『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

未成年 337-384

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た・わたしはそのとき気づいただけの、あわただしい描写に止めておく。以前、一度も見たことがなかったのだ。わたしは帽子も外套もなしに、彼らの後から階段を駆けおりた。カチェリーナ夫人は、一番にわたしに気づき、何やら早口に男にささやいた。彼は首をふり向けようとしたが、すぐ下男と門番にあごで合図をした。下男は出口のすぐそばで、わたしのほうヘー歩ふみ出したが、わたしはそれを片手で押しのけて、二人の後から入口へ飛び出した。ビョーリング男爵は、カチェリーナ夫人を馬車に助け乗せていた。 「カチェリーナーニコラエヴナー カチェリーナーニコラエヴナーLとわたしは無意味に叫んだ(まるでばかみたいに1・まったくばかのようだった1・ ああ、わたしは今でもしじゅう思いおこすが、そのとき帽子もかぶっていなかった!・)。 ピョーリングは獰猛な勢いで、またもや下男のほうへ振り向きながら、大きな声でどなった。了一一と二こといったのだが、はっきり聞き取れなかった。だれかがわたしの肘をつかんだのを感じた。ちょうどこのとき、馬車が動きだした。わたしはまた喚きながら、馬車の後から駆け出した。カチェリーナ夫人は、馬車の窓からちょいちょい顔をのぞけて、見受けたところ、恐ろしく不安らしい様子だった。しかし、急に勢いこんで飛び出す拍子に、わたしは思わず強くビョーリングを突き飛ばしたうえ、いやというほどその足を踏んづけたらしい。彼はかるく叫び声をあげて、歯ぎしりしたと思うと、逼ましい手で、むんずとわたしの肩をつかみ、意地わるく突き飛ばした。で、わたしは三歩ほどはね返された。この
瞬間、下男が外套をさし出したので、彼はふわりと羽織って、橇に乗った。橇の中から、下男や門番にわたしをさして見せながら、もう一度いかめしい声で叫んだ。すると、彼らはわたしをつかまえて、抑えつけた。ひとりの下男がわたしに外套を着せると、いま一人は帽子をさし出した。そのとき彼らが何をいったか、わたしはもういっさいおぽえていない。しかし、彼らが何やらいうのを、わたしはまるで夢中で立って聞いていたが、ふいに何もかもうっちゃらかして、そのまま駆け出した。
      3 何が何やら無我夢中で、往来の人に突きあたりながら、わたしはとうとうタチヤーナ叔母の住居へ駆けつけた。途中で辻馬車を雇おうという考えさえおこらなかった。ピョーリングがあのひとの前でわたしを突き飛ばした!・ もちろん、わたしが彼の足を踏んだのでヽ彼はちょうどとかを踏まれた人間のように、本能的にわたしを突き飛ばしたのだ(ことによったら、わたしはほんとうに彼のまめを踏みつぶしたかもしれない1・)。けれど、彼女は見たのだ。おまけに、下男どもがわたしをつかまえるのも見たのだ。何もかも彼女の目の前で行なわれたのだ、彼女の目の前で! わたしがタチヤーナ叔母の家へ駆け込んだとき、初めしばらくのあいだ、何一ついうことができなかった。わたしの下あごは、まるで瘧でも病んでいるように、がたがた震えた。まったくわたしは熱病やみたった。おまけに、めそめそ泣いていたのだ……ああ。
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わたしはあれほど手ひどい侮辱を受けたのではないか! 「えI・ なんだって? 突き飛ばされたって? 自業自得さ、自業自得さ!」とタチヤーナ叔母はいった。 わたしは無言のまま、長いすに腰をおろし、彼女を見つめていた。 「まあ、この子はどうしたんだろう?」と彼女はじろじろとわたしを見まわした。「さあ、これを一杯お飲み、水でもおあがり。さあ、お飲み! いったいあすこでどんな乱暴をしたのか、一ついってごらん!」 わたしはあの家から追い出されたことや、ビョーリングに往来で突き飛ばされたことなどを、しどろもどろに話した。 「お前さんも少しは分別がつくようになったかえ、それともまだ? まあ、これを読んで、とっくり考えてごらん」 彼女はそういいながら、テーブルの上から一通の手紙をとって、それをわたしに手渡しすると、期待の表情でじっと前に突っ立っていた。わたしはすぐさまヴェルシーロフの手蹟だと気がついた。それはカチェリーナ夫人にあてた手紙で、ほんの十行くらいしかなかった。わたしは思わずぎくりとした。と、たちまち理解力が完全に機能を回復した。次にこの恐ろしい、醜い、ばかげた、悪党じみた手紙の内容を、一語一語そのまま掲げることにする。  『カチェリーナーニコラエヴナ毆 貴女が本来の性質と熟練の結果、いかに淫蕩をほしいままにせらるるとはいえ、すくなくともある程度までは、貴女がその情欲を抑制して、年少子女に毒牙を伸ばすごときこと
は、万これなかるべしと思考つかまつり候。しかるに、貴女は厚顔無恥にも、これさえあえてせられたり。ご参考までに申し上げ候が、ご承知の書類は蝋燭の火に焼かれることもなく、またクラフトの手もとに保蔵せられたることもござなく、したがって、貴女としてはなんら得ることもなき次第につき、無垢の青年を誘惑堕落せしむることは、ご無用になされたく存じ候。何とぞいまだ丁年に満たざる彼をご容赦くだされたく、かのものは精神的にも、生理的にも、十分の発育を遂げざる少年同様にて、貴女のためなんら益するところこれなく存じ候。小生は彼の一身に関心を有するものに候えば、あえて貴女に一書を呈するゆえんにござ候。もらとも、その効果には多くを期待いたしかね候。なお念のためおことわり申し上げ候が、本書と同時に、この写しをビョーリング男爵に郵送いたすべく候。                  A・ヴェルシーロフ6 わたしは読んでいるうちに、みるみる青くなっていった。と、やがてふいにかっと赤くなって、唇は憤怒のあまり震えだした。 「これはぼくのことだ!・ これはぼくが一昨日、あの人にうち明けたことを書いたのだI」わたしは猛然と叫んだ。 「そらごらん、うち明けてしまったんだろう!」とタチヤーナ叔母は、わたしの手から手紙をひったくった。 「でも……ぼくこんな……ぽくがきったのはまるで違います! ああ、どうしよう、カチェリーナさんはぼくのことをなんと思うだろう! しかし、これは気がちがったのじゃな



いかしらん? きっと気がちがったのだ……ぼくはきのう会ったんですよ。いったいこの手紙はいつ出したんです?」「昨日のお昼に出したのが、晩についたのさ。それをカチェリーナさんが、今日わたしに手渡しなすったんだよ」「だって、ぽくはきのう自分であの人を見たんです。あの人は気ちがいに相違ない!・ ヴェルシーロフがこんなことを書くはずがない、これは気ちがいが書いたのです1・ だれだってこんなことを、女に宛てて書けるものじゃありませんよ」 「つまり、あんな気ちがいが嫉妬と毒念のために、目がつぶれて聾になって、血が毒に変わってしまったようなとき、夢中になってこんなことを書くものさね……あの人がどんな人間か、お前さんはまだ知らないんだよ! いまにあの人は、世間からのけ者にされてしまうんだから、そのとき泣き面をかかないがいい。自分で首切り刀の下へ頭を出すようなものだ! 自分の首を肩にのせて歩くのが苦しくなったら、夜二ごフェフスキイ鉄道(勁鄙畆町)の線路へ出かけて行って、レールの上に頭をのっけるがいいさ。そうすれば造作なく首をちょん切ってくれるから!・ だけど、お前さんは、なんだっておしゃべりをしたんだろ`フ?・ なんだってあの人をからかう気になったんだね! 自慢でもしたくなったの?」 「でも、まあ、なんという憎しみだろう! なんという憎しみだろう!」とわたしは思わず自分で自分の頭をたたいた。「いったいなんのためだろう、なんのためだろう? しかも、女に向かってI カチェリーナさんがぜんたいどんなことをしたというのだろう? こんな手紙を書くなんて、あの二人
の関係はどんなふうだったんだろう?」 「に1くIし1み!」はげしい嘲笑を声に響かせながら、夕チヤーナ叔母はわたしの口真似をした。 血がまたもやさっとわたしの顔にのぽった。わたしはふいに何かしら、ぜんぜん新しいものを悟ったような気持ちがした。わたしはありたけの注意を緊張さして、いぶかしげに彼女を見つめた。 「もうとっとと出ていっておくれ!・」急にくるりと顔をそむけて、追いやるように手を振りながら、彼女は甲高い声で叫んだ。「お前さんたちを相手にするのはもうたくさんだ1・今こそあきあきした! お前さんたちはみんな、大地の底へでも落ちこんでしまうがいい!………ただお前さんのお母さんだけは、やはりかわいそうだけれど……」 わたしはもちろん、ヴェルシーロフのもとへ駆け出した。しかし、なんというずるいやり囗だろう! なんというずるいやり口だろう1・
 ヴェルシーロフはひとりきりではなかった。先まわりして説明しておくが、昨日ああした手紙をカチェリーナ夫人におくり、また、実際(なんのためやら、神様よりほかに知るものはない)その写しをピョーリング男爵におくった後、彼は自然の道理として、今日一日のうちに自分の行為のある『結果』があらわれるのを期待しないわけにはいかなかった。で、それ相当の方法を講じたのである。つまり、朝のうちに
母とりIザを(彼女は、あとで聞いたところによると、その朝帰って来るとすぐ病人になり、床についていたとのことだ)、上の『棺桶』へ移してしまったのち、家じゅうの部屋部屋、ことに『客間』を念入りに片づけたり、掃除したりした。はたせるかな、午後二時ごろ、R男爵という陸軍の大佐が来訪した。それは、年のころ四十恰好らしい、ドイツ系の、背のたかい、乾いた感じのする男で、見かけたところ、非常にすぐれた体力の持主らしかった。ビョーリングと同じように、赤い毛をしていたが、ただ少し禿げているだけの相違があった。これは、ロシヤの陸軍におびただしく巣をくっているR男爵どもの一人である。この連中はおそろしく貴族的矜持が強いくせに、財産といってはからっきしなく、月給だけで暮らしながら、勤め大事と一生懸命にしがみついている軍人なのだ。わたしは彼らの交渉の初めを聞きおとした。二人ともひどく活気づいていたが、それは当然のことである。ヴェルシーロフはテーブルの前の長いすに腰をかけ、男爵はわきの肘掛けいすに陣取っていた。ヴェルシーロフは青い顔をしていたが、しかしおのれを制しているらしく、一語一語を歯の間から押し出すように話していた。男爵は声こそ高めないけれど、いかにも猛烈な身振りを濫発したそうなふうつきだったが、一生懸命にそれを押しこらえる様子で、いかつい高慢らしい目つきで、軽蔑の色さえ浮かべながら、相手を眺めていた。ただし、いくぶん驚いたようなところがないでもない。わたしの姿を見ると、彼は顔をしかめたが、ヴェルシーロフはほとんど喜びを色に現わさないばかりだった。
 「こんにちは、アルカーシャ。男爵、これがつまり、あの手紙に書いた例の青年です。ご心配なく、決して邪魔をしないどころか、かえって必要なくらいかもしれません(男爵は軽蔑したようにわたしをじろりと見た)。ねえ、お前」とヴェルシーロフはわたしに向かって、つけ足した。「お前が来たのはむしろうれしいくらいだ。だから、男爵との話が片づくまで、どうかそこの隅に、すわっていておくれ。男爵、どうかご心配のないように、あれはただ隅にすわっているだけです」 わたしはちゃんと腹がきまっていたので、どちらでも同じことだった。のみならず、ぜんたいの様子が、わたしにただならぬ印象を与えたのである。わたしは無言のまま片隅に腰をおろした。できるだけ隅っこにひっこんで、話のおわるまで瞬きひとつせず、からだひとつ動かさないで、じっとすわっていた……「もうI度くり返して中しますがね、男爵」とヴェルシーロフは一語一語断ち切るように、きっぱりといった。「わたしがあさましい病的な手紙をおくったカチェリーナーニコラエヴナーアフマーコヴア夫人は、たんに高潔無比の人物であるばかりでなく、ほとんど完成の極致だとさえ信じています’・」 「もう前にいちど申し上げたことですが、そんふなうに自分で自分の言葉を否定なさるのは、つまりそれをあらためて肯定されるのと同じように思われますね」と男爵は気むずかしげにつぶやいた。「あなたのおっしゃることは、思いきって人をばかにしています」 「しかし、あなたが直接の意味にとってくだすったら、それ



が一番ただしいのですがね。実は、わたしは妙な発作や……いろんな機能の衰頽に悩まされているので、医者の厄介になっているくらいなんです。そういうわけで、今度もそんなふうな発作のおこった瞬間に……」 「そういういいわけは、断じてここへ持ち出すべきじゃありません。もういちど念のために申し上げますが、あなたは強情に、いつまでも勘違いをしておられる、あるいは故意に勘違いをしようとしておられるのかもしれませんな。わたしは劈頭第一におことわりしておいたはずです。つまり、あの夫人に関する問題、いいかえれば、アフマーコヴ″将軍夫人に宛てたあなたの手紙に関する問題は、いまのわれわれの交渉から、ぜんぜん除外されなけりゃならんのです。ところが、あなたはのべつ話をそのほうへ戻していらっしゃる。ビョーリング男爵は、わたしにくれぐれも頼んだのです。つまり、この場合、かれ一個人に関する問題だけを明白にしてくれ、という依頼でした。ほかでもない、あなたが無礼千万にもあの手紙の『写し』を男爵に送って、そのうえ『これに対する責任は、いかようにも御意のままに負う覚悟』とつけ足しておかれた、あの点なのです」 「ですが、最後の点は、説明なしでも十分明瞭ですが」 「わかりました。それはもう伺いましたよ。あなたは謝罪をしようとさえなさらないで、ただ依然『いかようにも御意のままに責任を負う覚悟』と主張されるわけなんですな。しかし、それはあまりお手軽すぎますよ。こうなってくると、あなたが強情に、この交渉をそういう方向へまげようとなさる
以上、わたしはもう遠慮なく自分のいい分をことごとく述べさしていただく権利があるわけです。ほかでもありません。わたしはこういう結論に到着したのです。ビョーリング男爵は、たとえどIんIなことがあろうとも、あなたと交渉を持つことができません……対等の立場に立ってはね」 「そうしたご決定は、もちろん、ご親友のビョーリング男爵にとって、最も有利なもので、正直なところ、わたしはもうとう驚きません。わたしはそれを予期していたのでね」 ちょっと括弧といった体裁でことわっておくが、ヴェルシーロフはむしろ破裂を望んでいて、この気短かな男爵を揶揄しながら、挑むような態度をとっている。それはわたしも彼の最初の一語を聞き、最初の一瞥を見たときから、わかりすぎるくらいわかっていた。実際、彼はあまり相手の自制心を試みすぎるきらいがあった。男爵はぎくりとなった。 「あなたはなかなか機知のある方だと聞いていましたが、しかし機知はまだほんとうの叡知じゃありませんからね」 「これは実に深遠なご高見ですね、大佐」 「わたしはあなたに讃辞などお願いした覚えがありませんLと男爵は叫んだ。「くどくどと同じことを、くり返し巻き返すためにやって来たのじゃありません!・ どうか聞いてください。ビョーリング男爵はあなたの手紙を受け取って、非常な疑惑におそわれたのです。なぜなれば、あの手紙は、差出人が瘋癲病院の居住者であることを証明しているからです。もちろん、あなたを……取り鎮める方法は、すぐにも発見することができたはずなんですが、しかしある特別な考慮の結
果、あなたのために寛大な処置をとることにして、あなたのことを種々調べて兄ました`調べてみると、あなたは以前、上流の社会に属していて、かつて近衛隊に勤務していたことさえあるけれど、今では社交界から除外されてしまい、あなたの世評はきわめていかがわしいものでした。が、それにもかかわらず、親しく真否を確かめるために、わたしはわざわざここまで出かけて来たのです。ところが、あなたはまだ性懲りもなく洒落などをもてあそんで、何かの発作に苦しめられているなどと、自分でわざわざ証明されるじゃありませんか……もうたくさんですI ビョーリング男爵の位置と名声とは、こんなことにかかずらうほど、みずから卑しゅうすることを許しません……一口にいえば、わたしは交渉委員として、こう宣言しなければなりません、-もし今後、同様なことがくり返されるか、それとも、前の行為に少しでも似たことが生じたら、それこそ猶予なくあなたを取り鎮める方法を講じますぞ。あえていいますが、それはきわめて敏速かつ正確な方法ですぞ。われわれは森の中やなんぞではない。百般の設備の完成した国家に住んでいるのですからな’・」 「じゃ、あなたはそう確信していらっしゃるんですね、わが善良なるR男爵?」 「畜生」男爵はだしぬけに立ちあがった。「あなたはどこまでも人の堪忍袋の緒を切らして、わたしがあまり『善良なるR男爵』でないということを、いますぐ即座に証明させたいのですか?」「ああ、もう一度ご注意しておきますが」ヴェルシーロフも
席を立った。「ここにはすぐそばに妻や娘がいます……ですから、そう大きな声でものをおっしゃらないように、お願いしたいものです。あなたのどなり声は、あれらの耳にはいりますからね」 「あなたの奥さん……畜生!………わたしが今こうしてここにすわって、あなたと話しているのは、ただただいまわしい事件を闡明しようがためにすぎないのです」依然たる憤怒の調子で、いささかも声を下げようとせず、男爵は言葉をつづけた。「もうたくさんだI」と彼は勢い猛に叫んだ。「あなたは、上流紳士のサークルから除外されてるばかりでなく、一個の偏執狂者です、純然たる精神病者です。そういうふうに折紙をつけられたのです! あなたのような人には、寛大の態度をとる価値はない。いまからちゃんと明言しておきますが、今日にもさっそく方法を講じます。そうすれば、さすがのあなたも、正気に返るような場所へ呼び出されて……そして、町から外へ運び出されてしまいますぞ!・」 彼は大股にずかずかと部屋を出て行った。ヴェルシーロフは見送ろうともしなかった。彼はじっと立つたまま、放心したようにわたしを見つめていたが、わたしのいることには気のつかない様子だった。ふいに彼はにっと笑い、髪の毛をI振りすると、帽子をとって、やはり戸口へ向けて歩きだした。わたしはその手をつかんだ。 「あっ、そう、お前もそこにいたのか? お前? 聞いていたのか?」彼はわたしの前に立ちどまった。 「どうしてあんなことができたのでしょう? どうしてああ



