『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「アンナ・カレーニナ」2-01~2-05(『世界文學大系37 トルストイ』1958年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)

[#2字下げ]第二編[#「第二編」は大見出し]


[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]

 冬の終りのころ、シチェルバーツキイ家では医師の立会診察が行われた。それは、キチイの健康がどういう状態にあるか、また彼女の衰えいく体力を回復するにはどうしたらいいか、という問題を決定するためであった。彼女は病気であった。そして、春が近づくにつれて、その健康はしだいしだいに悪くなった。かかりつけの医者はまず肝油を飲ませ、次に鉄剤、それから硝酸銀塩を与えたが、どれも一つとしてききめがなかった。それに主治医は、春になったら外国へ出かけるように勧めていたので、有名な博士が招かれたわけである。この名医はまだたいして年をとってもいず、しかもなかなかの美男子であったが、一応病人を診察しなければといいだした。彼は見うけたところ、何かとくべつ満足そうな様子で、処女の羞恥心は野蛮時代の遺風にすぎない、まださして老年でない男が、若い女の裸体をいじくりまわすほど自然なことはない、などと主張するのであった。彼がそれを自然なことと信じたのは、現に毎日それをやっていて、しかもその際なんの感じもいだかず、べつに悪いことを考えない(と当人には思われた)からである。そういうわけで、処女の羞恥心は、単に野蛮時代の遺風であるのみならず、彼自身にたいする侮辱であるとさえ考えていた。
 どうも、折れて従うよりほかなかった。すべて医者というものは同じ学校で、同じ書物によって勉強するのであるから、彼らの知っている学問は、結局同じことであるし、それに一部の人は、この有名な博士をへぼ医者だといっているにもかかわらず、公爵夫人の家でも、一般にそのサークルでも、どういうわけか、この名医が一人だけなにか特別なことを知っていて、キチイを助けることができるのはこの人ばかりだと、頭から思いこんでいた。恥ずかしさのあまりとほうにくれて、茫然《ぼうぜん》としている病人を、念入りに聴診したり、打診したりした後、名医はくそ丁寧に両手を洗って、客間で公爵と立ち話をした。公爵は名医のいうことを聞きながら、咳《せき》ばらいをしいしい眉をひそめていた。彼は生活の経験のある人間で、しかも馬鹿でも病人でもなかったから、医術などというものを信用せず、心の中では『こんなお茶番が』とぷりぷりしていた。まして、キチイの病気の原因を十分に知りぬいているのは、ほとんど彼一人だけであってみれば、なおさらなのであった。
『ちょっ、こいつ、狸《たぬき》の八畳敷め』と彼は心の中で、猟師仲間のヴォキャブラリイからこの綽名《あだな》をぬき出して、有名な博士に擬《ぎ》しながら、娘の症状に関する相手の饒舌《じょうぜつ》を聞いていた。博士は博士で、この老貴族に対する軽蔑の表情を、やっとのことでおさえながら、その低級な理解力の程度まで、自分をひき下げるのに苦心していた。こんな老人と話したってしようがない、この家の主権は母親にあるのだ、ということをちゃんとのみこんでいたので、夫人の前で自分の雄弁を揮《ふる》おうと、手ぐすねひいて待っていた。そのとき公爵夫人が、かかりつけの医者をつれて客間へ入って来た。公爵は、このお茶番がこっけいでたまらない、という気持をみんなに悟られないようにしながら、むこうへ行ってしまった。公爵夫人はとほうにくれて、どうしたらいいかわからないでいた。キチイに対して、すまないような気がしていたのである。
「さあ、先生、わたくしどもの運命を決めて下さいまし」と公爵夫人はいった。「どうぞなにもかもおっしゃって下さいましな」彼女は『望みがございましょうかしら?』といいたかったのだが、唇がふるえたしたので、この問いが言葉にならなかったのである。「さあ、先生、いかがでございましょう?」
「奥さん、ただいま同僚と相談しますから、そのうえで、私の意見を申しあげることにいたしましょう」
「では、わたくしはご遠慮申しあげましょうか?」
「それはどうともご随意に」
 公爵夫人はほっとため息をついて、出て行った。
 医師が二人さしむかいになった時、かかりつけの医者は臆病そうに、自分の意見を述べはじめた。それは、結核の初期にあたっているが、しかし、云々《うんぬん》というのであった。有名な博士はそれをじっと聞いていたが、その話の途中で、大きな金時計を出して見た。
「さよう」と彼はいった。「しかし……」 
 かかりつけの医者は言葉なかばで、うやうやしげに口をつぐんだ。
結核の初期というやつは、ご承知のとおり、われわれには決定することができません。空洞が現われるまでは、なんら決定的な徴候がないわけですからな。しかし、推測することはできます。また多少の徴候がないでもありません、食欲不振とか、神経性の興奮とかいったようなものですな。そこで問題は、結核の疑いがあるものとして、栄養を維持[#「維持」は底本では「推持」]するにはどうしたらいいか、ということなんです」
「しかし、ご承知のとおり、こういう場合には いつも心理的、精神的原因がひそんでおるものでして」とかかりつけの医者は、微妙な薄笑いを浮べながら、思いきってこう口をはさんだ。
「さよう、それはあたりまえの話ですよ」また時計をちらと見て、名医は答えた。「失礼ですが、ヤウーズスキイ橋はもう竣工《しゅんこう》したでしょうか、それとも、まだ迂回《うかい》しなくちゃならんでしょうか?」と彼はきいた。「ああ! 竣工しましたか? ははあ。いや、それなら、私は二十分あれば行けるわけです。そこで、われわれが話していたのは、栄養を維持して神経を鎮静させる、そこが問題だというのでしたな。この二つは相互関係になっておるから、円の両側にむかって作用するようにしなけりゃなりませんな」
「ですが、外国へ旅行することは?」かかりつけの医者がたずねた。
