『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

『分身』(ドストエフスキー作、米川正夫訳)P185ー234(1回目の校正完了)

イ・フィリッポヴィチとお笑いになっていたという話だから」
「お笑いになったんですって、アンドレイ・フィリッポヴィチと?」
「そう、ほんのちょっとにやりとなすって、よろしいとおっしゃったそうだ。閣下にしてみれば、別にそんなことはかまわない、ただ、忠実に勤めてくれればいい、というわけなんだろう」
「ははあ、それから? お話をうかがって、わたしも多少元気づいてきたくらいですよ。アントン・アントーノヴィチ。それからどうなりました、後生です、聞かしてください」
「失礼だが、きみはまたどうやら……いや、なに、その、なんでもないよ。別に大して不思議な話じゃなし、さっきからいっているとおり、気に病むことはないさ、そして、この件に何か怪しいところがあるなんて邪推しないことだね……」
「いえ、そうじゃありません。アントン・アントーノヴィチ、わたしがおたずねしたいのは、それから後に閣下が何かおつけ足しにはならなかったか、ということなんです……たとえば、わたしに関して」
「というと、いったい何を? ははあ! いや、なあに大丈夫、それはすっかり安心していていいよ。まあ、そりゃもちろん、かなりおどろくべきことだが、初めのうちは……そのまったく、早い話が、わたしなども初めはほとんど気がつかなかったくらいだよ。どうしてきみにいわれるまで気がつかんでいたのか、ほとほと合点が行かないね。だが、きみ、安心して可なりだよ。何も変わったことはおっしゃらなかったから、まったく何一つ」と人の好いアントン・アントーノヴィチはいすを立ちながらつけ加えた。
「そこでわたしは、アントン・アントーノヴィチ……」
「いや、もう失敬するよ。どうもつまらんおしゃべりをしてしまって。大切な急ぎの用事があるのに。ひとつ照会して来たくちゃならないんだ」
「アントン・アントーノヴィチ!」というアンドレイ・フィリッポヴィチの慇懃な声が聞こえた。――閣下のお召しなのである。
「今すぐ、今すぐ、アンドレイ・フィリッポヴィチ、今行きます」と答えて、アンドレイ・フィリッポヴィチは一束の書類を抱えて、はじめまずアンドレイ・フィリッポヴィチのところへ、それから閣下の部屋へ飛んで行った。
『いや、これはなんとしたことだ?』とゴリャードキン氏は自問した。『どうやらおれ達のいきさつは様子が変わって来たらしいぞ! 今度は風の吹きまわしがこんな具合になったんだな……これも悪くないぞ。事件はじつにうまい具合に方向転換してくれるぞ』とわが主人公は嬉しさにもみ手をし、小おどりせんばかりのていでひとりごちた。『してみると、これはありふれたことなんだ。何もかも平凡無事に終わりを告げて何の解決も見られそうもない。まったくのところだれも彼もけろりとして、うんともすっともいやしない、泥棒めら、みんなすまして坐って、仕事をしていやがる。うまいぞ、うまいぞ! おれは善人を愛する、今までも愛していたし、これからもいつだって尊敬する……がそれにしても、その、なんと考えたらいいのか、あのアントン・アントーノヴィチは……信用するとひどい目にあうぞ。なにしろ、頭もすっかり白くなっているし、年のためにかなりよぼついてきているからな。しかし、何よりもありがたい大したことは、閣下が何もおっしゃらないで、そのまま見のがしておしまいになったということだ。こいつはいい! 賛成だ! ただアンドレイ・フィリッポヴィチは、なんだって変なひひひ笑いをしながら、口を出してるんだろう? 古狸め? いつでも俺の行く手に立って邪魔をしやがる。いつでも黒猫のように、ひとの歩いてる鼻先を道切りしやがる、いつでもひとに茶々を入れて、ちょっかいを出しやがる、ちょっかいを出して茶茶を入れやがる……』 ゴリャードキン氏は再びあたりを見まわして、再び希望を感じ、元気づいてきた。にもかかわらず、彼は一つの漠とした想念に心をかき乱されているのを感じた。それは何かしら 一種よからぬ想念であった。彼は何とかして役人連の同情をえようと、こっそりと目立たぬように先まわりし(たとえば、役所の帰りみちか、それとも用事にかこつけて傍へ近寄るなりして)、世間話の間にさりげなく、――諸君、かくかくしかじかで、いやはや、じつに驚くべき似通い方だ、不思議なことではないか、まるで茶番めいた喜劇じゃないか、といったようなことをほのめかしてやろう、――つまり自分の方からこの一件を冗談扱いにして、それで危険の程度を測ってみよう、という考えさえ頭に浮かんだのである。なにしろ音のせぬ静かな所が、かえって怪しいのだからな、とわが主人公は心の中で結論した。しかし、ゴリャードキン氏はただそう思っただけで、またいち早く考え直した。それはやりすぎだ、と彼は悟った。『お前の性分はいつもそんなふうなのだ』彼は自分の額を軽くぽんと叩いて、こうひとりごちた。『嬉しまぎれにすぐ踊りだすんだからな! おめでたくできていやがる! いや、ヤーコフ・ペトローヴィチ、まあ、も少し辛抱して待っていようじゃないか!』とはいうものの、すでに述べたごとく、ゴリャードキン氏の胸は希望で一杯になって、まるで死人が生き返ったかのようであった。『やれやれ』と彼は考えた。『まるで五百プード([#割り注]一プードは一六・三八キログラム[#割り注終わり])の重石が胸の上から取りのけられたようだ! いや、どうも妙な事情だな! 手函の蓋([#割り注]クルイロフの寓意詩『手函』。手函の蓋に何か仕掛けがあるものと早合点して、さんざん頭を捻りながらいじくりまわしたあげく、函は普通の作りで、蓋はただ当たり前に開けさえすればよかった、という話[#割り注終わり])は何の力らくりもなしにすっと開くんじゃないか。まさしくクルイロフのいったとおりだて……クルイロフのいったことは本当だ、大したもんだ、えらい奴だよ、あのクルイロフって男は、じつに偉大な寓話作家だ! ところであの男のことだが、あれは勝手に勤めさせておけ、まあ、ご勝手に勤務なさいましだ、ただし、だれの邪魔もせず、だれにもちょっかいを出さなければ、だ。勝手に勤めるがいい、――異存なしだ、承認するよ!』
 とかくするうちに、時間はどんどん経っていって、いつの間にか四時を打ってしまった。役所は閉庁になった。アンドレイ・フィリッポヴィチは帽子に手をかけた。すると、いつものとおり、一同その例にならった。ゴリャードキン氏は、ちょっとぐずぐずして、必要なだけの時間を遅らせ、もはや一同がそれぞれの道筋へ散ってしまった頃を見はからって、わざと、一番あとからしんがりになって外へ出た。通りへ出ると、彼は天国へでも入ったような気持になり、いくらかまわり路をして、ネーフスキイ通りをぶらつきたい欲望を感じたほどである。『運命ってやつは妙なもんだなあ!』とわが主人公はいった。『局面が思いがけない転換をしてくれた。それに天気もよくなったし、凍《いて》の具合も気持ちがいいし、橇も走っている。寒さというやつはロシヤ人にむいているんだ、ロシヤ人は寒さをうまく生活に順応さしているよ。おれはロシヤ人が好きだ。初雪、粉雪、猟師なら、この初雪に兎を追いたいもんだなあ、というところだ! やあれやれ! いや、まあ、けっこうだ』
 ゴリャードキン氏の感激はこんなふうに表現された。が、それにもかかわらず、何かしらやはり彼の頭の中をまわるような気がした。――憂愁というほどでもないけれど、時おり胸にぐっぐっと差しこんでくるものがあった。ゴリャードキン氏は、どうして自分を慰めたらいいか、わからなかった。『だが、もう一日待ってみよう、そうしたら、喜び合えるようになるのだ。それにしても、いったいどうしたというのだろう? ひとつ、とっくりと考えてみようじゃないか。さあ、お互いによく考えてみようよ、わが若き友、ね、考えてみようよ。さてと、第一に、ぼくはきみと同じような人間だ、何から何までそっくり同じだ。ところで、それがいったいどうしたというのだ? 同じような人間だったら、おれは泣かなけりゃならんとでもいうのかね? おれがそもそもどうしたのだ? おれは高みの見物で、口笛でも吹いてりゃいいのじゃないか、それだけのことさ! またその覚悟でやり出したんだ。だから、それでいいじゃないか! あの男は勝手に勤めさせておいたらいいのさ! みんなはところが、やれ、奇蹟だ、やれ、不思議だ、シャムの双生児《ふたご》だ、なんていってる……ちぇっ、そんなもの、シャムの双生児なんてものを、いったいなんのためにもち出すんだ? かりに双生児だとしてもそれが何だ? おえらい人達だって、時には変人に見られることもあるじゃないか。有名なスヴォーロフ元帥が鷄の啼き声をしたってことは、歴史にだって知れ渡っているからな……まあ、それは政策のためにやったことなので、偉大な軍指揮官たちも……だが、しかし偉大な軍指揮官がどうしたんだ? 現にこのおれだって一個の人間だもの、それだけでたくさんじゃないか、人のことなんかかまったものじゃない、おれは自分が公明正大だから、敵を軽蔑してやるんだ。おれは陰謀家じゃないから、それを誇りとしている。潔白で、直情径行で、清廉で、愉快で、悪気のない人間で……』
 と、ふいにゴリャードキン氏は腰を折られて口をつぐみ、木の葉のように慄え出し、つかの間、目さえ閉じたほどである。自分の恐怖の対象が、単なる幻影であれかしと念じながら、彼はついに目を開けて、おずおずと右のほうを見やった。が、幻影ではなかった!……彼と並んで、今朝からの馴染みがちょこちょこと小刻みに足を動かしながら、にこにこ笑いかけたり、顔をのぞき込んだりして、どうやら会話を始めるきっかけをねらってでもいる様子であった。しかし会話は始まらなかった。こうして、二人は五十歩ばかり歩いた。ゴリャードキン氏は、できるだけぴったりと外套の前を合せ、襟を高く立て、帽子を根《こん》かぎり目深にかぶって、顔を隠そうと懸命に努力をした。いやがうえにも腹の立つことには、この同僚の身に着けている外套や帽子までが、たった今ゴリャードキン氏から剥いできたばかりのようであった。
「ねえ、あなた」とついにわが主人公は、相手の顔を見ないように努めながら、なるべく小声に話すようにして口を切った。「わたしたちはお互いに別々なところへ行ってるらしいですね……わたしはむしろそれを確信しているくらいです」と彼はしばらく黙っていた後またこういった。「それに、第一、あなたはわたしを完全に理解してくだすったものと確信しますが」と彼はかなり厳しい調子で結論としてつけ加えた。
「わたしはできることなら」とゴリャードキン氏の新しい友人は、とうとう口を切った。「もしお願いできますことなら……あなたはおそらくご寛恕くださることと思いますが……わたしはこの土地でどなたを相談相手にお願いしたらいいかとほうにくれていますので……なにぶん、わたしの事情と申しますのが――じつのところ、厚かましい限りなのですが、今朝あなたが同情心にかられて、わたしに注意を払ってくだすったような気さえいたしましたので。わたしはまたわたしで、ひと目見るなりあなたという方に心をひかれまして、わたしは……」
 その時ゴリャードキン氏は心の中で、この新しい同僚が大地の割れ目へ吸いこまれてしまえばいいとねがったのである。
「まことに虫のいい申し分ではありますが、ヤーコフ・ペトローヴィチ、どうか辛抱してわたしの話をひととおりお聴きくださいませんでしょうか……」
「ぼくらは――ぼくらはここでは、――ぼくらは……それよりむしろぼくの家へ行こうじゃありませんか」とゴリャードキン氏は答えた。「今、ネーフスキイ通りの向こう側へ渡りましょう、そのほうが都合がいいのです。それから、横町へ曲って……横町を通って行ったほうがいいでしょう」
「けっこうです。では横町を通って行きましょう」とつつましやかなゴリャードキン氏の道づれはおずおずと答えた。それはまるで答えの調子でもって、わたしなんかいいの悪いのという身分ではありません、もう横町だってなんだってけっこうでございます、とでも匂わすようであった。ゴリャードキン氏はというと、もう何が何やらまるでわからなかった。彼は自分で自分の目や耳が信じられなかった。まだ先ほどからの驚愕からわれに返ることができなかったのである。

[#4字下げ]第7章[#「第7章」は中見出し]

