1918年三重県度会郡柏崎村(現・大紀町)生まれ
1933年柏崎尋常高等小学校卒業し、東洋紡績に勤務
1940年現役兵として独立混成第4旅団独立歩兵第14大隊に
中国・山西省で治安維持活動に当たる
1944年京漢作戦に参加
1945年山東省にて新兵教育担当。り病入院。終戦を迎える
1946年復員、戦後は東洋紡績に復職
[1] 現役兵として入隊 09:50
[2] 城壁の町 06:30
[3] 討伐に出る 11:29
[4] 百団大戦 10:16
[5] 貫通銃創・破片創 03:59
[6] 部隊内のいさかい 04:01
[7] 脱走した捕虜 04:29
[8] 八路軍に捕まった 06:49
[9] 治安部隊から戦闘部隊へ 06:42
[10] 終戦まで 04:55
[1] 現役兵として入隊 09:50
私はあの学校を卒業してすぐ大阪へ出ましたでね。大阪のほうで工場、工場に大体6年間、うん。そいで、そこから入営した、入隊したわけですわ。現役兵としてね。大体、軍隊はいりゃ、縫工兵(ほうこうへい)が私らの、大体商売柄ね、縫工兵、まあ衣服の生産なんかする係になるのがほんとですけども、うん。
やっぱり1期6か月中にいろいろ自分のいろんな素質を、からかな、人事係の、職になれってことでね。
まああの、やっぱりそれぞれ色々職業もっとる連中が多いでね、散髪もおればパン屋もおるし、えっへへ、色々そういう連中がね来るで、それで私はそやけど、別に縫工兵でいいかなと思ってはいましたけどね。
まあ、それは免れましてね、うん。
Q:当時は国全体が戦争一色という空気でしたか?
そうやんな、うん。
そういう時はやっぱり歓呼の声に送られてから・・・直接京都の岡崎公園というとこに集合しましてね、あそこで、まあ行くところは大体わかってはおりましたでね、そこで編成組んでもう大阪の天保山(港)かな、あそこから出ましたけどね。
Q:軍隊に入るときの気持ちはどういう?
いやあ、やっぱりねみんな初めて厳しいあれですんでね、あの・・・やっぱり色々成績もあるし、下手するととんでもない目にあわにゃんだから、ということを聞いてましたんでね、とにかくあの、戦陣訓とかね、そういうのを頭に入れるのに精いっぱい。
嬉しいもんなんてなかったですよ、全然。不安ばっかりですわ、みんながね、なんかいってみんなの前では、出てくときにゃ、行くぞーってな感じで、喜んで行くような顔してるけども内心なにも、いやいやでね、うん。みんながそうだったと思いますね。一家から一家の柱をみんな持っていかれるようなもんですからね、今のあのあれと、災害と同じようなもん。もう兄弟5人おる、とにかくうちらあれですね、あの4人いて一人が戦死しただけでね、3人帰ってきたけどもうちの隣なんか3人行って3人とも帰ってこなかったでね。みんな戦死して。そういうところは沢山ありましたでな。うん、だからね、そんなん行ったってどうせ戦死するんだっていうそういうあれ、ありましたでねその当時でも。
Q:最初向かったのは、山西省?
そうそう、もう始めから山西省のね、盂県(ウケン、山西省陽泉市)っていうとこ直接もう、そこの中隊へね、もう中隊に直接中隊に行くんですわ、大隊も旅団も素通りしてね。もうそこの警備隊に行くわけさ。うちが、うちの中隊は盂県ってとこですけどね、第1中隊でしたね。大体、大隊に4個中隊ってありましてね、駐屯地もそれぞれ違いましてね、1中隊はここの部落、2中隊はここのって、もうすでにそのときはもう別れて、もう入隊するときからもう別れておりましたで。だからあんまり詳しいことは、よその中隊のことは詳しいことはわかりませんわな。
Q:任務は着いた最初はどういう風に聞いてたんですか?
任務ってのはもう、占領の後の治安、まあ治安が主でしたわな。あのー、私らね、私らの3年ほど先輩はあのー、万里の長城、あの辺をやりましたけどね。この近くにおりましたけどね、もうなくなりましたけどね。そういう占領した後のね、治安が主ですわな。独混ってのは大体そんなとこだと思いますよ。正規軍で、まあ言うてみりゃあ昔からのその何師団、何々連隊っていうのの、連隊とはまた部隊のあれやって、装備もちゃうしね。
だから、我々が入隊するときにゃ、銃なんか10人に3丁くらいしかなかったですよ。ええ。それで、そういう状態でいたもんですからね、案外北京から北京乗っ取って、北京通過したんかな。塘沽(タンクー)っていうところにね、上陸してそっから汽車で直接もう警備地へ行きましたけどね、うん。まあ警備隊もところどころにありましたけども、襲撃を受けるようなこともなかったしね、うん。もう3年くらい過ぎた後ですからね、その石太(セキタイ)線っていう線、あれがね。
Q:何から治安を守るのか?
