『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

『賭博者』(ドストエフスキー作、米川正夫訳)P371-420(一回目の校正完了)

あなたもわたしに話して聞かせてくださいませんか……」
 カフェは百歩くらいしか隔っていなかった。コーヒーが運ばれた。わたしたちはゆっくり腰をすえて、わたしは紙巻煙草をふかし始めた。ミスター・アストレイはなんにもすわないで、じっとわたしに視線をすえたまま、謹聴の身構えをした。
「ぼくはどこへも立ちのきなどしません、ぼくはここに残っています」とわたしは切り出した。
「わたしも残られるだろうと確信していましたよ」とミスター・アストレイは、さもわが意を得たりというように、口を入れた。
 わたしは、ミスター・アストレイのとこへ、出かけはしたものの、ポリーナに対する自分の恋のことなど、いささかたりともうち明けようという意図を持ってはいなかった。それどころか、わざとそんな話はしないつもりでさえあった。この数日、わたしは彼と会っても、その話はひと口もしなかった。その上、彼はひどく内気なたちであった。ポリーナがこの男になみなみならぬ印象を与えたことは、わたしも最初から見て取っていたが、彼はかつて一度もその名を口にしたことがないのだ。しかし、不思議にも、いま彼が腰を落ち着けて、じっと動かぬどんよりとした目をわたしの顔にすえるが早いか、ふいになぜか知らないけれども、わたしはこの男に何もかも、というのは、わたしの恋愛事件を一切合財、ありとあらゆる陰影までもあますところなく、話してしまいたいという気がしてきたのである。わたしはまる三十分しゃべりつづけたが、それがなんともいえないほどいい心持ちであった。何しろ、この話をするのは、ほんとうに初めてだったのである! 時々あまりわたしの物語が熱烈にすぎるような個所になると、彼がさも困ったような顔をするのに気がついたので、わたしはわざと自分の話の熱烈さにひとしお薬をきかせたものである。ただ一つ後悔をかんじているのは、ほかでもない、例のフランス人のことで、あるいは何か口をすべらせ余計なことをいってしまったかもしれないのだ。
 ミスター・アストレイは、身動きもせずわたしの前にすわったまま、ひと口も物もいわねば、ことりとの音も立てず、ひたとわたしの目を見つめながら、傾聴していた。が、わたしがフランス人のことに触れた時、彼はとつぜんわたしを押し止めて、いったいあなたはそんな本題に関係のないことを口にする権利を持っているのか、ときびしい調子でたずねた。ミスター・アストレイは、いつもはなはだ奇妙な質問の仕方をするくせがあった。
「ごもっともです、あるいはそんな権利を持っていないかもしれません」とわたしは答えた。
「その侯爵とミス・ポリーナについては、あなたは単なる想像のほか、何一つ正確なことはいえないのですか?」
 ミスター・アストレイのような内気な人間が、こんな断乎たる質問を提出したので、わたしはまたもや一驚を喫した。
「いえません、正確なことは何一つ」とわたしは答えた。「もちろん、何一つとして」
「もしそうでしたら、あなたはよくないことをしたのです、わたしにその話をなすったということばかりでなく、あなたが心の中でそれを考えたという意味でもね」
「よろしい、よろしい! それはぼくも認めます。しかし、いま問題はそんなことじゃないんですよ」とわたしははらのなかで内々あきれながらさえぎった。そこで、わたしは昨日の一件を何から何まで、ポリーナの気まぐれから、わたしと男爵との衝突、わたしの辞職、将軍のあきれかえった小心さかげんを、微に入り細をうがって物語った。それから最後に、今日のド・グリエの来訪をも、あらゆるニュアンスをのがさず詳細に述べた上、結論として例の手紙を見せた。
「いったいこれは結局なんだと思います?」とわたしはたずねた。「ぼくはほかならぬあなたの考えをうかがおうと思って出かけたんです。ところで、ぼくはどうかとおっしゃるなら、ぼくはあのフランス野郎を殺しかねない気持ちです。いや、ほんとうにやっつけるかもしれませんよ」
「わたしもご同様です」とミスター・アストレイはいった。「ところで、ミス・ポリーナに関してはですね、その……どうでしょう、もし事態がそれを必要とするならば、われわれは自分の憎んでいる連中とさえ交渉を持つことになりますぞ。そうなると、あなたの予想もされないような、偶然の事情で左右されるような交渉もできて来ますね。しかし、あなたは安心なすっていいと思いますよ、――もちろん、ある程度までですがね。ときに、あのひとの昨日の行為ですがね、それはむろん奇怪きわまるものです、――それも、あのひとがあなたを厄介払いして、男爵の棍棒の下へ追いやったからではなく(しかし、男爵はせっかく棍棒を手にもっていながら、どうしてそいつを生かして使わなかったのでしょう、わたしは合点がいかない)、そういうとっぴな行為は、ああした……素晴らしいミスとしてはしたない振舞いだからです。いうまでもなく、あのひとは自分がからかい半分にいったことを、あなたが文字どおりに実行されようなんて、想像することができなかったんですね……」
「ああ、そうだ!」じっと穴のあくほどミスター・アストレイの顔を見つめながら、わたしはだしぬけに叫んだ。「ぼくのにらんだところでは、あなたはこの話を何から何まで、知りぬいていられるらしい。だれから聞いたかいいましょうか? 当のミス・ポリーナからです!」
 ミスター・アストレイは唖然としてわたしの顔をながめた。
「あなたは目をぎらぎらさせていますね。その目の中に、さも怪しいぞといったような表情が読み取れますよ」すぐさま以前の平静さを取りもどして、彼はこういった。「しかし、あなたはそうした疑いを露出する権利なんて、毛頭もってはおられないのです。私はそんな権利を認めるわけにはいかないから、あなたの質問に答えることはだんぜん拒絶します」
「いや、たくさんです! 答えてもらう必要はありません!」とわたしは怪しく興奮しながら、またどういうわけでこんな考えがひょっこり頭に浮かんだのかわからないまま、叫ぶようにいった! いったいいつ、どこで、どうしてミスター・アストレイが、ポリーナの相談相手に選び出されるなんてことが出来たのか? もっとも、最近、わたしはいくぶんミスター・アストレイを視野から逸している傾きがあった。一方ポリーナはわたしにとって、つねに一個の謎であった。しかも、その謎たるや、たとえば、いまミスター・アストレイに自分の恋物語を残らずうち明けにかかった時も、その物語の最中に、わたしは彼女との関係についてほとんど何一つ正確な、はっきりした話をすることができないのに、内心ぎょっとしたほど深刻なものであった。それどころか、何もかもが幻想的で、不可思議で、根底がなく、むしろありうべからざるていのものであった。
「まあ、いいです、いいです。ぼくはすっかり面くらってしまって、今のとこ会得のできないことがたくさんありますから」とわたしはまるで息切れでもしたような形で答えた。「それにしても、あなたはいい人ですね。今度は別な話です、ぼくあなたの忠言というよりか、ご意見をうかがいたいのですが」
 わたしはちょっと言葉を切って、またいい出した。
「あなたはどうお思いですか、なぜ将軍はああびくびくし出したのでしょう? ぼくがちょっとした下らない悪ふざけをしたばかりなのに、なぜみんながそれを大事件に仕立ててしまったのでしょう? ド・グリエさえもが口をいれなければならぬ必要を感じるほどの大事件を(だって、あの男はほんとうに重大な場合でなければ、口をいれないのですからね)。何しろ、あの男が僕を訪ねて来て(え、どうです!)懇願し、哀願したんですよ、――あの男が、あのド・グリエがぼくにですよ! それから、最後に、いいですか、先生が来たのは朝の九時、いや、九時前でしたが、ミス・ポリーナの手紙をもうちゃんと握っていたんですからね。いったいあれはいつ書いたものでしょう、としぜんききたくなるじゃありませんか? おそらくミス・ポリーナは、そのためにわざわざたたき起こされたのでしょう! それから推してみると、ミス・ポリーナはあの男の奴隷だってことがわかりますが(なぜって、僕にさえあやまっているくらいですもの)、そればかりじゃない、なおそのほか、この事件ぜんたいがあのひとにとってどうだというのです、あのひと一個にとってですよ。なんのためにそれほどの興味をいだく必要があるんでしょう? なんだってみんな、たかがひとりの男爵を、ああまでこわがるんでしょう? 将軍がマドモアゼル・ブランシュ・ド・コマンジュと結婚するからって、それがいったいなんだというんです? あの連中はこの事件のために、何か特別な[#「特別な」に傍点]態度をとらなくちゃならないという、――しかも、それはまったくあまりにも特別なものだというのです。ねえ、変じゃありませんか! どうお思いです? ぼくはあなたの目つきでそう確信してるんですが、この事件についちゃ、あなたは僕より以上に事情を知っていられるに相違ない!」
 ミスター・アストレイは、にたりと笑ってうなずいた。
「まったく、わたしはこの件について、あなたよりずっと余計に知っているらしいです」と彼はいった。「この問題ではいっさいがマドモアゼル・ブランシュにかかっているのです。そして、わたしはそれが正直正銘の事実だと信じていますよ」
「いやはや、マドモアゼル・ブランシュがいったいどうしたっていうのです」とわたしはせき込んで叫んだ。(わたしの心中にはとつじょとして、今こそポリーナ嬢に関して、何か秘密が暴露されるのではないかという希望が生じた)。
「わたしのにらんだところでは、マドモアゼル・ブランシュは目下のところ、是が非でも男爵夫妻との出会いを避ける特別な必要に迫られているらしいです、――まして不快な出会いはなおさらだし、スキャンダルじみた出会いに至っては、ぶるぶるというわけでしょう」
「ふん、ふん!」
「マドモアゼル・ブランシュは一昨年のシーズンに、もうこのルレッテンブルグに来たことがあるのです。わたしもちょうどここに居合せました。マドモアゼル・ブランシュはその当時、ド・コマンジュとは名乗っていなかったし、あの母親、m-m veuve Commiges(コマンジュ未亡人)もそのころは存在していませんでした。少なくとも、そんな人のことはてんで話がなかったんです。ド・グリエ、――ド・グリエ――も、やはりいませんでしたよ。わたしの深く確信するところでは、彼らはお互い同士、親戚でもなんでもないどころか、知合いになったのもつい近ごろのことです。ド・グリエ侯爵もやはりごく最近出現したのです、――わたしはそれを確信しています、ある事情によってね。彼がド・グリエと名乗りだしたのも近ごろのことだ、とさえ想像することができるくらいです。わたしはここにいるひとりの男を知っていますが、それは別の苗字を名乗っているド・グリエに出会ったといっていますよ」
「しかし、彼はこの土地でれっきとした人たちと交際してるじゃありませんか」
「おお、それはそうかもしれません、マドモアゼル・ブランシュでさえ、それくらいのことはできますからね。しかし、一昨年はマドモアゼル・ブランシュは、そら例の男爵夫人の訴えによって、ここの警察から立ちのきを勧告され、また事実、立ちのきましたよ」
「へえ、それはどうして?」
「彼女が当時この土地へ現われた時、――初めはまずひとりのイタリヤ人といっしょだったのです。歴史的な姓を名乗る公爵で、バルベリーニ[#「バルベリーニ」に傍点]とかなんとかいうのでした。両手に指環をいっぱいはめ、からだじゅうにダイヤモンドを光らせた男で、しかも、それがにせ物じゃないのです。ふたりはすばらしい馬車を乗りまわしていましたっけ。マドモアゼル・ブランシュは |trente et querent《トラント エ カラント》 の勝負をやっていましたが、初めのうちは調子がよかったけれども、やがてすっかり幸運に見棄てられてしまいました。まあ、わたしはそんなふうにおぼえてますね。忘れもしない、ある晩、彼女は物すごい高の金を負けてしまった。ところで、何よりいけないのは、un beau matin(あるときとつぜん)彼女の公爵がどこともなく姿をくらましたことです。それといっしょに、馬と馬車が消えてしまいました、何もかもみんな消えてしまったのです。ホテルの借りは恐るべき額でした。マドモアゼル・ゼルマは(彼女はバルベリーニの代りに、とつぜんマドモアゼル・ゼルマに早変りしました)、絶望のどん底につき落されたわけです。ホテルじゅうに聞えるほどの声で泣き立て、わめき立てて、腹立ちまぎれに、自分の着物をびりびり引き裂くという騒ぎです。ちょうどその時おなじホテルに、さるポーランドの伯爵が滞在していましたが(ポーランドの漫遊客はみんな伯爵ですね)、自分の着ているものを引き裂いたり、香水であらった美しい手で、猫のように自分の顔をひっかいているマドモアゼル・ゼルマが、この男に一種の印象を与えたのですな。ふたりは何か話し合っていたが、食事の時刻までに、彼女のご機嫌が直ってしまいました。その晩、彼氏は彼女と腕を組んで、停車場に姿を現わしました。マドモアゼル・ゼルマはいつものくせで、いとも高々と笑っていましたっけ。そして、そのものごしにはいくらか余計にさばけすぎたところが見えましたよ。彼女はとつじょとして、ルレット遊びをする貴婦人たちの中でも、特別な種類に属することになりました。つまり、博奕台へ近寄って行くとき、自分の場所を空けさせるために、じゃまになる男を肩で力まかせに突きのける手合いなんです。この土地のこうした婦人連の間では、それが特別シックとされているのですが、あなたもむろん気がついたでしょう?」
「そりゃ、つきましたとも」
