『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

M軍 その14 略あり

1924年
鹿児島県喜入村(現・鹿児島市)に生まれる
1941年
陸軍士官学校を受験、満州国軍軍官学校に入校
1944年
陸軍士官学校卒業。満州国軍少尉に任官
 
後に航空科に転科
1945年
新京で終戦を迎える
1946年
帰国
 
その後は、空気輸送装置設計・製作に従事

[1] 満州国軍 軍官学校へ 09:22
[2] 逃走した中国人士官 08:10
[3] 航空科へ 06:22
[4] 週番士官の不安 04:36
[5] 終戦 05:38
[6] “白頭山馬賊になる” 06:06
[7] “若きエネルギーを注いだ” 06:04

[1] チャプター1 満州国軍 軍官学校へ 再生中09:22
私はあの、薩摩半島の指宿で、指宿温泉の近くで生まれましてね。そして、小学校1年生を終わって北九州に行きましたんです。両親の関係でね。そして北九州 で育って、中学は小倉中学から陸軍士官学校受けましたらね、そしたら今度、そして軍官学校のほうに行ったっていうことになるわけで。

満州 国ができるころの日本の状態は非常に苦しい。農業もある、もう飢饉が続くし、もうとにかく日本は非常に苦しい状態で、状態のときでやって、満州に逃れて行 くっちゅうたらおかしい、満州に行く人というのは多かったわけ。満州に行って、満州は新天地だった。あのころに考えたらね。満州で、満州という国を興し て、そこで、この苦しい日本を離れて、あそこで、新天地に新しい国を開こうという気持ちがあった。

それで軍官学校に行ってね、まああの、 満州に渡るときに船で、船で渡りましたよね。なんでも初めてね、大きな船に乗って、それから、ずっと航海。大連に着いて、それからあの、満鉄の汽車に乗っ て新京(現・長春)まで行きましたんですね。で、新京に行って、まずビックリするのは、やっぱり広い、一望千里というかね、そういう点には注意しながら新 京に行ってね。それで、軍官学校に入って。精神的な悩みがあったんだよ。精神的な悩みがあったよ。私は何で満州に来たんだろうって、っていう、これから満 州に来てどうしようかという、どうしたらいいかというふうな悩みがありましてね。
そのときに、私たちは日本には天皇がおるわけね。満州国には皇帝 がおるでしょう。その皇帝と満州国の皇帝と一体となると、そうすると、私たちは天皇というのと一体となるという事を日本で習って来たわけね。そうして満州 に来たら皇帝と一体となって、皇帝と天皇の関係はどういうふうに処理するかという問題がね、これは私の心の中で、みなさんもやっぱりそういうふうに思って いたと思うけれど、皆さんはどういうふうに思っているかというのは、よく分からなかったけれど、自分なりに、どういうふうに皇帝に対する考え方をまとめる かをね、悩みましたね。

Q:士官学校を受験されて、「軍官学校に推薦します」という電報が来たんですね?

来ましたね。

私 は結果的には満州に渡ってね、満州というところをよく見てね、そういう体験をした事が、陸軍士官学校に行くよりもいい経験をしたなと後からはそう思ってい るわけね。それでいろいろ考えましてね、満州国というのにね、「日満一徳一心」「五族協和」、そういう事が言われていて、それをやろうという気持ちがあっ たね。まだ20歳になっていないわけですからね。20歳前でそういう「日満一徳一心」、それから「五族協和」、「王道楽土の建設」を満州国でやろうとい う、そういう気持ちになったんですね。それと共にね、満州に行ったらね、忠霊塔が各地にあるわけよ。それで忠霊塔を見てね、忠霊塔を見たら、自分もこうい う忠霊塔の中に入るんだなという事と、それからやっぱり神社がありましわ。

そういうのを見たときに、「あぁ、俺もこの忠霊塔の中に入るん だな」というような事を思ってね。よし、俺もこの満州国で、皇帝のもとで王道楽土の建設をやろうという気持ちにね、段々なってきてね、よし、やろうという 気持ちになってきて、軍官学校で勉強する事ができましたね。

Q:忠霊塔っていうのは、誰を祭っているんですか?