まあ、いえばなんですかね、あのー色々、その・・・いかに治安して、あの、あの国土和平、あのなんていうんかな、平穏にしておっても中にはその悪い敵のあれなんかね、おったりなんかするのを、まあ一種の日本でいう警察みたいなのですよ、うん。憲兵隊もそうそういないしね、憲兵隊、憲兵なんかも一つの部隊に1個分隊くらいしかいなかったかな、うん。うちらの中隊でも、伍長くらいの憲兵伍長が一人いるくらいしか配属にならなかったでね。
[2] 城壁の町 06:30
Q:盂県(山西省陽泉市)に着いたときの感想は?
感想、そうねー、感想っていうほどの、まあ部落っていうても一つの広野っていうですかな、広い、広っぱだよね、あの山西省のあの辺わね。まあ、石炭はずいぶん採れましたけども、まあ一つの城壁の中にね、入ってしまうわけなんですから。城壁の中に入ってしもうて、昔はそこは繁華街でしたけどもね、まあ日本軍が行ってから全部、あの城壁の中を日本軍の兵舎にしてしまったね、うん。だからぐるりは(まわりは)やっぱり向こうの部落民の生活をしていく住宅がありましたけどね。
まああのね、城壁の中っていうのは今でいう、日本でいう市役所とか、ああいう官公庁みたなのがね、警察とかああいうものが入っとった所みたいだね。一般の者、一般人はみんな外に出て、私がおったとこの盂県て所はね、東門・南門・西門・北門と、門が4つがあって、そこが主に出入りする、城壁から出入りする道路でしたけどね。
あんまり大きな町じゃなかったんですよね。まあ、付近は石炭の産地で大体山西省ってところは石炭の生産地ですわな。うん。
Q:盂県は安全だったんですよね?
そうそうそう、そうですね。だけどやっぱり城外と城内では差別ありますでね。城外へうかつに1人や2人で出て行くわけにはいかない、何がおるやら、さっきみたいなああいう、昔満州の方で匪(ひ)賊とかいうのがありましたけどね、そういうのはコソコソと出てきて、どういう、まあケガせんとも限らん状態、ありましたけれども、やはり小さな保安隊っていう日本軍に属して日本の教育、日本軍の教育を受けた保安隊っちゅうのはおるんですわ。
Q:それは中国人の?
中国人で。
まあ、日本軍とは別の場所に、で、あの衛兵(所)をこしらへましてね、そこで生活はしておりましたけどね。ちょっと、戦時中、日本軍と一緒に行動を共にしたり、なんかしたり、日本軍に協力する、一種の保安隊ちゅう、たいして大きな部隊ではないけどね。うん、5、60人からまあせいぜい100人くらい。そんなんのが城外にはおりましたけどね。
そういうのが、小さな小さな事件ではそういうのが案外役に立っておりましたな。日本軍の代わりに出て行ったりね。
Q:実際指導しているのは日本人?
そうそうそう、日本のね。日本の通訳、通訳っておかしいけども、中国語科を出た兵隊がまあ2、3人、そこに指導員としてね、まあ下士官級ですけどね。伍長、軍曹くらいの連中がね、彼らはやっぱり中国語なので、中国語使えるで、そういう連中は配属になりますけどな。
Q:中国人部隊を使ってたのは人員不足?
足りない、足りないこともあるし、やっぱり土地によく通じているってのもね、一つの、うん。なんていっても日本軍にしてもシナ語なんか、中国語なんか使えるもんいないんですから。全然みんな素人やしね、うん、色々情報をなんか、そういう連中はね、集めたりなんかしてね。まあ、そういう点が主でしたよなあ。日本軍の情報機関みたいなもんですわね。
[3] 討伐に出る 11:29
敵が来ればね。わざわざ探して行くようなことはなかったけどね。情報は入りますよね、付近の部落民とか、こちらが放した諜報員からの連絡によってね、どこどこに今敵が何名くらいおるとか、うん、そういう情報が入って初めて出撃するわけですわな。むやみやたらに出て行ったりなんかはしてないですわ。
向こうもよく知っとるでね、何時ころどんだけの兵隊がどっかへ出て行った、とその空の出て行ったあとを、急襲されたりね、なんかもしますんでね。
なかなかそういうとこも警戒せにゃ。それでちょいちょいやられたところありますわな。そういうのは部落民の中におりますのよ、そういう敵側のね、昼間百姓と同じように仕事しとって夜になると途端にね、ころっと反対に、敵の位置を持って行って日本軍は今どこどこに出て行った、何時ころどこに出て行ったって、そういうのはおりますね。我々は大体、我々の警備地域はそんなのが多かったですね。
鉄道警備は主に、多かったけどもうん、夜間の鉄道を巡察っていうんですかね、よくあの電線が張ってある、電話線がね。電話線を切断しにくることはよくあるんですわ。
Q:情報が敵側にもれるということも結構あったんですね。
ああ、ありましたねー。我々も3年間の勤務を終えて、もう帰って来る間際だから、帰って来る言うてる途中に襲撃受けたのも、土地のそういう諜報員の連絡によって敵に知れたわけ。
Q:住民の中に敵と協力している人がいるってこと?
