1924年
東京(現・足立区)に生まれる
1941年
満州国軍 軍官学校入校
1944年
陸軍士官学校卒業。満州国軍自動車隊に配属
後に鉄石部隊として中国北部へ
1945年
中国・唐山で終戦を迎え、その後、シベリアに抑留される
1949年
帰国
その後は石けん工場や石油販売会社に勤務
[1] チャプター1 満州国軍 軍官学校へ 再生中03:16
士官学校の予科ね、今の市谷、あそこの防衛省、あそこにあったわけですね。で、あそこで試験を受けて、発表はまたね、確か1月頃の予定だと思うんですが ね、暮れになってね、陸軍省から通知が来て、こういう満州国の軍隊があると、これに行ってみる気はないかというね、推薦状が来たの。で、私もね、満州、あ の頃みんな、ほとんど満州とかね、いわゆる南方とか大陸にね、みんな、アレは、少年たちは憧れて、1回行ってみようっていうような気持ちは、ほとんど持っ ていたから、ああ、それじゃ行ってみるかなっていうことで、返事を出したっていうことですね。
Q:もともと、軍人の志望?
全 然ないです。私はね、いちばん・・今は高校って言っているけど昔は中学、旧制中学、教練の時間っていうのがあるんですよね、どこの学校でも。と、必ず配属 将校っていうね、将校が担当して軍事教練をするわけ。それがね、いちばん大嫌いだった。という、人にしばられるっていうのはね。それが、自由がいちばんだ というような、まあ、ウチの家庭環境もそうだったのか分からないけど、その教練がいちばん嫌いだったんですよ。
だから、まあね、それは人さまざま。軍国少年もいたし、我々みたいな、ああいうのなんやらきついな、イヤだな、もっと自由でいたいなって、そっちのほうが多かったと思いますよ、ほとんどが。
ただ、海外には行きたいとは思っていましたね。軍人になりたいというよりか、日本の外へ出てみて、いろんなものを見てみたいという気持ちはありましたけどね。
と にかく満州っていうのは日本の生命線なんだと。やがて日本と同じようになるであろう、という考えがあったわけですよ。思いがね。そういうことで、朝鮮とつ ながったでしょ、また。そしたら日本に近いわけだから、より近い所で、広々した平野があって、とにかく王道楽土が築かれるんじゃないかというね、そういう 夢があったから、ほとんど満州。
[2] チャプター2 「五族協和の旗の下に」 06:08
Q:日本から行くときは、行く前は、どういう印象を持ってらっしゃったんですか?
とにかく、このパンフレットだけでしょ。それで、ただ五 族協和とか協和、王道楽土建設とかと、国のね、いわゆる方針とかということは書いてあったけど、詳しくは分からないからね。まだ、もらったばっかりで、予 備知識もなかったから。それで、結局は向こうに渡ってからいろいろ教育されたわけ、っていう格好ですね。最初から、もう、行ってね、校長の訓示からして 「五族協和」、それから「日満一徳一心」とか、それから「王道楽土の建設」とかね、そういうようなことを、もう最初から訓話されたわけ。それで、だんだん だんだん、生徒隊長とか、連長って、まあ、中隊長ね、それからいちばん身近な区隊長(生徒の指導役)とかって、そういう人たちも、折に触れてそういうこと を教えるわけ。
実際に、学校に入って見るのは、ほとんど満人(満州人)ばっかり。満人が多くて。あと朝鮮の人はね、そう区別がつかないん でね。まあ、一緒じゃないから、違う中隊だから。でも、それ、1つの学校でね、そういう他のいろんな民族が一緒に勉強しているということはね、これ、悪い ことじゃないよ、友だちになれるなとは思っていましたよね。
軍官学校というのは予科と本科があるけど、日本人は予科だけですけれど、予科 は午前中が学科ですから、学科というのは普通の数学とか国語とか一般課程というのですか、そうして午後が教練になるわけ。思想的とかそういうものは、精神 訓話というのは別にあるの。精神の訓話というのがね。それが区隊長だとか、連長が、中隊長が行ったり、あるいは、たまに生徒隊長とか、そういうことで訓 話。その訓話の中でいろいろ、さっき言った五族協和とかね、そういうことをいろいろお話をしてくれるわけですよ。
(軍官学校で)特に言わ れたことは、面前で(中国人の)兵隊を殴ったりしかったりするなと。大勢の前で。彼らはね、いくら貧弱な人間、姑息な人間であろうとも、メンツというもの がある。メンツ。メンツを壊したら、彼らにとっては命より大変なんだ。そういうことで、兵隊を叱るときは面前でしからないようにということは区隊長から聞 きました。メンツを重んじてやるということ。それから食生活、生活習慣というの、彼らはお正月とかああいうときには、ギョウザみたいなごちそうを作るわ け。それを無視したら駄目だということ。彼らの慣習に合わせて、それに合わせていろんな行事を考えていた。それを無視して、全然作らなかったり、まずいも のを作ったりということは、彼らにとっちゃ大変なことになるんだと。それも気をつけろということは言われた。学校時代だよ。
Q:でも、大勢の前で殴るって、日本の軍隊ではね。
そう、当たり前。見せしめだと言ってさ、見せしめだといって、わざわざみんなの前で殴るでしょう。その逆。
Q:印象に残っているお話ってありますか?