まで妙に事をこじらして、ああまで恥の上塗りができたのでしょう!………しかも、あんな老獪な態度で!」 彼はじっとわたしの顔を見つめていたが、その微笑が次第にひろがって行き、もう明らかに哄笑に移るのであった。 「だって、ぼくは顔に泥を塗られたじゃありませんか……あのひとの目の前で!・ あのひとの目の前で! そうです、あのひとの見ている前で、ぼくを笑い草にしたのです。しかも、あの男は、……ぼくを突き飛ばしたんですからね!」とわたしは前後を忘れて叫んだ。 「へえ? そうかい、まあ、かわいそうに……じゃ、お前はあすこで……わ1ら1い草にされたのかいI」 「あなたは笑ってるんですね、あなたはぽくを冷やかしているんですね! あなたはいったいおかしいのですか!」 彼はすばやくわたしの手から自分の手を振り離して、帽子をかぶると、笑いながら、もうほんとうの笑い声を立てながら、家を飛び出した。その後を迫ってみたところで、何になろう? それは徒労にすぎない! わたしは一瞬に何もかも佰った、そして、1いっさいのものを失ってしまった!・ふいにわたしは母の姿を見た。彼女は上から降りて来て、臆病げにあたりを見まわした。 「お出かけになったの?」 わたしは無言のまま彼女を抱きしめた。彼女もまたわたしを固く固く締め寄せて、体と体がぴったりひとつになった。 「お母さん、大事なおけさん、いったいあなた方はいつまでこうしていられますか? すぐ行きましょう。ぼくがあなた
を守りおおせて見せます。ぼくあなたのために囚人のように働きます。あなたとりIザのために……あんな人たちはみんな、みんなうっちゃって、行ってしまいましょう。親子三人、水入らずになろうじゃありませんか。ねえ、お母さん、いつかあなたがトゥシャールの塾へぼくを訪ねて来られたとき、ぽくはあなたを認めようとしなかった、-覚えていらっしゃいますか?」 「覚えているよ、お前。わたしはお前に対して、一生涯申しわけのないことをしました。自分でお前を産み落としながら、そのお前を知らなかったのだからね」 「それはあの人が惡いんですよ。お母さん。万事あの人が悪いんです。あの人は決して一皮も、あなたを愛したこと。がないんですもの」 「いえ、愛していましたよ」 「さあ、行きましょう、お母さん」 「あの人のそばを離れて、どこへ行くところがあります、それであの人が仕合わせになるとでもおいいなのかえ?」 「リーザはどこです?」 「寝ています。帰って来ると、1少し病気の気味でね。わたし心配でならない。いったいみんななんだってあの人にああ腹を立てるんだろうね? これからはあの人を、どうしようというんだろ`つ?・ それに、あの人はどこへ行つたんだろう? さっきあの軍人さんはなんといって脅かしていたの?」「あの人はどうもなりゃしませんよ、お母さん。あの人はい
つだって、なんにもなしにすんでいるんですからね。あの人の身には、何も起こりゃしません、また起こるはずがないんですから。あれはそうした大なんです! ああ、ちょうど夕チヤーナ叔母さんが見えた。あのひとにきいてごらんなさい、もしほんとうになさらなければ。そら、やって来た(夕チヤーナ叔母がとつぜん部屋へはいって来た)。さようなら、お母さん。ぽくまたすぐに帰って来ます。そして、帰って来たら、また同じことをお願いしますよ……」 わたしは部屋を駆け出した。わたしはたんにタチヤーナ叔母ばかりでなく、だれにもせよ、人間の顔を見られなかったのだ。それに、母はわたしを苦しめた。わたしはひとりに、ほんとうにひとりになりたかった。
 しかし、一筋の通りさえ歩ききらないうちに、自分がまともに歩けないことを意識した。わたしはなんのかかわりもない無関心な群衆に、意味もなくぶつかるのであった。しかし、どこにも行くところはなかった。わたし自身、だれにも用のない人間だしIそれに今となっては、いっさいのものがわたしにとって無用だった。わたしはまるでなんの考えもなく、機械的にセルゲイ公爵のところへたどりついた。公爵はちょうどうちにいなかった。わたしはピョートル(彼の侍僕)に、書斎で待っているからといい、ずんずん通って行った(これはいく度となくしたことなので)、彼の書斎は、恐ろしく天井の高い大きな部屋で、椅子やテーブルが、ところ
狭きまでならべ立ててあった。わたしはいちばんうす暗い隅っこへはいり込んで、長いすに腰をおろすと、テーブルに肘をついて両手で頭を抑えた。『おれはいま何か必要なのだろう?』これが問題たった。この問題をそのとき具体的な形にまとめあげることができたとしても、それに答える力はぜんぜんなかった。 とはいえ、わたしは筋道を立てて考えることも、ひとにたずねることもできなかった。前にもことわっておいたとおり、この数日間の終わりに、わたしは『さまざまな事件に押しひしがれて』しまっていた。今もじっとすわっていると、頭の中は混沌として、旋風のように荒れまわっていた。『そうだ、おれはあの人の腹の中をすっかり見通しながら、何一つ洞察することができなかったのだ』ときおりこういう考えが頭の中にひらめいた。 『あの大は亡っきおれに面と向かって笑いだした。が、あれはおれのことを笑ったのじゃない。あれは、やはりビョーリングのことで、おれのことじゃない。おとといの食事のとき、あの大はもう何もかも知っていて、沈んだ顔つきをしていたっけ。おれが料理屋で口をすべらしたばかばかしい告白を利用して、あらゆる真実を歪曲してしまった。だが、あの大に真実なんか必要があるものか? あの大はアフマーコヴ″夫人に書いたことを、自分でも一句としてほんとうと思ってはいないのだ。ただ侮辱したかったのだ。無意味に侮辱したかったのだ。なんのためともわからないくせに、ちょっとした口実を、もっけの幸いに利用したのだ。その口実を与えたの



はぽくなのだ……なんのことはない、狂犬のすることだ1いったいあの大は今ピョーリング男爵を殺そうとでも思っているのだろうか? なんのために? なんのためかということは、あの大が自分の胸で知っている! だが、あの人の胸の中がどうなっているか、ぼくにはまるでわからない……そうだ、そうだ、今でもわからない。いったいあんなに熱狂するほど、夫人を愛しているのだろうか? それとも、あんなに熱狂するほど憎んでいるのだろうか? ぼくにはわからない。が、あの大自身にはわかっているのだろうか? いったいぽくは、なんだってさっきお母さんに、「あの大はどうもなる気づかいはありません」なんていったんだろう? なんのつもりであんなことをいったのかしらん? ぼくはあの人を失ったのだろうか、それとも失わないのだろうか?』 『あの女はぼくが突き飛ばされたのを見た……あのひともやはり笑ったか、どうだろう? ぽくならきっと笑ったに相違ない! まわし者がなぐられたのだ、まわし者が!………』 『いったいあれはなんの意味だろう(という考えがふいにわたしの頭にひらめいた)、ヴェルシーロフはあの穢らわしい手紙の中に、書類は決して焼かれないで、ちゃんと現存している、などという文句をかき添えているが、あれはそもそもなんの意味だろう?………』『あの大はビョーリングを殺しゃしない。きっと今ごろあの料理屋にすわり込んで、ルチアでも聞いているくらいのことだろう!・ ひょっとしたらルチアの後で、ビョーリングを殺しに行くかもしれないぞ。ビ。Iリングはぼくを突いた。い
や、ほとんどなぐったといっていいくらいだ。ほんとうになぐったのだろうか? ピョーリングは、ヴェルシーロフと決闘するのさえいさぎよしとしないほどなのに、ぼくなど相手に喧嘩をするだろうか? もしかしたら、ぽくはあす往来であいつを待ち伏せして、ピストルで打ち殺さなけりゃならんかもしれない……』こういう想念を、わたしはまったく機械的に心の中でたぐっていたが、それに対して少しも考察をはらおうとはしなかった。 ときおり瞬間的に、一種の空想がわき起こった、-今にも戸があいて、カチェリーナ夫人が姿を現わし、わたしに手をさし伸べる。すると、わたしたちは二人とも心の底から笑いだす……おお、わが愛すべき大学生よ! これは部屋の中がとっぶりと暗くなったとき、わたしの頭にわいた幻想である。いな、むしろ希望である。 『ぼくがあの女の前に立って暇乞いをしていると、あのひとはぼくに手をさし伸べながら、笑っていた、-いったいあれはついこの間のことではないか。あんな短時間に、どうしてああいう恐ろしい隔たりができてしまったのだろう! いっそ虚心坦懐に、今すぐあのひとのところへ出かけて行って、ざっくばらんに話し合ってみようか? ざっくばらんに、ほんとうにざっくばらんに! ああ、どうしてこんなにとつぜん、まるっきり新しい世界が、はじまったのだろう!そうだ、新しい世界だ、まるっきり、まるっきり新しい世界だ……と・yゝろで、リーザは? 公爵は? これはまだ古い世界の人たちだ……いまぼくは現に公爵のうちにすわってい
る。それにお母さんも、-もしほんとうにそうだとすれば、お母さんはあんな男といっしょに、どうして暮らすことができたのだろう? ぼくならできたかもしれない、ぼくならなんだって辛抱できる。しかし、お母さんは? ああ、これからどうなることか?』 すると、リーザ、アンナ、スチェベリコフ、公爵、アフェルドフ、その他あらゆる人々の姿が、まるで旋風に吹きまくられたように、病的になったわたしの頭にひらめいては、跡かたもなく消えていった。しかし、思想は次第にはっきりした輪郭を失って、いよいよ捕捉しがたいものとなっていった。その中のなにか一つでも明瞭に意識して、しっかりとつかまえることができると、わたしはうれしくてたまらなかった。 『おれには「理想」がある’・』とわたしはとつぜんこう考えたが、すぐにまた気がついた。『だが、ほんとうにそうだろうか? おれはただ機械的にくり返しているだけじゃないかしらん? おれの理想、-それは暗黒と孤独だが、今さらもとの暗黒にはいもどることができるか? ああ、そうだ、おれは「手紙」を焼き捨てなかったっけ! 一昨日あれっきり、焼き捨てるのを忘れてしまった。これから引っ返して、蝋燭で焼いてしまおう。そうだ、蝋燭がいい。しかし、いま考えているのは、見当ちがいのことじゃないかしらん……』 もうとうに暗くなった、ピョートルが蝋燭をはこんで来た。彼はわたしのそばにしばらく立っていたが、もう食事はすんだかとたずねた。わたしはただ手を振っただけである。けれど、一時間ばかりたって、彼は茶を持ってきてくれた。
わたしは大形の茶碗にIぱい、貪るように飲みほした。それから、いま幾時かとたずねた。八時半とのことだった。わたしはもう五時間すわり通していたわけだが、べつに驚きもしなかった。 「わたくしはもう三度ばかり、こちらへはいってまいりましたが」とピョートルがいった。「お休みのようでございましたな」 わたしは彼がはいってきたのを覚えていなかった。どういうわけだかしらないが、眠っていたと聞いて、わたしはふいに恐ろしくびっくりして、いきなり立ちあがり、部屋の中を歩きはじめた。また『眠って』しまわないためなのである。とうとう頭がひどく痛みだした。正十時に公爵がはいって来た。この男を待っていたのだなと思い、わたしはびっくりした。公爵のことなどすっかり忘れていたのだ。ほんとうにすっかり。 「あなたはここにいたんですね。わたしはあなたを迎えに、わざわざあなたのところへ寄ったんですよ」と彼はいった。 彼の顔は陰鬱でいかめしそうに見え、微笑の影すらなかった。その目には、じっと凝りかたまったような想念が浮かんでいた。 「わたしは一日もがき通して、ありとあらゆる方法を試みましたが」彼はひと所に集中したような声で、言葉をつづけた。「しかし、何もかも瓦解してしまって、前途には恐怖あるのみです……(NB 彼は結局、老公のところへ行かなかったのだ)わたしはジベーリスキイに会ったが、実にたまらない



やつです。ねえ、まず最初に金をもってかなくちゃならん、万事はそれからのことですよ。もし金を持って行ってだめなら、そのときは……しかし、わたしは今日このことを考えまいときめました。今日はただ金を工面することに力を傾倒して、そのあとは、明日になってからのことに七ましょう。一昨日のあなたの儲けには、まだIコペイカも手をつけてありません。それは三千ルーブリに三ルーブリ欠けるだけです。あなたの借金を差し引くと、三百四十ルーブリおつりが行くわけだ。まずそれを受け取ってください。それから、ほかにもう七百ルーブリ、それでちょうど千という金がまとまります。そこで、わたしが残りの二千ルーブリをもらっておきましょう。それからゼルシチコフのところで、二手に分れて輸贏を争ってみましょう。一万ルーブリの山をはってみるんです、-ことによったら、うまくいくかもしれない。もしだめなら、そのときは……しかし、それよりほかに手がないんだから」 彼は宿命に取り憑かれたような目つきでわたしを見た。 「そうです、そうです!」と、さながらよみがえったように、わたしはふいに叫んだ。「出かけましょう。ぽくはただあなたの帰りを待ってたんです……」 ことわっておくが、わたしはこの数時間中、ただの一分間も、ルレ″卜のことを考えなかったのだ。 「しかし、陋劣じゃないかしらん? 卑劣な行為じゃないかしらん?」とだしぬけに公爵がたずねた。「それは、ぼくらがルレ″卜に出かけることですか? な
に、これが全部ですよ!」とわたしは叫んだ。「金がすべてですよ! 神聖な人間というものは、ぼくやあなたくらいのもんです。ビョーリングは自分を売ったんじゃありませんか。アンナさんも自分を売ったんじゃありませんか。ところで、ヴェルシーロフは、Iヴェルシーロフが偏執狂だってことを聞きましたか? 偏執狂!・ 偏執狂です!」 「あなたは気分は確かですか、アルカージイ君? なんだか目つきが変ですよ」 「それはぼくをだしぬいて出かけるためですか? なに、ぼくはもうあなたのそばを離れやしないから。ゆうべ夜っぴて勝負の夢ばかりみていたのも、やはり虫の知らせだったんだ。出かけましょう、出かけましょう1・」まるでいっさいの謎をとく鍵を見つけたように、わたしは叫ぶのであった。 「じゃ、そういうことなら出かけましょう、あなたは熱にうかされているんだけれど。まあ、向こうで……」彼はしまいまでいわなかった。いかにも苦しそうな、顔つきをしていた。わたしたちはもう出かけようとしていた。 「ときに」ふいに戸口のところで足をとめて、彼はいった。 「この災難をのがれる方法が、もう一つあるんですよ、勝負のほかに」 「どんな?」 「公爵らしい方法ですよ1・」 「なんです? いったいなんです?」 「あとでわかりますよ、ただご承知ねがいたいのは、もうそれを利用する資格がわたしにないということです、もう手遅
れになったから。さあ、出かけましょう。どうかわたしのいったことを覚えていてください。一つ下司らしい方法をためしてみましょう……なあに、自分でもよく承知していますよ、わたしは意識的に、自分の自由意志で出かけるんです、-下司のような行動をしてるんです!」 わたしはルレット場をさして馬を飛ばした。まるでわたしのあらゆる救いが、いっさいの活路がそこに集中されているような気がしたのだ。ところが、前にもいったように、公爵が帰って来るまで、わたしはそんなことなど考えもしなかった。それに、わたしは自分のために輸贏を争おうとしているのではなく、公爵のために、公爵の金で一勝負するために、馬を飛ばしているのだった。何がわたしをこんなに引きずって行くのか、とんとわけがわからなかったけれども、とにかく、否応のない力がわたしを引いて行った。ああ、ゼルシチコフのもとに集まったこれらの人々、これらの顔、これらの胴元、これら賭博者特有の叫び声、そしてこれらの俗悪な広間ぜんたい、--こうしたすべてのものが、このときほどいまわしく、陰鬱に、下品に、暗澹として見えたことはなかった! この幾時間かテーブルに向かっている間じゅう、わたしの心をつかんだ悲痛な妄想を、いまでも覚えすぎるほどよく覚えている。しかし、なぜわたしは帰ってしまわなかったのだろう? まるで犠牲と苦行の運命でも背負ったかのように、なぜじっと最後までたえしのんだのか?・ ここでただ
一つだけいっておこう、-そのときのわたしが健全な判断力をもっていたとは、しょせんいいにくいことだった。が、それにもかかわらず、この晩ほど合理的に勝負をしたことは、これまでついぞ一度もなかったほどである。わたしは黙りがちで注意ぶかく、全身の作用をひとつに集中して、恐ろしくこまかいところまで計算を働かせた。わたしは辛抱づよくて小心だったが、しかしいざという場合には、決断力がついていた。わたしはまたもやゼロの場所に陣取った。つまり、前のとおりゼルシチコフと、いつもゼルシチコフの右側にすわるアフェルドフのあいだだった。わたしはこの席が大きらいなのだけれど、是が非でもゼロにかけたかったし、そのほかのゼロはみんな場所が塞がっていたからである。もう一時間あまり勝負を戦わせた。やがてわたしは自分の席から見ていると、公爵がふいに立ちあがって、真っ青な顔をしてわたしたちのテーブルへ移って来、テーブルを隔ててわたしの真向かいに立ちどまった。彼はありったけはたききって、無言のままわたしの勝負を眺めていたが、しかし何か何やら少しもわがらなかったし、それにもう勝負のことなど渮えていなかったらしい。 ちょうどこのとき、わたしはやっと勝運が向いたところで、ゼルシチコフはわたしに払う金を勘定していた。とつぜんアフェルドフが無言のまま、わたしを目の前にすえながら、田心いきってずうずうしく、わたしの百ルーブリ札を一枚、自分の前に積んである金のかたまりへいっしょにした。わたしは思わず声をあげて、その手をつかんだ。そのときわたし



