『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

『戦争と平和』(トルストイ作、米川正夫訳)上巻P201―P240(校正前)

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と平和
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た、 「檠せてあげろ。乗りたまえ、・君、乗りたまえ。おい、外套を敷吟、アントーノフ。」 この見習士官は口久トフであった。片手を支えている彼の顔は耆白く、下頤は熱病的な痙攣にがたがたとふるえた。彼はマトヴェーヴナー・さきほど死んだ将校をとりおろしたばかりの砲車にのせられた。下に敷かれた外套には血がたれてい、ロストフは乗馬ズボンと手を汚した。 「どうしたね、君、負傷したのかい?」ロストフの乗っている砲萪近寄りつつ、トゥシソは言葉をかけた。 「いいえ、圧傷です。」 「どうして側板に血がついてるのか?」とトゥシソがきいた。 「これは、大尉毆、あの将校の人が汚されたのであります。」 一入の砲卒が外套の袖で血をふき・ながら答えた。その様子は砲 の鈩にたいして謝罪するようであった。 歩兵の助けを借りて無理やりに砲を坂の上へひき上げて、グンテルスドルフの村に行き着くと、軍は行進を止めた。もはやず歩の外は、兵卒の外套も見分けかねるほど暗くなり、交射の音も静まりかけた。ふいに右手にあたって、ふたたび近々と叫喚と銃声が聞えだ。発射の光がもう闇の中にひらめいていた。これはフランス軍の最後の攻撃であった。村の民家に腰をおろしていた兵士らは、これに応戦した。またもや、あらゆるものが村から飛び出した。が、トゥシソの砲隊は動くことができなかったので、砲手もトゥシソも見習士官も、自分の運命を待受けっつ、黙って目と目を見かわしていた。銃声はだんだんと静
かになっていった。と、横手の往来から兵士らが、賑やかに話し合いながらばらばらと飛び出した。 「無事かい、ベトロフ?」と一人がたずねた。 [ひとつ熱い奴をくらわしたから、もうちょっかいを出すまいよ。]ともう一人が言った。 「まるでなんにも見えやしねえ。きゃつらが同士打ちをやった様はどうだい! なんにも見えやしねえ。暗いなあ、おい。なにか飲むものはないか?」 フランス軍はついに撃退された。そして、ふたたび真の間の中を、がやがやとどよめく歩兵隊に枠のようにかこまれたトゥツソの大砲は、どこか前方へ動き出した。 目に見えぬ暗澹たる一筋の川は、ささやきと話し声と馬蹄と車輪の響きをどよもしつつ、闇の中をいつまでも同じ方角に流れて行く。全体にわあっという雑音の中で、他のいかなる響きよりも一番はっきりと、負傷者のうめき声が夜の闇の中に聞える。彼らのうめきは、軍隊をとり巻いているこの夜の闇を、いっぱいにみたしているような気がした。彼らのうめきと、この夜の闇―それは実際おなじものであった。暫くたった時、この動き行く大群衆の中に動揺が生じた。誰か幕僚を引きっれた人が白馬にまたがって通過したが、通りすがりに何やら言ったのである。「なんと言ったんだ? これからどこへ行くんだい? 夜営でもするんかね? お礼でも言ってたのかい、いったい?」こういう貪るような問が四方から聞えだ。そして、動きすすむ群衆は互いにぶっ突かり始めた(たぶん先頭か立ちどまったものらしい)。止まれの命令が出たという声が、どこか

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らとなく伝わった。一同は今まで歩いていた泥ぶかい道の真ん中に立ちどまった。 火がともされて、話し声が次第に高く聞え出した。トウシン大尉は中隊の処理をすますと、丘(士の一人に命じて、見習士官のために繃帯所か軍医を探しにやり、丘(士たちは道路の上に燃やした焚火のそばへ坐った。ロストフも同じく火のそばへはい寄った。疼痛と寒さと湿気から起る熱病やみめいた痙髪・は、彼の全身をふるわすのであった。睡魔はたえがたいほど襲うのであったか、じくじくうずいて置き場のない手の痛みに、寝つくこともできなかった。彼は時に眼をふさいだり、時に恐ろしく赤く見える火に見入ったり、時にはまた自分のそばにあぐらを縊んでいるトゥシンの、背を尢くした弱々しい姿を眺めたりしていた。人の好い悧巧そうなトウシソの大きな眼は、同情と貳愍をおびて彼に注がれていた。トウシンが心底から自分を助けたいと思いながら、どうする事もできないでいるのは、彼にもありありと分かっていた。 徒歩や乗馬で通り過ぎたり、まわりに陣取ったりしている歩兵の足音や、話し声などが四方から聞えだ。人声、足音、泥濘の中を進んでゆく馬蹄の響き、それから遠く近く薪のはぜる音Iこういうものが一つに溶け合って、揺れふるえるようなどよめきになっていた。 今はもう以前のように、目に見えぬ川が暗の中を流れているのでなく、嵐の後の暗澹たる海が、波をおさめっつふるえているよう。ロストフは自分の眼前周囲に起るものを、意味もなく見たり聞いたりしていた。一人の歩兵が焚火のそばへ近寄って
しゃがみながら、手を火の中に突っこんで、顔をそむけた。 「かまいませんか、大尉毆?」彼はもの問いたげに、トウyソに向かってこう言う。「自分の中隊にはぐれちまって、自分で自分がどこにいるかわからんのであります。困っちゃった!」 頬に繃帯をした歩兵将校が、兵卒をI人つれて焚火に近寄り、トゥシソに向かって、中隊行李を通さればならぬから、ほんのちょっと砲を片寄させてくれと頼んだ。この中隊長の後から、二人の兵士が焚火を目かけて飛んで来た。彼らはなにか長靴のような物をひっぱり合いながら、死物ぐるいに罵ったりつかみ合ったりしている。 「なんだ、貴様が拾ったんだって! ふん、うまいことを言っ。てらあ!」と一人がしゃがれ声でわめく。 その後から血みどろの巻脚絆で頸を結えた、やせた蒼白い兵隊がやって来て、腹だたしげな声で砲兵たちに水を請求するのであった。 『なんだってんだ、犬ころみたいに死んじまえってのかい?』と彼は言う。 トウシソは彼に水を与えるように命じた。その後から、陽気な兵隊が飛んで来て、歩兵隊へ火種を分けてくれと頼んだ。 「火種の熱いところを歩兵にやってくださいな! やあ、ご機嫌よう、兄弟、さてと、どうも火種をありがとう、後で利子をつけてお返ししまさあ。」赤い薪の燃えさしをどこか闇の中へ持って行きながら、彼はそう言った。 それに続いて、四人の兵卒が、なにか重そうなものを外套にのせて運びながら、焚火のそばを通って行く。その中の一人が
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戰爭と平和
たにかに躓いた。 「ちょっ、こん畜生。道路に薪なんか置きやがって。」とぼや 「死んじまったものを、何だってこんなにかついで行くんだい?」といま一人が言う。 「ちょっ、ほんとに貴様らは!」 と彼らはその重荷をかついで闇の中にかくれた。 「どうだね? 痛みますか?」とトウシソは小声でロストフに’きいた。 「痛いです。」 「中隊長、閣下がお呼びであります。あすこの小屋の中におられます。」と下士がトゥシソに近づいてこう言った。 「よしきた、いまいくぞ。」 トゥシソは立ちあがり、外套のボタンをかけ、身づくろいし’ながら焚火を離れた。 砲兵の焚火からほど遠からぬ、特別に準備された百姓家の中’に、バダラチオソ公爵は、自分のところへ集まってきた各部隊の長官数人と、食事を共にしながら談話を交えていた。その中にはがっがつと羊の骨をしゃぶっている、半分眼を閉じたよう。な小柄の老人や、一ぱいのウォートカと食事のために真赤にな った二十二歳の立派な将軍や、名前入りの指輪をはめた当直佐官や、不安げに一同を見廻しているジェルコフや、蒼い顔をして唇をかみしめ、熱病やみのように眼を光らしているアンドレイ公爵などがいた。 百姓家の中には鹵獲したフランス軍旗が、片隅に立てかけら
れてあった。例の理事はとぼけた顔をして、軍旗の布地をいじくりまわしながら、不審そうな顔で小首をかしげていたが、それは事実、この軍旗が彼の興味をひいたのかもしれないが、あるいはまた空腹な彼にとって、他人の食事を見ているのが苦しかったのかもしれぬ。彼は食器が足りないために、陪食できなかったのである。隣の部屋には竜騎兵の俘虜になったフランスの大佐がおり、味方の将校連がそのまわりに集まってじろじろ見まわしている。バグラチオソ公欝は箇々の長官に謝辞を述べ、戦闘の詳細、わが軍の損失などについて質問した。ブラウナウで検閲を受けた連隊長は、戦闘が開始されるや否や森の外へ退却し、伐木隊を集めて自分のそばを通過させ、二箇大隊を率いて銃剣突撃を試み、フランス軍を顛覆させてしまったと報告した。 「閣下、わたくしは、第一大隊に混乱が生じたのを見たとき、道路に立って考慮しました。そして、『この大隊を退却させて連発攻撃をもって迎えよう』とこう決心して、さっそく実施したのであります。」 連隊長はこれを実行したくてたまらなかったので、実戦でそうする暇がなかったのをいたく残念に思った。モれゆえ、今もなんだかそれが実際おこだわれた事のように思われたのである。いや、一歩進んで、本当にそうだったのかもしれない。いったいこうしたてんやわんやの騒動の中で、実際にあった事となかった事を、きっぱりと区別できるものだろうか? 「この際、閣下に匸言もうしそえておきたいのは、」と彼は、クトウソフとドーロホフの会話、それに自分とドーロホフとの

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今日のであいを思い出して、語をついだ。「ほかでもありません、喞官兵のドーロホフがわたくしの面前で、敵の将校を捕虜にして殊勲をたてた事であります。」 「その際、わたくしはパヴログラード連隊の突撃を見ました。」この日すこしも軽騎兵隊を見たことがなく、ただ歩兵将校の話で聞いたばかりのジェルコフは、不安げにあたりを見廻しながら口をはさんだ。「方陣を二つまで躁隕しました、閣下。」 ジェルコフの言葉にたいして二三の人は、いつものような洒落を期待して微笑した。けれども、彼の言葉がやはり今日の友軍の讃美に傾いているのに気づき、またもとのまじめな表情にかえった。もっとも、多数の人は、ジェルコフの言葉がなんの根拠もないでたらめなのを、よく承知していた。バグラチオソ公認は小柄な老大佐に向かって、 「一同に感謝します、歩兵、騎兵、砲兵、各部隊とも、ことごとく勇敢な働きをしてくれました。ところで、どうして中央では砲二門を遺棄したのですか?」と彼は眼で誰やら探しながらたずねた。(バグラチオソ公爵は左翼の砲のことをきかなかった、彼は戦闘のごく初めに、左翼の砲がことごとく棄てられた・事を、すでに知っていたのである)。「わしはなんでも君に頼んだようだね冫・」と彼は当直佐官に向かった。 「一門は破壊されましたが、」当直佐官は答えた。「いまI門の砲はわかりかねます。わたくしは始終あすこで指図しておりまして、ちょっと前に帰ってきたばかりであります……まったくどうも激烈でございました。」と彼は謙抑な調子でつけたした。 淮やらトウシソ大尉がこの村に駐屯しているので、もういま
迎えにやったところだと言った。 「ああ、君も行ってたんですね。」とバグラチオソ公爵は、アンドレイの方へ向いて言った。 「ああ、そうですね、あなたとはちょっとの間、いっしょに落ち合ってましたっけね。」と当直佐官は気持よく微笑しながら、ボルコソスキイに向かってこう言った。 「わたくしは不幸にして、あなたとお目にかかる光栄を有しませんでした。」と、冷やかなぶっきら棒な声でアンドレイ公爵は答えた。 一同はしばらく囗をつぐんでいた。そのとき将校だもの後ろからおずおずと進み出ながら、闔の上にトゥシンが姿を現わした。トゥシソはいつもの如く、上官の顔を見るとへどもどしてしまって、狭い小屋の中にならんでいる将官たちをよけて通るとき、よく足もとを見ないで軍旗の柄に瞑いた。幾たりかの笑い声が起った。 「どういう工合で砲を遺棄したのかね?」バグラチオソは大尉にたいするよりも、むしろ笑った者にたいして(その中でジェルコフの声が最も高く聞えだ)、眉をひそめながら、たずねた。 トウシソは絎めしい上官の顔を見、いまはじめて自分の罪と恥辱の恐ろしさが、まざまざと心に浮かんできた。自分はおめおめと生きながらえながら、二門の砲を失ったではないか。彼はすっかり興奮していたので、この瞬間まで、そのことを考える余裕がなかったのである。将校連の嘲笑はいっそう彼に度を失わせてしまった。彼は下頤をふるわしながら、バダラチオンの前に立って、やっとの事でこれだけ言った。
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 「存じません……閣下……丘「員が足りなかったからであります、閣下。」 「掩護隊の方からとれたはずじゃないか!」 掩護隊がなかったことをトゥシソは言わなかった。それは明明白々たる事実であったにもかかわらず、彼は他の長官に勵を及ぼすことを恐れ、答につまった小学生が試験官の眼を見つめるように、じっとすわったまま動かぬ限で、。(グラチオソの顔をまっすぐに眺めていた。 沈黙はかなり長く続いた。バグラチオソ公爵はあまり苛酷な役を勤めたくないらしく、たんと言っていいかわからない様子であった。ほかの人達はあえてこの問答に口を入れようとしなかった。アンドレイ公爵は額ごしにトウシソを眺めていたが、その指は神経的にふるえていた。 「閣下、」とアンドレイ公欝はもちまえの鋭い声で沈黙を破った。「閣下はわたくしをトウシソ大尉の中隊へ派遣なさいました。わたくしはそこで三分の二の兵士と馬を失い、二門の大砲をめもやめちゃに破壊されてるのを見ました。掩護隊などは少しもありませんでした。」 バグラチオソ公欝とトウシソは、興奮の情をおしつけるようにして話すボルコソスキイを、一様にじっと見つめていた。 「閣下、もし閣下がわたくしに忌憚なく意見を吐露さして下さるならば、」と彼は続けた。「今日の成功にたいしては我々はなによりも一番に、この砲兵中隊の行動と、トゥシソ大尉およびモの中隊一同の、英雄的な持久力に負うところがもっとも多いのであります。」こう言ってアンドレイ公爵は、答も待だない
でつと立ち上り、テーブルを離れた。 バグラチオソ公爵はトウシソを眺めた。そして、ボルコソスキイの極端な意見に対する疑の色を示すのも好まないが、さりとてまたそっくりその言葉を信ずることもできないような気がしたので、ちょっと小首を傾けながらトウシソに向かって、もうさがってもいいと注意した。アンドレイ公爵もその後から部屋を出た。 「いや、じつに有難う、おかげで助かりましたよ、君。」とトウシソは彼に言った。 アンドレイ公欝は彼の方をふり向いたが、なんにも言わずそばを離れた。アンドレイ公欝はたんとなく気がふさいで心が重かった。これらの事はすべてじつに奇怪で、彼の期待にすこしも似たところがなかった。 『あの連中は何者だ? 何しにきたのだ? 何があの人たちに必要なんだろう? そして、いつになったら、こんな事がすっかり片づいてしまうだろう?』目の前に入り替り立ち替る人影を眺めつつ、ロストフはそう考えた。手の痛みはますます激しくなる。睡魔はたえがたいほど襲ってきて、赤い圈が眼の中で跳った。これらの顔の印象や孤独の感じは、疼痛の感じとIしょに融け合った。これはあの負傷したのや、それから、負傷しない兵隊らのしわざだIあいつらが他人の挫折した手や肩の筋をおしたり、重くしたり、ねじ廻したり、肉に火をつけたりするのだ。この人たちを逃れるために、ロストフは眼を閉じた。