「私は外国旅行の反対論者でしてな。まあ、考えてもごらんなさい、もし結核の初期だとしても、われわれはそれを現実に知るわけにいかないんですから、外国へいったって、なんの役にも立ちゃしません。ただ栄養を維持して、しかも、害にならないような方法をとることが必要なのですよ」
 で、有名な博士は、ソーデン水による治療の案を述べたが、この方法を指定したおもな目的は、ソーデン水なら決して害にならない、という一事に存しているらしかった。
 かかりつけの医者は注意ぶかく、うやうやしい態度で謹聴していた。
「しかし、外国行き賛成の論点として、私は習慣の変更、追憶を呼びさます生活条件の消滅、などをあげたいと思います。またそれに……母夫人も希望しておられますから」と彼はいった。
「ははあ! いや、そういうことなら、なに、行かれたらいいでしょう。しかし、ドイツの山師医者がつつきまわすことだろうなあ……ただ私のいうことを守っていただかなくちゃなりませんが……まあ、そういうことなら、外国行きとしましょう」
 彼はまたもや時計を見た。
「おや! もう時間だ」といって、戸口の方へ歩き出した。
 名医は公爵夫人にむかって(それは体裁を繕おうという気持から出たことだが)、もう一度ご病人を診察しなければなりません、といった。
「えっ! もう一度、診察ですって!」母親はぞっとしてこう叫んだ。
「ああ、いや、私はただ一、二の点について、細かいことを確かめるだけなんですよ、奥さん」
「ではどうぞ」
 で、母夫人は博士を伴なって、キチイのいる客間へ入った。やせ衰えたキチイは、先ほど恥ずかしい思いをさせられたために、頬をぽっと赤く染め、眼に特殊な光をたたえて、部屋のまんなかに立っていた。博士が入った時、彼女はさっと赤くなり、その眼は涙でいっぱいになった。彼女は、自分の病気騒ぎも、その治療も、なにもかもが実にばかげた、というよりも、むしろこっけいなことに思われた。自分を治療するのは、ちょうどこわれた花瓶のかけらをくっつけてみるのと同じように、こっけい千万なことに感じられた。自分の心は打ち砕かれているのだ。いったいあの人たちは、丸薬や粉薬で何を癒《なお》そうというのだろう? でも、母を侮辱するようなことはできない。それに、母は自分が悪かったと思っているのだから、なおさらそんなことはできない。
「恐れ入りますが、公爵令嬢、ちょっとお掛け下さいませんか」と名医はいった。
 彼は微笑を浮べながら、まむかいに腰をおろして、脈をとり、またもや退屈な質問をはじめた。彼女はそれに答えていたが、急にむかむかっとして立ちあがった。
「失礼でございますけれど、先生、こんなことは全くなんの役にも立ちはいたしませんわ。あなたは三度も同じことをおたずねになるんですもの」
 名医は別に腹を立てもしなかった。
「病的な興奮ですよ」キチイが出て行った時、彼は公爵夫人にそういった。「もっとも、私のほうはもうおしまいです……」
 それから博士は公爵夫人をつかまえて、まるで比類のない賢婦人でも相手にしているように、学問的な言葉で、公爵令嬢の容態を定義して聞かせ、結論として、必要もない例のソーデン水の飲み方について教訓を垂れた。外国へ行ったものかどうか? という問いに対して、博士はさも困難な問題を解決する人のように、深い瞑想に沈んだ。最後に、ようやく解決が発表された。つまり、出かけるがよろしい、しかし山師医者を信用しないで、万事自分に相談してもらいたい、というのであった。
 博士が帰ったあとは、まるで何か、楽しいことでも起ったかのようであった。母夫人は浮きうきして、娘のところへ戻ってくるし、キチイも心が浮き立ってきたようなふりをした。今では彼女は、しょっちゅうというより、ほとんどいつでも、心にもないぞぶりをして見せなければならぬのであった。
「本当よ、ママ、あたしなんでもないのよ。でも、ママが行きたいとお思いでしたら、ごいっしょにまいりましょう」と彼女はいった。そして、目の前に控えた旅行に興味のあるようなふりをしながら、出発準備の話をはじめた。

[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]

 博士の帰ったあとへ、ドリイがやって来た。彼女はきょう立会診察があることを知っていたので、このあいだやっと産褥《さんじょく》を離れたばかりなのに(彼女は冬の終りに女の子を生んだのである)、自分自身の悲しみや心配事がいろいろあるのを押して、今日決しられようとしているキチイの運命を知るために、乳呑児と病気の女の子を置いてきたのであった。
「まあ、どうしたの?」帽子もとらずに部屋の中へ入りながら、彼女はこういった。「あなたがた、なんだか浮かれてらっしゃるようね。きっとよかったんでしょう?」
 人々は博士のいったことを、彼女に話して聞かそうとしたが、博士はながながと辻褄《つじつま》のあった説明をしたにもかかわらず、今になってみると、彼の話を伝えることは、なんとしてもできないのであった。ただ外国行きの許可がおりたことだけが、興味の中心であった。
 ドリイはおもわずほっと吐息をついた。だれよりも親しい友である妹が行ってしまうのだ。しかも、彼女の生活は楽しいものではなかった。スチェパン・アルカージッチとの関係は、あの和解以来、彼女にとって屈辱になってきた。アンナの試みた焼きつぎも案外もろいもので、家庭の和解はやはり同じところでひびが入った。別に、はっきりとどうということはなかったけれども、オブロンスキイはほとんどいつも家にいたことがなく、金もおおかた年じゅう、たりぬがちであった。そのうえ、良人が自分を欺《あざむ》いているという疑いは、たえずドリイを苦しめた。彼女は、前に経験した嫉妬の苦痛を恐れて、今ではその疑念を追いのけるようにしていた。すでにいちど体験した嫉妬の最初の爆発は、もはや繰り返されようがなかったし、また良人の不行跡をつきとめたにもせよ、それさえもう初めの時ほどの衝動を与えることはできなかったであろう。そんなことをあばきたてるのは、ただ彼女から家庭的な習慣を奪うだけにすぎない。で、彼女は良人を軽蔑し、ことにそうした弱点をもつ自分自身を軽蔑しながら、甘んじてわれとわが身を欺いていた。のみならず、大家族にたいする気くばりは、たえず彼女を苦しめるのであった。乳呑児の育て方がうまくいかなかったり、乳母《うば》が暇をとったり、また今みたいに子供らのだれかが病気したり。