「気をつける値うちもないこってすよ。お上品な人たちの公憤の種なんですが、ここではそういった手合いが絶えないありさまですよ。少なくとも、博奕台のそばで、毎日千フラン紙幣を両替する手合いがね。ただし、その連中は両替しなくなるがはやいか、たちまち退却を請求されるんです。マドモアゼル・ゼルマは、それでもまだ千フラン紙幣の両替をつづけていました。しかし、彼女の勝負運は次第に悪くなってゆきました。気がおつきになったでしょうが、ああした婦人たちは勝負運の強い場合がきわめて多いのです。あの連中は、驚嘆に価するほど自己制御に長《た》けているのでね。しかし、わたしの話もこれでおしまいです。ちょうどイタリヤの公爵と同じように、ポーランドの伯爵も一朝にして姿を消してしまいました。その晩マドモアゼル・ゼルマは、たったひとりで賭博場へ姿を現わしたが、今度はだれも彼女に愛の申し入れをするものが出て来なかった。二日の間に、彼女はすっからかんに負けてしまいました。なけなしのルイドルを賭けて、ふいにした後で、あたりを見まわしたところ、そばにヴルメルヘルム男爵がいるのが目にはいったんです。男爵は深い憤懣をいだきながら、一心に始終の様子をながめていたのです。しかし、ゼルマ嬢はその憤懣の色には気がつかないで、例の微笑を浮かべながら男爵にむかって、どうかわたしの代りに、ルイドル十枚赤に賭けてください、と頼んだものです。その結果、男爵夫人が苦情をいい出したものだから、その晩方ゼルマ嬢は、今後停車場へ姿を現わさないでくれ、という通告を受けとったのです。わたしがこんなこまかい、しかも、きわめてぶしつけ千万な事情を知ってるので、あなたはびっくりなさるかもしれませんが、これは親戚のミスター・フィーデルからたしかに聞いた話なんです。この男がさっそくその晩ゼルマ嬢を自分の馬車に乗せて、ルレッテンブルグからスパーヘ連れて逃げたんですからね。さあ、これでとくと合点してください。マドモアゼル・ブランシュは、将軍夫人になろうとねらっていますが、それはおそらく、今後また三年前と同じような通告を、駅詰めの警察から受けとらないで済ませたいからでしょうよ。いまではあのひとは勝負をやっていません。が、それというのもほかではない、目下のところあのひとは、あらゆる点から推して、まとまった金を握っていて、それをこの土地の博奕打ち連に歩貸しをしているからです。そのほうがずっと引き合うのでね。それどころか、わたしのにらんだところでは、あの不運な将軍も、あのひとに借金しているらしいんですよ。ひょっとしたら、ド・グリエも借りてるかもしれません。が、ひょっとしたら、ド・グエリはあのひとと仲間かもしれないて。そこでおわかりでしょう、あのひとは少なくも結婚式までは何事につけても、男爵夫妻の注意をひくようなことをしたくないんですよ。要するに、あのひとの立場として、スキャンダルを起すのは何よりも不利なんです。ところが、あなたはあの一家と関係があるから、あなたの行動はスキャンダルをひき起すおそれがある。まして、あのひとは毎日のように将軍か、でなければミス・ポリーナと腕を組んで、人なかに姿を現わしているんですからね。これで合点がいったでしょう」
「いや、合点がいきません!」とわたしは叫びながら、力まかせにテーブルをたたいたので、給仕《ギャルソン》がびっくりしてかけつけたほどである。
「ねえ、ミスター・アストレイ」と、わたしはむきになってくりかえした。「もしあなたがこの事件を、もう残らず知り抜いていらっしゃるとしたら、したがって、マドモアゼル・ブランシュ・ド・コマンジュを腹の底まで見抜いていられるとしたら、なぜせめてわたしにでも、前もって注意してくださらなかったのです。――まして当の将軍にはなおさらのことだし、第一、これが最も重要なことなんだが、ミス・ポリーナになぜ警告なさらなかったんです。あのひとはマドモアゼル・ブランシュと腕を組んで、この停車場で衆人環視の中を歩きまわってたんじゃありませんか? そんなことがあっていいものですか?」
「あなたに前もって注意するなんて、そんなことをしてもしようがなかったんですよ。なぜって、あなたはどうすることもできなかったんですからね」とミスター・アストレイは落ちつきはらって答えた。「もっとも、警告するって何を警告するんです? もしかしたら、将軍はブランシュ嬢のことをわたしなんかより余計に知っておられるかもしれないんだが、それでもあの女やミス・ポリーナといっしょに散歩しているじゃありませんか。将軍は気の毒な人です。現に昨日もわたしはこの目で見たんですが、ブランシュ嬢がド・グリエ氏と、それに、例の小柄なロシヤの公爵といっしょに、りっぱな馬をはしらせているところを、将軍は赤毛の馬に乗って、後から追っかけていましたっけ。その朝、将軍は脚が痛むといっていましたがね。しかし、馬の乗りっぷりはよかったです。さて、そのときわたしは瞬間的に、これはすっかり破滅した人間なんだ、という考えにふっととらわれましたよ。それにまた、こんなことはわたしの知った話じゃないんですからね。わたしはほんの近ごろ、ミス・ポリーナと相識の光栄を得たばかりなんですもの。ああ、そうだ(とふいにミスター・アストレイはわれに返った)。もうさっきも申し上げたとおり、わたしはある種の事柄については、あなたの質問をみとめるわけにはいかないんでしてね。心底からあなたを愛してはいるんですが……」
「たくさんです」とわたしは立ち上がりながらいった。「いまぼくには火を見るより明らかです。ミス・ポリーナも、ブランシュ嬢のことは何もかも残らずわかっているのです。ブランシュ嬢があのフランス人と別れることができないのも、ちゃんと見抜いています。だからこそ、ブランシュ嬢と散歩しようとはらを決めたんですよ。あのひとがブランシュ嬢と散歩するのも、ぼくに手紙をよこして男爵にかまってくれるなと頼んだりするのも、決してほかに原因はありません。そこにはつまり、その関係が伏在しているので、これがいっさいを左右しているのです! が、それにしても、あのひとが自分でぼくを男爵にけしかけたんだっけ! 畜生、何がなんだかわけがわかりゃしない!」
「あなたは忘れていますね。第一、あのマドモアゼル・ブランシュは将軍の婚約者ですよ。第二に、ミス・ポリーナは将軍の継娘で、小さい弟と妹がある。将軍の実子がつまりそれでしたね。あの半きちがいは、自分の子をすっかりうっちゃらかしているばかりか、どうやら遺産さえ横領してしまったらしいじゃありませんか」
「そう、そう! そりゃそのとおりですよ! あの子供たちからはなれていくのは、つまり、彼らを見捨ててしまうことだし、踏みとどまるのはほかでもない、彼らの利益を擁護することです。いや、もしかしたら、ほんのわずかながらも財産を助けることになるかもしれません。そうです、そうです、それはまったくそのとおりです! だが、それにしても、それにしても! ああ、今こそわかった、どうしてあの人たちが、今みんなお祖母さんに関心を持っているかってことが!」
「だれのことです?」とミスター・アストレイはきいた。
「あのモスクワでなかなかくたばらないでいる鬼婆ですよ。そいつが死んだって電報が来るのを、みんな今か今かと待ちかねているんです」
「ふむ、さよう、いっさいの利害は、そのお祖母さんにつながっています。問題は要するに遺産ですよ! 遺産相続が発表になれば、将軍は結婚するでしょう。ミス・ポリーナもやはり解放されるわけだし、ド・グリエは……」
「どうなんです、ド・グリエは?」
「ド・グリエは金を払ってもらえるでしょう、あの男はここでただそれだけを待っているんですから」
「ただそれだけ! あなたはそう思いますか、ただそれだけを待っているって?」
「それ以上、わたしはなんにも知りませんよ」とミスター・アストレイは執拗に口をつぐんだ。
「ところが、ぼくは知っています、ぼくは知っています!」とわたしはたけり立ってくりかえした。「あの男もやはり、遺産を待ってるんです。というのは、ポリーナが持参金をもらうでしょう。金が手にはいると、さっそくやつのくびっ玉に飛びつくに決まってるからです。女ってみんなそうしたものでさあ! どんなに誇りの強い女でも、思い切り卑屈な奴隷になってしまうんです。ポリーナはただ熱情的な恋しかできない女です、あのひとの能はそれっきりですよ! これがぼくのポリーナ観です! まあ、あのひとを見てご覧なさい、特にあのひとがたったひとりで、じっと考え込んでいるような時に。あれは何かしら運命に予定されたものです。宣告されたもの、のろわれたものです! あのひとは人生のあらゆる恐怖と熱情に飛び込んでいける質の女です……あのひとは……あのひとは……だが、だれかぼくを呼んでいるようだ」と、わたしはとつぜん叫び声を上げた。「だれが呼んでいるんだろう? だれかロシヤ語で、アレクセイ・イヴァーノヴィッチ! と、大きな声で呼んでいるのが聞こえましたよ。女の声です。聞こえるでしょう、聞こえるでしょう!」
 その時、わたしたちは自分のホテルに近づいていた。もうだいぶ前に、わたしたちは自分でも気がつかないうちに、コーヒー店を出たのである。
「わたしも女の声が聞こえたけれど、だれを呼んでるか知りません、何しろロシヤ語ですからね。ああ、今やっとわかった、あの声がどこから聞こえて来るのか」とミスター・アストレイは指さしをした。「あれは大きな安楽いすに乗ったまま、いま幾人かのボーイの手で玄関へかつぎ込まれた女が呼んでいるんですよ。うしろからかばんなんか持って行ってるところをみると、たったいま汽車がついたんですな」
「でも、どうしてあの女がぼくを呼ぶんだろう? ああ、また呼んでる。ご覧なさい、こっちへ手を振っていますよ」
「なるほど、手を振っていますな」とミスター・アストレイはいった。
「アレクセイ・イヴァーノヴィッチ! アレクセイ・イヴァーノヴィッチ! ええ、まあ、じれったい、なんてまぬけなんだろうねえ!」というやけくそみたいな叫びが、ホテルの玄関から聞こえてきた。
 わたしたちはほとんど走るようにして、車寄せのところまで行った。玄関に足を踏み入れたとたん……わたしは驚きのあまり呆然と両手をたらした。足はそのまま石畳に釘づけになった。
[#4字下げ]第9章[#「第9章」は中見出し]
 ホテルの広い階段の上の踊り場には、安楽いすにすわったままかつぎ上げられ、わが家の下女下男や、平身低頭のホテルの使用人大勢に取り囲まれて、お祖母さん[#「お祖母さん」に傍点]が泰然と納まりかえっていた! わざわざ自分の邸の召使を引率し、山のようなかばんやトランクを持って、ぎょうぎょうしく鳴物入りで乗り込んだ珍客を迎えるために、番頭までが表へ出ているというありさまである。しかり、これは正しくお祖母さんであった。当年とって七十五歳のアントニーダ・ヴァシーリエヴナ・タラセーヴィチェヴァ、一同を戦々恐々たらしめている富裕な女地主で、モスクワ社交界の貴婦人、死にかかっているというので、両方からしきりに電報を打たれた、la baboulinka(祖母さん)が、結局、死なないで、天から降ったか、地からわいたか、ひょっくりおんみずからわたしたちのところへやって来たのである。彼女は足なえで、この五年来の例によってやはり安楽いすのままかつがれて来たとはいいながら、相変らず元気で、きかぬ気で、独善主義で、腰もしゃんとして、大きな声で命令口調にどなり散らし、だれでも彼でもしかりとばしている、――要するに、わたしが将軍家へ家庭教師として入り込んで以来、二度ばかり会って知っているお祖母さんと、そっくりそのままであった。わたしがあっけにとられて、でくの坊のように彼女の前に突っ立っていたのは、いうまでもない。ところが向うは、安楽いすにすわってかつぎ込まれる時、その山猫のような目でいち早くわたしを見分け、一度聞いたら決して忘れないいつもの慣わしで、わたしの名前と父称を呼んだのである。
『こんな婆さんが、棺の中に入って、遺産を残していくものと、みんな待ち設けていたんだからなあ』という考えが、わたしの頭をかすめた。『なに、われわれのだれよりも、ホテルに泊まってるだれよりも、長生きするくらいだあ! しかし、やれやれ、これからあの人たちはどうなるだろう、これから将軍はどうなるだろう! この婆さん、ホテルじゅうを引っくり返してしまうだろうよ!』
「これ、おまえさん、なんだってわたしの前にぼんやり立って、目をむき出してるんだえ!」とお祖母さんはわたしにどなりつづけた。「腰をかがめて挨拶することを知らないのかえ? それとも、お高くとまって、挨拶をしたくないとでもいうの? それとも、ひょっとしたらだれか気がつかないの? これ、ポタープィチ」と、燕尾服に白ネクタイ、頭のばら色にはげた老人のほうへ振り向いた。今度の旅行のお供をして来た家扶である。「どうだえ、気がつかないんだそうだよ! もう葬式でも済んだかと思ってるんだね! もう死んだか、それともまだかって、追っかけ追っかけ電報なんか打ってさ、ふん、ちゃんと知っているよ! ところが、ご覧のとおり、ぴんぴんしているからね」
「とんでもない、アントニーダ・ヴァシーリエヴナ、ぼくがあなたのために良くないことをなんで望むものですか?」とわたしはわれに返って、朗かに答えた。「ただびっくりしたものですから……だって、びっくりせずにいられないでしょう、こんな不意打ちなんですもの……」
「おまえさん何をびっくりすることがあるんだえ? 汽車に乗って来たばかりさ。汽車は静かで揺れなかったしね。おまえさん散歩にでも出かけたの?」
「ええ、停車場のほうへ行って来ました」
「ここはいいね」とお祖母さんはあたりを見まわしながらいった。「暖かくって、木が多くって。わたしは、こんなのが好きさ! みんなうちかえ? 将軍は?」
「ええ、いらっしゃいます。この時刻には皆さん決まってうちにいらっしゃいます」
「じゃ、ここでも時間が決まっていて、万事格式を守ってるってわけかえ? もったいぶってござると見えるね。おかかえの馬車まで持ってるって話だから。les seigneurs russes(ロシヤの貴族方)ってわけかね! すっからかんになったものだから、さっそく外国行きときめこんだくせにさ! プラスコーヴィヤもいっしょなの?」
「ええ、ポリーナ・アレクサンドロヴナもごいっしょです」
