『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

M軍13 略あり

1920年
三重県上野市(現・伊賀市)に生まれる
1936年
満州国 陸軍軍医学校に入校
1944年
満州国軍軍医少尉に任官、興安騎兵第5団に配属
 
中国河北省唐山郊外で中国共産党軍の掃討作戦に従事
1945年
唐山で終戦を迎える
1946年
帰国
 
戦後は和歌山県で開業医として働く

[1] “軍医になりたかった” 07:35
[2] 蒙古人の部隊へ 04:17
[3] 行軍中に見た開拓団の人々 02:15
[4] 疑念 02:08
[5] 「五族協和」への疑問 06:09
[6] 終戦 02:20
[7] 「悪夢」 03:00

[1] チャプター1 “軍医になりたかった” 再生中07:35
私はあの、寺の住職で。当然、長男ですからね、住職の跡を継ぐ義務があったんですね。しかし、やがて、しかし、あの当時はみんな軍人に、兵隊に、徴兵検査 受けて兵隊に行きますし。もともとね、軍医が、ものすごくなりたかったんですよ。軍医にね。そうすると、まあ、その当時、異民族に接するということは前提 ですからね。異民族に接しても、もう自分の楽しい人生が送れるだろうと思っていたんですよ。で、満州に行って。その、もう軍医学校って知っていましたから ね。で、満州行って、その軍医学校の試験受けるまで、試験があるまで待っていたわけですね。

Q:軍医学校に入学されたのは、昭和何年ですか?

昭和…。あれ、そこにノート持ってきてんだけども。僕も記憶力が悪いせいで、みんな忘れてしまったんで字を書いてある。
昭 和15年4月ですね。昭和15年4月、やはり書いていますよ。日本人は7名ぐらいでしたでしょうかね。大体どこの医科大学でも募集人員少ないですよね。蒙 古人で、これは入学試験無しで蒙古政府の委託で来た生徒が蒙古人2人。あとは韓国人が1人。それから中国人は秀才ばっかりでしたね。20名ぐらいおったん でしょうか、そのぐらいです。中国人の秀才は家庭もいいし、秀才でしたよ、皆。中国ではね、軍人っちゅうのは、いい人はならないんだ。“ハオレンプータン ピン(好人不当兵)”ちゅうてね。“良い人間は兵隊にならず。良い鉄は釘にならず”という言葉があるんですね。ですから、軍人になるのはあまり尊敬されな かったけど、軍医はやっぱり尊敬されていましたね。教授連中は中国人もおりましたけど、ほとんど日本人で。私たちのとこ、おったのは熊本医科大学、名古屋 大学、東京大学、慈恵医大。ま、そのぐらいでしたかな。

Q:内地の軍医学校じゃなくて、満洲の軍医学校。

日本には軍医学 校はね、あったんですけど、それはね、医科大学を卒業してから軍事教育を受けるために1年間だけ行ったですよ。本当の軍医学校じゃないんですね、外国で言 う。もうあの、まあ名古屋大学だとか東京大学だとか、あるいは新潟医科大学とか、そういうの卒業して、そして軍医になるために1年間だけ行くんです。

で、満洲の軍医学校は始めからね、軍事教育と普通の医学教育と両方やったんです。ですから、とても忙しかったです。そして早く卒業しなきゃいかんしね。その当時、どこの大学でもそうですけどね。

Q:その、軍医学校にいらっしゃるときに、満洲国内になりますね。その満洲に渡る前に持っていたイメージと実際に渡ってから印象って、変わったところってあるんですか?

そ れは変わっていませんね。日本人はただ、よく頑張っているなと。わずか数年でね、大きな町を築いて。頑張っているな、比較的有能なものだ、と思っていまし たけど、日がたつにしたがってね、私の精神年齢もだんだん成長するにしたがって批判的になりましたね。“ローマは一日にして成らず”と言いますけど、満州 は本当に一日にして、してしまったんですね。相当無理があるんですね。あの、東北三省というのは、もうご存知だと思います。今の満洲の東北三省というので すね。黒竜江省遼寧省吉林省。これらは日本の3倍あるんですよ、面積が。それをわずか数年間でね、あれだけにするっていうのは、それは偉大ではあった けれども無理もあったと思いますね。

Q:無理の部分っていうのは、どういうところで感じるんですか?