「どう、おまえの子供たちは?」と母はたずねた。
「ああ、ママ、うちはうちで困ることがいろいろありますのよ。今もリリイが病気なんですけど、わたし猩紅熱《しょうこうねつ》じゃないかと思って、心配してるんですの。わたし様子が知りたくなって、こうして抜けて来たんですけど、もし――そんなことがあったら大変ですけど――猩紅熱だったら、家にじっと閉じこもっていなければなりませんのよ」
 老公爵は、医者が帰った後、同様に書斎から出てきた。ドリイに頬をさしだして接吻させ、二こと三こと話をした後、妻に話しかけた。
「どうだね、行くことにきまったかね? ところで、わしはどうしようというんだね?」
「わたしの思うのには、あなたには残っていただくんですね、アレクサンドル」と妻は答えた。
「どうでも好きなように」
「ママ、どうして、パパはあたしたちといっしょにいらっしゃらないの?」キチイはいった。「そのほうがお互ににぎやかでいいじゃありませんか」
 老公爵は立ちあがって、キチイの頭を撫でた。彼女は頭を上げ、むりににっこり笑いながら、父を見あげた。彼女はいつもこんな気がしていた――父はあまり自分に口をきかないけれども、家じゅうのだれよりも一番よく、自分の気持をわかってくれているのだ。キチイは末娘として、父の秘蔵っ子であった。で、彼女から見ると、自分に対する愛情が、父に洞察力を与えているように思われた。今しも彼女の視線が、じっと自分を見つめている父の善良な空色の眼と出会った時、父は自分を腹の底まで見透して、自分の内部にうごめいている良からぬものを、ことごとく理解しているような気がした。彼女は顔を赤らめながらも、父の接吻を予期して、そのほうへ身をかがめたが、父はただ彼女の髪を軽く叩いただけで、こういった。
「このばかげた入れ毛はなんだ! これじゃ本当の娘にはさわらんで、死んだ女の髪を撫でるだけだ。ときに、ドーリンカ、どうだね」と彼は長女の方へふりむいた。「おまえのところの丈夫《ますらお》は、どうしておるな?」
「別にどうも、パパ」良人のことをいってるのだと悟って、ドリイはこう答えた。「しじゅう出てばかりいまして、ろくろく顔をあわすこともないくらいですわ」彼女は嘲《あざけ》るような薄笑いを浮べて、こうつけたさずにはいられなかった。
「どうだね、あの男はまだ森を売りに領地へ出かけないのかね」
「まだですの、しじゅう出かける、出かける、とはいってるんですけど」
「なあるほど!」と公爵はいった。「じゃ、わしも出かけることと決めるかな? かしこまりました」と彼は腰をおろしながら、妻にむかってそういった。「ところでな、カーチャ」と末娘の方へ向いて、いい添えた。「おまえ、いつかふいと目をさまして、自分で自分にそういって聞かすがいい、わたしはどこもかも丈夫で、気分も浮きうきしてるのだから、パパといっしょに凍《こお》った土を踏んで散歩にでも出かけましょうとな。どうだい?」
 父のいったことは、一見きわめて単純なものであったにもかかわらず、キチイはそれを聞くと同時に、尻尾をつかまれた犯人のようにどぎまぎして、とほうにくれてしまった。『ああ、パパはなにもかも承知していらっしゃるんだわ、なにもかもわかってらっしゃるんだわ。ああおっしゃったのは、つまるところ、恥ずかしいには相違ないけれども、その恥ずかしさをつきぬけなくちゃならないってことなんだわ』彼女は勇を鼓《こ》して、何か返事をすることができなかった。口をきろうとしたが、そのとたんにわっと泣きだして、部屋を走り出た。
「ほらごらんなさい。あなたの冗談といったら!」公爵夫人は良人に食ってかかった。「あなたったらいつでも……」と彼女は例の不足を並べはじめた。
 公爵は黙りこくったまま、かなり長い妻のお説教を聞いていたが、その顔はしだいに暗くなっていった。
「あの子はそれでなくっても、かわいそうに、あんなみじめなありさまでいるじゃありませんか。それだのに、あなたったら、その因《もと》になったことをちょっとでも匂わされるのが、あの子にとってどんなにつらいか、察してやろうともなさらないんですもの! ああまで人を見そこなうなんて!」と公爵夫人はいったが、その語調の変化から、ドリイも、公爵も、これはヴロンスキイのことをいっているのだな、と察した。「ぜんたい、あんなけがらわしい、不人情な人間を罰する法律がないということが、わたし合点がいきませんわ」
「ああ、聞きたくもない」と公爵はいいながら、肘椅子《ひじいす》から立って出て行きそうにしたが、戸口のところで立ちどまった。「法律はあるんだよ、お母さん。もうおまえがこの話をするようにしむけたんだから、いって聞かせるがな、なにもかも悪いのはおまえなんだ、おまえだとも、おまえだとも、おまえ一人なんだよ。ああいう青二才を罰する法律はいつでもあったし、今でもちゃんとある! そうとも、もしこっちがまちがったことをしなかったのなら、わしは老人でこそあれ、あのにやけ男を決闘に立たしてやるとこだったよ。そうとも、しかし今となったらしかたがない。ああいう山師医者を連れてきてせっせと治療するがいい」
 公爵はまだまだいくらでも言い分がありそうだった。けれど、夫人はその語調を聞くと、いつも重大な問題についてよくやるように、すぐさま後悔して折れて出た。
「アレクサンドル、アレクサンドル」と彼女は良人にすり寄ってささやくと、おっと泣きだした。
 妻が泣きだすやいなや、公爵も静かになった。彼は妻のそばへよった。
「さあ、もうたくさんだ、たくさんだ! おまえもさぞ苦しいだろう、わしは察しておる。が、どうもしかたがないよ! まあ、たいしたことはないさ! 神さまはお慈悲ぶかいからな……ありがたいことに……」自分でも何をいってるのかわからず、自分の手に感じた接吻、妻の涙に濡れた接吻に応《こた》えながら、彼はこういった。やがて公爵は部屋を出て行った。