そ うですね。みんなほとんど同じようなことを言っていたけれど、ただ一つね、印象に残ったのは、関東軍ね、関東軍の報道課長、長谷川少佐という人が学校に来 て講演してくれたことがあるんだけれど、題名がね、「愛は血よりも濃し」という題なのよ。それは何の話をするのかなと思ったら、結局、先ほど言った民族問 題、我々はいろいろな漢民族だとか蒙古民族とか、第一線に行けば一緒でしょう。
あるいは突撃したり、とにかく生死を一緒にしなければなら ない。そこにはね、同じ、民族が違っても戦友愛という愛があるという、それが第1点。ところで、満系(満州在住の漢族・満州族などの中国人)にしてみれ ば、中国人、同じ中国人と戦っているわけですよ、相手が敵な場合はね。すると、敵は同じ血であると。だけども、仲間は同期生の愛で結ばれているんだ。どち らが強いだろうかという、そのテーマでお話をしたわけ。結論は、愛は血よりも濃いのだと。それを信頼して進みなさいという結論だったと思います。
Q:愛というのは愛情の愛ですか?
そうそう。結局、戦友愛ね。同志愛、戦友愛は民族を超えるものだということの話だった。それは覚えている。
[3] チャプター3 関東軍の支配 03:20
Q:当時、清泉さんたちは、満州国軍と関東軍の関係ですね、どういうふうに理解されていたんですか?
そうね。結局は関東軍がつくった国、国家ですよね、満州というのはね。
学 校に行っていろいろ周りの話とか状況を見てもね、とにかく満州では関東軍がいちばんということでね、関東軍が全部、ほとんど支配した環境の中にいたわけで す。そこにいる我々は満州国軍だけれども、それは対等じゃないですよ。満州と日本、独立しているんだけれども、軍籍が日本にもあるんだけれども、満州の軍 籍もあるわけ。そうすると、同じ軍人ではあるんだけれども、関東軍と満州の軍隊というのは、親子というかね、差はありますよね。だから、どうしてもね、国 軍としては、もう少し対等に扱ってもらいたいというような気持ちは持っていましたね。同じ軍人としてね。
いい気持ちしませんね。同じようにね、同じような学校受けて、同じ課程で来て、それで扱いが違うとね。だから、私じゃなくたって、普通の人でも感じますよね。
上 から、もう、とにかく従属関係みたいなもの、従属関係ですよ。あれやれ、これやれって、そのとおりやらなきゃならない。反対意見出したら飛ばされちゃう。 それは学校に顧問というのが、関東軍から顧問というのがあって、お目付役みたいなのね。だから、顧問ににらまれたらもう駄目ということになってくる。私の 区隊長ですごく、九州の人だけれども、強気で気の短い区隊長だったんです。その人がやっぱりそういう考えを持っていたわけね。持っていて顧問にちょっとに らまれちゃった。そうしたら、熱河省といっていちばん八路軍(中国共産党軍)が多い前線ですね、状況の悪い、そこの部隊に飛ばされている。もう1人も飛ば されちゃったかな。2人いたんだ。おとなしくて、「はい、はい」という人は出世しいくわけね。顧問の力は絶対。それは関東軍だ。そういう支配をしていたわ け、内部的にもね、人事的にも。
(略)