの世に類のないほど高潔な人物だ! 現にお前もさっき自分で見たはずだが、まるで後光を放たないばかりだった。ときどき妙な手品をやって見せることなんか、見て見ないふりをしてればいいんだよ。だれだって、そんなことはあり勝ちさ」
「冗談じゃない、叔父さん、それどころか、だれがあんな真似をするもんですか?」
「ちょっ、馬鹿の一つ覚えだ! お前には寛容というものが足りないんだよ、セリョージャ。ゆるすということができないんだね!…………」
「いや、よろしい! 叔父さん、よろしい! この話はよしにしましょう。ときに、あなたはナスターシヤ・エヴグラーフォヴナに会いましたか?」
「なにをいってるんだ、問題はすべてあのひとのことばかりじゃないか。ところで、セリョージャ、まず第一に、いちばん大事な話をしておこう。わたしたちは、みんなでこう決めたんだよ、――明日は必ず、フォマーの誕生日を祝ってやろうってね。まったく明日はあの男の誕生日なんだよ。サーシェンカはいい子だけれど、あれは考え違いをしていたんだよ。明日は少し早めに、みんなうち揃って、祈祷式の始まらないうちに、あの男のところへお祝いに行こう。イリューシャは、あの男の気持ちがとろっとするような詩を朗読して聞かせるんだ。一口にいえば、ご機嫌をとってやるんだ。ああ、セリョージャ、お前もみんなといっしょになって、あの男にお祝いをいってくれるといいんだがな! そうしたら、すっかりお前をゆるしてくれるかもしれないよ。お前たち二人が仲直りをしてくれたら、どんなに嬉しいだろうな! セリョージャ、侮辱を忘れなくちゃいけないよ。お前だってあの男を侮辱したんじゃないか……あれはこの上もない立派な人物だよ」
「叔父さん! 叔父さん!」とうとう堪忍袋の緒を切らして、わたしはこう叫んだ。「ぼくは用談をしようと思っているのに、あなたは……もう一度くり返していいますが、いったいナスターシヤ・エヴグラーフォヴナがどういうことになっているか、ごぞんじですか?」
「知らなくってさ、セリョージャ、お前は何をいうのだ! なんだってそう大きな声をするんだ? つまり、あのひとがもとで、さっきもあんな騒ぎが起こったんじゃないか。もっとも、それはさっき起こったんじゃなくて、もう前から持ちあがっていたんだ。わたしはお前をびっくりさせまいと思って、別にこの話をしないでいたけれども、みんなは無理無体にあのひとを追い出そうとして、わたしにも暇を出せと喧しくいうんだよ。どうかわたしの立場を察しておくれ……だが、まあいいあんばいに、今ではそれもすっかりまるく納まった。実はね、もう何もかもお前にうち明けてしまうがね、――みんなはわたし自身があのひとに惚れこんで、結婚するつもりでいると考えたんだ。つまり、滅亡の淵へ向かって突進していたというんだ。実際、それは滅亡の淵へとび込んで行くようなものだからね。みんなもその点をよくわたしに説明してくれたよ……そういうわけで、わたしを救うために、あのひとを追い出すことに決めたのだ。それはみんなお母さんの差金だが、だれよりも一番アンナ・ニーロヴナがやっきとなっているんだよ。フォマーは今のところ沈黙を守っている。しかし、今度という今度は、わたしもみんなの迷いを解いてしまった。白状するが、お前がナスチェンカの正式の許婚《いいなずけ》で、つまり、そのためにわざわざやって来たのだと、もうみんなに披露してしまったんだよ。そこで、みんなも多少安心して、あのひともここへ居残ることになった。すっかりそうと決まったわけじゃないけれど、当分、試験といった形で、とにかく、居残ることになったのだ。わたしがお前の求婚の話をした時、お前までが急にみんなの信用を回復したくらいだ。少なくも、お母さんは安心したらしい。ただアンナ・ニーロヴナだけは、まだぶつぶついってるよ! いったいどうしたらあのひとの気に入るのか、ほとほと思案につきてしまうよ。まったく、あのアンナ・ニーロヴナという人は、どうしてほしいんだろうな?」
