『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

沖縄県伊江島 その04 略あり

1923年
生まれる
 
役場関係者
 
戦闘開始以前に役場に雇わる
 
住民から食糧を調達し日本軍に収める役割を担う


チャプター
[1]
チャプター1
やってきた日本軍
再生中
05:09
それは覚えていますよ。ともかくもうその当時はわたしどもももう青年になっていますからね。もう日本軍が上陸してきて、タッチュー(城山)のふもとに陣地をみなそれぞれ作っておりましたんで、そのころから、ああもうこれは戦争は間近に迫っているんだなという、その気持ちは痛切でしたね。もう本当に、日本軍と言いますと、この沖縄のみじゃなくて本土からもかなりの兵隊が押し寄せてきますからね、びっくりしました。特にこの伊江島は小さな離島でありまして、こんな孤島に日本軍が来るなんて何かなというような、非常に、つまり戦争がもう間近に近づいてというふうな感じもしましたですがね。それでいつ米軍が上陸してくるのかなっていうような、そんな心配もあったです。

もう飛行場建設にはだいぶ難儀しましたよ。それも、そのころ機械というのがこの農村では少なくてですね、馬車、馬に車を引っぱらせていくわけですよ。馬車って言っていましたけど。その馬車に土砂を積み込んで飛行場の埋め立てとか地ならしとかいうふうにして、いろいろ作業場はありましたけれども、わたしどもももう青年時代ではありますけれども、協力しましたよ。でももう米軍が上陸して、あの飛行場が惨めな状態になっちゃったことを思い出すと、もう残念でたまらなかったです。

Q:飛行場はどういう気持ちで作っていらっしゃいましたか。

あれはもう、結局日本軍に全面的に協力する、日本は戦争では日本軍が絶対に勝つんだと、そういう気持ちはもう確かだったですね。それで軍への協力というのが一番大事でした。

そのころはもう、日本軍への協力を惜しむということは全然あり得なかったですよ。全村民がもう村を挙げて、戦争には勝たねばいけない、そのためには日本軍への協力だというふうな気持ちは満杯でしたね。

別に直接日本軍との関わりはなかったですよ、わたしは。ただ、今おっしゃいましたように、日本軍への食糧供給というふうな意味では、こちらで生産できるようなサツマイモ、あるいは野菜ですね、野菜と言っても大根が主でしたけれども、そういうものを各部落で収集する時期があったわけです。日本軍へ提供するために各部落、今でいう公民館ですけれども、当時は各部落の部落事務所ですね、そういうところに集まって、生産した食糧を集めていきよったです。

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チャプター2
日本軍への協力
01:29
もちろん当時の感じそのものは、もう戦争に勝つためには全面的に日本軍に協力は惜しまない、そういう気持ちは一番絶大だったですね。その後ろに、なんで住民をそんなにばかにしなければいけないかという気持ちも、もちろんちぐはぐはあったんですけれども、本当の、本来の気持ちそのものは、日本軍に協力して、日本が戦争に勝たなければいけないという気持ちそのものが大きかったですね。

それはもう、自分の家庭でもそんな気持ちは、住民をもっと大事にすべきだはずだがという気持ちはあったですよ。それはどっちかと言うと、日本軍が住民に対する強制的な言葉と言うんですか、話し合いそのものがそういうふうに感じられたんですね。

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チャプター3
揺らいできた軍への信頼
04:55
やっぱりそれ以前のことは、ほとんど日本軍が外国に戦争で負けたということは聞いたことなかったですよ。どこでも戦争では日本軍が勝っているんだという、その気持ちを一点張りに感じていたんでしょうね。米軍が上陸する前に米軍の空襲が始まったわけですね。そのときに、これはなんで日本軍が米軍に押されているのかっていう、違和感と言うんですかね、従来の信頼がなくなっちゃったような感じはいっぱいでしたね。もう壕(ごう)の中で各家庭、ほとんど避難壕を、空襲に備えての壕をつくってその壕住まいをしていたんですが、やっぱり米軍の空襲、射撃が始まって、これはもう日本は負けたなという感じはいっぱいでしたね。
この裏側の城山、つまり伊江島タッチューというんですけど、そのふもとには日本軍の陣地がいっぱいだったですよ。それで米軍はこの城山のふもとに日本軍が陣地をつくっているということをなんでわかったのか、そのへんをわたしども素人ではまったく何も感じませんでしたが、この城山のふもとを直撃なんですよ、空襲で。米軍の空襲はほとんど城山のふもとだけにやっていましたね。つまり日本軍の陣地を爆撃するという感じでした。

Q:空襲が始まって、いよいよ島が戦場になるかもしれないっていう危機感ってありましたか。

ありましたね。もう次々米空軍の空襲が激しくなっちゃって、もう自分たちの住まいの壕内では安全ではないというふうな気持ちで、みんな北海岸の自然洞くつに入って住んだんですよ。あのころからはもう、戦争が、空襲が激しくなっちゃって、もう日本軍は敗戦だという気持ちがいっぱいでしたね。

どっちかと言うと、日本軍への信頼感が大きかったということですよ。日本軍は絶対に戦争に負けることはないと、必ず戦争には勝つという信頼が大きかったんですね。ところがもうあの空襲の状況から、これではもう日本軍は戦争ではこれは勝てないなという感じから、その惜しい気持ちがたたずんで避難したわけですからね。
(略)
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