『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

ふつうのくつや 医師衛生兵関連その14 略あり ひめゆり学徒隊

[1] チャプター1 希望に燃えていた学園生活 再生中04:20
卒業生では私が最後の卒業です。昭和20年で。一高女の最後の生徒、ということになりますね。

Q:その入学した当初といいますか、戦争が始まる前ですよね。学校の雰囲気というのはどういう感じだったんですか?

そ うですね、もちろんあの、小学校のころからやっぱり15年戦争の中の学園生活、学校生活ですから、小学校にいるころから慰問文書いたり、戦争はどうなって るとか、そういう雰囲気はもう中で過ごしていましたから、入ってその続きというか、まだ15年戦争の中の雰囲気でしたけど。でもそんなに緊迫した感じじゃ なかったですね。逆に、もう何か一高女に入学してからは、すごい希望に燃えてますから、たいへん周辺が明るく見えましたね。

Q:学校のなかで軍事的な色彩といいますか、軍事教育、軍事教練といいますか、そういうものが入るようになってきたのはいつごろからだったんですか?

そ れは3年生のころからです。1、2年生の間は、わりかし自由とまではいかなくても、のびのびした雰囲気でしたね。1年生のときに「駅馬車」というアメリカ 映画を見て、もうそれがとても感動したんですよ。それがきっかけで英語が好きになったりしたんですけど。そういう雰囲気だったのが、突然2学期に、12月 8日、太平洋戦争が始まりました。それからぐっとまた雰囲気が変わりましたね。校長先生も朝礼のたびに「アメリカと戦争をしている。心を一つにして、その 戦争を勝ち抜くために皆頑張らんといかん」というような話が、講話が多くなりましたね。だから、1年生の2学期後から、でもそれでも、そんなにまでも「戦 争だ、戦争だ」という雰囲気ではなかったんですけれどもね。入った時期に比べて、やっぱり少し、軍事化に少しずついってたんじゃないかなと思いますね。で も授業の中ではそんなに。例えば体育の中でも普通の、そんなにまで、例えば竹やり訓練とかそんなのなんかないんですよ。2か年は、あまり私は変化なかった と思います、大きな。3年生から急激に変わったんですよ。

Q:3年生というと何年?

ちょうど昭和18年です。国も戦況が悪化して、いろいろ玉砕とか、そういうような、何かすごい緊迫したニュースが伝わるようになって、それからだんだん学園生活も厳しくなっていきましたね。


[2] チャプター2 皇民化教育 02:42
やっぱり琉球の国の間はほんとにのんびりと自分たちで、自治も自分たちで、自治的な生活をしていたわけですよね。それが明治の終りに日本に統一されて沖縄 県になって、明治・大正・昭和と、その、なった途端に沖縄の人の民度が低いとか、それから方言を使って日本の人とは相いれないとか、いろんなことが目につ いたわけです。それを結局、日本政府は早く同化させたい、本土の人たちと同じように。それで、立派な日本人になれと。立派な日本人になるということは、結 局、日本国民が尊敬、崇拝している天皇陛下皇后陛下を大事にする、それから考え方も本土の人に負けないように、考え方に追いつくように勉強するとか、方 言は相いれないからもう方言は使わないとか、そういったいろんな制約、その全てが皇民化教育じゃないですか。それが結局は成功したというか、沖縄戦で花開 いたわけですよね。だから、そういう皇民化教育というのは単に1、2年やったんじゃなくて、明治大正昭和と長い期間をかけてやってますよね。特に、おじい ちゃん、おばあちゃんの写真を飾っていたところに天皇陛下皇后陛下の写真と替えるとか、そういうふうに、政府からいろいろ指導して、それがあとは実際に 思想的になってしまうわけですよね。だから皇民化教育というのは、県民にとってはじわりじわりじわりと、立派な日本人になるためにはどんなことも耐え忍ぶ と、それが沖縄戦で発揮されたと思うんですよね。


[3] チャプター3 反対した両親 04:41
ちょうど昭和20年の2月22日。ここがもう大空襲だったんですよ。ほとんど学校全体がやられて、そこの近くの井戸があったんですけど、そこでもいっぱい 人が死んでましたしね。それでもう壊滅状態になって、寮が少しと修養道場が残っていましたけどね、その晩、私は先生方から「今晩すぐ実家に帰りなさい」と 言われた。みんなそのまま夜ですよ。夜の道を通って、歩いて実家に帰った。54キロぐらい歩いて。あのときはもう汽車も爆破されて、バスもないですよね。 先生方は帰る前に、「近いうち学徒動員で南風原陸軍病院に行くので、その許可を両親にもらってきなさい。で、しばらくしたらまた寮に戻ってきなさい」 と、そうやって帰されたんです。私はずっと何キロも歩いて行きまして、ちょうど今、泡瀬という所がありますけどね、そこへ行ったらもう半分以上空爆でみん な焼け野原になって、いくらかは残ってました。私の父が住んでたところはもうダメだった、もう焼かれて。それでずっと近くの比屋根という小さな村がある、 そこの方に避難してたんですよ。で、探し探し行って、ちょうど父と母がいる所に、小さな小屋だったんですけどね、弟と妹、そして父母の姿を見て、家で全部 なくなったよと。父はもうただ、僕は何を失くしても、何でもいいけど、本だけはもう悔しいと言ってました。本を全部焼いてしまったと。でも私は無事な姿を 見て。で2、3日してから私言ったんですよ、「寮に帰らないといけない、お父さん、近いうち戦場動員があります」と。先生方から「動員に行っていいかどう か、父母の許可もらってきなさいと言われた」と言いました。そしたら父は即座に「お前を16歳まで育てたのは、死なすためじゃない」と言ったんですよ。私 はもう、父は小学校でいつも見ていますから、小学校時代、体育主任をして号令をかけたり、すごい元気な父だったんですよ。もう本当に自分が理解できなかっ たですね、父を見て。何であの学校にいる、あの姿とはまるで違うと。本当に父の顔をまじまじと見ましたよ。何を言ってるんだろうと。そして更に、「女の子 が戦場へ行くな」と言ったんです。だって自分は生徒には戦場に行きなさいと、そういう教育をしている教員ですよね、とっても私、不信感を持ちましたね。し ばらくしたら、母が隅っこのほうで泣いてたんですよ。そして私に、「お父さんの言うとおりよ。行かないで、一緒に、山原(ヤンバル・沖縄本島北部)に逃げ なさいと言われてるから、一緒に逃げよう。もう卒業証書もいらない、将来教師になれと言ったのもそれもいい、一緒に逃げよう、帰らないで」と言った。その とき私は母に、「お母さん、非国民と言われるよ」と。非国民というのは当時沖縄の県民にとってはいちばん侮辱的な言葉ですよね、母が泣いているのを、本当 にこう、こうやるのを振り払うようにして、その小屋を飛びだして、また夜ずっと歩いて、ちょうど普天間あたりに来たときはやっぱり母が泣いてたことを、何 か頭に浮かんでちょっと悲しくなったんですよ。やっぱり親はつらいだろうなと思ったんですよね。ちょっと泣いたんです。でも気を取り直して寮に戻りまし た。寮に戻って、翌3月23日に戦場に行ったんです。だから1か月前には許可をもらいに行ってました。

(略)