 もうキチイが涙ながら部屋を出た時から、ドリイは家庭の主婦として母親としての習慣から、このさい、女の仕事が要請されていることを、すぐさま見てとった。で、それをしとげようという気になった。彼女は帽子をぬぎ、いわば両手をたくし上げんばかりの意気ごみで、行動の心がまえをした。母親が父に食ってかかっているあいだは、娘としての礼儀の許す範囲内で、母親をおさえようと試みたし、父が癇癪《かんしゃく》を破裂させた時は、母に対する羞恥の念を感じ、公爵がすぐ優しい気分に返った時は、父に対する愛情を覚えたのであるが、父が出て行ってしまうと、彼女はこのさい必要な大切なことをしよう、つまりキチイの部屋へ行って、その心をおちつかせようと決心した。
「ママ、わたし前からお話したいと思ってたんですけど。実はねえ、レーヴィンさんがキチイに申しこみをしようとしたんですのよ、あの人が最近モスクワヘいらしった時、あの人ご自分でスチーヴァにその話をなすったんですの」
「で、それがどうしたの? わたしはなんのことだかわからない……」
「でね、もしかしたら、キチイはそれを断ったんじゃないかしら? あの子、ママにその話をしませんでした?」
「いいえ、あれはあちらのことも、こちらのことも、いっこう言いませんでしたよ。あの子はあまり誇りが強すぎますからね。でも、わたしにはわかっています、なにもかも因《もと》はといえばあの……」
「ねえ、ひとつ考えてみて下さいな、もしあの子が、レーヴィンさんのほうをお断りしたとすれば……だってね、あの人さえなかったら、レーヴィンさんのほうをお断りしなかったでしょうよ、わたしちゃんとわかっていますもの……あの人ったら、あとであんな恐ろしいだましようをするんですもの」
 公爵夫人は、自分が娘に対してどれだけすまないことをしているか、考えるだけでも恐ろしくてたまらなかったので、腹をたててしまった。
「あっ、わたしはもう何一つわけがわからない! この節じゃだれもかれも、自分の考えだけでやっていこうとするものだから、母親には、なんにもいおうとしないんだからねえ。それで、あとになるとこのとおり……」
「ママ、わたしあの子のとこへ行ってみますわ」
「行ってごらん。わたし何もさし止めてやしないじゃないか」と母はいった。

[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]

 キチイの居間は vieux saxe(古サクソニヤ焼)の陶器人形などを飾った、バラ色のかわいい部屋であった。ふた月まえの当のキチイと同じように、若々しい快活な感じのする、このバラ色の部屋へ入りながら、ドリイは去年この部屋を妹と二人で、いとも楽しく、深い愛情をこめて飾ったことを想い起した。ところが、ドアのすぐそばにある低い椅子に坐って、カーペットの一隅にじっと動かぬ眼をそそいでいるキチイを見た時、心臓の凍るような感じがした。キチイはちらと姉を見やったが、その冷たい、いくぶんきびしい顔の表情は変らなかった。
「わたしこれから帰って、しばらく外へ出られないし、あんたもくるわけにいかなくなるから」とドリイは妹のそばに腰をおろしながらいった。「ちょっとあんたに話したいことがあってね」
「なんのお話?」おびえたように顔を上げて、キチイは早口にこうきいた。
「なんの話って、あんたの苦しみのことでなくって、なんでしょう?」
「あたしには苦しみなんてありゃしないわ」
「よしてちょうだい、キチイ、わたしが知らずにいるなんて思ってるの。わたしはなにもかも知っていますよ。まあ、わたしのいうことを信じてちょうだい、そんなこと全くつまらないことなんだから……わたしたちはみんなその中を通ってきたんですもの」
 キチイは黙っていたが、その顔はきびしい表情をおびてきた。
「あの人は、あんたがそう苦しむほどの値うちはなくってよ」とドリイは単刀直入に要点にかかりながら、言葉をつづけた。
「ああ、あの人はあたしをないがしろにしたんですからね」とキチイはひびの入ったような声でいい放った。「もういわないでちょうだい!お願いだから、いわないで!」
「まあ、だれがいったいそんなことをいったの? だあれもそんなことをいったものはありゃしません。あの人はあんたを想っていたし、今でもやっぱり想っています。わたしそう確信しているわ。ただね……」
「ああ、あたしそういう同情の言葉が何よりも恐ろしいわ!」とキチイは、急にかっとなって叫んだ。彼女は椅子の上でぐるりと身を転じ、顔を真赤にして、せかせかと指を動かしながら、ちょうどもっていたバンドの尾錠《びじょう》を、左右の手でかわるがわる握りしめはじめた。妹がかっとなったとき、両手でかわるがわる物を握る癖があるのを、ドリイは知っていた。また彼女は、キチイが何かで逆上したとき、前後を忘れてむやみとよけいな不快なことを口走ることがあるのを知っていた。で、ドリイは妹をおちつかせようとした。けれど、もう手遅れであった。
「何を、何を姉さんはあたしに思い知らせようとなさるんですの?」とキチイは早口にいった。「あたしが唾もひっかけてくれない人を想って、それで、恋の病いに死にかかっているってことですの? それをいうのが現在の姉さんなんですからね。そのくせ……そのくせ……ご自分では、あたしに同情してらっしゃるおつもりなんですからね!………あたしそんな同情や、そらぞらしい見せかけは、まっぴらごめんですわ!」
「キチイ、あんたは思い違いしてるのよ」
「なんだって姉さんはあたしを苦しめなさるの?」
「まあ、とんでもない……わたしはあんたが苦しんでいるのを見かねて……」
 けれど、逆上してしまったキチイは、耳にも入れなかった。
「あたしは別に苦しんでもいないし、慰められることもありません。あたしはとても誇りが強いから、自分を愛してもいない人を恋すなんてことは、金輪際《こんりんざい》いたしません」
「だから、わたしもそんなことをいってやしませんよ……ただ一つね、わたしに本当のことをいってちょうだい」とドリイは妹の手をとってこういった。「ねえ、いってちょうだい、レーヴィンさんが、あんたに申しこみをしたでしょう?……」