 彼がややわれに返ったのは、自分の住居へ昇って行く階段の上であった。『ああ、おれもよくよくのとんまだな!』と彼ははらの中で自分で自分を罵った。『いったいおれはこの男をどこへ連れて行こうとしているのだ? 自分で罠へ首を突っこんでいるようなもんじゃないか。ペトルーシカだって、おれたち二人がいっしょにいるところを見たら、なんと考えるだろう? あの畜生野郎め、これからどんな生意気なことを考えるかしれたものじゃないぞ。おまけに、あいつは疑ぐり深いからな……』しかし、もう後悔してもおっつかなかった。ゴリャードキン氏はノックした。扉が開いて、ペトルーシカが客と主人との外套を脱がせ始めた。ゴリャードキン氏は、下男の顔色を読んで、その腹の中を見抜こうと努めながら、ちらとペトルーシカを眺めた。といっても、ほんのちょっと一瞥を投げたばかりである。しかし、あきれはてたことには、下男はびっくりしようなどという気さえなく、むしろこういったふうのことを予期していたような様子さえ見えた。もちろん、彼は今もやはり仏頂面をして、そっぽをにらみ、まるでだれかを噛み殺してやろうと心構えしているようなふうであった。
『こいつあ、だれかが今日みんなを妖術にかけたのじゃあるまいか』とわが主人公は考えた。『悪魔か何かがそこいらじゅうを駆けまわったんだ! 今日はきっとみんなだれも彼も何か変になっているに相違ない。ちぇっ、いまいましい、なんて拷問だ!』のべつこんなふうに繰り返し巻き返し考えながら、ゴリャードキン氏は客を自分の部屋へ案内し、慇懃に席をすすめた。客は、どうやらひどくまごついているらしく、むやみにおずおずして、うやうやしい態度であるじの一挙一動を見のがさぬようにし、その目色をうかがって、その腹の中を察しようと努めている様子だった。何かしら、虐げられ、いじめぬかれ、おどしつけられたようなところが、彼の身振りという身振りに現われているので、比喩が許されるとしたら、彼はこの瞬間、自分の着物がないために、人の借着をしている男に酷似していた。両袖は上のほうへ吊りあがり、胴のくくりの所がほとんど背中の上に来ている。当人はのべつ短いチョッキを引っ張りながら、体をはすかいにしてもじもじしたり、わきのほうへよけたりして、隙もあらばどこかへ姿をくらまそうとしている。かと思えば一同の目色をうかがって、人が何か自分のことをいってはいないか、笑ってはいないか、自分のために恥ずかしい思いをしてはいないかと聞き耳を立て、――顔を真っ赤にして、とほうにくれ、自尊心の悩みを感じている………ゴリャードキン氏は帽子を窓の上へのせた。すると、不注意に身を動かした拍子に、帽子が床の上へ落ちた。客はすぐさま飛んで行って拾い上げ、埃を綺麗に払い落とし、さも大事そうに元の場所へ戻して、自分はいすの端へちょこなんと腰を掛けて、そのわきの床の上へ自分の帽子を置いた。このちょっとした事実が、ある程度ゴリャードキン氏の目を開けてくれた。彼は客が自分という人間を極度に必要としていることを悟った。そこで、この客に対していかなる態度をとるべきかについて、もはや心を苦しめなくなった。つまり、当然な話ではあるが、客自身の出ようにまかせることとしたのである。客も客で、やはり口を切らなかった、――気おくれしたのか、多少恥ずかしいのか、主人の皮切りを待とうという礼儀心から出たのか、その辺はよくわからない、ちょっと容易には見分けがつかないのだ。その時ペトルーシカが入って来て、戸口に立ちどまり、主人と客の陣取っているのとはまるで反対に当たるわきのほうへ目をすえた。
「食事は二人前とって来ますかね?」と彼は無造作にしわがれた声でたずねた。
「おれは、おれにはわからない……あなたは、――うん、二人前とって来るんだ」
 ペートルーシカは立ち去った。ゴリャードキン氏は客をちらりと見やった。客は耳のつけ根まで真っ赤になった。ゴリャードキン氏は善人だったので、その優しい気立てからすぐさま一つの理論を組み立ててしまった。
『かわいそうな男だ』と彼は考えた。『それに役所のほうも今日が初めてなんだからな。きっと以前は苦労して来たに相違ない。財産といったら、せいぜい人並みの服くらいなもので、食事をするだけの金も持っちゃいないんだ。やれやれ、なんていじけきってることだろう! なに、かまやしない、そのほうが多少は好都合なくらいだ……』
「失礼ですが、わたしは」とゴリャードキン氏は口を切った。「もっとも、ひとつうかがいますが、あなたのお名前はなんとおっしゃるんです?」
「わたしは……わたしは……ヤーコフ・ペトローヴィチと申します」と客は自分の名も同じようにヤーコフ・ペトローヴィチであることを恥じ、気とがめし、それに対してゆるしでも乞うように、ほとんどささやかんばかりに答えた。
「ヤーコプ・ペトローヴィチ?」とわが主人公は自分の困惑を隠す力もなくおうむ返しにいった。
「そうです、まったくそのとおりなので……あなたと同名なので」とつつましい客は思い切って微笑を浮かべ、何か冗談めいたことをいおうと努力しながらこう答えた。けれど、あるじが今、冗談どころでないのを見て、いささか照れ気味で、さっそくまじめな顔つきになって言葉をひかえた。
「あなたは……失礼ながらおたずねしますが、どういうわけで……」
「じつはあなたが寛大な、徳の高いお方だってことを承知していますので」と客はちょっといすから腰を浮かしながら、早口に、しかし臆病そうな声でさえぎった。「あなたの……ご知遇と保護をお願いしようと思って、あえて声をかけましたようなわけでございます……」と客は自分の品位を堕しもしなければ、またあまり大胆にぶしつけなほど平等な態度にもならないようにするために、度をこして卑屈な阿諛《あゆ》に聞こえないような言葉を選ぼうとするので、見るから言いまわしに苦心している様子で、こう言葉を結んだ。概して、ゴリャードキン氏の客は、上品な乞食といったような態度をとっていたといえよう。つぎのあたった燕尾服こそ着ているけれど、ポケットには由緒ある身分を証明する旅券を入れているので、まだ本当に無心の手を差し伸べるだけの経験をつんでいない、といった形である。
「そういわれると困りますが」とゴリャードキン氏は自分の体と、あたりの壁と、客の様子を見まわしながら答えた。
「いったいどうしたらわたしは……いや、つまり、どういう点で、何かのお役にたてるのでしょうか?」
「ヤーコフ・ペトローヴィチ、わたしはひと目見るなり、あなたという方に心惹かれまして、失礼ながら、あなたをあてにしたわけなのです、――こんなこと申して、どうぞ幾重にもご寛恕を願います、ヤーコフ・ペトローヴィチ。わたしは……わたしはここではまるで迷児《まいご》みたいなものでして、ヤーコフ・ペトローヴィチ、家が貧しいものですから、ずいぶん苦労いたしました、ヤーコフ・ペトローヴィチ、おまけに当地は初めてなのでございます。あなたが生まれつき美しい心を持っていらっしゃるばかりでなく、そのうえ、わたしと同姓同名の方だとうけたまわりましたので……」
 ゴリャードキン氏は顔をしかめた。
「わたしと同姓同名でいらっしゃるばかりか、わたしと同じ地方の出でいらっしゃるので、わたしは思い切ってあなたにご相談を申しあげ、自分の窮境を聞いていただこうと決心した次第でございます」
「よろしい、よろしい。が、正直な話、わたしはあなたになんと申したらいいかわからないのです」とゴリャードキン氏は当惑したような声で答えた。「まあ、食事でもして、後でゆっくりご相談しましょう……」
 客は頭を下げた。食事が運ばれた。ペトルーシカは食卓の用意をした。――で、客は主人と共に腹ごしらえにかかった。食事はさして長くかからなかった。というのは、二人とも急いでいたからである。主人がせかせかしていたのは、いつものようにおさまった気持ちでいられなかったためでもあるし、そのうえ、食事が粗末だったのに気がひけたのである。なぜ気がひけたかというと、ひとつには客にご馳走をしたかったのと、またひとつには、自分が相当な暮らしをしていることを見せたかったからである。客はまた客でひどく当惑して、すっかりまごまごしていた。一度パンを取って一切れ食べると、もう次の一切れに手をさし伸べるのを遠慮し、うまそうな料理に手をつけるのを気がねして、自分は少しも腹など空いてはいない、食事は立派なものだった、自分としてはとても満足で、死ぬまでも忘れはしない、などとひっきりなしにいうのであった。食事が終わったとき、ゴリャードキン氏はパイプに火をつけ、友達のために備えてあるもう一本のパイプを客にすすめた、――二人は向かい合って腰をおろした、こうして、客は自分の身の上話を始めた。
 新ゴリャードキン氏の物語は、三、四時間もつづいた。もっとも、身の上話といってもじつは平凡きわまるもので、もしこんなことがいえるとすれば、すこぶるみじめな事件の連続であった。どこかの県裁判所で勤務したとか、判事や検事がどうしたとか、仲間の策謀にかかったとか、書記の一人が精神的に堕落しているとか、検察官がやって来て急に長官を更迭したため、第二のゴリャードキン氏がぜんぜん罪なくして犠牲になったとか、ペラゲーヤ・セミョーノヴナという年取った伯母がどうしたとか、彼が敵の奸計にかかって職を失い、ほとんど歩いてペテルブルグまでやって来たとか、このペテルブルグでさんざんつらい情けない目にあったとか、長いあいだむなしく職を求めて歩いたとか、貯えを費い果たしてほとんど往来で野宿同然の暮らしをしたとか、こつこつのパンを涙でしめしてのみ下したとか、床板の上に何も敷かないで寝たとか、最後にだれか親切な人が彼のために奔走してくれて紹介の労をとり、おかげで今度の位置につくことができたとかいうような話ばかりであった。ゴリャードキン氏の客はこの物語をしながら、しくしく泣いていた。そして、青い格子縞のハンカチで涙を拭いたが、それがひどく模造皮に似ているのであった。とどのつまり、彼は何から何までゴリャードキン氏にぶちまけてしまって、今のところ生活費もなければ、身分相当の住居をととのえることもできないばかりか、ちゃんとした制服を求める金もない、といったようなうち明け話をしたあげく、じつのところ、靴代さえ工面することができず、制服も誰かから一時借用している始末だとつけ加えた。
 ゴリャードキン氏は身につまされて、心から感動してしまった。客の物語はきわめて平凡なものであったにもかかわらず、その一言一言が天から降ったマナ([#割り注]旧約聖書出エジプト記にでてくるせんべいに似たパン[#割り注終わり])のごとく肝に銘じるのであった。要するに、ゴリャードキン氏は先ほどまでの疑いも忘れつくして、ほっとばかり、自由と喜びの息をついた。そして、ついには心の中で、自分で自分を阿呆よばわりさえしたほどである。何もかもじつに自然ではないか! 何もあんなに心配して大騒ぎすることはなかったのだ! もっとも、一つおかしい点がないでもない、――が、実際のところ、それも大したことではないのだ。人間には罪がなくて、自然が干渉しているにすぎないのだから、それしきのことが、人の顔に泥を塗ったり、自尊心を傷けたり、栄達の道をふさいだりするはずがない。のみならず、客は庇護を求めているではないか、客は泣いているではないか、客は運命をかこっているではないか、狡猾なところもなければ悪気もなく、頭の単純な、みじめな、とるにも足らぬ人間に見えるではないか。現に、今も自分が不思議にも主人に酷似しているのを恐縮しているではないか(もっとも、それは別の点で恐縮しているのかもしれないが)。態度がこのうえなく温順で、主人の御意に召そうとする様子がありありと見え、いかにも良心の呵責にくるしめられ、相手に対して申しわけないといったような顔つきをしているのだ。たとえば、話が何かはっきりしないような点に触れると、客は急いでゴリャードキン氏の意見に賛成してしまうのであった。またどうかした拍子に誤って、自分の意見がゴリャードキン氏の反対になって、横道にそれたなと気がつくと、さっそく自説を訂正し、いろいろに釈明して、自分は万事につけてご主人と同じように理解もし考えもしており、あらゆる事物をご主人と同じ目で眺めている、ということを猶予なくはのめかすのであった。ひと口にいえば、客はゴリャードキン氏に『とりいる』ために、ありとあらゆる努力を払ったので、とうとうゴリャードキン氏も、自分の客はあらゆる点において、きわめて愛すべき人間である、と決めてしまった。さて、お茶が出て、時間は八時をまわった。ゴリャードキン氏はすっかり上機嫌になってしまい、うきうきとしてしだいしだいに調子づいてき、ついには客を相手に興味ある世間話に花を咲かせはじめた。ゴリャードキン氏は時々興に乗じると、何やかや面白い話をするのが好きなのであった。今もそのとおりで、首都の話、その美景や遊楽、劇場やクラブ、ブリューロフ([#割り注]十九世紀前半のロシヤ画壇に君臨した巨匠、カルル・パーヴロヴィチ[#割り注終わり])の絵、二人のイギリス人が|夏の園《レートニイ・サード》の鉄柵([#割り注]有名なロシヤの建築家フェリテンの作、十八世紀[#割り注終わり])を見物にわざわざやって来て、それだけ見るとさっさと帰ってしまった話、役所のこと、オルスーフィ・イヴァーノヴィチのこと、アンドレイ・フィリッポヴィチのこと、ロシヤが一日一日と完成されて行って、
[#2字下げ]『言葉の花は今ぞ繚乱……』
としていること、最近『北方の蜜蜂』で読んだ逸話のこと、インドには並みはずれた力を持った大蛇がすんでいること、それから最後にブラムベウス男爵([#割り注]十九世紀のロシヤ文学の暗黒な反動派に属していた作家センコーフスキイのペンネーム[#割り注終わり])のことなど、それからそれへと語りつづけた。要するに、ゴリャードキン氏は大満足なのであった。第一には、まったく心が落ちついたからであり、第二には、もはや敵どもを恐れなかったのみならず、今や彼ら一同に断固として争闘をいどむ覚悟さえもついたからである。第三には、彼自身が他人に庇護を与え、善根をほどこしているからであった。もっとも、彼は心中ひそかに、自分がこの瞬間まで本当に幸福になりきっていないことを意識していた。彼の内部には、ごく小さなものではあるけれども、一匹の虫が巣くっていて、今なお彼の心を蝕んでいるのであった。昨夜のオルスーフィ・イヴァーノヴィチ家の夜会の思い出が、彼を極度に悩ましているのであった。もし昨夜の一件を一場の夢に化してしまえるならば、彼はどんなに高い犠牲をも惜しみはしなかったであろう。『しかし、なに、あんなことはなんでもないさ!』と最後にわが主人公は結論して、今後おこないを慎しんで、あんな失策は二度とやるまいと決心した。ゴリャードキン氏は突然すっかり幸福になってしまい、急に人生を楽しみ遊ぼうという考えにさえなった。ペトルーシカがラムを持って来たので、ポンス酒をつくった。主客はまず一杯ほし、つづいて二杯目をほした。客は前にもまして愛想がよくなり、一再ならず正直な愛すべき性質を証明して見せ、大いにゴリャードキン氏を満足させた。見たところ、彼はただゴリャードキン氏の喜びをおのれの喜びとし、彼を心から自分の唯一の恩人と思いこんでいるらしかった。彼はペンと紙を取って、どうか書いているあいだ見ないようにしてくれと、ゴリャードキン氏に頼み、やがて書き終わった後、自分のほうから主人に見せた。何かと思うと、それはかなり感傷的な調子で書かれた四行詩であったが、詞も筆蹟も見事なもので、このうえもなく愛想のいい客人の作であることは、一見して明瞭であった。詩は次のようなものであった。

[#ここから2字下げ]
きみはわれをば忘るとも
われはきみをば忘るまじ
有為転変の世なりとも
きみもわれをば忘れたもうな!
[#ここで字下げ終わり]

 ゴリャードキン氏は目に涙を浮かべて客を抱きしめた。そして、あげくのはてには自分の秘密までも残らずうち明けてしまったが、なかでも、アンドレイ・フィリッポヴィチとクララ・オルスーフィエヴナのことがとくに強調された。「ねえ、きみ、ヤーコフ・ペトローヴィチ、二人は大いに仲よくしようぜ」とわが主人公は客に向かっていった。「ねえ、ヤーコフ・ペトローヴィチ、二人は水と魚のように、親身の兄弟同様に暮らしていこうよ。そして、要領よくたちまわろうよ、こっちも向こうに負けないように、策略をめぐらすんだ……策略をね、向こうに負けないようにさ。あの連中なんか、きみ、だれひとり信用しちゃいけないよ。じつは、ぼくもきみという人を知りぬいているからね。ヤーコフ・ペトローヴィチ、きみの性質を理解しているからね。きみは正直な人間だから、何もかも残らず話してくれるだろう! あんな連中とはなるべくつき合わないようにしたまえ」客は一から十まで異存がなく、ゴリャードキン氏に謝辞を述べた、そして、ついには同様涙ぐんで来た。「ねえ、ヤーシャ」とゴリャードキン氏はぐったりした震え声で言葉をつづけた。「ねえ、ヤーシャ、きみ、一時ぼくのところへ越して来ないか、いや、永久に引っ越して来たまえ。二人しっかり手をつなぎ合おうじゃないか。きみは差支えないだろう、え? 現在、きみとぼくとの間にこんな変てこな事情があるからって、何も気にしたり不平をいったりすることはないよ。不平をいうなんて罪なことだよ、それは自然のわざなんだからね! 母なる自然は寛大だよ、ヤーシャ! ぼくはきみが好きだ、ちょうど兄が弟を愛する気持ちだよ、まったく。ねえ、ヤーシャ、これから二人で策略をめぐらして、こっちでも負けずにおとし穴を掘ってやろう。そして、やつらに鼻をあかしてやろうじゃないか」
 とうとうポンスは三杯四杯と重ねられた。その時ゴリャードキン氏は、二つの気持ちを感じるようになった。一つはやたらに幸福だという感じであり、それから一つは、もう立っていられないという気持ちであった。客はもちろん、泊っていくようにとすすめられた。いすを二列に並べて、どうやらこうやら寝台ができあがった。新ゴリャードキン氏は、親友の家の屋根の下なら、ゆかの上にじかに寝ても、ふんわりと柔らかい心持ちでやすまれる、それに自分はどこであろうと、おとなしく感謝の念をもって眠りにつくことができるのだから、今は天国にいるのも同じだ、それに自分は今までずいぶん不幸を経験して悲しい目にあって、ありとあらゆることを見もししのぎもしてきたが、これから先もまだいろんな目にあうかもしれない、と述べた。旧ゴリャードキン氏はそれに抗議して、いっさいの希望は神につなぐべきである、ということを証明し始めた。客は満腔の賛意を表して、もちろん、何人も神にしくものはないと答えた。その時、旧ゴリャードキン氏は、トルコ人が夢寐《むび》の間にも神の名を呼ぶのは、ある意味においてもっとも千万であるといった。それから、トルコの予言者モハメットを誹謗するある種の学者連に反対して、彼のことを一種の大政治家であると断定しながら、ゴリャードキン氏は何かの雑誌の雑報欄で読んだアルジェリヤの理髪店の興味ふかい物語にうつった。主人と客はトルコ人の馬鹿正直を腹さんざん笑った。しかし、阿片によって刺激される彼らの狂信癖には一驚をきっせずにはいられなかった……ついに客は着替えを始めた。ゴリャードキン氏は仕切りの外へ出た。それは一つには、おそらく客が満足なシャツも着ていないことだろうから、それでなくとも不運な友を赤面させたくない、という優しい思いやりでもあったが、一つにはペトルーシカの様子を確かめたいからでもあった。もうこうなったら、すべての人が幸福になるように、この下男に優しい言葉をかけてうきうきさせてやりたいし、それにテーブルの上にこぼれた塩の始末もさせなければならぬ。ちょっとことわっておくが、ペトルーシカはいまだにゴリャードキン氏に少々ばかり気をもましているのである。
「おい、ピョートル、もうお前もそろそろ寝たがいいよ」とゴリャードキン氏は下男部屋へ入りながら優しくいった。「お前もそろそろ寝るがいい。そして、明日は八時に起こしてくれ、いいかい、ペトルーシャ?」
 ゴリャードキン氏は並みはずれてもの柔らかな優しい調子でいったのである。けれども、ペトルーシカは押し黙っていた。彼はそのとき寝台の傍でごそごそしていたが、主人のほうを振り向こうともしなかった。それくらいのことは、主人に対する礼儀だけからいっても、当然しなければならないはずなのであった。
「おい、ピョートル、おれのいったことがわかったのかい?」とゴリャードキン氏はつづけた。「お前ももう寝たがいい、そして明日は八時に起こしてくれ、ペトルーシャわかったかい?」
「そんなことはもうちゃんとわかっとりますよ、何を今さら!」とペトルーシカは口の中でぼやいた。
「いや、わかってるならいいさ。ペトルーシャ。おれはただお前に安心してもらおう、幸福になってもらおうと思っていっただけさ。いまぼく達はもうみんな仕合わせになったので、お前にも安心して幸福になってもらわなくちゃいけないんだ。じゃ、機嫌よくおやすみ、ぐっすり寝るがいい。ペトルーシャ、ぐっすりと。われわれはみんな働かなくちゃならないんだ……お前、いいかい、何か妙なことを考えるんじゃないよ……」
 とゴリャードキン氏はいいかけたが、そのまま口をつぐんだ。『これはあまり薬がききすぎはしなかったろうか?』と彼は考えた。『あんまり深入りはしなかったろうか? いつもおれはこうなんだ、いつもやりすぎていかん』わが主人公は、かなり自分に不満を感じながら、ペトルーシカの部屋を出た。のみならず、彼はペトルーシカが無作法で片意地なのに、いささかむっとさせられたのである。『あんな悪党のご機嫌を取るなんて、あんな悪党にご主人様のほうから過分な言葉をかけてやるなんて。しかも、あいつそれを屁とも思ってやがらないんだ』とゴリャードキン氏は考えた。『もっとも、あの連中はこの頃みんなああいうふうになってきたんだ!』彼はいくらかよろよろしながら、自分の部屋へ引っ返した。客がすっかり寝床の中におさまっているのを見ると、彼はちょっとその寝台の端に腰を下ろした。『おい、どうだね、ヤーシャ、白状したまえ』と彼は頭を振りながら、小声にいった。『え、奴さん、きみはぼくに対して申しわけのないことがあるだろう? ねえ、同名同姓君、きみは知ってるかい……』となれなれしい調子で、客にふざけかかりながら言葉をつづけた。ついに彼はさも親しげに別れを告げて、寝支度にかかった。その間に客はもう鼾をかき出した。ゴリャードキン氏も同様に寝床に身を横たえながらも、笑い笑い小声にひとりごとをいうのであった。『お前さんはきょう酔っ払ってるな、親愛なるヤーコフ・ペトローヴィチ、このやくざもの、ゴリャードカ先生、――お前さんの苗字はまあ、なんてことなんだ! え、いったいお前さんは何をあんなに嬉しがったのだ! 明日になったらめそめそやり出すくせに、この泣虫先生。いったいお前さんという人間はどうしたらいいんだろう?』その時、何かしら疑惑というか後悔というか、そういったような奇怪な感覚がゴリャードキン氏の全身に拡がった。『どうもおれは羽目をはずしちゃった』と彼は考えた。『現に頭ががんがんいってるところを見ると、おれは酔ってるんだ。つい自制ができなかったんだ、この大馬鹿め! くだらない寝言みたいなことをさんざんしゃべりちらして、おまけに策略をめぐらす気でいるんだからな、このやくざ男。もっとも、侮辱を忘れてゆるしてやるのは、何より立派な善行ではあるけれども、しかしなんといったって感心できん! そうだとも!』こう考えると、ゴリャードキン氏は立ち上がり、ろうそくを取って、もう一度爪立ちで眠れる客を見に行った。彼は深い物思いのていで長いこと客の枕もとにたたずんでいた。『いやな画面だなあ! 茶番だ、正真正銘の茶番だ。それっきりの話だ!』 とうとうゴリャードキン氏は寝床へもぐりこんだ。頭の中ががんがん鳴って、破れるように痛んだ。彼はしだいしだいにうとうとして来た……何か考えよう、何かしらきわめて興味のあることを想い出そう、何かしらきわめて重大な気がかりの問題を解決しようと努力したが、駄目だった。睡魔が彼の熱した頭をおそって、彼はいつの間にか眠ってしまった、ちょうど、何かの懇親会でふだん飲みなれないポンスを急に五杯も平らげた人が寝こむようなふうに。

[#4字下げ]第8章[#「第8章」は中見出し]