の心中に、自分でも思いがけないようなあるものがわき起こった。わたしはまるで鎖を引きちぎったようなあんばいだった。この日のありとあらゆる恐怖と憤懣が、この一瞬間、この百ルーブリ札の紛失に集中されたといってもいい。わたしの心中に鬱積し圧迫されていたものが、この一瞬間を待ちもうけて、破裂したかのようであった。 「泥棒。この男はいまぼくの百ルーブリを盗んだ」われを忘れてあたりを見まわしながら、わたしはこう叫んだ。 そのとき、どんな騒ぎがもちあがったか、そんなことをくだくだしく書くのはやめよう。こんな事件はこことしてまったく珍しいことだった。ゼルシチコフの賭博場はいったいに上品で、それがここの売りものになっていた。けれど、わたしは前後を忘れはてた。騒がしい物音や叫び声の間に、ゼルシチコフの声が聞こえた。 「だが、金がないぞ。ここに置いてあったのだ! 四百ルーブリー」 たちまちにして第二の事件が起こった。銀行側の金がゼルシチコフの膵さきで盗まれたのだ。しかも、四百ルーブリの束なのだ。ゼルシチコフは金の置いてあった場所を指さした。『つい今までここにあったのだ』その場所というのはわたしのすぐそばで、わたしの金の置いてあった場所と、ほとんどくっつき合うばかりだった。つまりアフェルドフよりわたしのほうに近かったことになる。 「泥棒はここにいる! こいつがまた勁心なのだ。こいつをさがしてごらんなさい!・」とわたしはアフェルドフを指さし
ながら叫んだ。 「これというのもみんな」一座の叫び声を圧して、だれかの雷のような叫び声が、意味ありげな調子でいった。「なんだかえたいのしれない連中が出入りするからだ。紹介もない人間を入れたりなんかして! いったいだれがあれをつれて来たんだ? いったいあれは何者だ?」 「ドルゴルーキイとかなんとかいうんだ」 「ドルゴルーキイ公爵かね?」 「ソコーリスキイ公爵が引っぱり込んだんだ」と、だれかが叫んだ。 「どうです、公爵」わたしは夢中になって、テーブルごし。にわめいた。「ぽくはいまここで盗難にあったのに、かえってみんなぽくを泥棒よばわりしてるんです! みんなにそういってください、ぼくのことをいって聞かせてください!」 するとそのとき、この一日じゅうに起こったこと……というより、わたしの生涯に起こったことの中で、最も恐ろしい事件がもちあがった。―公爵はわたしを否定したのである。わたしが見ていると、彼は両の肩をすくめて、四方から浴びせかけられる問いに対して、きっぱりと明瞭にいいきった。 「わたしはだれの責任も持ちません。お願いだから、わたしにかまわないでください」 その間アフェルドフは、群衆のまん中に突っ立って、身体検査をしてくれと大声でどなっていた。彼は自分でポケットをすっかりひっくり返してみせた。しかし、彼の言葉に対して、人々は『いや、いや、泥棒はわかっている!』と口々に
晞んだ。よびよせられた二人のボーイが、うしろからわたしの両手をつかんだ。 「ぼくは身体検査などさせやしない。そんなことは、ゆるさない!」わたしは振り放そうともがきながらこう叫んだ。 しかし、わたしは次の間へ引きずり込まれた。そして衆人環視の中で、体じゅう残るくまなく探りまわされた。わたしはわめき立て身をもがいた。 「どこかへ捨てたに相違ない、床の上をさがしてみよう」とだれかが勝手にこうきめた。 「いまごろになって、床のどんなところをさがすんだ!」 「きっとテーブルの下だよ、うまくどこかへ、投げ込んだに相違ない!・」 「むろん、証跡なんか残しゃしないさ……」 わたしは外へ引き出された。が、戸口のところで隙を狙って立ちどまり、無意味に近い兇猛な声で、ホール全体へ響きわたれと叫んだ。 「ルレットは警察で禁止されてるんじゃないか。今日すぐ貴様らをみんな訴えてやるから!・」 わたしは階段から引きずりおろされ、外套を着せられた。そして……わたしの目の前に、表の扉口が開かれた。
第9章 雪中の幻

 この日は破局でおわった。しかし、まだ夜が残っていた。そして、この夜については、次のようなことを覚えている。 わたしが自分を往来のまん中に見いだしたのは、十二時ちょっとまわった時分だと思う。それはしんしんと冴えかえった寒い夜だった。わたしはほとんど駆け出さないばかりだった。恐ろしく急いでいたのだが、しかし、―決して帰路を急いでいたのではない。『うちへなど帰ってどうする? 第一、いま家なんてものがありうるだろうか? 家の中は人の生活するところだ。ぼくも同じように生活するために、あす目をさます、-だが、そんなことが今できるだろうか?生活はおわったのだ、今じゃもう生活することは、断じて不可能だ』 こうしてわたしは、自分でもどこを歩いているのやら、いっさい無我夢中で、街々をさ迷い歩いた。それに、どこぞあてがあったのか、自分でもわからないのだ。わたしはやたらに熱かった。で、のべつ重い浣熊の外套の前をばたばたあおっていた。『今ではもういかなる行動も、いかなる目的をも有しえない』そのときわたしはこんな気持ちがしていた。そして、奇妙なことには、周囲のいっさいのものが、I自分の呼吸している空気までが、まるでほかの遊星から来たもののように感じられた。わたしはとつぜん月世界に落ちこんだような気がして仕方がなかった。町も、往来の大も、自分の走っている歩道も、-何もかもすべてのものが、もうわた丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶しのものではなかった。『ああ、ここは宮殿広場だ、これはイサーキイ寺院だ』こんな考えがわたしの脳裡をかすめた。
35Q



『しかし、今ではこんなものになんの用もないのだ』すべてのものが妙によそよそしくなり、何もかもふいにわたしのものでなくなった。『ぽくにはお母さんがあり、リーザがある、1だが、それがどうしたのだ? 何もかもおしまいだ、何もかも一時におしまいになっちまったのだ。ただ一つだけおしまいにならないものは、-おれが永久に泥棒だといゝつことだ』 『おれが泥棒でないことを、どうして証明できるだろう?いったいそんなことがいま可能だろうか? アメリカへでも行ってしまおうか? だが、それで何を証明しようというんだ? ヴェルシーロフは第一番に、おれが盗んだということをほんとうにするだろう!・「理想」は?・ 何が「理想」なのだ? いま、「理想」など何になるんだ? 五十年か百年たったとき、おれが人生の行路を進んでいるとき、おれを指さしながら、「ほら、あれは泥棒だよ。あいつはルレ″卜の金を盗むことを、自分の理想の振り出しにしたのだ」という人間が、いつでも必ず出て来るに相違ない……』 そのとき、わたしの心中に憎悪の念があったか? それはわからないが、もしかしたら、あったかもしれない。奇怪なことだが、わたしにはいつも、-あるいはごく幼いときからかもしれない、-こういったような癖があった。人に悪いことをされて、極度にまで、ぎりぎり決着のところまで侮辱を加えられると、わたしの心中には必ずきまって、受動的にその侮辱に身をゆだねたい、それどころか、進んで相手の意を迎えるような態度さえとりたいという、いなみがたい欲
望が生じるのだった。『さあ、きみはぼくを侮辱した、だからぼくはもっとひどい屈辱を自分に加えるから、一つ見てくれたまえ、見物してくれたまえ!』といったような気持ちなのだ。現にトゥシャールはわたしを折檻して、わたしが元老院議員の息子などと違った、一介のボーイにすぎないということを証明しようとすると、わたしはさっそく、自分でボーイの役まわりを買って出たではないか。わたしは彼に外套を着せたばかりでなく、自分からブラシを取って、あるかないかの塵まで払いはじめたものだ。決して向こうから頼んだり、命令したりするわけでもないのに、どうかすると、自分でブラシを手に持って、彼のあとを追っかけながら、ボーイ的熱心の充ちあふれるままに、彼のフロックから目に見えないほどの塵を払おうとした。で、ときとすると、もう向こうのほうから、『たくさん、たくさん、アルカージイ、もうたくさんだよ』と押し止めるほどだった。よく彼がかえって来て、上着を脱ぎすてると、1わたしはそれをきれいに手入れして、丁寧にたたんだうえ、格子縞の絹の(ンカチをかぶせたものだ。友だちはそれを見て、笑い、軽蔑した。それはわたしもよく知っていた。が、しかしつまり、それが望みだったのである。『ぽくをボーイに仕立てるのが望みだったんだから、このとおりボーイになって見せてやる。下司にしたいのなら、jさあ、これで立派な下司じゃないか』これに類した受動的な憎悪と、深く心に秘めた憤怒を、わたしは幾年でもつづけることができた。 ところで、どうだろう? ゼルシチコフの賭博場で、わた
しはすっかり前後を忘れて、ホール一杯に響きわたれとばかり、『貴様らをみんな訴えてやる、ルレ″卜は警察で禁止されてるんだ!・』とわめいたものである。誓っていうが、このときもやはり似たような気持ちがひそんでいたのだ。わたしは身体検査をされて、泥棒の極印を打たれ、死に価するほどの屈辱を受けた。『よし、みんな覚えておくがいい、貴様たちは図星をさしたんだ。おれはただの泥棒ばかりか、密告までやる男なんだぜ!』いま当時のことを思い浮かべながら、わたしはちょうどこんなふうにいっさいの総じめをし、説明をすることができる。しかし、そのときは、まるで分析解剖どころの沙汰ではなかった。わたしはなんの考えもなしにわめいたので、つい一瞬間まえまで、そんなことをわめこうなどとは、夢にも考えていなかった。ひとりでに囗から出てしまったのだ、iもともとわたしの心に、そういう性癖があったに相違ない。 わたしが往来を走っているあいだに、もうそろそろ、熱に浮かされたような状態がはじまりかかっていたのは、疑いの余地がない。けれど、わたしの行動が意識的だったのは、今でもはっきりと思い起こすことができる。とはいえ、一連の想念や結論は、そのときのわたしにとってぜんぜん不可能なものだった。それはきっぱり断言していい。わたしはその瞬間でさえも、心の中で、『ある種の思想なら持つことができるが、そのほかの思想はどうしても持てない』と直覚的に感じたくらいである。それと同様に、そのときわたしのとった決心には、明瞭な意識こそ伴なっていたけれど、これっから
さきの論理さえありえなかった。そればかりではない、わたしははっきり記憶しているが、どうかすると、ある種の決心のばかばかしさを十分に意識しながら、同時に完全な意識を保って、即座に実行にとりかかるようなことも、同様しかねなかった。そうだ、犯罪はその晩、わたしに蔽いかかっていたのだが、偶然のおかげで実現されなかったばかりだ。 そのときとつぜん、タチヤーナ叔母のヴェルシーロフに関する評語が、ふとわたしの頭にひらめいた。『いっそ二コラエフスキイ線の線路へでも出かけて、レールの上に首でものっければいいのに、そうすれば、造作なく首をちょん切ってくれるから』この想念は瞬間的に、わたしの全感党を領しつくした。しかし、わたしは苦痛を忍びながら、たちまちそれを追いしりぞけた。『レールに首をのせて死んでしまったら、明日はみんなが、これはきっとほんとうに盗んだものだから、恥ずかしくってやっつけたんだろう、といいふらすに相違ない、Iいやだ、断じていやだ1・』すると、そのとたんに、今でも覚えているが、とつぜん、わたしは恐ろしい憤怒の一刹那を感じた。『どうなるものか?』という考えがわたしの頭をかすめた。 『もう明しを立てることは、どうしたってだめだ。新しい生活をはじめることもやはり不可能だ。だから、-諦めてひと思いにボーイになってしまうか? 犬に、虫けらになって、密告してやるか? もうほんとうに密告してやるか?そして、こっちはこっちでそっと準備を進めて、いつか時がきたら、-ふいに一大爆発を起こし、何もかも空中にけし



飛ばしてしまうか? 善人も悪人もいっさい無差別に、虚無に帰してしまうのだ。そのときはじめて世間のやつらは、これは例の泥棒よばわりをされたあの男だな、と佰るだろう……そのときはじめて、おれも死んでしまうのだ』 わたしはどんな道筋をたどって、近衛騎兵隊ブルヴァールに近いとある横町に駆けこんだのか、自分でもさらに覚えがない。この横町の両側は、ほとんど百歩ばかりの間というもの、高い石の壁がつづいていた、-家々の裏庭の塀である。左側のとある壁の向こう側に、素晴らしい大きな薪の山が見えた。まるで薪屋かと思われるくらい長い山で、高さも壁よりIサージェン(吶にい)ばかりぬき出ていた。わたしは急に立ちどまり、丁心に思案をこらしはじめた。わたしのポケ″卜には、小さな銀の箱に入れた熾マッチがあった。くり返していうが、そのときわたしは何を思案したか、何をしようと思ったか、それはすべて十分明確に意識していた。今でも如実に思い出すことができる。しかし、なんのためにそうしようと思ったかわからない。まるでわからない。ただとつぜん、矢も楯もたまらないほど、そうしたくなったことだけ覚えている。 『あの塀によじ登るのは、決してむずかしくない』とわたしは腹の中で考えた。ちょうど二足ほど離れたところに、この二、三か月ぴったり閉めきりになっているらしい門があった。『下のへこみを足だまりにして』とわたしは考えつづけた。『門の上へ手をかけたら、塀の上へ登ることができる。-それに、だれも見つけるものはない、だれ一人いやしない。
ひっそりしたものだ! そこで、おれは塀の上にまたがって、みごと薪に火をつけてみせる。下へおりることもいらないくらいだ。薪はほとんど塀にくっついているのだから、寒いからよけいよく燃えるだろう・ただ白樺(謐萌宍詐黙勁にて)の薪を一本とりさえすればいいんだ……なに、薪を取ることもいりゃしない。塀の上にすわったまま、手で白樺の皮を剥がすだけでたくさんだ。そいつにマ″チの火を移して、燃えついたら、薪のあいだへ押しこむんだ、-それでもうちゃんと火事になる。そこで、おれは下へ飛びおりて、さっさと行ってしまう。駆け出すこともいらないほどだ。まだまだしばらく気がつきゃしまいから……』 わたしはこんなふうに考えたあげく、jたちまちにすっかり決心してしまった。なんともいえない満足と快感を覚えながら、わたしは塀をよじ登りにかかった。こんなことにかけたら、わたしは、なかなか達者なもので、中学時代から体操は専門なのだ。しかし、このときはオーヴフyユースを殷いていたので、仕事は案外骨が折れた。それでもとにかく、上のほうにほとんどあるかないかの出っ張りを見つけ、それに片手を引っかけて、体を持ちあげた。さて、こんどは塀の頂へつかまろうと思って、いま一方の手を振りあげようとしたとたん、思わず于がはずれて仰向けにぶっ倒れた。思うに、わたしはうしろ頭を地べたへぶっつけたらしく、一、二分間は意識を失って、ねていたような気がする。やがてわれに返ったとき、ふいに堪えがたい寒さを感じて、わたしは機械的に外套の前をかき合わせると、自分の行動をほとんど意識
せずに、門の片隅へもぐり込み、門と壁の出っ張りのあいだの小深くなったところに身をちぢめ、そこへしゃがみこんでしまった。頭の中がこんぐらかって、みるみるうちに眠りに落ちたらしい。いまでも夢のように覚えているが、ふとわたしの耳に厚みのある、重々しい鐘の音がひびきわたった。で、わたしはいい心持ちでその音に耳をすました。
      2 鐘は二秒か三秒ごとに一つずつ、きっぱりと強く鳴っていた。が、それは半鐘ではなく、なんだか気持ちのいい滑らかな音たった。すると、わたしはとつぜん、あれは馴染みのある音だと気がついた。それはトヴシャール塾の向かいにある、二コラという赤い教会で鳴らす鐘なのだ。jわたしの覚えているところでは、まだアレクセイ皇帝(尨四作例)時代に建てられた、純モスクワ式の古い教会で、円屋根の『塔』のたくさんある、飾りの多い建物だ。今ちょうど復活祭が過ぎたばかりで、トゥシャールの家の小庭に生えた、やせひょろけた白樺の枝には、もういたいけな若葉がふるえていることだろう。暮れちかい太陽が、わたしたちの教室へ、斜めな光線をあかあかと投げこんでいる。もう一年ばかり前から、『伯爵や元老院議員の子供たち』と区別するために、トゥシ″Iルがわたしにくれた左手の小部屋には、女客が一人すわっている。そうなのだ。氏素姓もないわたしのところへ、だしぬけに女客がやって来たのだ。それは、わたしがトクシ″-ルの塾へ来てから、あとにも先にも初めてのことである。この女
客がはいって来るやいなや、わたしはすぐそれが何者であるかに気がついた。それは母たった。ただし、彼女が村の教会でわたしに聖餐をいただかせて、一羽の鳩が丸天井をくぐって飛び出したのを見て以来、それこそ一度も母に会わなかったのである。わたしたちはさし向かいにすわった。わたしは奇妙な目つきで、じっと母を見つめていた。それから幾年もたった後に、初めて知ったことだが、そのときとつぜんヴェルシーロフが外国旅行に出かけた留守に、彼女の世話をするように頼まれていた人たちの目を盗んで、母は自分の乏しい財布の底をはたいてヽ昨争にモスクワへやって来たのだ・しかも、それはただわたしに会うためだった。もう一つ不思議なことに、彼女ははいって来て、トゥシャールとIこと二こと話したきり、わたし自身には母親だということを、一囗もいって聞かせなかった。彼女はわたしのそばにすわっていたが、その口数の少ないのには、わたしでさえびっくりしたように記憶している。包みを一つ持っていたが、それを解いたとき、中から蜜柑が六つと、生姜餅がいくつかと、ごくありふれたフランスパンが二つ出てきた。わたしはフランスパンに侮辱を感じて、むっとしたような顔つきをしながら、ここの『食べ物』はなかなか上等で、毎日お茶のときに、フランスパンを一つずつもらっていると答えた。 「かまやしないよ、坊や、わたしはただなんの気なしにそう思ったんだよ、-ひょっとしたら、学校じゃ賄いが悪いかもしれない、つてね。怒らないでおくれ、アルカーシャ」「それに、アントニーナーヴフンーリェヴナ(トウシャール