早く町をつくるために国民に犠牲を強いらなきゃならんですね。財政的にも。それから、いわゆる土地問題に関してもね。だから無理でしょうな。無理…まあ今、中国でもだいぶ無理していますけどね。人民の土地を取り上げたり。そういうこともあったと思います。

で、あそこにロシア人の中央寺院、お寺があったんや。で、日本が占領してからハルビン神社っていうのをつくったんや。

そ こを通る中国人の兵隊にも、いちいち頭下げよと。神社の鳥居の前で頭下げよ、てなこと教育したり。朝起きたら、東京の方の宮城の方を向いて、遥拝をせい、 とか言う。で、僕はそれに反感を覚えたんや。日本人がお寺、お宮さんつくって中国人とか蒙古人に、そのお寺の、お宮さんの前でいちいち頭下げて礼せい、と か。そういうような自分の日本人の文化を強要するという、そんなものは外国人が理解するはずあるかいな、と。これは反逆精神やな。思ったんですよ。


[2] チャプター2 蒙古人の部隊へ 04:17
内モンゴル自治区というのは蒙古、ゴビ砂漠の延長みたいなもんで、砂漠なんですけれども、蒙古人と中国人の混在しているところですね。で、もうひとつ向こ うの西行きゃ、モンゴルですね。蒙古ですね。で、共存しているところで、蒙古人が牧畜をして、その肉なんかを中国人が買っていたんでしょうな。それを僕は 現場見たことないです。ただ、牧畜してあちこち動いているのだけは、もう始終見ていましたからね。

Q:その興安の部隊名は何という部隊名ですか?

興 安騎兵第5団。興安騎兵第5団ですね。蒙古人のほうは馬は上手ですからね。そこの、他にも部隊あったと思いますけど、いちばん強いと言われたのは興安騎兵 第5団ですね。で、あの辺の戦闘って言うたら申し訳ないけど、南のほうのアメリカ軍やそんなんと戦闘したのと比べたら戦争ならんですよ。やさしい戦争です からね。

Q:その第5団の任務っていうのは何になるんですか?

そう、第5団の任務。共産軍の討伐ですね、当時北支におっ た。私ら行ったタンザン(唐山)ていう、唐山と書くんですよ、人口は2~300万ぐらいの町でしょうか。で、北京、天津ご存知でしょうけど、それから少し 北の方です。万里の長城を越えて、ちょっと行ったところですね。北京、天津のほんの北側です。まあ、あの…戦争って、そんなに激戦ではないですね。ああい うのも、戦争もひとつの駆け引きで、こちらが攻めて行ったら向こうは逃げる。で、こっちが引いたら向こうが攻めてくるという。もう駆け引きですね。日本人 の考えた戦争と違いますよ。あの中国人の戦争やとか蒙古人の戦争はね。

共産党はその時分に陣地を築いていましたかね。それは、やっぱりス パイが情報提供したんか知りませんがね、蒙古軍が行くっていうことは。で、どうでしょうかな、蒙古人に対しては、そんなに中国の共産党も敵がい心がなかっ たかもしれません。ただ上のほうの指揮する人たちは戦争せえ、せえ言うからした程度でしょうね。

Q:北支に派遣されたのは鉄血部隊っていうのを編成されたんですね?

う ん、鉄血部隊っていうのに名前を変えてね。同じ部隊ですよ、興安騎兵第5団ですけどね。鉄血部隊という名前にして、確かに歩兵も1個連隊行ったと思いま す、蒙古人の。ですから私は騎兵でしたけど自分の友達が歩兵におりましたけどね。これもあんまり激しい戦闘しなかったと思います。

Q:北支の状況っていうのはその興安のほうと、やっぱり違うんですか?

うん。あの、反日一色でね。至る所に“トンヤンキー(東洋鬼)”っていうてね、東洋の鬼というような看板ね。今、日本だっていろんな店の看板出ているでしょ。ああいうふうにしてね、看板はもう至る所で“トンヤンキー”東洋の鬼、というような看板がありましたな。


[3] チャプター3 行軍中に見た開拓団の人々 02:15
日本は移民をたくさん出したでしょ。移民っていうのはね、私は、気の毒だなと思ったの。私はあの、蒙古人の騎兵部隊で演習に行くんですね。そうすると開拓団のそば、通るんですよ。貧しい生活していましたな。

あ あ日本の政府は「移民」と言うたけれども、これは言葉だけであって「棄民」、民を棄てに行ったんやなあ、と。その当時、日本に1億人もあったかないか分か らんぐらいだろうに、なぜそういう人たちを移民に出さないで日本で生活できるようにしてやらなかったかな、政府が無能だったからな、と、そのとき思いまし たね。今でも思っていますよ。

Q:その開拓団の、その貧しい暮らしっていうのは具体的にどんな暮らしをしていました?

私 は、そこ入っていきませんよ。演習中ですから。自分の身は軍人ですからね。ただ、通って見たときに、家が小さくて。そして子どもたちの服装も粗末で。盆踊 りのね、ちょうど櫓(やぐら)を作っていましたわ。丸太を組んで。そして誰かね、「誰か故郷を想わざる」って歌を流しているんですよ。そのときジーンとき ましたな。この人たちも故郷を想うてるんやなあ、と。しかし家が貧しくて。あるいは政府の甘い言葉にだまされて来たんだなあ、と思いながら。

馬 で500頭おったら、ずいぶん長い列ですよ。で、それでずーっと何日も行軍して演習していくんですけど、それを自分1人開拓団のとこへ行って“どうです か?”てなことは、いけませんわな。そやし、本当に無関心を装って通っていっただけですけども、かわいそうだなあ、と思うておって。