 あくる朝、ゴリャードキン氏はいつものとおり八時に目をさました。目をさますと同時に、昨夜のことを一部始終おもい起こした、――おもい起こして顔をしかめた。『ちぇっ、昨夜おれはなんだって阿呆みたいに、羽目をはずしてしまったんだ!』と考えながら、彼は身を起こして客のほうを見やった。ところが、彼の驚きはどんなだったろう、部屋の中には客ばかりでなく、客の眠った寝床さえなかったのである!『これはいったいなんとしたことだ?』とゴリャードキン氏はあやうく叫び声をあげないばかりであった。『あれは、どういうことだったんだろう? それに、今のこの新しい事態はどんな意味をもっているんだろう?』ゴリャードキン氏が、口をぽかんとあけたまま、けげんそうに空な場所を見つめている間に、扉がぎいときしんで、茶盆を手にしたペトルーシカが入って来た。『どこにいるんだ、いったいどこにいるんだ?』とわが主人公は昨日客にあてた場所を指さしながら、聞こえるか聞こえないかの声でいった。ペトルーシカは初め何も答えないばかりか、主人のほうさえ見ようとせず、右の片隅に目を向けたので、主人のゴリャードキン氏のほうが、その右隅を見なければならなくなった。もっとも、しばらく黙っていた後で、ペトルーシカはしゃがれたぞんざいな声で、「だんなはお留守でがす」と答えた。
「馬鹿野郎、おれが貴様のだんなじゃないか、ペトルーシカ!」とゴリャードキン氏は目を皿のようにして、従僕の顔を見つめながら、ちぎれちぎれの声でいった。
 ペトルーシカはなんとも返事をしないで、じろっとゴリャードキン氏を眺めたので、こちらは思わず耳のつけ根まで真っ赤になってしまった。――その目つきは何となく侮辱と非難にみちて、まぎれもない罵詈雑言を含んでいるのであった。ゴリャードキン氏はいわゆる茫然自失してしまった。やっとのことでペトルーシカは、もう一人のほう[#「もう一人のほう」に傍点]は待つのがいやだといって、一時間半も前に出て行った、と報告した。もちろん、それはありそうなことで、信じていいことに相違なかった。ペトルーシカが嘘をついていないのは明らかで、彼の人を馬鹿にしたような目つきや、彼の口にしたもう一人のほう[#「もう一人のほう」に傍点]という言葉は、例のいまわしい事態から生じた結果にすぎない。が、それにしても、彼は漠然とではあるけれども、そこに何か面白くないことがある、運命がまたしても彼に大してかんばしからぬ土産を用意している、とさとったのである。
『よし、今に見ておれ』と彼ははらの中で考えた。『今に何もかもみやぶってやるから、すっかりからくりをあばいてやるから……ああ、なんということだ!』と彼は最後にもうすっかり別人のような声で呻いた。
『いったいなんだっておれはあいつを招待したんだろう、どういうつもりであんなことをしたんだろう? あれじゃまったく、自分のほうからあいつの罠に首を突っこんだようなものだ、自分がその罠をこしらえたようなものだ。ちぇっ、お前さんはなんという頭をしてるんだ、なんという頭を! まるで小僧っ子みたいに、下っ端の小役人みたいに、つい我慢しきれないでああいうへまな真似をしてしまったんだ。おっちょこちょい、やくざ野郎、腐ったぼろっ屑、金棒引き、女の腐ったやつ!………ああ、どうしよう! あの悪党め、おまけに詩まで書いて、おれを愛しているなんて誓いやがった! なんとしてやったものかな、ええと……やつが帰って来たら、できるだけ上品に戸口を指さしてやるかな? もちろん、いろんないい方や方法がたくさんある。じつはかくかくしかじかで、俸給に限りのある身ですから……それともなんとかして、これこれのことを考え合わせてみた結果、やむを得ずきみの弁明を求めなければならぬ仕儀となった、といって、おどしつけてやるかな……部屋代と食費は半々もちで、金は前払いとしましょう。ふむ! 駄目だ、くそっ、駄目だ!それじゃおれの面よごしになる。そいつはあまり紳士的でなさ過ぎる! いっそこんなふうにでもするかな、――ひとつペトルーシカに入れ智慧しておいて、ペトルーシカがやつをないがしろにしたり、無作法を働いたり、あてこすりをいったりして、うまくやつをいびり出すように仕向けるかな? こうして、あいつを噛み合わしてやったらどうだろう……いや、ちくしょう、いかん! そいつは危険だ、それにある観点から見ると、――いや、駄目だ、ぜんぜん駄目だ! まるっきりなっていない! だが、ひょっとやつが帰って来なかったら? そいつも困るか? おれは昨夜へまをやってしまった!………ちぇっ、まずいぞ、まずいぞ! ああ、どうもこいつは形勢不利だぞ! いやはや、おれはなんという頭をしてるんだ、いまいましい! 物事をちゃんと頭におさめておくことも、理屈どおりに筋を運ぶこともできないんだからな! だが、もしやつがやって来て、断わったらどうだろう?が、もし帰って来たら……どうか、そうあってくれるといいがなあ! もし帰って来たら、おれはそれこそ大喜びなんだが……』
 ゴリャードキン氏はお茶を飲みながらも、のべつ掛時計を振り返り、振り返り、こんなふうに思案していた。『いま九時十五分まえだ、もうそろそろ出かけなくちゃならん頃だ。さて、どういうことになるかなあ! どういうことになるか知らんて? これには何か特別なものが潜んでいるに相違ないが、いったいどんなことか知りたいものだなあ、――つまり目的とか、方向とか、それからいろいろな引っかかりとか……あの連中が何を狙っているか、やつらの第一歩がどんなものか、そいつがわかるとありがたいんだが……』ゴリャードキン氏はもうこれ以上辛抱しきれないで、吸いさしのパイプをほおり出し、服を着替えると、役所をさして飛び出した。できることなら危険を未然に防ぎ、自分自身その場にい合わせていっさいを確かめたい、と思ったのである。ところで、危険は存在している、危険が存在していることは彼自身も知っていた。『今にそいつを……その危険の正体をつきとめてやるぞ』とゴリャードキン氏は玄関で外套やオーヴァシューズを脱ぎながらひとりごちた。『今に事件の奥の奥まできわめてやるぞ』こうして実際行動を決心したわが主人公が身なりを整え、あらたまったものものしい顔つきをして次の部屋へ入ろうとしたとたんに、戸口のところで思いがけなく、ゆうべ知合いになったばかりの親友に突き当たった。新ゴリャードキン氏は、ほとんど鼻と鼻を合わせそうになりながら、旧ゴリャードキン氏に気がつかないようなふうであった。新ゴリャードキン氏はさも忙しそうな様子をして、どこかへ急ぐらしく息せき切っていた。その顔はだれが見ても、『特殊な任務を命ぜられている』人だなとさとらずにいられないほど、とりすました事務的な表情をしていた。
「やあ、きみ、ヤーコフ・ペトローヴィチ!」とわが主人公は昨夜の客の手をとりながらいった。
「あとであとで、失礼ですが、あとで伺いましょう」と新ゴリャードキン氏は前に飛び出そうとあせりながら叫んだ。
「しかし、ちょっと、ヤーコフ・ペトローヴィチ、きみはあの時、その……」
「なんです? 早くいってください」
 こういいながら、ゴリャードキン氏の昨夜の客は、いやいやながら不承不承に足をとめて、ゴリャードキン氏の鼻っ先へ耳を持ってきた。
「ぼくはあえていいますが、ヤーコフ・ペトローヴィチ、ぼくはきみの態度にびっくりしてしまいましたよ。……そういう態度を取られようとは、ぼくゆめにも思わなかった」
「何事にも一定の形式というものがあります。まず閣下の秘書官のところへ行って、それから規定の順序を踏んで、事務主任殿に報告なさい。請願でもあるんですか?」
「きみ、ヤーコフ・ペトローヴィチ、ぼくには合点がいきません! これはどうも、開いた口がふさがらない、ヤーコフ・ペトローヴィチ! きみはきっとぼくがだれかわからないんでしょう。それとも、もちまえの陽気な性分で、ふざけてでもいるんですか?」
「ああ、あなたでしたか!」と新ゴリャードキン氏は、今はじめて旧ゴリャードキン氏を見わけたようにこういった。
「あなたでしたか? ときに、いかがでした、よくおやすみになれましたか?」
 こういって、新ゴリャードキン氏はにやっと笑い、――形式的なあらたまった微笑を浮かべて(それはまったく彼としてはけしからぬ笑い方であった。なにぶんにも、彼は旧ゴリャードキン氏に恩を受けているのではないか)――そこで、形式的なあらたまった微笑を浮かべながら、ゴリャードキン氏がよくおやすみになれて自分も嬉しいとつけ加えた。それから軽く頭を下げると、しばらくその場で足踏みして左右を見まわしていたが、やがて目を伏せて、脇のほうの扉にきっと目をつけ、自分は特別任務をおびているので、と早口にささやいたと思うと、次の間へちょろりと潜りこんでしまった。あっという間のことであった。
『いやはや、これはどうだ……』とわが主人公はつかの間、棒立ちになってつぶやいた。『これはどうだ! ここではもうこんなことになっているのか!………』その時ゴリャードキン氏は体じゅう蟻でも這いまわるような気持ちがした。『もっとも』と彼は自分の部屋へ向かいながらはらの中で考えつづけた。『もっとも、おれはもう前から、こういうことになるだろうといってたのだ、あの男が特別任務を命ぜられるだろうと、前からちゃんと予感していたのだ、――まったく、つい昨夜も、あの男は必ずだれかに特別任務を命じられるに違いないといったじゃないか』
「ヤーコフ・ペトローヴィチ、昨日の書類はできあがったかね?」とアントン・アントーノヴィチ・セートチキンが、ゴリャードキン氏の傍に腰をおろしながら、問いかけた。「あれは、ここにあるかしらん?」
「あります」とゴリャードキン氏は多少うろたえ気味で、係主任を見ながらささやいた。
「そりゃよかった! じつは、アンドレイ・フィリッポヴィチが二度もきかれたのでね。いつ閣下がご請求になるかしれないから……」
「いいえ、あれはできています……」
「いやあ、けっこう」
「アントン・アントーノヴィチ、わたしはいつも職務に精励して、上官から命ぜられた仕事はおこたりなく、正確に実行しているつもりですが」
「そう。だが、きみはそれで何をいいたいんだね?」
「別になんでもありません、アントン・アントーノヴィチ。ただわたしが一言弁明したいと思いましたのは、ほかでもありません、アントン・アントーノヴィチ、わたしは……つまり、わたしはこういうことを申しあげたかったのです、悪意や羨望はおのれの日々の嫌悪すべき糧を求めるために、何人をもけっして容赦するものでない……」
「失敬だが、わたしはきみのいうことがよくのみこめないね。つまり、きみは今、だれのことをほのめかしているんだね?」
「要するに、アントン・アントーノヴィチ、わたしはこう申しあげたかったのです、わたしはまっすぐな道を歩いて行く人間で、裏道や抜け道を軽蔑します、わたしは陰謀家や策士ではないので、それを自分自身、――もしこういうことが許されるとすれば、――正々堂々と世に誇っているのであります……」
「さよう。それはみんなそのとおりです。少なくも、わたしの考えるところでは、きみのご意見に一も二もなく賛意を表せざるを得ません。しかし、ヤーコフ・ペトローヴィチ、わたしにもひとついわしてもらうがね、立派な社会では人身攻撃はあまり奨励されてはいないので、たとえば、わたしなども陰で悪口をいわれるのは我慢してもよろしい。なぜといって、陰で人の悪口をつかないものはありゃしないんだから。しかし、失礼ながら、面と向かって雑言を吐かれては、断じてゆるすわけにいかん。わたしは頭の白くなるまでお国に勤めて来た人間なのだから、この年になって失敬なことをいわれて、黙ってるわけにいかん……」
「いいえ、アントン・アントーノヴィチ、あなたは、その、なんです、アントン・アントーノヴィチ、あなたはわたしのいったことを、十分わかってくださらなかったのです。とんでもないことで、アントン・アントーノヴィチ、わたしとしてはそれこそもう本当に……」
「いや、それならわたしのほうも堪忍してもらわなけりゃならん。われわれは昔風の教育を受けた大間なのでな。きみ達のような新式の教育を受けようたってもう遅蒔きだよ。しかし、邦家にご奉公するのには、今までで十分こと足りてきたはずだ。きみもご承知のとおり、わたしは二十五年間、大過なく勤続して表彰をいただいておるからな……」
「同感であります。アントン・アントーノヴィチ、わたしとしましてもまったく同感であります。が、わたしが申しているのはそのことではありません、わたしは仮面《めん》のことを申しているので、アントン・アントーノヴィチ……」
「仮面のこと?」
「といって、あなたはまた……t息味を、わたしのいってる言葉の意味を取り違えはなさらないかと心配なのですが、アントン・アントーノヴィチ、わたしはただテーマを敷衍《ふえん》させているだけなので、根本観念はぬきにしているのです、アントン・アントーノヴィチ、つまり、この頃、仮面をかぶった人間が多くなって、その仮面の下に人間の顔を見わけるのが難しくなってきたのです……」
「いや、なに、そんなことは大して難しくはありゃしない。どうかすると、かなり造作のないことで、すぐ手もとで間に合うこともあるよ」 
いいえ、それがです、アントン・アントーノヴィチ、わたしはあえて申しますが、わたしは自分のことを申しますが、たとえば、わたしは仮面なんてものは、必要のある時でなければかぶりません、つまり、謝肉祭とかその他の祝祭の時だけです。これは文字どおりの意味で申しているのですが、今度は別の象徴的な意味でいって、わたしは毎日毎日、人様の前で仮面をかぶりなんかしません。これをわたしは申したかったのです、アントン・アントーノヴィチ」
「ふん、しかし、今はそんな話をやめることにしましょう。それに、わたしは暇もないしね」とアントン・アントーノヴィチはいすを立って、閣下に報告のため二、三の書類をかき集めながらいった。「ところで、きみの件は今にさっそくはっきりすることと思う。きみとしてはだれを責めだれを非難したらいいか、やがて自分でわかるようになるだろう。しかし、これ以上、公務の妨げとなる個人的な話や取沙汰はまっぴらご免をこうむるよ」
「いえ、違います、アントン・アントーノヴィチ」とゴリャードキン氏はいささか顔色を変えて、立ち去って行くアントン・アントーノヴィチの後から声をかけた。「わたしは、アントン・アントーノヴィチ、そんなことなど考えもいたしませんでした」
『いったいこれはどうしたことだ?』とわが主人公はひとりになると、今度はもう心の中で後をつづけた。『いったいどういうわけで、こんな風の吹きまわしになったんだろう、この新しいからくりはなんの意味だろう?』とほうにくれてなかばうちのめされたようなわが主人公が、この新しい疑問の解決にかかった時、隣りの部屋に足音が聞こえ、何やら忙しげなざわめきが伝わったと思うと、扉がさっと開いた。ちょっと前に、何かの用事で閣下のところへ行っていたアンドレイ・フィリッポヴィチが、息をきらせながら戸口に姿を現わして、ゴリャードキン氏を呼んだ。何の用事かわかっていたので、アンドレイ・フィリッポヴィチを待たすまいと思って、ゴリャードキン氏は席を跳びあがり、請求される帳簿に最後の仕上げをするために、さっそく大わらわになってあたふたし始めた。彼はこの帳簿をアンドレイ・フィリッポヴィチのあとに従って、自分で、閣下の部屋へ持参するつもりだったのである。その時、戸口に立っていたアンドレイ・フィリッポヴィチのうしろから、突然、新ゴリャードキン氏が飛び出して、すばしっこく部屋へ入って来た。さも仕事に追われているというようにあわてふためき、あらたまった断固とした顔つきで、いきなり旧ゴリャードキン氏の傍へ駆け寄った。こちらは、このような攻撃を夢にも予期していなかったのである……
「書類を、ヤーコフ・ペトローヴィチ、書類を……閣下ができているか、とおたずねになったのです」と旧ゴリャードキン氏の親友は小さな声で、早口にさえずり出した。「アンドレイ・フィリッポヴィチもお待ちかねですよ……」
「お待ちかねなのは、きみにいわれなくってもわかっているよ」と旧ゴリャードキン氏は同じく早口にひそひそ声でいった。
「いや、ヤーコフ・ペトローヴィチ、そうじゃないんです。ぼくがいうのはまるで別なことですよ、ヤーコフ・ペトローヴィチ、ぼくは同情しているんです、ヤーコフ・ペトローヴィチ、まったく衷心から同情しているんですよ」
「そんなものはまっぴらごめんこうむりますよ、しっけい、さあしっけい……」
「きみは、もちろん、包み紙にちゃんとくるむでしょうね、ヤーコフ・ペトローヴィチ、そして三ページ目のところにはしおりを挟んでおおきなさい、ちょっとしっけい、ヤーコフ・ペトローヴィチ……」
「きみこそ本当にもういいかげん……」
「しかし、こんなとこにインキのしみがついていますよ、ヤーコフ・ペトローヴィチ、きみこのしみに気がつきましたか?………」
 この時アンドレイ・フィリッポヴィチが、もう一度ゴリャードキン氏を呼んだ。
「ただ今、アンドレイ・フィリッポヴィチ、ちょっとここのところを、ほんのちょっとだけ……さあ、きみ、いったいきみはロシヤ語がわからないんですか」
「これはナイフで削るのが一等いいですよ、ヤーコフ・ペトローヴィチ、まあ、ぼくにまかしておいてください、ヤーコフ・ペトローヴィチ、きみ自分で触らないほうがいいです、ぼくにまかしてください、――ぼくがちょっとここんとこをナイフで……」
 アンドレイ・フィリッポヴィチは、また三度目にゴリャードキン氏を呼んだ。
「何を、とんでもない、いったいどこにしみがあるんです? ここにはしみなんかまるでないはずなんだが」
「それどころか、でかいしみがあるじゃありませんか、ほらここんとこに! ちょっと、失礼、ぼくここんとこに見つけたんですよ、ちょっと失礼……まあ、ちょっとぼくにやらせてみてください、ヤーコフ・ペトローヴィチ、ぼくがちょっとナイフでやりますよ。ぼくは同情のあまりに、誠心誠意いってるんです、ヤーコフ・ペトローヴィチ、ちょっとナイフで……そらこういう具合に、ね、それでちゃんとできあがってしまいます……」
 こういったかと思うと、新ゴリャードキン氏は突然おもいがけなく、まったく藪から棒に、二人の間に生じた一瞬の争奪戦でたちまち相手を圧倒し、ともかく旧ゴリャードキン氏の意志にまったく反して、上官から要求されている書類を横取りし、たった今ぬけぬけと繰り返しいったように、誠心誠意ナイフで汚点を削る代わりに、手早く書類をくるくると巻いて腋の下にはさみ、たったふた跳びでアンドレイ・フィリッポヴィチの傍へ行った。アンドレイ・フィリッポヴィチは、その悪ふざけにいっこう気がつかなかったのである。二人はさっさと局長室へ行ってしまった。旧ゴリャードキン氏は手にナイフを持ったまま、それで何か削り落とそうとするような恰好をしながら、まるで釘づけにでもされたようにとり残された……
 わが主人公は、自分の置かれた新しい立場が、いまだによくわからなかった。彼は依然としてわれに返ることができなかったのである。打撃を受けたのは感じたけれど、しかしこれは何かちょっとした、深い意味のないことだと考えたかった。恐ろしい名状し難い憂愁に閉ざされながら、彼はついに席を蹴って、いきなり局長室へ飛んで行った。が、それでも心の中では、なんとかまるくおさまりますように、これは何かちょっとした意味のないことでありますように、と神に念じながら……局長室の一つ手前の部屋で、彼はアンドレイ・フィリッポヴィチと自分の同姓者に鉢合わせした。二人はもう帰って来るところであった。ゴリャードキン氏はちょっと脇へ寄った。アンドレイ・フィリッポヴィチは、にこにこ笑いながら、機嫌よく何か話していた。旧ゴリャードキン氏の同姓者も同様に微笑を浮かべ、敬意を表するためにいささか距離を置いて、アンドレイ・フィリッポヴィチの後に従いながら、追従たらたら、小刻みな足取りで歩いていた。彼がさも感にたえたような顔つきで、何やらアンドレイ・フィリッポヴィチの耳にささやくと、こちらは好意の溢れた様子でうなずいて見せた。わが主人公はたちまちにしていっさいの事態を察してしまった。というのは(後で知ったことだが)、彼の作成した書類は閣下の予期をはるかにこえた出来ばえで、しかもちゃんと期限通り間に合ったのである。閣下の満足はひと方ならずであった。それどころか、噂によると、閣下は新ゴリャードキン氏に感謝して、心からなるありがとうをいい、彼のことは意にとめておいて、けっして忘れはしないと述べられた、とのことである。もちろん、ゴリャードキン氏として、第一の緊急事は抗議することであった、あくまで全力をあげて抗議することであった。彼は、ほとんど我を忘れ、死人のように真っ青な顔をしてアンドレイ・フィリッポヴィチのところへ飛んで行った。しかし、アンドレイ・フィリッポヴィチはそれを聞いて、ゴリャードキン氏の事件は私事に関することであるとの理由で、そんな話に耳をかすことをきっぱり拒絶し、自分は一刻の暇もなくて、自分自身の用事にさえ手がまわらないくらいだ、といった。
 その調子のそっ気なさ、その断わり方の手厳しさは、ゴリャードキン氏を愕然とさせた。『それじゃ、なんとかして、ほかのほうから運動してみよう……いっそ、アントン・アントーノヴィチに話してみよう』が、ゴリャードキン氏にとって不幸なことには、アントン・アントーノヴィチも席にいなかった、この人もどこかへ行って、何かに忙殺されているのであった、『あの人が私事に関する話や取沙汰はごめんこうむるといったのは、やっぱり思惑があってのことだったんだ!』とわが主人公は考えた。『ははあ、ねらいはつまりここにあったんだな、古狸め! そういうわけなら、直接閣下のところへ推参して、お願いするまでだ』
 依然真っ青な顔をしたまま、頭がすっかり支離滅烈になっているのを自分でも感じながら、ゴリャードキン氏はどういうふうにはらを決めたらいいか、かいもく見当がつかないで、どっかりといすに腰を下ろした。『これがただちょっとした、意味のないことであってくれたら、本当にありがたいんだがなあ』と彼はのべつ心の中で考えた。『まったく、あんな奇怪千万なことは、てんで本当と見られないくらいだ。あれは第一、馬鹿馬鹿しいことだし、第二には、事実あり得べからざることだ。あれはおそらくただあんなふうに思われただけか、それとも何かの拍子で間違ってできたことで、実際に起こったというわけじゃないのだろう。それとも、閣下のところへ行ったのは、間違いなくおれ自身だったのに……おれがどうかして自分を他人と思いちがいしたのじゃあるまいか……要するに、あれはまったくあるまじき話だ』 ゴリャードキン氏が、まったくあるまじき話だと結論を下した瞬間、ふいに新ゴリャードキン氏が書類を両手にかかえ、腋の下にはさんで、部屋の中へ飛びこんで来た。通りすがりに、アンドレイ・フィリッポヴィチと、二こと三こと用事の話をし、それからなおだれかれのものと言葉をかわし、だれかれのものに愛想を振り撒き、だれかれのものにはなれなれしい口のきき方をした後、新ゴリャードキン氏は、いかにも無駄なことに時間を潰している暇はないといったふうに、早くも部屋から出て行きそうな気配であった。が、旧ゴリャードキン氏にとって仕合わせなことには、ふと戸口のところで立ちどまって、そこにい合わせた二、三の若手官吏と話を始めた。旧ゴリャードキン氏は、いきなりそのほうへ飛んで行った。新ゴリャードキン氏は、旧ゴリャードキン氏の機動ぶりを見るや否や、どこか少しも早く姿をくらますところはないかと、さっそく不安げにあたりを見まわし始めた。しかし、わが主人公はもう昨夜の客の袖をつかまえた。二人の九等官を取り囲んだ官吏たちはさっと身を退いて、好奇の念をいだきながら、様子いかにと待ち受けていた。古参の九等官は、人々の好意がもはや自分の側にはないことを承知していたし、自分が敵の術中におちいったことも自覚していたが、しかしそれだけになおさらおのれの名声を守る必要があった。それはのるかそるかの瞬間であった。
「何用です?」と新ゴリャードキン氏は、かなり横柄な態度で、旧ゴリャードキン氏を見ながら口を切った。
 旧ゴリャードキン氏は息をつくのもやっとであった。
「ぼくは」と、彼はいいだした。「ぼくに対するきみの奇怪な行為をなんと説明していいかわからないくらいです」
「ははあ、まあ、先をうかがいましょう」こういいながら、新ゴリャードキン氏はあたりを見まわして、さあ、これから喜劇が始まりますぞとでもいいたげに、二人を囲んでいる役人たちに片目で目くばせして見せた。
「今度のことについて、きみがぼくに示した厚顔無恥な態度は……ぼくの言葉などよりもずっと明瞭に、きみの本体を暴露しています。そんな小細工をしたって駄目ですぞ、少々まず過ぎる……」
「ねえ、ヤーコフ・ペトローヴィチ、それよりおうかがいしますが、昨夜は、よくおやすみになれましたか?」と新ゴリャードキン氏は、まともに旧ゴリャードキン氏の目を見すえながら答えた。
「きみ、きみは前後を忘れていますぞ」すっかり夢中になった九等官は、どこに立っているかも覚えずにいった。「その調子を変えてもらいたいものですな……」
「まあ、きみ!」と新ゴリャードキン氏は、かなり無作法なしかめ面を旧ゴリャードキン氏にして見せて、とつぜんまったく思いがけなく、愛撫といったふうに見せかけながら、相手のかなりふっくらした右の頬っぺたを二本指でつまんだ。わが主人公はかっと火のように赤くなった……旧ゴリャードキン氏の親友は、敵が体じゅうをわなわな震わせて、憤怒のあまり声も出ず、蝦のように真っ赤になり、前後のわきまえもなくなって、今にも本式の攻撃を開始しそうなのを見るが早いか、さっそくこのうえもない破廉恥なやり方で相手の機先を制した。また二度ばかり彼の頬っぺたを軽く叩き、二度ばかりくすぐって、憤怒のあまり身動きもできず、気も狂わんばかりになっている敵に、なお幾秒間かこういう悪戯をして、二人をとり囲んでいる若手連中を少なからず喜ばせた後、新ゴリャードキン氏は、だれしも憤慨せずにいられないような無恥厚顔な態度で、旧ゴリャードキン氏の突き出た腹をぽんとはじいて、思い切り毒のある意味深長な微笑を浮かべながらいった。「ふざけるんじゃないよ、きみ、ヤーコフ・ペトローヴィチ、ふざけるんじゃ! これから二人で駆引きの腕くらべだよ、ヤーコフ・ペトローヴィチ、駆引きのね」それから、わが主人公が最後の攻撃からほとんどわれに返る暇もないうちに、新ゴリャードキン氏は突然(取巻きの見物連中にあらかじめ、にたっと笑って見せておいて)、 さも忙しそうな、恐ろしく事務的な取りすました態度をとり、目を伏せて身を縮めたと思うと、「特別任務なので」と早口にいって、短い足を一つぴょんと跳ねたと思うと、隣りの部屋へちょろりと姿を消してしまった。わが主人公はわれとわが目を信じかね、依然として正気に返ることができなかった。
 やがてようやく彼はわれに返った。おれは破滅したのだ、ある意味において駄目になってしまったのだ、顔に泥を塗られて、おれの名誉は台なしになってしまったのだ、他人の面前で嘲笑され、辱しめられた、つい昨日までもっとも信頼すべき無二の親友と思っていた男に、裏切られ、赤恥をかかされて、もはや取り返しのつかない失態を演じたのだ、――これだけのことを一瞬の間に意識すると、ゴリャードキン氏は自分の敵の跡を追って飛び出した。今のところ、彼は自分の恥辱を見物していた人達のことなど考えたくもなかった。『あれはみんなぐるになってるんだ』と彼はひとりごちた。『おたがい同士しめし合わせて、おれ一人を駆り立ててるんだ』とはいえ、十歩ばかり駆け出した時、追っかけて見たところでしょせん、無駄骨と、はっきり見てとったので、また後へ引っ返した。『だが、にがしゃしないぞ』と彼は考えた。『今にまんまと、こっちの手に引っかかるんだから、人の恨みが報われずにおるものか』ものすごいばかりの冷静を湛え、断固たる決意を胸にいだきながら、ゴリャードキン氏は自分の席にたどりつき、いすにどっかと腰を下ろした。『なんの、のがすものか!』と彼はまたいった。今はもう消極的な防禦などという問題ではなく、断固たる攻撃精神が溢れていた。だれにもせよ、ゴリャードキン氏が真っ赤な顔をして、興奮をおさえかねる様子でペンをインキ壺に突っこみ、凄まじい権幕で紙の上をがりがりやり始めた有様を見たものは、これはただではすまぬぞ、いい加減な妥協では片がつかぬぞと、前もって結論を下すことができたに相違ない。彼の深い心の奥底には一つの決意ができあがった、そして、彼はぜひともそれを実行しようと心底から誓ったのである。もっとも、正直なところ、はたしてどんなふうに行動したらいいか、彼にはまだはっきりしたことがわかってはいなかった、というよりむしろ、全然なんにもわかっていなかった、といったほうがよいくらいである。が、どちらにしても同じことだ、かまうものか!
『ねえ、きみ、現代においては、人の名を僭したり、破廉恥な真似をしたんじゃ、成功しっこないよ。人の名を僭したり、破廉恥な真似をしたりしたら、きみ、ろくなことになりゃしない、結局、首でも縊《くく》るのが落ちだ。人の名を僭し人民を欺いて成功したのは、きみ、ただグリーシカ・オトレーピエフ([#割り注]王子ドミートリイの名を僭して一旦皇位についたが、一年後廷臣に殺される(一六〇六年)、プーシキンの『ボリス・ゴドゥノフ』の題材となる[#割り注終わり])一人だけだが、それもほんの僅かな間だったじゃないか』この最後の結論にもかかわらず、ゴリャードキン氏は、ある人達から仮面が落ちて、何かの事情が暴露されるまでは、待機することにしようとはらを決めた。そのためには第一に、できるだけ早く退庁時間が来てくれる必要があった。で、それまでわが主人公は何一つ実行しないことにした。しかし、やがて退庁時間になったら、ある一つの方法をとることにしよう。そうしたら、その方法をとったら、いかなる行動に出たらいいかもわかるし、高慢の角を折って陰謀の蛇を踏み潰し、意気地なく土を噛むところを見て快哉を叫ぶためには、どんなふうに行動計画を立てたらいいかもわかって来るだろう。泥靴を拭くぼろきれ同然に取り扱われることは、ゴリャードキン氏として忍び得ないところであった。とくに現在いまの場合、それに甘んずることは不可能だった。先ほどの侮辱事件がなかったならば、わが主人公もあるいは胸をさすって沈黙を守り、屈服し、あまり頑強に抗議しないことに決心したのかもしれない。ただちょっと論争してほんの少しばかり抗議を唱え、自分に理のあることを証明しようとし、その後でいくらか譲歩し、さらにその後でまたいくらか譲歩するというふうにして、最後には完全に妥協してしまったかもしれない。その後で、もし先方が彼の権利を真正面から立派に認めてくれたら、和睦すらしたかもしれない。少々くらいは感激の涙さえ流して、もしかしたら、だれ知ろうことか、新しい友情すら復活したかもしれないのだ。それは昨夜のよりもさらに強い、熱烈な、広い気持ちの友情で、この友情がついにはかなりぶしつけな事情、二人がかくも酷似しているという不愉快な事情を抹殺してしまい、両九等官は嬉々として生活を楽しみ、結局、百歳までも仲よく暮らすことになるかもしれないのだ。こうなればいっそすっかりいってしまおう。ゴリャードキン氏は自分の人格と権利を擁護しようと考え、さっそくそのために不快をなめさせられたのを、いささか後悔さえし始めたのである。『あの男さえ折れて出れば』とゴリャードキン氏は考えた。『あの男さえ、あれは冗談だったといえば、おれはゆるしてやるんだがなあ、大いに気前よくゆるしてやったんだがなあ。ただ、それをはっきりと声明さえすればいいんだ、しかし、おれは、自分をぼろっきれ扱いにはさせやしないぞ。もっと上等の人間にだってそんな真似をさせやしなかったんだもの、まして堕落した人間にそんな僭越な真似をさせてたまるものか、ぼくはぼろっきれじゃないんだよ、きみ、ぼろっきれじゃないんだからね!』ひと口にいえば、わが主人公は腹を決めたのである。『え、きみ、きみのほうが悪いんだよ!』つまり、彼は抗議する、全力をつくしてあくまで抗議することに、決心したのである。なにぶんにもこうした人間だったのである! 彼はなんとしても、侮辱されて黙っているような男ではなかった。ましてぼろっきれ扱いにされること、――すっかり堕落しきった人間にそんな真似をされることは、我慢がならなかった。もっとも、わたしたちはあえていい張りはしない、あえて争うことはしまい。だれにもせよぜひともゴリャードキン氏をぼろっきれにしてやりたいという気を起こした者は、確かにそうすることができたであろう、なんの抵抗も受けずぬけぬけとやりすますことができたに相違ない(ゴリャードキン氏自身も、時とするとそれを感じるのであった)。その結果、ゴリャードキン氏はゴリャードキン氏でなく、一片のぼろっきれになったことであろう、胸の悪くなるような汚らしいぼろっきれになりすましたことだろうが、しかしそれは自尊心を持ったぼろっきれなのである、魂と感情を持ったぼろっきれなのである。もっとも、そのぼろっきれの汚ない襞の奥深く隠されて鳴りをしずめている自尊心であり感情であるが、それでもやはり感情に相違ない……
 時間のたつのがあきれるほど遅かった。そのうちにようやく四時が打った。ややあって一同は席を立って、上官の後からめいめい家路についた。ゴリャードキン氏は群衆の中にまぎれ込んだ。彼の目は見のがしてならぬ人をどこまでもつけまわしていた。ついにわが主人公は、例の友人が外套をみんなに渡している玄関番のところへ走って行き、いつものいやらしい癖で、その辺をちょこまかしながら、自分の番を待っているのを見つけた。それはのるかそるかの瀬戸際であった。ゴリャードキン氏はどうにかこうにか群衆を押し分けて前へ割りこみ、人に遅れじと外套の催促をはじめた。しかし、外套はまずゴリャードキン氏の親友に渡された。それは彼がここでもいち早く例の調子でよろしく立ちまわってうまく取り入り、こそこそと卑劣な小細工をやったからである。
 外套を肩に羽織ると、新ゴリャードキン氏は、じろりと皮肉な目つきで旧ゴリャードキン氏を一瞥した。それによって、公然と厚かましくも彼に挑戦していることを示したわけである。それから、独特のずうずうしさであたりを見まわして、役人達のまわりをめまぐるしくちょこまかし始めた、――おそらく、有利な印象を一同の心に残しておこうというつもりであろう。ある者には何かちょっと一こと声をかけ、またある者にはひそひそ話をし、第三のものにはうやうやしげに接吻し、第四のものには微笑を送り、第五のものには握手して、いそいそと階段を小走りに下りて行った。旧ゴリャードキン氏はその後を追って、最後の一段というところで相手に追いつき、その外套の襟に手をかけた時、彼のよろこびは筆紙につくし難いほどであった。見かけたところ、新ゴリャードキン氏はいくらか怯気づいた様子で、狼狽したらしい顔つきで、あたりを見まわした。
「きみの仕打ちは、なんと解釈したらいいんでしょうね?」と、ついに彼は弱々しい声で、ゴリャードキン氏にささやいた。
「ねえきみ、もしきみが潔白な人間なら、ゆうべ二人の間に成立した友情関係を想い出してくれたまえ」とわが主人公は口を切った。
「ああ、そのことですか。ときに、どうです? 昨夜よくやすみましたか?」
 旧ゴリャードキン氏は憤怒のあまり、とみに言葉も出なかった。
「ぼくはよく寝ましたよ……しかし、きみ、一言いわしてもらいたいが、きみのからくりは実に手のこんだものだね……」
「だれがそんなことをいってるんです? それはぼくの敵がいってるんでしょう」ゴリャードキン氏と自称する男は、きれぎれにいった。そういうと同時に、思いがけなく、本物のゴリャードキン氏の力ない手を振りほどいた。振りほどいたかと思うと、彼は階段ぎわから駆け出して、あたりを見まわした。一台の辻待ち馬車が目に入るが早いか、その傍へ馳せ寄って、馬車にひらりと飛び乗ると、あっという間に、ゴリャードキン氏の視界から姿を消してしまった。一同から見棄てられた九等官は、絶望のていであたりを見まわしたが、もはや辻馬車はほかに一台もなかった。彼は駆け出そうとしたが、膝頭ががくがくして走れない。間の抜けた顔をして、口をぽかんと開けたまま、叩きのめされたような気持ちで、しおしおと身を縮めて、彼はぐったりと街燈に身をもたせた。そして、しばらくの間はそうしたままで、歩道の真中に立ちつくしていた。ゴリャードキン氏にとっては、何もかも亡びつくしたように思われた……