「それからフランス人のやっこさんも? いえ、まあ自分で一どきにみんな見るとしよう。アレクセイ・イヴァーノヴィッチ、いきなりそちらへ案内してちょうだい。おまえさんここは居具合いがいいかえ?」
「別にどうということもありません、アントニーダ・ヴァシーリエヴナ」
「それから、おまえ、ポタープィチ、このボーイのまぬけにそういっておくれ、あまり高くないところに便利のいい上等の部屋を取っておくようにって。荷物もすぐそのほうへ運んでおしまい。まあ、なんだってみんなそう出しゃばって、わたしをかつぎたがるんだろうねえ? 何をそんなに寄って来るの? まるで奴隷みたいにさ! そのおまえさんといっしょにいる人はだれだえ?」と彼女はまたわたしに話しかけた。
「これはミスター・アストレイです」とわたしは答えた。
「ミスター・アストレイって何者なの?」
「漫遊してる人です、わたしの懇意にしてる……将軍とも知合いです」
「イギリス人だね。道理でひとにじっと目をすえたまま、口を開けようともしやしない。もっとも、わたしはイギリス人が好きだがね。さあ、かついで行っておくれ、まっすぐにみんなのいるほうへ。いったいどこにいるの?」
 お祖母さんはかつがれて行った。わたしは先に立って、ホテルの広い階段を昇って行った。わたしたちの行列は大変な効果を奏した。行き合うものがみんな歩みを止めて、目を丸くして見つめるのであった。元来、わたしたちのホテルは温泉場でも一流の、ぜいたくな、最も貴族的な家とされていたので、階段でも廊下でも、美々しい貴婦人や、えらそうなイギリス人に出会わない時はなかった。にもかかわらず、下でボーイ頭にお祖母さんのことをきくものが多かった。ボーイ頭自身もすっかり面くらってしまって、問われるままに、あれはさる外国のえらい婦人、つまり une russe, une comtesse, grande dame(ロシヤ人で、伯爵夫人で、上流の貴婦人で)一週間前 la grande duchesse de N(N大公夫人)が占領していた部屋にお入りになるのだ、と答えたことはいうまでもない。安楽いすに高々とすわり込んで、練って行くお祖母さんの威厳のある外貌も、こうした効果をひき起したおもな原因であった。新しい顔に出会うたびに、さっそく好奇の眼を向けてじろじろ見まわした後、大きな声で一々あれはだれだとわたしにたずねるのであった。お祖母さんは大柄なほうで、安楽いすから起きあがりはしなかったけれども、その姿を見ただけで、丈の高い人であることが感じられた。背は板のようにまっすぐで、いすにもたれていない。顔の道具の大きくくっきりした、白髪の大きな頭をぐっと上へ反らして、いどむような、高慢そうにさえ思われる目つきで前をながめている、しかも、その目つきも身振りもまったく自然で、意識的でないことが一目でわかった。七十五という年にも似ず、その顔はかなりみずみずしく、歯もさして抜けていなかった。彼女は黒い絹の服を着て、白い室内帽をかぶっていた。
「あの婦人はとても興味を感じさせますね」と、わたしと並んで昇って行きながら、ミスター・アストレイはこうささやいた。
『電報のことも知ってるんだ』とわたしは考えた。『ド・グリエのことも承知している。だが、マドモアゼル・ブランシュのことはまだよく知らないらしいな』わたしはすぐこのことをミスター・アストレイに伝えた。
 罪な話だが、最初の驚愕が過ぎてしまうが早いか、わたしはこれから将軍たちに雷の落ちたような打撃を与えてやるのだと思うと、無性に嬉しくてたまらなかった。わたしはぞくぞくするような気持ちで、楽しそうに先頭に立って進んだ。
 将軍たちは三階に住んでいた。わたしは取次ぎも頼まず、ノックもしないで、いきなり扉を一杯に開けはなし、凱旋将軍のようにお祖母さんをかつぎ込んだ。まるでわざとあつらえたように、みんな将軍の居間に集まっていた。ちょうど十二時だったので、何かの遠足でももくろんでいるところらしかった。馬車を乗りまわして遊ぼう、というものもあれば、一同うちそろって馬で出かけようというものもあった。そのほかにまだ知人の中で、招かれて来ただれ彼もいた。将軍と、ポリーナと、子供たちと、その保母のほか、部屋の中に居合せたのは、ド・グリエと、今もやはり乗馬服を着たマドモアゼル・ブランシュと、その母親の madame veuve Cominges と、小柄な公爵と、それからもう最初に会ったことのあるドイツ人(これはなにかの学術旅行をしているのだ)であった。お祖母さんの安楽いすはいきなり部屋のまん中、将軍から三歩くらいの所におろされた。いやはや、その時の印象は金輪際わすれることではない! ちょうどわたしたちがはいって行く前、将軍が何かの話をしており、ド・グリエがそれを訂正しているところであった。断わっておくが、ブランシュ嬢とド・グリエはもうこの二三日 〔a` la barbe du pauvre ge'ne'ral〕(かわいそうに将軍の目の前で)なぜか小柄な公爵をしきりにちやほやとあつかっていた。で、一座は人工的ではあったけれども、この上もない楽しい、家庭的な愛想のいい気分になっていたのである。お祖母さんを見ると、将軍はふいに棒のようになって、口をぽかんと開けたまま、言葉半ばに話をやめてしまった。彼はさながら怪蛇の眼ざしに呪縛されたもののように、目を皿のようにしたまま、じっとお祖母さんを見つめていた。お祖母さんのほうでも同じく無言のまま、じいっと将軍を見つめていたが、――それはなんと勝ち誇ったような、いどむような、あざけるような目つきであったことか! ふたりは、一座の人々の死んだような沈黙のなかを、まるまる十秒ばかりこんなふうに見つめ合っていた。ド・グリエは初め化石したようであったが、まもなく、なみなみならぬ不安の色がその顔にひらめき始めた。ブランシュ嬢は眉をつり上げ、口を開いたまま、けうとい顔でお祖母さんをながめていた。公爵と学者のドイツ人は、ほとほと合点がいかぬという表情で、この光景を傍観しているのであった。ポリーナの目つきには、度はずれの驚きと怪訝の色が表われていたが、ふいに彼女はさっと布のようにあおざめた。と、やがて見る見るうちに血が顔に上って、その両の頬にひろがった。ああ、それは一同にとって大椿事であった! 私はただ自分の視線をお祖母さんから周囲の人々に向け、またさらにお祖母さんのほうへ転じるのみであった。ミスター・アストレイは例によって、落ちつき払って、行儀よくわきのほうに立っていた。
「さあ、わたしもとうとう来たよ! 電報のかわりにね!」ついにお祖母さんは沈黙を破って、ぶっつけるようにこういった。「どう、思いがけなかったかえ?」
アントニーダ・ヴァシーリエヴナ……伯母さん……しかし、いったいどんなふうにして……」不幸な将軍は、へどもどしてつぶやくのであった。もしお祖母さんが、もう何秒か口を切らなかったら、彼は卒中の発作でも起したかもしれない。
「どんなふうにしてとはなんのことだえ? ただ乗って来ためさ。じゃ、鉄道はなんのためにあるの? おまえさんたちはみんな、わたしがもう伸びてしまって、おまえさんたちに財産を遺して行ったと思ってたんだろう? わたしはね、おまえさんがここからせっせと電報を打ってたのを、ちゃんと知ってるよ。ずいぶん電報代におあしを使ったことだろうね。ここからじゃ安くないからね。ところが、わたしは、さっさと支度をして、ここへ出かけて来たんだよ。これはあのフランス人なのかえ? ムシウ・ド・グリエとかいったっけね?」
「Oui, madame」とド・グリエは引き取った。「〔et croyez, je suis si enchante'〕 …… 〔votre sante'〕 …… C’est un miracle …… vous voir ici …… une surprise charmante(そうです、奥さん、そしてまったくのところ、わたしはすっかり感じ入っているのでございます……あなたのご健康は……それこそ一つの奇跡です……あなたにここでお目にかかろうとは……素晴らしい不意打の喜びで……)」
「さぞ charmante のこったろうよ。おまえさんがどんな人間か、わたしは、先刻承知なんだからね、このくわせもの、ふん、おまえさんのいうことなんか、これっからさきも本当にしやしないから!」と彼女は小指を出して見せた。「これは何者だえ?」と今度はブランシュ嬢を指しながらたずねた。乗馬服を着て鞭を手にした、舞台効果満点のフランス女は、彼女の目を打ったらしい。「ここのひとかえ、いったい?」
「これはマドモアゼル・ブランシュ・ド・コマンジュです。そして、こちらはお母様、マダム・ド・コマンジュです。おふたりは、ここのホテルに滞在しておられます」とわたしは報告した。
「娘のほうは主人持ちなのかしら?」とお祖母さんは遠慮会釈なしに根掘り葉掘りする。
「マドモアゼル・ド・コマンジュは、まだお嬢さんです」と私はできるだけ鄭重に、わざと小声で答えた。
「面白い人?」
 わたしはその問いがよくのみ込めなかった。
「話し相手にして退屈な方じゃない? ロシヤ語はわかるかえ? だって、このド・グリエはモスクワにいたことがあって、ロシヤ語もしゃべり覚えたものね。片言まじりにさ」
 わたしは彼女に、マドモアゼル・ド・コマンジュは一度もロシヤに行ったことがない、と説明した。
Bonjour!(今日は!)」ふいにお祖母さんは、くるりとブランシュ嬢のほうへ振り向いて、こういった。
Bonjour, madame」とブランシュ嬢は、なみなみならぬしとやかさと、慇懃さをよそおいながら、礼儀ただしく優美に小腰をかがめて、顔と全身の表情で、こうした奇妙な質問や応対ぶりにひどくびっくりさせられたという気持ちを、さっそく相手に思い知らせようとした。
「おやおや、目を伏せて、気取ったお上品ぶりを見せること。さっそくお里が知れてしまう、きっと女優か何かに決まってる。わたしはこのホテルの一階に、部屋を取ったからね」とお祖母さんはだしぬけに、将軍のほうへ話しかけた。「おまえさんと相宿になるわけだが、嬉しいか、それとも嬉しくないかえ?」
「そりゃ伯母さん! 信じてくださらなきゃ。わたしは心の底から……喜んでいます」と将軍は引き取った。彼はもう多少われに返っていたのである。彼は場合に応じては、相当上手に物々しい話しぶりをして、ある効果さえねらうほどの自信があったので、いまもとうとうとやり出そうという気になったのである。
「わたしたちはあなたのご健康が勝れないという知らせにびっくりして、心配でたまらないもんですから……何しろひどく心細い電報が来るので、そこへもってきてとつぜん……」
「ふん、でたらめ、でたらめ!」と即座にお祖母さんはさえぎった。
「でも、どうして」と将軍は、この『でたらめ』が聞こえなかったようなふりをして、同様に相手をさえぎりながら声を張った。「それにしても、どうしてこんな旅をおもい立たれたのですか? だって、そうじゃありませんか、あなたの年で、しかも、そのご健康で……少なくも、あまり意想外だったので、わたしたちがびっくりしたのも無理はないでしょう。しかし、わたしはじつに嬉しいです……われわれ一同は(と、彼はいかにも歓喜に堪えぬように、感激の微笑を浮かべはじめた)、全力をつくして、この夏のシーズンをあなたのため、この上もなく愉快なものにして差し上げますよ……」
「さ、くだらないおしゃべりはもうたくさん。例によってぺらぺらまくし立てたね。わたしはね、自分でも気持ちよく暮らして行くことくらい結構できますよ、もっとも、おまえさん方を嫌うわけでもないよ。わたしは、いつまでも怒ってるようなたちと違うからね。ところで、どうして、とおききだね? なあに、ちょっともびっくりするようなことはありゃしない。ごくごく当り前の話なのさ。なんだってみんなそうあきれるんだろうねえ? ご機嫌よう、プラスコーヴィヤ。おまえここで、何をしておいでだえ?」
「しばらくでした、お祖母さま」とポリーナは、そばへ寄りながらいった。「出発なすってからだいぶになりますの?」
「そら、この子がだれよりもいちばん利口なたずね方をしたよ。ほかのものったら、ただ『あら、あら!』ばかりなんだからねえ。じつはこうなんだよ。ずいぶん長く寝ていてね、いろいろ療治をしてもらったけれど、とうとう医者たちを追っぱらって、ニコラ教会の寺男を呼んだのさ。それがね、やはり同じ病気で困ってるどこかの女房を、乾草をもんだ粉でなおしたんだそうだよ。ところが、わたしもやっぱりそれが効いてね、三日目になったら、からだじゅうに汗をかいて、床上げしちゃったのさ。そこで、またぞろドイツ人どもが集まってさ、眼鏡をかけて評定を始めたもんだよ。『いま外国の温泉へ行って鉱泉療法をしたら、秘結もすっかりいえるでしょう』というじゃないか。で、わたしも、行ってもよかろう、と思ったわけさ。ドゥリ・ザジーギンなんて連中は、あっとばかりおったまげて、『あなたが出かけたって、どこへ行きつけるものですか!』といったけれど、よし今に見ていろ! というわけでね、一日のうちに支度をしてしまった。先週の金曜日に、小間使とポタープィチと、下男のフョードルを連れて出発したのだがね、あのフョードルはベルリンから追い返してしまったよ。あれなんかまるで用がなくて、わたしひとりだって行けるってことがわかったものだからさ。汽車はいつも特別室へ乗るようにしたし、人夫はどこの駅にもいるから、二十コペイカ出したら、どこへでもかついで行ってくれるよ。おやおや、おまえさんは大した部屋を借りたもんだねえ!」と彼女はあたりを見まわしながら叫んだ。「いったいまあどんなお金でまかなってるの? だって、おまえさんの領地はすっかり抵当にはいってるんじゃないの? このフランスのやっこさんだけにだって、どれほど借金してるかしれないじゃないか! ああ、わたしはなにもかも知ってるよ、何もかも!」
「わたしは、伯母さん……」と将軍はすっかりまごついてしまっていい出した。「どうも驚きましたね、伯母さん……わたしだって人から監督を受けずに……なにしていけるはずですがね……それに、収入以上の支出はしないから、わたしたちはここで……」