の妻)だって、気を悪くされますよ。友達もぽくをからかうに相違ありません……」 「じゃ、受け取らないつもりかえ、なんなら食べておくれかえ?」 「まあ、おいてらっしゃいよ……」 この土産物にわたしは手をふれなかった。蜜柑と生姜餅’は、わたしの前に置かれたテーブルの上にころかっていた。わたしは目を伏せながら、とはいえ、なみなみならぬ威厳をしめしながら、すわっていた。母の訪問のおかげで、友達に対して恥ずかしい思いをさせられたということを、母に感じきせてやりたくてたまらなかったのかもしれない。それはだれしも保証できない。ほんの少しでもそういう素振りを見せ弋、母にさとらせてやりたかった。『ごらんなさい、お母さんはぽくに恥をかかせて、しかも自分でそれがわからないじゃありませんか』ああ、わたしはもうその時分ブラシを持って、トゥシャールのあとを追っかけながら、その服の塵を払おうとしていたのだ! 母が帰って行くが早いか、わたしは子供たちばかりでなく、悪くしたら、トゥシャール自身から、どれくらい冷笑を受けるだろう、といったようなことも、腹の中で想像していた。で、彼女に対してこれっからさきも好感をいだくことができなかった。わたしは母の地味な古ぼけた着物や、かなりごつごつした、ほとんど労働者のような手や、それこそ思いきってごつごつした靴や、ひどくやせた顔などを、横目にじろじろ見まわすばかりだった。彼女の額には早くも小皺がきざまれていた。もっとも、その晩、
彼女の帰ったあとで、アントニーナーヴ″シーリェヴナがわたしに、『あふたの日‘日呂(ママ)は、以前きっといい器量だったに相違ありませんね』といった。 こうして、二人ですわっていると、だしぬけにアガーフィヤが、盆にコーヒーをのせてはいって来た。それはちょうど食後時間で、トゥシ″Iル夫婦はいつもこの時刻に、客間でコーヒーを飲むことになっていた。しかし、母は礼を述べただけで、茶碗を取ろうとしなかった。あとで聞いたところによると、彼女は動悸がひどくなるからといって、当時コーヒーを少しも飲まなかったのだ。実のところ、母に面会を許したということを、トクシャール夫婦は内心、非常な譲歩と考えていたらしいので、母に捧げた一杯のコーヒーは、いわば人道的功業ともいうべく、比較的にいってみれば、彼らの文明的感情と西欧的見解に、異常な名誉をもたらすべきものだった。ところが、母はまるでわざとのように、それをことわったのである。 わたしはトゥシャールのところへ呼ばれた。彼はわたしに手帳や本をすっかり持って行って、『わたしの塾できみがどれだけの成果をえたか、お母さんに見てもらうように』といいつけた。そのときアントニーナーヴ″シーリェヴナは口をつぼめて、さも癪にさわったような、おひゃらかすような調子でいった。 「なんだかあんたのヨ〃日邑は、家のコーヒーがお気に召さなかったようね」 わたしは手帳をかき集めて、教室に集まってわたしたちを
隙見している『伯爵や元老院議員の子供たち』のそばを通りすぎながら、じっと待っている母のところへ持って行った。そこで、トゥシャールからいいつかったことを、文字どおり正確に実行するのが、愉快にさえ思われた。『これがフランス文典の課業で、これが書き取りの練習、それから、これが助動詞av01「(もつ)と’5(ある)の変化、それから、これは地理の宿題で、ヨーロで『はじめ、全世界の主要都市の概、況です』等々。わたしは三十分かそれ以上も、行儀よく目を伏せたまま、なだらかな細い声で説明をつづけた。母が学問のことなど、からっきしわからないばかりか、字を書くすべさえ知らないかもしれない、ということを承知していたが、しかしそれだけになおわたしは、自分の役割が気に入ったのである。しかし、彼女を悩ますことはできなかった。彼女はなみなみならぬ注意と、敬虔の色さえ浮かべながら、一言半’句も口を入れないで、たえず耳を傾けていた。で、とうとうわたしのほうが退屈になって、やめてしまった。もっとも、彼女の目つきは沈みがちで、何か哀れっぽいような表情が顔に浮かんでいた。 彼女はついに立ちあかって、帰り支度をはじめた。と、ふいに当のトゥシャールがはいって来て、ばかばかしいほどえらそうな顔つきで、母に問いかけた。『ご子息の成績にご満足ですか?』母はとりとめもないことをつぶやきながら、礼を述べはじめた。やがて、アントニーナーヴフylリェヴナもやって来た。母は二人に向かって、『どうか身なし子をお皃捨てのないように。これはいま身なし子も同じことでござ
いますから、お慈悲をかけてやってくださいませ……』と頼み、両眼に涙を浮かべながら、一人一人別々に会釈した。それは、『下層のもの』が、えらい人のところへ行って、何か頼みごとをするときのような、低い低いお辞儀だった。トゥシャール夫婦も、これだけは思いがけなかった。アントニーナーヴァシーリェヴナは、明らかに心をやわらげたふうで、コーヒーに関する独断は、むろん即座に撤回してしまった。トゥシャールは、いかにもわざとらしい慇懃な調子で、自分は子供たちにわけ隔てをしない。ここにいる子供はみんな自分の実子で、自分はみなの父親だから、ご子息も元老院議員や伯爵の子供たちと同じ扱いを受けている。それを買っていただきたい等々、さも人道家らしく答えた。母はただお辞儀をするばかりだったが、大分まごついているらしかった。とどのつまり、わたしのほうへ振り向いて、目に涙を光らせながら、『さよなら、坊や!・』といった。 そして、わたしを接吻した。といって、つまり、わたしが接吻さしてやったのである。彼女はもっともっと接吻したり、抱きしめたりしたかった様子だったが、人前をはばかったのか、何かほかの原因で急につらくなったのか、それともわたしが彼女を恥じているのを悟ったのか、とにかく、もう一度トウシャール夫婦に会釈して、あわただしげに出て行こうとした。わたしはじっと立っていた。 「Mais suivcz donc votre mere(さあお母さんを送っておいき)」とアントニーナーヴァシーリェヴナがいった。「il n'a Pas dec(l!ur cct entant !(この子は情なしね!)」



 トウシャールは答えのかわりに肩をすくめたが、それはむろん、『わたしがこれをボーイ扱いにするのも、無理はないだろう』という意味だった。 わたしはおとなしく母の後からおりて行った。わたしたちは入口の階段へ出た。みんなが教室の窓からのぞいているのを、わたしはちゃんと承知していた。母は教会のほうへ向いて、三度まで念入りに十字を切った。その唇はふるえていた。厚みのある鐘の音が、規則ただしく高らかに鐘楼から響いていた。母はわたしのほうを振り向いた、―と、我慢しきれなくなって、わたしの頭に両手をのせたまま、屈みこんで泣きだした。 「お母さん、もうたくさんですよ……恥ずかしいじゃありませんか……だって、今みんなが窓から見てるんですもの……」 彼女ははっと頭をあげて、急にそわそわしはじめた。 『じゃ、ご……y』機嫌よう……もろもろの天使たち、聖母マリヤ、聖二コラ……天なる父よ、守らせたまえ!」と彼女は早口にくり返しながら、すこしでもたくさんわたしの体に十字を印しようと努めるように、たえず忙しげに手を働かせた。「わたしの坊や、かわいい坊や!・ 坊や、ちょっと待っておくれ……」 彼女はせかせかポケットに手を突っ込んで、一枚の(ンカチを取り出した。青い格子縞の(ンカチで、一方の端がかたい結びこぶになっていた。母はそのむすびこぶを解こうとしたが、-解けなかった…… 「まあ、かまやしない。(ンカチごと取っておおき。まだき
れいだから役に立つだろう。その中に四十コペイカほどあるけれど、何か入り用があったら……堪忍しておくれ、坊や、ちょうどそれだけしか持ち合わせがないんだから……堪忍し・ておくれね、坊や」 わたしは(ンカチを受け取った。心の中では、卜″シ″Iル先生やアントニーナーヴyy-リェグナから、十分の手当てをきめてもらっているから、べつだんなんにも不自由はない、といいたかったのだけれど、そういい切るだけの勇気がなく、(ンカチを受け取ってしまった。 母はもういちど十字を切って、もういちど何かの祈祷をつ’ぶやいたと思うと、ふいに、―ふいに腰をかがめて、わなしにお辞儀をした。それは、さきほど上でトゥシャールにしたのと同じ、ゆっくりした、長い、丁寧な会釈だった、―わたしは一生これを忘れやしない! わたしは思わずびくっとしたが、どういうわけか自分でもわからない。この会釈によって、母は何を語ろうとしたのだろう?『わたしに対する自分の罪を認めたのだろうか?』(これはずい分年月がた。つてからわたしの頭に浮かんだ考えだ)それはどうだかわからないが、とにかくわたしはたちまち前よりいっそう恥ずかしくなった。『みんなあすこから見てるだろうなあ。ランベルトなどはいきなりぶんなぐるかもしれない』 とうとう彼女は帰って行った。蜜柑や生姜餅は、まだわたしが帰って来ないうちに、元老院議員や伯爵の子供たちが食べてしまった。そして四十コペイカは、さっそくランベルトがわたしの手から取りあげた。彼らはその金をもって菓子屋
へ行って、ケーキやチ。コレートを買ったけれど、わたしにご馳走しようとさえしなかった。 まる半年たった。早くも風の多い曇りがちな十月がきた。わたしは母のことなど、けろりと忘れてしまった。ああ、そのときは憎悪の念が、―すべてのものに対する秘められた憎悪の念が、すでにわたしの心に滲みこんで、その中のいっさいを浸していたのである。わたしは依然トゥシャールの服を、ブラシでこすってはいたものの、もう心底から彼を憎んでいた。しかも、それは日ましに強くなっていった。ちょうどそのころ、いつだったかもの悲しい黄昏どきに、わたしはなんのためやら自分の柚さ出しを片づけにかかった。と、その片隅に、例の青い精麻の(ンカチが目についた。それはいつか突っこんだなり、そのままそこに置かれていたのだ。わたしはそれを取り出して、ある好奇心さえ覚えながら、つくづくと見つめていた。(ンカチの片隅は、いつかの結びこぶの螟を、まだはっきりと残していた。そればかりか、包んであった金のまるい型までが、まざまざと印せられていた。しかし、わたしは(ンカチをもとのところへしまって、抽き出しを奥へ押し込んだ。それは祭日前のことで、夜祈祷を知らせる鐘の音がひびきはじめた。生徒たちはもう食事がすむと、すぐ自分の家へ帰ってしまい、ただランベルトだけがこのとき日曜を控えながら、塾に残っていた。どうして彼の迎えが来なかったのか、それは知らない。 彼はその当時、相変わらずわたしをなぐっていたけれど、もうくさぐさのことをわたしに知らせるようになり、わたし
という人間に必要を感じていた。 わたしたちはI晩じゅう、レパジェ式のピストルのことや(そのくせ、どちらもまだ見たことがないのだ)、チェルケス人の剣のことや、チェルケス人の斬りかたのことや、山賊の一団を組織したらよかろうということなど話しつづけた。とうとう最後にランベルトは、十八番の穢らわしい話題に移った。そして、自分でも驚いたことながら、わたしはその話を’聞くのが大好きだった。けれど、そのときわたしは急にたまらなくなって、頭が痛いといいだした。十時にわたしたちは床へはいった。わたしは頭から毛布をひっかぶりながら、枕の下から青い{ンカチを取り出した。なぜか知らないが、}時間ほど前にわざわざ例の抽き出しのところへ行って、この(ンカチをとり出し、床を伸べてもらうやいなや、それを枕の下へ突っ込んだのだ。わたしはすぐさま(ンカチを顔へ押しあてて、いきなり接吻しはじめた。『お母さん、お母さん』とわたしはあのときのことを思い出しながらささやいた。胸はまるで締め木にかけられたようだった。わたしは目をふさいだ。と、母が教会に向いて十字を切り、それからわたしにも十字の印をおいてくれたとき、わたしが『恥ずかしい、見てるじゃありませんか』といったときの目つきや、ふるえる唇をまざまざと見た。『お母さん、お母さん、あなたはたったいちどぼくんとこへ来てくれましたね………お母さん、遠くから来たわたしの女客、いったい今どこにいるんです? そのとき訪ねてくれたかわいそうな坊やを、今あなたは党えていますか……ほんとにちょっとでもいいから、ぼくにいま姿
冫卵



を見せてください、せめて夢にでもあらわれてください。ぼくがどんなにお母さんを愛しているか、ただそれだけいいたいのです。あなたを抱きしめたいのです。あなたの青い目を接吻したいのです。今じゃもう少しもあなたを恥ずかしく思わない、あのときだってあなたを愛して、そのためにぽくの胸は悩んでいたのだけど、ただボーイ然とすましていたのです、-そのことをお母さんにいいたくってたまらない。あのときぼくが、どれくらいあなたを愛していたか、それは決してお母さんにもわかんないでしょう! お母さん。今どこにいるのです? ぼくの言葉が聞こえますか? お母さん、お母さん、あの鳩を党えていますか、村の教会の?』 「ええ、こん畜生……やつ何をいってやがるんだ!」とランベルトが自分の寝台で、ぶつぶついいだした。「待ってろ、いまにおれが! ひとを寝させやしない……」彼はとうとう寝台から跳ね起きて、わたしのそばへ駆けよると、いきなり毛布を引きめくろうとした。けれど、わたしは毛布の下に頭を突っ込んだまま、かたくかたくそれを抑えていた。 「べそばかりかきゃがって、何をめそめそいってるんだ。ばか、ばか野郎! こうしてくれるI」と彼はなぐりかかって来た。拳をかためてわたしの背や脇腹を、いやというほどどやしつけた。彼の拳はいよいよ強く降って来る……ふいにわたしは目を見開いた…… もはやかなり明るくなっていて、針のような霜が塀の上にも、雪の上にもきらきら光っている……わたしは毛皮外套の中で石のように固くなって、半分死んだような体をちぢかめ
たまますわっていると、だれかがわたしの前に突つ立って、声高にののしったり、右足の爪先でこっぴどく脇腹を蹴ったりしながら、わたしを起こしているのだった。身を起こして見あげると、高価な熊の毛皮外套に、黒貂の帽子という扮装で、漆のように黒い洒落た頬ひげをはやした、黒い目に鉤鼻の男が、白い歯をむいて笑いかけている。色白で頬のくれないあざやかな顔は、まるで仮面のよう……彼は恐ろしくちかぢかとわたしのほうへ屈みこんだ、息をつくたびに、白い湯気がその囗から吐き出された。 「凉えきってるじゃないか、この酔っぱらいめ、ばか野郎!野良犬のよ・うに凍え死んじまうぜ、起きろ!・ 起きろIL 「ランペルトー」とわたしは叫んだ。 「お前は何者だ?」 「ドルゴルーキイだ!」 「ドルゴルーキイつてどこの何者だ?」 「ただのドルゴルーキイだI トゥシャールの塾の……ほら、いつか、きみが料理屋で、フォークを横っ腹へ突きさした男だよ!………」 「ははは!」妙に長い感じのする笑いかたで、彼は思い出したように微笑した。(いったい彼はほんとうにわたしを忘れたのだろうか?)「ははあ! なるほどお前だったのか、お前なのか!」 彼はわたしを抱き起こして、立たせてくれた。やっとのことで立ち、やっとのことで足をはこぶ私を腕でささえて、彼はどこかへ連れて行く。そして、何やら思い合わせるよう
な、記憶をよびさますようなふうつきで、わたしの目をのぞきこみながら、一生懸命に耳を傾けていた。ところが、わたしもやはり一生懸命で、のべつひっきりなしにまわらぬ舌でしゃべるのだった。そして、自分の話しているということが、うれしくてうれしくてたまらなかった。また相手がランベルトだということも、やはりうれしかったのだ。彼がなぜ、『救い主』のように思われたのやら、それとも、彼をぜんぜん別の世界から来た人と見なして、いきなり夢中に飛びついたのやら、~それはわからない。わたしはそのとき思慮分別をめぐらさなかった。ただいっさい無分別に飛びついたのだ。そのときわたしは何を話したのか、今かいもく覚えていない。多少なりとも辻褄が合っていたとは思われないし、第一、はっきり言葉を発音したかどうか、それさえおぼつかない。だが、彼は熱心に聞いていた。彼は行きあたりばったりの辻馬車を雇った。そして、幾分かの後、わたしは早くも彼の部屋の中で、温いものにくるまりながらすわっていた。
      3 だれでも、どんな人でも、何か自分の身に生じたことで、ある特殊な追憶をもっているに相違ない。それは夢であるにせよ、人との邂逅であるにせよ、占いであるにせよ、予感であるにせよ、とにかく、そういったふうのもので、何かしら幻想的な、ほとんど奇蹟的なといっていいほど、日常茶飯事から飛びはなれ、異常なものと見なしているもの、-少な
くとも、見なそうとしているものである。わたしは現に今でも、このランベルトとの邂逅を、一種予言的なものとさえ見ようとしている……少なくとも、この邂逅のときの周囲の状況やその結果から推しても、そう考えたくなる。とはいえ、この事実は、少なくとも一方から見れば、きわめて自然におこったことなのだ。彼はただ夜の仕事のかえり道、ほろ酔い機嫌で横町を通りかかったとき、ふとわたしを見つけて、ちょっと一分間、門際に足をとめたのだ。ところで、彼がペテルブルグへ来たのは、ほんの四、五日前のことだった。 わたしがようやくわれに返った部屋は、余り大きくない。無細工な家具付の、ごくありふれたペテルブルグの中流アパートの一室だった。もっとも、当のランベルトは、りゅうとした贅沢な身なりをしていた。床の上には、半分くらいしか始末してない鞄が、二つごろごろしていた。部屋の片隅は屏風に仕切られ、寝台をかくしていた。 「アルフォンシーヌー」とランベルトは叫んだ。 「?lgg一(ここよ’・)」パリ訛りの、ひびの入ったような女の声が、屏風の陰から答えた。そして、二分とたたないうちに、マドモワゼルアルフォンシーヌが飛び出した。床から離れたばかりと見え、そそくさと着物をひっかけたらしく、胸のあたりがだらしなくはだかっていた、-それはなんだヽかえたいの知れない代物だった。木のきれっぱしのようにやせて、背が高く、胴と顔のおそろしく長いブルネ″卜で、目はきょときょと動きまわり、頬はげっそりこけている。一口にいえば、恐ろしく手ずれのした代物である!・