[#4字下げ]第9章[#「第9章」は中見出し]

 どうやらいっさいのものが、自然そのものでさえが、ゴリャードキン氏を向こうへまわして武装しているようであった。しかし、彼はまだ倒れてもいないし、征服されてもいなかった。彼は自分がまだ征服されていないのを感じた。彼は一戦を挑むだけの用意があった。最初の驚きからわれに返ったとき、激しい感情をこめて力任せに両手をすり合わせたので、ゴリャードキン氏のその様子を見ただけでも、これはなかなか我を折りそうもないぞということがわかるほどであった。しかし、危険はつい鼻の先に迫っている、それはまぎれもないことだ。ゴリャードキン氏はそのことをも感じていた、が、その危険をいかにして処理するか? これが問題であった。ちょっといっときゴリャードキン氏の頭に、『何もかも、このままうっちゃっといたほうがよくないだろうか、あっさりと手をひいてしまったほうがいいのじゃないかな?』という考えがひらめいたほどである。『いったいどうしたっていうんだ? なあに、なんでもありゃしない。まあ、おれはおれ自身でないかのようにして、勝手に独立行動をとってやろう』とゴリャードキン氏は考えた。『何もかも傍を素通りさせてやろう。おれの知ったことじゃないというふうにするんだ、それだけのことだ。あいつはまたあいつで勝手にやって、やがていつかは手をひくだろう。悪党め、しばらくちょこちょこやって引っかきまわしたら、それで手をひくだろう。それだけのことさ! おれは穏便主義で勝ちをしめることにしよう。だが、いったいどこに危険があるのだ。第一、危険とはなんだろう? だれでもいいからこの事件のどこに危険があるのか教えてもらいたいもんだな。くだらない話だ! ありふれた話だ!………』ここでゴリャードキン氏は、はたとつまった。言葉が舌の上で消えてしまった。彼はこのような考えをいだいた自分を罵りさえしたのであった。それどころか、このような考えをいだく自分を、卑怯である、臆病であると感じたほどだった。が、それにしても、仕事は一歩も進んではいないのだ。目下の彼としては、何事かを決心するのが第一の喫緊事であると感じ、はたして何を決心したらいいか助言してくれる人があったら、いかなる報酬をも惜しまないだろう、という気がしたくらいである。さて、いったいどうしてそれを洞察したものか? とはいえ、洞察などしている暇もなかった。いずれにしても、時間を浪費しないために、彼は辻馬車をやとってわが家へ飛ばした。
『どうだ? お前は今どんな気持ちがしている?』と彼は心の中で考えた。『え、ヤーコフ・ペトローヴィチ、いったいあなた様は今どんなお気持ちでいらせられますか? 本当にお前はどうするつもりなんだ? これからきさまはどうしようてんだい、この悪党のならずものめ! 自分で自分を最後の土壇場まで追いこんで今さらめそめそ泣いてるじゃないか!』とゴリャードキン氏は、がたがたの辻馬車の揺れるたびに体を跳らせながら、われとわが身をからかうのであった。『まあ、今かりに魔法使がやって来て、いや、お上の命令としてもかまわない、――おい、ゴリャードキン、右手の指を一本切って出せ、そうすれば、お前の勘定は棒引きにしてやって、もう一人のゴリャードキンはないものにしてやる、そしてお前は幸福な身の上になるのだ、が指一本だけは失わなくちゃならん、ともしこんなふうにいったら、おれは指一本切って渡しただろう、必ず切って渡したに相違ない、眉一つ動かさないで渡したに相違ない。ふん、そんなことくらいくそくらえだ!』と絶望した九等官は、最後にこう叫んだ。『いったいなんだってこんなことができたんだろう? いや、これも約束事でしょうがないんだろう。ほかならぬこういうことに、必ずなければならぬ約束事だったんだろう! 初めのうちは何もかも具合がよくて、みんな満足して幸福だったのに、急に情勢一変して、こんなことにならなければならなくなったのだ! だが、口でいくらいったって、なんにもなりゃしない。行動しなくちゃ駄目だ』
 こうして、ついに何事かをほとんど決心したゴリャードキン氏は、自分の部屋へ入ると、いきなりパイプを引っつかみ、一生懸命に吸い立てては、煙の輪を右へ左へと吹き散らしながら、なみなみならぬ興奮の体《てい》で、部屋の中をあちこち駆けまわりはじめた。その間に、ペトルーシカは食卓の用意にかかった。とうとうゴリャードキン氏は最後のはらを決めて、ふいにパイプをほおり出し、外套をひっかけて、家では食事をしないというなり、そのまま外へ飛び出した。階段の上で、ペトルーシカが彼の忘れた帽子を手に、息を切らしながら追いかけて来た。ゴリャードキン氏は帽子を受け取ると、ペトルーシカが何か妙なふうに考えないために、じつはかくかくの事情で、ちょっと帽子を忘れたのだとかなんとかいって、簡単にペトルーシカの手前をつくろっておこうかと思った。けれども、ペトルーシカが主人の顔を見ようともしないで、さっさと行ってしまったので、ゴリャードキン氏はそのうえくどくどいわずに、帽子をかぶって階段を駆け下りた。そして、もしかしたら、何もかもいいほうに向かって、なんとかまるくおさまるかもしれないとひとり言をいいながら、踵のあたりに変な寒気を感じてはいたけれども、通りへ出て辻馬車をやとい、アンドレイ・フィリッポヴィチの住居へ飛ばして行った。――だが、明日のほうがよくはないだろうか?』とゴリャードキン氏は、アンドレイ・フィリッポヴィチの住居の入口に立って、呼鈴の紐に手をかけながら、こう考えた。『いったい、あらたまって何をいうつもりだ? この際、あらたまっていうことなんか、なんにもないじゃないか。事柄はじつにみじめなものだ。まったくどうもみじめなとるにもたらぬ、いや、ほとんどとるにもたらぬ事柄なんだからな……それがこの事件の全貌なんだ……』
 突然ゴリャードキン氏はぐいと呼鈴の紐を引いた。呼鈴ががらがらと鳴って、中でだれかの足音が聞こえた。その時………ゴリャードキン氏は多少自分のせっかちと厚かましさを呪いたい気持ちさえした。さまざまな出来事のために、ゴリャードキン氏が度忘れしていた先頃からの不快ないきさつ、アンドレイ・フィリッポヴィチとの不和、それがふと記憶によみがえってきた。しかし、逃げ出そうにももう遅かった。入口の扉が開いた。ゴリャードキン氏にとって仕合わせなことには、アンドレイ・フィリッポヴィチはお役所から宅へお帰りになりません、食事も家ではなさいません、という返事であった。
『あいつがどこで食事をするか、ちゃんと知っているぞ。イズマイロフスキイ橋のそばで召しあがるに決まっていらあ』とわが主人公は考えて小おどりせんばかりに喜んだ。あなた様のことを何と申しあげましょうかという従僕の問いに対して、いや、なに、きみ、よろしい、ぼくは、きみ、また後で、と答えて、やや元気づいた様子さえ示しながら階段を駆け下りた。往来へ出ると、彼は馬車を返すことにはらを決めて、馭者に勘定をすました。馭者が、だんな、ずいぶんお待ちしたんですし、馬も惜しげなく追い立てたのですから、といって増しをねだった時、ゴリャードキン氏はむしろ二つ返事で五コペイカの増しをやって、自分はてくてく歩き出した。
『しかし、どうもこの事件は』とゴリャードキン氏は考えた。『このままうっちゃっておけない筋合いのものだ。とはいうものの、もしこんなふうに考えると、こんなにようく考えると、いったいなんのために、実際の話、こうあくせくすることがあるのだ? いや、おれはどこまでも同じことばかりいいつづけるが、いったいなんのためにあくせくすることがあるのだ? なんのためにもがいたり、じたばたしたり、苦労したり、くよくよしたりするのだ? 第一、もうできてしまったことで、取り返しはつかんのじゃないか……どうにも、取り返しはつかんのじゃないか! 一つこんなふうに考えてみよう、ここに一人の男が現われた、――相当な推薦もあるし、仕事もできるし、品行もいい役人だが、ただ貧乏で、いろいろつらい目も見て、何かいざこざもあった、――が、しかし、貧は罪にあらずというじゃないか、してみると、おれはほんの局外者というわけだ。いや、本当になんというつまらない話だ! たまたまある一人の人間が造化の戯れによって、いま一人の人間と瓜二つ、完全なコピイといってもいいほど似通っている、とまあいった具合に創られたとする。ところで、ただそれだけのために、その人間は役所に採用まかりならん、などという法があるだろうか? もし運命が、単なる運命が、盲目な運命の女神が、これに対して責を負うべきであるとすれば、その人間をまるでぼろっきれのようにおっぼり出して、勤めにもつかしてやらないなんてやり方が、はたして本当だろうか……そんなことをして、正義はいったいどこにあるのだ? なにしろ貧しい、いじめつけられた、よるべのない人間じゃないか。この場合、人情が、同情心が、あの男を庇護してやれと命じるわけだ! そうとも、もしこの際、役所の上官たちがこのやくざなおれと同じような考え方をしたら、それこそけっこうな上官だ、いうがものはありゃしない! ああ、おれはなんという馬鹿者だったろう! どうかすると、お話にならない馬鹿をやらかすんだからなあ! いけない、いけない、上官たちがあの憐れな貧乏男に目をかけて、世話をしたのは本当にいいことだ、まさにありがとうといわなくちゃならないんだ……早い話が、おれ達は双生児だとしてもいいじゃないか、生まれながらの双生児の兄弟、ただそれだけのことさ、――そうとも、ふん、それがいったいどうしたというのだ? なあに、なんでもありゃしない! 役所の同僚たちは馴れるように仕向けるんだ……外部の人は役所へ入って来ても、別にこの事実をぶしつけだとも思わなければ、失礼だとも感じないに決まっている。それどころか、何か感動をそそるようなとこさえあるほどだ。つまり、なんという思いつきだろう、神のみこころによって、何から何までそっくり同じ二人の人間がっくり出された、しかも有徳な上官たちが神のみこころを見て、二人の双生児を手もとに引き取った、というわけで。そりゃもちろん』とゴリャードキン氏は息をつぎ、やや声を低めて言葉をつづけた。『そりゃもちろん、……そりゃもちろんこういう感動的なことがいっさいなにもなく、双生児もてんでなかったら、そのほうがよかったに決まっている……そんなものは鬼にでも掠われちまえだ! そんなものがなんのために必要だったのだ? いったいどういう特別な、一刻の猶予も許さぬような必要があったというのだ! やれやれ、なんたることだ! なんという厄介千万なことがもちあがったんだろう、いまいましい! だが、なにぶんにも、あいつはああいうたちの男だ、ふざけたいやな性分の悪党で、おっちょこちょいのおべっか使いだ、まったくとんだゴリャードキンもあったものだ! おそらくこれから先も、もっとひどいやり方をして、おれの苗字に泥を塗ることだろう、ちくしょうめ。だから、今もこうしてあいつから目を離さぬようにして、後を追いまわさなけりゃならん! はてさて、なんたる因果な話だ! だが、どうもしかたがない。なに、かまうものか! まあ、あいつが悪党なら悪党としておけばいいんだ、その代わり、こっちは正直者なんだからな。なに、あいつは悪党だが、おれは正直にやっておこう、そうすると、人がいってくれるだろう、――ほら、ゴリャードキン氏は悪党だから、こいつにはかまわずにおきたまえ、こいつをもう一人のほうと間違えないようにしたまえ。ところが、ほら、こっちのほうは正直者で、善行家で、謙遜で、おとなしく、勤務のほうも前途きわめて有望で、昇進させる価値がある、とまあ、こういったようなわけさ! いや、けっこう……ところが、もしひょっと……もし皆がひょっと……二人をいっしょくたにしたらどうだろう! あいつのことだから、何をやらかすか知れやしない! ああ、情けない!………人間一人すり変えてしまう、畜生、すり変えてしまいやがるに相違ない、――人間をまるでぼろっきれのようにすり変えちまって、人間がぼろっきれでないってことを、考えようともしないだろう。ああ、情けない! なんという災難がふりかかったものだ!』
 こんなふうに思案をめぐらしたり、愚痴をこぼしたりしながら、ゴリャードキン氏は道筋に頓着なく、自分でもどこへ行っているのやらわがらずに、どんどん走りつづけた。ネーフスキイ通りで初めてわれに返ったが、それも一人の通行人と目から火が出るほど、がんとばかりお誂えどおりに鉢合わせをしたので、やっと気がついた次第である。ゴリャードキン氏は頭も上げずに詫びをいった。そして、通行人が何かあまりありがたくないことをぶつぶついって、かなりな距離に遠ざかった時、はじめて鼻をつき上げて、自分はいったいどこにどうしているのかと、あたりを見まわした。よく見まわして、そこは先日オルスーフィ・イヴァーノヴィチの晩餐会に出かけようとして、ちょっと休憩した例の料理屋のそばであることに気がつくと、わが主人公は急に、胃の腑がきゅうきゅういい出したような気がした。まだ食事をしていないし、別にどこの晩餐会にも呼ばれてはいないのだと思い出すと、貴重な時間を一刻も無駄にしないために、料理屋の階段を馳せ昇った。ぐずぐずせずできるだけ急いで、すばやく何か腹ごしらえをしようというのである。この料理屋は何でも少々高いのであったが、今はゴリャードキン氏も、そんな些細なことに拘泥していられなかった。第一そういうつまらないことにかかずらっている暇がないのであった。煌々と照らし出された部屋の中では、身分のある人々がちょっとひと口やるのに恰好なものが、品をつくして並べられている売台の傍に、かなり大勢の客が押しかけていた。番頭は酒をついだり、料理を出したり、渡したり、金を受け取ったりするのに忙殺されていた。ゴリャードキン氏は順番が来るのを待っていたが、ようやく番が来たので、肉饅頭にそっと手を差し伸べた。隅っこのほうへ行って、一同に背を向けたまま、うまそうに食べ終わると、彼は番頭のほうへ振り返って、皿を台の上に戻し、値段を知っているので、十コペイカの銀貨を取り出し、その金を台の上に置きながら、番頭の視線をとらえようとした、つまり、『そこに金が置いてあるよ、肉饅頭一つ、云々』というこころを伝えようと思ったのである。
「あなた様は一ルーブリと十コペイカちょうだいします」と番頭は、歯の間から押し出すような声でいった。
 ゴリャードキン氏はひどく面くらった。「それはぼくのことかね?……ぼくは……ぼくは肉饅頭一つもらっただけのはずだが」
「十一お取りになりました」と番頭は確信のこもった調子でいった。
「きみは……ぼくの覚えている限りでは……それはきみの思い違いらしいよ……ぼくはまったく一つきりっきゃ取らなかったはずなんだが」
「わたしは勘定しておりましたので、あなたは十一お取りになりました。おあがりになった以上、払っていただかなけりゃなりません。わたしどもでは何一つ無料では差し上げないんですから」
 ゴリャードキン氏は度胆を抜かれてしまった。『いったいこれはなんだろう、何か魔術にでもかけられてるんだろうか?』と彼は考えた。その間にも、番頭はゴリャードキン氏の返事を待っていた。人々はゴリャードキン氏を取り巻いた。ゴリャードキン氏はさっそく勘定を払ってしまって、とんだ災難をのがれようと、ポケットに手を突っこんで、一ルーブリ銀貨を取り出そうとした。『なに、十一なら十一としとけ』と彼は蝦のように真っ赤になって、こう考えた。『ふん、肉饅頭を十一食ったからって、それがいったいどうしたっていうんだ? 人間、腹がへってりゃ肉饅頭十一だって食べようじゃないか、それなら、勝手に食べさしといたらいいのさ。何もあきれることはありゃしない、何も笑うことはありゃしない……』
 ふいにゴリャードキン氏は、何かにちくりと刺されたような気がした。彼はふと目を上げた、――とたちまち謎は解けてしまった。魔術の種がそっくりあがったのである。いっさいの困難は解決されてしまった……次の間に通ずる戸口に、番頭とはほとんど背中合わせ、ゴリャードキン氏とはまともに向き合って、一人の男が立っていた、――わが主人公は今までその戸口を姿見だと思っていたのである、――立っていたのは彼、すなわちゴリャードキン氏自身であった、といっても、物語の主人公である旧ゴリャードキン氏ではなく、もう一人のゴリャードキン氏、新しいゴリャードキン氏なのである。第二のゴリャードキン氏は、この上もないご機嫌でいるらしかった。彼は第一のゴリャードキン氏に、にこにこ笑いかけたり、うなずいたり、ウィンクをしたりして、両足を小刻みに動かしていたが、その様子はちょっとでも何かあったら、そのまま次の間に姿を消して、それから裏口づたいに、どろんをきめこみ、……そのあとはいくらさがしても無駄ですぞ、とでもいいたそうなふうであった。その手には十食った最後の肉饅頭がまだ一かけら残っていたが、彼はそれをゴリャードキン氏の見ている前で口へほおり込み、さもうまそうに舌打ちした。
『すり変えやがった、あんちくしょう!』とゴリャードキン氏は、羞恥のあまり火のようにあかくなって、こう考えた。『公衆の面前さえ恥としないんだからな? みんなはあいつを見ているのかしらん? どうやら、だれ一人として気がつかないらしい……』ゴリャードキン氏は、まるで掌をすっかり火傷でもしたように、握っていた一ルーブリ銀貨をほおり出し、番頭の意味ありげな厚かましい微笑、落ち着き払った偉力と勝利の微笑には気もつかず、人々の間をすり抜けて、後をも見ずにそこを飛び出した。『せめて世間へ顔出しもできないほど赤恥をかかされなかったのがまだしもだ!』と旧ゴリャードキン氏は考えた。『まあ、何もかも無事にすんだだけでも、あの泥棒野郎にも運命にもありがとうといわなけりゃならない。ただ番頭がちょっと失礼なことをぬかしただけだ。でもしようがない、あいつにはそれだけの権利があったんだもの! 一ルーブリ十コペイカの勘定になる以上、あいつにはその権利があったのだ。わたしどもではただでは何一つさしあげないんですから、だと! ちっとは言い方もありそうなもんだに、恥知らずめ!………』
 ゴリャードキン氏は、階段を出入口へ向けて駆け下りながら、これだけのことをしゃべったのであった。しかし、最後の一段というところで、とつぜん釘づけにされたように足をとめ、顔を真っ赤にした。自尊心を傷つけられた悩みに、涙さえ目頭に浮かんできたほどである。彼は三十秒ばかり棒立ちになっていたが、ふいに思い定めたようにとんと一つ足踏みをして、たった一とびに入口階段から往来へ飛び下りると、後をも見返らず、疲れをも忘れ果てて、息を切らしながらシェスチラーヴォチナヤ街なるわが家をさして駆け出した。家へ帰ると、いつもならゆったりした服装《なり》にかえる習慣になっているのに、上衣さえ脱がず、先にパイプにも手を触れないで、いきなり長いすに腰をおろし、インキ壺を引き寄せ、ペンを手に取り、便箋を取り出して、興奮のあまり震えわななく手で、次のような手紙をみとめはじめた。
「ヤーコフ・ペトローヴィチ様! ここに小生が筆をとったのは、一身上の事情ならびに貴兄自身が、小生をしてこの行為に出でしめたからであって、さもなくばかような手紙をさしあげはしなかったはずであります。ただただやむを得ざる必要が、小生をして貴下とかくのごとき折衝をなさしめるものであることを信じていただきたい。右の次第ゆえ、まず第一に小生のこの措置をもって、貴下を侮辱せんとする故意の計画とお考えなきよう、これはひとえに目下われわれ両人を結ぶ事情より生じた、必至の結果なのであります」
『どうやら、これでいいらしい、上品でもあり、丁寧でもあり、それでいて力もあれば、断固としたところにも欠けてはいない……これなら、あの男も腹を立てる気遣いはないだろう。それに、おれはちゃんと正当な権利を持っているのだからな』ゴリャードキン氏は、自分の書いた文章を読み返しながら考えた。
「かの嵐の夜、敵どもの――その名は蔑視してあえて口にしません、――粗暴かつ無礼なる応対を受けて帰る途中、思いがけなく小生の面前に貴下は初めて姿を現わされましたが、その奇怪なる出現こそ、目下われわれの間に存在するいっさいの紛擾の胚子となったのであります。貴下は、あくまでおのれの素志を貫徹し、暴力をもって小生の生活圏に闖入し、小生の実際関係の範囲内に参与せんと希望しておられるようですが、それは単なる礼節からいっても、社会共存の作法からいっても、矩《のり》をこえるものといわなければなりません。貴下が上官の愛顧、不当なる愛顧を得んがために、小生の作成せる書類ならびに小生の潔白なる名誉を掠奪されたことは、今さらここに喋々する必要がないと愚考します。またこれに関して、当然必要なる弁明をも故意に忌避さるる無礼についても、あらためて指摘するの要を認めません。最後に、何もかも申しあげますが、最近あの料理店で貴下のとられた奇怪な、いわば不可解な行動についても、ことごとしく敷衍《ふえん》しません。まして、無益に消費した銀貨一ルーブリの損害を訴えようなどという考えは、もうとうありません。しかし、貴下が明らかに小生の名誉を侵害せんとの意図を示さるるに至っては、想起するだに憤懣を禁じ得ないのであります。ことに衆人環視の前であり、しかもそれらの人々は小生にとって面識のない人々ではありながらも、相当の身分の人々と見受けられるにおいてをやであります……」