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 彼はほんの一瞬間、忘我の境に落ちた。しかし、この短い忘我の瞬間に、彼は無数の幻を見た。母とその大きな白い手、ソーニャのやせた肩、ナターシャの眼と笑い声、ジェニーソフとモの声そのひげ、チェリャーニン、そして、例のチェリャーニyとボグダーヌイチに関する一件などを夢うつつに見た。この一件と、ついそこにいる吋高い声の兵隊とは、ぜんぜん同じものである。この一件と兵隊とが、いつまでもしつこく彼の手をつかまえておしつけながら、たえず一方へぐんぐんとひっぱるのだ。彼はそれらのものを避けようとするけれど、こちらは一分一厘も、一秒間も、彼の肩をはなさない。もしこの連中がひっぱらなかったら、肩は少しも痛まずに達者でいるのだが、しかし、この連中を免れることは金輪際できない。 彼は眼を開けて上の方を眺めた。黒い夜の帷は炭火の明りから二三尺うえの方に垂れている。降りはじめた雪が、この明りの中を粉のように飛んでいる。トゥシソも帰ってこず、軍医も見舞わない。彼はたった一人ぼっちである。ただ一人の兵士が裸で焚火の向う側に坐りながら、やせた黄色い体を暖めていた。 『俺はだれにも用のない人間なんだ!』とロストフは考えた。 『だれひとり救けてくれる者も、燐れんでくれる者もない。ところが、俺もいつか以前は自分の家にいて、強健で快活で、みなに好かれたこともあるんだ。』彼は嘆息したが、嘆息とともにひとりでにうなり声が出た。 「どこか痛むのでありますか?」と兵隊は火の上でシャツをふるいながらたずねた。が、返事も待たず、咳ばらいして言いそ
えた。「きょう一日にどれだけ人が死んだり、怪我をしたりしたかしれやしない、恐ろしいこった!」 ロストフは兵隊のいうことを聞いていなかった。彼は火の上を飛びかう粉雪を見ながら、ロシアの冬、暖く明るい家、むくむくした毛皮外套、矢のような橇、健康な体、家族の愛情と心づかい、こういうものを思い起していた。『ああ、なんだってこんな所へ来たんだ!・』と彼は考えた。 翌日、フランス軍は襲撃をくり返さなかったので、。(グラチオソ支隊の残兵はクトゥソフの軍に合した。
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戰爭と平和
第 三 編
       一ヴァシーリイ公爵は、自分の計画を深く考えるような事をしなかった。彼はまた己れの利益のために他人に榻を及ぼそうなどとは、なおさら思っていなかった。要するに、彼はただ単に社会で成功して、その成功を習慣とした社交人にすぎなかった。彼の心中には四囲の事情とか、他人の接近とかによって、常にさまざまな計画や考案ができあがっていく。そして彼自身もそうした計画や考案を、明白に意識していなかったけれど、それが彼の生活興味の全部なのであった。このような計画や考案は一つや二つでなく、二十も三十も彼の頭の中で運用されていた。その中には、やっと心に浮かび始めたばかりのものもあり、また着々進捗しているものもあり、また立ち消えになってしまうものもあった。彼は決して腹の中で、『この男はなかなか権勢があるから、俺はこの男の信用と友誼を得て、その助力で一時金の下賜を受けねばならぬ。』とか、もしくは『あのピエールは財産家だから、あの男を唆かして娘を娶せ、俺に入り用な四万ルーブリの金を借りなくちゃならぬ。』などという考えを毛頭起しはしなかった。しかし権勢ある人に邂逅するとすぐその瞬間に、この男は何かの役に立つかもしれないぞ、と本能が彼にささやく。で、ヴァシーリイ公爵はその人に接近して、機会ある度に、べつだん下用意をするわけではないけれど
も、生来の本能によってお世辞を言ったり、馴々しく口をきいたりしながら、自分に必要な話をするのであった。 モスクワではピエールがちょうど彼の鼻先にいたので、ヴァシーリy公欝は彼のために、当時においては今の五等官に相当する侍従武官の地位を周旋したうえ、自分とIしょにペテルブルグヘいって、自分の家へ落着くようにと、熱心にピエールを説いた。ちょっと上べはなんの気もたいようでありながら、同時にまたぜひともそうしなくちゃならんのだ、という確乎たる自信をもって、ヴァシーリイ公爵はピエールに娘を娶すのに必要なすべての手段をつくした。もしヴァシーリイ公爵が予め自分の計画を熟考したなら、地位の上下にかかわらずあらゆる人に対し、かくまで自然な、かくまで単純な、かくまで馴々しい態度をとることはできなかったであろう。彼はしじゅう自分よりも強く富める人の方へ、何ものかの力によって引きよせられていた。彼は、他人を利用する必要と可能のかね俥わった一瞬間を捕えるのに、稀有な天賦の才能をもっていたのである。 ついこの間まで孤独でのん気な身の上であったピエールは、とつぜん財産家のベズーホフ伯爵となり、急に多くの人々にとり巻かれる忙しい体になったので、夜、床に入ったとき、やっとI人きりになれる思いであった。彼は書類に署名したり、自分でもはっきりした理解をもたない諸官省との交渉をしたり、なにかの事を総支配人にたずねだり、モスクワ付近の領地へ出かけたり、多数の人を引見したりしなければならなかった。以前、彼らはピエールの存在など知ろうともしなかったくせに、今ではもし彼が会いたくないなどと言おうものなら、それこそ

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腹を立てたり、悲観したりするようになった。これらの種々雑多の人々―事務家、親戚、知人などは、ことごとくこの年若い相続者にたいして愛想がIかった。彼らは疑いもなくピエールが優れた資質をもっていることを、あくまで信じきっているらしかった。二言目には、『世にも珍しく親切なあなたのことですから、』とか、『あなたのような美しい心をもっていらっしやるお方は、』とか、『伯甞、あなたご自身じつに純潔なお方です。』とか、或いは、『もしあの人があなたくらい賢い人間でしたらね、』といったようなことを口にする。で、ピエールはだんだんと心底から、自分はなみなみならぬ親切な男で、非凡な才能をもっていると信じるようになった。まして、彼は以前から心の奥の方で、まこと自分はきわめて親切な賢い男だ、というような気持がしていたのであってみれば、なおさらである。 のみならず、以前かれにたいして意地悪く、明らかに敵意を抱いているらしかった人たちすら、急に優しく愛想よくなってきた。あれほど憖りっぽかったいちばん上の公甞令嬢(れいの長い胴をし、人形のようにぴったり髪をなでつけた令嬢)までか、茆式がすんだのち、わざわざ彼の部屋へやってきた。伏し眼になってひっきりなしに顔を真赤にしながら、彼女は自分とピエールとの間に生じた誤解を、非常に残念に思っているよしを述べ、ああいう打撃を受けたいまとなっては、自分はもうなにをいう権利もない。ただこれまで非常に愛していたこの家、自分が多くの犠牲をささげたこの家に、たった二三週間、逗留の許しを乞うよりほかはないと言った。こう言ったとき、彼女は怺えきれなくなって泣き出した。あの石像のような令嬢が、かく
も変るものかと、ピエールはすっかり感動し、彼女の手をとりながら、自分でもなんのためかわからずに赦しを乞うのであった。この日から令嬢はピエールのために縞の襟巻を編みはじめ、まったく彼にたいする態度を一変してしまった。 「ね、君、どうか仇狐のためにそうしてやってくれ給え。たんと言っても、あれは故人のことですいぶん苦労したんだからね。」。なにか令嬢の利益をはかった書類に署名を求めながら、ヴァシーリイ公欝はこう言った。 ヴァシーリイ公爵の考えでは、なんといってもこの紙きれを、三万ルーブリの手形を、可哀そうな公認令嬢に抛ってやらねばならなかったのだ。それは例のモザイクの折カバソ事件にヴァシーリイ公欝が関係したことをしゃべりちらされては大変だから、そんな考えを起させまいための魂胆である。ピエール’は手形に署名した。それからというものは、令嬢は彼にたいしてますます親切になってきた。妹の二人の令嬢も同様に愛想よくなったが、ことに黒子のある可愛い末の令嬢は、ピエールの姿を見るたびに恥ずかしそうにほほ笑んでは、彼をまごつかすのであった。 ピエールは、すべての人が誰もかも自分を愛してくれるのが、きわめて自然に思われた。だから、もし誰かが彼を愛さなかったら、おそろしく不自然に感じたに相違ない。彼は自分をとり巻く人々の真情を疑うわけにいかなかった。それに、彼はこれらの人々の真情不真情を顧みる暇がなかったのである。彼はいつも忙しくて、いつもつつましく楽しい陶酔の状態にあった。なにかしら重大な世間全体の運動があって、自分がその中
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駅・yと不和
心になっているような気がし、また自分がなにかしら或るものを。たえず人々から期待されているような感じもした。で、もしモれを果たさなかったら、多くの人々を悲しませ、その希望を奪うことになる。もしそれを果たせば、一さいのことがよくなるのだIこう考えて、彼は要求されるとおりをしていった。けれども、このなにかしら善い事は、いつも前の方にとり残されるのであった。 こうした最初の時期に、誰よりもいちばんよけいにピエールの事務ぽかりでなく、ピエール自身までも自由にしていたのは、ヴァシーリイ公認である。ベズーホフ伯爵の死後、彼はしばしもピエールを手ばなさなかった。そして、『私はいろんな仕事に悩まされて、疲れきっているのだけれど、この哀れな若者、しかも莫大な財産をもった親友の忘れがたみ(これがいちばん大事なことだ)を、運命の神や悪者どもの掌中に翻弄させるのは、情においてしのびないのだよ。』といったような顔つきをしていた。ベズーホフ伯爵の死後、彼がモスクワに過した幾日かの間に、彼はたびたびピエールを自分の居間へ呼びよせたり、また自分からピエールの部屋へ出かけたりして、ピエールのなすべき事をいちいち指図した。その疲れたような、しかも確信にみちた調子は、まるで『君の知ってのとおり、私は両手にあまるほどの仕事をかかえている。だから私か君の世話をやくのは、まったくの慈悲心から出る事なんだよ。そればかりでなく、私か君に言ってることは、実行しうる唯一の方法なんだから、それを承知して貰いたい。』とでも言うようであった。 「ねえ、君、明日はいよいよIしょに立つんだよ。」あるとき
彼は眼を閉じて、指で相手の肘をさぐりながら、ピエールに言った。それはさながら、いま自分の言ってることは、もうとっくに二人の間でとり決められた事で、そのほかにはもう何とも決めようがない、’と信じきっているような調子であった。「明日はもう出発するんだよ。君の席は私の幌馬車の方で用意するからね。じつに嬉しい。ここのおもな用件はすっかり片づいてしまった。私ももうとっくに帰って卜るべきはずだったんだよ。ところで、これは私が総理大臣から受け取った手紙だ。私は君のことを依頼しておいたが、君も今度いよいよ外交団に編入されて、侍従武官になったんだよ。これで君のために外交官としての道が開かれたわけさ。」 この言葉を発するに用いられた疲労と確信の調子は、強い威力を持っていたにもかかわらず、長いあいだ一生の方針について思いわずらったピエールは、あわてて言葉を返そうとした。けれども、ヴァシーリイ公芻は例の鴆の鳴くような低音で彼をさえぎった。この声は是が非でも相手を説き伏せねばならぬ非常な場合に応用されるもので、これをさえぎることは不可能であった。 「Mais「mon cher「 4Fや これは私が自分のために、自分の良心を満足さすためにしたのだから、礼なぞいうことはけっしていらない。人から愛されすぎて不平をいう者は、一人もありやしないよ。それに君は自由の身なんてね、明日にもすぐ辞職することができるんだよ。まあ、とにかくペテルブルグへ出て見たら、すっかり自分でわかるさ。それに君はもうとっくに、この恐ろしい記憶から遠ざかるべきはずだったんだよ(ヴァシ

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Iリイ公爵は長大息した)。そうたんだよ、君、そうなんだよ……ところで、君の馬車には私の従僕でも乗せてやったらいい。ああ、そうだ、私も危く忘れるところだった。」とヴァシーリイ公爵はなお言いたした。「じつはね、君、私と故人との間に、ちょいとした勘定が残っているのだ。私はリャザンの領地から受け取ったものがあるんだが、暫くこのままにしておこう。君はべつに必要がないんだからね。そのうちによく勘定しよう。」 ヴァシーリイ公爵が『リャザンの領地から受け取ったもの』といったのは、幾千ルーブリかの人頭税で、ヴァシーリイ公認が自分の手心とに残しておいたのである。 ペテルブルグもモスクワと同じように、優しい愛にみちた人人の雰囲気がピエールをとり巻いた。彼はヴァシーリイ公爵の肝いってくれた職、というよりも、むしろ官位を(なぜといって、ピエールは何もしなかったからである)辞退することができなかった。そして、知己や招待や社会上の仕事が山のようにあったので、ピエールはモスクワにいた時よりも、一層ぼうっとしたようなせかせかした気持と、たえず近づいてはいるけれどいまだに成就されないある幸福を感じた。 以前の独身者仲間の多くはペテルブルグにいなかった。近衛師団は遠征の途に上り、ドーロホフは奪官され、アナトーリは地方の師団に勤務しているし、アンドレイ公欝は外国へ行っていたので、ピエールは以前このんでしたようなふうに夜を過すことも、またときどき畏敬する年長の友とへだてのない物語をして、気晴らしをすることもできなかった。しじゅう彼は晩髣
会や舞踏会で時を送ったが、主としてヴァシーリイ公甞のもとで、肥えた公爵夫人や、麗人エレソと一座して、遊び暮らすことか多かった。 アソナーシェーレルも一般社交界の人だちと同じように、彼にかんする意見の変化を示した。 以前、ピエールはアソナーシェーレルの前へ出ると、いつも自分のいうことはみんな不躾でぶっきらぼうで、不必要なことばかり、頭の中で用意してる間はじつに気が利いていると思った話も、いったん口に出すやいなや馬鹿げたものになってしまい、かえってイッポリートの愚にもつかぬ話の方が、気がきいて愛嬌があるように思われていた。ところが、今はどんなことでも彼の口にする言葉は、ことごとく愛想よく聞えるようになって来た。もっとも、アソナーシェーレルはそれを口に出して言わなかった。実際は口に出したくてたまらないのだけれど、ピエールの謙遜の徳を尊重するために、しいて我慢しているのだ。それは彼にもわかっていた。 千八百五年から千八百六年へわたる冬の初めに、ピエールはアソナーパーヴロヴナから、例の薔薇色の招待状を受け取った。その中には、Vous trouverez chez moi la belle H616ne(lu'on ne se lasse jamais de voir. Wt諄髱黯臂鷁jという文句がっけたしてあった。 ここの所を読ん・でいるうちに、ピエールは他人によって承認された一種の関係が、自分とエレソとの間に形成されていることを、はじめて感じたのであった。この想念は、さながらたえ得られぬ義務が落ちかかったかのように、彼をおびえさせもし
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戰爭と卒和
たが、また同時に愉快な想念として気に入りもした。 アンナーシェーレルの夜会は前と同じようであったが、ただ一つ女主人が客のお接待に利用した新顔の人は、あのモルテマール子営ではなく、こんどベルリンから帰ってきた外交官である。この人はアレクサンドル皇帝のポーツダム行在や、二人の高貴なる親友が人道の敵に対して、あくまで正道を防守せんがために、かたき同盟の誓を立てられたことなど、まことに珍しい詳細な報道をもたらした。アンナは愁いのかげをおびてピエールを迎えた。この愁いのかげは、察するところ、最近ピエールを襲うた不幸、ペズーホフ伯営の薨去に関係しているらしかった(このごろでは誰も彼もがピエールに向かって、あなたは父親の訃のために、たいへん悲しんでいらっしやると、たえまなしに言って聞かせるのを自分の義務みたいに思っていた。そのくせ、彼は父親のことなどろくすっぽ知らなかったのである)。しかも、この愁いのかげは、皇太后陛下マリヤーフョードロヴナの名を口にするとき、アンナの顔に現われる神聖なる愁いの表情と、ぜんぜん同じものであった。ピエールはまんざら悪い気もしなかった。アソナはいつもの技巧をもって、自分の客間におけるグループを整理した。ヴァシーリイ公爵や将軍たちのいる大きいサークルは、外交官の話を聞くことができた。いま一つのサークルは茶のテーブルに近く陣どっていた。ピエールは大人数の方の仲間へまじろうとした。あたかも戦場における軍司令官のように、無数の新しく華々しい想念が一時に浮かんでくるために、それを実行するひまがかくていらいらしていたアソナは、ピエールの様子を見つけ、指でちょっとそ
の袖にさわった。 「Attendez「j'ai des vues sur vous pour ce soir. tlU町一w隷皙背ぱ六莞」といって、彼女はエレソの方をふり向き、微笑して見せた。「ねえ、エレン、どうぞお慈悲に可哀そうな私の叔母の所へいってやってくださいませんか。叔母ばっねづねあなたを崇拝しているのでございますよ。ちょっと十分ばかりいてやってくださいましな。でね、あなたがあまりひどく退屈なさらないためには、ここに伯爵がいらっしゃいます。あなたのお伴をするのを、伯爵もいやだとはおっしゃらないでしょう。」 美しいエレソは叔母さんの方へ向かって行った。しかし、アソナは、まだこれから最後のかんじんな手くばりをしなければならぬ、といったような面持で、ピエールをかたわらへひきとめた。 「そうじゃありませんか。まったく惚れぼれするようでございますね?」静かに離れて行く気高いIレソの姿を指さしながら、彼女はピエールに言った。「nt quene te’ue. U{n7w心ああいう若い娘さんでありながら、もうあんな腕、あんなりっぱな立居ふるまいのこつを心得ていらっしゃるんですものねI・ これはあの方の優しいお心から出るのでございますよ!あの方を自分のものになさる殿御は本当にあやかり者でございますわ1・ あの方と夫婦になったら、どんな交際べたの方でも、自然、社交界で花形の位置をしめることができますわ。そうじゃございません? わたくし、ただちょっとあなたのご意見を伺って見ただけでございますの。」と言ってアソナはピエール