「え、おまえさんが収入以上の支出をしないって? よくもいったもんだねえ! きっと子供たちの分け前まで、きれいさっぱり失敬してしまったんだろうよ、結構な後見人もあればあるものさ!」
「そんなことをおっしゃると、そういう言葉を聞かされた以上……」と将軍は憤然としていい出した。「わたしはもうそれこそ……」
「おやおや、『もうそれこそ』ときた! ここじゃさぞルレットにへばりついていることだろうね? すっからかんにはたき上げたことだろうね?」
 将軍は度胆を抜かれてしまい、興奮のあまり胸が一杯になって、ほとんどむせ返らないばかりであった。
「ルレットですって! わたしが? この身分でいてですか……わたしが? それは正気ですか、伯母さん、あなたはきっとおかげんでも悪いんでしょう……」
「いいえ、うそおつきでない、うそを。大方、いくら引っぱっても、てこでも動きゃしないんだろうよ。いつもうそばかりついて! わたしも一つ見てみよう。そのルレットっていったいどんなものか、今日にもさっそく。ねえ、プラスコーヴィヤ、おまえ聞かせておくれ、ここで見るものは、どんなところがあるんだえ? ああ、そうだ、このアレクセイ・イヴァーノヴィッチも案内してくださるだろうよ。おまえ、ポタープィチ、見物に行くところをちゃんと書き留めておおき。さあ、ここで見るところはどことどこ?」と彼女はとつぜんまた、ポリーナに問いかけた。
「この近くに古い城址がありますわ。それから、シュランゲンベルグ
「なんだえ、そのシュランゲンベルグってのは? 森か何かかえ?」
「いいえ、森じゃありません、山ですの。そこにポアントってとこがありましてね……」
「ポアントってなんのこと?」
「山の一等高いところですよ、ちゃんと囲った場所。そこのながめったら、比べるものがないくらいですわ」
「じゃ、山の上へ安楽いすをかついで上るのかえ? 上れるかしら、どうだろう?」
「いや、人夫はさがしたらあるでしょう」とわたしは答えた。
 その時、保母のフェドーシャがお祖母さんのそばへ挨拶に近寄り、将軍の子供たちも引っぱって来た。
「いえ、なめっこなんかすることはありゃしない。子供と接吻するのは嫌いさ、子供ってみんな、はなったれなんだからねえ。そう、おまえここはどうだえ、フェドーシャ?」
「こちらはとても、とても結構でございます、アントニーダ・ヴァシーリエヴナ」とフェドーシャは答えた。「あなた様はいかがでございました? わたくしどもは大層お案じ申し上げておりました」
「わかるよ、おまえは心がまっ正直だからね。ここにいるのはどういう人だね? みんなお客様ででもあるのかえ?」と彼女はまたポリーナに問いかけた。「あの貧相な男はだれ、あの眼鏡をかけた?」
「ニーリスキイ公爵ですよ、お祖母さま」ポリーナは小さな声でささやいた。
「ああ、ロシヤ人なのかい。わたしはまた、わかりゃすまいと思ってさ! まあ、聞こえなかったかもしれないね! ミスター・アストレイにはもうお会いしたよ。おや、あそこにまたあの人が」とお祖母さんはその姿を見つけていった。「ご機嫌よう!」と彼女はいきなり声をかけた。
 ミスター・アストレイは黙って会釈した。
「何かいい話はありませんか? 何か聞かせてくださいよ! ポリーナ、これを通訳しておくれ」
 ポリーナは通訳した。
「わたしは非常にいい気持ちであなたを眺めています。そして、あなたがご健康なのをうれしく思います」とミスター・アストレイはまじめに、しかも、いささかももったいぶらず気軽に答えた。祖母さんは通訳してもらうと、その答えが気に入ったらしかった。
「イギリス人ていつもりっぱな返答をすること」と、彼女はいった。「わたしはなぜかいつでもイギリス人が好きだったよ。フランス人のやっこさんなんか、比べものになりゃしない! 少し遊びにいらっしゃい」と彼女は再びミスター・アストレイに話しかけた。「なるべくご迷惑をかけないように心がけますからね。おまえ、これを通訳しておあげ。そしてね、わたしは一階にいるから、といっておくれ、このホテルの一階にさ。――よござんすか、一階、一階」と指で下をさしながら、彼女はミスター・アストレイに向かってくりかえした。
 ミスター・アストレイは、この招待に一方ならず恐悦していた。
 お祖母さんは満足そうな目つきで、注意深くポリーナを頭から足の爪先までながめまわした。
「わたしはおまえをかわいがってやりたいのだがね、プラスコーヴィヤ」とふいに彼女はいい出した。「おまえはなかなかいい娘だよ。それに性根もあって、――ちょっ、なんだろう、性根はわたしにもありすぎるがねえ。ちょっとあちらを向いてごらん。おまえの髪は入れ毛かえ?」
「いいえ、お祖母さん、地毛《じげ》ですの」
「それそれ、わたしは当世風のおろかな流行がきらいでねえ。おまえはたいそう器量よしだよ。もしこれで男だったら、わたしゃおまえにほれるとこだったよ。なんだってお嫁に行かないの? だけど、もういいかげんにして引き上げる時分だ。それに少し散歩もしたくなったよ。今まで明けても暮れても、汽車、汽車でねえ……ときに、どうだえ、おまえさん、やっぱりまだ怒ってるの?」と彼女は将軍の方を振り向いた。
「とんでもない、伯母さん、たくさんですよ!」と将軍はふとわれに返って、さも嬉しそうにいった。「わたしだって承知していますよ、あなたのお年では……」
「〔Cette vieille est tombe'e en enfance〕(あのお年寄りはもうろくしてしまってますね)」とド・グリエはわたしにささやいた。
「わたしはここをどこからどこまで見物したいんでね。おまえさん、このアレクセイ・イヴァーノヴィッチを、わたしに譲ってくれないかえ?」とお祖母さんは引きつづき将軍に話しかけた。
「えええ、いくらでも。しかし、わたしも自分でなにします……それにポリーナも、ムシウ・ド・グリエも、……わたしたちはみんなあなたのお供をするのを光栄に思っています」
「Mais, madame, cela sera un plaisir ……」(いや、奥さん、それは愉快なくらいで……)ととろけるような笑顔を作ってド・グリエは割り込んだ。
「そうだろうとも、そうだろうとも、plaisir だろうともさ。おまえさんはほんとうにおかしくなってくるよ。もっとも、おまえさんにお金なんか貸してあげないよ」とつぜん、お祖母さんは将軍に向かって、こうつけくわえた。「さあ、いよいよわたしの部屋へやっておくれ、一応、検分しなくちゃならないからね。それから、名所めぐりに出かけましょう、さあ、かついでおくれ」
 お祖母さんはふたたびかつぎあげられた。そして、私たちは総勢でわいわいと、守楽いすの跡を追って、階段を下りて行った。将軍はまるで、樫の棍棒で頭を一つくらわされたような顔つきで歩いていた。ド・グリエは何やら思いめぐらしていた。ブランシュ嬢は後に残りかけたが、なぜか分別を変えて、やはりみなといっしょに行くことにした。公爵もその後からすぐついて行ったので、三階の将軍の部屋に居残ったのは、ただドイツ人と madame veuve Cominges だけであった。
[#4字下げ]第10章[#「第10章」は中見出し]
 温泉場では、――それに、どうやらヨーロッパいたるところ――ホテルの支配人やボーイ頭は、客に室を当てがうさい、客の要求や希望よりも、むしろ自分の見解を基とするものである。しかも、注意すべき点は、ほとんどあやまらないことである。とはいえ、お祖母さんには、どうしたわけか知らないが、いささか薬がききすぎるほど、豪華なひと区画を当てがった。みごとな飾りつけの部屋が四室と、浴室、召使の部屋、小間使のための特別な小部屋、等々である、じっさい、この部屋には一週間まえ、どこかの大公妃が泊まっていたので、むろんそのことは間代をつり上げるために、すぐさまお祖母さんに声明された。お祖母さんは部屋という部屋をかついで行かれた、というよりは、([#割り注]タラセーヴィチェヴァの安楽いすには車がついていたのである[#割り注終わり])押して行かれた。彼女は注意ぶかくこわい顔をして検分した。もう相当の年配で、頭のはげたボーイ頭は、うやうやしくこの最初の検閲に随伴した。
 この連中は、いったいこの夫人を何者と考えたか知らないが、とびきりえらい、第一、この上もない金満家とおもったらしい。宿帳に早速、〔Madame la ge'ne'rale princesse de Tarassevitcheva〕 と書き込まれた。そのくせ、お祖母さんはかつて公爵夫人だったことはないのだ。おかかえの召使、列車のなかの特別室、おびただしい用もないかばん、トランク、あまつさえ長持類、これらのものが、おそらくこうした特権の因をなしたものらしい。しかも、安楽いす、祖母さんのきびしい語調や声音、だんぜん抗弁を許さぬような態度で遠慮会釈もなく発せられるとっぴな質問、ひと口にいえば、しゃんと腰をのばした厳めしげな権高いお祖母さんの外貌ぜんたいが、彼女に対する一同の鞠躬如たる態度を決定してしまったのである。検分の最中に、お祖母さんはとつぜんいすを止めさせ、家具類のどれか一つを指しながら、うやうやしげな微笑を浮かべてはいるものの、もうおじけづいてきたボーイ頭に、とっ拍子もない問いをかけるのであった。お祖母さんはその問いをフランス語で持ちかけたが、しかし、それはかなりまずかったので、たいていわたしが通訳した。ボーイ頭の答えはおおむね彼女の気に入らず、不満足らしい様子であった。それにまた、彼女はまともなことでなく、何かしらとんでもないことをたずねるのであった。たとえば、とつぜんなにかの絵、神話を主題にしたかなりまずい名画のコッピイの前にいすを止めさせる。
「だれの肖像だえ?」
 ボーイ頭は、多分どこかの伯爵夫人でございましょうと答える。
「どうしておまえはそんなことを知らないんだい? ここに住んでいながら、知らないなんて、なんのためにこんな男がここにいるんだえ? なぜこの男はやぶにらみなの?」
 けれども、ボーイ頭はそうした問いに満足な返答ができず、すっかりまごついてしまった。
「ふん、まぬけ」とお祖母さんはロシヤ語で、噛んで吐き出すようにいった。
 彼女はまたさきへ押して行かれた。と、また同じようなことがサクソニヤ製の置物でもう一度くりかえされた。お祖母さんは長い間と見こう見していたが、やがてなんのためやら、持って行ってしまうように命じた。とどのつまり、寝室の絨毯はいくらするか、どこで織っているかと、ボーイ頭にからんでいった。ボーイ頭は取り調べておきます、と約束した。
「ほんとうにとんまばかりだよ!」とお祖母さんはぼやいて、今度はありったけの注意を寝台に集中した。「まあ、まあ、なんてご大層な天蓋だろう! 開けてごらん」。
 寝床はめくられた。
「もっと、もっと、すっかりめくってごらん。枕をお取り、枕カヴァーも。羽ぶとんを持ち上げて」
 何もかも引っくり返されてしまった。お祖母さんは注意ぶかく点検した。
「よろしい、この家には南京虫はいないようだ。シーツやカヴァーはすっかりおどけ。そのかわりに、わたしのを敷いておくれ、そして枕もわたしのにして。だが、それにしても、何もかもぎょうさんすぎる。わたしみたいな年寄りに、なんだってこんな部屋を寄越したんだろうねえ。ひとりじゃ退屈だから、アレクセイ・イヴァーノヴィッチ、なるべくせっせと来ておくれ、子供の授業が済んだらね」
「ぼくは昨日からもう将軍のとこで勤めてはいません」とわたしはこたえた。「で、このホテルでまったく、自分勝手にとまっています」
「それはまたどういうわけで?」
「二三日前、ここヘベルリンの高貴な男爵夫人がやって来たんですが、昨日ぼく散歩に出た時、ベルリンふうの発音をまもらないで、男爵に話しかけたものですから」
「ふん、それがどうしたの?」
「男爵がそれを生意気だといって、将軍にねじこんだため、将軍は即日ぼくを解雇されのです[#「されのです」はママ]」
「だが、どうしたの、おまえさんはその男爵に、悪口でもついたの? もっとも、悪口をついたってかまやしないがね!」
「どうして、とんでもありません、男爵のほうがぼくにステッキを振り上げたのです」
「おまえさんも意気地なしだね、自分のうちの家庭教師をそんなふうに扱わしておくなんて」とお祖母さんは、急に将軍のほうへふりむいた。「しかも、お払い箱にしてしまうなんて! とんま、だれも彼もみんなとんまばかりだよ、お見受けしたところがさ」
「どうぞご心配なく、伯母さん」と将軍は、親しみのある中にもいくらか高飛車な調子でこたえた。「わたしも自分のことは自分で始末をつけて行けますからね。それに、アレクセイ・イヴァーノヴィッチの話も、完全に正確な真相をつたえたとはいえませんし」
「で、おまえさんはそのまま泣き寝入りにしたのかえ?」
「ぼくは男爵に決闘を申し込もうと思ったんですが」とわたしはできるだけおとなしく、落ちついた調子で答えた。「将軍が反対なすったものですから」
「なんだっておまえさん反対したの?」とお祖母さんは将軍にくってかかった。「ときにおまえ」と急にボーイ頭のほうへ振り向いて、「用があったら呼ぶから、行ってもよろしい、――何も口をぽかんと開けて、そんなところに立っていることはありゃしないよ、あのニュールンベルク面、見ていても虫ずが走る!」
 相手は一礼して出て行った、もちろん、お祖母さんのお愛想はちんぷんかんぷんだったので。
「とんでもない、伯母さん、決闘なんてそんなことができるものですか?」と将軍は薄笑いを浮かべながら答えた。