「叔父さん、あなたはとんでもない考え違いをしておられますよ、叔父さん! いったいごぞんじないんですか、ナスターシヤ・エヴグラーフォヴナは、明日にもここから出て行こうとしているんですよ。ひょっとしたら、今ごろもう行ってしまったかもしれませんよ。父親が今日やって来たのも、つまり、あのひとを連れて帰るためなんですよ。それをごぞんじないんですか? これはもう間違いなく決定したことで、あのひとがきょう自分でぼくに言明したんですよ。あのひとは最後にあなたへよろしくといったくらいですが、いったいあなたはそれをごぞんじないんですか?」
 叔父はあきれて口を開いたまま、その場に立ちすくんでしまった。わたしは。彼がぴくっと身慄いして、胸から呻き声を洩らしたように思われた。
 わたしは一刻の時間も無駄にすまいと急いで、ナスチェンカとの対話を洩れなく伝えた。わたしが結婚を申し込んで、彼女から断固たる拒絶を受けたことや、わたしを手紙で呼び寄せた叔父の行為を、彼女が憤慨していることなど物語った後、彼女が自分の身をひくことによって、タチヤーナと叔父の結婚を破談にしようと望んでいることなど、くわしく話して聞かせた、――一口にいえば、わたしは何ひとつ隠しだてしなかったのである。それどころか、この話の不快な部分を、わざと誇張したくらいである。わたしは叔父に断固たる処置をとらせるために、うんと度胆を抜こうという計画だったが、はたして度胆を抜いてしまった。彼はあっと叫んで、両手で頭をひっかかえた。
「あのひとはどこにいる、お前知らないかい? あのひとは今どこにいる?」驚きのあまり真っ青になってしまった叔父は、やっとのことでこういった。「わたしは馬鹿だもんだから、ここへ来る道々も、万事まるく納まったものと思って安心しきっていたのに」と彼は絶望の様でいい足した。
「今どこにいるか知りませんね。たださっき例の叫び声が始まった時、あなたのところへ出かけて行きましたよ。あのひとはみんなの前で堂々と、何もかもいってしまうつもりだったんですが、たぶん通してもらえなかったんでしょう」
「通してたまるものかね! そんなことをしたら、あのひとは何を仕出かしたか知れやしない! 本当に誇りの強い熱しやすい娘だからな! いったいどこへ行くつもりだろう、どこへ? どこへ? それに、お前も、お前も間が抜けてるじゃないか! いったいあのひとはなぜお前を拒絶したんだろう? 馬鹿な話だ! お前はどうしても、気に入られなくちゃならないはずだったんだ。なぜお前が気に入らなかったんだろうな? さあ、返事してくれ、後生だから、なんだってぼんやり突っ立ってるんだ?」
「お手やわらかに願いますよ、叔父さん! そんなことをずけずけきくやつがあるもんですか?」
「しかし、そんなはずがないじゃないか! お前はどうしても、どうしてもあのひとと結婚しなくちゃならないんだ。いったいなんのために、わざわざお前をペテルブルグくんだりから呼び寄せたと思う? お前はあのひとを幸福にしなけりゃならないんだ! 今でこそみんながかりで、あのひとをここから追い出そうとしているけれど、いったんお前の妻となった以上、あのひとはわたしの姪にあたるわけだから、追い出そうたって追い出せるものじゃない。いったいあのひとはどこへ行くつもりなんだろう? いったいあのひとはどうなるんだろう? また家庭教師にでもなるつもりか? しかし、家庭教師なんて、そんなことは馬鹿げきった無意味な話だ! だって、口をさがし当てるまでの間、家ではどうして暮らすつもりなんだ? あの老人は、九人からの家族を背負ってるんじゃないか。しかも、食うや食わずの有様でいるんだからな。第一、そんな穢らわしい言いがかりを受けて出て行くとなれば、あのひとにしても親父さんにしても、わたしから一文も金を取りゃしないよ。そんなふうにして出て行ったらどうなると思う、――考えても恐ろしい! また家でも騒ぎが始まるにきまっている。家が困るものだから、給料はもうずっと前からさき借りになっているんだ。なにしろ、あのひとがみんなを養っているんだからな。