 レーヴィンのことをもちだされたことは、キチイに最後の自制心を失わせたらしかった。彼女はいきなり椅子から立ちあがると、尾錠《びじょう》を床へ叩きつけ、両手で目まぐるしく何かの身ぶりをしながら、
「まだおまけにレーヴィンさんのことまで、なんのためにおっしゃるんですの?」といいだした。「なぜ姉さんにあたしを苦しめる必要があるのか、わけがわからないわ? あたしさっきもいったけれど、もういちどかさねていいますわ、あたしは誇りの強い女ですから、姉さんのなさるようなまねは決して、決してしませんからね。自分にそむいてほかの女を愛した男のふところに、もういちど帰っていくなんて! そんなことあたし理解ができないわ! 姉さんにはできても、あたしにはできない!」
 これだけのことをいって、彼女は姉の方を見やった。ドリイが悲しげに頭《こうべ》を垂れて、じっと黙っているのを見て、キチイは考えたとおりに部屋から出て行くのをやめ、ドアのそばに腰をおろし、ハンカチで顔を隠して、うなだれた。
 沈黙は二分ばかりつづいた。ドリイは自分のことを考えていた。彼女が常づね感じていた自分の卑下した態度は、妹にいいだされてみると、かくべつ痛く胸にひびいた。彼女は妹がこれほど残酷なことをしようとは思いももうけなかったので、むっとしてしまった。が、ふと衣ずれの音とともに、とつぜん堰《せき》を切って出たのを無理におし殺したような慟哭《どうこく》の声が耳に入った。と、だれかの手が下の方から彼女の頸にからみついた。キチイは姉の前にひざまずいていた。
「ドーリンカ、あたしとてもふしあわせなのよ!」と彼女はすまなそうにささやいた。
 涙に濡れたかれんな顔が、ドリイのスカートの中に埋もれた。
 涙はさながら、姉妹《きょうだい》の意志を疎通さす機械の運転に、なくてはならない油か何かのようであった。二人の姉妹は泣いたあとで、いいたいと思うのとは別のことを話し出した。しかし、よそごとを話しながらも、彼らはお互に理解しあった。キチイのほうでは、自分の腹たちまぎれにいった良人の不行跡《ふしだら》と妻の屈辱うんぬんのひと言が、あわれな姉の胸を底の底まで傷つけたけれど、姉はそれを赦してくれたということを悟った。ドリイはまたドリイで、自分の知りたいと思ったことを、残らず悟った。彼女は自分の推測がまちがわなかったことを確信した。キチイの悲しみ、癒《いや》すことのできない悲しみは、レーヴィンが求婚したのにそれを拒絶したこと、ヴロンスキイが彼女を欺いたこと、今では彼女もレーヴィンを愛して、ヴロンスキイを憎む気持になっているのだ。キチイはそのことについては、ひと言もいわなかった。彼女はただ自分の心の状態を話したばかりである。 
「あたし悲しいことなんか少しもないのよ」と彼女はすっかりおちついてから、こういった。「でも、姉さんにはとてもわかりっこはないでしょう。あたしなにもかもが、けがらわしく、いやらしく、下品に思われてきたわ、なによりも第一にあたし自身が。あたしが何事につけても、どんなにけがらわしいことを考えるか、姉さんにはとても想像がつかないでしょうよ」
「まあ、あんたがいったいどんなけがらわしいことを考えるのでしょう?」とドリイは、ほほえみながらきいた。
「とても、とてもけがらわしい、下品なことよ。あたし姉さんにいえないわ。それはふさぎの虫でもなければ、倦怠というのでもなくって、ずっといけないものなの。なんだか、あたしのもっていたものが、すっかりどこかへ隠れてしまって、一等いやらしいものばかりが残ってるみたい。さあ、なんていったらいいかしら?」姉の眼にけげんそうな表情を見て、彼女は言葉をつづけた。「現に今もパパがあたしに話をしかけなすったでしょう……するとあたしは、パパはただあたしが結婚しなくちゃならないと、ただそればかり考えてらっしゃるような気がするの。ママがあたしを舞踏会へつれてって下さると、あたしすぐそう思うの――ママがつれ出して下さるのは、ただ少しも早くあたしをお嫁にやって、やっかいばらいをするためなんだわ、ってね。そんなことまちがってるのは承知してるんだけど、あたしそうした考えを追いのけることができないんですの。いわゆる花婿の侯補者ってものは、あたし見ていられないわ。みんなあたしの寸法をとってるような気がするんですもの。前は、舞踏服を着てどこかへ出かけていくのが、ただもう単純な満足を与えてくれて、あたし自分で自分に見とれていたもんだけど、今は恥ずかしくって、ばつが悪いばかりなの。で、どうしろっておっしゃるの? お医者さまは……え…」
 キチイは口ごもった。彼女はそれからつづいて、この変化が生じて以来、オブロンスキイがいやになって、思いきり下品な醜いことを想像しないでは、姉婿を見ることができない、ということが話したかったのである。
「で、まあ、あたしはなにもかも思いきり下品な、けがらわしい姿で想像するようになったんですの」と彼女はつづけた。「それは、病気のせいなんですわ。もしかしたら、そのうちになおるかもしれませんわねえ」
「あんた考えないほうがいいのよ……」
「考えずにいられないんですもの。ただ子供といっしょにいるときだけいい気持なのよ、姉さんのところにいるときだけ」
「あんた家へくるわけにいかなくって、残念だわ」
「いいえ、あたし行くわ。あたしもう一度猩紅熱をしたんですもの、ママにお願いするわ」
 キチイはとうとう我《が》を張って、姉のもとへ移った。それから、案の定《じょう》やってきた猩紅熱の間じゅう、子供たちのめんどうをみてやった。二人の姉妹は、無事に六人の子供たちを守りおおせたが、キチイの健康は回復しなかった。で、大斎期《だいさいき》になってから、シチェルバーツキイー家は外国旅行の途に上った。

[#5字下げ]四[#「四」は中見出し]