「早く! (わたしは翻訳してしまうが、彼は、相手の女にフランス語で話したのだ)あちらにはもうサモワールができてるはずだ。大急ぎで湯と、赤葡萄酒と、砂糖と、コップを一つよこしてくれ、早く、この人はすっかり凍えてるんだ。ぼくの友人なんだがね……ゆうベー晩、雪の上で明かしたんだよ……」 「Malheureux ! (お気の毒な’・)」と彼女は芝居がかった身振りで、両手を打ちあわせながら、叫んだ。 「これこれ!・」とランベルトはまるで犬の子のように女を制し、指をおっ立てておどす真似をした。彼女はすぐに身振りをやめて、命令の実行にかけだした。 彼はわたしの体をあらためて、方々さわってみた。脈をとってみたり、額やこめかみに手をあてて見たりした。 「不思議だね」と彼はつぶやいた。「どうしてきみは凍え死にしなかったんだろう……もっとも、きみは全身すっぽり外套にくるまっていたのだから、いわば毛皮の洞穴にこもっていたようなもんだ……」 熱い茶のコップが現われた。わたしは貪るようにがぶがぶ飲みほした。すると、たちまち生きかえったようになった。わたしはまたおぼつかない調子でしゃべりだした。わたしは長いすの隅になかば体を横たえて、たえずしゃべっていた。I言葉にむせながらしゃべった。しかし、いったい何をどんなふうに話したのか、これまたほとんど覚えがない。ときどき瞬間的に、というより、むしろ長い間わたしはすっかり忘我の境に落ちた。くり返していうが、はたして彼はそのと
きわたしの物語から、何かまとまった事実を悟ったかどうか、わたしは知らない。しかし、後でわたしはただ一つだ・け、それこそもう間違いなしに察した。ほかでもない、彼はわたしとの邂逅が軽視すべからざるものである、という結論をひき出す程度には、わたしを理解したのである……彼がこの際どんなもくろみを立てることができたか、それは後でしかるべき場合に説明しよう。 わたしは恐ろしく活気づいたのみならず、ときによると、愉快そうに見えるくらいだった。ブラインドを上げたとき、ふいに部屋を照した太陽も覚えていれば、だれかの焚きつけた煖炉の、ぱちぱちという音も覚えている、jだれがどうして燃したのかは思い出せない。黒い小さな狆もふかく記憶に残っている。それは、マドモアゼルーアルフォンシーヌがなまめかしく胸に抱きしめていたのだ。この狆がどうしたものか、無性にわたしの注意をひいたので、わたしは二度ばかり話をやめて、そのほうへ手を伸ばしたほどである。けれど、ランベルトが片手をふって見せると、アルフォンシーヌ’は自分の狆をつれて、たちまち屏風の陰に姿を消した。 当のランベルトは恐ろしく黙りがちで、わたしの真向かいにすわったまま、ぐっと身をのりだし、回心不乱に耳をすましていた。ときおり、長たらしい感じのする微笑をもらしながら、白い歯をむき出して、何やら一生懸命に思い合わせながら、真相を観破しようとするらしく、目を細めるのだった。わたしはただ次の瞬間について、明瞭な記憶を保存している、-わたしが『書類』のことをいいだしたとき、どうし
ても相手の肺に落ちるようないいまわしもできなければ、辻褄の合うように、話のしめくくりもつけられなかった。相手の顔つきから察するところ、彼はさっぱりわたしの話が肺に落ちないので、なんとかして合点のいくように、質問を発してわたしの話を中断するほどの冒険さえもあえてした。実際それは危険なわざだった。なぜなら、ちょっとでも話をさえぎられると、わたしは自分で自分のテーマを中断して、今まで話していたことを忘れてしまうからだった。およそなん時間くらいすわりこんで、こんな話をつづけたか、1わたしにはわからないし、また前後の照応で想像することもできない。彼はふいに立ちあがって、アルフォンシーヌを呼んだ。 「この人を、静かにしてあげなくちゃならん。ことによったら、医者がいるかもしれないぞ。なんでも望みどおりにしてあげるんだ、つJ’ふり:::vous comPrenez5 ma fille ? Vousavez 1'argcnt(わかるかい? お前金はあるだろう)ない? じゃ、ほら!」 彼は十ルーブリ札を出してやった。二人はひそひそ声で話をはじめた。 「Vous comprcncz ! Vous comPrcnez !(わかるかい! わかるかい!)」おどかすように指を一本立てて、眉をいかつくしかめながら、彼はこうくり返した。 見たところ、彼女は男の前へ出ると、ねっからびくびくものらしかった。 「すぐ来るからね、きみはひと寝入りするのがいちばんだ」彼はわたしににっこり笑って見せて、帽子を取り上げた。
 「Mais vous n'avez pas dormi du touts Maurice !(でも、あなたはまるでお休みにならなかったじやありませんか、モリスー)」とアルフォンシーヌは悲劇的な声で叫びかけた。 「Taisez vouss jc dormirai apras.(お黙り、わたしはあとで寢るよ)」 こういって、彼は出て行った。 「rに瓦こ(たすかったわ’・)」その後をわたしに指さして見せながら、彼女は悲壮な調子でささやいた。 「尽冫?こ(ム。シュウ、ム’シュウー)」部屋のまん中に気どったポーズで立ちながら、彼女はすぐさま朗読調でいいだした。「Jamais homme ne fut si crucls si Bismarks quc cctetrcs qui regarde une femme comme une salet6 de hasard.Unc femmes qu’ est‐ce quc g dans notre 6poque ? “Tue la P’Voila lc demier mot dc PAcad6mie frangaise !……(女を偶然のもの、汚れたものと見ているあいつほど、男がビスマルクであり、残酷だったことはありませんわ。いまの世の中で、女とはいったいなんでしょう?「女なんか殺してしまえ!・」これがフランスのアカデミーの最後の言葉ですの!) わたしは目をまるくして、彼女を見つめた。わたしの見るものはなんでも二つに割れたので、アルフォンシーヌも二人いるように思われた……ふと彼女が泣いているのに気づき、わたしは思わず身ぶるいした。そして、この女はもうだいぶ前からしゃべっているに相違ない、と考えた。してみると、わたしはそのあいだ眠っていたのか、それとも気が遠くなっていたわけだ。



 「ああ! あんなものをもっと早く見つけたところで、いったいそれがなんになるんだろう?」と彼女は叫んだ。「一生恥をつつんでいたほうが、かえってとくだったわ。あなたの前でいさぎよく身の上をうち明けてしまったほうが、娘として正直でいいかもしれないわ。でも、白状しますが、もしあたしに何か望むことがあるとすれば、それは、あの男の心臓にヒ首をつき刺すことだわ。でも、あの男の凄い目つきがあたしの腕をふるわせて、あたしの勇気をくじくといけないから、目をそむけながらやらなくちゃならない! あいつは口シヤの坊さんを殺したのよ、あなた。そしてアンドリュウさんのお店のすぐそばの、マレショオ橋の袂にある昼屋に、その赤髭を引きぬいて、売ったんですからねえ。アンドリュウさんのお店というのは、シャツだのシュミーズだの、最新流行の高尚なパリ製の雑貨品を売る店なんですが、ごぞんじでしょう、ねえ?一・・・・・・ああ、夫婦や、子供や、兄弟や、友達などが、愛情に結びあわされながら、一つの食卓に集まってさ、はげしい喜びにあたしの心が燃えたつとき、それは世間のだれでもが持っている幸福より、もっと好ましい幸福じゃありませんか、ねえ、そうじゃありませんか? ところが、あの男は、あの恐ろしい、想像もできないようなモンスターは、笑ってるんですの。もしアンドリュウさんの媒酌がなかったら、わたしは決して、決して何するはずじゃなかったんですけど……おや、あなた、どうなすったの、あなた?」(*~*この引用点。 の間は全部仏文) 彼女はわたしに飛びかかった。わたしは寒けでもしたよう
な気がした。あるいは気絶したのかもしれない。このなかば気ちがいじみた女が、どんなに重苦しい、病的な印象をわたしに与えたか、しょせん言葉につくせない。あるいは、彼女はわたしの気をまぎらすようにいいつけられたものと、ひとり合点をしたのかもしれない。少なくとも、彼女はただの一分間もわたしのそばを離れなかった。この女はいつか舞台に、立ったこともあるのだろう。しきりにそこいらじゅうとびまわって、のべつ朗読口調でしゃべり立てた。わたしはもう前から沈黙をまもっていた。彼女の話の中で、わたしの理解しえたいっさいのものは、彼女が『最新流行の高尚なパリ製の雑貨品などを売るアンドリュウさんのお店』なるものと、何か密接な関係をもっているということだけだった。ことによったら、そのアンドリュウ氏の家から巣立ったのかもしれない。しかしPar cc monstre furieux et inconcevable. (あの想像もできない恐ろしいモンスターのために)永久にアンドリュウ氏の家から引き離されたとのことで、つまり、それが彼女の悲劇だった……彼女はよよとばかりむせび泣いていたが、しかしわたしの目には、これはただちょっと型どおりにやって兄せることで、その実少しも泣いているのではない、というように見えた。どうかすると、彼女はとつぜん骸骨のように、ばらばらに散り失せてしまいそうに思われた。彼女は妙に圧しつぶされたような、ひびの入ったような声でものをいった。たとえば、Pr6f&able(もっと好ましい)という言葉などはPr6f&a。ablcと発音した。そしてaの音のところで、まるで羊の鳴くような声をたてた。一度われに返ったとき、部屋の
まん中で趾頭旋回をしている彼女が目にはいった。しかしそれはダンスをしているのではなかった。このピルエ″卜も彼女の話に関係しているので、ただ仕方話をしているのにすぎなかった。ふいに彼女は飛びあがって、部屋に置いてあるふさな、古ぼけた、調子の狂ったピアノの蓋をあけ、怪しげな音をたてながら歌いだした。わたしは十分か、それとももっと長く、すっかり前後を忘れて寝入ってしまったらしい。けれど、狆がけたたましく鳴いたので、わたしははっと気がついた。その瞬間、意識が完全に恢復して、心をくまなく照らしだした。わたしはぞっとして飛びあがった。 『ランベルト、おれはランベルトのところにいるのだ!・』とわたしは考えるや、帽子をひっつかんで、いきなり自分の外套に飛びかかった。 「Oa aHez‐vous「 M‐r?(あなたどこへいらっしゃるの?)」とアルフォンシーヌは目ざとく叫んだ。 「ぼくはそとへ出たいんです。ここから出て行きたいんです! 放してください。止めないでください……」 「○耳尽二(ウイ、ム″シュウ’・)」アルフォンシーヌは一生懸命になって相槌を打ち、自分から飛んで行って、廊下へ出る戸口を明けてくれた。「Maisccn'cst Pas loin「 M。r「c'estPas loin du touts ga nc vaut pas la Peinc de mettre votrechouba「c'est ici pr&s「M。r一(でも、それは遠くないんですよ。ほんとうにすぐそこなんですから、毛皮外套なんかお持ちにならなくってようござんす。すぐそこなんですから!)」と彼女は廊下いっぱいに響くような声で叫んだ。
 部屋を駆けだすと、わたしは右へ曲つた。「Par ic4 M'r. c'est Par ici !(こっちですよ、こっちですってばさ!)」と彼女は骨ばった長い指で、わたしの毛皮外套にからみつき、一方の手で廊下の左側にある場所を指さしながら(そんな所へ(皿)わたしはてんで行きたくなかったのだ)、一生懸命にこう叫んだ。 わたしはその手を振りはなし、出口をさして階段のほうへ、駆けだした。 「’ござx匸7ざ旨一(行っちゃうよ、行っちゃうよ!)」例のひっちぎったような声で叫びながら、アルフオンシーヌは鑰を追つかけて来た。「Mais il mc tucra「 M。rs il mc tuera !(あの人はわたしを殺してしまいます!・)」 しかし、わたしはもう階段口へ飛び出した。そして、彼女が階段までおりて、追って来たにもかかわらず、首尾よく出口の戸をあけて、往来へ飛び出し、行きあたりばったりの辻待ち橇に飛び乗った。わたしは母の番地をいった……
 しかし、一瞬問ひらめいた意識は、またすぐ消えてしまった。わたしは橇が向こうへ着いて、母のそばへ抱きこまれた・ことだけは、おぽろげながら党えているが、それからさきは、まったく無意識状態に落ちてしまった。 後で聞いたところによると(それに自分でもこれは覚えてヽいた)、翌日になって、わたしの理性はほんの一瞬間だけ韋た明瞭に澄んできた。わたしはヴェルシーロフの部屋で、彼
郤ダ



め長いすに横たわっていた自分を覚えている。まわりを取りまくヴェルシーロフ、母、リーザの顔を党えている。またグェルシーロフが、ゼルシチコフや公爵のことなどいって、何かの手紙を出してみせ、わたしをなだめたのもよく覚えている。あとでみなの話したところによると、わたしはしじゅう恐ろしそうに、ランベルトとかいう人間のことをたずねたり、のべつ狆の吠える声を気にしたりしていたそうである。しかし、弱々しい意識の光は、間もなく暗くなった。この二日目の夕方から、わたしは完全な熱病患者になった。しかし、必要な事柄だけは、あらかじめ説明しておこう。 あの晩、わたしがゼルシチコフのところから駆け出して、その後でやや落ちついたとき、ゼルシチコフはまた勝負に取りかかりながら、雷のような声で、悲しむべき間違いの起こったことを声明した。失くなった四百ルーブリの金は、ほか・の金のかたまりの中に見つかり、銀行の勘定は完全に正確な。ことがわかった。そのときホールに残っていた公爵は、ゼルシチコフに詰めよって、わたしの潔白を公けに声明することを強硬に要求した。のみならず、手紙の形式でわたしに謝意を表するように迫った。ゼルシチコフのほうでも、その要求をもっともと認めて、みんなの見ている前で、明日にもさっそく、わたしに証明と謝意をこめた書面を送ると約束した。公爵は彼にヴェルシーロフの住所を知らせた。はたしてヴェルシーロフはそのすぐ翌日、わたしの名あてになったゼルシチコフの手紙と、賭博場におき忘れてきたわたしの千三百ルーブリあまりの金を手ずから受け取った。こういうふうで、
ゼルシチコフとの事件は片づいた。わたしが昏睡状態からさめたとき、この喜ばしい報知は、少なからずわたしの恢復を助けた。 公爵はルレットから帰ると、さっそくその晩二通の手紙を書いた。一通はわたしに宛てたもので、いま一通は、以前スチェパーノフ少尉と問題を起こした元の連隊へ宛てたものだった。彼は二通とも翌朝すぐに発送した。それから、上官あての始末書を書いて、その始末書を于に早朝、自分で連隊長のもとへ出頭し、『自分は**会社の株券偽造の連累者として刑法上の犯人であるから、みずから法の裁きに身をゆだね、上司の宣告を待つ』旨を声明した。それと同時に、こうした事情ぜんぶを書面にしたためた始末書を手交した。彼はただちに逮捕された。 つぎにかかげるのは、彼がその夜、わたしに宛てて書いた手紙を、一語ももらさず写しとったものである。 『畏友アルカージイーマカーロヴィチー 小生はボーイ式『解決法』をこころみ候ところ、かえってそのために、心を慰むるいっさいの権利を失うことと相成り候。何となれば、ついに高潔なる行為を決行しえたりと思惟することすら、不可能となれるがゆえに候。小生は祖国に対しても、また家門に対しても、赦すべからざる罪人に候えば、一族中の最後のものたる小生は、この罪に対しみずから処罰いたすべく候。いかなれば、自衛などという卑劣なる思想にすがり、たとい暫時にもせよ、金銭をもって彼らを買収せんと空想しえたるか、小生自身も解釈に苦しむ次第にござ
候。とまれ、小生は自己の良心に対し、永久に犯罪者たるべく覚悟いたしおり候。また例の人々も、小生の位置を危うする書類を、たとえ小生の手もとへ返還するとも、結局、生涯にわたって小生を煩わすことは明瞭にござ候。しからば、今梭小生のとるべき道はなんぞや? 彼らとともに暮らし、彼らの一味となるべきか、これこそ小生を待てる運命に候いき。小生はその運命に屈するをえず、ついに勇気、-といわんよりは、自暴の念を奮い起こして、ただいま着手せるごとき行為を決心するにいたり候。 小生は連隊の旧友に書を送りて、スチェパーノフを弁護つかまつり候。この行為には、何ら贖罪、功業に類せる点はこれなく、またそはありうべからざる儀にござ候。右はたんに明日の死人の最後の遺言にすぎず、さようご解釈くだされたく候。 賭博場にて貴兄にそむきたる儀はご海容あらんことを。かかる行為は畢竟小生がかの瞬間において、貴兄に信頼を有せざりしによるものに候。小生がすでに死人となりたる現在においては、かかる告白すらなしうるものと愚考つかまつり候:…あの世よりの告白とお聞き捨てくだされたく候。 哀れむべきはりIザに候。彼女は小生の決心につき、何事をも承知いたさず候えば、何とぞ小生を呪うことなく、自身よく熟考いたすよう、お申し聞かせくださるべく候。小生自身としては、弁解じみたることは申しがたく。彼女に対しても、何ら説明の辞さえ見いだしかねる次第にござ候。アルカージイ兄、念のため申し添え候が、昨朝、彼女が小生のもと
を最後に訪れたる際、小生は自己の虚偽を開陳し、結婚申込みの意志をもってアンナーアンドレーエヴナを訪問したる旨、告白いたし候。小生は彼女の愛情に動かされ、最後の一大決心を目前に控えながら、良心に曇りを残すことを欲せざりしため、右の秘密をうち明けたる次第にござ候。彼女は小生に一切をゆるしくれ候えども、小生は彼女の言を信じかね候。かくのごときは真の赦免と申しがたく、もし彼女の位置にあらば、小生もゆるしえざりしならんと愚考つかまつり候。 何とぞ小生をお忘れなきよう願い上げ候。        不幸なる最後の公爵 ソコーリスキイ』 わたしはかっきり九日間、昏睡状態で過ごした。