まあ、仮りにわたしがれっきとした上品な家庭を見つけて、あのひとを家庭教師に紹介するとしても……結局だめの皮だ! 潔白な、本当に潔白な人間なんて、どこをさがしたってありゃしない。いや、こんなことをいっては神様の罰があたる、――まあ、仮りに潔白な人は大勢いるとしてもいい! しかし、セリョージャ、それにしてもやはり危いからな。人を信頼することなんか、できるもんじゃないよ。それに、貧しい人というものは猜疑心が強いから、食べさしてかわいがってもらうかわりに、屈辱で代償させられるような気がしてならないものだ! 世間があのひとを侮辱すると、誇りの強いたちだから、それこそどんなことになるか知れやしない! おまけに、だれかずうずうしい色魔でも現われたらどうする?……あのひとはそんなやつに唾をひっかけるに決まってる、――そりゃちゃんとわかっているが、――それでもとにかく、その悪党はあのひとを侮辱するに違いない! なんといっても、疑惑の影があの女の上に落ちて来て、あのひとの名に傷がつくに違いない。その時は!………ああ、頭が割れそうだ! いったいどうしたらいいだろう!」
「叔父さん! たった一つだけ質問を許してください」とわたしは荘重な態度でいい出した。
「どうか腹をたてないで、この質問にたいする答が事件の解決にあずかって力があることを、よく合点していただきたいのです。ぼくはある程度まで、あなたから答えを要求する権利さえ持っているくらいですよ、叔父さん!」
「なんだ、いったいなにごとだ? どういう質問だ?」
「どうか神様の前へ出たつもりで、まっすぐにうち明けていってください。あなたはご自分でも、ナスターシヤ・エヴグラーフォヴナに恋しているような気がしませんか? あのひとと結婚したいと思ってるんじゃありませんか? よく考えてごらんなさい、つまりそのために、あのひとはここから追い出されようとしてるんですよ」
 叔父は痙攣でも起こしそうなほど、激しい焦躁の念を現わして、力いっぱい大きく手を振った。
「わたしが? 恋している? あのひとに? 本当にだれもかれも血迷ってしまったのか、それでなければ、結託してわたしを陥れようとしているんだ。わたしがお前をわざわざここへ呼び寄せたのも、やつらが血迷っているということを、みんなに証明してやるためじゃないか。いったいなんのためにあのひとをお前に世話しようと骨折っていると思う? わたしが? 恋している? あのひとに? みんな、だれもかれもが気が触れてるんだ! それだけのことだ!」
「そういうわけなら、叔父さん、ぼくにもすっかりいわせてください。ぼくは堂々と声明しますが、この推測には断じて何も悪いことはありません。それどころか、それほどあのひとを愛していらっしゃるとすれば、あなたはあのひとを幸福にしてお上げになることができますよ、――そしてまた、そうなることを望みますよ! どうかお二人の愛と平和が永久に変わらないように!」
「とんでもない、お前は何をいうのだ!」叔父はほとんどぞっとしたように叫んだ。「どうしてそんなことを平気な顔で いえるのか、あきれ返ってしまう……それに……全体お前は始終どこかへ急いでいるようだよ、――どうもお前にはそう いう癖がある! え、お前のいったことは、無意味千万な話じゃないか? わたしはあのひとをただただ娘のように思っているのに、どうして結婚なんかできるのか、考えてみるが いい。わたしは父親としてよりほかの目で、あのひとを見るのさえも恥ずかしいくらいだ。それはもう罪だよ! わたしは老人なのに、あのひとは蕾の花だ! フォマーでさえも、わたしにそういって聞かせたよ、これとおんなじような言葉でね。わたしの心は、あのひとに対する父親として愛情に燃えているのに、お前は結婚話など持ち出すんだからな! そりゃ或いはあのひとも感謝の情のために、その話を拒絶しないかもしれないけれど、感謝の情を利用した人間だといって、後でわたしを軽蔑するようになるだろう。