 ペテルブルグの上流社会は元来、一体をなしていて、すべての人はおたがい同士知りあってるばかりでなく、おたがい同士ゆききしあっているほどである。しかし、この大きな組織にも、おのずから分類があった。アンナ・アルカージエヴナ・カレーニナは、二つの異なったサークルに友達があって、密接な関係をもっていた。その一つは良人の属している勤務関係の官僚的なサークルであって、社会的条件から見ると種種雑多な組み合わせで、いとも気まぐれに結び合わされ、または引き離される同僚や部下たちから成っていた。アンナははじめのうちこれらの人々に対して、ほとんど敬虔《けいけん》といっていいほどの尊敬をいだいていたが、今ではその気持を思い出すのに骨が折れるくらいであった。いま彼女はこれらの人々を、小さな地方の町の人々がおたがい同士知りあっているように、一人残らず知りぬいていた。だれそれはどういう癖があり、どういう弱点を持っているか、だれそれはどっちの足の靴が窮屈か、といったようなことも承知していれば、彼ら相互間の関係も、政治中心との関係も知っており、だれはだれを頼りにしているか、それはまたどんなふうに、何を手段としているか、だれはだれとどういう問題で提携もしくは乖離《かいり》しているか、というようなことも心得ていた。けれども、この官僚的、男性的興味で固まったサークルは、伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナからいくらありがたみを説いて聞かされても、彼女の興味をそそることができなかった。で、彼女もそれを避けるようにしていた。
 もう一つアンナの親しみを感じているサークルは、カレーニンが栄達の踏台にしたものであって、そのサークルの中心に納っているのは、伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナである。それは年をとった、器量の悪い、信心ぶかい、有徳な婦人たちと、聡明《そうめい》で、学問のある、名誉心の強い男子連の集りであった。このサークルに属する聡明な男の一人が、これを『ペテルブルグ社交界の良心』と名づけた。カレーニンはこのサークルを大いに尊重していた。だれとでも、調子をあわせていくことのできるアンナは、ペテルブルグ生活の初期には、このサークルの中にも、いくたりかの親友を発見したものである。ところが、今度モスクワから帰ってみると、このサークルがたまらなくいやになってきた。彼女は自分もほかの人たちも、みんな仮面《めん》をかぶっているような気がして、この連中のあいだにいると退屈で、ばつが悪くなるのであった。そういうわけで、彼女はなるたけリジヤ・イヴァーノヴナのとこへ行かないようにした。
 最後に、アンナの関係していた第三のサークルは、本当の社交界であった。それは舞踏会、晩餐会、輝かしい衣装くらべの社交界であった。売笑の世界まで堕落しないために、片手でしっかりと宮廷につかまっているこの社会は、自分では売笑の世界を軽蔑しているつもりでありながら、その実、かれらの趣味はそれと似かよっているどころか、全く同じものなのであった。このサークルとアンナとの関係は、公爵夫人ベッチイ・トヴェルスカヤを通じて保たれていた。これは彼女の従兄《いとこ》の妻で、年十二万ルーブリからの収入があった。アンナが社交界へ現われたそもそものはじめから、彼女にほれこんでしまって、なにかとちやほやしては、自分のサークルへひっぱりこもうとした。伯爵夫人リジヤ・イヴァーノヴナのサークルを冷笑して、
「わたしも年をとってみっともなくなったら、あんなふうになりますよ」とベッチイはいった。「でも、あなたみたいな若くて美しいかたは、あんな慈善院へ入るのはまだ早すぎますよ」
 アンナもはじめのうちはできるだけ、トヴェルスカヤ公爵夫人のこのサークルを避けるようにしていた。というのは、この交際には彼女のふところ以上の金がかかったし、それに彼女自身こころの中では、どちらかといえば、リジヤ・イヴァーノヴナのサークルを好んでいたからである。ところが、モスクワへ行ってから、それがあべこべになってしまった。彼女は以前の修養の友を避けるようになり、はなばなしい社交界へ出入りするようになった。そこで彼女はたびたびヴロンスキイに出会い、出会うたびに胸の躍るような喜びを感じた。一番よくヴロンスキイに出会うのは、ベッチイの家であった。彼女はヴロンスキイ家の出で、彼とは従姉弟《いとこ》同士にあたっていた。ヴロンスキイは、アンナに会えそうなところだったら、どこへでも姿を見せ、機会あるたびに、自分の愛を彼女に告げるのであった。彼女はそれにたいして、因縁《いんねん》をつけられるようなことはいっさいしなかったけれども、彼と顔をあわすたびに、はじめて汽車の中で彼を見たあの日と同じように、生きいきした感情が心のなかに燃えあがるのであった。彼女自身も、彼を見ると、自分の眼に喜びの色が輝き、唇が微笑にほころびるのを感じた。そして、この喜びの表情を消すことはできないのであった。
 はじめのうちアンナは、彼が大胆にも自分をつけまわすのを不満に思っていると、真剣に信じきっていたが、しかしモスクワから帰ってまもなく、ヴロンスキイに会えると思っていた夜会へ来てみて、彼の姿が見えなかった時、急にものさびしい気分にとらわれたところから、彼女は自分で自分を欺いていたことを悟った。このつけまわしは、彼女にとって不快でないばかりか、これこそ彼女の生活興味の全部をなしているのであった。

 有名な歌姫の第二回出演というので、上流社交界の全部が劇場に集った。第一列目の自分の席から従妹を見かけたので、ヴロンスキイは幕間《まくあい》も待たず、その桟敷へ入って行った。
「あなた、どうして食事にいらっしゃらなかったの?」とベッチイは彼に話しかけた。「全く恋する人の直覚力には驚いてしまいますね」と彼女は、相手一人にだけ聞えるような声でこうつけたした。「あのひとがこなかったからなのね[#「あのひとがこなかったからなのね」に傍点]。でも、オペラがすんだらいらっしゃいね」
 ヴロンスキイは質問の表情で彼女を見やった。彼女は頭をかがめた。ヴロンスキイは微笑で感謝のこころを見せ、そのそばに腰をおろした。
「でもねえ、あなたの日ごろの皮肉を思い出すとねえ!」この種の情熱の成否を注視することに、特殊な興味をいだいている公爵夫人ベッチイは言葉をつづけた。「あれはいったいどこへ行ってしまったのでしょう? あなたはとりこになってしまったのねえ」