『これではあまりいいすぎやしないだろうか?』とゴリャードキン氏は考えた。『薬がきき過ぎはしないだろうか、失礼にすぎやしないだろうか? たとえば、この相当の身分云々というあてこすりなどは、どうだろう?………なに、かまうものか! こっちの腹のしっかりしたところを見せてやらなくちゃならない。もっとも、やつの気をやわらげるために、しまいのほうでちょっと鼻薬をかがせて、ご機嫌とりを書いてやってもいいんだ。これでひとつどんなものだ』
「とはいえ、小生がかかる書面を呈して、貴下を煩わすゆえんのものは、貴下の高潔なるご心情と公明率直なるご性格が、すべての過誤を正して、いっさいを旧に復せしむるの方法を貴下自身に示すものと、確信するがゆえであります。
 小生は、貴下がこの書を侮辱と解せられることなく、また特にこの機会に使いの者に弁明の返書を託せらるるものと、満腔の期待を抱懐する次第であります。匆々
敬具。
[#地から1字上げ]ヤー・ゴリャードキン」
『さあ、これですっかりよしと。事はついにここまできて、手紙まで出すようになった。しかし、それはだれの罪だ? あいつ自身が悪いんじゃないか、人に文書を要求するような羽目にまで追いこみやがって。おれは正当のことをやってるまでなんだからな……』
 最後にもう一ど手紙を読み返した後、ゴリャードキン氏はそれを畳んで封筒に入れ、ペトルーシカを呼んだ。ペトルーシカは例によって寝ぼけ眼をし、なんだかひどく腹立たしげな様子でやって来た。
「さあ、この手紙を持って行くんだ……いいかい?」
 ペトルーシカは押し黙っていた。
「こいつを持って役所へ行くんだ。そして、当直書記のヴァフラメーエフをさがすんだ。今日はヴァフラメーエフが当直なんだから。わかったか?」
「わかりやした」
「わかりやした! どうして、承知いたしましたといえないんだ。書記のヴァフラメーエフに会って、これこれしかじかでだんな様がよろしくとおっしゃいました、それから役所の名簿を調べて、九等官のゴリャードキンの住所を知らせていただきたいと、くれぐれもお頼みになりました、とこういうのだ」
 ペトルーシカはやはり黙りこんでいたが、ゴリャードキン氏の目には、にやりと笑ったような気がした。
「おい、いいか、ピョートル、よく頼んでな、こんど入ったゴリャードキンという役人の住いはどこか教えてもらうんだぞ」
「かしこまりました」
「住所をたずねて、その所番地へこの手紙を持って行くんだ。わかったか?」
「わかりやした」
「もしそこで……つまり、この手紙を持って行った所で、――手紙の受取人のゴリャードキンという紳士が……貴様なにを笑ってるんだ、この間抜けめ?」
「何をわっしが笑うことなんかありますもんで? わっしがどうするもんですかね! わっしゃどうもしやしません。わっしら風情が笑うことなんかありゃしませんや……」
「いや、まあそこでだ……もしその紳士が何かたずねたら、――つまり、お前のだんなはどうだ、何をしている……とかなんとかきき出そうとしたら、お前はただ黙ってるがいい、そしてうちのだんなは別にお変わりありません、じきじきご返事をちょうだいして来いとおっしゃいました、とこういうんだ。わかったかい?」
「承知いたしました」
「さあ、いいか、だんなは別にお変わりがなくて、お達者でいらっしゃいます、これからどこかへ訪問にお出かけのところでございます、が、あなた様からはご返書をいただいて来いとのお申しつけでございました、というんだぞ。わかったか?」
「わかりやした」
「じゃ、行け」
『いやはや、あの間抜けを使うのもひと苦労だ! 一人でにやにや笑うだけ、それだけの能しかありゃしない。いったいなにを笑ってやがるんだろう? とうとうこんな災難にぶっつかってしまった、ひどい災難にぶっつかってしまったわい! もっとも、これがまたみんないいほうへ逆転するかもしれないのだが……あのやくざ野郎め、きっとものの二時間くらいうろつきまわったあげく、おまけにどこか行き方しれずになるくらいが落ちだろう……どこへひとつ使いに出すこともできやしない。なんという厄介千万な話だ!………まったくなんという災難に見舞われたものだ!……」
 こうして、つくづくわが身の不幸を感じながら、わが主人公はペトルーシカの帰って来るまで、二時間のあいた消極的役割を選ぶことにはらを決めた。かれこれ一時間ばかり、彼は煙草をふかしながら、部屋の中を歩きまわっていたが、やがてパイプを棄てて、何かの本を取り上げた。それから長いすに横になったと思うと、今度はまたパイプに手を伸ばし、それから再び部屋を歩きまわりにかかった。彼はとっくり思案したかったのだが、まるっきり何一つ考えることができなかった。ついにこの消極的な状態から来る苦しさが極度にまで達した。で、ゴリャードキン氏はある方法を取ることに決めた。『ペトルーシカが帰って来るまでには、まだ一時間ある』と彼は考えた。『だから、門番に鍵を預けて、おれはその間に、なんだ……事態を究明しよう、自分の立場から事態を究明しよう』一刻も時を無駄にしないで、事態を究明しようという目的で、ゴリャードキン氏は帽子を取り上げ、部屋を出て入口に戸締りをし、門番のところへ寄って鍵を預け、十コペイカ握らせて、――ゴリャードキン氏はなんだかむやみに気前がよくなった――目ざす所をさして歩き出した。ゴリャードキン氏は徒歩で、まずイズマイロフスキイ橋へ向かった。歩いている間に三十分ばかりかかった。目的の場所まで着くと、彼は例の馴染みの深い家の内庭へ真っ直ぐに入って、五等官ベレンジェエフの住居の窓を見上げた。赤いカーテンを下ろした三つの窓を除けて、ほかはみんな暗かった。『今日はきっとオルスーフィ・イヴァーノヴィチのとこにお客が来ていないのだろう』とゴリャードキン氏は考えた。『今頃は家の人だけでいるのだろう』しばらく内庭にたたずんでいたわが主人公は、早くも何事かを決行せんとする気配であった。しかし、察するところ、彼の決意は実現されない運命をになっていたらしい。ゴリャードキン氏は考え直して片手を振り、往来へ引っ返した。『いや、おれの行くベき所はここじゃなかった。ここでいったいなにをしようというのだ?………今はそれより、なんだ……自分で親しく事態を究明することだ』こうはらを決めて、ゴリャードキン氏は自分の役所へ急いだ。道のりは遠かったし、おまけに、ひどいぬかるみで、べた雪が霏々《ひひ》として降りしきった。しかし、わが主人公にとっては目下のところ、困難などというものは存在しないらしかった。なるほど、びしょ濡れにはなっていたし相当泥だらけにもなったけれど、『こうなったら、もうどうせ同じことだ、その代わり目的は到達されたのだ』事実、ゴリャードキン氏は目的に近寄りつつあった。巨大な官庁の建物が、早くも黒々とかなたに見えて来た。
『待てよ!』と彼は考えた。『おれはどこへ行ってるんだ、そしてここで何をするつもりなんだ? かりにあいつの居所を突き止めるにしても、しかし今頃はもうペトルーシカが、返事を持って帰って来てるに相違ない。おれは貴重な時間を浪費してるんじゃないか、おれは時間を無駄に浪費したばかりだ。なに、平気だ、それはまだ取り戻しがつくさ。が、それにしても、本当にヴァフラメーエフのとこへ寄ってみたものかな? ふん、いや、よそう! いっそ後で……ちぇっ! 何も出て来る必要なんかなかったんだ。いや、どうもこうした性分なんだ! こうした癖なんだ、必要があろうがなかろうが、たえずやたらに先へ先へと飛び出したがるんだからな……ふむ! 何時だろう? きっともう九時になるだろう。ペトルーシカが帰って来て、おれが留守だなんてことになったらいかん。おれも外へ出るなんて、どうも馬鹿なことをやったものだ……やれやれ、まったくお笑い草だ!』
 こういったわけで、とんだ馬鹿をしたものだと、つくづく後悔しながら、わが主人公はシェスチラーヴォチナヤ街のわが家をさして引っ返した。ようやく帰り着いた時には、へとへとに疲れ切っていた。おまけに、門番から聞くと、ペトルーシカは帰って来た気配もないとのことであった。『そら、このとおりだ! おれはそのくらいのことだろうと思っていたよ』とわが主人公は考えた。『それにしても、もう九時だ。ちぇっ、本当になんてしようのない野郎だ! いつももう決まってどこかで飲みくらってやがるんだ! やれやれ! 今日はなんという厄日だろう、泣っ面に蜂だ!』こんなふうに考えたり、愚痴をこぼしたりしながら、ゴリャードキン氏は自分の住居の扉を開けて、あかりをともし、上のものをすっかり脱ぎすてて、煙草を一服し、まるで、打ちのめされたように、疲れてへとへとになり、すき腹をかかえながら、ペトルーシカを待つ間、長いすに身を横たえた。ろうそくはどんよりと燃え、その火影が壁の上に震えていた………ゴリャードキン氏はそれをじっと見つめ、しきりにもの思いに耽っているうち、とうとう、死人のように寝こんでしまった。
 目をさました時には、もう夜はふけていた。ろうそくはほとんど燃えつきんとして、ぶすぶすと煙り、今にも消えてしまいそうであった。ゴリャードキン氏は跳ね起きて、ぶるっと身震いすると、何もかもすっかり思い出した。仕切りの向こうから、ペトルーシカの大きな鼾が聞こえてきた。ゴリャードキン氏は窓ぎわへ飛んで行った、――どこにも、あかり一つ見えなかった。通風窓を開けると、外はひっそりと静まって、街は死に絶えたもののように眠っていた。きっと二時か三時頃であろう。はたせるかな、仕切りの向こうで時計がじいときしんだと思うと、二時を打った。ゴリャードキン氏は仕切りの向こうへ飛んで行った。
 長いこと苦心した結果、とにかく、やっとペトルーシカを揺すぶり起こして、寝床の上に坐らせることができた。その時ちょうど、ろうそくがすっと消えた。ゴリャードキン氏が代わりのろうそくをさがし出して、あかりをつけるまでには、十分間ばかりかかった。その間に、ペトルーシカは、またぞろ寝こんでしまった。「ええ、この悪党め、ええ、このやくざ者め!」とゴリャードキン氏は、再び彼を揺すり起こしながらいった。「おい、起きないか、目をさまさないか?」三十分ばかり苦心したあげく、ゴリャードキン氏はどうやらこうやら、従僕を揺すぶり起こして、仕切りの外へ引っ張り出すことができた。その時はじめて気がついて見ると、ペトルーシカはいわゆる泥のように酔っ払って、立っているのもやっとのことであった。
「なんてしようのない野郎だ!」とゴリャードキン氏はどなりつけた。「この悪党め! こいつおれの命を縮めやがる! ああ、いったい手紙はどこへ置いて来やがったんだろう? やれやれ、情けない、まあ、いったいどうして……おれはなんのためにあんな手紙を書いたんだろう? あんなものを書く必要がどこにあったのだ? おれはつい自尊心にかられて、前後の見境いもなしに書いてしまったんだ! 人並みに自尊心なんか持つもんだから! これがお前の自尊心だ、ちくしょうめ、お前の自尊心はこれくらいのもんだ!………さあ、こら! 手紙はいったいどこへやったんだ、この悪党め? だれに渡したんだ?………」
「手紙なんて、てんでだれにも渡しゃしませんよ。第一、初めっから手紙なんか持ってやしなかった……そうだとも!」
 ゴリャードキン氏は絶望のあまり両手を捻じ合わした。
「おい、ピョートル……よく聞けよ、おれのいうことをよく聞けよ……」
「聞いておりますよ……」
「きさまはどこへ行ったんだ? 返事をしろ……」
「どこへ行ったかって……いい人のとこへ行って来たんでさ! それがどうしたんで!」
「ああ、やれやれ、情けない! お前は初め、どこへ行ったんだ? 役所へ行ったのかい?……おい、聞いているのか、ピョートル、どうやらきさまは酔っ払っているらしいな?」
「わっしが酔っ払ってるって? とんでもねえ、首でも賭けて見せますが、か、か、蚊の涙ほども飲みゃしません、――それこそ……」
「よし、よし、そりゃ酔っ払ったってかまやしない……おれはただ、ちょっときいてみただけなんだ。お前が酔ってるのはけっこうだ。なんでもないよ、ペトルーシャ、なんでもありゃしない……お前はひょっと度忘れしただけで、じつは何もかもおぼえているのだろう。さあ、思い出してくれ、お前は書記のヴァフラメーエフのところへ行ったんだろう、――行ったのか、行かないのかい?」
「行くもんですか、そんな役人なんかてんでいやしねえ。現に今だって……」
「いや、いや、ピョートル! 大丈夫だよ、ペトルーシャ、おれはなんとも思っちゃいないよ。おれがなんとも思っていないのは、お前にたってわかるだろう……なあに、別にどうっていうことはありゃしない! ねえ、外は寒くって湿っぽいから、そこでまあ、一杯ひっかけたまでの話で、なに、なんでもありゃしない。怒ってなんかいやしないよ。現におれだって今日は飲んだんだからね……さあ、思い出して正直にいっておくれ、お前は書記のヴァフラメーエフのところへ行ったのか?」
「なあに、今のようにそんなふうにおっしゃられりゃ、わっしも正直にいいますがね、――ちゃんと行って来ましたよ、現に今だって……」
「ああ、いいよ、ペトルーシャ、行ってくれたんならけっこうだ。ごらん、おれは怒ってなんかいないから……ね、ね」とわが主人公はいよいよ従僕のご機嫌をうかがいながら、その肩を叩いたり、にこにこ笑いかけたりしながら、言葉をつづけた。「ちょっと一杯ひっかけたんだろう、この悪党……十コペイカがとこもひっかけたんだろう。しようのない野郎だ! だが、そんなことはかまわんよ。ね、おれが腹を立てていないのは、お前にだってわかるだろう……おれは怒っちゃいないよ、そら、怒っちゃいない……」
「いんや、だんながなんとおっしゃったって、わっしゃ悪党じゃありませんよ……ただいい人のとこへ寄っただけで、悪党じゃありませんや。今まで一度も悪党になんかなったことはねえんだから……」
「なに、そうじゃないったら、そうじゃないよ。ペトルーシャ! まあ、よく聞けよ、ピョートル、おれが悪党といったのも、別にお前を叱ったわけじゃありゃしない、あれはただお前を慰めてやろうと思って、上品な意味でいっただけなんだよ。よく人に向かって曲者とか、したたか者とかいうが、それは当人がちゃっかりしていて、だれにもごまかされないという意味で、つまりお世辞になることがあるじゃないか。人によると、それをかえって喜ぶくらいだよ……まあ、まあ、なんでもありゃしない! ところで、ペトルーシャ、今度は友達にうち明けるのだと思って、包み隠しなしにすっかりいっておくれ……ねえ、お前は書記のヴァフラメーエフのところへ行ったのかい、住所を教えてもらったのかい?」
「住所を教えてもれえましたよ、やっぱりその住所をね。いい役人だよ! そして、いうことにゃ、おめえのだんなはいい人だ、とてもいい人だ、どうかだんなによろしくいってくれ、よくお礼をいって、おれはおめえのだんなが大好きだ、とってもおめえのだんなを尊敬してるって、そういっておくれ、とこんなふうにいいました。それから、おめえのだんながいい人だから、おめえもやっぱりいい人間だろう、ペトルーシカ――とこうもいったっけ……」
「ああ、やれやれ、なんていうことだ! それより住所は、住所は! ええ、このユダめ!」最後の言葉はゴリャードキン氏もほとんどひそひそ声でいった。
「住所も……住所もおせえてくれましたよ」
「教えてくれた? じゃ、どこにあいつは、ゴリャードキン氏は住んでいるのだ? 九等官のゴリャードキン氏は?」
「ゴリャードキンはシェスチラーヴォチナヤ街にいるってそういいましたよ。シェスチラーヴォチナヤ街へ行って、右のほうの階段を上ると、四階目だ、それがゴリャードキンの住居だって……」
「この野郎!」とうとう堪忍袋の緒を切らしたわが主人公はどなり出した。「なんという悪党だ! それはおれじゃないか、それはおれのことをいってるんじゃないか。そうじゃなくっても、もう一人ゴリャードキンがいるんだ、おれがいってるのはその別のほうなんだよ、この悪党!」
「まあ、なんとでもお好きなように! わっしの知ったことじゃござんせん! どうともご随意に、――そうですとも!……」
「でも、手紙は、手紙は……」
「手紙ってなんのこってすい? 手紙なんかまるでありゃしませんや、わっしゃそんなものを見たこともありゃしねえ」
「いったいきさまはどこへ置いて来たんだ、このやくざ者め?………」
「渡しましたよ、手紙は渡しときましたよ。すると、よろしくお礼をいっといてくれ、お前のだんなはいい人だ、だんなによろしくってね……」
「それはいったいだれがいったんだ? ゴリャードキンがいったのかい?」
 ペトルーシカはしばらく黙っていたが、やがて、主人の顔をまともに見つめながら、口を大きく開いて、にやりと笑った。
「やい、この野郎!」とゴリャードキン氏は憤怒のあまり前後を忘れて、はあはあ息を切らしながらいい出した。「きさまはおれをなんという目にあわすのだ! どうしたのか、はっきりいえ! きさまは俺《ひと》の生命を縮めるようなことをしやがる、この悪人め! おれの首を引っこ抜くようなことをしやがる、このユダめ!」
「もうこうなったら、どうともご勝手に! わっしの知ったこってすかい!」と、仕切りの陰へ退却しながら、ペトルーシカはきっぱりといい放った。
「ここへ来い、ここへ来やがれ、こん畜生!………」
「いいえ、行きませんよ、こうなったら、どうしたって行きやしねえ。わっしの知ったこってすかい! わっしゃいい人のとこへ行ってしめえやすよ……世間の人達は正直に暮らしていまさあ、ごまかしなしに暮らしていまさあ、二つに割れるなんてこたあけっしてありゃしねえ……」
 ゴリャードキン氏は手足が氷のように冷たくなり、息がつまった……
「そうだとも」ペトルーシカはつづけた。「二つに割れるなんてこたあ、金輪際ありゃしねえ、神様は正直な人間をいじめはなさらねえから……」
「このろくでなし、貴様は酔っ払ってるんだ! もう行って寝ろ、こん畜生! 明日になったら、思い知らしてやるぞ」とゴリャードキン氏は聞こえるか聞こえないくらいの声でいった。
 ペトルーシカはというと、まだ何やらぶつぶつぼやいていたが、やがて寝台がめきめきと音を立てて、彼の横になる気配がした。長いあくびをして、のびをしたかと思うと、やがていわゆる罪のない眠りに入ったらしく、鼾の声が聞こえてきた。ゴリャードキン氏は生きた心地もなかった。ペトルーシカの態度、遠まわしではあるけれど、奇怪きわまるその当てこすり(これは酔っ払いのいったことであってみれば、あらたまって怒るわけにもいかないが、)それに、局面が全体に不吉な転換を示して来たこと、――これらすべてが、ゴリャードキン氏を心底から震撼させた。『なんだっておれは真夜中に、あいつを叱りつける気になったんだろう』とわが主人公は、何かしら病的な感覚に全身を震わせながらひとりごちた。『おまけに、酔っ払いを相手にして、騒ぎ立てるなんて! 酔っ払いに筋道の立つ話ができるもんか! ひと言ひと言がでたらめなんだからな。が、それにしても、あの野郎、いったい何を匂わしたんだろう? ああ、なんてことだ! おれはなんのつもりで、あんな手紙を書いたのかしら、おれは人殺しだ、自分で自分を手にかけた人殺しだ! どうしても黙っていられないんだからな! 何か余計な口を滑らせないではいられないんだ! いったいどうしたっていうんだろう? ぼろぎれと同じように、おとなしく破滅するのかと思うと、なかなかそうじゃなくって、人並みに自尊心がどうのこうの、名誉に傷がつくのどうの、体面を守らなければならないの、と騒ぐんだからな! まったくおれは自分で自分を滅ぼしてるんだ!』
 ゴリャードキン氏は長いすに腰をかけて、恐ろしさに身じろぎもしないで、こんなことを口走っていた。ふと彼の目はある一つのものの上にとまった。これが、極度に彼の注意をひきつけたのである。いったい幻ではないか、この注意をひきつけた一物は心の迷いではあるまいかと、彼はおずおず手を差し伸べた。希望と、臆病心と、言葉につくせぬ好奇心とをいだきながら……しかし、それは迷いではなかった! 幻ではなかった! 手紙、まさに手紙である、まぎれもなく手紙である、しかも彼に宛てたものである。ゴリャードキン氏はその手紙をテーブルから取り上げた。心臓は早鐘をつくようであった。『これはきっとあの悪党が持って帰ったんだろう』と彼は考えた。『ここへ置いといてそのまま忘れたんだ。きっとそうに違いない、まさしくそのとおりに違いない……』手紙はゴリャードキン氏のがっての親友であり、若い同僚である書記のヴァフラメーエフから来たものであった。『もっとも、こんなことだろうと前から虫が知らせていた』とわが主人公は考えた。『それにこの手紙に書いてあることも、やっぱりちゃんと見当がついていたんだ……』手紙は次のようなものであった。

