『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

沖縄県伊江島 その05 略あり

1928年生まれる
 青年義勇隊に所属
 日本軍に急増爆雷を使った特攻訓練を受ける
 地上戦でも手りゅう弾を手に戦車に特攻

[1] ちょうちん行列 02:11
[2] 島ぐるみの飛行場建設 01:50
[3] 日本兵と取った相撲 02:43
[4] 十・十空襲 05:50
[5] 米軍上陸 02:57
[6] 戦車への攻撃 06:35
[7] 捕虜 06:28
[8] なぜ、戦ったのか 02:59


[1] ちょうちん行列 02:11
あのときは日本は全部勝ち戦だからね。この前話したように、ちょうちん行列したり、旗行列したりですね、勝ったときは。1年に2、3回ありましたよ。

Q:ちょうちん行列が。宗真さんはそれに参加しましたか。

やりました。

Q:どんなことをしましたか。

太鼓打ち。

Q:もっと詳しく、太鼓を打ちながら何をやったんですか。

太鼓を打ちながら行列を歩くんですよ。この前の道路をこうしてずっと西に行って。

Q:これは何のための行列なんですか。

旗行列で、城を落とした、戦したときはぜひこれをやらなければいけないといって。あんなのありましたよ。

うれしかったね。勝ち戦の話しだけですから。ほんとに戦争というのは日本が勝っても、あとあとどうしようかね、どうしようかねしながら、だんだん負けていってよ。


[2] 島ぐるみの飛行場建設 01:50
朝行くあれだから5時ぐらいにみんな起きて、学校の登校班と同じで一緒に集まってから行きよったんですよ。

Q:きつくはなかったですか、仕事は。

みんなと一緒だから、笑顔で話して、また、2人でモッコなんかをあれして、石をこぼしたりするとき競争してよ。今度大きく叫び、強くあれしたもんだから、あまり騒がないようにしてと隊長から言われてね。

Q:日本兵から。

戻ってきたよ。これはずっとわからんところまで聞こえるから、あまり騒がないようにしなさいよと。しかられはしなかったが。だから、兵隊というのはあまり人をしからないんだねと言っていた。


[3] 日本兵と取った相撲 02:43
何軍曹でしたかな。伍長でしたかな。体は小さいし、今の大きさもないからね、もっと小さかったから。よく珍しいやつがいる。投げるでしょう。ああ負けだ、君強いねと言って、壕(ごう)のところに入ったら、すばらしい青年がいるよと。よく見ているね、あれのする技といって。また休憩になると全部相撲場に集まって、自分たちで作って、そこでよくやりましたが。

Q:そこに日本兵の人もたくさん。

はい。相撲は「沖縄相撲」といって、取っ組み合いですよ。あれするように審判員がいて、審判が沖縄相撲のときには抱かして上等に抱いて、審判が「よし」と言ったらやるんですよ。だからすぐ技でね、よく来よったです。つかまえてすぐ投げて。

学校が青年学校ですから、人形を作って、「突けー、突けー」、これはやりました。もうほかにないから、技は。戦争のことだけしか教えないから。だれが聞いても何しても、やっぱし全部一緒に働くだけであって、何も文句とか何とかは言えなかったです。


[4] 十・十空襲 05:50
上から飛んでいるのをよく見ましたよ。弾は落ちるんだが、弾とはわかるわけ。敵のものとは思わない。日本人のものと思ったわけ。

Q:日本軍の飛行機と思ったんですか。

日本の飛行機と思った。後ろの方にまだ西村隊は南の方に行かなかったですから、「あれは空襲だよ」と沖縄の兵隊が叫んで、大変だよ、空襲が来ているということでやりましたが、あれはちょっと、もう少し前に聞かされておけばどんなことをするものがいたらこれは敵と思いなさいとか何とか、そんなことは教えられないで、ただ、非常に日本の軍隊もあんまり信用できなかった。

西の方に大きな飛行雲をまいて上に上がりよったんですよ。今度は十・十空襲のあとだから、今度は毒ガスをまかれるといって、みんなタオルを水に浸してこうして見ていたんですよね。あれはよっぽど機関銃も鉄砲もあんな高いところまでは届きませんからね。撃ちはしなかったが。

そうね、あれで一番最後、あれから1か月もしないうちで始まったんじゃないの。上陸、空襲、艦砲射撃も。僕らはそのときは軍隊に入っているからね。昼はどこにも行かれないで壕の中に隠れているだけ。夜はまたそのかわり壕掘り。
(略)