「僕は、そのとりこにされることばかり念願にしてるんですよ」持ち前の、おちついた、人のよさそうな微笑を浮べながら、ヴロンスキイは答えた。「もし、何か不足があるとしたら、とりこにされかたが少ないからですよ、正直にいいますとね。僕は希望を失いかけましたよ」
「いったいどんな希望をもつことがおできになりますの?」とベッチイは自分の親友のために侮辱を感じてこういった。「entendons nous(ひとつ伺いましょう)……」しかし、その眼の中にちらちらしている火花は、あなたがどういう希望をもつことができるか、わたしもあなたと同じくらい正確に、よく承知しております、といっていた。
「まるでないのです」とヴロンスキイはびっしり並んだ歯を見せて、笑いながら答えた。「失礼」とつけ加えて、彼はベッチイの手からオペラ・グラスをとり、そのあらわな肩ごしに、向こう桟敷を見まわしにかかった。「僕は自分がだんだんこっけいな人間になっていきゃしないかと、それが心配なんです」
 そのくせ彼はよく承知していた。ベッチイをはじめ、すべての社交界の人々から見て、彼は決して物笑いになるような危険を冒してはいなかった。これらの人々の目から見ると、生娘とか、一般に自由な立場にある女に不運な恋をしている男は、あるいはこっけいに映るかもしれないが、良人のある婦人を追いまわして、是《ぜ》が非《ひ》でも姦淫関係にひき入れようと命がけになっている男の役まわりは、なにかしら美しい偉大なところがあって、決してこっけいに見える気づかいはない。それを彼はよく心得ていた。そういうわけで、彼は口髭《くちひげ》の下に誇らかな楽しそうな微笑を躍らしながら、オペラ・グラスをおろして従妹の顔を見た。
「ね、いったいどうして食事にいらっしゃらなかったんですの?」とベッチイは、彼に見とれながら問いかけた。
「それは、ひとつお話しなくちゃならんことがあるのです。僕は忙しかったんですが、それがなんだと思います? これは百のうち九十九まで……いや、千のうち九百九十九まで、ご想像がつかないでしょう。じつはね、ある良人と、その細君を侮辱した人間を仲直りさせていたんです。いや、本当ですとも!」
「で、どうですの、その仲直りは成立しましたの?」
「ほとんどね」
「それはぜひ聞かせていただかなくちゃなりませんね」と彼女は立ちあがりながらいった。「今度の幕間にいらっしゃいな」
「だめなんです、僕はフランス劇場へいかなくちゃなりませんから」
「ニルソンを聴《き》かないで?」とベッチイは、ぞっとしたようにいったが、そのくせご当人、ニルソンとただのコーラス・ガールとの区別もつかないのであった。
「どうもしかたがありません。むこうで会う約束をしてるんですから、やっぱり、その仲裁役の一件でね」
「和らぎを来たすものは幸いなるかな、彼らは救わるべし、ですね」だれかから何か似たようなことを聞いたのを思い出して、ベッチイはこういった。「さあ、それじゃお坐んなさい、そして、どういうことか話して下さいよ」
 そういって、彼女はふたたび腰をおろした。

[#5字下げ]五[#「五」は中見出し]

「これはいささか不謹慎の嫌いはありますがね、実におもしろいお話なので、お聞かせしたくてたまらないんですよ」笑《え》みを含んだ眼で相手を見ながら、ヴロンスキイはこういった。「しかし、苗字《みょうじ》だけはいわないことにしましょう」
「でも、わたし察してしまいますわ、そのほうがかえってけっこうよ」
「いいですか、二人の陽気な若い男が、馬車を走らせていたとしましょう……」
「もちろん、あなたの連隊の将校がたでしょう?」
「僕は将校とはいいません、ただちょっと飯を食って出た二人の青年ですよ」
「翻訳なさい、一杯きげんの二人、と」
「かもしれません。とにかく、きわめて浮きうきした気分で、友だちの家の晩餐会へ行く途中だったのですよ。ふと見ると、あでやかな婦人が辻馬車に乗って、二人を追い越しながら、しきりにあとをふりかえり、うなずいたり笑ったりして見せている。少なくとも、彼らにはそう思われたのです。そこで、まっしぐらに追いかけました。ところが、驚いたことには、その麗人は、彼らの目指した家の車寄せに、馬車を停めるじゃありませんか。麗人は二階へ駆けあがりました。彼らはただ短いヴェールの下からのぞく紅い唇と、小さな美しい足を見たばかりでした」
「あなたがそう一生懸命に話してらっしゃるところを見ると、その二人のうち一人は――あなたご自身らしいわね」
「おや、あなたはたった今なんといいました? さて、二人の青年は、友だちの住居《アパルトマン》へ入りました。そこでは送別会があったのです。そこでは、まさにしたたか飲んでいたことでしょう。送別会の常としてね。宴会の間に、二人はみんなをつかまえて、この上に住んでいるのはだれだとたずねましたが、だれひとり知ったものがないのです。ただ主人の従僕が、この上にマドモアゼル[#「マドモアゼル」に傍点]が住んでいるかという二人の問いに答えて、そんなのはいくらでもいます、といいました。宴会のあとで、二人の青年は主人の書斎へ行って、未知の婦人に手紙を書きました。愛の打明けみたいな、情熱あふるる手紙を書いて、自分でそれを二階へ持って行きました。手紙では十分わかりにくいことを、よく説明するためにね」
「あなたはなんのために、そんなけがらわしいことをお話しなさるの? で、それから?」
「ベルを鳴らしました。すると女中が出てきたものだから、その手紙を渡して、自分たちは二人とも恋いこがれて、今にもこの戸口で死にそうだといったものです。女中はけげんそうに押し問答しています。と、ふいに腸詰《ソーセージ》みたいな頬髯を生やした紳士が、うで蝦《えび》のように真赤な顔をして姿を現わし、この家には、自分の身内よりほかだれもいやしないといって、二人を追い出してしまいました」
「その人が腸詰みたいな頬髯をしているなんて、どうしてごぞんじですの?」
「まあ、聞いてらっしゃい。僕は今日その連中の仲裁に行ったんですよ」
「で、それがどうなりました?」
「さあ、ここがいちばんおもしろいとこなんです。聞いてみると、それは九等官と九等官夫人の幸福な夫婦なのでした。九等官氏が訴えて出たものですから、僕、仲裁役になったんですが、その仲裁ぶりはどんなだったと思います!………誓っていいますが、僕に比べたら、タレイランもものの数じゃありません」