[#ここから1字下げ]
ヤーコフ・ペトローヴィチ様
拝復
敬具
お使いの者は酩酊の様子で、いっこうとりとめたことがわかりかねますので、そのため書面をもってお答えすることにします。まず第一に申しあげますが、ご依頼の手紙をさる仁《じん》に手渡しせよとの件は、まさに承知、確かに間違いなく履行します。貴下も熟知の右の人物は、目下小生にとって新しく無二の親友となっておりますが、その名をここにあげることは差し控えます(というのは、なんの罪もない人の名声を無益に傷けることを好まざるがゆえであります)。彼は小生らと同様、カロリーナ・イヴァーノヴナのもとに下宿しておられ、以前貴下が当家に住んでいられた頃、タンボフから来た歩兵将校の入っていた部屋を借りています。もっともこの仁は、正直かつ誠実な人々の間には、いつでも見出すことができるので、かようなことはある種の人々については、断じていえないのであります。小生は本日限り貴下との関係を断つ所存です。われわれは従来のごとき友好的協和の態度を持続していくことができません。右の次第ゆえ、この忌憚なき書面を落掌せられると同時に、剃刀代二ルーブリお届けくださるように願います。これはご記憶のこととぞんじますが、七か月以前、貴下が小生の尊敬してやまぬカロリーナ・イヴァーノヴナの家に下宿しておられた頃、代金先払いで貴下にお譲りした外国製の剃刀です。小生がかような行動に出るのはほかでもありません、聡明なる人々の噂によると、貴下は世の信用を失墜し体面を無視し、現代の悪風に感染せざる無垢の人々の徳性を脅かす有害な存在となられたからであります。事実、ある人々は真実をもって生活の基礎とせず、その言葉は虚偽に満ち、殊勝らしい様子が眉唾ものなのであります。またカロリーナ・イヴァーノヴナは常に淑徳高く、かつ潔白な女性であって、しかも年こそ若くなけれ、由緒正しい外国の家名を名乗る淑女であります。この婦人の受けた恥辱をすすぐためには、常に到るところ、しかるべき人々を味方に頼むことができるので、現に二、三の人々からも、このことをついでに一筆本状に書き添え、小生自身の意見として貴下に伝えるよう依頼された次第であります。いずれにもせよ、委細はやがて承知せられることと愚考します。貴下は聡明なる人々の語るところによれば、この首都の隅々まで残りなく醜名をさらし、したがって到るところにおいて、貴下に関する情報を入手し得る有様です。それにもかかわらず、今日のところ貴下は、まだことの真相をごぞんじないように推せられます。なお、筆を擱くにあたって申しあげておきますが、二、三の高潔なる理由に基づいて、ここに名をあげることを許されぬ、貴下ご承知のさる人物は、穏健着実なる思想をいだく人々に深く尊敬せられ、しかも快活な好もしき性質のために、勤務先のみならず、賢明なる人々の間においても好評嘖々たるありさまです。この人物は、おのれの言葉にそむくことなく、友情を裏切らず、表面親交を保ちながら陰にまわって人の悪口を吐くごとき所業はけっしていたしません。
[#ここで字下げ終わり]
[#6字下げ]いずれにせよ、貴下の従順なるしもべ
[#地から1字上げ]N・ヴァフラメーエフ