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を放した。 ピエールは、エyソの立居ふるまいの鮮かなことに衷心から賛成した。実際、もし彼がいつかエレンのことを考えたとすれば、それはまったく彼女の美貌と、社交界にあって無言のうちに品位を保つ落着きはらった非凡な手腕なのである。 叔母さんは自分の陣どっている片隅に二人の若者を迎え入れた。しかし、一見したところ、エレソにたいする崇拝の念をおしかくして、むしろアソナにたいする恐怖を表わそうと望んでいるらしかった。彼女はこの人たちをどうすればいいのかときくように、ちょいちょい姪の方をふり返った。この連中のそばを離れるとき、アソナはまた指先でピエールの袖にさわってささやいた。 「J'esp&e「que voug ne direz plus qu'on s'ennuie chez moi.靡勁覽に昌匹ご昌幃1」こ亙nつて彼女にエじをふらりと見かえった。 エレソはにっこりしたが、その顔つきはまるで、『誰にもせよわたしを見て感激せずにいられるなんて、そんなはずはありません。』とでも言いたそうであった。叔母さんはひとつ咳ばらいをし七、樒を呑みこみながら、エレソに逢えてたいへん嬉しいとフランス語で言った。それから今度は、ピエールにむかって同じ挨拶を同じ顔つきでくり返すのであった。なんの興もない、瞋きがちな会話の中ごろに、エレソはピエールをふり返って、あらゆる人に無差別にふりまくれいの明るい艶やかな微笑を浮かべた。ピエールはこの微笑になれきっているので、かくべつそれに注意もはらわなかった。それほどこの微笑は、彼
にとって表情の少いものであった。叔母さんはこのとき、ピエールの父ベズーホフ伯爵のもっていた煙草入の蒐集のことをたにやら話しながら、自分の煙草入を出して見せた。公甞令嬢エレソはこの煙草入の上に細工してある、叔母さんの配偶の肖像を見せてくれと頼んだ。 「これはきっとヴィネスの作でしょう。」とうじ有名な細描画家の名を言いながら、ピエールは煙草入を手にとろうとしてテーブルの方へかがみこみ、いま一方のテ廴フルの会話に耳を傾けた。 彼はぐるりと廻って行くつもりで腰を浮かした。が、叔母さんはエレソの後ろから、いきなりその。肩ごしに煙草入を渡した。エレソは邪魔せぬよう前へかがんで、微笑みながらふり返った。彼女は卜つも夜会に出る時のように、前後とも恐ろしく開いた流行の服をつけていた。いつもピエールが大理石のようだと思っている彼女の上半身は、ピエールの近眼にも自然には。つきりと、肩から頚筋の生きいきした美しさを見分けられるほど近い所にあった。そして、彼女にふれようと思えば、ただちょっとかがみさえすればよいほど、彼の唇はエレソの肩に近かった。彼はエレソの体の温み、香水の匂い、微かに身動きするたびに響くコルセットのきしみなどを聞いた。彼は、着物ととけ合って一つのものを形づくっている、エレソの大理石のような美しさを見なかった。彼はただ着物一枚でかくされているにすぎない女の肉体の美を見、感じたのである。いったん正体を明かされたら、同じ迷いをくり返すことができないように、彼は一度それに気がつくと、もはやどうしてもほかの見方ができ
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なくなってしまった。 『まあ、あなたはわたしがどんなに奇麗だかってことに、今までお気がつかなかったんですの?』とエレソが言っているように思われた。『わたしが女だってことに、あなたはお気がっかなかったんですの? ええ、わたしは誰にでも、またあなたにでも自由にされうる女ですの。』と彼女の眼つきが語った。この瞬間、ピIIルはたんに可能というくらいの程度でなく、かたらずエレソは自分の妻とならねばならぬ、それよりほかにはありようがないと感じた。 この瞬間、彼はエレソと結婚の式につらなったとおなじくらい正確に、この事の真実さを悟ったのである。どうして、いつそれが実現されるかは、彼にも分からなかった。またこれがはたしていい事かどうか、それもやはり分からなかった(彼はなぜかむしろよくないことだ、というような感じさえした)。しかし、それがかならず実現されるということは、彼も信じていた。 ピエールはいったん眼を落してまた上げた。そして、さらに彼女を、いままで毎日みていたと同じような、自分にとって縁のない、遠方の美女として眺めようと試みた。が、それはすでにできない事であった。ちょうどいままで霧の中でブリヤソ趨匹茹の葉を見て木だと思っていたものがヽあと七草の葉だと気づいてから、もはや二度とふたたび木と見ることができないのと同じであった。エレソはおそろしく彼に近いものとなり、彼にたいして威力を持って来た。もはや二人の間には彼自身の意志の障碍よりほか、なんの障碍もなくなったのである。
 「・O口’四四六に?わたくしヽあなた方をその隅っこへうっちゃっておきますわ。そこにいらっしやる方が、お工合がよろしそうでございますから。」というアソナの声が聞える。 ピエールはどきりとして我に返り、なにか法にはずれた事をしはせぬかと、赧くなってあたりを見廻した。たんだか一同の者が、いま自分の心に生じたことを、自分とおなじくらいよく知っているような気がしてならなかった。 ややあって彼が大きなサークルへ戻ったとき、アソナは彼に向かって、 「あなたペテルブルグのお貳枦修繕していらっしゃるそうでございますね。」と言葉をかけた。 それは本当である。技師がそうしなくてはならないと言ったので、ピエールは自分でも何のためやらわからず、ペテルブルグの大きな家を修理させる事にしたのである。 「C'est bien.ilUWyけれど、ヴァシーリイ公欝のお家から、お引っ越しなさらない方がようございますよ。公爵みたいな友達をお持ちになるのは、まったくいい事でございますもの。」ヴアシーリイ公爵にほほ笑みかけながら彼女はそう言った。「わたくしそれについて、いくぶん存じよりの事もございますの。そうじゃありません? あなたはまだお若いのですから、親切な忠言が必要でございます。でも、わたくしがこうしてお婆さんの権利を行使するのを、お腹だちにはなりませんでしょうね。」 いつも女が自分の年のことを言った後で口をつぐむように、彼女はなにやら待ち設けながら口をつぐんだ。「もしあなたが

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結婚でもなさるなら、それなら別問題でございますわ。」こう言って、彼女は二人を一つの視線のうちに結び合わした。ピエールはエレンを見なかったし、Iレソもまた彼を見なかったが、彼女はやはりおそろしいほど身近に感じられた。彼はなにやら口の中でもぐもぐ言い顔を赧くした。 家へ帰ってからも、ピエールは今日のでき事を考えて、長いあいだ寝つくことができなかった。でき事といって、そもそも何であるか? 何でもない。彼はただ子供のときから知っている女I『エレソは美人だね』と言われると、『ああ奇麗だ』と気にも止めず言った女が、自分のものになり得るということを、了解したばかりである。 『しかし、あの女は馬鹿だ、俺が自分で馬鹿だと言ったんじゃないか。』と彼は考えた。『あの女が俺の心に呼びさました感情の中には、なにかしらん臓らわしいものがある。なにか禁じられたようなものがある。なんでも、兄のアナトーリがあれに惚れこめば、あれもアナトーリに惚れこんで、なんだかごたごたが起ったので、そのためにアナトーリは他へやられたって噂を聞卜た。あれの兄のイッポリート・・・・・・あれの父のヴァシーリイ公爵……ど’・りもいけない。』と彼は考える。しかし、彼がこんなふうに反省して卜るとき、まだこれらの反省が完了しないうちから、彼はいつしか微笑している自分に気がっいた。そしてこれらの反省のかげから、またべつな反省が浮かび出るのを意識した。彼は彼女のやくざさかげんを考えていたが、同時にIレンが自分の妻となったときのことや、彼女が自分を愛するさまなどを心に描いた。ことによったら、まるっきり生まれ変っ
たような女になるかもしれない。そして、彼女について自分で考えたり、また人から聞いたりした事は、みな間違っているかもしれない、などと空想をたくましゅうするのであった。 またしても、彼はエレソをヴァシーリイ公爵の娘なにがしとして見ようとはせず、ただ灰色の着物でおおわれた彼女の肉体のみを眺めていた。『しかし、駄目だ、それならどうして以前そういう考えが、俺の頭に浮かんでこなかったのだ?』こう考えて、彼はそんなことはしょせん不可能だと、自分で自分に宣告した。この結婚の中にはなにかしら穢らわしい、不自然な、卑劣なものが含まれているように感じられた。彼は彼女の以前の言葉や眼つき、それから自分ら二人をならべてIしょに眺めた人たちの言葉や、眼つきなどを思い起した。彼はまた家のことを自分に話しかけた時の、アンナの言葉と眼つきを思い起し、ヴァシーリイ公爵その他の同じような、無数の謎めいた言行を思い起した。と、彼は急にぞっとした。明らかに善くない、こんりんざいしてはならぬと信じている事について、何か自らを縛るような行為をしたのではあるまいか?こう思いながら、また同時に、心の一方の隅からは、あの女らしい美にみちたエレンの姿が浮かび出るのであった。      二 千八百五年十一月、ヴァシーリイ公欝は検閲のために、四県にわたって旅行しなければならなかった。彼がいろいろ運動してこの出張命令を受けた目的は、自分の鼾乱した領地にしばらく逗留し、そのついでに息子アナトーリを連隊所在地からひき
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つれて、いっしょに二コライーアソドレーヴィッチーボルコソスキイ公甞のもとへ立ち寄り、この富裕な老人の令嬢に息子を娶せようという0であった。しかも、この新しい用件のため出立する前に、ヴァシーリイ公欝はまずピエールのことを決めておく必要があった。実際のところ、ピエールはちかごろ家にばかり1つまり目下寄寓しているヴァシーリイ公爵家にのみ、幾日もっづけてひきこもり、エレソの前に出ると滑穃なほどおくわくし、馬鹿みたいになるくせに(恋する人という者はそうあるべきだが)、まだやはり結婚を申し込まないでいるのだ。 「、冖o良il’び・{Q{びo戸日Ra{{r耳心にQ15口{沼の’四い鴿幹皆皆砠―}とや・朝、ヴJIリイ公爵に考えた。あれほど自分にたいして義理のあるピエールか(まあ、それはあの男の勝手だが!)この場合とっている行動はあまり立派でない、と憖わしげな嘆息とともに独りごちた。『まだ若い……軽はずみだ……いや、まあ、あの男の勝手さ。』ヴァシーリイ公皙は自分の善良さを、しみじみ満足に感じつつ考えつづけた。 『しかし、早くかたづけなくちゃならんて。明後日はリョーリヤ(Iレソの愛称)の命名日だから、たれかれの人を呼ぶことにしよう。それで、もしあの男が自分のなすべき事をさとらないなら、その時こそわしの働くときだ。そうだ、わしの働くときだ、わしは父親だからな!』 ピエールは、アソナーシェーレルの夜会ののち、一晩じゅう興奮して寝られなかった。そのおり、エレソとの結婚は自分にとって不幸だ、彼女をさけるために旅行の必要があると決心したし、その後一ヵ月半ばかりの間もその決心をくり返してはい
たものの、依然、ヴァシーリイ公爵のもとを引きはらわなかった。世間の目から見ると、自分は次第に彼女との関係を深くしていって、到底もとのような見方にかえることも、彼女から自分をもぎはなすこともできない、じつに恐ろしい事だ、が、どうしても自分の運命を、彼女に結びつけなくちゃならないのだ、と彼は恐怖の念を抱きながら感じるのであった。もしかしたら、彼も自制することができたかもしれないのだが、しかし、ヴァシーリイ公爵の家で夜会のない晩といっては、一日もなかった(そのくせ公爵家では以前ほとんど招待会がなかったのである)。もしピエールが人々の満足を傷つけ一同の期待を裏切りたくなかったら、彼はぜひこの夜会に出席しなければならなかった。ヴァシーリイ公爵はときたま家にいる時なぞ、ピIIルのそばを通りすぎるたびに、彼の手を下の方へ引っぱって、美しく剃り上げた皺だらけの蜩を、接吻のために何げなく相手の方へさし出しながら、『明日また。』とか、『食事の時にね、でないと、わたしはもう君に会えないから。』とか 『わたしは君のために家にいるよ。』 などと言う。しかし、ヴァシーリイ公爵は(彼の言葉によると)、ピエールのために家にいる時でも、彼に向かって二言と口を利かないにもかかわらず、ピエールは早くも彼の期待を裏切る気力がないのを感じた。彼は毎日のように、いつもいつも同じ事ばかり考えつづけた。 『もういい加減にあの女を見ぬいてしまって、あれがどんな女か自分で判断をつけなくちゃならん。俺は以前おもいちがいしていたのか、それともいま思い違いして卜るのか? いや、あの女は馬鹿じゃない。いや、あの女は立派な令嬢だ!』ととき