「なんでそう骨が折れたんですの?」
「いや、まあ、聞いて下さい……われわれはしかるべく謝罪しました。『私たちはとほうにくれているのです、あれは不幸な誤解なんですから、どうか平《ひら》にお赦しを……』といったわけで……腸詰をくっつけた九等官も、そろそろ折れ出したんですが、しかしご同様に自分の感情を吐露《とろ》したくなってきた。それはまあいいが、そいつを吐露しはじめるが早いか、恐ろしくのぼせあがって、乱暴なことをいいだしたものだから、僕も、自分の外交的才能を駆使《くし》しなければならなくなった次第です。『なるほど、彼らの行動がよくなかったのは私も認めますが、しかしどうか、思い違いということと、彼らが若いってことを考慮に入れていただきたいもので。おまけに、彼らはちょっと前に食事をしたばかりなんですから。ね、わかって下さるでしょう。彼らは衷心《ちゅうしん》から後悔して、どうか罪を赦していただきたいといってるんですから』九等官はまた折れてきました。『なるほど、私も異存ありません、伯爵。しかし、察しても下さい、私の家内が、れっきとした婦人が、追いまわされたり、ずうずうしく失礼な目にあわされたんですからな、どこの馬の骨ともしれぬ若造《わかぞう》に、やくざな野郎に……』ところが、どうでしょう、その若造がその場にいるんですからね、また両方をなだめなくちゃならない。またぞろ僕は、外交的手腕を発揮しなくちゃならなくなりました。やっと事を円く納めようとするとたん、わが九等官、また真赤になって逆上《のぼ》せあがって、例の腸詰をふり立てるものだから、僕はまたしてもまたしても、微妙な社交術の限りをつくすという騒ぎです」
「ああ、この話はぜひあなたにお聞かせしなければなりませんわ!」とベッチイは、桟敷へ入って来た婦人に話しかけた。「この人にすっかり笑わせられてしまいましたのよ……では、bonne chance(ご成功を祈りますわ)」手に扇を持っていたが、彼女はあいた指をヴロンスキイにさしだし、ちょっと肩を動かして、ずりあがった上着の胴を下げながら、こうつけたした。それは、フットライトの方へ行って、ガスの光の中で一同の目にさらされるとき、すっかり肩をあらわにしておくためであった。
 ヴロンスキイはフランス劇場へ行った。そこでは本当に連隊長に会わねばならぬ用があったのである(連隊長は、フランス劇団の芝居は一度も欠かさない人であった)。それは、もうこれで足かけ三日というもの、忙しい思いもさせられているが、同時にお座興にも感じている仲裁の件について、連隊長と打合わせをするためだった。この事件には、彼の好きなペトリーツキイと、もう一人、最近入隊したケードロフという若い公爵で、友だちとして申し分ない好漢が、関係していたからでもあるが、何よりも重大なのは、これが連隊の利害に関する問題だったからである。
 二人ともヴロンスキイの中隊に所属していた。ある官吏が連隊長のもとへ、自分の妻を侮辱した部下の将校を訴えにきた。それが九等官のヴェンデンであった。ヴェンデンの話によると、その若い妻は――彼らは結婚してまだ半年にしかならなかった――母親といっしょに教会へ行ったが、急にかの状態([#割り注]月経[#割り注終わり])のために気分が悪くなり、じっと立っていられなくなったので、手あたり次第の辻馬車に乗って家路へ向った。すると、あとから将校たちが追ってきたので、彼女はびっくりしてしまい、ますます病気がひどくなって、わが家の階段を駆け昇ったわけである。当のヴェンデンは役所から帰ると、ベルの音が聞え、だれかの人声が耳に入ったので、玄関へ出てみると、酔っぱらいの軍人が手紙を持っているので、外へ突き出してしまった。彼は厳重に処罰してくれと頼んだ。
「いや、君がなんといったって」と連隊長は、さっそくヴロンスキイを自宅へ呼んで、こういった。「ペトリーツキイはだんだん手に負えなくなる。ただの一週間だって、問題を起さずにすんだことがない。あの官吏はこのままでひっこみはせん、どこまでも押していくよ」
 ヴロンスキイは、この事件のかんばしくないことを見てとったが、決闘なんてことにはなりっこないから、その九等官をなだめて、事件をもみ消すため、できるだけのことをしなければならぬと考えた。連隊長がヴロンスキイを呼んだのは、彼が潔癖で聡明な人間であって、しかも第一に、連隊の名誉を尊重する将校であることを、承知していたからである。二人はいろいろ相談したあげく、ペトリーツキイとケードロフが、ヴロンスキイと同道で、その九等官のところへ謝罪に行くことにきめた。連隊長もヴロンスキイも二人ながら、ヴロンスキイという名前と、侍従武官の徽章《きしょう》は、九等官をなだめるのに、大いに力があるに相違ないということを、ちゃんと心得ていたのである。はたせるかな、この二つの武器はある程度、効を奏した。仲裁の結果は、ヴロンスキイも話したとおり、依然として不徹底であった。
 フランス劇場へ着くと、ヴロンスキイは連隊長といっしょに運動場へ行って、自分の成功というか、失敗というか、を報告した。いっさいの事情を考慮したうえ、連隊長はこの事件を未解決のまま放任しておくことにきめたが、そのあとでおもしろ半分に、会見の顛末《てんまつ》をヴロンスキイに根掘り葉掘りした。いったん折れて出そうになった九等官が、事件の詳細を思い出して、急に逆上《のぼ》せあがったこと、ヴロンスキイが最後に、あいまいな仲裁の言葉を述べながら、いいかげんに舵《かじ》をとっておいて、ペトリーツキイをさきに押し出しながら、退却した一部始終を聞くと、長いこと腹をかかえて笑った。
「いやな話だが、腹の皮を縒《よ》らせるよ! まさかケードロフがその先生と決闘するわけにゃいかんなあ! では、かんかんになって怒ったかね?」と彼は笑いながらきき返した。「ところで、今夜のクレールはどうだ? 正に奇蹟だ!」と彼は新しいフランス女優のことをいった、「いくら見ても、毎日あたらしい感じなんだからな。こいつができるのは、フランス人ばかりだよ」