「どうしてできないんだえ? 男ってみんな雄鶏とおんなじだからね、ひと喧嘩したらいいんだよ。おまえさんたちはみんなとんまだねえ、お見受けしたところがさ。自分の国の名誉を守ることができないなんて。さあ、かついでおくれ! ポタープィチ、おまえいつでも人夫がふたり用意できてるように手配しておくんだよ。ちゃんと談判しておおき。ふたり以上はいらないからね。かつがなくちゃならないのは階段のとこだけで、平らなところや往来なんかは、ただ押せばいいんだからね、そういっておくれ。そして、賃金は先払いにしてやるんだよ。そうしたほうが丁寧にやってくれるだろう。だけど、おまえはいつもわたしのそばにいなくちゃいけないよ。ところで、アレクセイ・イヴァーノヴィッチ、おまえさん散歩に出た時、その男爵をわたしに教えておくれな。いったいどんな男爵さまか、見るだけでも見ておきたいからね。それから、例のルレットはどこにあるの?」
 わたしはそれに答えて、ルレットは停車場の大広間にあると説明した。すると、それはたくさんあるのか? 勝負をする人は大勢なのか? いちん日やっているのか? どういう仕組になっているのか? などという質問が口をついて出た。で、わたしはとうとう、それは自分の目で見るのが何より一番だ、口で説明するのはかなりむずかしいことだから、とこたえざるをえなかった。
「じゃいきなりそこへかついで行っておくれ! アレクセイ・イヴァーノヴィチ、おまえさん先頭に立ってね!」
「えっ、伯母さん、あなたは旅の疲れを休めもしないんですか?」と将軍は気づかわしげにたずねた。彼はいささかあわて気味にさえ見受けられた。それに、だれもかれもが妙にまごついて、互いに目と目を見かわし始めた。おそらく一同は、いきなりお祖母さんの伴をして停車場へ行くのが、いくらか尻くすぐったいような、むしろ、恥ずかしいような気持ちさえしたのであろう。お祖母さんはまたそこでも、何かとっ拍子もないことをしでかすに相違ないが、今度はもう衆人環視の中なのである。しかし、そのくせ、みんな自分のほうから伴をしようと申し出た。
「何も休むことなんかありゃしない。わたしゃ疲れてなんかいないからね。もう五日間というものすわり通しにして来たんだもの。その後で温泉めぐりをしようよ。どこにどんな霊泉が出てるか見物しよう。それからと……それ、なんといったっけ……おまえさっき話しただろう、プラスコーヴィヤ、――ポアント、だったっけねえ?」
「ええ、ポアントですわ、お祖母さん」
「ふん、ポアント。じゃ、そのポアントへね。そのほかここにどんな所があるの?」
「それから、まだいろんなものがありますわ、お祖母さん」とポリーナは答えわずらっていた。
「ふん、自分でも知らないんじゃないか! マルファ、おまえもやっぱりいっしょに行くんだよ」と彼女は小間使にいった。
「しかし、なんだってマルファまで、伯母さん?」と将軍は急に気をもみ出した。「第一、そんなことできやしませんよ。ポタープィチでさえ、停車場へ入れてくれるかどうか知れないほどですよ」
「何をつまらないことを! いったい女中だからといって、これをうっちゃっておけとでもいうの? やはり生ま身の人間だもの、一週間も道中揺られてりゃ、あれだってちょっと見物ぐらいはしてみたかろうじゃないか。わたしでなくて、だれが連れてってやるというの? ひとりだったら、門口三寸だって出れはしないんだから」
「でもお祖母さん……」
「わかってるよ。おまえさんはわたしのお伴するのが恥ずかかしいんだろう。じゃ家に残っておいでよ。頼みはしないからね。まあ、ご大層な将軍様だこと。わたしだって将軍夫人ですからね。それに、なんだってわたしの後からそんな行列、をつくって、ぞろぞろついて来るんだろう? わたしはアレクセイ・イヴァーノヴィッチとふたりで、すっかり見物を済ませますよ……」
 しかし、ド・グリエは、ぜひともみんなでついて行くと主張して、お祖母さんのお伴をするのは愉快だとかなんとか、愛想のいいお世辞を並べ立てはじめた。一同は出発した。
「〔Elle est tombe'e en enfance〕(あの人はもうろくしてしまっていますね)」とド・グリエは将軍に向かってこうくりかえした。「〔seule, elle fera des be^tises〕 ……(独りでおいたら、さぞばかげた事をするでしょうよ……)」それからさきは、よくわたしには聞き分けられなかった。が、察するところ、この男には何か目算があったらしい。あるいは一るの希望さえよみがえったのかもしれない。
 停車場までは半露里あった。わたしたちの道筋は、栗並木づたいに広小路まで行って、そこを曲がると、まっすぐに停車場へ出るのであった。将軍はいくらか落ちついてきた。というのは、わたしたちの行列はかなりとっぴではあったけれども、とにかく行儀よくしていて、無作法なところはなかった。それに、温泉場に足の立たない病人が現われるということは、べつだん不思議な現象でもなかったのである。しかし、将軍は明らかに停車場を恐れているのであった。足の立たぬ病人、しかも年寄りが、なんのためにルレットなどに出かけるのだ、というわけである。ポリーナとマドモアゼル・ブランシュは、人夫に押されて行く安楽いすの両側に付き添って、歩いて行った。マドモアゼル・ブランシュは、つつましやかに快活な態度をよそおって、絶えず笑っていた。そのうえ、時には、きわめて愛嬌よくお祖母さんのお相手さえしたので、老人もしまいには感心したほどである。いっぽうポリーナは、のべつ幕なしに発せられるお祖母さんの果しない問いに答えなければならなかった。たとえば、『いま通ったのはだれだえ?』とか、『いま馬車に乗って行った女はどこの人だえ?』とか、『ここは大きな町かえ?』とか、『公園は大きいの?』とか、『あれはなんの木?』とか、『あれはなんという山だえ?』とか、『このへんは鷲が飛んでいるかえ?』とか、『あれはなんておかしな屋根なんだろう?』とかいった類である。ミスター・アストレイはわたしと並んで歩きながら、今日はきっといろんなことが起るに相違ない、とささやいた。ポタープィチとマルファは、安楽いすのすぐ後について行った。ポタープィチは、例の燕尾服に白ネクタイといういでたちであったが、頭にかぶっているのは目びさしつきの帽子だったし、マルファは、――これは赤いほっぺたこそしていたが、頭には白いものの交りはじめた四十の老嬢であった、――更紗の着物をきて室内帽子を頂き、ぎいぎい音のする山羊皮の靴をはいていた。お祖母さんはよくこのふたりのほうへ振り向いて、話しかけるのであった。ド・グリエと将軍は少し遅れて歩き、何ごとかひどく熱っぽい調子で話しあっていた。将軍はえらくしょげかえっていた。ド・グリエは何か断固たる様子でしゃべっていた。もしかしたら、将軍を激励していたのかもしれないが、きっと何かの苦言を呈していたのであろう。しかし、それにしてもお祖母さんはさきほど、「わたしはおまえさんに金なんかあげやしないよ」という運命的なひと言を発している。あるいはド・グリエには、そんなことはあり得ないように思われたのかもしれない。が、将軍は自分の伯母さんをよく知り抜いていた。わたしはド・グリエとブランシュ嬢が、相変らず目くばせしているのに気がついた。公爵とドイツ人は、並木道の一番はずれに、ちらと姿を見せた。ふたりは仲間はずれになって、どこかへ行ってしまったのである。
 わたしたちは堂々と停車場へ乗り込んだ。玄関番もボーイたちも、ホテルの使用人たちと同じ尊敬の色を示した。とはいえ、一同は好奇の表情でながめていた。お祖母さんはまず初め、広間広間をひととおりかついでまわるように命じた。感心して賞めたものもあるが、まるで無関心な態度で素通りしてしまったものもある。が、一々根掘り葉掘りしてたずねた。こうして、いよいよ賭博場へ着いた。閉めきった戸の前に、歩哨のように立っていたボーイが、まるで電撃でも受けたように、さっと大きく扉を開けた。
 お祖母さんがルレットに姿を現わしたことは、公衆に深い印象を与えた。ルレットの台のまわりと、広間の反対側に備えられた |trente et quarante《トラント エ カラント》のテーブルのそばには、百五十人から二百人の賭博者が、いくつかの列をつくってむらがっていた。うまくテーブルのそばまでもぐり出ることのできた連中は、たいていここを先途とばかりかじりついて、きれいに負けてしまうまでは、いっかな席を譲ろうとしなかった。ただ見物のためにぼんやり立って、勝負の席を無意味に占領することは許されなかったのである。台のぐるりには、いすが並べてはあったけれども、あまり腰をかける人はなかった。ことに人の寄りが多い時はなおさらであった。というのは、立っているほうがぴったり台に身を寄せて、位置を定めることができたし、賭けるのにも都合がよかったからである。二列目、三列目の人々は第一列の後に控えて、自分の番を取られまいと待機している。しかし、時とすると、待ちきれないで、第一列の間から手をさしのべて、自分の賭金を置くものもあった。それどころか、三列目からもこんなふうにして、賭金を突き出す器用人もあるといういきおい、そのために、十分おきか五分おきに、どこかで賭金の間違いで「騒ぎ」が持ちあがるのであった。もっとも、停車場詰の警官はかなりよくやっていた。もちろん、混雑を避けることはできないけれど、しかし、群集が殺到するのは、むしろよろこんでいた。それは、上り高が大きくなるのを意味しているからである。その代り、八人の監督がテーブルのまわりにすわり込んで、目を皿のようにして賭金を見張っている。金の計算をするのも彼らの役で、争論が起った時にも、同じく彼らが裁決を下すのである。よくよくの場合には警察を呼ぶ、すると、問題は即座に片づいてしまうのである。警官は同じ広間の中で群集に交って、しかも平服姿でいるから、だれにも気づかれないのだ。彼らはすりや与太者を警戒しているのである。これは仕事の性質上、きわめて便利のいい関係から、ルレット場に特別多いのである。まったくのところ、ほかの場所ではどこへ行っても、ポケットや錠前のかかった所から盗み出さなければならぬわけで、もしやりそこなった場合には、なかなか厄介なことになる。ところが、ここでは、ただもうルレット台に寄って、勝負をはじめさえすればよい。そして、やぶから棒に、公然と大っぴらに、他人の賭の勝ちを取ってポケットへ入れればよいのである。もしいざこざが起ったら、泥棒は大きな声を張り上げて、この賭はりっぱに自分のものだと主張するのである。もしうまくやってそばの連中も動揺の色を示すようなら、泥棒がまんまと金をせしめることも珍しくない。ただし、それは金高がさして大きくない場合の話である。もし金高が大きいと、きっと前に監督なり、勝負をしている人たちのだれなりに見つかってしまう。ところが、金高がさして大きくなければ、ほんとうの賭主がスキャンダルを恐れて、争論を打ち切り、その場を退いてしまうことさえある。しかし、万が一泥棒の正体がばれると、すぐ赤恥をさらして引きずり出されるのだ。
 こうした光景をお祖母さんは遠くのほうから、荒々しい好奇の眼を光らせながらながめていた。彼女はこそ泥のしょびき出されるのが大層お気に召したのである。|Trente et quarante《トラント エ カラント》 はあまり彼女の興味をひかなかった。それより、ルレットの玉のころがる様子が面白かったのである。とうとうお祖母さんは、勝負の模様をもっとそばへ寄って見たいといい出した。どうしてあんなことになったのかわからないが、ボーイたちも、そのへんをちょこちょこしていた幾人かの代理人も(これは主として博奕で財布をはたき上げたポーランド人で、勝運のむいた人たちやすべての外国人に、サーヴィスの押売りをするのが商売であった)、このおそろしい人ごみなのに、台のまんなか、一番監督のそばに場所を見つけ、お祖母さんのために人払いをして、そこへ安楽いすを押して行った。自分では勝負をしないで、傍観の態度を取っている多くの人々(おもに家族づれのイギリス人)は、たちまちひしひしと寄せて来て、賭博者たちの間からお祖母さんをじろじろ見はじめた。おびただしい柄付眼鏡《ロルネット》が彼女のほうへ向けられた。監督たちの心には希望の念がわき起った。こういうとっ拍子もない人が勝負を始めたら、ほんとうに何かとてつもないことが持ちあがるかもしれない。足の立たない七十のお婆さんが、博奕をやりたいといい出したら、それこそもちろん、なみはずれたできごとに相違ない。わたしも同様に台のほうへ割り込んで、お祖母さんのそばに居場所をこしらえた。ポタープィチとマルファは、どこかわきのほうの人ごみの中に取り残された。将軍、ポリーナ、ド・グリエ、ブランシュ嬢も、やはり見物の間に交ってわきのほうに陣取った。
 お祖母さんはまず賭博者たちの検分を始めた。彼女は半ばささやくような声で、わたしに向かって、『あれは何者だえ? あの女はいったいだれ?』などという質問を、引っちぎったような激しい語気で投げつけた。とりわけ彼女の気に入ったのは、中々大きな勝負をやっている、ごく年の若い男で、一度に何千という金を賭けていたが、まわりでひそひそ話しているところによると、すでに四万フランからもうけているのであった。彼の前には金貨や紙幣が山のように積まれていた。顔色は蒼ざめて、目はぎらぎら光り、両手はわなわなふるえていた。彼はもうぜんぜん勘定もしないで、手に握っただけのものを賭けていたが、それでものべつ勝ちつづけで、かき込む一方であった。ボーイたちはそのまわりをちょこちょこして、うしろから肘いすを出してやったり、そのへんがゆったりして人に押されないようにと、まわりをしきりに整理していた。――それはいうまでもなく、たんまり祝儀を貰おうというあてこみなのである。賭博者たちの中には、うんと勝ち越した時には、嬉しまぎれに勘定もせず、ポケットから金をわしづかみにして、祝儀をばらまくようなのもいるのである。青年のそばには、早くもひとりのポーランド人が陣取って、いっしょうけんめいにやきもきしながら、うやうやしい調子ではあるが、のべつ幕なしに、何やらひそひそいっていた。おそらく、どんなふうに賭けたらいいか助言して、勝負の進め方にかじを取っているらしかったが、これももちろん、あとでお恵み金にありつこうというはらなので。けれども、青年はほとんどそれには目もくれず、出たらめに賭けては、のべつかき込んでいた。どうやら前後も夢中になっている様子である。