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どき彼は自問自答するのであった。『あの女はI度だってなに一つまちがったことがない、あの女はけっしてなに一つ馬。鹿なことを言いはしなかった。あの女は口数こそ少いけれど言うことも単純で明瞭だ。つまりあれは馬鹿でないのだ。またあれはけっしてまごついたこともなければ、現にまごついてもいない。して見れば、あれは難のない婦人なのだ!』 彼はまたしばしばエレソと議論したり、思索を語りあったりするおりがあった。すると彼女は、その度に短いながら、つじつまの合った意見をもって答えるか(その調子は『わたしそんな事に興味をもっておりません』と言うようであった)、または無言のままほほ笑みと流し目をもって答える。そのほほ笑みと流し目は、彼女の優れた婦人であることを、たによりも雄弁にピエールに証明した。このほほ笑みにくらべると、あらゆる議論もノンセンスにすぎない。それは彼女の認めているとおりだ。 彼女はいつも悦ばしげな、信じきったような、ピエール一人にだけささげるような微笑をもって彼に向かった。その中には、いつも彼女の顔を飾っている一般の人に放射する微笑より、もっと意味深いものがあった。一同はただピエールが最後の二言を発するのをIあの一定の線を越えるのをひたすら待ちかねている、ピエールもそれを知っていた。また、彼は自分がおそかれ早かれ、いつかこの線を越えるだろうということも知っていた尸けれど、ごの恐ろしい一歩を考えただけで、えたいのしれぬ恐怖が彼をつかむのであった。この一月半の間に、彼はだんだんとこの恐ろしい奈落に吸いこまれていく思いがし
た。この一月半の間に、幾千度となく、ピエールはこう独りごちた。『いったいこれは何事だ? 決断刀がなくちや駄目だ!俺にはその決断刀がないんだろうか?・』 彼はしばしば決心しようとした。けれども、いざという場合には、彼がつねに自己の中に認め、かつ、実際かれのうちにあった決断力が、いつしか失われているのを見て、彼はぞっとしたのである。世間にはよく自分が全く潔白であると感じた時にのみ、初めて強者たり得る人がある。ピエールもその仲間に属していた。アソナの夜会で、煙草入の上で経験した欲望が彼の全幅を領してよりこのかた、この欲望を罪悪とする意識下の感情が、彼の決断力をしびれさせたのである。 エレソの命名日には、公爵夫人のいわゆる親戚親友、つまりもっとも近しい人たちのささやかな一組が、ヴァシーリイ公爵の家へ晩餐に招待された。これらの親戚や親友たちはことごとく、この日こそ命名祝の当人エレソの運命が決せられるのだ、という事を感じるようにしむけられた。客人たちは晩餐の席についた。クラーギソ公欝夫人は主人側の座についていた。彼女はかつて美しかったらしい、肥満した堂々たる婦人である。その両側には老将軍、その夫人、アソナーシューレルなど一番の上客がいならんだ。テーブルのはしの方には比較的年の若い、身分の軽い客人たちが坐っている。家の者Iエレソとピエールも、やはりそこにならんで坐っていた。ヴァシーリイ公爵は晩餐をとらず、浮きうきした上機嫌でテーブルのまわりを歩きながら、ときどき客のだれかれのそばへ坐りこむのであった。彼は一人ひとりに無造作な気持のいい言葉をかけた。ただしピ
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エールとエレソは例外で、彼はこの二人の存在を認めないかのように見えた。ヴァシーリイ公欝は一同を浮き立だした。蜂蝋製の蝋燭は明るく燃え、銀器、玻璃器、陶器、婦人の晴着、肩章の金銀モールが輝いている。テーブルのまわりを赤い長上衣の侍僕らがあちこちしている。小刀、コップ、皿の響き、幾組かの会話の生きいきした話し声が、このテーブルのまわりに聞える。 一方のはしでは、一人の老侍従がよぼよぼの男爵夫人に向かって、燃ゆるが如き愛をうち明ける声と、老夫人の笑い声が聞えた。また一方には、マリヤーヴィクトロヴナとかいう女の失敗談がはずんでいる。テーブルのまん中辺では、ヴァシーリイ公爵が自分の周囲に聞き手を集めていた。彼は婦大たちを相手にふざけた微笑を浮かべながら、最近I水曜日にあった閣議○物語をした。この会議の席で、アレクサンドル皇帝の陣中より下し賜わったとうじ有名な勅諭が、新任のペテルブルグ総督セルゲイークジミッチーヴィヤジミーチノフによって拝受され、かつ読み上げられたのである。この勅諭の中で皇帝はセルゲイークジミッチを名ざし、朕は諸方より人民の忠節に関する」上奏文を受け取るが、ペテルブルグの上奏文は特に朕に耿って欣快である。朕はかかる国民の元首たる事を胯とし、この国民に価いせん事を努力すると仰せられた。この勅諭は次の言葉で始まっている。『セルゲイークジミッチー 諸方より朕が耳に達する風聞によれば云々……』 「それでは、『セルゲイークジミッチ』よりさきへ、ちっとも進まなかったんですの?」と一人の婦人かきいた。
 「そうです、そうです、これっからさきも。」とヴアシーリイ公甞は笑いながら答えた。「セルゲイークジミッチ……諸方より。諸方よりセルゲイークジミツチ……気の毒にグィヤジミーチノフ氏は、どうしてもさきへ進むことができない。何べんち初めから勅諭を読みなおしにかかりましたが、セルゲイというや否や……もう張り泣き……ク……ジミ……チーというが早いか涙……そして、『諸方より』はしゃくり泣きに消されて聞えないのです。どうしてもさきへ進むことができない。で、またぞろ(ンカチをとり出して、『セルゲイークジミッチー 諸方より』とはじめると、また涙……で、とうとうしかたなしに。他の大に読んで貰うことになりました。」 「クジミッチ……諸方より……また涙……」と誰やらが笑いながらまねをする。 「そんな意地わるをおっしゃるものではありません。」指を一本立てて脅すまねをしながら、テーブルのI方のはしからアyナーシェーレルが言った。「C'est un si brave et excellentt10nltnes詰作錙溥抖兮あのヴィヤジミーチノフさんは……」 一同は無性に笑った。テーブルの上席に坐っている人々は、いろいろなはしゃ卜だ気分の影響を受けて、誰しも楽しそうに見うけられた。が、ただピエールとエレソはテーブルのほとんど末席に、無言のままならんで坐っている。一一人の顔にはセルゲイークジミッチとは没交渉な、控え目がちなほほ笑みが輝いているIそれは自分の感情に対する羞恥のほほ笑みであった。ほかのものがなにを言おうと、またどんなに笑ったりふざ

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けたりしようと どんなにうまそうにライン酒や、軟肉や、アイスクリームを食べようと、どんなにこの一対の男女から視線をさけようと、またどんなにこの一対にたいして没交渉な顔をしようと、時々そちらへ投げられる人々の一瞥によって、セルゲイークジミッチの話も、食事も、笑いも、何もかもうわべばかりで、一座の注意力はすべてこの一対、ピエールとエレンに向けられているのではないかと、なぜかそんなふうに感じられた。 ヴァシーリイ公爵は。セルゲイークジミッチのすすり泣きをまねつつ、同時に娘の方ヘー暼を投げた。また、彼が笑った瞬間には、その顔がこういうように思われた。『そうだ、そうだ、何もかも上首尾だ。今夜いっさいの事が決まるのだ。』 アyナは善良なるヴイヤジミーチノフをかばって、指で脅すまねをしたが、ヴァシーリイ公爵は、彼女がその瞬間ちらとピエールの方へ向けて光らした眼のうちに、未来の婿金と娘の幸福にたいする祝辞を読みとったのである。老公爵夫人は溜息とともに、隣席の婦人に酒をすすめながら、腹立たしげに娘の方を眺めた。彼女はこの溜息でもって、『ええ、わたしやあなたなぞはもう甘い酒でも飲むよりほか、なんにもする事がなくなりましたよ。いまはこの若い二人か大胆に、あてつけがましいほど幸福になる時なんです。』という意を見せたようであった。『ああ、俺はいま自分にとって、非常な興味でもある事のようにいろんな話をしているが、なんて馬鹿馬鹿しいこったろう。』恋人同士の幸福らしい顔を眺めながら、ある外交官は考えた。 『これこそ本当の幸福だ!』
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  一座を結び合わしているこれらの無味で、浅薄な、人工的興味のただなかに、美しく健康な若い男女の互に相牽引する単純な感情が落ちこんだ。この人間らしい感情はIさいを圧倒し、すべての人工的な饒舌の上を高翔するのであった。洒落はあまり愉快でなく、珍しい噂も興がなく、活気は明らかにこしらえものであった。たんに客ばかりでなく、テーブルに侍している給仕どもまでか同じような事を感じた。そして、輝くばかりの顔をした美人エレソと、赤くふとった、幸福そうな、丈夫らしい、しかもそわそわしたピエールの顔をうかがいつつ、給仕の順序を忘れがちであった。蝋燭の光までが、この二人の幸福な顔にのみ、集中されたように思われる。 ピエールは、自分がすべての中心であると感じた。この位置が彼を悦ばせもすれば、また気づまりにも感じさせた。彼は、ちょうど、たにかめ仕事に没頭している人のような、心の状態にあった。なに一つはっきりと見、聞き、了解することができない。ただときおり断片的な思想や現実の印象などが、ふいと彼の心にひらめくのみであった。 『これでもういっさいか終ったのだ?』と彼は考える。『それにしても、どうしてこんなふうになってしまったんだろう?こんなにはやく! いまこそ俺はわかった。彼女ひとり、自分ひとりのためのみならず、すべての人のために、これは必ず実現されなくてはならないのだ。あの大たちはみんなそれを期待して、必ずや実現されるものと價じてい魯から、俺はどうしても、どうしてもあの大たちを失望させるわけにいかない。が、どういう工合に実現されるのか? 俺にはわからん、しかし、
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実現される、必ず実現されるに相違ない!』自分の眼のすぐそばに輝く女の肩を眺めつつ、ピエールは考えた。 こう思うと、彼はふいになにかはずかしくなってくる。自分がこうして一同の注意を一身に集中し、他人の目にまたとない仕合わせ者らしく陜っているのが、妙にきまり悪くなるのであった。彼は美しからぬ顔をもった自分をば。エレーらを自由にしたパリースのように感じた。『しかし、こういう事はいつもある事で、またかくあるべきはずたんだ。』と彼は自ら慰める。 『けれど、俺はこうなるために何をしたのだろう? そして、ぜんたいいつ頃から始まったんだろう? 最初おれはヴァシーリイ公甞とIしょにモスクワを発った。その時にはまだ何もなかったっけ。それからこんどは、公晢家に同居した、それがそもそもいけなかったのかしら? それから、俺はあれとIしょにかるたあそびをしたり、あれの婦人袋を拾ってやったり、一しょに馬車に乗ったりした。いったいこの事はいつ始まって、どんなふうに進捗したんだろう?』いま彼は女のそばに花婿として坐っている。そして、彼女の近接と、彼女の呼吸と、彼女の身じろぎと、彼女の美を、見、聞き、かつ感じている。またどうかすると、こんな気持にもなったIなみなみならぬ美しい容貌を持っているのは、彼女でなくて彼自身である。そのために皆が彼を眺めているのだ。そう考えて、彼は一座の驚歎に幸福を感じつつ、胸を張り頭をそらして、おのれの幸福を喜ぶのであった。突然、誰かの聞き覚えのある声がして、なにやら  *スパルタ王メネレウスの妻、奪われてトロイにおもむく。 **トロイ。王プリアムの子。トロイ戰爭のときフィロクテートの矢にたおる。
彼に二度ばかり話しかけた。しかし、ピ’エールは他の事に気をとられていたので、なにを言ってるのやらわからなかった。 「君はいつボルコソスキイ公爵から、手紙を貰ったかってきいてるんだよ。」ヴァシーリイ公爵は三度目にこうくり返した。 「君はおそろしくぼんやりしてるね、え?」 ヴァシーリイ公爵は微笑した。と、ピエールは皆が自分とエレソの方を見て、微笑しているのに気づい七。べええ、あなたがた皆さんご存じなら仕方がありませんさ。』とピエールは考えた。『ええ、仕方かおりませんさ、本当なんですもの。』彼自身ももちまえのつつましやかな、子供らしい微笑を浮かべた。すると、エレンもほほ笑んだ。 「いつ貰ったんだね、君? オルミューツから?」ヴァシーリイ公爵はまるで議論を決するために、ぜひそれを知らねばならぬかのようにくり返した。 『いったいこんなくだらん事を言ったり、考えたりしていにいものかしらん?』とピエールは心に思った。 「ええ、オルミューツからです。」と彼は歎息とともに答えるのであった。 晩餐ののち、ピエールは一同にしたがって、エレソを客間へっれていった。客は散り始めた。なかには、エレソに暇を告げずに帰って行くものもあった。なかには、重大な仕事から手を放さすことを望まないもののように、ちょっとエレンのそばへ立寄って、見送りを断りながらあたふた逃げて行く人もあった。外交官は物思わしげに黙りこみながら客間を出た。彼は自分の外交界における立身出世も、ピエールの幸福にくらべて

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は、空の空なものに思われたのである。老将軍は足の加減はどうかと夫人にきかれた時、腹だたしげにぶっぶつ言った。『なんてまぬけ婆あだろう!』と彼は考えた。『あのエレーナーヴアシーリエヴナなどは、五十になってもやはり美しいこったろうなあ。』 「どうやらお祝い申し上げてもよろしいようでございますね。」とアンナーシェーレルは公甞夫人に言い、強く接吻した。「わたくし頭痛さえしなかったら、もすこしお邪魔いたすのですけれど。」 公爵夫人はなんとも返事しなかった。娘の幸福にたいする嫉妬が彼女を苦しめたのである。 ピエールは人々が客を見送っている間じゅう、長いことエレソとただ二人、小さな客間に対坐していた。彼は、この一月半の間、エレソとさし向かいでいることがしばしばであったが、けっして恋の話などしたことはなかった。が、今はそれをしなければならぬと感じた。とはいえ、彼は最後の一歩をふみ出す決心がつかなかった。なんだか恥ずかしい。こうしてエレソのモばに坐っているのが、まるで他人の席でもしめているような心持がする。『この幸福はお前の受くべきものじゃない。』と内心のある声が言った。『この幸福はお前の持っているなにものかの欠けた人が、受けるにふさわしいものだ。』 けれど、なにか言わなければならぬ。で、彼は話し出した。彼はエレンに向かって 今日の夜会は満足であったかとたずねた。彼女はいつものとおりもちまえの単純な調子で、今日の命名祝は自分にとってもっとも愉快なものの一つだったと答え
た。 いちばん親しい親戚のだれかれはまだ居残っていた。彼らは大きな客間に腰かけていた。ヴァシーリイ公爵は大儀そうな足どりでピエールに近寄った。ピエールは立ちとって、もうおそいですねと言った。ヴァシーリイ公爵は齢つい、質問するような眼つきで彼を眺めた。それはちょうど、彼の言葉があまり奇怪なので、聞き分けることさえできないほどだ、と卜ったようなふうつきであった。しかし、すぐいかつい表情、か消えて、ヴアシーリイ公爵はピエールの手を下へ引っぱりながら席につかせ。優しく微笑して見せた。 「うむ、ど5だね、リョーリャ?」と彼はなれきった鷹揚な調子で娘に声をかけた。この調子は、幼い頃から子供を可愛がっている親たちが、いつとなしにのみこむものであるが、ヴァシーリイ公爵はたんにほかの親たちを模倣して、これを習得したのである。 彼はまたピエールに向かって、 丶丶丶丶 丶丶丶丶丶 丶丶丶丶 「セルゲイークジミッチ、諸方より。」とチョッキの上のボタンを一つはずしながら、言った。 ピエールは微笑したが、このときヴァシーリイ公爵の興味をしめているのは、セルゲイークジミッチの逸話などでないことを、彼もちゃんと了解していた。それは彼の微笑で察しられたし、ヴァシーリイ公爵も、ピエールがこれを了解しているのをさとった。ヴァシーリイ公爵は突然なにやら口の中でぶつぶつ言いながら出ていった。ピエールはヴァシーリイ公爵すらまごついているなと感じた。この年とった社交になれた紳士の当惑
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のさまは、ピエールを感動させた。で、エレソの方をふり返るとI彼女もやはり当惑した様子で、その眼つきは『仕方がありませんわ、あなたご自身がお悪いんですもの。』と言っているように思われた。 『どうあっても一歩ふみ越さねばならぬ、しかし、俺にはできない、できない。』とピエールは考え、またよそ事を話しだした。彼はセルゲイークジミツチの逸話はどんな筋かとたずねた。彼はこの話をろくろく聞いていなかったので。エレンはほほ笑みながら、わたしもやはり知りませんわと答えた。 ヴァシーリイ公爵が客間へ入ったとき、夫人は中年の婦人とピエールの噂をしていた。 「無論、c'est un parti t176s brnlant. lj7¥醗作一心に一司けれどもねえ、あなた、幸福と申すものは……」 「」es mariages se font dans les cieux.鴇頸勁驚j」と中年の婦人は答えた。 ヴァシーリイ公爵は婦人連の話を聞こうともせず、遠くはなれた片隅へひっこんで、長椅子に腰をおろした。彼は眼を閉じてまどろむかのようであった。ふと頭ががくりと落ちて、彼はわれに返った。 「Aline「 alle2 voir ce qu'ns font. tryttM勁捏佶る」と彼は夫人にそう言った。 公欝夫人は戸口に近より、意味ありげな無関心な眼つきをしてそのそばを通りぬけざま、客間の中をうかがった。ピエールとエレンは前のとおり坐って話をしている。 「やっぱり相変らずですよ。」と彼女は良人に向いて答えた。
 ヴァシーリイ公爵は眉をひそめ、口の片方へ皺を寄せた。その頬はかれ特有の不愉快で粗野な表情をおびながらぴくりとひっ吊った。彼は身ぶるいして立ち上り、頭を後ろへそらし、決然たる足どりで婦人だもの啼を通りぬけ、小さい方の客間へおもかした。彼は急ぎ足でうれしげにピエールに近づいた。公欝の顔が異様なくらいものものしげであったので、ピエールはそれを見るとおびえたように立ち上った。 「有難いことだ!」と彼は言った。「家内がわたしにすっかり話してくれました!(彼は一方の手でピエールを、いま一方の手で娘をかきいだいた。)これ、リョーリヤーわしは大変、大変うれしい(彼の声はふるえた)。わたしは君のお父さんを愛していた……リョーリヤは君のために立派な妻となるだろう・:…神様も君たちを祝福して下さるμろう……」 彼は娘を抱きしめ、それからふたたびピエールを抱きよせて、臭い息のする口で彼は接吻した。涙が本当に彼の頬をぬらしたのである。 「アリーナ、こちらへ来なさい!」と彼は叫んだ。 公爵夫人も出て来ておなじく泣き出した。中年の婦人も同様に(ンカチで涙をふいている。ピエールは人々に接吻され、また自分でも幾度か美しいエレンの手に接吻した。しばらくたって、また二人はさし向かいでとり残された。 『これはみんな当然こうあるべきで、他に仕方がなかったのだ。』とピエールは考えた。『だからいい事か悪い事か、そんなことを詮索する必要はすこしもない。また実際いいのだ。なぜって、今はもうすべてが決定して、以前のような疑惑がなくな