第 三 編
第丿章 巡礼マカール老人
      j 今度はIまるで別の話だ。 わたしはいつも『別の話だ、別の話だ』と吹聴しながら、そのつど、自分ひとりのことばかり、くどくど話しつづけている。とはいえ、わたしはもう幾百ぺんとなく、自己描写などもうとうしたくないと宣言した。それにまた、このヂ記をはじめるときも、そんなことは断じてしたくなかった。自分などは読者にとってなんの必要もないということを、わたしは知りすぎるほど知っている。わたしが描写してもいるし、また描写したいとも思っているのは他人であって自分でない。もし話の間にわたし自身がのべつ舞い込んで来るとすれば、それはただ悲しむべき誤謬にすぎない。まったくどんなに努力しても、これはどうしても避けがたいことなのだ。何よりも最もいまいましいのは、自分の冒険をこんなに熱くな
つて書いていると、わたしが今だにあの当時と同じような人間だと考える根拠を、読者に提供する結果になりそうだ、ということである。もっとも、わたしがもう再三『ああ、もし過去を一変して、万事万端あたらしくやり直すことができたら!』と叫んだのを、読者は記憶しているだろう。もしわたしがいま根本的に一変して、ぜんぜん別個の人間になっていなかったら、ああいう叫びを発することはできなかったはずだ。これはあまり明瞭すぎるくらいである。実際、こういう弁解や前置きを、話の途中にまで、のべつはさまなければならないということが、わたし自身にとってもどんなにうるさくいやになってしまったかを、だれかせめて一人でも、想像してくれる者があったら! 閑話休題。 九日にわたる昏睡状態ののち、わたしは生まれ変わったような気持ちでわれに返ったが、しかし性格はたたき直されなかった。もっとも、わたしが生まれ変わったというのも、広義に解釈すれば、むろんばかばかしいものだった。これがもし現在のことだったら、あんなふうではなかったに相違ない。理想、といって、つまり感情は(前にも幾百ぺんとなくくり返されたように)、ただ彼らから完全に去ってしまうというにすぎなかった。しかし、もう今度こそは必ず去ってしまうので、以前のようなふうではない。つまり、このテーマを幾百回となく自分の宿題としながら、いつまでも実行できないでいた、jあんなふうではないのだ。復讐などはだれにもしようと思わなかった。みんなに侮辱はされたけれど、この
点は立派に誓ってもいい。わたしは反感もなければ、憎悪もなしに去って行こうと思った。しかし、わたしは今度こそもう彼らのためにも、世界じゅうのためにも左右されないような、ほんとうの自力を望んだのだが、わたしはもうほとんど世界じゅうのだれとでも、和睦しかねないような気持ちになっていた! こうした当時のわたしの空想は、一個の思想としてではなく、当時のいなみがたい感覚として、記録しておくのである。わたしは病床に横たわっている間は、まだそれ・をはっきりした形にまとめたくなかった。 ヴェルシーロフがあてがってくれた部屋に、無力な病人として横たわりながら、自分がどれほどまで意気地なしになり下ったかということを、わたしは胸の痛いほど意識した。寝ムロの上に転がっているのは、人間ではなくて蘂しべか何かのようだった。しかも、それは病気のせいばかりではない、それがどんなに情けなく思われたことか! すると、わたしの仝存在の最も深いところから、反抗の感情がありたけの力でこみ上げてくる。で、わたしは無限に誇張された傲岸な、挑戦的な感情のために、むせ返りそうになるのだ。健康の恢復しかかった最初の数日問ほど、つまり、寝床の上に藁しべのように転がっていたときほど、傲岸な感覚に充ち満ちていた時代は、わたしの全生涯を通じて覚えがなかったほどである。 しかし、わたしは当分のあいだ黙っていた。それどころか、何ひとつ考えまいとさえ決心した! わたしはたえず彼らの顔色をうかがい、それによって、自分に必要なすべての
ものを想察しようと努めた。察するところ、彼らも好奇心をはたらかして、根捐り葉捐りきくまいと思ったらしく、わたしに対してはぜんぜんよそごとばかり話していた。それがわたしの気には入ったものの、同時に情けなくもあった。この矛盾はあえて説明すまい。リーザは毎日のように、ときによっては日に二度も、わたしのところへやって来たけれど、母よりは会う機会がすくなかった。彼らの会話の斷片や、ぜんたいに彼らの様子からして、わたしはこう結論したIリーザは恐ろしくめんどうなことがたくさんたまって、そのために家を留守にすることも、たびたびあったに相違ない。こうして、彼女に自分自身のめんどうが存在しうると考えただけで、わたしは何か侮辱されたような気がした。けれども、こんなことはみんな病人の純生理的な感党で、くだくだしく書きたてる価値はない。タチヤーナ叔母もやはり、ほとんど毎日のようにわたしを訪ねて来た。決して優しくなったわけではないが、すくなくとも前のように悪口をいわなくなった。それがいまいましくてたまらなかったので、わたしはいきなり面と向かっていってやった。 「タチヤーナ叔母さん、あなたは悪口をいわないと退屈な人ですね」 「そう、じゃもうお前さんのところへ来ないから」と彼女は断ち切るようにいって、行ってしまった。わたしは一人だけでも追っぱらえたのを喜んだ。 わたしはだれよりもいちばん母をいじめて、母を癇癪のはけ口にしていた。病後むやみに食欲が出て来て、食事が遅れ



ると(その実、一度も遅れたことはないのだが)、わたしはやたらにぶつぶついった。母はどうしたらご機嫌が取り結べるかと、途方にくれていた。あるとき彼女は、わたしのところへスープを持って来て、いつものとおり自分でわたしを養いはじめた。ところが、わたしは食べている間じゅう、のべつぼやき続けた。すると不意に、自分のぼやいているのが癪にさわってきた。『おれの愛しているのは、この人ひとりだけかもしれないのに、その人をかえって苦しめている』けれど、癇癪の虫はなかなかおさまらなかった。とど、わたしはその癇癪のために泣きだした。すると、母はかわいそうに、わたしがうれし泣きに泣きだしたのだと思い、屈みこんで接吻しはじめた。わたしは一生懸命に我慢して、どうやらこうやら持ちこたえたが、まったくその瞬間は母を憎んだ。が、わたしはいつも母を愛していたし、そのときもやはり愛していたので、決して憎んだわけではない。ただよけいに愛しているものは、まず第一番に侮辱したくなるという、いつもよくある気持ちにすぎなかった。 その時分、わたしがほんとうに僧んでいたのは、ただ医者だけだった。その医者はまだ若い男で、高慢そうな顔つきをして、ずけずけと無遠慮にものをいった。彼ら科学の人と称せられる連中は、ついきのうとつぜん何か特別なことを知った、とでもいうような様子をしている。そのくせ、きのうは別に何も変わったことなど起こらなかったのだ。しかし、『凡庸』『俗人』なるものは、いつもこうしたものだ。わたしは長いこと辛抱していたがとうとうふいに堪忍袋の緒を切
らして、家のものがみんないる前で宣言してやったIこの人が毎日てくてくやって来るのは、ご苦労千万な話だ、ぼくはこの人に世話にならないでも自分ひとりでよくなって見せる。先生、リアリストらしい顔つきをしてるけれど、頭から足の爪先まで偏見のかたまりで、医学がかつて一度も、だれひとり治療したことがないのを知らずにいる。そのうえ、あらゆる徴候から推して、ひどい無教育ものらしい。『近ごろおそろしく鼻を高くしだした専門家や技師など、みんなそうなのだ6と。 医者はかんかんに腹をたてたが(もうそれだけで、自分がどんな人間であるかということを、証明したようなものだ)、でもやっぱり往診に来ていた。わたしはとうとうヴェルシーロフをつかまえて、もし医者が往診をやめなければ、もう今度こそは前より十倍も、いやなことをならべて聞かせる、といった。ヴェルシーロフはそれに対して、あのときいったことの十倍はおろか、ただの二倍もいやなことをいうのは不可能だと、たったそれだけいった。私は彼がそういったのを、うれしく思った。 しかし、不思議な人間もあればあるものだ!・ これはヴェルシーロフのことをいってるのだ。彼は、いな、彼のみがいっさいの原因であるにもかかわらず、-まあ、どうだろう、その当時、わたしが腹を立てなかったのは、この人だけなのである。それはたんに、彼の応対ぶりにごまかされたとばかりはいえない。わたしの考えでは、われわれはその当時、お互いにいろいろ話し合わなければならないことがある
が……しかしかえってそのために、むしろいつまでも話し合わないほうがいい、と感じていたのである。人生でこうした状況におかれたとき、聡明な人間にぶっつかるということは、なんともいえない愉快なものだ! わたしはもうこの物語の第二緇で、逮捕された公爵のわたしに宛てた手紙のこと、ゼルシチコフのこと、わたしにとって有利な彼の声明のこと、その他さまざまなことを簡単明瞭に、ヴェルシーロフがわたしに伝えてくれた事実を、ちょっと先まわりして述べておいた。わたしは沈黙をまもろうと決心していたので、ただ二つ三つごく簡単な質問を、できるだけそっけない調子で発したばかりである。彼はそれに対して明瞭正確に、余計なことはいっさいぬきにして答えてくれた。何よりありがたいのは、そのとき余計な感情を示さなかったことである。わたしはその当時、余計な感情を恐れていたものだ。 ランベルトのことは緘黙していた。が、わたしが彼のことを考えすぎるほど考えていたのは、読者もむろん想察したことと思う。わたしは熱にうかされて。幾度もランベルトのことを口走った。しかし、囈言からさめて、あたりの様子をうかがったとき、ランベルトのことはいっさい、秘密の中に残されているのを、すぐさま見てとった。すべての人は、ヴェルシーロフさえ例にもれず、何ごとも知らずにいるのだった。そのときわたしは大いに喜んで、恐怖はたちまち消え去った。が、それはわたしの考え違いだった。彼はわたしの病中に早くも訪問をはじめたのだが、ヴェルシーロフはそのことをわたしに黙っていたので、わたしはもはや自分という人間
がランベルトにとって、永遠の中に没してしまったものときめこんでいたのだ。このことを後で聞いたとき、わたしの驚きはどんなだったろう。にもかかわらず、わたしはよくこの男のことを考えていた。そればかりか、-たんに嫌悪を感じないで、好奇の念をもって考えたのみならず、一種の同情さえいだきながら考えたのである。それはちょうど、わたしの内部に生まれ出てきていた新しい感情や計画に相当する、新しい出口となるような、あるものを予感したような具合だった。手短かにいえば、わたしはそろそろ思索をはじめようと決心するやいなや、第一番にランベルトのことを考えることにきめたのである。ここに一つ奇妙なことがあるIわたしは彼がどこに住んでいるのか、あのときどこの町で、一部始終が起こったのか、ころりと忘れてしまった。宿屋の一室、アルフォンシーヌ、狆、廊下、-こんなものは何から何まで覚えていて、今すぐ画にでも描いて見せられるが、どこで起こった出来事か、つまり、どこの町のどんな家であったことかIそれをすっかり忘れてしまったのだ。しかも、何よりも不思議なことには、わたしがこれに気がついたのは、十分な意識を恢復してから三日目か四日目のことで、もうそのときにはだいぶ前から、ランベルトのことを心配していたのである。 こういった具合で、わたしが蘇生後に経験した最初の感党は、こんなふうのものだった。わたしはただごく表面的なことばかり記述したので、おそらくかんじんなことはうまくつかめていないに相違ない。実際のところ、すべてかんじんな



ことはちょうどその時分、わたしの心の中ではっきりした形をとり、まとまっていたのかもしれない。まさかわたしだって、スープを持って来てくれないというようなことだけに、腹を立てたり、癇癪を起こしたりしていたわけではない。ああ、今でも覚えているが、そのころ長くI人きりでいるときなど、どんなにわたしは憂愁に悩まされ、ふさぎの虫に苦しめられたかわからない。ところが、彼らはまるでわざとのように、わたしがみなといっしょにいるのをいやがる、わたしの世話をやくとかえっていらいらする、ということを間もなく呑みこんで、だんだんわたしを一人ぼっちにしておくようになった。余計な優しい心づかいではある。      2 意識を恢復してから四日目に、わたしは午後の二時すぎ、床の上に横たわっていた。そばにはだれもいない。それは快晴の日だった。四時すぎて、太陽が西にまわりはじめると、赤い光線が斜めにまっすぐ壁の一隅を射て、あざやかな斑点がその一か所を照らすのを、わたしは知っていた。それは前からの経験でわかっていたが、その予想が一時間後には必ず的中するということが、たまらないほど癇にさわった。が、何よりもいまいましいのは、わたしがそれを前もって、二二が四と同じくらい、たしかに知っていることだった。わたしは痙攣的に全身で寝返りをうった。と、ふいに深い静寂の中から、『神よ、主キリストよ、われらを憐れみたまえ』という言葉がはっきり聞こえた。この言葉はなかばささやくよう
に発せられて、その後から胸いっぱいの深い溜息がつづいた。それからまたふたたび、あたりはしんと静まりかえった。わたしはすばやく頭をあげた。 わたしはもう前から、といって前日あたりから、いや、すでに一昨日あたりから、下の三つの部屋で、何かこう特別な気配がしているのに気がついていた。もと母とりIザの占領していたホールの隣りの小部屋には、いま明らかにだれかほかの人間がいるらしかった。わたしは昼でも夜中でも、すでに再三、妙な物音を耳にした。しかし、いつもごく短い瞬間的なもの音で、すぐに深い静寂に帰ってしまう。しかも、それが幾時間もつづくので、わたしも注意をはらわなかったほどである。前の日には、ヴェルシーロフがいるのだなと考えついた。それに間もなく、彼がわたしの部屋へやって来たので、この想像はなおさら確かめられた。もっとも、わたしはみんなの話から、ヴェルシーロフがわたしの病中にどこかほかの家へ引っ越して、そこで寝泊りしているということを、たしかに承知していたのである。母とりIザは(きっとわたしを落ちつかせるために相違ないが)、もとわたしの住んでいた上の『棺桶』へ移って行った。それはずっと前からわかっていた。で、いちどわたしは心の中で、『どうしてあの二人があすこに落ちつかれたろう?』と考えたほどである。ところが、いまとつぜん、彼らのもとの部屋にだれかほかの人が住んでいて、しかもそれが全然ヴェルシーロフでないことが明瞭になった。自分ながら予想もしなかったような軽ろやかさで(わたしは今まで、自分にはまるで力がないものと思
うていたのだ)、わたしは寝台から両足をおろし、スリッパをつっかけ、そばにあった灰色の子羊皮の部屋着をはおり(これはヴェルシーロフがわたしに寄贈したものだ)、客間を通りぬけて、もと母の寝室だった部屋へおもむいた。そこでゆくりなく発見したものは、すっかりわたしをまごつかせてしまった。こんなふうのものを見ようとは、てんから思いがけなかったので、わたしは釘づけにでもされたように、閾の上に立ちどまった。 そこには、雪のように白い見事な髯を生やした、白髪の老人がすわっていた。明らかに、もうだいぶ前からそこにすわっているらしい。彼は寝床の上でなしに、母の足台の上にすわって、寝台にはただ背をもたせているだけだった。もっとも、恐ろしく体をまっすぐにしていたので、よっかかりなどはまるで不必要らしく見えるくらいだった。しかし、彼が病気なのは一見して明瞭だった。シャツの上から毛皮の外套をひっかけ、膝は母の毛布でつつみ、足にはスリミ(をはいていた。察するところ、背の高いほうらしく、肩幅などはがっしりして、病気とはいいながら、きわめて元気そうな様子をしていた。もっとも、あまり長くないけれど、厚い毛につつまれた面長な顔は、やや青ざめて、やせが見えていた。年はもはや七十を越しているらしい。ちょうど手のとどくくらいな距離に置かれたテーブルの上には、三四冊の本と銀縁眼鏡がのっていた。彼に出会おうなどという考えは、もうとういだいていなかったけれど、わたしは一瞬にして、その何者かを察した。ただふつふつ合点がいかなかったのは、この数日
来ほとんどわたしとならんで暮らしながら、今まで何ひとつわたしの耳にはいらないほど、ひっそりかんと行ないすましていられたことである。 彼はわたしを見つけても、身動きすらしなかった。ただ無言のまま、じっとわたしを見つめているばかりだった。わたしも相手を凝視したが、ただ違うところは、わたしがなみなみならぬ驚きの色を見せているのに、先方は泰然自若としていることだった。それどころか、この沈黙の五秒か十秒の問に、わたしという人間をすっかり、底の底まで見ぬいたかのように、彼はとつぜん莞爾と笑って見せた。というより、静かな声のない笑いさえ立てたほどである。笑いはすぐに収まったけれど、その楽しげな明るいあとは、顔にも目にも残った。この目はまた特筆すべきもので、年のために瞼が脹れて、垂れ気味になり、無数の小皺に囲まれていたけれど、実に青々と澄んだ輝かしい大きな目たった。この笑いが何より強くわたしに働きかけた。 わたしはこう思う、-人間が笑うと多くの場合、見ているのがいまわしいような気持ちになるものである。人間の笑いには何よりもまず俗っぽい、当人の威厳に関するようなあるものが暴露されるものだ。ただし笑っている当人は、ほとんどたいていの場合、他人の受ける印象を、いっこうにごぞんじないのが常例である。それと同じわけで、一般にどんな人でも、自分の寝顔がどんなか知らない。寝ているときでも、利口そうな顔をしている人もあるけれど、中には利口な人でさえ寝ているときには、恐ろしくばかばかしい、したが