 お祖母さんはしばらくこの青年を観察していた。「あの人にそういっておくれ」とわたしを突っつきながら、お祖母さんは急にあたふたしはじめた。
「あの人にそういっておくれ、もう勝負をやめて、はやくお金を持って出て行くようにさ。負けるよ、今にすっかり負けてしまうよ!」と彼女は興奮のあまり気をもみはじめた。「ポタープィチは、どこにいるの? あの人のところヘポタープィチをやっておくれ! さあ、そういっておくれ。そういって」と彼女はわたしを突いた。
「ほんとに、いったいポタープィチはどこにいるのだえ? Sortez! Sortez!(行っておしまいなさい! 行っておしまいなさい!)」とお祖母さんは自分で青年にどなり出した。
 わたしはそのほうへかがみ込んで、ここではそんなにどなってはいけない。それどころか、少しでも大きな声で話すことさえ禁じられている。なぜなら勘定のじゃまになるからで、今にわれわれは追い出されてしまうと、断固たる調子で耳打ちした。
「なんていまいましい! 男一匹だいなしになってしまう! もうこうなったら自業自得だが……それにしても、見ていられない、からだじゅうがもぞもぞする。まあ、なんてばかだろう!」といい、お祖母さんは急いでわきを向いてしまった。
 その左側、台の反対側には、大勢の賭博者たちに交って、ひとりの若い貴婦人が目に立った。そのそばにはだれかしら一寸法師がすわっていた。その一寸法師が何者やら、親類やら、それとも舞台効果のために連れて来たのやらわからないけれども、この貴婦人にはわたしも前から気がついていた。彼女は毎日、午後一時にルレット台に近寄って、かっきり二時には帰って行く。毎日一時間だけ勝負を闘わすのであった。彼女のことはもうみんな知っていたので、行くとすぐいすをすすめるほどであった。ポケットから幾枚かの金貨と、何千フランかの紙幣を取り出して、しずかに、冷静に、よく考えて賭け、紙きれに鉛筆で数字を書き込みながら、そのとき出やすいチャンスの系統を観察するのであった。彼女はかなり大きく賭けた。そして、毎日、千、二千、高々三千フランともうけて行ったが、それ以上のことはない。そして、勝つとすぐ帰って行った。お祖母さんは長いことその様子をながめていた。
「ふん、あの女は勝つよ! あの女は負けっこない! どういう女だろう? 知らないかえ? いったい何者だろう?」
「フランス女ですよ、きっと例のお仲間でしょうよ」とわたしはささやいた。
「ああ、なるほど、やり方でどんなしろものかわかるわ。見るからに爪がとがっているらしい。さあ、おまえさん、今度は一つ一つの玉の回り方を説明して、どんなふうに賭けたらいいのか教えておくれ」
 わたしはできるかぎり、この数限りない賭け方の組合せ、rouge et noir赤と黒)pair et impair(丁半)manque et passe(マンクとパス)それから出る数の系統にさまざまなニュアンスのあること、などを説明した。お祖母さんは注意ぶかく聞いて覚え込み、また問い返してはおさらえをした。一つ一つの賭け方の系統に対して、即座に眼前の例を引くことができたので、かなり多くのことをたやすく迅速に覚え込み、おさらえをすることができたわけである。お祖母さんは大満悦であった。
「ゼロってなんのことだえ、そら、あのちぢれっ毛の一番監督が、いまゼロってどなったじゃないか! それに、なんだってあの監督は台の上にあったお金を、すっかりかき込んでしまったんだえ? あんな大きな金の山を、すっかりひとりでかき込んでしまったじゃないか! あれはどうしたわけだえ?」
「ゼロはね、お祖母さん、胴元のもうけなんです。もし玉がゼロの穴へ落ちたら、台の上にあるだけの金は、いっさい勘定なしに胴元のものになるんです。もっとも、ドローンゲームになることもありますが、その代り胴元は何も払わないでいいんです」
「なあるほど! じゃ、わたしはなんにも取れないのかえ?」
「いえ、お祖母さん、もしあなたがその前にゼロにお賭けになったら、三十五倍お取れになるのです」
「えっ、三十五倍だって! それはよく出るのかえ? なんだってみんなそれに賭けないのだろう。ばかだねえ!」
「だって、それは三十六分の一しかチャンスがないんですもの、お祖母さん」
「何をばかな! ポタープィチ、ポタープィチ! ああ、ちょっと待った、わたしもお金を持っていたっけ、――ほうら!」とポケットからぎっしり詰まった金入れを取り出して、その中からフリードリッヒ・ドルを一枚つかみ出した。「さあ、今すぐゼロに賭けておくれ」
「お祖母さん、ゼロはたったいま、出たばかりじゃありませんか」とわたしはいった。「してみると、まだ長いこと出やしませんよ。だから、ずいぶんたくさん賭け損になりますよ。せめて今しばらく待ってごらんなさい」
「ちょっ、ばかなこといって、賭けなさい!」
「どうぞ御意のままに、しかし、ゼロはおそらく晩まで出ないでしょうよ。あなたは千ドルくらい賭け損になりますよ。そんなことはよくある図ですからね」
「ちょっ、ばかなこと、ばかなこと! 狼がこわくて森へ入れるものかね。どうだえ? 負けた? また賭けなさい!」
 二度目のフリードリッヒ・ドルも取られた。で、三枚目を賭けた。お祖母さんは座にもたまらぬ様子で、ぎざぎざの上をおどる玉を、燃えるような目で食い入るように見つめた。三枚目も取られてしまった。お祖母さんは夢中になってしまった。その場にいたたまれず、監督が待ち設けたゼロの代りに、三十六《トラント・エ・シス》と呼んだ時、拳で台をたたくという熱狂ぶりであった。
「ちょっ、いまいましい!」とお祖母さんは腹を立ててしまった。「あのしゃくなゼロめ、いつ出て来やがるんだ? たとえ死んでも、ゼロが出るまで頑張ってやる! あれはあのいまいましいちぢれっ毛の監督が、金輪際出ないようにしてるんだ! アレクセイ・イヴァーノヴィッチ、一度に二枚賭けておくれ! こんなやり方じゃ、しこたまとられてしまって、よしんばゼロが出たところで、なんのもうけにもなりゃしない」
「お祖母さん!」
「お賭け、お賭け! おまえさんの金じゃありゃしない」
 わたしはフリードリッヒ・ドルを二枚賭けた。玉は長いこと盤の上を転がっていたが、とうとうぎざぎざの上をまわりはじめた。お祖母さんは身動きもせずに、きゅっとわたしの手を握りしめた。と、ふいにがたっと鳴った!
「ゼロ!」と監督はどなった。
「それ、ごらん、それ、ごらん!」と満面えみ輝いて大恐悦のお祖母さんは、くるりとわたしのほうへ振りむいた。「だからいわないこっちゃない! これというのも神様が、二枚一度に賭けろと教えてくだすったのだよ! さあ、これでわたしはいくら貰えるんだえ? なんだって払わないのだろう? ポタープィチ、マルファ、いったいあれたちはどこにいるんだろう? 仲間の連中はどこへ行ってしまったの? ポタープィチ、ポタープィチ!」
「お祖母さん、後になさい」とわたしはささやいた。「ポタープィチは戸口にいます、ここへ入れてもらえないのでね。ごらんなさい、お祖母さん、そら、あなたのお金を勘定していますよ、さあ、お受け取りなさい!」
 青い紙で巻いた五十フリードリッヒ・ドルの重い棒が、お祖母さんのほうへ投げ出された。なおそのほか、封のしないフリードリッヒ・ドルを二十枚勘定して寄越した。それをわたしは残らずショベルようの道具で、お祖母さんの方へかき寄せた。
「Faltes le jeu, messieurs! Faites le jeu, messieurs? Rien ne vas plus?(さあ、皆さん、勝負を始めてください! だれもなさる方はありませんか? どなたもお賭けになりませんか?)」と監督は盤をまわそうと身構えながら、はやく賭けるように大きな声で勧誘した。
「さあ! 大変! もうすぐまわすよ! お賭け、お賭け!」とお祖母さんはあたふたし始めた。「さあぐずぐずしないでさ、早く!」と彼女は力まかせにわたしを小突きながら、やっきになっている。
「でも、何に賭けるんです、お祖母さん?」
「ゼロだよ、ゼロだよ! またゼロに賭けるんだよ! できるったけたくさん賭けなさい! みんなでいくらあるんだえ? 七十フリードリッヒ・ドル? 何もけちけちすることはありゃしない、一時に二十フリードリッヒ・ドル賭けなさい」
「しっかりしてくださいよ、お祖母さん、ゼロは時とすると、二百回に一度も出ないことがあるんですよ! 請け合っておきますが、あなたは全財産をすっておしまいになりますよ」
「ちょっ! 何をつまらないことを! お賭けったら! ほら、ベルが鳴ってる! わたしは自分でちゃんと心得てしてるんだからね」とお祖母さんは興奮のあまり、ぶるぶるふるえ出したほどである。
「ゼロには、十二フリードリッヒ・ドル以上は賭けられない規則になっているのですよ。お祖母さん、――さあ、賭けましたよ」
「え、賭けられないって、いったいおまえさんでたらめいってるんじゃないかえ? ムシウ! ムシウ!」自分の左側にすわっていて、これから盤をまわそうとしている監督をつかまえて、小突きまわしながら、「〔Combien ze'ro? Douze? Douze?〕(ゼロはいくら? 十二? 十二?)」
 わたしは急いでこの質問をフランス語で説明した。
「Oui, madame(はい、そうです、奥さん、)」と監督はうやうやしく答えた。
「それから、また規則によりまして、一回の賭は四千フロリン以上許されないことになっております」と彼は説明を補足した。
「じゃ、仕方がない、十二枚だけお賭け」
「Le jeu est fait(勝負の始まり!)」と監督は叫んだ。円盤は回転をはじめて、十三が出た。負けである!
「また! また! また! またお賭け!」とお祖母さんは叫ぶのであった。わたしはもうさからわないで、肩をすくめながら、十二フリードリッヒ・ドルを賭けた。円盤は長いあいだまわっていた。お祖母さんはじっとそれを見守りながら、ただもう武者ぶるいしていた。
『いったい、このひとはまたゼロでもうけるつもりなのかしらん?』とわたしはあきれてお祖母さんを見つめたまま、心の中で考えた。まごう方なき勝利の確信が、今にもすぐゼロが出るに相違ないという期待の色が、彼女の顔に輝いていた、――玉は穴に飛び込んだ。
「ゼロ!」と監督は叫んだ。
「どうだえ※[#感嘆符三つ、ページ数-行数]」とお祖母さんは、物すごいほど得々とした表情でわたしのほうを振り向いた。
 わたし自身も賭博者に生れついた人間だった。わたしはその瞬間それを感じたのである。手足がわなわなとふるえて、血が頭にさっと逆流した。わずか十回ばかりの間に、ゼロが三度も出るなどということは、もちろん、めずらしい偶然に相違ない。しかし、それはかくべつ驚くほどのことでもないので、自分でもちゃんと目撃したことだが、一昨日はゼロがつづけて[#「つづけて」に傍点]三回出たことがある。その時、熱心に当りの数を紙に書き留めていたひとりの賭博者が、つい昨日はこのゼロが一昼夜にたった一度しか出なかったのにと、大きな声でいったものである。
 お祖母さんはいちばん大きな当りを取った人というので、特別の注意と敬意を払って計算してもらった。彼女の取り前はちょうど四百二十フリードリッヒ・ドル、すなわち、四千フロリンと、二十フリードリッヒ・ドルであった。彼女は二十フリードリッヒ・ドルを金貨で、四千フロリンを紙幣でもらった。
 今度はもうお祖母さんも、ポタープィチを呼ばなかった。それどころではなかったのである。彼女はあたふたもしなかったし、見たところふるえてさえもいなかったが、もしこんないい方が許されるとしたら、内面的にふるえているのであった。彼女の全部が何かに集中して、ねらいを定めているかのようであった。
「アレクセイ・イヴァーノヴィッチ! あの男は一度に四千フロリンは賭けてもいいっていったね? さあ、四千フロリン取り出して、それをそっくり赤に賭けておくれ」とお祖母さんは決を下した。
 いさめたところでむだなことであった。円盤はまわりはじめた。
「赤《ルージ》!」と監督は叫んだ。
 またもや四千フロリンの勝ちで、合計八千フロリンである。
「四千だけ、こっちへお寄越し、そして、四千また赤にお賭け!」とお祖母さんは命令した。
 わたしは再び四千フロリン賭けた。
「赤《ルージ》!」とまたまた監督が叫んだ。
「しめて一万二千フロリンだ! それをすっかりこっちへお寄越し、金貨はこの財布へ入れて、おさつはしまっておくれな。もうたくさん! 帰りましょう! いすを押しておくれ!」
[#4字下げ]第11章[#「第11章」は中見出し]
 安楽いすは、広間の反対側にある戸口へ向けて押して行かれた。お祖母さんは晴ればれとしていた。仲間のものは、すぐさまいっせいにお祝いの言葉を口にしながら、お祖母さんを取り囲んだ。お祖母さんの振舞いはずいぶんとっぴではあったけれども、その華々しい勝利は、多くの点を目かくしすることになった。で、将軍もこんな風変りな女と親戚関係になるということが、社交界で自分の面汚しになるかもしれないなどと、心配しないようになった。わざとへりくだったような、なれなれしい愉快そうな微笑を浮かべながら、まるで赤ん坊でもあやすように、彼はお祖母さんにお祝いをいった。もっとも、彼自身すべての見物人と同じようにショックを受けたらしい。まわりではみんながお祖母さんを指さしして、その噂をしていた。中には、もっと近くでよく見ようというので、わざわざそばを通り抜けて行くものも少なくなかった。ミスター・アストレイはわきのほうでふたりの知合いのイギリス人に、お祖母さんのことを説明してやっていた。幾人かの堂々たるいでたちをした貴婦人が、堂々たる怪訝の色を浮かべて、さながら何かの奇跡のように、お祖母さんをためつすがめつながめている……ド・グリエはにこにこしながら、お世辞を振りまいた。
「Quelle Victoire!(たいした勝利ですな)」と彼はいった。