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つたんだもの。』ピエールは無言のまま許嫁の手をとって、高くなり低くなる美しい胸を眺めていた。 「エレンー」と彼は声を立てて言い、ちょっと言葉を切った。 『こういう場合、なにか特別な事を言うのだったっけがなあ。』と彼は考えた。しかし、こういう場合、はたしてどんな事を言うのやら、いっこうに思い出せなかった。彼は女の顔を眺めた。と、彼女はなおも近くピエールの方へすり寄った。彼女の顔はぱっと赤くたった。 「ああ、はずして下さい。これを……何ていいましたっけ……これを……」と彼女は眼鏡を指さした。       、 ピエールは眼鏡をはずした。すると彼の眼は、一般に眼鏡をはずした人に特有の奇妙な表情のほか、おびえたような霞釟そうな色をおびてきた。彼はかがみ込んでエレソの手に接吻しようとした。が、彼女はす早く粗野な身ぶりで首を動かしながら、男の唇を捕えて自分の唇に合わすのであった。彼女の顔は急に変った。不愉快な気の遠くなったような表情が、ピエールを驚かした。 『いまとなってはもうおそい、万事おわったのだ。それに俺はこの女を愛している。』とピエールは思った。 「Jevous aime ! j4訌録嚶」このような場合にいうべき事を思い出して、彼はこう言った。けれど、これらの言葉は、自分ながら恥ずかしくなるほど、貧弱な響を発した。  一月半たって彼は結婚し。世間の口をかりていえば、美しい妻と数百万の財産の所有者として、ペテルブルグで新たに修繕されたベズーホフ伯爵の宏大な邸宅へ移り住んだのである。
      Ξ 老公認二万フイーボルコソスキイは千八百五年十一月、ヴァシーリイ公爵から子息同道の来訪を報ずる手紙を受け取った。 (『尊き恩人よ、老生は目下検閲のため巡回中に御座候。中すまでもなく尊公を訪うべく一百露里の道は。老生に取りて決して迂路には無之候。』と彼は書いた。『而して豚児アナトーリも老生を見送り旁弋帰隊の途に有之候。希くは彼が平素父を倣いて尊公に懐抱せる深甚なる敬意を、親しく披瀝するを許されん事を。』) 「ほら、この通り。わざわざマリイさんを引っぱり出すことはございませんわ。お婿さんが向うからこっちへやってくるんですもの。」この話を聞きつけた小柄な公爵夫人が、不用意に囗をすべらした。二コライ公爵は眉をひそめてなにも言わなかった。 この手紙を受け取ってから二週間たったある夕方、ヴァシーリイ公爵の供人が先に到着し、次の日に当の公爵親子がやって来た。 ボルコンスキイ老公爵は、つねにヴァシーリイ公爵の人格を、高く評価していなかった。ことに最近、パーヴェル、アレクサンドル両帝の新しい治世になって、ヴァシーリイ公爵の官位も名声もいちじるしく高まって以来、ことさらそれが酷くなってきた。ところで、今度この手紙と小柄な公認夫人の暗示によって、事の真相を理解したとき、ヴァシーリイ公爵に関する高からぬ評価が、老公爵の心の中で意地わるい軽蔑の念に変っ
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たのである。彼はいつもこの人の話が出ると、鼻を鳴らしていた。ヴァシーリイ公爵の到着すべき当日、老公爵はわけても不満足で不機嫌であった。ヴァシーリイ公爵がくるために不機嫌であったのか、それとも不機嫌であったから、ことにヴァシーリイ公爵の到着を不満に感じたのか、ともあれ彼は不機嫌であった。で、チーホソはまだ朝の中から技師に向かって、公欝のもとへ報告に行くのをやめるように忠告した。 「あの歩き方を聞いてごらんなさい。」公爵の足音に技師の注意をうながしながら、チーホソは言った。「踵をすっかりつけて歩いていらっしゃいます……私なんかもうわかっていますよ。」 けれど、いつもの如く八時を過ぎたころ、公爵は黒貂の襟のつしたビロードの外套に、おなじ黒貂の帽子をつけて散歩に出た。前夜、雪が降ったので、二コライ公爵が温室の方へ歩いて行く径は、すっかり掃き清められ箒目が雪に残っていた。径の両側につづく柔らかい雪の盛り上げには、ショベルが一本さしこんであった。公欝は温室、下男部屋、普請中の建物などを、眉をひそめたまま無言に見て廻った。 「櫓がきくかな?」彼は家まで見送ってきた品のいい支配人にこうきいた。この男は顔から身ぶりまでよく主人に似ているのであった。 「雪は深うございます、御前。わたくしは本道の方も掃いておくように、中しつけましてござります。」 公爵は頭をかしげて入口の石段に近づいた。『ああ、有難い。』と支配人は考えた。『雷様が通りすぎたわい。』
 「橋で行くには骨が折れましてございます。」と支配人は言いたした。「承りますると、御前、大臣様が公邸へお見えになるそうでござりますな?」 公爵は支配人の方をふり返り、眼をしかめながらじっと彼を見すえた。 「なんだ? 大臣さまだ? どんな大臣だ? 誰がそんな事を言いつけた?」彼は持ち前の突き刺すようなかたい声でこう言った。「公爵令嬢のIわしの娘のためではなく、大臣のために掃除したんだな! わしには大臣なんかないんだぞ!」 「御前、わたくしの考えましたのは……」 「貴様の考えだって、」次第にせきこんで乱れがちな発音をしながら、公爵は叫んだ。「貴様の考えだって1………泥棒’………悪党1………わしが貴様に物の考え方を教えてやる!」こう言って杖をふり上げると、彼は支配人のアルパーテイッチめがけて打ちおろした。もし支配人が思わず身をかわさなかったら、彼はしたたか打ちすえられる所であった。「考えだって……亜ご党!」と彼は口疾に叫んだ。 しかし、アルパーテイッチが、主人の笞から身をかわすなどという自分の大胆に驚いて、すなおに禿頭を垂れながら公爵に近づいたにもかかわらず(或いはかえってこれがためかも知れぬ)、公爵は「悪党1………道に雪を撒き散らしておけ1………」と叫びつづけながら、ふたたび杖をふり上げようともせず、家の中へ馳せこんだ。 食事の前に、公爵の不機嫌を知っていた令嬢とブリエンヌとは、老公が出るのを待ちもうけながら立っていた。ブリエンヌ

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は、『わたしはなんにも存じません、わたしはいつもの通りです。』といったような晴ればれしい顔をしていたが、マリヤはおびえたように蒼い顔をして眼を伏せていた。マリヤとしてなにより苦しいのは、こうした場合、当然、ブリエンヌのように振舞うべきであるにもかかわらず、自分にはそれができないという意識であった。彼女はこんな気がした。『もしわたしがなんの気もつかぬようなふりをしていたら、お父さんはわたしに同情がないとお思いになるだろうし、またわたしが自分で悲しそうな不機嫌らしい様子をしたら、よく今まであったように、お前はまたべそをかいてるとおっしゃるに相違ない。』 公爵は娘のおびえたような顔を見て鼻を鳴らし。 「おま……いや、お馬鹿さん。」と言った。 『それにあいつがいない! もうくだらん事を吹きこまれたんだな。』食堂に姿の見えない小柄な公爵夫人のことを、彼はそう考えた。 「奥さんはどこにいる?」と彼はたずねた。「かくれておるのか?」 「奥様はどうも加減がおすぐれにたりませんので、」楽しげにほほ笑みつつブリエンヌが言った。「食事においでになりません。それもお体がお体ですから、ご無理もございません。」 「フムー フムー タブー タブー」といって公認は食卓についた。           j 皿は清潔でないように思われた。彼はしみを指さして、皿をほうり出した。チーホソはそれを受けとめ食堂番に渡した。公罫夫人は加減が悪いのではなかった。彼女は極度に公欝を恐れ
ていたので、彼が不機嫌だと聞くと、今日は食事に出まいと決心したのである。 「わたし赤ちゃんのために心配するんですの。」と彼女はブリエンヌに言った。「あまりびっくりしたら、どんな事になるかわかりませんもの。」 全体として、小柄な公爵夫人はつねに老公欝にたいする恐怖と、自ら意識せざる嫌悪(なぜなら、恐怖の方が勝をしめているために、彼女はこの嫌悪を感じなかったのである)の感情に支配されながら、禿 山に暮らしていた。公爵の側から言っても、同様、賺亜-の念があったのだが、それは侮蔑のために消されていた。公爵夫人はこの禿 山に住まっているうちに、かくべつブリエンヌを愛するようになって、たいてい彼女とともに日を過ごし、夜もIしょに寝てもらい、よく二人で諺の噂をして、かれこれと批評するのであった。 「11 nous arrive du monde「 mon prince. 5y45tth%4;」とブリエンヌは薔薇色した手で、白いナプキンをひろげながら言った。「クラーギン公爵閣下にご子息だとか承っていましたが?」と伺うように彼女はつけたした。 「ふん、あの小僧っ子閣下か……わしはあにいつを大学に入れてやったよ。」と侮辱を感じたように公爵は言った。「ところで、息子の方はなんのためにくるんだか、わけがわからん。リザヴェーターカールロヴナ公爵夫人心Iや、マリヤ公営令嬢なんかはご存じかもしれんがな、わしはなぜあの男が息子をここへっれてくるのか、とんとわけがわからんて。わしには用がない (彼はこう言って、真赧になった娘の顔をじろりと見た)。体
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の工合でも悪いのか、うむ? それとも、今朝アルパーテイッチの馬鹿が言った『大臣様』のおいでがこわいのか?」 「いいえ、お父様。」 ブリエンヌが機転をきかして持ち出した話題は、ずいぶんまずいものであったけれども、それでも彼女は閉口しないで温室のことだの、新たに咲きはじめた花の美しさなどをしゃべりつづけたので、公欝の機嫌はスープが終ったころすこし柔らいできた。 食後、彼は靉の部屋へいった。小柄な公認夫人は小さなテーブルに向かって、小間使のマーシャとおしゃべりしていたが、勇を見ると真蒼になった。 小柄な公欝夫人はすっかり変ってしまった。いま彼女は美しいというより、むしろ醜いくらいであった。両頬はこけて唇は上へそり返り、眼は下の方へたるんでいた。 「ええ、どうも苦しくって。」加減はどうかという老公欝の問に、彼女はこう答えた。 「なにか要るものはないか?」 「いいえ、有難う、お父様。」 「いや、よし、よし。」 彼はそこを出て侍僕部屋へいった。アルパーテイッチは首をたれて部屋の中に立っていた。「道は雪をまいておいたか?」「まいておいてございます、御前。お許しくださいませ、お願いでございます……ただおろか者の癖として……」 公認は彼をさえぎり、れいの不自然な声で笑いだした。
 「いや、よし、よし。」 と彼は手をさしのべて、アルパーテイッチに接吻させると、自分の書斎へ入ってしまった。 夕方、ヴァシーリイ公甞が到着した。馭者や侍僕らがプレシこヘクト(大 通のことをこう言うので)へ迎えに出て、わざと雪をまきちらした道の上を、がやがやとわめきながら、荷車や橇を離れの方へ運んで行った。・ ヴァシーリイ公甞とアナトーリには特別な部屋が設けられてあった。 アナトーリはチョッキを脱いで、両手を脇へ支えながらテーブルの前に座をしめ、微笑を含みつつ、美しい大きな眼をテーブルの一角にじっと意味もなくそそいでいた。彼は人生ぜんたいをたえまなき娯楽と見ていた。なんのためか分からないけれど、誰か一定の人が彼のために、ぜひその娯楽を提供せねばならぬ義務を有しているのであった。意地わるい老人と、富裕な醜い相続者を訪問する今度の旅行をも、彼はそれと同じように見ていた。彼の想像によると、これもなかなか結構で、愉快な事かもしれないのであった。 『その娘が非常な金持ちだとすれば、結婚してならんという法はない。そんな事はけっしてなんの邪魔にもなりやしない。』とアナトーリは考えた。 彼は癖になっためかしやらしい細心な注意をもって、。顔を剃って香水をつけ、生まれっきの人のいい勝利者めいた表情を浮かべながら、美しい首を高くそらして父の部屋へ入った。ヴァシーリイ公甞のそばには二人の侍僕が、主人の着がえに忙しく