忠霊塔っていうのは、日露戦争の戦跡がずっとあるわけ、満州には。その戦死者を祭っているわけ。そこで奉天(現・瀋陽)なら奉天、遼陽なら遼陽にあるのはね、その付近で戦死された人を祭っているわけ。それが、各地にあったからね。それの影響を受けたね。確かにね。

だ いたい満州っていうところは、日露戦争で日本が関心を持っておるわけでしょ。日露戦争で旅順、大連を掌握して、満鉄がずっと走っているわけよね。だから日 露戦争と満州っていうのは、私たちは一体だというような感じを持っているわけ。それとね、私たち満州国軍官学校に入ったときにね、もう一つ関東軍というの が満州におったわけね。関東軍というのが満州国をがっちり握っていたわけ。それで満州国軍というのは、それの何て言うかな、子分というのではないけれど、 それの、まぁ、やっぱり子分よね。

日本の陸軍に関係した人がずっとやってきて、そして今度我々軍官学校というのは、正規の将校を養成しよ うというので、そこでできたわけね。そうして、日本軍を終わって来る人は、そういう事をやめて正規の将校を養成しようというふうな学校ができて、それの 我々が軍官学校の第2期生になったわけね。


[2] チャプター2 逃走した中国人士官 08:10
Q:満州国軍の役割っていうのはどういうふうに認識していたんですか?

満州国軍は満州国を防衛する事。満州国を防衛することですよ。王道 楽土を建設すること。満州国そのものが王道楽土を建設し、それを守るのが満州国軍だと。ソ連から守ると考えていたよ。満州国の敵はソ連だと思っていた。関 東軍がずっと国境には配備されているわけですよね。ソ連だと思っていたんです。

それともう一つはね、満州国は日本との関係では、満州国は日本の北方の守りなんだね。満州国そのものが日本の北方の守りのね、我々は北方の守りの志士。維新の志士とか言うでしょう。ああいう志士的な気持ちを持っていると。

日本の北方の守りをやっているんだという、そういう精神的な意志がね、あったね。それは年齢的に言ったら20歳前だからね。17、8のときにそういう精神的な物を持っていたというのが今の時代と違うと思うね。そういうものを持って勉強していたという事よ。と思うわ。

日 本の軍隊に入れば、それは日本人同士だからいいけれど、満州軍に入ったらね、自分が実際に部隊に行ったら、兵隊さんたちは満州人だから、中国人だから、そ の人たちといかにうまくやっていったらいいかという事をね、考えながら、軍官学校の生徒のときにはそういう事も考えながら、うまくやって行くためにはどう したらいいかなっていう事も考えながら、やっぱり行きましたね。
まぁ、それで陸軍士官学校に入ったの。陸軍士官学校に入ったらね、日本の士官候補 生がおって、それからもう一つこちらの方に留学生隊というのがあったの。そこには、中国から来たとか、ビルマから来たとかいう留学生の人たちがおって、そ こに我々も満州国から来たからって言って、そこに入ったわけよ。

Q:留学生として?

留学生として。留学生として入ったわけですよ。そういう制度になっておったわけ。

陸軍士官学校本科に行ったときにはね、中国人の中の優秀な人、優秀な人が約30名ぐらい一緒に来て、そして一緒の中隊で一緒に教育を受けたわけ。

彼 らは日本語も使うし、我々も日本語と中国語とは、ほとんど両方で話をするわな。我々自体もこの部隊に入ったら、中国人の兵隊さんと指揮しているからね。中 国語が第2外国語みたいに話せなければこれはいかんからね。だからある程度やっぱり、我々は相当に中国語を話せたんだよ。心がけていたわけ。話そうと思っ てね。だからそれはもう、日本語と中国語で話をしたね。彼らも熱心だったよね。本当は彼らが反日、抗日という日本に反対する団体や思想があったわけね。
(陸 軍士官学校を)卒業して帰ったときにね、この中国人の優秀な留学生がね、帰って来なかった。逃亡したっていうか、蒋介石軍(中国国民党軍)のところと、そ れから毛沢東中国共産党)のところに行ったんだね。だから、これはやっぱりちょっと1つの盲点になるわけね。やっぱり中国人同士だから、満州国軍におる よりも、蒋介石の方に毛沢東の方にというふうに逃げて行ったわけ。だから、そういう事はもう止めようといって、我々は2期生、3期生のときにはもうそうい う事(日本人以外を士官学校に留学させる制度)は廃止になったわけ。
そういう事を、日本人だけを入れると、陸軍士官学校に呼んで来ると。入れて、そして今度は留学生隊ではなくて、日本人の中に一緒に入れてね、教育すると、そういうコースになったわけ。

Q:いなくなった、3人が。それを聞いたときはびっくりしますよね。

そ れはびっくりするよね。それはびっくりしたよね。そういう連中とね、終戦後にね、満州国でそれらと会ったの。それらが中国軍、蒋介石軍になってね、満州に 入ってきたわけ。そうしたら、そのときに我々は終戦後だから、部隊を離れて日本人になっているときにね、その混乱したときに会ったの。

Q:その2期生の脱走した方?