「〔Mais, madame, c’e'tait du feu!〕(でも奥様、あれはほんとうに霊感でしたわ)」とブランシュ嬢は、お世辞わらいしながらつけくわえた。
「そうですよ、ごらんのとおり、ちょっとやってもすぐ一万二千フロリン勝ちましたからね! いえ、一万二千どころじゃありゃしない、何しろ金貨だからね! 金貨を勘定に入れると、かれこれ一万三千にもなるだろうよ。ロシヤのお金にしていくらになるかねえ! 六千ルーブリにもなるかしら?」
 わたしはそれに答えて、七千は越している、今の相場でいったら、八千ちかくなるかもしれないといった。
「まあ冗談ごとじゃないよ、八千ルーブリなんて! ところが、おまえさん方はここにぼんやり暮らして、なんにもしないでいるんだからね、とんまだよ! ポタープィチ、マルファ、見たかえ?」
「奥さま、まあ、あなた様はどうしてあのような? 八千ルーブリなんて!」とマルファはからだをくねらせながら叫んだ。
「そら、おまえたちに金貨五枚ずつあげるよ、さあ!」
 ポタープィチとマルファは、いきなり身を投げてお祖母さんの手を接吻した。
「人夫にもフリードリッヒ・ドル一枚ずつやっておくれ、金貨でね。アレクセイ・イヴァーノヴィッチ、そこでお辞儀してるボーイは何もの? ああ、そこにもひとり。お祝いでもいってるのかえ? あれたちにもやっぱりフリードリッヒ・ドル一枚ずつね」
「Madame, la princesse …… 〔un pauvre expatrie'〕 …… malheur continuel …… 〔les princes russes sont si ge'ne'reux〕 ……(どうぞ、公爵夫人………あわれな追放人でございます……重なる不幸で……ロシヤの公爵方は大層お情けぶかくていらっしゃいますから……)」くたびれたフロックに、はでなチョッキを着込み、帽子を横の方へ突き出した髭の男が、卑しいにたにた笑いをしながら、安楽いすのそばでちょこちょこしている。
「あれにもフリードリッヒ・ドル一枚おやり……いえ、二枚やっておくれ。さあ、もうたくさん、そうしないと、あんな連中きりがないからね。さあ、持ち上げてかついでおくれ。プラスコーヴィヤ」と彼女はポリーナ・アレクサンドロヴナのほうへ話しかけた。「明日、お前に着物を買ってあげるからね。それから、あのマドモアゼル……・ええと、なんといったっけね、マドモアゼル・ブランシュだったけねえ、あの女にも着物を買ってあげる。おまえ、通訳しておくれ、プラスコーヴィヤ!」
「|有難う《メルシー》、奥様《マダム》」とブランシュ嬢は、感に堪えたように小腰をかがめたが、同時に口を歪めてあざけるような微笑を浮かべながら、ド・グリエと将軍に目くばせするのであった。将軍はやや当惑気味だったので、一行が並木道までたどりついた時は、大よろこびであった。
「フェドーシャが、フェドーシャが今にどれほどびっくりすることやら」とお祖母さんはなじみの将軍家の保母をおもい出してこういった。「あれにも、着物の代をくれてやらなくちゃ。ちょいと、アレクセイ・イヴァーノヴィッチ、アレクセイ・イヴァーノヴィッチ、あの乞食にめぐんでやっておくれ」
 折しも道ばたを、背中のひん曲がった、身なりの見すぼらしい男が通りかかって、わたしたちをじっと見つめていた。
「でも、あれは乞食じゃなくって、何かいかさまものかもしれませんよ、お祖母さん」
「やんなさい! やんなさい! あの男に一グルデンやんなさいってば!」
 わたしはそばへ寄って恵んでやった。男は、けうといあきれたような顔つきでわたしをながめたが、しかし、黙って一グルデンを受け取った。酒の匂いをぷんぷんさしている。
「アレクセイ・イヴァーノヴィッチ、おまえさんはまだ、勝負で自分の運を試してみたことはないかえ?」
「ありません、お祖母さん」
「そういう自分も、目をぎらぎら光らせていたじゃないか、わたしはちゃんと見たよ」
「わたしも今にやってみます。お祖母さん、ぜがひでも、あとで」
「そしたら、いきなりゼロにお賭け! まあ、見てご覧! おまえさん、お金はどのくらい持ってるの?」
「一切合財でたった二十フリードリッヒ・ドルですよ、お祖母さん」
「そりゃ少ないね。もしなんなら、五十フリードリッヒ・ドルおまえさんに貸してあげるよ。さ、この包を取っておおき。ところで、おまえさん」と彼女はとつぜん将軍のほうへ振りむいた。「やっぱり当てにしないほうがいいよ、おまえさんにはやらないからね!」
 将軍はぎくっとしたが、それでもやはり沈黙をまもっていた。ド・グリエは眉をしかめた。
「Que diable, c’est une terrible vieille!(ちくしょう、こいつはすごい婆さんだぞ!)」と彼は歯をくいしばりながら、将軍にささやいた。
「乞食だ、乞食だ、また乞食が来た!」とお祖母さんは大声にいった。「アレクセイ・イヴァーノヴィッチ、この男にも一グルデンやっておくれ」
 今度むこうからやって来たのは、何かしら裾の長い青い色のフロックを着て、手に長いステッキを持った、片脚義足の白髪の老人で、一見廃兵のように見えた。けれども、わたしが一グルデン突きつけると、老人は一歩あとへさがって、こわい目つきでわたしをにらみつけた。
「Was ist's, der Teufel!(こんちくしょう何ものだ)」と、老人はどなって、なおそのうえに、十ことも二十ことも悪態を並べた。
「ふん、ばかが」とお祖母さんは片手を取って一喝した。「さあ、やっておくれ! お腹がすいちまった! これからすぐ食事をして、それから、少し横になってから、またあすこへ行くんだ」
「また勝負をなさるつもりなんですか。お祖母さん!」とわたしは叫んだ。
「じゃ、おまえさんなんと思ってたんだえ? おまえさんたちがここでぼんやりして、くさったような生活をしてるからって、わたしまでがそれをじっと見物していいのかえ?」
「Mais, madame(でも奥様)」とド・グリエがそばへ寄って来た。
「les chances peuvcnt tourncr, une seule mauvaise chance et vous perdrez tout …… surtout avec votre jeu …… 〔c’e'tait terrible〕(運はまわりもちですからね……ちょっと悪運にぶつかったら、何もかもふいになってしまいますよ……それにあなたの勝負のやり方ったら……見ても恐ろしいようですよ!)」
「Vous perdrez absolument(あなた、きっと元も子もなくしておしまいになりますわ)」とブランシュ嬢がさえずり出した。
「いったいおまえさんたちはみんなどうしたっていうの? なくしたって、おまえさん方のお金じゃない、自分の金なんだからね! ときに、あのミスター・アストレイはどこにいるの?」と彼女は私に問いかけた。
「停車場に残りましたよ、お祖母さん」
「そりゃ残念だこと、あれはほんとうにいい人だよ」
 ホテルへ着くと、階段のところでボーイ頭に出会った。お祖母さんはそばへ呼び寄せて、自分の勝利を自慢して吹聴した。それから、フェドーシャをも呼んで、フリードリッヒ・ドルを三枚めぐんだ後、食事を命じた。フェドーシャとマルファは食事の間に、世辞の百万べんを並べ立てた。
「わたくしはねえ、奥様」とマルファはぺらぺらまくし立てはじめた。「あなた様を遠くから見ておりまして、いったいなにをしようとしていらっしゃるのだろうと、ポタープィチに申したのでございますよ。それに、台のうえには大層もないお金、そのお金と申したら、やれやれ! あれだけのお金は、わたくしも生まれてこの方、まだ拝んだこともございません。そして、まわりにはおえらい方がすわっていらっしゃるじゃございませんか、どなたもみんなおえらい方々ばかり。まあ、いったいどこからこんなおえらい方々がいらっしたんだろうねえ、とポタープィチに申したわけでございますよ。どうか聖母マリヤ様、奥さまにお力をかしてくださいませ、とわたくしは心に祈っておりました。こうお祈りしながらも、奥様、心臓がじいんとしびれてまいりましてね、からだじゅうがぶるぶる、ぶるぶるふるえるのでございます。どうか神様、奥さまを勝たせてくださいませと念じていましたところ、そのとたんに、神様が勝運をお授けくださいましたので。わたくしは今だに、からだじゅうがぶるぶる、ぶるぶるふるえておりますような始末でございますよ、奥さま」
「アレクセイ・イヴァーノヴィッチ、食事を済ましたら、四時ごろに支度をするんだよ、いっしょに出かけるから。じゃ、今のとこしばらくお別れとしよう。それから、だれか医者をひとり呼んでおくれ、忘れないで。それに鉱泉も飲まなくちゃいけない。それも忘れちゃいけないよ、お願いだから」
 わたしは、頭がぼっとしたような気持ちで、お祖母さんの部屋を出た。これからあの人たちはどうなるのだろう、局面はどんな変化を示すのだろうと、そんなことをわたしは心に描いてみようとした。一同、特に将軍は、まだ最初の印象からわれに返ることができないでいるのだ。それをわたしははっきり見て取った。今か今かと待ち設けていたお祖母さんの死去の報、とりもなおさず遺産相続の報がくる代りに、当のお祖母さんがひょっこり姿を現わしたという事実は、彼らの意図と計画の全組織を、めちゃめちゃにしてしまったので、一同は何が何やら皆目わからず、まひしたような状態からわれに返ることができないで、ルレット場におけるお祖母さんのあっぱれな奮闘ぶりを、ただぼんやりとながめていたのである。ところが、この第二の事実は、第一の事実よりもむしろ重大なほどであった。なぜなら、お祖母さんは二度までも、将軍には金はやらないとくり返しはしたものの、しかし、なんと言っても、希望をすててしまう必要はないからである。将軍のことにはふかい関係のあるド・グリエも、希望を失ってはいなかった。同様に浅からぬ関係のあるブランシュ嬢も(将軍夫人、莫大な遺産という筋合であって見れば、いまさら喋々するまでもあるまい)、やはり希望を失わないで、ありったけの魅力をお祖母さんに浴せようと、秘術をつくすに相違ない。――それは容易に譲ろうとはしない、甘えるすべを知らぬ高慢なポリーナと好個の対照である。しかし、今となっては、お祖母さんがルレット場でああいう奮闘ぶりを見せた今となっては、一同の目にお祖母さんの人となりが、かくも明瞭に、典型的に彫りつけられた今となっては(頑固な権高い老婆 〔et tombe'e en enfance〕)今となってはおそらくすべてが水の泡となったと見なければなるまい。何ぶんにも、お祖母さんは子供のように、わがままが通ったのに有頂天になってしまって、よくあるように、からっけつにはたき上げてしまうに決まっている。ああ、とわたしは考えた(失礼ながら、わたしは思い切って意地のわるい笑いとともに考えたのである)、おお、神様、さきほどお祖母さんの賭けたフリードリッヒ・ドルは、将軍の心臓にかさぶたとなって横たわり、ド・グリエをかんかんに怒らせ、コマンジュ嬢を狂憤させたのだ。嬢は口のはたを甘いさじがすどおりしたも同様である。いや、それに、もう一つの事実がある。勝ったうれしさのあまり、お祖母さんがみんなに金をばらまき、通る人をいちいち乞食ととりちがえた時でさえ、将軍に向かって思わず知らず、『それだってやっぱり、おまえさんにはやらないよ!』と口走った。これは、すなわち、この考えを固執して、強情を張り、断固として誓ったのに相違ない。危いぞ! 危いぞ! わたしがお祖母さんのところから正面階段を昇って、いちばんてっぺんの小部屋へ帰る間、こういった想念がわたしの頭を低迷していた。この考えがひどくわたしの気にかかった。それはもちろん、わたしとても、自分の目の前で全部の登場人物を結び合わす最も太い糸は、前から予想することができたけれども、しかし、この勝負の秘密や、それに対する方法は知るわけにいかなかった。ポリーナはついぞわたしになにもかもすっかりうち明けてくれたことはなかった。もっとも、時としては、彼女も思わず知らずというふうに、わたしに胸の中をうち明けはしたけれども、しかし、わたしは気がついていた、――そういううち明け話をした後で、たった今いったことを何もかも笑い草にしてしまったり、こんぐらかしたりして、わざといっさいのことにあやしげな感じを加味することがしばしばであった。否、ほとんどいつものことであった。ああ、彼女は多くのことを隠したものである! いずれにしても、わたしは予感した、――この神秘な緊張した状態も、そろそろ大団円が近づいている、もう一つ打撃がきたら、何もかもおしまいになって、正体をあらわしてしまうに相違ない。わたしはこの事件ぜんたいに関係がありながら、自分の運命のことなどは、ほとんど心配していなかった。わたしは不思議な気持ちだった。懐ろにはたった二十フリードリッヒ・ドルしかなく、遠く他国をさまよう身で、職もなければ、生活の資もなく、望みもなければ目当てもないくせに、――そんなことなど心配しないのだ! もしポリーナを想う心がなかったら、わたしは目前に迫った大団円の喜劇的興味に没頭して、のどいっぱいに笑ってやろうものを。しかし、ポリーナのために当惑するのだ。ポリーナの運命はまさに解決されんとしている。それにはわたしも予感があった。しかし、今にして思えば、懺悔するが、彼女の運命ばかりが心配だったのではない。わたしは彼女の運命に忍び込みたいのであった。わたしは、彼女にわたしのとこへ来て、『だって、わたしはあなたを愛しているんですもの』といってもらいたかった。が、もしそうでなかったら、こんなきちがいめいた考えに思いも及ばなかったら、その時は……さあ、その時は何を望んだらいいだろう? そもそもこのわたしが、何を望んだらいいか知るものか! わたし自身もとほうにくれている人間なのだ。私はただ彼女のそばに、彼女の後光の中に、彼女の輝きの中にいたいばかりだ、永久に、つね始終、一生の間。それよりさきのことはなんにも知らない! どうしてわたしに彼女のそばを離れることができようぞ?
