『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

ふつうのくつや 医師衛生兵関連その15 略あり ひめゆり学徒隊

[1] チャプター1 あこがれの師範学校 再生中03:48
私たちは、師範学校は離島から来た人は寮生活だったんですね。それですから、私は石垣島から来ましたので、さっそく寮に入ったんです。まず寮生活を最初か ら、学校の授業よりも、もう寮生活になじむのが大変だったと思っております。でもその寮には必ず自分の出身の上級生が入っていたんですね。だから、その上 級生が、下級生が来たときには、この生徒は自分の部屋に入れろというようなこともあったと聞きました。私の入ったのは、私は、寮の1年のときの寮は南寮の 一室です。そこの室長が大浜ヨシといって、師範学校の優等生でいらっしゃったんですけどもね、その人の部屋に私は入ったんですね。だけどその寮生活という のは、もう本当に時間がぎりぎりで、次々と仕事をしないといけない。朝は6時起床で、そして洗面をすると、すぐそれぞれの部署に就いて掃除をしないといけ ない。校門の掃除というのは各部屋から1人出て、校門のあの長いのを掃除するんですね。最近になって資料館が始まってから、津波古さんたちは、とてもきれ いなあそこの校門、あの掃かれた所の校門を入って来るからね、「ああ気持ちいいねと思ってた」と、「寮生がそんなことをやってるとは夢にも思わなかった」 と言ってます。そのような寮の当番、それぞれ分かれてですね、食堂だったら食堂の当番もいるし、部屋もあるし、校門は一つの部屋から1人ずつ出てやると。 そういうこともありました。だからそのような、ちゃんとした時間に沿った行動をしなければいけないということが、師範学校に入って初めての経験でした。う ちにいるようなことでは学園生活は間に合わないっていうことでしたね。そして、夜の勉強時間は2時間です。2時間で、8時から10時まで。10時になった ら消灯時間です。だからその間、寮生はみんな一生懸命に勉強していました。だから、鉛筆の走る音、それしか聞こえないぐらいですね。それぐらいにみんな熱 中して勉強していたと思います。


[2] チャプター2 開戦後の生活 03:09
Q:昭和16年、まだ入ったころというのは戦争が始まってませんから、ある程度自由な雰囲気はあったと思うんですけども、戦争が始まった前後、その後からはどういうふうに変わっていったんですか?

そ うですね、もう寮の生活というのは規則正しい生活ですから、そんなにありませんけれども、まず変わったのは、宮城遙拝はもう最初からやっておりますけれど もね、変わったのは、物資がないんですよ。食糧がないから食糧増産に連れて行かれたり、また炊事のおばさんとかおじさんがいまして、その人が買い出しに行 くわけですよね。買い出しに来たところのものは、その生徒たちの炊事当番が洗わないといけない。そして芋を削らないと。芋を削って、それをご飯に入れます よね。入れるというようなことをする。その手伝い。それは生徒にもさせられました。

汽車通学の生徒たちがいますね、その人たちは土曜に なったらうちに帰って一泊うちで泊まって日曜に帰るんです。だからその人たちは、うちに帰ったときはたっぷり食べて帰ってきますよね。だけど先島の人た ち、宮古八重山の人たちは帰ることができない。久米島もそうですよね。そういうふうな状態でしたね。それで、やっぱり親たちは自分の子どもが大変ひもじ くしているんじゃないのかと、いろいろ心配することが多かったと思うんです。だから私のうちではですね、必ず大体1か月に1回くらい、“ユヌク(炒った麦 を石臼で引いて粉にしたもの)”ってお分かりですか?むねん。このゆぬく、それに砂糖を入れますよね。ちょっと混ぜて。そして、送ってくれたんですよ。だ から小包が来たらね、みんな楽しみなんです、部屋全体が。だからみんな寄ってきて。そしてこのゆぬくを食べるんです。「がじゅまる」の葉がありますね。そ れすくうのに、さじの代わりになりますでしょ。みんな、その「ガジュマル」の葉っぱを持ってきて、さじですくって食べると。だから、せっかく送ってくれた ゆぬくが一晩でなくなりました。だから、親はそれは分からないですよね。子どものためにといって送ってくれたけれども、一晩でなくなってしまうというよう な状態で。だから、みんな仲良く分け合って食べるというのが寮生活でした。


[3] チャプター3 陣地構築 01:16
私が出たのは18年が主ですね。ガジャンビラとか、小禄小禄がとても長かったような気がします。小禄の飛行場ですね。飛行場の排水溝を作り、それはもう あれでした。今の那覇空港ですけどね。そこはもう、暑い中で排水溝を作らないといけませんよね。だから掘って掘って、排水溝だから穴を開けないといけない ということで、少しでも手を休めてたら「何してたんだ貴様!」て兵隊出てきてぱんぱんとビンタはられると。そういうこともありました。私はビンタはられな かったんですけどもね。そんな友だちも見たことがあります。だからもう本当に、兵隊が来たら一生懸命やってるつもりで、また、やらなければいけないという ふうに思っていましたけどね。


[4] チャプター4 始まった「看護訓練」 01:19
看護訓練は、最初は軍から衛生兵が来まして、講堂などで包帯の巻き方とか皮下注射の打ち方、そういうのをちょっと教えてたんですね。それが、そんなことを しただけで、脈拍の取り方、そんなのを習っていました。講堂で教えて。そして、3月の23日に戦争になったら南風原に行くということは決まっていたんです ね。だからその前にちょっと南風原に行って様子を見に行ったりしました。みんな、先生と一緒にですよ。行って様子を見たりしたんですけど、そのときはそん なに負傷兵もいませんでしたからね。それを見せられたときは「ああ、自分たちにも出来るのかな」というような思いを持ったんですね。

(略)