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立ち働いていた。公欝は元気よく自分のまわりを見廻していたが、入ってくるわが于の姿を見て、『そうだ、そういうふうにしていて貰いたいのだ。』と言ったように楽しげにうなずいて見せた。 「ねえ、お父さん、冗談はぬきにして、本当に見っともない女ですか? え?」旅行ちゅう、一度や二度でなく試みた会話のつづきといったような工合に、彼はこうたずねかけた。 「沢山だよ。馬鹿な事を! たによりも第一に、老公爵にたいしてなるべくうやうやしく、分別ありげにしなくちゃならんぞ。」 「もし乱暴なことを言ったら帰りますよ。」とアナトーリは言った。「僕ああいう老人は大賺いなんだから。え?」 「いいかね、お前の一生の運はこれひとつで決まるんだぞ。」 このとき女中部屋では、たんに大臣父子の到着が知れていたばかりでなく、両人の外貌まですっかり細かに語られていた。マリヤはただひとり自分の部屋に坐って、心内の動揺をおししずめようとむなしく努力していた。 『なんだってあの人たちはあんな手紙をよこしたんだろう、なんだってリ廴ザがわたしにあんな事を言ったんだろう? だってそんな事があろうはずはなし!』鏡をのぞきながら彼女は独りごちた。『どんなにしてわたしは客間へ出て行こり? もしその人がわたしの気に入ったとしたら、わたしはその前で、いつもの自分のようにしていられないかもしれない。』彼女は父の眼つきを考えただけで、思わずぞっとしたのである。 小柄な公爵夫人とブリエンヌは小間使のマーシャから、大臣
の子息が眉の黒い紅顔の美男子であることや、父がやっと足を引きずりながら階段を登って行くのに、息子の方はまるで鷲のように三段ずっも飛び越えて、父の後から駈け上ったという事など、あらゆる必要な情報を手に入れた。で、小柄な公欝夫人はブリエンヌとともに、マリヤの所まで聞えるほど賑やかな声で廊下を話し合いながら、公爵令嬢の部屋へ入った。 「118 8011t 31rlr148「 Marie.lytjW;y4あなた知っていらっしやる冫・」大きな腹をゆするようにしながら、重々しくひじ椅子に腰をおろして、小柄な公爵夫人は話しかけた。 彼女はもう毎朝きる寛衣でなく、晴着の一つを身につけていた。頭は念入りに結い上げられ、顔には活気があふれていた。が、それでも、やつれて生気を失った顔の輪郭を、隠しおおすことはできなかった。いつも。ペテルブルグの社交界で着ていた着物をつけて見ると、彼女の恐ろしく醜くなったことがひときわ目立ってくる。ブリエンヌも目立たぬように念入りの身じまいをしていたが、それが彼女の可愛い生きいきした顔に、ひとしお人を引きよせる力を添えたのである。 11j;h bien「 etvous restez conlrne vous6tes「ch6re prin‐cesse.;;慥贇い芯簾錙鴛」と彼女に言い出した・「呪勺お客様がお出ましになったと言ってまいるころですのに。階下へお降りにならなくちゃなりませんから、ほんのちょっとでも身じまいをなすったら宜しゅうございましょう。」 小柄な公爵夫人はひじ椅子から立ち上り、ペルを鳴らして小間使を呼んだ。そして、忙しげな、しかも楽しそうな面もちで、マリヤのために衣裳を工夫し、それを実行にとりかかっ
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た。マリヤは約束された花婿の候補者の到着が、自分をかくまで動揺させたかと考えると、己れの品位を侮辱されたような気がした。しかし、それよりさらに彼女を侮辱したのは、この二人の友が頭からそれをあたりまえと決めている事であった。自分自身にたいしても、また彼らふたりにたいしても、きまりが悪いなどというのは、とりもなおさず、自分で自分の興奮を白状するようなものである。それに二人の薦める化粧を拒絶すれば、からかわれたり、しつこく勧められたりする時間を、いたずらに長くひき延ばすばかりである。彼女はかっと赤くなった。ふだんの美しい眼の光は消えて、その顔は一面に赤いしみにおおわれっくした。そして、彼女の顏にもっともしばしば現われる、醜い犠牲の表情を浮かべつつ、ブリエンヌとりIザの自由にまかせた。二人の女は彼女を美しくしようと、全く心底から心配していた。令嬢はじっさい醜い顔をしていたので、二人とも彼女と競争しようなどという心は、夢にも起さなかった。で。化粧はつねに顔を美しくするという、婦人固有の無邪気な堅い信念をもって、真心こめて彼女の着がえにとりかかった。 「いいえヽ駄目よ、ma bonne amies jy友 この着物はいけません。」とりIザは遠くからマリヤをはすに眺めながら言った。 「そう言って出させてちょうだい、あなたえび茶の服を持っているでしょう。本当にねえ、もしかしたら、これで一生の運が決まるかも知れないんですからね。これはあまり薄色すぎますわ、駄目、まったく駄目よ!」 駄目なのは着物でなく、マリヤの顔とすがたぜんたいであっ
た。けれど、公言夫人もブリエンヌもそれと気づかなかった。髪を上の方へ號き上げて、空色のリボンをつけ、えび茶の着物に空色のショールをたらしなどしたら、すっかりよくなるようにおもわれたのである。おびえたような顔や姿を変えるわけにいかないということを、彼らは忘れていた。それだから、二人がどんなにこの顔の枠や装飾を変えても、顔そのものはやはりどこまでも哀れっぽく醜いままであった。マリヤがおとなしく言うとおりになっていたので、二人は二度も三度も作りを変えて見た。ようやく公言令嬢は髪を上へ掻きあげ(この結び方は、まったく彼女の顔を見違えさせ、醜くしたのである)、空色のショールにえび茶色のはでな服をつけ終った。そのとき小柄な公爵夫人は二度ばかりマリヤのまわりを廻って、小さな千でちょしと着物の暫を正して見たり、ショールをひっぱって見たり、小首をかしげて右左から代るがわる眺めていたが。 「いえ、これじゃいけません。」と両手を叩きながらきっぱりと言った。「jN on「 IVlarie「 d&cid6ment ga ne vous va pas.瑟昌な耕己石竹わたしあの鼠色のふだル着をきtいらっしゃる時の方が好きですわ。ね、どうぞわたしのためだと思って、そうして頂戴。カーチャ。」彼女は小間使に向かって言った。「お嬢さまの鼠色の着物を持っておいで。ね、見てらっしゃい。ブリエンヌさん、わたしが巧くやってお目にかけますから。」と彼女は芸術家らしい悦びを、もう今から味わうような微笑を浮かべながらそう言った。      ’ カーチャが言いつけられた着物を持ってきたとき、マリヤは自分の顔を見つめながら、鏡の前に身動きもせずに坐ってい

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た。と、眼の中に涙がたまって、口はいまにもおっと泣き出しそうにふるえているのを鏡の中に見つけたのである。 {ぺoMo口・゛o}y宵o`)『Fg沼Q゛0“no吋QロロりQ{’″e`’oユ’`一丶いJ‘一’齟錙佰}とブリテンスが言う・ 小柄な公甞夫人は小間使の手から着物をとって、マリヤのそばへ近づいた。 「さあ、今度はわたしさっぱりと可愛くして見せますわ。」と彼女か言った。’なにやら笑いながら話している夫人と、ブリエンヌと、カーチヤの声が、まるで小鳥の唄かなんぞのように、一つの楽しげな囁きに溶け合って聞えだ。 [Nonjaissez.moi.?jy勁昌膤]とて その声は、かの小鳥の唄を一時にぱたりと止めてしまったほど、真剣な苦悩の響をおびていた。二人は、涙と思慮にみちた、祈るような明るい表情をもって自分たちを眺めている、大きな美しい双眼を見つめた。そして、この上すすめるのは無益でもあり、慘酩でもあるとさとった。 「それにしても、せめて頭だけでもお変えなさいな。」と小柄な公爵夫人は言った。「だからわたしそう言ったんですわ。」彼女はとがめるような調子でブリエンヌに言った。「マリーさんの顔はこういうふうの結い方が、まるで似合わない質なんです。駄目です、駄目です。後生ですからなおして頂戴。」 「うっちゃっといて下さい、うっちゃっといて下さい、わたしどうだってかまいませんから。」やっとの思いで淤をこらえているような声が答えた。
 ブリエンヌも小柄な公言夫人も、こんな恰好しているマリヤの姿が非常に醜く、かえってふだんより悪いくらいなのを、肚の中で認めないわけにいかなかった。が、もう遅かった。二人の女がよく知っている表情―思慮と憂憖にみちた表情で、マリヤは相手の顔を見つめていた。この表情は二人の女にマリヤヘの不安の念をいだかせなかった(彼女はけっしてこういう感情を他人にいだかせなかったのである)。しかし、この表情が彼女の顔に浮かんだとき、彼女はつねに黙りがちで、その決心を動かすことができないのを、二人はよく心得ていた。 「vous changerez n'est‐ce pas 7 ?12j」llyjjr」とりIザが言った。けれど、マリヤがなんとも答えないのを見て、リーザは部屋を出て行った。 マリヤは一人になった。彼女はりIザの希望を果たさなかった。そして、頭をなおさなかったばかりか、鏡をのぞいて見ようともしなかった。彼女は力なげに眼を伏せ手を垂れて、言葉もなく坐ったまま思いに沈んでいた。彼女の想像に良人の姿が浮かんできた。それは突然、自分を特殊なまったく違った幸福な世界に移してくれ、すべてを征服する、なぜともしれぬ魅力を持った強い存在である。それから、つい昨日、乳母の娘のところで見たと同じような、自分の赤ん坊が彼女自身の胸の上に想像された。良人はそばに立って、優しく彼女と赤ん坊を眺めている。『だけど駄目だ、それは及ばないことだ。わたしはあまり醜すぎる。』と彼女は考えた。 「お茶を召し上りにいらっしやいませ。御前さまもすぐお出ましでございます。」扉のかげから小間使の声が聞えだ。

駅爭と平和
 彼女はわれに返り、自分で自分の考えにぞっとした。で、下へ降りる前に、彼女は立ち上って聖像の間へ入った。燈明の光に照されている救世主の大きなみ像の、どすぐろい顔にじっと目をそそぎ、幾分かのあいだ両手を組んだまま、じっとその前に立ちつくした。マリヤの胸には苦しい疑惑があった。はたして自分には愛の悦び、男性にたいする地上の愛の悦びが可能であろうか?結婚のことをさまざまに思いめぐらしたマリヤは、家庭の幸福と子供ということも空想した。が、彼女の一番おもな、もっとも力づよい秘密の空想は、地上の愛であった。この感情は彼女が他人に、否、自分にかくそうとつとめればつとめるほどますます強くなっていった。 『神様!』と彼女は言った。『わたしの心の中にあるこの悪魔のような考えを、どうして征服したらよろしいのでしょう?穏かにあなたのみ心にしたがって、このよくない望みを永久に断念するには、どうしたらよいのでございましょう?』 彼女がこの間を発するか発しないかに、早くも神は彼女自身の胸の中で答を与えた。『おのれのために何物をも望むな。求めるな。心を動かすな。羨むな。人間の未来もお前の運命も、お前にとって未知であらねばならぬ。とはいえ、いっさいにたいする覚悟と用意とをもって生きよ。もし結婚生活の義務をもって、神がお前を試みようと欲したなら、お前は神のみ心を果たすだけの用意をしておればよいのだ。』 こういういくぶん慰藉をふくんだ想念を抱き(彼女はそれでもやはり自分に禁ぜられた地上の愛が与えられるかも知れぬと一縷の希望をつないでいるのであった)、マリヤは吐息をつきながら十字を切って、
もう自分の頭のことも、着物のことも、またどんなふうに客間へ入ってなにを言ったらよかろうなどということもいっさい考えずに、階下の方へおりていった。これらすべてのことは神の定めにくらべてどれほどの意味をもち得ようぞ。神の意によらずしては、髪の毛一筋すら人の頭より落ちることがないではないか!      四 マリヤが客間へ入ったとき、ヴァシーリイ公爵親子はもうそこに坐って、小柄な公言夫人とブリエンヌと話していた。彼女がれいの重苦しい足どりで、腫をすっかりつけながら入ったとき、客とブリエンヌは立ちあがった。小柄な公言夫人は客に彼女を指さして見せながら、「Vo11&Marie ! G昌ジ障」と言った。マリヤは一同の者を見た、しかもこまかく見た。彼女の粢を見るやいなや、まじめな凍った表情を浮かべたか、すぐその瞬間ほほ笑みかけたヴア『シーリイ公爵の顔を見、また義妹が客に与える印象を読もうと好奇心に輝く小柄な公言夫人の顔をも見た。ブリエンヌのリボンと美しい顔と、今までになく生きいきとしてかの大を注視している眼ざしを見た。しかし、マリヤはかの大を見ることができなかった。ただ部屋へ入った時、なにかしら大きなまばゆいようなものが、自分の方へ近よったのを見たばかりである。彼女の方へまずヴァシーリイ公爵が近よった。で、彼女は自分の手の上にかがみ込む禿頭に接吻して、 『いいえ、それどころではございません、あなたの事はよく記憶しております。』と相手の言葉に答えた。その後でアナトー

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リが近よった。彼女はそれでもまだはっきり彼を見ることが出来なかった。ただ自分の手を囚く握った華奢な千の接触を感じつつ、美しく撫でつけられた見事な亜麻いろの毛の下に輝く白い額に、おずおずと唇をふれた。彼女が始めて男に一瞥を投げたとき、その美しさは彼女を眩惑した。アナトーりはきちんとかけた軍服のボタンに右手の拇指をあて、胸を前に背を後にそらせ、一歩すさらせた片足を軽く動かし、心もち首を傾けながら、彼女のことなどはぜんぜん念頭に置いてないようなふうっきで、無言のまま愉快げにマリヤを眺めていた。 アナトーリは頓才もなければ敏活でもなく、また話をさせても雄弁ではなかったか、その代りにいつも落着きはらって、何物にも自己の確信を曲げられないという、社交上尊重すべき能力があった。もし初対面のとき自信のない人が黙りこんで、しかもこの沈黙のばつの悪さを感じ、何か話題を発見しようとあせるようなふうを見せたら、それはなお工合の悪いものであるが、アナトーりはそれと正反対に、片方の足をぶらぶらさせて、愉快げにマリヤの髪を見廻しながら、口をつぐんでいるのであった。見たところ、彼はこうしていつまででも黙りつづけていることができるらしい。『もし淮でもこうして黙ってるのが、きまり悪いと思う人は、どうぞ遠慮なくお話し下さい。ただし私はいやですよ。』とでもいうようなふうつきであった。その他、彼が彼女に対する態度の中には、何よりも有効に女の好奇心と恐怖と愛情さえそそるようなところがあった1それは相手を侮蔑したような自己優越の自覚を示すぞぶりであった。彼の様子は、『私はあなた方を承知しています。よく承知
しています。しかし、あなた方を相手に騒いだところで何になりましJう? もっとも、あなた方はさぞご満足でしょうがね?』とでも言いたげであった。実際、彼は女に会ったとき、こんな事を考えなかったかもしれぬ(いや考えなかったのか本当らしい、なぜなら彼は全体に、あまり物ごとを考えない男であったから)。けれど、彼の態度や挙動がこんなふうたのであった。マリヤはそれを感じたので、わたしなぞにあなたのお相手ができようとは思いもよりません、という心を示そうとするかのように、すぐ父公爵に向かって話しかけた。 小柄な公認夫人の薄いひげのある、白い歯の上にもちあがる唇と、優しい声のお蔭で、会話は一座に行き渡って活気を呈してきた。彼女は饒舌で快活な人々の常用手段たる軽い冗談の調子で、ヴァシーリイ公爵を迎えた。それは自分と話相手の間に、なにかしらとっくに決められている洒落と、ほかの人にはよく知れていない面白い追憶をかりに設けるので、そういうものが実際になくともさし支えないのである。だからヴァシーリイ公欝と小柄な公爵夫人の間にも、そんなものはいささかもなかったにもかかわらず、ヴァシーリイ公欝は快くこの調子に勵槌を打った。小柄な公爵夫人は事実ありもしない滑稽な事件の追憶の中に、今までろくろく顔も知らなかったアナトーリまで巻きこむのであった。ブリエンヌも同じくこの一座に共通な追憶の仲間入りをした。マリヤすらこの愉快な追憶の中へ引きこまれるのに気づいて満足を覚えたのである。 「けれども、今度こそは、わたしたちうんとあなたを利川さして戴さますよ、公爵。」と小柄な公爵夫人はヴァシーリイ公欝に
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戰爭