そ の逃げた、その逃げた彼は、蒋介石軍の参謀とか何とか高い位になって入って来ているわけよ。入ってきて一緒に会ってもね、そこでやっぱりよくしれくれたん で、それは同期生という、そういうふうに生活した関係でね、世話をしてくれたなと思う。やっぱり人間だからね、そんな変わらないなと思った。
人間だから、日本人だから中国人だからって、そういう差別的なもんじゃなくて、やはり人間同士の繋がりというのはありますな、と思いましたね。


[3] チャプター3 航空科へ 06:22
まぁそれから卒業して、私は航空兵(航空科)に転科したわけ。そのときに卒業したらみんな身体検査をしたわけ。そのときに、航空適正検査というのをしたわ けですよ。そうしてそれに合格した人は皆航空兵にするという、そういう風潮になっていったわけ。飛行機が主力になったからね。とにかく飛行機に乗るために は適正検査っていうので合格しないと、飛行機に乗れないのね。

だから適正検査でOKという人でないと、飛行機の操縦士にはなれないわけ。 それで、我々陸軍士官学校を卒業したときにはね、全部そういうような適正検査を受けたわけ。したわけ。そうしてお前は適正検査OKだって言ったらね、そう いう人がみんな航空にやられたわけ。私たちも航空になったわけ。
航空兵になるために、今度は終わったらすぐに飛行学校に入れられてね、操縦も習ったわけ。

そ の航空兵になって段々航空兵ってこんなもんなのかなと思ったのはね、その日その日が自分の人生だなと思った。飛行機に乗るときには、今日も無事であります ようにというふうに祈りながら(空へ)上がってね。そうして訓練のときでも事故があれば死ぬわけですよ。それで降りてきて着陸した場合はね、あぁ今日は無 事でしたと。どうもありがとうというね、そういう気持ちがあってね。航空兵っていうのは毎日毎日が今日そのものが人生だなと思ってね。

だから一日一日を良く送りましょうという、そういうね、感じを持っていて、航空兵ってそういう聖者のような感じだなというふうなものを、それを感じました。

Q:そのときの満州国軍の航空兵の任務っていのは、どういう戦闘に備えての訓練なんですか?

それは防空だね。空を守るという事ね。それで、満州国にもね、B29 が来たわけ。鞍山という鉄工所が、工業地帯があったから。

そ れから奉天にも私が飛行学校におるときに、実際にB29 が爆撃に来たんですよ。そういうのをね、防空をやるというのが主体であったわけ。どういうふうに防空するかっていうのはね、結局方法は1つしかなかった。 というのは8,000メートル、大体8,000メートルぐらい(の高さに)上がってくるのね。上がっていて来たら、上がって行ってB29 がやって来たら、上から降りてね、急降下して、突き当たると。衝突すると。そうして落とすという、そういう戦闘しかなかったわけ。まぁ我々は飛行機に、1 台に1人乗っているわけね。1人が乗って、8,000メートルぐらいあらかじめ上がっていて、それで来たらスーッと降りて、そういうふうにやったわけ。奉 天に来たときそういうふうにやったわけですよ。
そうして、落としたわけ。そういうふうな体験から、B29に対して、そういうふうに防空をするための飛行機。その飛行機そのもののあんまりいい飛行機じゃないわけです、もうね。

Q:最初から体当たりが目的なんですね?

も う、B29に対しては体当たりね。戦闘機というのは、戦闘機同士が戦うのが目的なんだけれど、そういう事は、まぁあり得ない。向こうから戦闘機が来るなん ていうのはあんまりないだろうけれどね。そういう雰囲気だったね。それは。対B29に対する戦闘はそういう戦闘でしたわ。

Q:実際に体当たりした人もいるんですね。

おりますよ。それは体当たりした人は、一期生の春日さん(春日園生中尉)は体当たりしたわけね。それから二期生の西原(西原盛雄少尉)というのも一人体当たりしたわけ。B29に対してね。だから後に我々は後から続く者だとして、訓練を受けていたわけよ。という部隊ね。

(略)