わたしはあのひとの一生を台なしにして、その愛情を失ってしまうのだ! わたしはあのひとのためには命を投げ出してもいいくらいに思っているけれど、それはサーシャを愛する気持ちと同じことだ。いや、正直に白状するが、それよりもっと強いくらいだ。サーシャは法律からいっても当然わたしの娘だが、あのひとはわたしが自分の愛でもって娘と同じにしたのだ。わたしはあのひとを貧乏の底から拾いあげて、育ててやったのだからな。亡くなったカーチャも、あのひとをかわいがっていたっけ。カーチャは、あのひとを娘分にしてくれと、遺言していったんだよ。わたしはあのひとに教養を授けて、フランス語を話すことでも、ピアノを弾くことでも、本を読むことでも、なんでもできるようにしてやった……あのひとの笑顔といったらどうだ! お前も気がついたろう、セリョージャ? あれはお前を冷笑しているように見えるけれど、けっして冷笑なんかしてるんじゃない、それどころか、愛しているんだよ……お前がやって来て、あのひとに求婚してくれたら、みんなもわたしがあのひとに野心などないことを信用して、ああいう穢らわしい噂をふりまかなくなるだろう。そうすれば、あのひともずっとわたしたちといっしょに暮らして、すべてが穏かに平和になってしまう。そうしたら、わたしたちはどんなに仕合わせだろう、――こうわたしは空想していたのだよ! お前たちは二人ともわたしの子供同然だ。二人とも頼りない身の上で、わたしが手塩にかけて大きくしたんだから……わたしはお前たちが好きで好きでたまらないんだ。お前たちのためなら、命を投げ出してもかまわない。けっしてお前たちと別れやしない、どこまでもお前たちの後からついて行く! ああ、わたしたちはどんなにでも幸福になれるんだがなあ! なぜ、人間はああお互いに憎み合って、腹をたてたり、意地悪をしたりするんだろう? わたしは一つ思いきって、あの人たちによくいい聞かせてやりたいくらいだ! 胸の真実をさらけ出して見せたいよ! ああ、情けない!」
「そうです、叔父さん、そりゃそのとおりなんですが、しかしあのひとはぼくの求婚を拒絶したじゃありませんか」
「拒絶した! ふむ!………実はわたしもあのひとが拒絶しやしないかと、虫が知らせるような気がしたんだよ」と彼はもの思わしげにいい出した。「だが、そんなことはない!」と、彼は叫んだ。「わたしは本当にしない! そんなことがあるはずはない。それじゃ何もかもぶち毀しになってしまう! きっとお前は不用意なきり出し方をして、あのひとを怒らせるようなことをいったのかもしれないね。ひょっとしたら、やたらにから世辞でもふりまいて……セルゲイ、もう一度その時の様子を聞かしておくれ!」
 わたしはもう一どことこまかにいっさいを話した。ナスチェンカが自分の身をひいて、タチヤーナ・イヴァーノヴナとの縁談から叔父を救おうといったところまで来ると、叔父はにやりと苦笑いを洩らした。
「救うんだって!」と、彼はいった。「明日の朝まで救うのかね!」
「しかし、叔父さん、あなたはタチヤーナ・イヴァーノヴナと結婚するつもりだなどと、そんなことをおっしゃるつもりじゃないでしょうね!」とわたしはびっくりして叫んだ。
「ナスチャが明日ここから追い出されないようにするためには、ほかにどんな方法があると思う? 明日にもさっそく申込みをするんだ、――改まってちゃんと約束したんだよ」
「その決心をしたんですか、叔父さん?」
「どうも仕方がないじゃないか、お前、なんとも仕方がないよ! わたしは胸をひき裂かれるようにつらいんだけれど、しかしもう決心してしまった。あす求婚するんだ。式はそっと内輪にするつもりだ。そのほうがいいよ、内輪の方がね。お前はたぶん介添人になるだろう。わたしはもうそのことを匂わせておいたから、しばらくはお前も追いたてられないですむよ。どうも仕方がないさ! みんなは『子供たちのために、財産を殖やせ』というんだよ。もちろん子供のためには、どんなことだってしなくちゃならんからな。逆立ちだってして歩くさ。ことに本当のところは、みんなのいうとおりかもしれないからね。実際、わたしも家族のために、何かしてやらなければならないわけさ。いつまでものらくらばかりしていられないからね!」