そうそうそう、うん。あの、このへんの泥棒と一緒。昼間、知らん顔して働いて、夜になるとこそこそ出てきてはもう、泥棒したりなんかしてね、物もってったりなんかする、そんなのと一緒、昔の八路軍ってのは。
八路軍ってのは、八路のできそこないかな、うん。正規の八路軍ってのもありましたんでね。
まあ、物がないもんですから、山西省とかあちらの方はね。だからね、そういうのが多いんですわ。昼間仕事して、夜になると泥棒してっていうのがね。
だからそういうのはね、銃なんかもあまり大した銃を持っていないしね、手りゅう弾か、手りゅう弾ての、そういうのを持って、おりましたね。目立たんでね、手りゅう弾なんてのはぶらさげてね、どこへでも、隠してもおれるようって、銃はそういうわけにいかんでね。よく、地雷かな、あんなのを敷設してましたな。でも、われわれがおった山西省ってとこは案外、まあまあ山と木がなくって丸見えの坊主山やし、案外どっちかというと、そうそう頻繁に戦争するようなことはなかったでね。
一発でも銃撃てば戦闘になるんですよ。敵がおったっちゅうことでね。
Q:住民の中に武器をもった敵がいるのは危なっかしいですね。
そうですよ、そうです。よほどね、もう治安の、北京とか天津とかいう大きな街に行きゃあそりゃあ、なんですけども、あんな小さな部落の中におったら、貧乏人の集まりやさかい、まあうかつに一人では出入ったりなんかできなかったね。それで、日曜が何したって、遊びに行くようなとこがなかったんでね、ああいう分遣隊とかいう小さな中隊の駐屯地はね。食べるもんってもう、果物なんたって何があったかなあ、うちらのおったところはナツメくらい、ナツメは案外使い道になっとうようですよ。ナツメの乾燥したのを砂糖の代わりにしたりね。うん。まんじゅうのあんこにしたりね。
ナツメなんてね、トウモロコシも全部、トウモロコシとかそういうものは豊富にありましたね。大豆、あまり水の使わんようなもの。水がなかったでね。
井戸なんかあっても、何十メートル、なんぼ桶(おけ)おろしても底までつかんようなね、そういうところでしたわ。
Q:訓練あけたばっかで討伐に行くときは怖いものか?
やっぱり怖いってね、ばんばんばんばん弾とんでくりゃ怖いけどもね、そうでもない。まあ、みんなと一緒に行くんだから怖いっちゅう、そう怖いと思う気もおこらなんだね。戦闘始まったらやっぱり弾に当たらんようにと思ってこそこそとやってましたけどね。うん、まあそりゃ大きな作戦になればまた別やけども。まあ初年兵当時は我々がおったところはそうそう、案外治安が行きとどいとったでね。
太原が近くにありましたでね、太原が第一軍司令部でしたからね。北支那方面軍第一軍司令部、だから大きな敵の部隊っちゅうのは少なかったんでしょう。たぶん。
Q:回数的には討伐に多く出ていますが・・・。
うん、討伐はもうそうね、年に何回も、情報入るでね、嫌でも出ていきますわね。
Q:どういう感じですか?
どういう感じってね、ただ出て行くだけで、敵もたいてい逃げてしもておらん、たまにまあ山の上からやって来るくらいでね。まあ、そうそう、1日も2日もかかる戦闘って少なかったけどね。まあ、初年兵当時は1つ、1つの興味本位で行くようなこともあったんじゃないかな?必ずしも敵がおるいうても知れとる、知れとった、小さな敵でしたからね。
小さな戦闘でもね。彼らは5人か10人くらいの、そのなんていうかな、そこらへんのできそこないの兵隊みたいなのが撃ってくるの、やっぱり弾は怖いでね。あたりゃ同じやて、痛いのに変わりはないで。そういうのは、そういうのは多かった気がしますわ。・・・改めて大きな部隊で動くっていうのは年に1、2回。
軍の作戦なんて、なってくるともう部隊でうごくやつやからね、我々の駐屯地におった、中隊の派遣されたところは、もう小さな一個分隊とか一個小隊くらいで走り歩いて、するくらいのなんですからな、戦闘だったでね。
(略)