『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

ふつうのくつや 山西省09 略あり

1918年静岡県浜松市に生まれる
1933年浜松東尋常高等小学校卒業し鋳物工場で働く
1939年歩兵第18連隊に入営後、独立混成第4旅団(13大隊)へ転属
1942年8月、満期除隊により帰国
1943年再召集され、満州の第5軍司令部へ
1945年敦化にて終戦、新京難民収容所へ
1946年帰国、その後は浜松動物園勤務

[1] 中国・山西省での警備 03:39
陽泉(山西省東部)にたどり着いたら、これから、「今っからお前たちは、独混4旅というこの部隊の人間になるだでな」って、そう言われて、それで各大隊の方へ行くようにね。で、私らの大隊は、まだ陽泉からももうちっと、鉄道から奥入った和順という所におりました。それから、いよいよ兵隊の戦争ごっこの始まりです。まだ、ある程度に治安が良くなっていたのが、そんな危ないとこ来たような感じじゃなかったですね。

Q:ああ、なるほどね。当初は、独混4旅団の任務、目的はどういう風に聞いていたんですか?

まあ、すぐ後に、徐々に教えてくれましたですけどね。第一線部隊っていうのは、師団だね。あの付近は110師団かな。そういうの始終、書いてありましたけど、それが八路軍だかあったのを、国民(党)軍だか追っ払った。その後に、独混ていう4旅団だけでない、3旅団も、6旅団もありました。そういう衆が行って、地ならし。要するに地ならししたとこ行って、警備につくのが仕事でした。それだもんで、大砲なんかも一番小さかったよ。作戦行動起こすときにね、山砲が付く。山砲だって、その当時山西省じゃね、大砲っての、大きな車でゴロゴロ引いてくのが、大体そう思うでしょ。とんでもないです。私らが大砲の砲身を持ってね、こんな山上がっていくんですよ。上がりますよ。それで、一番ひどいのは、私見たのは、その馬も危なくて登れんとこを兵隊さんが何人かで担いでね、大砲の砲身を、山へ上がったのを見た事ある。そんなべらぼうもない所行きました。


[2] 初めての戦死者 05:35
あのね、1か月たつか、2か月ぐらいたってからかな。「もう少し奥へおまえら入れ」っていう命令が来ただね。それで、遼県ってとこに行けと言う命令が来たんです。まだ、それをね、その、第1日を、第2日目にね、何だか様子ちっとおかしいよと言ってね、私ら所属する第4中隊第1小隊の、第1班分隊の、それの分隊長をやっている軍曹が、「おい気をつけろよ。あの、敵がいそうだでな」って、外見に行って、段々畑になった所に入って頭出したときに、「ボン」って。あれ、なんだいなって思って。今、敵の弾の音を聞いたのがそれが初めてで。そしたら、他の衆もそうしているもんで、『チェコ』だって。チェコ軽機関銃独特の音ですよ。それで、頭ぶち抜かれてストンと死んじゃったよ。戦争、戦地へ行った一番初めの行動で、鉄砲、敵の鉄砲の弾を覚えると同時に、戦死した人を目の前に見ました。あんなショッキングなことはありませんでしたよ。それからはまあ、3年半、だんだん色々教わりながら、こっちが指導して、行ってきました。

Q:あっ、そのとき鉄砲の弾の音を聞いたのも初めてだったんですか?

そうです。敵のね。初めて。初めての戦死者も見た。あんなショックなことはなかったですよ。

Q:そのときは、どう思いましたかね。鈴木さんは?

どうも、こうも。いやあ、危ないもんだなと思ったぐらいかな。まあ、気をつけにゃいかんな、と。それで、結局、その分隊長はまだ、はっきり戦闘状態じゃないもんだから、鉄兜(てつかぶと)かぶってなかっただな。それで、まともに来ちゃったもんで。後で見たら、目玉からこのくらい、穴が開いてましたよ。ここ。後ろにね、鉄砲が過ぎて。で、まだ、鉄兜かぶってたら助かったかもしれん。はっきりいいって言うこと、分からなんだもんで、その上官も油断しとったですね。いや、怖いもんだなぁと思いました。そのうちにね、何年かやっているうちに、敵の弾が飛んでっても、「おい、いま行った弾、3メートルくらい上を飛んでるで、大丈夫だよ」って言ってね。そういうこと、言えれるまでになりました。

Q:それで、あの、最初の、初めての戦闘で分隊長がやられちゃって。そのときは敵の姿っていうのは見えたんですかね?

いやあ、私ら、それどころじゃない。怖くってね。もう見れやせんよ。
だもんで、そんなにいつまでも向こうだってうろちょろしちゃせん。すぐストン、でしょ。その後も何も、音も何もしないだで、はい。いつまでもパンパンやり合ってたじゃない。まあ、そのチェコ軽機関銃って、5~6発パンパンってやって、サーって行っちゃったらしいよ。

Q:なるほど。

だもんで、その後はね、50キロ、もっとあるかな、何十キロだか先が、遼県まで何にも、いっぺんも撃ち合いもせず入りました。


[3] 「百団大戦」 04:33
八路軍の言う、いわゆる百団大戦(日本軍への一斉攻撃)っていうね、それがありましてね。その、今までは、あるとこだけを攻めてただね。その時はね、もう、全国一斉に、百個連隊が同じ位置を同じ時間にバーっとそこらを攻めるの、いうことでね。それやったら、もう、ひどくやられたの。応援どこじゃない。みんなやられるもんで。まあ、わしらんとこは大した事なかったけど、2中隊は全滅くらって。

それで、ほとんど全滅くらって。それで、当番兵が中隊長の首を切って、で、腰ぶらさげてね、帰ってきただけど。昼間は危なくて、そこらにいっぱいいるの危なくて、やられるって。それで、昔の軍隊は靴底に鉄打ってあるだよね。そんなのをね、履いてたら、カチャカチャ音して分かっちゃうで、地下足袋を履いて50キロぐらい、2日も、3日目だかに、やっと着いただ。帰ってきた。それで、大隊長のところに中隊長やられましたって言って、首をさ持って来たって。そんな話を聞きました。

Q:しかし、初めて、百団大戦のときに日本軍もずいぶんやられた?

そうですね。一斉にやられたもんで。小さい所は小さい、大きい所は大きいなりに。独混からも、応援に行ってやりたくても、自分ところをバンバンやられてた。その、2中隊が危なくても、行きたくたっていけないもんで。さっき言った軽機関銃で私が撃ったような間違いが起きるもんで、はっきり分からないもんで。

Q:応援には行けない?

応援行きたくたって、自分らのとこ来てるもの。ほっぽかれて行きゃ、今度は自分らのところやられちゃう。そこが狙いでね、時間的にもなにも、一斉に攻撃しろという八路軍の命令で動いたので、しょうがない。えらい目にあいました。

Q:当時山西省は、八路軍は主な敵だったと思うんですが、彼らはどういう戦い方をしてくる?

戦いって言ったって、そう、いい兵器があるわけではない。一番大きなのが迫撃砲ってなもんでね。別に戦い方って言っても、やたらめったら突っ込んでくるだけですからね。それが油断すると怖い。


(略)