[#ここから2字下げ]
二伸 貴下はあの従僕を追い出されたらよろしいでしょう。彼は酒のみのことゆえ、おそらく貴下に種々厄介をかけることと思います。その代わり以前われわれの所に勤め、目下無職の状態にいるエフスターフィをご採用なさるようおすすめします。現在の貴下の従僕は酔っ払いであるのみならず、しかもそのうえに泥棒であります。なぜなら、彼はつい先週砂糖一斤、カロリーナ・イヴァーノヴナに格安で売りつけたのでありますが、小生の察するところでは、彼は狡猾なる手段をもって、ことにふれ折につけて、少量ずつ貴下の手もとから窃取したものに相違なく、それ以外かようなことができるわけはありません。ある人々は主として正直善良な人を辱しめ、欺くことのみをこととしているにもかかわらず、小生は貴下のためを思い、この旨を一言する次第です。世人の多くはその上に陰で他人を悪しざまに譏り、事実とはあべこべにいいふらすものですが、それもひとえに羨望の念から出たことでありますが、また一つには、彼らが自分自身を善良な正直者と呼び得ないからであります。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]V

 ヴァフラメーエフの手紙を読み終わると、わが主人公は長いこと長いすの上で、じっと身動きもせずにいた。何かしらある新しい光が、もう二日間彼を取り囲んでいた朦朧たる謎のような霧を透して、ぼっと射して来るような思いがした。わが主人公は、いくらか合点がいき始めた。彼は気分をすがすがしくして、ばらばらにこわれた思想をどうにか取りまとめ、それをある一つの対象に集注させ、それから多少心身を回復した後、とくと自分の立場を熟考するつもりで、長いすから立ちあがり、一、二ど部屋の中を歩きまわろうとした。しかし、ちょっと身を起こそうとするや否や、彼は力なくへたへたとまたもとの場所に倒れてしまった。『こんなことは、もちろん、すっかり前から虫が知らせていたんだ。それにしても、なんという書き方だろう、あの手紙の本当の意味はなんだろう? 意味はまあわかるとしても、いったいどこをねらっているのだろう? はっきりこれこれしかじかで、これこれこういうことが必要だといってくれたら、おれもそのとおりにしてやったものを。どうも局面がいやなふうに展開していきやがる! ああ、早く夜が明けてくれるといい、そしたら、さっそく活動にかかるんだがな! もう今ではおれもどうしたらいいかわかっている。これこれかくかくとすっかりいってやる。理屈のとおったことなら賛成するが、自分の名誉を売るような真似はできない。ところで、あいつは、おそらく……それにしてもあいつは、あのご承知の人物は、あの不都合千万な人間は、どうしてこの件にまぎれこんだのだろう? 第一、なんのために、まぎれこんで来たのだろう? ああ、早く明日になるといいなあ! それまでに、あいつらがおれの顔にすっかり泥を塗ってしまう、おれをおとしいれようとしてしきりに陰謀をめぐらしてるんだ! かんじんなのは時間を無駄しないことだ。たとえば、いま手紙の一本も書いて、これこれしかじかの事情で、これこれしかじかのことなら同意だ、というだけでも通じておく必要がある。明日は夜が明けるが早いか持たせてやって、自分でもできるだけ早く、その……それからまた一方、やつらを逆襲して、あの連中の機先を制することだ……やつらはおれの名誉をすっかり台なしにしてしまうに相違ない、そうだとも!』
 ゴリャードキン氏は紙を引き寄せ、ペンをとり上げて、書記ヴァフラメーエフの書簡に答えるため、次のような一文を草した。

[#ここから1字下げ]
ネストル・イグナーエチヴィチ様
冠省
侮辱に満ちたる貴下のご書面を、悲しみと驚きをもって拝読しました、なぜなれば、ある種の不埒千万なる人々、および表面穏健を装うまやかし者なる言葉のもとに、暗に小生を指しておらるることが、明瞭に見え透いているからであります。小生の生活の安寧・名誉・体面を傷けんとする中傷が、いかに迅速、有効に、広く根を張っているかを見て、痛惜の念を禁じ得ません。まして、真に高潔なる思想をいだき、率直にして端的なる性格を有する廉潔の士が、正しき人々の利益を離れ、その優れたる性情を捧げて有害な腐敗分子に結合しつつある現状にかんがみれば、貴下の書面は小生にとってさらに悲しむべく、さらに憤《いきどお》るべきものとなってくるのであります。不幸にも、現代の堕落せる多難なる時代においては、この腐敗分子は非常な勢いをもって蔓延し、きわめて有害な働きをなしつつあります。最後にご来示の二ルーブリの負債額は完全にご返済することを、小生の神聖なる義務と心得ております。
 さて、さる女性に関する貴下の婉曲なるお言葉ですが、この女性の意図、目算、その他種々なる計画についてはすべて、小生もかろうじて漠然と了解したにすぎないことをあえて申しあげます。失礼ながら、小生の潔白なる思想と名声とは、一点の穢れなく保有さしてもらいたいと思います。いずれにもせよ、じきじき貴下とお話合いすることをいとわぬ覚悟でおりますが、しかし書面によるよりも、直接談合したほうが確かかと思います。なおそのうえ、小生としては、もちろん、平和的な相互の和解にも応ずるの用意があります。それがため、かの女性にたいしても、じきじき協定を試みる準備があることをお伝え願いたく、先方より面会の日時、並びに場所を指定するよう、ご高配を願う次第です。小生が貴下を侮辱し、昔ながらの友情を裏切り、貴下のことを悪しざまにいいふらしたかのごとき暗示をご来書の中に読み取りましたが、小生にとってはにがにがしき限りです。これらはすべてある人々の誤解と、いまわしき中傷と、羨望と、悪心に帰すべきものであります。小生は当然これらの人々を不具戴天の仇と呼ぶことができます。しかし、彼らはおそらく、無垢はその無垢によって強力であり、ある人々の無恥、厚顔、唾棄すべき馴れなれしさは、早晩社会より侮蔑の烙印を捺されることを、おそらく知らないのだろうと思います。これらの人々は、ほかならぬおのれ自身の不都合な態度と、精神的堕落のために自滅するに相違ありません。筆をおくにあたってお願いしますが、他人がこの世界に占めている存在の場所から当人を追い出して、その位置を占領せんとする彼らの野心と、醜き空中楼閣的慾望は、驚愕と、軽蔑と、憐愍にあたいするのみならず、さらに瘋癲病院にもあたいすることを、これらの人々にお伝えください。のみならず、右のごとき態度は、現に法律によって厳重に禁じられていますが、それは小生をしていわしむれば、ぜんぜん正当のことであります、なぜなれば、いかなる人といえども、当然おのれの位置に満足してしかるべきだからだということもお伝えください。何事にも限界が存するもので、かりにもしこれが冗談であるならば、まことに不作法千万な、いな、さらにすすんで、不道徳きわまる冗談と申さざるを得ません。なんとなれば、小生はあえて断言しますが、おのれの位置[#「おのれの位置」に傍点]に関する前記の思想は、純道徳的なものであるからであります。
[#ここで字下げ終わり]
[#6字下げ]とにもかくにも貴下の従順なるしもベ
[#地から1字上げ]ヤー・ゴリャードキ

[#4字下げ]第10章[#「第10章」は中見出し]

 概して前日の出来事は、ゴリャードキン氏を底の底まで震撼させたといってよかろう。わが主人公ははなはだ寝心地がよくなかった、というより、ほとんど五分間も本当に眠ることができなかったのである。まるでだれか悪戯者が、豚の毛の細かく切ったやつを、寝床にまいたようなあんばいであった。彼は終夜、半醒半睡の状態で輾転反側し、溜息をついたり、空咳をしたりして、とろっと寝たかと思うと、すぐまた目をさます。しかも、それには何かしら不思議な悩ましさ、漠然とした追憶、醜悪な幻、ひと口にいえば、この世にある限りの不愉快なものが伴うのであった……何か妙な謎めいた薄明りの中に、アンドレイ・フィリッポヴィチの姿、――かさかさとそっ気のない目つきをして、悪丁寧な小言を今にもあびせかけそうな、ひからびた怒りっぽい姿が、彼の目の前に現われる………ゴリャードキン氏が、やっとアンドレイ・フィリッポヴィチの傍へ近寄って、どうやらこうやら身のあかしを立て、自分はけっして敵どものいいふらすような人間ではなく、じつはこれこれかような男で、生まれつき持っている人並みの性質のほかに、まだこれこれしかじかの美点さえ持っている、と説明しかけるが早いか、そこへひょっこり、例の怪しからぬ傾向をもって知られている人物が現われて、何かしら胸糞の悪くなるような方法で、ゴリャードキン氏の苦心をことごとく叩きつぶし、その場で、ほとんどゴリャードキン氏の目のまえで、彼の名声を跡形もなく傷つけ、その自尊心を泥の中に踏みにじり、その後でさっそく勤務上、社会上の彼の位置を占めてしまう。かと思うと、だれかに頭を叩かれたところが、むずがゆくなってくる。それはついこのあいだ、仲間同士のあいだか、それとも役所の関係で、ゴリャードキン氏のちょうだいした拳固で、彼は意気地なくも甘受したのであった。それに抗議を唱えることは、ちょっと難しかったのだ……なぜこの拳固に対して抗議を唱えることが難しいかという問題について、ゴリャードキン氏が頭を悩ましているうちに、この拳固《やつ》についての思索が、いつの間にか何やら別の形に変わっていった。――それは彼が見るなり聞くなり、あるいは自分で近頃やってのけるなりした、ほんの些細な(でなければ、かなり重大な)、卑しむべき行為なのである。それはよく人のやることで、別に下劣な気持ちや動機から出たのでなく、ただなんとなくやってのけるので――時には偶然こまやかな思いやりからしでかすこともあり、また時にはまったく頼りない境遇からしでかすこともある。また最後には……ひと口にいえば、どうして[#「どうして」に傍点]それをしでかすかは、ゴリャードキン氏自身よく承知しているのだ! その時、ゴリャードキン氏はなかば夢心地に顔をあかくした。そして、その赤面を隠すために口の中で、たとえば、この辺で毅然たる性格を示してもいい頃だ……この機会にこそ、大いに毅然たる性格を示してもいい頃だ! とつぶやいた……が、すぐにまた、『毅然たる性格とはなんだ! いま時そんなものが何になるんだ!………』と結論した。しかし、なによりゴリャードキン氏を苛立たせ憤慨させたのは、こういう時をねらって、呼ばれもしないのに必ず出て来る例の人物、――醜悪なにわか的行動で知られている例の人物が、ここにもさっそく顔を出して、事の真相はすでに知れ切っているにもかかわらず、ぶしつけな微笑を浮かべながら、同じように『この際、毅然たる性格とはなんだねえ! ヤーコフ・ペトローヴィチ、お互いにわれわれの毅然たる性格なんて、いったいどんなものですかね!………』とつぶやいたことである。
 また、そうかと思うと、ゴリャードキンはある立派な集まりに列席している夢を見た。それはメンバーのすべてが機智に富み、態度が上品なので有名なグループであったが、ゴリャードキン氏も愛想がよくて、才智縦横な点で頭角を現わし、みんなに好かれるようになった。のみならず、その場に居合わせた彼の敵のだれかれさえも、彼を愛するようになったので、ゴリャードキン氏も、すっかりいい気持ちになった。やがて、二同は彼に牛耳を取らせるようになったばかりか、ついには主人が客の一人を脇のほうへ引っ張って行って、ゴリャードキン氏のことをほめそやすにいたった。当のゴリャードキン氏は悦に入って、それを小耳に挟む……すると、とつぜん天から降ったか地から湧いたか、またしても例の怪しからぬ意図と野獣的本能をもって知られた人物、すなわち新ゴリャードキン氏が現われて、たちまちあっという間に、その出現によって旧ゴリャードキン氏の勝利と光栄を完全に覆し、みずから旧ゴリャードキン氏にとって代わり、旧ゴリャードキン氏を泥土に踏みにじり、ついにもとからの、したがって本物のゴリャードキン氏がけっして本物でなく贋物であり、自分こそ本物であるということを証明する。そして、最後に旧ゴリャードキン氏はけっして見せかけのような人物ではなく、じつはこれこれしかじかのやくざ者で、したがって潔白かつ上品な社会に属すべきではない、そういう権利を持ってはいないと証明する。これだけのことが、たちまちのうちに進行してしまったので、旧ゴリャードキン氏は口を開く暇さえないうちに、一同は早くも全身全霊で、いまわしい贋ゴリャードキン氏に心服してしまい、清浄潔白な本物のゴリャードキン氏を深い軽蔑と共に退けてしまう。いまわしいゴリャードキン氏の思うがままに操られて、一瞬の間に自説を変えない人間は一人もいない。一座の中のどんなつまらない人であろうと、やくざな贋ゴリャードキン氏は必ずその傍へ行って、甘ったるい独特のやり方でうまく取り入り、独特のやり方で信用を得、いつものでんで、何とも耳に快い甘い言葉を匂わすので、おだてられた当人は、その匂いをかいだだけでこのうえもない満悦のしるしに、涙の出るほどくしゃみをするのであった。しかも、驚くべきことは、それが瞬き一つする間にできてしまうのである。やくざで曖昧なゴリャードキン氏の手際の早さは、真に驚歎すべきものがあった。たとえば、一人の人に慇懃を通じて、その好感を得たかと思うと、たちまちあっという間もなく、次の大を手の中に丸めこんでしまうのである。次の人とこっそりよしみを通じて、好意に満ちた微笑をもぎ取ると、短くて丸っこい、いささか丸太棒じみた足をぴょんと跳ねて、早くも第三の人の傍へ飛んで行く。第三の人をも手練手管で丸めてしまい、もうさっそく親友の接吻をかわすのである。口を開けてあきれる暇もなく、彼はすでに第四の人の傍に立っており、その第四の人とももう同じ関係を結んでしまう。じつに恐るべきもので、魔術としかいいようがない! だれも彼もが彼を歓迎し、だれも彼もが彼を愛し、だれも彼もが彼をほめそやし、だれも彼もが声を揃えて、彼の愛想のよさと機智縦横ぶりは、本物のゴリャードキン氏の愛想のよさと機智縦横ぶりよりはるかに勝っているとはやしたて、罪のない本物のゴリャードキン氏を恥ずかしめ、正直なゴリャードキン氏を排斥し、心がけのよいゴリャードキン氏を迫害し、隣人に対する愛をもって聞こえた本物のゴリャードキン氏を、爪はじきするのであった!………
 悩ましさ、恐ろしさ、腹立たしさに、受難のゴリャードキン氏は往来へ飛び出して、辻馬車をやとおうとした。真っ直ぐに閣下のもとへ駆けつけるか、さもなくば、少なくともアンドレイ・フィリッポヴィチのところへ行こうと思ったのだが、なんという恐ろしいことか! 馭者はなんとしても、ゴリャードキン氏を乗せて行こうとしないのである。『だんな、まるでそっくりそのままのお方を二人、お乗せするわけにはいきません、れっきとした人間は、どうかして正直に暮らそうとしているので、怪しげな真似はするもんじゃありません。一人の人間が二重になるなんて、そんなことがあるもんですか』正直無比のゴリャードキン氏は恥ずかしさに顔から火が出る思いで、あたりを見まわした。と、馭者どもも、彼らといっしょに駆け出したペトルーシカも、まったくいうことが間違っていないのを自分の目でしかと確かめた。というのは、例の堕落したゴリャードキン氏がまぎれもなく、あまり遠くもないすぐそこに立っていたのである。そして、例のいまわしい癖で、ここでも、こののるかそるかという場合にも、必ず何か思いきりぶしつけなことをしてやろうと、身構えているのであった。この行為は、普通教養によって獲得される上品さを証明するものではごうもなかった。にもかかわらず、いまわしい第二のゴリャードキン氏は、機会あるごとにこの上品さを自分から吹聴しているのだ。恥ずかしさと絶望の念に前後を忘れて、正直一途でありながら破滅の悲運におちいったゴリャードキン氏は、運を天にまかせて、足の向くままに駆け出した。しかし、その一歩ごとに、彼の足が鋪道の花崗岩《みかげいし》を踏むたびに、彼とそっくり瓜二つの堕落した心を持ったいまわしいゴリャードキン氏が、地中から出てくるようにひょいひょいと一人ずつ飛び出すのであった。しかも、このどこからどこまでそっくりそのままの人間が飛び出すが早いか、互いに後から後から走り出し、まるで鵞鳥の列のように長くつながって、旧ゴリャードキン氏の後からちょこちょこついて来るので、これらの自分にそっくり同じ人間どもをよけて逃げる所もないほどになった。真に同情すべきゴリャードキン氏は、恐怖のあまり息がとまりそうになった。とどのつまり、そっくりそのままの人間が雲霞のごとくふえてきて、はてはこの首都ぜんたいが、これらのそっくりそのままの人間どもで溢れそうになり、警官はかかる風紀紊乱を見てやむを得ず、このそっくりそのままの人間どもの襟首をつかまえて、手近にあった交番ヘー人一人ほうりこまなければならない仕儀となった……恐怖のあまり五体が痺れ、氷のように冷たくなって、わが主人公は目をさました。恐怖のあまり、五体が痺れて氷のようになりながら、よしこれが夢でなくうつつの世界であっても、大して楽しい時はおくれまいと感じた……重苦しい、悩ましい気持ちだった……まるで何者かが心臓を胸からかじり取ってでもいるような憂愁がおそってきた……
 ついにゴリャードキン氏は、これ以上たえきれなくなってきた。『こんなことがあってたまるものか!』と彼は床を蹴って起き上がりながら叫んだ。こう叫んだ後で、本当にはっきり目がさめた。
 夜はどうやら、もうとっくに明けはなれたらしかった。部屋の中はいつになく明るく、太陽の光線は凍った窓ガラスごしに、豊かに部屋いっぱい溢れていた。これにはゴリャードキン氏も少なからずびっくりした。というのは、太陽が彼の部屋をさしのぞくのは、いつもようやく正午時分で、少なくともゴリャードキン氏自身の記憶する限りでは、天体運行のかかる例外的現象は、ついぞ一度もなかったのである。わが主人公がこの事実に一驚を吃する間もなく、仕切りの陰で柱時計がじいーという音を立てはじめ、これから時を打つ準備にかかった。『さあ、打つぞ!』とゴリャードキン氏は考えて、悩ましげな期待をいだきながら、聞き耳を立てた。しかし、ゴリャードキン氏のあきれ返ったことには、時計はうんと力んで、たった一つだけぼーんと鳴った。『これはまたどうしたことだ?』と、わが主人公は、すっかり寝床から跳ね起きながら叫んだ。彼はわれとわが耳を信じかねて、寝巻のままで仕切りの向こうへ飛んで行った。時計は正に一時を指していた。ゴリャードキン氏はペトルーシカの寝台をのぞいてみた。が、部屋の中にはペトルーシカの匂いさえしなかった。見受けたところ、もうとっくに寝床を片づけたらしい様子で、靴もどこにも見当たらなかった。まぎれもなく、ペトルーシカが家にいない証拠である。ゴリャードキン氏は戸口へ飛んで行った。すると、戸には鍵がかかっていた。『いったいペトルーシカのやつ、どこへ行きやがったんだろう?』と彼はひどく興奮して、全身に激しい震えを感じながらつぶやきつづけた……ふいにある想念が彼の頭をかすめた………ゴリャードキン氏は自分のテーブルへ駆け寄って、そのうえを見まわしたり、ぐるりをかきまわしたりしたが、案のじょう、ヴァフラメーエフが彼に宛ててよこした昨夜の手紙はなかった……仕切りの向こうには、ペトルーシカもてんで姿を見せない。しかも、柱時計は一時をさしている。昨日のヴァフラメーエフの手紙には、何やら新しい問題が匂わされていた。その問題は一見したところ、きわめてあいまいだったけれど、今ではすっかり明瞭になったのである。そのうえにかてて加えてペトルーシカまで、――明らかにペトルーシカは金で抱きこまれたのだ! そうだ、そうだそれに違いない! 『なるほど、ここにいわくがあったのだ!』とゴリャードキン氏は額をぽんと叩いて、ますます目を大きく見開きながら叫んだ。『つまり、あのけちんぼのドイツ女の巣窟に、敵の主力が匿されているのだ! してみると、あいつがおれにイズマイロフスキイ橋を教えたのは、戦略上の牽制運動にすぎなかったんだ、――おれの目を脇へそらして、まごつかせるためだったんだ(あきれ返った鬼婆だ!)こんなふうにして陥穽を掘っていやがったのだ!!! そうだ、それに違いない! この側面から事件を観察すると、何もかも確かにそのとおりだ! あのやくざ者の出現も、今では完全に説明がつく。何もかもみんな互いに関係があるんだ。やつらはあの男をずっと前からかかえておいて、いざという場合に使う用意をしていたんだ。なるほど、そういうわけだったのだ。今になってみると、すっかり謎が解けた。こんなふうに事件が解決されようとは! が、なに、平気だ! まだ遅かあない!………』その時ゴリャードキン氏は、もう一時すぎたことを思い出して、ぎょっとした。『もしやつらが今のうちにいち早く手をまわしたとすれば、どうだろう……』彼の胸からは思わず呻き声がもれた……『なに、そんなことがあるものか、大丈夫、そんなに早くできるものか――まあ、見てみよう……』彼はどうにかこうにか身支度をすると、紙とペンをとって、次のような書信をしたためた。