「しかし、叔父さん、あの女は気ちがいじゃありませんか!」とわたしはわれを忘れて叫んだ。わたしの心臓は病的に縮んだ。
「おやおや、今度はもう気ちがいか! けっして気ちがいじゃありゃしない、ただあんまり不仕合わせな目を見たものだから……仕方がないよ、セリョージャ、そりゃもっと賢いほうがいいに決まってるけれど……しかし賢いばかりで、とんでもない女がよくいるからな! ところが、あのひとは実にいい人だよ、お前は知らないだろうけれど、実に潔白な人だよ!」
「ああ、なんということだ、あの人はもうそんな気休めで、諦めをつけようとしてるんだ!」とわたしは絶望したように叫んだ。
「だって、それよりほかにどうも仕方がないじゃないか。ほかならぬわたしの身のために骨折ってくれてるんだからな。それに遅かれ早かれ、逃げ道がなくなって、無理やりに結婚させられるに相違ないと、はっきり見透しがついているんだよ。そうしてみれば、喧嘩騒ぎにならない今のうちに、決めてしまったほうが悧巧じゃないか。セリョージャ、ざっくばらんに何もかもいってしまうが、わたしはある意味からいって、喜んでいるくらいなんだよ。決心したものは決心したもので、少なくとも肩から重荷をおろしたような気持ちだ、――なんだか安心したようなところもあるよ。現に、ここへ来る途中も、すっかり落ちついた気持ちだったよ。これがわたしの運命だとみえる! 何よりも、ナスチャがこの家に残ってくれるということが一番の儲けものだよ。つまり、その条件つきでわたしも承知したんだからな。ところが、あのひとは自分のほうからここを逃げ出そうとしている! そんなことをさせてたまるものか!」と叔父は足ぶみをしながら叫んだ。「ねえ、セルゲイ」彼は決然とした様子でこういい足した。「どこへも行かないでここで待っていておくれ。わたしはすぐに引っ返すから」
「どこへ行くんです、叔父さん?」
「あのひとに会って来たいと思うんだよ。セルゲイ、そうすれば、何もかもはっきりしてしまう。本当だよ、何もかもはっきりしてしまう。そして……そして……お前はあのひとと結婚するんだ、――わたしは誓っていうよ!」
 叔父は急ぎ足に部屋を出て、母屋のほうでなしに庭のほうへ向けて行った。わたしは窓からその後を目送した。
[#3字下げ]12大椿事[#「12大椿事」は中見出し]
 わたしはたった一人とり残された。わたしの立場は、たまらないほど苦しかった。わたしはちゃんと拒絶を受けているのに、叔父はほとんど力ずくで結婚させようとしているのだ。わたしは当惑してしまって、考えることもしどろもどろだった。ミジンチコフとその提議が、わたしの頭にこびりついて離れなかった。是が非でも叔父を救わなければならない! わたしはミジンチコフをさがし出して、何もかも話してしまおうかとさえ考えた。けれど、いったい叔父はどこへ行ったのだろう? ナスチェンカをさがしに行くといいながら、庭のほうへ曲って行ってしまった。秘密の逢びきという考えが、ちらとわたしの頭をかすめ、なんともいわれないいやな気持ちに胸をしめつけられた。ミジンチコフのいった私通という言葉も、ふと思い出された……ややしばらく考えた後、わたしは奮然としていっさいの疑念を払いのけてしまった。叔父が嘘などつくはずがない。それは明瞭なことだった。わたしの不安は一刻ごとにつのっていった。わたしは無意識に表へ出て、叔父の姿を消した並木道づたいに、庭の奥のほうへ向かって行った。ちょうど月の出だった。わたしはこの庭の隅々までも知り抜いていたので、道に迷う心配などなかった。一面に青藻の浮いている古池の岸に立っているものさびた亭のそばまで辿り着いた時、わたしは思わず釘づけにされたように、ぴったり足をとめた。亭の中から人の話声が洩れて来たのである。どんなに奇怪ないまいましい感情がわたしの胸を襲ったか、言葉に尽くせないほどである! 