 (無論、フランス語で)言った。[ここはアソネットー]訌≒の夜会と違いますから、けっしてあなたをお逃がせしたりしませんよ。あの親愛なるアソネット、覚えていらっしやいます?」 「いや、ですが、あなたはアソネットのように、わたしに政治談をしかけないで下さいよ!」 「そして、わたしたちの茶 卓はいかがでございました?」 「ああ、さよう、さよう!」 「どうしてあなたは、一度もアソネットの所へおいでになりませんでしたの?」小柄な公欝夫人はアナトーりにたずねた。 「いえ、存じています、存じています。」彼女はちょっと瞬きして見せながらそう言った。「兄さんのイッポリートさんが、あなたのなすった事をすっかり話してくださいましたっけ。まあ本当に!」彼女は指を立てて脅すまねをした。「わたし、あなたのパリ時代の悪戯までみんな知っていますわ。」 「ところで、あれが、イッポリートがお前に話さなかったかね?」まるで小柄な公爵夫人が逃げ出そうとする所を、やっとのことでひき止めたかのように、やにわに夫人の手をつかみながら、ヴァシーリイ公爵は息子に向かってこう言った。「あれがお前に話さなかったかな? あれは、イッポリートは可愛い公爵夫人のことを、身もやせるほど思いつづけたんだよ。ところが、公爵夫人はle mettait a le porte.擂昌鞣訌梵覽」 「ねえ! 全くこの方はご婦人中の真珠ですね、マリヤさん!」と彼は公爵令嬢に話しかけた。 またブリエンヌはブリエンヌで、パリという言葉の出たときに、おなじくこの追憶談に口を入れる機会をのがさなかった。
 彼女は大胆にも、アナトーリがパリから帰ってきたのはだいぶ前のことか、この都は彼の気に入ったかどうかとたずねた。アナトーリは悦んでこのフランス女の問に答え、微笑をふくんで彼女を見つめながらその母国のことを話し合った。アナトーリは可愛いブリエンヌを見ると、この禿 山もたいして退屈ではないぞと肚の中で決めた。『いや、なかなか奇麗だ’・』彼女を見廻しながら彼は心に思った。『このdemoiselle de com‐pagnie n t!なかなか別嬪だ。マリヤが俺のとこへ嫁にくるとき、この女もいっしょにつれてきて貰いたいものだて。』と彼は考えた。『奇麗で愛嬌があるよ。』 老公欝は眉をひそめて自分のなすべき事を考えながら、書斎でゆっくり着がえをしていた。今度の来客は彼を立腹させたのである。『ヴァシーリイ公爵親子など俺にとって何する者だIヴァシーリイ公爵は空っぽな威張屋だから、まあ息子も結構なやつに相違あるまいよ。』と彼は心の中でぶつぶつ言っていた。彼の刪にさわったのは他でもない、今までいつも自分でいろいろ思案しても、容易に決心がっかなくて、いつももみっぶすようにしていた問題が、今度の来客で呼びさまされたからである。その問題というのは、自分はいつマリヤと別れて、良人たる人の手に渡したものかという事である。公爵は、自分がこの問題について公平な解答をするものと。はじめから承知していたので、けっして真正面からこの問題を呼び起そうとしなかった。なぜなら『公平』は彼の感情、というよりむしろ生活の可能に撞着するからである。彼は、一見、マリヤをあまり大切にしていないようでありながら、マリヤを引きぬいた生活は、二

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己フイ公爵にとって想像すらできないものであった。『あれが鱇入なんかしてどうするか?』と彼は考えた。『不幸な目を見に行くようなものだ。現にアンドレイの筺のりIザだってそうだ(良人としてあれくらいの男は、今どき容易に見つかりそうもないけれど)、はたしてあれは自分の運命に満足しておるかしらんて? それに淮がマリヤのような女を愛や恋で望むものか?縹緻がわるい、無骨だ! もし望みてがあれば。   さと               オールドS丶゛&それは実家のためだ、財産のためだ、一生老 嬢で終るものがないわけじゃないからなあ。その方がまだ仕合わせなくらいだ!』と二コライ公爵は着がえしながら考えた。が、それと同時に、いつも延ばしのばししていた問題は、猶予なく解決を要求するのであった。ヴァシーリイ公爵が息子をつれてきたのは、明らかに結婚を中しこむためだ。そして、おそらく、今日にも決答を要求するだろう。家名も、社会上の地位も相当である。『どうなるものか、わしもしいて反対しやせん。』と公欝は独りごちた。『ただ当人にあれの良人たる値価があればいいのだ。こいつをひとつ見てみよう。』 「こいつをひとつ見てみょう!」と彼は声に出して言った。 「こいつをひとつ見てみよう。」 に こう思って彼はいつもの如く、元気のいい足どりで客間へ入り、一同にちらと一瞥を与えた。そして、小柄な公爵夫人の着物の変化も、ブリエンヌのリボンも、マリヤの醜い髪も、ブリエンヌとアナトーリの微笑も、一座の談話から除けものにされたマリヤのひとりぼっちの状態も、すべて立所に見てとった。 『まるで阿呆みたいにめかしこんでるわい!』と毒々しく娘を
見やりつつ彼は考えた。『恥知らずめ! ところがあの男は、マリヤなんかには洟も引っかけたくないような恰好をしてる’・』 彼はヴァシーリイ公爵に近よっだ。 「や、ご機嫌よう、ご機嫌よう、お目にかかって非常に嬉しい。」 「親しい友のためならば七里の迂りも苦にならぬIと中しましてな。」いつもの如く早口に、自信ありげななれなれしい調子で、ヴァシーリイ公爵はこう言った。「これはわたくしの次男です、どうか可愛がって目をかけてやって下さい。」 二コライ公爵はアナトーリをふり向いて見た。 「立派な男だ、立派な男だ!」と彼は言った。「さあ、ひとつ接吻して貰おう。」と彼はアナトーリに蜩をさし出した。 アナトーリは老人を接吻した。そして、かねがね父から聞かされている彼の奇癖が、もう今に出てくるかと待ちもうけながら、もの珍しげにしかもくそ落ち着いて眺めていた。 二コライ公爵はいつもきまりの長椅子の隅に腰をおろし、ヴアシーリイ公爵のために肘椅子を自分のそば近く引き寄せ、モれを指さして薦めながら、政界の新しいでき事などを質問し始めた。彼はヴァシーリイ公爵の言葉を、注意ぶかく傾聴しているようなふりをしながら、たえずマリヤの方に目をくばっていた。 「それじゃ、もうポーツダムからそんな手紙がくるのかね?」ヴァシーリイ公爵の最後の一句を鸚鵡がえしにくり返したが、ふいと立って娘に近づいた。 「それはおまえお客さまのために、そんなにめかしこんだのか
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 な?」と彼は言った。「美しにい、たいそう美しい。おまえはお 客様のまえで、新しい髪の結い方を見せてくれたが、わしはま たお客様の前で言い聞かしてやる。今後わしの許可を受けずに 着がえする事はならんぞ。」 「それは、お父様、わたしが悪いのでございます。」顔を赧く しながら、小柄な公欝夫人が割って入った。 「あなたはまあなんとでもご勝手にあそばせ。」と二コライ公 爵は嫁の前で足冷すりながら言った。「ただこの子を片輪のよ。うにすることは奏りませんぞIそうでなくてもいい加減みっ ともない女だからな。」  もう涙さえさしぐんでいる娘の方には目もくれず、彼はふだ たび席についた。 「いや、それどころではありません、その頭はたいへんご令嬢 に似合いますよ。」とヴァシーリイ公爵は囗を入れた。 「さ、君、若公爵、名前をなんと言ったっけな。」 二コライ公 爵はアナトーリに向かってこう言った。「こっちへきなさい、 なにか話そうじやないか、ひとつ近づきにたりましょう。」 『さあ、そろそろお慰みか始まってきたぞ。』とアナトーリは 考え、微笑を含みながら老公爵のそばちかく腰を下ろした。 「ときに、君は外国で教育を受けたとかいう話だね。わしや君 のお父さんの時代のように、坊さんから読み書きを教わったの とは雲泥の相違だ。どうだね、君はいま近衛騎兵に勁めていな さるのかな?」老公爵はちかぢか顔を寄せて、じっとアナトー りを見つめながらたずねた。 「いえ、僕は普通師団に移りました。」やっと笑いをこらえて
アナトーリは答えた。 「ははあ! 結構なことだ。ところで、君、君はどうして皇帝と国家に仕えようと思っておられるかね? いま国務多端の時だ、君のような立派な若者は、ぜひ軍務に服さなけりやならんて。どうだ、正面の勤務をしているのかね?」 「いいえ、公爵、連隊はもう出征したのですが、僕は……お父さん、僕はなにに任命されたんでしたっけ?」とアナトーリは笑いながら父に問いかけた。 「いや、見事な勤めぶりだ、じつに見事だ。僕はなにに任命されたんでしたっけ、か! ははは!」と二コライ公爵は笑い出した。 すると、アナトーリも一倍高い声で笑い出した。ふいに二コライ公爵は顔をしかめて、 「もう行ってよろしい。」と言った。アナトーリは微笑を浮かべつつ、また婦人たちの方へ帰っていった。 「君は子供たちをあっちでI外国で教育したんだね、ヴァシーリイ公爵? え?」と老公爵はヴァシーリイ公爵の方へふり向いた。 「私はできるだけの事をしたのです。遠慮なく中しますと、あちらの教育はロシアよりずっと進んでいますからね。」 「さよう、いまはすっかり変って新風になってしまった。いや、可愛い立派な男だ! ときに、わしの部屋へ行こうじやないか。」 彼はヴァシーリイ公認の手をとって書斎へ導いた。 ヴァシーリイ公爵は老公爵と二人きりさし向かいになると、

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すぐに自分の希望をうち明けた。 「いったい君は、」と老公甞は腹立たしげに言った。「わしがあれをおさえてし甘って、手放すことができないとでも思うのかな? なんのなんの!」と彼は腹立たしげに言い放った。「わしは明日にもすぐくれてやるよ! ただ君に断わっておくが、わしは自分の婿となる大をもっとよく知りたいのだ。わしの規則は君もご承知だろうが、なんでもすっかり開けっぴろげだ!明日わしは君のいる前で、あれの心をきいて見る。あれが承知たら、息子さんは暫くうちに逗留してみるさ。暫く逗留してみるさ、わしがひとつ見てやろう(こう・つて老公爵はくふんと鼻を鳴らした)。あれが結婚したけりや勝手にするさ、わしにとってはどうだって同じ事たんだ!・」息子のアンドレイに別れた時とおなじ、突き剌すような声で彼は叫んだ。 「私はみんな真直ぐに白状します。」腹の底まで見とおす相手にたいして、小細工を弄することの無益さを悟った狡児の調子で、ヴァシーリイ公爵は答えた。「あなたは人の心をすっかり見とおしておしまいになる。アナトーリはけっして天才ではありません。しかし、その代り、正直で親切な可愛いやつです。私のだ卜じな立派な息子ですよ。」 「いや、いや、よろしい、いまに分かるから。」 長いこと男性との交遊に遠ざかって、寂しく暮らしていた女によくある事だが、二コライ公爵家の三人の婦人はアナトーリの出現とともに、これまでの生活は本当の生活でなかったと、一様に感じた。一同の思索、感覚、観察の力が、急に十倍されたような気がし、いままで闇の中に過ごしていた生活が、忽然
として意義にみちた、新しい光に照らされたような思いであった。 マリヤはもう自分の顔や頭のことなど、いっさい考えもしなければ、また覚えてもいなかった。事によったら、自分の良人となるかもしれないその男の、美しい開けひろげな顔が彼女の注意を呑みつくしたのである。彼女はアナトーリが親切で、勇敢で、決断力があり、男らしく寛大な人のように思われた。彼女はそれを信じて疑わなかった。未来の家庭生活をおもう幾千となき空想が、たえまなく彼女の心中に湧き起った。彼女はそれを追いのけおしかくそうとつとめた。 『けれど、わたしはあの大にたいして、余り冷淡すぎはしないかしら。』とマリヤは考えた。『いや、わたしはもう心の奥で、あの大とあまり親しくなり過ぎたような気がするので、自分をおさえようとしているのだ。けれど、あの大はわたしの心をすっかりご存じないから、もしかしたら、わたしがあの大を不快に思ってるのじゃなしか、などと考えていらっしやるかもしれない。』 で、マリヤはこの客人に愛想よくしようとつとめたが、それはできなかった。 r」a pauvre fille ! EIle est diablement laid几晉趁04打匹心行い』とアナトーリは彼女のことを考えた。 アナトーリの来訪によって、おなじく極度にまで興奮したブリエンヌは、またぜんぜんべつな考えにふけっていた。社会における一定の地位もなく、親戚も朋友も故郷すらもたない美しい若い娘は、勿論、二己フイ公爵に仕えて本を読んで聞かした
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驟爭と干和

り、マリヤの友誼を楽しんだりする事に、一生をささげようという気はさらさらなかった。ブリエンヌは、長いあいだロシアの公認の出現を待ちもうけていた。このロシアの公欝は縹緻の悪い、着こなしのへたな、挙動の無器用なロシア令嬢に比較して、自分のはるかに優れていることをすぐに認め、自分に恋をしてどこかへ連れていってくれるに相違ない……ところが、ついにこのロシアの公認がやってきた。ブリエンヌはかつて伯母から聞かされた話に、さらに自分で色あげした一つの物語を、想像の中でくり返すのが好きであった。それは誘惑にうち負かされた一人の娘が、哀れなる母の幻、sa pauvre m6re 4見た。すると、母は結婚もしない男に身をまかせたのを責めるIというのである。ブリエンヌは想像の中でこの物語を誘惑者たる 『彼』に話しては、しょっちゅう涙を流すほど感動するのであ った。今やこの『彼』が、ロシアの公爵がついにあらわれた。彼は自分を連れていってくれる。それから哀れな母が現われて、最後に男は自分と結婚する………ブリエンヌがアナトーリとパリの話をしていたとき、彼女の未来はこんな工合に頭の中で組み立てられたのである。彼女を指導したのはけっして利害の打算ではない(彼女は一分たりとも、どうしようなどと考えはしなかった)、これはなにもかもずっと前から、彼女の心中にできあがっていて、それがいま出現したアナトーリに集中されたまでの話である。彼女はどうかして少しでもよけいに、アナトーリの気に入りたいと望み、努力した。 小柄な公爵夫人はラで(の音を耳にした古い軍馬が、急にぜがきをはやめるように、自分の体のことも忘れて、くせになっ
た媚を無意識に弄し始めた。しかし、それにはなんら下心も苦悶もなく、ただ無邪気な軽はずみな、浮々した気分にそそのかされたのである。 アナトーリはいつも婦人だちと一座した場合、女にちやほやされるのがいやになった、といったふうな態度をとるのであったが、にもかかわらず、自分が三人の女に与えた印象を見て、彼は虚栄的な満足を感じた。のみならず、彼は美し卜挑発的なブリエンヌに、野獣のような卑しい欲情を感じ始めた。この感情はいつも彼の内部に異常なはやさをもってつのってきて、思いきり粗暴な、向う見ずの行為をあえてさせるのであった。ヽ 茶の後で一座は長椅子部屋へ移った。人々はyリヤに洋 琴を弾いて聞かしてくれと頼んだ。アナトーリは彼女に向かって、ブリェソヌのそばに頬杖ついていたが、その眼は嬉しげに笑いながらマリヤを眺めていた。マリヤは自分の方へ男の視線がそそがれているのを感じて、苦しいような悦ばし卜興奮を覚えた。好きなソナタの調子はことに玄妙な、詩的な世界へ彼女を運び去った。しかも、男の視線が自分にそそがれていると思うと、この世界になおひとしおの詩趣が加わるのであった。しかし、アナトーリの視線は、彼女の方へそそがれていたに相違ないけれども、そのじつ、彼がピアノの下でさわって卜るブリエンヌの足の動きに関するもので、マリヤにはなんの関係もなかったのである。ブリエンヌもやはりマリヤを眺めていたが、その眼の中にはマリヤにとって珍しい、おびえたような悦びと希望の表情が浮かんでいた。 『あのブリエンヌは本当にわたしを愛してくれてるんだわ’・』