[#ここから1字下げ]
ヤーコフ・ペトローヴィチ様
冠省
貴下かもしくは小生か、いずれか一人――われら両人の共存は不可能にご座候。ゆえに、小生はあえて貴下に次の声明をなす者に有之候。貴下が小生の双生児のごとく見せかけ、またさようなる者として世間を渡らんとする、奇怪にして滑稽、かつ不可能なるご希望を抱懐せらるるは、貴下の不面目と完全なる敗北以外、なんらの結果をも生ずるものに無之候。右の次第につき、貴下自身のご利益のため、真に潔白にして善良なる目的を有する人々に道を譲り、ご自身は少々ご遠慮あってしかるべしと存じ候。もしお聞き入れなき場合は、過激なる手段をも厭わざる覚悟にご座候。擱筆して貴答を待つ……ただし、親友として交わる用意も有之候えども、拳銃に対する覚悟も有する次第に候。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]ヤー・ゴリャードキン

 わが主人公は、手紙を書き終わると、いきおいよく両手をすり合わせた。それから、外套をひっかけ、帽子をかぶり、もう一つの控え鍵で出口の扉を開け、役所へ飛んで行った。役所へは着いたものの、内へ入る決心がつかなかった。もうあまり遅すぎたのである。ゴリャードキン氏の時計は二時半をさしていた。突然、一見きわめて些細な事情が、ゴリャードキン氏の疑惑を解決してくれた。役所の建物の陰から、ふいに一人の男が現われたのである。真っ赤な顔をして、はあはあ息を切らせながら、鼠のような足取りでこそこそと入口階段へ駆け昇ると、すぐさま玄関へもぐりこんだ。それは書記のオスターフィエフといって、ゴリャードキン氏に馴染みの深い、十コペイカで何の用事でも足してくれる、なかなかちょうほうな男であった。オスターフィエフの弱味も心得ているし、それにこの男がやむを得ない所用でしばらく外出していた後なので、一層十コペイカの駄賃に渇えているのをのみ込んだわが主人公は、ここでけちな真似をしてはならないとはらを決め、さっそく、入口階段を駆け昇り、オスターフィエフの後から玄関へ入って、声をかけた。さも秘密らしい顔つきで、大きな鉄の煖炉の陰になっている、人目につかぬ片隅へ呼びこんだ。そこへ相手を連れこむと、わが主人公はさっそくたずね始めた。
「ときに、どうだね、きみ、あちらのなには……わかるかね?」
「これはこれは、ご機嫌いかがでございますか?」
「ありがとう、きみ、変わりはないよ。きみにはいずれお礼をするつもりだが、例のあれは、どんな様子だね?」
「とおっしゃいますと?」ここでオスターフィエフは、思わずぽかんと開いた口をちょっと片手で隠した。
「じつはね、きみ、ぼく、その……きみ、妙に気をまわしちゃいけないよ……そこで、どうだろう、アンドレイ・フィリッポヴィチは来ておられるかね?」
「お見えでございます」
「役人たちも来ているかね?」
「皆さん方もいつもと同じようにおそろいでいらっしゃいます」
「じゃ、閣下も来ておられる?」
「閣下もやはりお見えでございます」ここで書記はもう一度ぽかんと開いた口を手で隠しながら、何か不思議そうな、もの珍しげな様子で、ゴリャードキン氏を見つめた。少なくとも、わが主人公にはそう思われた。
「すると、別に変わったことはないんだね?」
「ございません、別になにもありません」
「何かぼくのことで、話はなかったかね、その、ちょっとでもどうかしたことが……え? ほんのちょっとでも、きみ、わかるかね?」
「いいえ、まだ今のところ、何とも聞いておりません」ここで書記はまたもや口へ手を持っていって、何か不思議そうな目つきでゴリャードキン氏を見上げた。わが主人公は、いまオスターフィエフの表情を見破って、そこに何か隠されていることはないか読み取ろうと努めた。また、実際そこには何ものかが隠されているような具合であった。というのは、オスターフィエフがなんだかしだいにぞんざいになり、そっ気なくなっていって、今では話の初め頃のように、ゴリャードキン氏の心配ごとに関心を示さなくなったのである。『それもまあ、もっともなわけさ』とゴリャードキン氏は考えた。『おれも何をぼんやりしているのだ? こいつはもう奴らから駄賃をもらったものだから、用事にかこつけて、一杯ひっかけに行きやがったんだ。だからおれも、その……』ゴリャードキン氏はいよいよ、十コペイカの時期が到来したことを悟った。
「さあ、きみ、ほんの少しだが……」
「これはこれは、まことに恐れ入ります」
「また、もっと上げるよ」
「それは恐縮で」
「いまさっそくもっとあげるし、いっさいかたがついたら、またそれだけあげるよ。わかったかね?」
 書記は無言のまま弓のように反り返って、じっとゴリャードキン氏を見つめながら立っていた。
「さあ、そこで聞かしてもらおう、ぼくの噂か何か聞かなかったかね?………」
「どうやら、何も、まだ今のところ……その……さし当たり、なんにもないようでございます」とオスターフィエフはゴリャードキン氏と同じように、言葉尻を引きながらとぎれとぎれに答えた。何か秘密ありげな様子をして眉をちょっとぴくつかせ、じっと足もとを見つめながら、この場にふさわしい調子にはまろうと苦心していた。ひと口にいえば、約束された報酬をものにしようと一生懸命なのであった。もうもらってしまったものは、自分の物になりきって、取り返される恐れはないと決めこんでいたのである。
「何も聞かないんだね?」
「いまのところ何もございません」
「しかし、その……ひょっとしたら、耳に入るかもしれないだろう?」
「そのうちには、もちろん、耳に入るかもしれません」
『弱ったな!』とわが主人公は考えた。「いいかね、きみ、これをあげよう」
「これはこれは、恐れ入りましてございます」
「昨日、ヴァフラメーエフは当直だったかね?」
「さようでございます」
「ほかにだれもいなかったかね!………ひとつ思い出して見たまえ」
 書記はちょっと自分の記憶を探ってみたが、いっこうそれらしいことは思い出せなかった。
「いえ、ほかにはだれもお見えになりませんでした」
「ふむ!」沈黙がつづいた。
「さあ、きみ、またこれをあげよう。すっかり話してくれたまえ、何もかも洗いざらい」
「承知いたしました」オスターフィエフは今まるで絹のように柔らかくなってしまった。そこがゴリャードキン氏の思うつぼである。
「さあ、そこでくわしく聞かしてもらおう、あの男の気受けはどんなふうだね?」
「いえ、別に、なかなかいい方でございます」と書記は目を皿のように見ひらいて、ゴリャードキン氏を見つめながら答えた。
「いいとはどんなふうに?」
「どうといって、ただそれだけのことでございますよ」ここでオスターフィエフは、意味ありげに、眉をぴくりとさした。彼はすっかりつまってしまって、あとはなんと答えていいかわからないのであった。『こいつぁいかんぞ!』とゴリャードキン氏は考えた。
「それからさっきの連中は、ヴァフラメーエフと何かした様子はなかったかね?」
「何もかも以前どおりでございますよ」
「よく考えて見たまえ」
「あるそうでございますよ、噂によりますと」
「ふん、いったいなんだね?」
 オスターフィエフは手で口を隠した。
「あちらからぼくに宛てた手紙はないかしら?」
「きょう小使のミヘーエフが、ヴァフラメーエフの下宿へまいりました、例のドイツ女の家でございます。ひとつわたしが行ってたずねてまいりましょう、もしなんでしたら」
「頼むよ、きみ、お願いだ!………ぼくはただほんのちょっと……きみ、何か妙なことを考えないでくれたまえ、ぼくはただちょっと何ということなしにきいてるんだから。とにかく、きみよくきいて、何かあそこではぼくに対して計画でもめぐらしているかどうか、嗅ぎ出してくれたまえ。そして、あの男がどんな行動をとっているか? これがぼくに必要なことだからね、この点を調べて来てくれたまえ、きみ、頼むよ、あとでお礼をするから……」
「承知いたしました。ときに、今日あなたのお席にイヴァン・セミョーヌイチがお坐りになりましたよ」
「イヴァン・セミョーヌイチが? へえ! それは! ほーんとかね?」
アンドレイ・フィリッポヴィチが、さようおいいつけになりましたので」
「ヘーえ? いったいどうしたわけで? そいつをひとつ調べて来てくれたまえな、きみ、お願いだから、そいつを調べて来てくれたまえ。すっかり残らず調べあげてくれたまえ、――お礼はするから、ぼくが知りたいのはそのことなんだから……だが、きみ、何か妙なことを考えてもらっちゃ困るぜ……」
「かしこまりました、かしこまりました、ただいま行ってまいります。ところで、あなた、今日はお入りになりませんか?」
「入らないよ、きみ、ぼくはただちょっと、ぼくはただなんだ、ちょっと見に来ただけなんだよ、きみ、お礼はきっとするからね、きみ」
「かしこまりました」書記は足早に、せかせかと階段を昇って行った。ゴリャードキン氏は一人そこに取り残された。
『こいつはいかんぞ!』と彼は考えた。『ちぇっ、いかん、いかん! いやはや、こいつはどうも……形勢が悪いぞ! いったいこれはどういう意味なんだ? たとえば、あの酔っ払いの匂わしたことは、そもそもなんの意味だろう、そしてあれはだれの細工だろう? ああ、そうだ! 今こそわかった、だれの細工かわかったぞ! つまり、こういうわけなんだ。やつらはきっと、おれのことを嗅ぎつけて、イヴァン・セミョーノヴィチを坐らせたんだ……もっとも、坐らせたのがどうしたというのだ? アンドレイ・フィリッポヴィチのさし金でそうしたわけなんだが、それにしても、なぜあの男を坐らせたんだろう、そしてまたどんな目的で坐らせたのだろう? たぶんおれのことを嗅ぎ出して……こいつはヴァフラメーエフの仕事だ、いや、ヴァフラメーエフじゃない、なにしろあいつは馬鹿のでくの坊だからな。これはつまり、やつらがみんなであの男の陰から糸を引いているんだ、あの悪党をここへよこしたのも、やつらが同じ目的でやった仕業だ。それにあの目っかちのドイツ女も、さんざん俺《ひと》のことをいいつけやがったに相違ない! おれはいつもそう思っていたんだが、このからくりには曰くがあるんだ、あの阿魔の陰口には、きっと何か隠れているに相違ない。だから、クレスチヤン・イヴァーノヴィチにもいったことだが、やつらはおれを殺そうという誓いを立てやがったのだ、精神的な意味での話だがな。だもんだから、カロリーナ・イヴァーノヴナをつかまえて道具にしようとかかったのだ。いや、この事件で働いているのは、みんな名人揃いらしい! まったく達人の腕の跡が見えている。ヴァフラメーエフ輩の仕事じゃない。現に今もいったとおり、ヴァフラメーエフは間抜け野郎だが、この手際ときたら……今こそわかった、だれがみんなに代わって仕事をしているかわかったぞ。ほかでもない、あの悪党が働いているんだ、あの僭称者《かたり》が活躍しているんだ! それだけがやつの取柄なんだからなあ、その証拠には、やつめ上官たちの受けのいいことはどうだ。ところで、まったくの話が、あいつは今どんな立場を占めていやがるか……みんなの間の人気はどんなふうか、そいつが知りたいものだなあ。それにしても、なぜおれの席にイヴァン・セミョーヌイチなんか坐らせたんだろう? なんだってイヴァン・セミョーヌイチなんかが必要なんだろう、いまいましい! まるで、ほかに人がないみたいじゃないか。もっとも、だれを坐らしたところで一つことだが、しかしおれはこれだけのことは間違いなく承知している、あのイヴァン・セミョーノヴィチはうさんくさいやつで、おれは前からちゃんとそれに気がついていたんだ。胸くその悪くなるようないやらしい爺で、噂によると人に金を貸して、ユダヤ人そこのけの利子をふんだくっているって話だ。なにしろ、これはみんな熊の野郎の細工だ。この一件には、ぜんぶ熊の野郎がくびを突っこんでやがるんだ。そもそものはじまりがそういうことだったんだからな。例のイズマイロフスキイ橋のたもとで、ことが起こったんだからな。そうだ、あれが始まりだったのだ……』ここでゴリャードキン氏は、レモンでもかんだように顔をしかめた、おそらく、何かひどく不愉快なことでも思い出したのであろう。『ふん、だが、しかしなんでもありゃしない!』と彼は考えた。『ただおれは自分のことさえつきとめたらいいんだが、いったいオスターフィエフはどうして帰って来ないんだろう? たぶん腰を落ち着けてしまったか、それとも何かで引き止められたと見える。しかしおれがこんなふうに策略をめぐらして、自分のほうでも負けずに陥穽を掘っているの