叔父とナスチェンカだ、とわたしは信じて疑わなかった。わたしは前と同じ歩き方をしているだけで、別に忍び寄っているのではないという口実で、しいて自分の良心を落ちつかせながら、なおもそばへ近づいて行った。不意に紛れもない接吻の響きが聞こえ、つづいて妙にはずんだ言葉が洩れたと思うと、すぐそれにつづいて、きぬを裂くような女の叫びが起こった。と、同時に、白衣の女が亭から飛び出して、燕のようにわたしのそばをかすめて行った。女は見咎められないように、両手で顔を隠しているようにさえ見えた。亭の中から、わたしの人影に気づいたものにちがいない。けれども、あわてて逃げ出した女の後から亭を出て来た男が、オブノースキンだと気がついた時、わたしの驚きはどんなだったろう、――ミジンチコンの言葉によれば、オブノースキンはもうとっくに帰ったはずではないか! オブノースキンのほうでも、わたしを見ると恐ろしくまごついてしまった。いつものずうずうしさは跡かたもなくなっていた。
「ごめんなさい……ここでお目にかかろうとは、思いもかけなかったものですから」と、彼は微笑を浮かべながら、吃り吃りこういった。
「ぼくのほうでこそ」とわたしは嘲るように答えた。「ことに、あなたがもうお帰りになったと、聞いていたものですから」
「いや……それはちょっとそこまで出かけただけなんです……母を見送りにね。ときに、あなたをこの世で最も高潔な人と見込んで、お願いしたいことがあるんですが?」
「それはどういうご用で?」
「あなたもわかってくださるでしょうが、この世にはしんじつ高潔な人間が、いま一人のしんじつ高潔な人間の高潔なる心情に訴えざるを得ないような場合が、ままあるものです……あなたはわかってくださると思いますが……」
「そんなことを考えないでください、わたしはなんにもわからないんですから」
「あなたは、いまわたしといっしょに亭にいた婦人をごらんになりましたか?」
「見ましたが、だれかわかりませんでしたよ」
「ああ、わからなかったんですって……あの婦人をわたしは間もなく妻と呼ぶようになりましょう」
「おめでとう。しかし、わたしにご用とおっしゃるのは、なんですか」
「たった一つだけお願いです。わたしがあの婦人といっしょにいたことを、絶対秘密にしていただきたいんです」
『いったいあれは何者だろう?』とわたしは考えた。『まさかあの……』
「さあ、どうしたものでしょう」とわたしはオブノースキンに答えた。「失礼はおゆるしを願わなくちゃなりませんが、そのお約束はできかねます」
「いや、お願いですからどうぞ」と、オブノースキンは哀願した。「わたしの立場を察してください。これは秘密なんですから。あなたも恋人の立場におなりになることもあるでしょうから、そのときわたしも……」
「しっ! だれか来る!」
「どこに?」まったく、わたしたちから三十歩ばかり隔った辺を、静かに通り過ぎる人の影が、かすかに見透かされた。
「あれは……あれはフォマー・フォミッチに相違ない!」とオブノースキンは、全身わなわなと慄わせながらささやいた。「あの歩きっぷりですぐわかる。やっ! また別のほうから足音がする! 聞こえるでしょう……じゃ、さようなら! ありがとう……お願いします……」
 オブノースキンは姿を隠した。一分ばかりたった時、まるで地から湧き出したように、叔父がわたしの前に姿を現わした。
「お前かい?」と彼は声をかけた。「何もかも駄目になってしまった、セリョージャ、なにもかも駄目になってしまったよ!」
 叔父までが体じゅう慄わしているのに、わたしは気がついた。
「何が駄目になったんです、叔父さん?」
「まあ、行こう!」彼は息を切らしながらそういって、ぐっとわたしの腕をつかむと、ぐんぐん引っぱって行った。離れへ辿り着くまで、彼はひと言も口をきかないし、わたしにもものをいわせなかった。わたしは何か超自然的なことを期待していたが、その期待はほとんど誤りでなかった。わたしたちが部屋へ入った時、叔父は急に気分が悪くなって来た。彼は死人のように真っ青な顔をしていた。わたしはさっそく水を吹きかけてやった。『きっと、何か容易ならぬことが起こったに相違ない』とわたしは考えた。『こんな人が気絶しそうになるくらいだからな』