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とマリヤは思った。『今わたしはなんて幸福なんだろう、そして、またさきになっても、こういう友達とこういう良人をもつわたしは、どんなにか仕合わせなことだろう! だけど本当に良人なんだろうか?』依然として例の眸が自分にそそがれているのを感じつつ、彼女は男の顔を見上げることもできないでそう考えた。 晩餐の後、人々が別れて自分の部屋へ帰りはじめたとき、アナトーリはマリヤの手を接吻した。彼女は自分ながら、どうしてこんな勇気が湧いたかと思うほど、近視の限に近づく美しい顔をまともに見上げた。その後で、彼はプリェソヌの手に口をつけた(こんな事は、勿論、非礼であったが、彼はそれをいかにも自信ありげに、ざっくばらんにやってのけた)。ブリエンヌはかっと盻帳なって、おびえたようにマリヤの顔を見やった。 『『&eile d611catesse ! UljM』と’リヤは考えた・『いったいアメリイ(これがブリエンヌの名であった)は、わたしが嫉妬なんか起して、わたしにたいするあの似の清らかた優しい信服の心を、有難く思わないとでも思ってるのかしら。』で、彼女はブリエンヌに近よって、かたく彼女に接吻した。アナトーリは小柄な公爵夫人の手に口を寄せた。 [否、否。否廴。あなたの身持がよくなったといって、お父様がお手紙を下すったら、その時はあなたに手を接吻さして上げますわ。それまではいけまん。」 そう言って、指を立ててほほ笑みながら、彼女は部屋を出て行った。
      五 一同は別れわかれになった。床につくとすぐ寝入ってしまったアナトーリをのぞくと。みんなこの夜は長く寝つかれなかった。 『いったいあの人がわたしの良人だろうかIあのなんのゆかりもない、美しい親切な人が? たしかに、なによりもまず親切な人だ。』とマリヤは考えた。すると、ほとんど覚えたことのない恐怖が彼女を襲った。彼女は後ろをふり返るのが恐ろしかった。たんだかそこの衝立のかげに、薄暗い片隅に、淮やら立っているような気がした。この『淮やら』は彼、悪魔であった。とまたIそれが額の白い、眉の黒い、唇の赤い男のようにも思われた。 彼女はベルを鳴らして小間使を呼び、自分の部屋に寝てくれと頼んだ。 ブリエンヌはこの夜ながいこと冬の苑をさ迷った、むなしく何者かを待ち焦れ、何者かにほほ笑みかけ。自分の堕落を責める哀れな母の言葉を想像しては、涙の出るほど感激しながら。 小柄な公爵夫人は寝床の工合が悪いといって、小間使にこごとを言っていた。彼女は横に向いても唹叫しになっても、寝ることができなかった。腹が邪魔になるので、どんなにしても重苦しく工合が悪かった。今夜はいつもよりことに腹をもてあました。それはアナトーリの来訪のために、こうした懐妊などという事がなく。なにもかも軽々と愉快であった過去の方へ。ま
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ざまざと連れて行かれたからである。彼女は婦人上衣を着、夜帽 子をかぶって、寝椅子に腰をかけていた。樊をみだして眠たそうな顔をしたカーチヤは、なにやら口の中で言いながら、重い羽根ぶとんをもう三度も叩いたり、ひっくり返したりしている。 「わたしそう言ったじゃないかえ、ふとんはでこぼこだらけですよ。」と小柄な公爵夫人は念をおすように言った。「わたしだって悦んで寝入りたいのは山々たんだからね、わたしのせいじゃないよ。」彼女の声は、いまにも泣き出そうとしている子供の声のようにふるえた。 老公爵も同じく睡らなかった。チーホソは老公爵が腹立たしげに歩き廻ったり、鼻をくふんくふん鳴らす音を夢うつつに聞いた。老公爵は娘のことで自分が侮辱されたように思われた。この侮辱感はもっとも深刻なものであった。なぜなら、それが自身にたいするものでなく、自分以外の者1彼が自分より以上に愛している娘にたいするものだったからである。彼はこの事件を熟考したうえ、公平な見地からみて当然とるべき道を発見しようとちかったけれども、しかし、そうはしたいで、ただいたずらにおのれをいら立たすのみであった。″’ 『初めて見ず知らずの男がひょっこりやってくると、もう父親のこともなにも忘れてしまい、夢中になって二階へ飛んでいって、髪を結いなおしたりして、御意に叶おうとしている。しかも、二目と見られたざまじゃない! 親父なんか平気でうっちゃる気なんだI・ そのくせ、わしが気のつく事をちゃんと知ってるんだ。フルツ……フルツ……フルツ……それにあの馬鹿者
め、ただブリェンカばかり見てるのが、わしの目に入らんと思ってるのか! (あの女は追い出してしまわなくちゃならん。)それにこの事を悟るだけの衿持が、どうして彼女にないのだろう? もし自分のための衿持がないとしても。せめてわしのためにでも、少しくらいあってよさそうなものだ。あの馬鹿者がただブリェソカばかり見て、胼如のことなんか考えていないのを、悟らせてやらなきゃならん。彼女には誇りかない。しかし、わしは舮虻に思いあたらせてやるから……』 娘に向かってお前は迷わされている、アナトーリはブリエンヌの尻を追い廻そうとしてるのだ、と言ったら、老公爵はマリヤの自尊心を刺戟して、娘と別れたくなにいという希望を達することになる。老公甞はこれを承知しているので、やっとそれで安心した。彼はチーホソを呼んで着物をぬぎにかかった。 『ろくでもないやつらが来おって!』チーホソが、ひからびた、老人らしい灰色の胸毛を生やした主人の体に、夜着0シャツをかぶせたとき、彼はこう思った。『わしはあんなやつなんか知りもしなかった。それだのにあいつらはわしの生活をかき乱しに来おった。わしの生涯はもう残り少いんじゃないか。』 「畜生!」と彼はまだシャツを頭にかぶりながらつぶやいた。 チーホソは、公欝がときどき自分の考えを口に出して言う癖を承知しているので、問いかけるような腹立たしげな視線がシャツのかげから出てきたとき、彼は顔色も変えずにそれをむかえた。 「もう寝たかな?」と公爵はたずねた。  *プ9エンヌの語尾をロシア式に変えて侮辱の戚じを帶ぴさせたもの。

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 チーホソはすべての優れた侍僕の常として、主人の思想の方向を悟るだけの敏感さをもっていた。彼は老公爵がヴァシーリイ公爵親子のことをきいたのだと察した。 「もう床におつきになりまして、あかりも消されました、御前。」 「なんでもない、なんでもない……」と老公爵は早口に言い、足を上靴に、手をガウンに突っこむと、いつも寝台ときめている長椅子に近づいた。 アナトーリとブリエンヌとの間には、なんの約束もかわされなかったにもかかわらず、彼らは小説の第一編、『哀れなる母』の出現までの筋道を、互にすっかり理解し合ったのである。彼らは、内証でいろいろ語り合わねばならぬ、ということをよく了解したので、さしむかいで話す機会を朝から求めていた。ちょうどマリヤが例の時刻に父の部屋へおもむいたとき、ブリエンヌは冬の苑でアナトーリと落ち合ったのである。 マリヤはこの日とくに胸を躍らせつつ、書斎の戸に近づいた。彼女は今日こそ自分の運命が決せられるのを、誰も知っているばかりでなく、これについて自分の考えている事まで、承知しているような気がした。こういったふうの表情をチーホンの顔にも、ヴァシーリイ公爵の侍僕(彼は熱い湯を千にもって、廊下でマリヤに会ったとき、低く腰をかがめて会釈した)の顔にも読むことができた。 この朝、老公爵は娘にたいして非常に優しく、自分の言語動作になみなみならぬ苦心をはらっていた。マリヤはこの苦心の表情をよく心得ていた。この表情は、マリヤが算術の問題を会
得しないとて、乾からびた拳を握りかため、椅子からぷいと立つ`て彼女のそばを離れ、低い声で幾度も回じ言葉をくり返すときに、よく彼の顔に現われるものであった。 彼はすぐさま用談にうつり、マリヤを「あなた」と呼びな、がら会話を始めた。 「わしは今度あなたのことで申込みを受けた。」彼は不自然な微笑を浮かべながら、こう切り出した。「あなたもたいてい察したろうと思うが、」と彼は語をつづけた。「今度ヴァシーリイ公欝がここへ見えて、自分の教え子を連れて来た(二コライ公欝はなぜかアナトーリを教え子と呼んだ)。が、それはわしのご機嫌を伺うためではない。わしは昨日あなたの事について申込みを受けた。あなたはわしの処世方針を知っているから、それでもしはあなたに相談するのだ。」 「わたし、お父さまのお言葉をなんととったらよろしいのでしょう?」と公欝令嬢は蒼くなったり、赧くなったりしたがら、そう言った。 「なんととったら!」と父は腹立たしげに叫んだ。「ヴァシーリイ公爵は、お前を自分の眼鏡にかなった嫁と見立てたので、教え子のために申込みをしている、とこうとったらいいんだ。なんととるって?一一一一一・・わしの方でこそお前にたずねてるんだよ。」 「父さま、わたし合点が参りません、どうしてあなたが……」とマリヤは囁くように言った。 「わしが? わしが? わしがどうしたというんだ? わしの事はうっちゃっといて貰おう。わしが嫁に行くんじゃないから
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な。あなたはいったいどうなさるんです? それがききたいん。です。」 yリヤは父がこの縁談を好意の目で眺めていないのを見てとった。が、またその瞬間に、自分の運命はいまこの時を逸したら、またとふたたび決せられる時がない、という考えが浮かん。だ。彼女は父の視線を見まいと伏目になった。この視線の威圧を受けたら、ものを考えることなどできず、ただただ習慣的に服従するほかはないと感じたのである。彼女はこう言った。 「わたしはお父様のお考えどおりにしたいと、ただそればかり望んでいます。」と彼女は答えた。「けれども、ぜひわたしの希望を言って見ろとおっしゃるのでしたら……」 彼女が言いも終らぬうちに公爵はさえぎった。 「いや、結構だ!」と彼は叫んだ。「あいつはお前を持参金つ・きで貰って、ついでにブリエンヌも連れて行くだろうよ。しか・も、女房になるのはブリエンヌで、お前は……」 公爵は語を休めた。彼はこの言葉が娘に与えた印象に気づい・たのである。マリヤは頭をたれ、いまにも泣き出しそうな様子になった。’「いや、いや、冗談だ、冗談だ。」と彼は言った。「ただ一つ覚冕ているがいい。わしは女が自分の良人を選ぶについて絶対の自由を持つべきだ、とこういう主義を抱いてるのだから、お前にもこの自由を与える。ただし一つ記憶して貰いたいのは、お前の決心ひとつで、生涯の幸不幸が分かれるということだ。わしのことなぞいうがものはないよ。」 {だけど、わたしにはわからないのですから……お父さま。}
 「なにもぼうことはないといったら! あの男は親の言いつけどおりで、なにもお前ひとりと決まった事はない、どんな女とでも結婚するんだ。ところで、お前はそ乃選択について自由なんだからな……さあ、部屋へ帰ってよく考えろ。そして一時間たったらわしの所へ来て、あの男のいる前で、否か応か返事しろ。わしにはちゃんとわかってる、お前はこれからお祈りするつもりなんだろう。それもまあよかろう。お祈りするがいい。ただよく考えるんだぞ。さあ行け。否か応か、否か応か、いやか応か!」もうマリヤが霧の中でも歩むような気持で、ふらふらしながら部屋を出てしまったのに、彼はまだこう叫んでいるのであった。 彼女の運命は決しられた、しかも幸福な方へ決しられたのである。しかし、父がブリエンヌについて言った事は、あのあてこすりは、彼女にとって恐ろしかった。がりに真実でなしにせよ、それにしても恐ろしい事だ、彼女はそれを考えないわけに行かなかった。彼女はなにも見ずなにも聞かずに冬の薤を通りぬけて、真直ぐに前方を見つめながら歩いた。突然、聞きなれたブリエンヌのささやきが彼女の瞑想を呼び醒ました。目を上げて見ると、二歩ばかりしか離れていない所で、フランス娘を抱きながらなにやら囁いているアナトーリの姿が目に陜った。アナトーリは美しい顔に恐ろしい表情を浮かべて、マリヤの方をふり返ったが、最初の一瞬間は、ブリエンヌの細腰から手を放さなかった。ブリエンヌはまだマリヤの来たことを知らなかったのである。『誰だい。そこにいるのは? 何用だ? ち。。つと待ってく

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れ1・』とアナトーリの顔はそう言っているようであった。マリ『ヤは黙って二人を眺めていた。彼女は事の意味を理解できなかった。ついにブリエンヌがきゃっと叫んで駈け出した。アナトーーリは愉しげな微笑を含みっつ、マリヤに会釈したが、その様子はまるで、『どうぞこの奇怪な事件を笑ってやってください。』・とでも言いたげであった。やがて、彼は肩をすくめ、自分たちに与えられた部屋へ通ずる戸口に引っこんでしまった。  一時間たって、チーホソがマリヤを呼びにきた。彼はマリヤに、公欝の部屋へいらっしゃいませ、と言ってから、ヴァシーリイ公甞もあちらにいらっしやいます、とつけたした。チーホソがや。つて来たとき、マリヤは居間の長椅子に腰かけて、泣き入るブリエンヌを抱きかかえでいた。彼女はフランス女の頭を静かに撫でてやった。美しい眼は以前の落ちつきと輝きをおびながら、優しい愛と憐みとをもって、ブリエンヌの愛くるしい顔を眺めていた。 「Non「princesse「je suis perdue pour toujours dans votrec(xlur. 昌駘豐似壮匹繊昆弌)とブリエンヌか言った。 「どうして? わたしは前にも増してあなたを愛しています。」とマリヤは言った。「わたしあなたの幸福のために、できるだ『けの事をしたいと思っていますわ。』 「けれども、あなたはわたしを蔑んでいらっしゃるでしょう、あなたは本当に清浄潔白な方でございますもの。ああした6gare‐ment de la passion llのという事は、とてもおわかりになりますまいねえ。ああ、それがわかるのは可哀そうなお母さんだけ……」
 「わたしすっかりわかりますわ。」悲しげにほほ笑みつつマリヤは答えた。「安心なさいね、あなた。わたしお父さまのとこへ行ってきますから。」と言って彼女は部屋を出た。 ヴァシーリイ公爵は片方の足を高く折り曲げて、手に嗅煙草の箱を持ちながら、あたかも感に堪えたような、同時に自分の感激性を自ら悲しみかつ嘲るようなふうつきで、歓喜の微笑を顔に浮かべて腰かけていた。その時、マリヤが入ってきたのである。彼はいそいで煙草を一つまみ鼻のそばへもっていった。 「Ahs ma bonnes ma bonne.ta;御」と立ち上って彼女の両手をとりながら、公爵はこう言い、溜息とともにつけたすのであった。「怦の運命はあなたの掌中にあります。私かいつも真実の娘のように愛していた優しい、大切な、しとやかなマリーさん、どうぞ決めてください。」 そう言って彼はそばを離れた。偽りならぬ涙がI滴かれの眼に現われた。 ワルツ……フルツ……」と二己フイ公爵は鼻を鳴らした。「公爵は自分の教え子……息子さんに代ってお前に申込みをされたのじゃ、お前はアナトーリーグラーキン公爵の妻となるかどうだ? 言ってみろ、否か応か。1‐と彼はどなった。「その後でわしも自分の意見をのべる権利を保留しておく。しかし、わしの意見は、要するにわしの意見に過ぎんが。」ヴァシーリイ公認の方へ向いて、その哀願するような表情に答えながら、二コライ公爵は言った。「否か応か?」 「わたしの望みを中しますと、お父様、わたしは永久にあなたを見すてたくございません。わたしの生活とあなたの生活を、

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