つて滑稽な顔つきになるのもある。どうしてそういうことになるのか、わたしは知らない。ただわたしがいいたいのは、笑っている大というものは、寢ている大と同様に、大多数は自分の顔をすこしも知らないということだ。きわめて多数の人間は、ぜんぜん笑うすべを知らない。もっとも、それはすべでもなんでもない。それは一つの天賦であって、わざとこしらえるわけにいかない。ただ自己改造を行ない、自分をよりよい人間に発達させ、自分の性格中のよからぬ本能を征服することによって、笑いを作り出すことができる。その時にはこうした人の笑いも、よりよいものに変化する可能性を十分に備えヽている、といわなければならない。笑いのいかんによって完全に自分の正体を暴露する大もある。そのとき思いがけなく、その人間の隠れた真相を発見することができる。疑いもなく聡明な笑いでさえ、ときとするといまわしく感じられることがある。笑いは何よりもまず真実を要求する。ところで、人間のどこに真実があるか? 笑いは無邪気さを要求する。ところが、人間はたいていの場合、邪気のある笑い方をする。真実で邪気のない笑い、それは喜びである。ところが、現今どこに喜びが求められるだろう? また人間が喜び楽しみうるだろうか? (今どきの人間の喜びということは、ヴェルシーロフの説であって、わたしはそれを記憶に保存していたのだ)この喜びというものはI何よりも人間の本性を完全に暴露する特質である。ある種の性格などは、長い間かかっても、容易に噛み砕くことができないけれど、もしその大が何かの拍子で、非常に真率な笑い方をすると、そ
の性格の全部がとつぜん、たなごころを指すがごとく明瞭になる。ただきわめて高級な、きわめて幸運な発育をとげた人のみが、普遍的な笑い方をすることができる。つまり、とうていいなむことのできない、善良な笑いを発しうるのである。わたしは知的発達のことを問題にしているのではない。人間の性格、人間ぜんたいのことをいっているのだ。こういうわけで、もし人間を見分けたい、人間の魂を知りたいと思’つたら、その当人の沈黙している様子や、しゃべったり、泣いたりしている具合や、あるいはさらに進んで、高潔なる思想に胸を躍らせている状態に注意するよりも、むしろ笑っているところを見たほうがよい。笑い方がよかったらIIそれはつまり、よい人間なのである。ただしその上にもあらゆる陰影を観取しなければならない。たとえば、人間の笑いはどんなに楽しそうに、純朴らしく聞こえても、愚かしい感じを与えることは断じてゆるされない。もしほんの毛筋ほどでも、愚かしさが笑いの中に感じられたら、たといその人間が常住坐臥、たえず思想をまき散らしているにもせよ、どこか知恵の足りないところがあるわけだ。よし笑いそのものが賢そうでも、その当人が笑った後でなぜかふと、-ほんの少しばかりでも滑稽に思われたら、その人にはほんとうの人格的品位が欠けている、少なくとも十分でない、とそう考えてさしつかえない。またこういう場合もあるIよしんばその笑いが普遍的であっても、なぜか俗っぽい感じを与えたら、その人間の本性も俗であるとみてかまわない。以前その人に認められていた高尚なものも、潔白なものも、わざとこしら
えた付焼刃でなければ、無意識的によそから借りて来たものである。こういった人間は、必ず後日わるい意味の変化を生じて、『とくな』仕事をはじめるようになる。そして高潔な思想などは、若い時分の迷いとして、惜しげもなくほうり出してしまうに相違ない。 この長たらしい笑いの講釈を、物語の進行を犠牲にしてまでここに載せるのは、考えあってのことなのだ。なぜなら、これは、わたしの生涯中、もっとも重大な思索の一つと信じているからである。とりわけ、一人の選ばれた男と結婚しようと考えながら、とつおいつ思案にくれて、狐疑逡巡のうちに注視をつづけて、最後の決心を躊躇している年ごろの娘たちに、わたしはとくにこれを一読してもらいたいと思う。読者よ、みずから毫も理解を有せずして、結婚の問題に教訓的態度をもって容喙する憐れむべき未成年を冷笑するなかれ。とにかく、笑いが最も正確な、魂の試金石であることだけは信じている。試みに小児を見たまえ、-ただ小児のみが完全に見事な笑いのすべを知っている。そのために彼らは魅惑的なのである。泣く子供はわたしにいまわしい感じを与えるが、笑いかつ楽しむ小児は、それこそ天国からさす光である。これこそ人間がついには小児のごとく清らかに、純朴となる未来の啓示である。そこで、この老人の示した束の間の笑いに、何かしら子供らしい、言葉につくせない魅力に富んだあるものが、稲妻のように閃いたのだ。わたしはすぐさまそばに寄った。
 「まあ、お掛け、まあ、おすわり、まだ足がよく立たんだろう」自分のかたわらの席を指さして、例の輝かしい目つきでいつまでもわたしの顔を眺めながら、彼は愛想よく招じ入れた。わたしはそのわきに腰をおろしていった。 「ぼくあなたを知っていますよ、あなたはマカールーイヴ″Iヌイチでしょう」 「そうだよ、お前。でも、起きられてよかったなあ。お前は若いのだから、ほんとうにけっこうだ。年よりは墓へ向けて歩いておるが、若いものは生きるこったて」 「あなたは病気なんですか?」 「病気なんだよ、お前、とりわけ足がな。この家の閾ぎわまでは、どうやら体をはこんで来てくれたが、ここへすわるといっしょに、むくむくと脹れてしまった。これはちょうど前の木曜日に、度が下ってからこちらのことだよ(NB つまり気温が零下になったことをいうのだ)。わしは今までずっと、膏薬を塗っていたのだ。実はな、一昨年モスクワでりIヒテンが、Iエドムンドーカールルイチという医者が処方してくれた膏薬でな、なかなかよく利いたもんだ、そりゃよく利いたもんだよ。ところが、今度は急に利かなくなってしまった。それに、胸もつまったようでな。おまけに昨日から背中までが、まるで犬にでも噛まれるような気がして……心、卜晩ねむることもできん始末だ」 「どうしてあなたの声がまるっきり聞こえないんでし冫
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う?」とわたしはさえぎった。彼は何やら思いめぐらすようにわたしを見つめた。 「だが、お前、お母さんを起こしちゃいけないよ」ふいに何か思い出したように、彼はいい足した。 「あれは夜っぴてわしのそばで、小まめに世話をやいておったが、まるで蠅みたいにねっからなんのもの音もさせんのだ。ところが、今日は寝ついたらしい。わしはちゃんと知っておる。ああ、年とって病気するほど、つらいものはないて」と彼は溜息をついた。「体はやせさらぼうて、てんで魂の引っかかりどころもなさそうに思われるが、それでもやっぱり、どうにか持ち合わせて、いつまでも光を見るのがうれしいものだからな。よしんばもう一度、初めから生涯の蒔きなおしをしても、魂はべつに恐れもしないような気がする。もっとも、こんなことを考えるのは、罪かも知れんけれどな」 「なぜ罪なんです?」 「それは空想というものだ、そんなことを考えるのは。老人は美しくこの世を去っていかなけりゃならん。それだのに、ぶつぶついって、不足らしくお迎えを待っておったら、それは大きな罪というもんだよ。だが、楽しい心持ちから自然とこの世の生を愛したなら、たとえ老人でも、ゆるしてくださると思う。人間だって何が罪で、何かそうでないかということを、いちいち心得るというわけにゃいかんよ。それは人間の知恵もおよばぬ秘密だからな。老人はいかなるときでも、満足していなけりゃならん。そして死ぬるときにもはっきり
した頭で、ありかたいという気持ちで美しく死んでいかなけりゃな。この世の日に満ち足りて、喜ばしく最後の息をはいて、ちょうど麦の穂が束の中へはいっていくように、自分の神秘をはたして、去っていくべきものだよ」 「あなたはしじゅう『神秘、神秘』といわれますが、いったい『自分の神秘をはたして』というのはなんのことですか?」わたしはこうたずねて、戸口のほうをふり返った。わたしたちが二人きりで、周囲には澄みきった静寂が立ちこめているのを、わたしはうれしく思った。日没に近い太陽の光線が、赤々と窓にさし込んだ。彼の話しぶりはいささか大仰で、正確を欠いていたが、きわめて真率の気にみちて、はげしい皿(奮を伴なっているらしかった。ほんとうにわたしが来たのを、心から喜んでいるかのように思われた。しかし、わたしは疑いもなく、彼が熱にIそれもひどい熱にうかされているのに気づいた。わたし自身も同様病人で、彼の部屋へはいった瞬間から、やはり熱にうかされたような状態になっていた。 「神秘とは何かって? なんでも神秘だよ、お前、何にでも神様の秘密があるよ。一本一本の木にも、一枚一枚の草の葉にも、この神秘というものが隠されておるのだ。ふ鳥が歌っておるのでも、数知れぬ星が夜の空に輝いておるのでもIみんなこの神秘なので、ちっとも変わりはありゃせんて。だが何よりも大きな神秘は、ほかでもないIあの世で人間の魂を待ちうけておるものだ。そうなんだよ、お前!」 「ぼくあなたのおっしゃる意味がわかりません……ぼくはも
ちろん、あなたをからかおうと思っていってるのじゃありません。それにまったくのところ、ぼくは神様を信じているんですよ。けれど、そんな神秘は、とうに人間の知恵で発見されています。そして、まだ発見されないものも、たしかに間違いなく、すっかり発見されるに相違ありません。しかも、それはごく近い将来のことですよ。植物学は、木の生長するわけを完全に知っているし、生理学者や解剖学者は、なぜ鳥が歌うかということさえ知っています。でなくても、やがて間もなく知るでしょう。星なんかのことにいたっては、どれもこれも一つ残らず、数えつくされているばかりか、その一つ一つの運行まで、一分一厘たがわず計算ができています。だから、何か新しい彗星の出現なんてことでも、千年くらい前から、一分一秒も違わないように、予言することさえできます……だから、今では、ごく遠い星の組成でさえ、ちゃんとわかるようになったのです。たとえば、まあ、顕微鏡でものぞいてごらんなさい、-それは一種の拡大鏡で、ものを百万倍くらい大きくして見せるガラスです。そいつで一滴の水を検査してごらんなさい、そこにまるで一つの新しい世界が現われるでしょう。それは生きた存在物のぜんぜん別な生恬なんです。以前はこれもやはり神秘だったけれど、こうして、ちゃんとあばかれてしまったじゃありませんか」 「その話はわしも聞いたよ、お前、なんべんも人から聞かされたよ。そりゃ何もいうがものはない、立派なえらいことだ。何もかも神様のみこころで人間に移されたのだ。神様が『生きよ、知れよ』といって、命の息を人間に吹きこんでく
だされたのも、決して無駄なことじゃない」「いや、それは月並みですよ。しかし、あなたは科学の敞じゃありませんね、神国論者じゃありませんね? といって、その、おわかりになるかどうか知りませんが……」「それどころか、お前、幼い時分から、学問というものは尊んでおったよ。自分でこそ何もわからんけれど、そんなことは決してうらみとは思わん。自分ができなけりや、ほかの人がちゃんとわかっていてくれるからな。いや、そのほうがかえってよいかもしれん。めいめいそれぞれ得手があるからな。まったく、お前、だれでも彼でも、みんな学問が身のためになるとはいかんものだよ。人間はみな慎しみということを知らんから、だれでも世間をあっといわせたがる。わしなぞは、もし何か芸があったら、人一倍そいつがひどいかも知れぬて。ところが、いまは何一つ取りえのない人間になりきっとるので、なんにも知らんくせに、高ぶるわけにいかんじゃないか。だが、お前は若くってすばやいようだから、せいぜい勉強するがよい、それがお前の行くべき道だろう。なんでもよく知りつくして、不信心ものや乱暴ものなどに出会ったら、それに対して、ちゃんと責任が持てるようにならなけりゃいかんて。無法な言葉を扠げかけられて、未熟な頭を濁らされるようなことがあってはならんからな。ところで、お前のいったそのガラスは、わしもついこのあいだ見たよ」 彼は息をついで、溜息をもらした。わたしの来訪が彼になみなみならぬ満足を与えたのは、疑う余地もないくらいである。彼の思想交換に対する渇望は病的なほどだった。のみな
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らず、彼はときどきなみ一通りでない愛情をもって、わたしを眺めたと断言しても、決して間違いではないと思う。彼はさもいとしげに自分の掌をわたしの手の上にのせたり、わたしの肩を撫でたりした……が、またどうかすると、すっかりわたしのことなど忘れてしまった様子で、部屋の中には自分だけしかいないような、そぶりを見せることもあった。熱心に話しつづけてはいるのだが、どこか空に向かって、ひとりごとをいっているような具合だった。それは白状しなければならない。 「ときに」と彼は言葉をつづけた。「ゲンナージイの僧院に、偉い知恵をもった大が、ひとり住んでおる。由緒ある生まれの大で、官等は中佐、それに大変な財産をもっておるのだ。娑婆に住んでおる時分も、わが身を縛るのはいやだといって、結婚しなかった。で、もう十年ばかり前に、しんとした静かな隠れ家が好きになってな、俗世の煩いから心を静めるために隠糴の生活にはいってしまったのだが、僧院の掟はIから十まで守りながら、僧籍にはいることはいやだという。その人の持っておる本といったら大したものでな、お前、あんなにたくさんの本を持った大を見たことがないくらいだ、1自分でもそういっていたが、八千ルーブリがものはあるそうだ。ピョートルーヴ″レリヤーヌイチという名前だよ。この大が、時にふれ折につけて、いろんなことを教えてくれたが、わしはこの人の話を聞くのが大好きだった。あるときわしはこういったものだ。『いったいあなたは、そんな大した知恵を持っていらっしゃるうえに、もう十年から僧院で厳
重に行ないすまして、すっぱりと自分の望みを断っていらっしゃるのに、―どうして本式に僧籍におはいりになりませんので? そうなされば、今よりもっと円満具足の大になられるわけじゃありませんか?』すると、その人の返事はこうだ。『お爺さん、なんだってお前はわしの知恵のことなどいい出すのだ。かえってその知恵のために、わしは虜になっているのかもしれないし、それに知恵をかためたのも、わしの力じゃないかもわからん。また、わしが厳重に行ないすましているなどというけれど、わしはもうとうから、節度というものをなくしているかもしれないじゃないか。それから、望みを断っているなどと、ばかなことをいうものじゃない。わしは今すぐにもありたけの金をほうり出すこともできるし、位を返上することもなんでもないし、勲章もすっかり今このテーブルの上へ投げ出してもみせるが、しかし、煙草というやつは、もう十年このかたもがいているけれど、どうしてもやめるわけにいかない。こんなふうで、どうして僧籍にはいれるものか、禁欲などと吹聴されては、赤面のいたりだ!』わしはそのとき、これほどまでへりくだったお気持ちに、ほとほと感じ入ったものだよ。ところが、ちょうど去年の夏、聖ペトロ祭のとき、わしはまたその僧院へ寄ることになった、1神様のお引き合わせでな、-見ると、顕微鏡が置いてあるじゃないか。大金を出して、外国から取り寄せたものだ。『ちょっとお待ち、爺さん、お前に不思議なものを見せてやる。まだこんなものを見たことがないだろう。ただ見れば、まるで涙みたいなきれいな水の一しずくだが、さて、よく
眺めると、その中に何かあるだろう。いまに技師たちが神秘という神秘をあばきつくして、何ひとつ残してくれやしない、そのことが合点ゆくだろうよ』ほんとうにこういったのだ、わしはちゃんと党えておる。ところでな、わしはこの顕微鏡を、それより三十五年も前に、アレクサンドルーヴラジーミルイチーマルガーソフのとこで、見たことがあるのだ。それはヽアンドレイーペトローヴィチ(輿言)の母方の叔父御にあたる、わしたちのご主人様でな、この方の亡くなられた後で、そのご領地は、アンドレイーペトローヴィチのものになったわけだ。立派な旦那さまで、えらい大将で、素晴らしい猟犬隊をかかえておいでなされた。わしも長年、勢子をつとめたものだ。ちょうどそのころ、この方がやはり同じ顕微鏡をお恂えになった。やっぱり外国から持ってお帰りになったものだそうだよ。そこで、家じゅうの召使は、男といわず女といわず、一人一人そばへ寄って拝見したものだ。ご多分にもれず、蚤だの、虱だの、針の先だの、毛筋だの、水の雫などを見せてもらったのだが、いや、もう面白いことだったよ。みんなそばへ寄るのが怖いのだ。それに、旦那さまも怖かった、―扁の強い人だったからな。中には、まるっきり何も見ずにすました者もある。こう目を細くするのだが、なんにも見えやしない。また中にはおじけづいて、大きな声をするものもある。百姓頭のサーヴィンーマカーロフなどは、両手で目をふさいじまって、『たとえどんな目にあわされたって、j行きゃしねえ!・』とわめきだす騒ぎだ。そりゃいろいろ笑い草がもちあがったものだ。けれども、わしは
その前に、三十五年も前に、この珍しいものを見たことがあるなどとは、ヴ″レリヤーヌイチの前で、そぶりにも見せなかったよ。なにぶん、どえらい得意な様子で、みんなに見せていなさるのが、ちゃあんとわかっておったのでな。そこで、わしはわざとびっくりしたり、たまげたりして見せたくらいだ。そのときピョートルーヴ″レリヤーヌイチは、期限を切ってわしに問いをかけられた。その期限が来たとき、『さあ、爺さん、今日こそお前の考えを聞かせてもらおう』とおたずねなされた。わしはまず会釈をしてこういった。『神、光あれと宣いければ、すなわち光ありき』すると、ピョートルーヴァレリヤーヌイチはふいにすかさず、『闇ありきじゃないのか?』そ‘のいい方が実にどうも奇妙で、にやりと変な笑い方までなさるのだ。そのとき、わしが不思議そうな顔をすると、先方は腹の立ったような風つきで、ぴったり口をつぐんでしまわれた」 「そりゃ、なあに、わかりきってますよ。あなたのピョートルーヴ″レリヤーヌイチは、僧院で聖飯を食べたり、礼拝をしたりなんかしているけれど、神様は信じていないんですよ。あなたは、ちょうどそういうときにぶっつかったんです、それだけのこってすよ」とわたしはいった。「そのうえ、先生かなり滑稽な人閧じゃありませんか。きっとその前に十ぺんくらい、顕微鏡をみたに相違ないんだが、なんだって十一ぺんめになって、急に気を狂わせたんでしょう? いやに神経質な感受性じゃありませんか……僧院で練りあげたんですね」