「叔父さん、いったいどうしたんです?」とうとうわたしはこう問いかけた。
「何もかも駄目になってしまったよ、セリョージャ! わたしがナスチェンカと庭にいるところを、フォマーが見つけたんだよ。わたしがあれを接吻している時……」
「接吻したんですって! 庭で!」あきれて叔父の顔を見ながら、わたしは叫んだ。
「そうだよ、庭でね。つい魔がさしたんだ! わたしは、ぜひあれに会おうと思って、出かけて行ったんだ。すっかりいって聞かせて、得心させようと思ったんだ、つまり、お前のことをさ。あのひとはもうまる一時間も、池の向こう側にある毀れたベンチのそばでわたしを待っていたんだ……あのひとはいつもわたしと話す用がある時、始終そこへやって来るんでね」
「始終ですって、叔父さん?」
「ああ始終なんだよ! 最近はほとんど毎晩のように落ち合っていた。ところが、あの連中はそいつを嗅ぎ出したんだ、――嗅ぎ出したのは、ちゃんとわかりきっている。アンナ・ニーロヴナが一生懸命に忠勤をはげんだのは、わたしも知っているんだ。そこで、わたしたちも一時中止して、四日ばかりは何ごともなかったのだが、今日また必要が起こったのでね、どんな必要に迫られたか、それはお前も知っているとおりだ。さもなければ、あのひとと話なんかすることはないんだから。で、わたしはあのひとに会えると思って、行ってみると、向こうもわたしを待ち受けて、まる一時間もそこに腰かけていた、というわけだ。やはり何か知らせたいことがあったとかで……」
「ああ、なんという軽率なことでしょう! みんながあなた方の後ろをつけ狙っているのは、自分でも承知していらっしゃるじゃありませんか?」
「ああ、しかし非常な場合だからね、セリョージャ。お互いにいろいろ話し合わなくちゃならないことがあったんだ。昼間は、あのひとの顔を見るのさえはばかるようにして、向こうが一方の隅を睨んでると、わたしも反対の隅を睨みながら、あのひとがこの世にいるということさえ、気がつかないようなふりをしているのだが、夜になると、両方から落ち合って、思う存分話し合うのだ……」
「それでどうしました、叔父さん?」
「わたしはまだふた言とものをいわないうちに、――心臓がどきどきして、目から涙が流れ出すのだ。わたしは、お前と結婚するように、あのひとを説き伏せようとかかったが、あのひとはこういうのだ。『あなたはきっとわたしを愛してくださらないんでしょう、――あなたはなんにもおわかりにならないんですわ』そして、不意にわたしの胸に身を投げて、両手で頸筋をじっと抱きしめながら、しゃくり上げて泣き出すじゃないか!『わたしはあなた一人だけを愛しているのですから、だれとも結婚なんかしません。わたしはもう前からあなたを愛しているんです。だけど、あなたとも結婚しません。わたしは明日にもこの家を出て、修道院へ行ってしまいます』とこういうのだ」
「えっ! まあ、そんなことをいったんですか? で、それからどうしました、それから先は、叔父さん?」
「見ると、わたしたちの前にフォマーが立っているじゃないか! いったいどこから出て来たのだろう? 薮の中にでも隠れていて、この瞬間を待っていたのだろうか?」
「卑怯者め!」
「わたしは気が遠くなってしまうし、ナスチェンカは逃げて行ってしまった。フォマー・フォミッチは黙ってわたしのそばを通り抜けながら、指を一本立てて、おどかすような真似をしたよ、セルゲイ、明日はどんな騒ぎが持ちあがるか、お前、想像もつかないだろうよ!」
「それくらいの想像がつかなくてたまるものですか!」
「ああ、考えてもみておくれ!」彼は椅子から躍りあがりながら、絶望したように叫んだ。「考えてもみておくれ、あの連中は、あのひとの顔に泥を塗って、あのひとを傷物にしよ