 「いや、清浄潔白なお方で、高尚な考えを持っておられたよ」と老人はしみじみとした調子でいった。「それに、決して無信者ではない。ただ知恵が深い深い森ほどあって、心に落ちつきがないだけなのだ。このごろそういう人が、貴族や学者がたの中から、ずいぶんたくさん出て来たよ。もう一つわしはお前にいっておくがな、そういう人は自分で自分を罰するようになるのだ。お前さん、そういう人たちは避けて通るようにして、うるさがらしちゃいかんよ。そして、夜ねる前には、そういう人たちのことを、祈り添えておくがよい。そういう人たちこそ、神様を求めておるのだからな。お前はねる前にお祈りをするかえ?」 「いや、そんなことは無意味な形式だと思っています。だがぼく、正直にいわなくちゃなりません、―あなたのピョートルーヴ″レリヤーヌイチは気に入りましたよ。すくなくとも、乾物なぞじゃなくって、なんといっても人間ですよ。しかも、お互いにとって縁の近い人に、お互いのよく知っている一人の人間に、いくらか似たところがありますよ」 老人は、わたしの答えの前半だけにしか注意をはらわなかった。 「お前、お祈りしないのは間違っとるよ。お祈りはけっこうなものだ。心が浮き浮きしてくるよ。寝る前でも、寝て起きたときでも、夜中に目のさめたときでもな。これはわしがお前によくいっておくよ。この夏の七月の月に、わしはボゴロードスキイ修道院のお祭りに急いで出かけたが、目ざすところが近くなればなるほど、だんだん道づれがふえていって、
とうとうみなで二百人近くの大人数になった。それはみんなアニーキイ、グリゴーリイ両尊者のありがたいお遺骸に口をつけようと思って、急いで行く人たちなのだ。前の晩はな、お前、みんな野宿をしたものだが、そのあくる日、わしは朝早く目をさました。まだみんな寢ておって、お日様も森のかげからおのぞきにならないくらいだった。わしはな、頭をもちあげ、あたりを見まわして、ほっと溜息をついたよ! どこも、かしこも、言葉につくされぬ美しさだ1・ 何もかもひっそりとして、空気はいかにも軽そうでな、その中で草が伸びているのだ、草よ、伸びていけ’・ 小鳥が歌っておる、小鳥よ、歌え1・ 一人の女の手に抱かれた赤ん坊が、細い声で泣く、小さな人間よ、神様のお慈悲で仕合わせに大きくなれ、幼いものよ! そのときわしは生まれてはじめて、こういうものをすっかり、自分の中へ収めたような気がした……それからまた横になって、なんともいえないほど軽い気持ちで寝入ったよ。この世に生きておるのはよいものだよ、お前!・こうして、わしはなんだか身が軽くなったような気がする、また生涯の春に戻ったようなあんばいだ。神秘があるということもかえってけっこうなくらいだよ。それは恐ろしい気持ちもするが、また不思議でもある。この恐ろしさは、結局、こころを浮きたたせてくれる。『神よ、すべては汝の中にあり、われ自身も汝の中にあり、乞うわれを受けよ!』といった気持ちだ。不平をいってはいけないよ。お前、神秘があるのは、かえって美しいことなんだからな」と彼は感にたえたようにつけ加えた。
J・
 「『神秘があるのは、かえって美しいことだ……』これはぽくひとつ覚えておきましょう、この言葉を。あなたはひどく不正確な表現をなさるけれど、しかしぼくわかりますよ……あなたは、あなたの表現力よりも、ずっと余計に知っていらっしゃるし、またわかってもいらっしゃるのです。それにぼくは感心してしまいましたよ。だけど、あなたはなんだか、熱にでもうかされていらっしゃるようですね……」相手の熱病やみじみた目つきや青ざめた顔を見つめながら、思わずわたしは囗をすべらした……しかし、彼はわたしの言葉を耳に入れなかったらしい。 「なあ、お前、こういうことを知っておるかな」前の話をつづけるような調子で、彼はまたいいだした。「こういうことを知っておるかな、この世に生きておる人間の記憶には限りがあるものだよ。人間の記憶というものは、百年に限られておる。大が死んでから百年のあいだは、その顔を見たことのある子とか孫とかが、覚えていてくれるけれど、それからさきは、よしんば記憶がつづくにしても、ただ囗のさきか、心の中だけだ。なぜといってごらん、その人の生きた顔を見たものが、みんないなくなってしまうからだ。それから蟇の上に草が生えて、白い石も苔だらけになってしまう。こうして、みんな、身うちのものさえも、その人のことを忘れてしまって、しまいにはその名までが忘れられることになる。まったく世間の大の記憶に残る名といっては、ほんのわずかなものだからなIだが、それでけっこうなのだ!・ ああ、みなの衆、どうか遠慮なく忘れてしまいなさい、わしは墓の中
からでもみなの衆を愛していきますよ。かわいい子供たち、わしはお前たちの楽しそうな声が聞こえる。命日に親身の親の墓にあつまったお前たちの足音が聞こえる。今のうちに、せいぜい太陽の光の中で暮らしなさい、楽しく生きなさい。わしはお前がたにかわって神様にお祈りもしようし、夢の中でお前がたのところへも出かけよう……なに、同じことだ、死んでからでも愛はあるよ!………」 何よりもおもな原囚は、わたしも彼と同じくらい、熱病に悩まされていたことである。この場を去ってしまうか、彼をなだめて落ちつかせるか、それとも寝台の上に寝かせるか、なんとかすべきはずなのに(実際、彼はまったく熱にうかされていたのだ)、それなのに、わたしはふいに彼の手をとって、前へ身を屈め、その手を握りしめ、心の中に涙をにじませつつ、興奮した声でささやきはじめた。 「ぼくあなたに会ってうれしい。もしかしたら、ぼくはとうから、あなたを待っていたのかもしれませんよ。ぼくはあの人たちをだれも好かない。あの人たちには善知というものがないんですもの……ぽくあの人たちの後について行きゃしません。ぼくは自分でも、どこへ行くか知らないけど、あなたといっしょに出かけます……」 しかし、仕合わせと、ふいに母がはいって来た。さもなくば、どんなことになるかわからないとこだった。母はたったいま目をさましたばかりの、心配そうな顔つきではいってきた。その手には薬瓶とスープ匙があった。わたしたちを見ると彼女は叫び声をあげた。
芻Q



 「そうだろうと思った……ついぐずぐずしてて、キニーネを早く飲ましてあげなかったものだから、すっかり熱にうかされてしまって! うっかり寝すごしたんですよ、マカールーイヴァーヌイチ」 わたしは立って、そとへ出た。母はとにかく彼に薬をのませ、寝床の中へ入れてやった。わたしも自分の床に身を横たえたが、ひどく興奮していた。わたしはなみなみならぬ好奇の念をいだきながら、心の中でこの遭遇に立ち戻っていき、ありたけの力を緊張させて、そのことを考えつづけた。当時この遭遇から何を期待したのか、-自分でもわからない。もちろん、わたしの思案は支離滅裂なものだった。わたしの頭の中にひらめいていたのは、思想ではなく、思想の断片にすぎなかった。わたしは壁のほうへ向いてふせっていたが、ふとその一隅に落日のくっきりと明るい光のしみを見つけた。それは、ついさきほどまで、呪わしい気持ちで待ちもうけていたものである。その刹那、いまでも覚えているが、わたしの魂は急に喜びにふるえ、何か新しい光でも胸にさし込んだような思いがした。この甘い一瞬間を、今でもまざまざと覚えているし、また忘れたくもない。それは要するに、新しい希望と新しい力の一瞬であった……わたしはその当時、健康を恢復していたところなので、そういう力の勃発は、わたしの神経状態の必然的結果だったかもしれない。しかし、その輝かしい希望は、今でも信じている、-これをわたしは今ここで回想し、かつこの手記に記入したかったのだ。もちろん、わたしはそのときでも、自分がマカール老人といっ
しょに、放浪の途にのぼったりなどしないことをはっきり承知していた。またふいにわたしをつかんだかの新しい希望が、いかなるものであったかも、わたしは自分で知らずにいたのだ。しかし、ある一つの言葉はたしかに囗から出した、ただしなかば譫言ではあったけれど、―『あの人たちには端麗さがない!』『むろん』とわたしは前後を忘れて心の中で叫んだ。『この瞬間から、ぼくは端麗さを求めるのだ。あの人たちにはそれがない、だから、そのためにぼくはあの人たちを見捨てるのだ』 何かうしろでさらさらと音がした。わたしは振り返った。見ると、母がわたしの上に屈み込んで、臆病そうな好奇の目つきでわたしの顔をのぞきながら立っていた。わたしはいきなりその手をつかんだ。 「お母さん、どうしてあなたは家の大事なお客さんのことをぼくになんにもおっしゃらなかったんです?」こんないい方をしようとは、自分でもほとんど思いもうけないのに、わたしはだしぬけにこうきいた。 不安の色は一時に、すっかり母の顔から消え、何やら喜びとでもいったような表情が、さっと輝き出した。が、彼女はなんにも答えず、ただひとことこういったばかりである。 「リーザのことも、やっぱり忘れないでね、リーザのことも。お前はりIザを忘れておいでだよ」 彼女は赤い顔をしながら早口にいい、大急ぎで出て行こうとした。彼女も同様、甘ったるい感傷的なことをいうのが、大きらいだったからである。この点、わたしにそっくりだっ
た。つまり、内気で純だったのである。それに、むろん、わたしなどを相手に、マカール老人の話をしたくなかったに相違ない。わたしたちが目と目を見あわせながら、あれだけのことがいえただけでも、大できだった。ところが、わたしは、Iあれほど甘ったるい感傷的な話の大きらいだったわたしが、かえって自分から無理に母の手をとって引きとめた。わたしはうっとり彼女の目を見つめながら、静かにやさしく笑い、一方の手のひらで懐かしい彼女の顔や、げっそりこけた頬を撫でるのだった。彼女は身を屈めて、自分の額をわたしの額におし当てた。 「じゃ、さようなら」彼女はとつぜん一礼し、満面に笑みを輝かせながらいった。「早くよくおなり! これは特別お前にいっておくことなんだよ。あの人は病気なの、大変おもい病気なの。人間の寿命は神様のお心まかせだけど……あら、わたしはなんだってこんなことをいったんだろう? そんなことがあってたまるものかね!」 彼女は出て行った。彼女は、寛大にも、永久にゆるしてくれた法律上の夫である巡礼マカールを、一生涯ほとんど神様のように戦々恐々と崇めていたのである。
第2章 病室小景
     7が、わたしはりIザを『忘れ』はしなかった、それは母の
誤りである。敏感な母は、兄と妹の間が妙に冷たくなったらしいのを見てとったが、しかしそれは愛の問題ではなく、むしろ嫉妬の問題なのである。これからさきの都合もあるから、簡単にひとこと説明しておこう。 不幸なりIザは公爵の逮捕からこの方、妙に思いあがったような、高慢な態度を見せはじめた。ほとんど人をそばへ寄せつけないような、義理にも我慢のできない傲慢ぶりなのである。しかし、家じゅうのものはだれでもその真相を見ぬいて、彼女がどんなに苦しんでいるかを承知していた。もしわたしが彼女の態度に眉をしかめたり、仏頂面をしたとすれば、それはただ病気のおかげで、十倍も猛烈になったわたしの浅薄な蜩癖のせいにすぎなかった。いまわたしはその当時のことを、こういうふうに考えている。リーザを愛する念には毫も変わりはなかった。それどころか、前より余計に愛していたほどである、ただ自分のほうからさきに、近よって行きたくなかったのだ。もっとも、彼女自身にしても、自分からまずわたしへ近よって来るはずは絶対にないので、それはわたしにもわかっていた。 つまり、こういうわけなのである。公爵逮捕の直後、彼に関する一切の事件が明るみに出るやいなや、リーザはまず第一に、われわれをはじめすべての人に対して、一種特別の態度をとった。それは彼女を憐んだり、慰めたり、あるいは公爵の弁護をしたりIそんなことは考えるだけでも承知しない、といったような態度だった。それどころでなく、彼女はいっさいうち明け話をしたり、人と議論したり、などするの



を避けながら、不幸な許婚の夫の行為を、あたかも最高のヒロイズムででもあるかのように、たえず誇りとしているような具合だった。たえずわれわれI同にむかって、こういっているように思われた(ことわっておくが、ひとことも囗をきいたわけではない)。『だって、あなた方のうちただの一人でも、あれだけのことはできないでしょう、-あなた方には名誉と義務の要求のために、自分で自分の身をわたすようなことはできないでしょう。あなた方のだれ一人だって、ああした敏感で潔白な良心を持っている人はないでしょう? またあの人が前にしたことにしろそうよ。だれだって腹の中で悪事をしない者はないじゃありませんか。ただみんなはそれを隠しているのに、あの人は自分自身をつまらない人間と意識するよりも、いっそ自分の身を破滅させたほうがいいと考えたんですからね』 彼女の動作の一つ一つが、そう語っているように思われた。なんともいいかねるけれど、わたしも彼女の立場におかれたら、やっぱりこんな態度をとったに相違ないだろう。それからまたほんとうにこういったような考えが、彼女の腹に、いや、心の中にひそんでいたかどうか知らない。おそらくそうではないのだろう。彼女の理性のより明晰な他の半面は、必ずや自分の『英雄』のやくざ加減を、残らず見ぬいていたに相違ない。なぜなら、この不幸な、自己流の意味で寛大な人間が、同時にこのうえもないやくざな男だったということは、今となってみると、だれひとり疑いをいれるものがないからである。それに彼女の高慢な態度、われわれ一同に
くってかかりそうな身がまえ、みんなが公爵のことを惡く思ってはいないか、という不断の猜疑、-こういうものからして、不幸な恋人に関する別様な意見が、妹の心の深い奥底に形成されていくのではあるまいか、というような想像を、多少なりともさせる根拠となった。しかし、わたしは大急ぎで自分自身の意見をつけ加えておこう。わたしの見るところでは、彼女の態度はたとえ全部でないまでも、半分くらい正当なものだった。最後の断定に躊躇、動揺を感ずるということは、われわれのだれよりも彼女の立場においては、もっともゆるされてしかるべきことだった。わたし自身も心底から正直に白状するが、もういっさいのことが大団円を告げた今日にいたるまで、われわれ一同にあれほどの難問を課したあの不幸な男を、どういうふうに、どのくらいの程度までに評価していいのか、かいもく見当がつかないのである。 とにかく、彼女のおかげで家の中は、ほとんど一つのふ地獄に化さないばかりだった。あれほど強く愛していたりIザは、当然、はなはだしく苦しまねばならぬはずだった。しかし、もちまえの性格で、彼女は無言に苦しむほうをとった。彼女の性格はわたしに似ていた。というのは、高慢で専制的なのである。わたしはいつも、-そのときも今も考えていることだが、彼女は公爵を愛したのはこの専制的な性格のためではないか、つまり男のほうが無性格なので、最初の一言、最初の一時間から彼女に服従した、そのためではなかろうか?これは初めから予定した打算ではなく、何かこう、心の中で自然にできあがっていくことなのである。しかし、こうした
弱者に対する強者の愛は、ときとすると、互いに均衡した性格同士の愛よりも、比較にならぬほど烈しく悩ましいことがある。それは自然と、弱い友に対する責任を、自分の双肩にになうからである。すくなくとも、わたしはそう思う。 わたしたち一同は、事件のもちあがったそもそもから、このうえなく優しい心づかいで彼女を包んだ。母などはことにそうだった。けれど、彼女の心はやわらがないで、人々の同情に反応を示さないのみか、かえっていっさいの助力をしりぞけるような態度を示した。それでも、初めのうち母だけには話していたが、一日一日と言葉を出し惜しむようになり、ぶっきら棒に無愛想になった。ヴェルシーロフには、晉初は相談を持ちかけるようにしていたが、やがて間もなく、ヴ″Iシンを相談役兼助手に選んだ。わたしはそれを後で聞いて、びっくりした次第である……彼女は毎日のように、ヴ″Iシンのところへ行った。また裁判所や公爵の勤め先なども歩きまわるし、弁護士や検事も訪問した。はては、終日彼女が家にいることは、ほとんどないくらいになった。むろん毎日二度ぐらいずつ、監獄の貴族監房に幽閉されている公爵をも訪れた。しかし、その後、わたしが十二分に確信したところによると、この面会はりIザにとってなかなか苦しいものだった。もちろん、二人の愛人の関係が、第三者に完全にわかるはずはない。が、わたしの知っているところでは、公爵はたえず彼女に深刻な侮辱を加えるとのことだった。それでは、たとえば、どんなことをするのか? それは奇妙な話だが、絶え間のない嫉妬が原因なのであった。もっとも、このこと
は後まわしにしよう。が、これについて一つの感想をつけ加えておく。彼らのうちはたしてどちらが、どちらを苦しめていたのか? これは容易に決しがたい問題である。われわれの間では自分の英雄を誇りとしていたりIザも、彼とさし向かいになったときには、ぜんぜん別の態度を示したのかもわからない。それはある原因によってわたしのかたく信じて疑わないところである。が、このことも後まわしにしよう。 そこで、リーザに対するわたしの感情や態度はどうかというと、表面に現われたいっさいのことは、ただ双方の嫉妬から生じたうわべだけの虚偽で、実のところ、その当時ほど互いに強く愛しあったことは、二人ともかつてなかったほどである。なお一つつけ加えておくが、リーザはマカール老人に対して、彼の出現当時、まず劈頭第一に、驚きと好奇の色を見せただけで、なぜかだんだん眼中におかないような、ほとんど高慢な態度さえ見せるようになった。彼女はさながらわざと意識的に、この老人にいささかの注意すらはらわないようなふうだった。 前章に述べたとおり、いったん『沈黙』の誓いを立てたわたしは、むろん理論上では、つまり自分の空想の中では、この誓いを守り通すつもりだった。実のところ、たとえばヴェルシーロフを相手にする折などは、もちろん、動物学かローマ皇帝の話でも持ち出して、御かのことや、彼女に宛てた彼の手紙の中で最も重大な一行、『書類は焼き棄てられず現存いたしおり候えば、やがてふたたび姿を現わすべく候』と通知している一行のことなどは、金輪際おくびにも出さなかっ