 三階まで昇った時、将軍一家の廊下で、わたしは何かに突かれたような気がした。振り返って見ると、二十歩かそれ以上はなれたところに、戸口から出て来るポリーナが目にはいった。まるでわたしを待って見張っていたように、さっそく小手招きした。
「ポリーナ・アレクサンドロヴナ……」
「しっ!」と彼女は制した。
「どうでしょう」とわたしはささやくのであった。「いまぼくはなんだか脇腹をつかれたような気がしたので、振り返って見ると、あなたじゃありませんか! まるであなたのからだから何か電流でも出ているみたい!」
「さあ、この手紙を取ってちょうだい」彼女は妙に気がかりらしい、不機嫌そうな調子でこういった。わたしのいったことなど、ろくろく聞いていなかったに相違ない。「そして、ミスター・アストレイに渡してちょうだいな、いますぐ、大急ぎでね、お願いだから。返事はいらないの。あの人が自分で……」
 彼女はしまいまでいわなかった。
「ミスター・アストレイに?」とわたしは驚いて問い返した。
 けれど、ポリーナはもう扉の中に姿を隠してしまった。
「ははあ、あのふたりは手紙の往復なんかしているのか!」わたしはもちろん、すぐさまミスター・アストレイをさがしにかけだした。はじめ彼のホテルを訪ねたが不在だったので、今度は停車場へ行って、ホールというホールをさがしまわったが、やはりいなかった。とどのつまり、いまいましいというより、ほとんど絶望をいだきながら、宿へ帰ろうとしていると、偶然その途中でひょっこり彼に出会った。イギリス人の男や女の乗馬隊に交っていたのである。わたしは小手招きして呼び止め、手紙を渡した。わたしたちは目を見交す暇もなかった。が、わたしの邪推するところによると、ミスター・アストレイは、わざと馬を早めたように思われる。
 嫉妬にさいなまれたのかどうかわからないけれども、とにかくわたしは打ちのめされたような気持ちになっていた。ふたりがどんなことで文通しているのか、それを確かめようなどとは思わなかった。とにかく、彼は彼女の信任を受けているのだ! 『親友だ、親友だ』とわたしは考えた。それは明瞭である。(いったい、いつのまにそうなったのだろう?)だが、はたしてそこに愛が存在しているのか? もちろん、そんなことがあるものか、とわたしの理性はささやくのであった。しかし、こういう場合、理性だけで十分というわけにいかない。いずれにしても、これは一つはっきりさせなければならぬ。事態は、いやに紛糾してくる。
 わたしがホテルへはいるかはいらないかに、まず初め玄関番、それから、自分の部屋から出て来たボーイ頭が、将軍があなたをさがしている、呼んでいる、三度も人をよこして、どこにいるのかとたずね、できるだけ早く将軍の部屋へ来てほしいとのことである、という意味をつたえた。わたしはなんともいえぬいやな気分だった。将軍の部屋へ行って見ると、そこには当の将軍のほかに、ド・グリエと、ブランシュ嬢がいた。母親はいなかった。この母親というのは、まったくつまのような人物で、ほんのお体裁に引っぱり出されるだけ、いよいよほんとうの事件[#「事件」に傍点]となると、ブランシュ嬢がひとりで切ってまわすのであった。また母親のほうも、自分の義理の娘の一身上の事情を、ほとんど何一つ知ってはいないらしかった。
 彼らは何かしら熱くなって評議しているところで、入口の扉にさえ鍵がかけてあった、――そういうことは今までかつてなかったのである。わたしが戸口に近づいた時、口々にけんけんごうごうと話しているのが聞えた、――ド・グリエの図太い毒のある調子、ブランシュのいきり立った、厚かましい、ほとんど悪口に近い叫び声、明らかになにやら弁解しているらしい将軍の哀れな声、わたしが姿を現わすや否や、彼らは一様に己れを制して、その場を取りつくろおうとするふうであった。ド・グリエは頭髪をちょいとなでて、怒った顔をにこにこ顔に変えた。――それはあのいやな、上べばかり慇懃なフランス式の微笑で、わたしの大きらいなやつである。しょげ返ってとほうにくれていた将軍は、威厳を見せてきっとなったが、それは妙に機械的であった。ただブランシュ嬢だけは、憤怒にもえる顔の表情を変えないで、ただじりじりしたような期待の眼ざしをわたしにそそぎながら、口をつぐんだばかりである。ついでに断わっておくが、彼女はわたしに対して、今までお話にならないほどぶしつけな態度を取って、こっちで会釈しても答礼しないくらい、――てんでひとを無視していたのである。
「アレクセイ・イヴァーノヴィッチ」と将軍は、じわじわと締めつけるような調子で切り出した。「失礼ながら、わたしはあえていいますが、じつに奇怪しごくです、なんともかとも奇怪千万です……要するに、わたしとわたしの家族に対するきみの態度は……要するに、なんともかとも奇怪千万です……」
「〔Eh, ce n‘est pas c,a〕(ええ、そんなことは見当ちがいですよ)」とド・グリエはいまいましそうな、人をばかにした調子でさえぎった。(この男はすっかりみんなを自在にあやつっているのだ!)「〔Mon cher monsieur, notre cher ge'ne'ral se trompe〕(きみ、将軍はまちがってるんです)――あんな調子で話を始めるなんて。(わたしは彼の言葉をロシヤ語でつづけることにする)。将軍がいおうとおもったのは……いや、警告しようと思ったのは、というより、折り入ってお願いしようと思ったのは、あのひとを破滅させないでほしいということです、――ええ、そうなんですよ、破滅させないでね! わたしはほかならぬこの表現を用います……」
「いったいなんでぼくが破滅させるのです、なんで!」とわたしはさえぎった。
「冗談じゃない、あなたはあのお婆さんの、cette pauvre terrible vieille(あのかわいそうな、恐ろしいお婆さんの)」ド・グリエは自分でもまごついているのであった。「指導者の役目を引き受けたじゃありませんか(それとも、あれはなんといったらいいかな?)しかし、あのひとは負けてしまいますよ、きれいに財布の底をはたいてしまいますよ! あのひとがどんな勝負のし方をやっているか、きみも自分で見たでしょう、きみが目撃者だったのでしょう! いったん負け出したとなったら、あのひとは意地になって、強情にルレット台から離れやしない。そして、どこまでもどこまでも勝負をつづけるに相違ない。ところが、そういうふうになってくると、決して負けを取り返すことができないから、その時は……この時は……」
「その時は」と将軍が引き取った。「その時は、きみは一家族ぜんたいを破滅させるのですぞ! わたしも、わたしの家族も。わたしたちはあのお祖母さんの相続人なのです。あのひとにはほかに近しい身寄りはないんだから。わたしはきみにうち明けた話をしますが、うちの財政は紊乱している、極端に紊乱しているのです。それはきみ自身ある程度までご承知の通りで……もしあのお祖母さんが相当の金額を、いや、悪くしたら財産ぜんぶを、博奕で負けてしまうかもしれないのだが、もしそんなことがあったら、それこそ大変だ! その時はあの子たちは、わたしの子供らはいったいどうなるんだろう?(将軍はド・グリエを振り返った)わたしはどうなるんだろう!(と、今度はマドモアゼル・ブランシュをちらとながめたが、こちらはばかにしたように顔をそむけた)アレクセイ・イヴァーノヴィッチ、助けてくれたまえ、わたしたちを助けてくれたまえ!………」
「いったいどうしたらぼくにそんなことができるのです、将軍……ぼくがこのさいどんな意味を持っているんでしょう?」
「断わってくれたまえ、断わって。あのひとをうっちゃってしまうんですよ!………」
「そうしたら、だれかほかの人間が出て来ますよ!」とわたしは叫んだ。「〔Ce n’est pas c,a, ce n’est pas c,a〕(そりゃ、見当違いです、見当違いですよ)」と、またぞろド・グリエが割り込んだ。「que diable!(いまいましい)いや、うっちゃってしまうんじゃなくって、忠告するんです、いさめるんです、ほかへ気をそらすんです……それに、最後の手段としては、あまりたくさん負けないようにさせるんです、なんとかしてあのひとの気をほかへそらしてください」
「でも、どうしてぼくにそれができるんです? 一つあなたがそれを引き受けたらどうです。ムシウ・ド・グリエ」とわたしはできるだけ無邪気につけくわえた。
 そのときわたしは、マドモアゼル・ブランシュがド・グリエにちらと投げた火のような、相談するような視線に気がついた。当のド・グリエの顔にも、何かしら特別な、露骨な表情がひらめいた。彼はそれを隠すことができなかったのである。
「ところが、それなんですよ。今となっては、お祖母さんはわたしを採用してくれないんですよ!」とド・グリエは片手を振った。「まあ、ひょっとしたら、また後で……」
 ド・グリエはちらとすばやく、意味ありげにマドモアゼル・ブランシュをながめた。
「Oh, mon cher mr. Alexis, soyez si bon(おお、わたしの大好きなムシウ・アレクシス、どうぞお願いですから)」とマドモアゼル・ブランシュがおんみずから、とろけるようなほほ笑みを浮かべて、わたしの両手を取り、ぎゅっと握りしめた。こんちくしょう! あの悪魔のような顔を、ただの一秒間に一変させるすべを心得ているのだ。この瞬間、彼女の顔は心から祈るような、可愛らしい、むしろふざけたような表情になって、子供らしくにこにこした。その言葉の終わるころに、彼女はみんなに内緒で、ずるそうにウインクした。『このおれをひと思いに首ったけにしてやろうとでも考えてるのか!』なるほどうまく行った、――ただそのやり方が、おそろしく露骨だった。
 彼女につづいて、将軍もそばへかけよった。――まったくかけよったのだ。
「アレクセイ・イヴァーノヴィッチ、勘忍してくれたまえ、さっきはあまりひどい切出し方をしましたよ。わたしはまるであんなことをいう気はなかったんだけれど、……お願いです、懇願します、腰を折って頼みます、ロシヤ式に、――きみひとりきりです、わたしたちを救ってくれるのはきみひとりだけです! わたしもマドモアゼル・ブランシュも哀願しますよ、――きみ、わかるでしょう、ね、わかってくれるでしょう?」と彼は目でブランシュ嬢を指しながら哀願した。その様子は見るも哀れだった。
 そのとき、静かにうやうやしく、扉を三度ノックする音が響いた。開けて見ると、廊下番のボーイが扉をたたいていた。それから二三歩はなれたところに、ポタープィチが立っていた。それはお祖母さんからの使いだった。さっそくわたしをさがし出してつれて来いとの命令だった。
「お腹立ちでいらっしゃいます」ポタープィチがいった。
「だって、まだ三時半じゃないか」
「奥様は寝つくこともおできにならなくって、のべつ寝返りばかりうっていらっしゃいました。それから、急にお起きになって、安楽いすを寄越せっておっしゃって、あなた様を迎いに行けとおいいつけになりました。もう入口の階段に出ていらっしゃいます……」
「〔Quelle me'ge`re!〕(なんて鬼婆だ)」とド・グリエは叫んだ。
 なるほど、行って見ると、お祖母さんはもう入口階段にいて、わたしが来ないのでじりじりしていた。四時までもがまんできなかったのだ。
「さあ、持ち上げておくれ!」と彼女はどなった。で、わたしたちはまたルレット場をさしておもむいた。
[#4字下げ]第12章[#「第12章」は中見出し]
 お祖母さんはこらえじょうのない、いらいらした気分になっていた。見たところ、ルレットが頭の中にしっかりとこびりついているらしかった。そのほかのいっさいのものにはあまり注意を払わず、概してひどく放心状態であった。たとえば、さっきのように、途中で見るもののことを何一つたずねなかった。わたしたちのそばをつむじ風のようにはしりすぎる一台の幌馬車を見て、彼女はちょっと手を上げて、「なんだえ? だれのだえ?」ときいたが、――わたしの返事はよく聞えなかったらしい。彼女の物思いは絶えず激しい、引きちぎったようなからだの運動や、とっぴな仕草と入りまじるのであった。もう停車場ちかくなった時、わたしが遠くのほうからヴルメルヘルム男爵夫妻を指して見せた時、お祖母さんはぼんやりそのほうをながめて、まるでなんの気もなく、「ああ!」といったばかりで、いきなり後ろから歩いて来るポタープィチとマルファのほうを振りかえり、断ち切るようにいった。
「これ、おまえたちはなんのためにくっついて来た? そう毎度毎度おまえたちをつれて行くわけにいくものか! お帰り!」ふたりがせかせかとお辞儀して引っ返した時、彼女はわたしに向かってこうつけ加えた。「わたしは、おまえさんひとりだけでたくさんなんだよ」
 停車場ではもうお祖母さんを待っていて、すぐさま監督のそばの同じ場所を取ってくれた。わたしのにらんだところでは、この監督たちは、いつも行儀よくして、ありふれた役人みたいにしており、胴元が勝とうと負けようと、まるで平気のような顔をしているけれども、その実、胴元の負けには決して無関心ではないので、お客を引きつけ、いやが上にも胴元の利害を守るように何かと指令を受けているらしく、その褒美として、彼ら自身も賞与やプレミアムを貰うらしい。少なくとも、彼らは早くもお祖母さんをちょっとした犠牲扱いにしていた。それから、われわれの予想していたことが事実となって現われた。
 それはこんなふうであった。
 お祖母さんはいきなりゼロに飛びかかり、すぐさま十二フリードリッヒ・ドルを賭けるように命じた。一度、二度、三度賭けたが、――ゼロは出なかった。
「賭けなさい、賭けなさい!」とお祖母さんはじれったそうにわたしを突っついた。わたしは唯々諾々として賭けた。
「もう何度損をしたえ?」とうとうがまんしきれないで、歯がみしながら彼女はたずねた。
「もう十二へんかけましたよ、お祖母さん。百四十四フリードリッヒ・ドル負けてしまいました。わたしがいっておきますが、お祖母さん、晩までにはおそらく……」
「おだまり!」とお祖母さんはさえぎった。「ゼロにお賭け、それからいっしょに赤にも千グルデンお賭け。さあ、ここにおさつがある」
 赤は出たが、ゼロはまただめだった。千グルデンだけ返してくれた。
「それ、ごらん、それ、ごらん!」とお祖母さんはささやいた。「負けただけの分を、大方かえしてくれたじゃないか。またゼロにお賭け、もう十ぺんばかり賭けてやめとしよう」
 けれども、五遍めくらいで、お祖母さんはすっかりいや気がさしてしまった。
「ええ、いまいましいゼロめ、もうやめておしまい、さあ、今度は四千グルデンをみんな赤に賭けておくれ」と命令した。
「お祖母さん! そりゃ多すぎますよ。ねえ、もし赤が出なかったらどうします?」とわたしは哀願するようにいった。しかし、お祖母さんはわたしを殴りつけないばかりの勢いだった。(もっとも、彼女はのべつ両手を振りまわしていて、ほとんど喧嘩腰といってもいいほどであった)。仕方がないので、わたしはさきほど勝った四千グルデンをぜんぶ赤に賭けた。円盤がまわりはじめた。祖母さんは必ず自分が勝つものと信じきって、昂然と首をそらし、落ちつき払ってすわっていた。
「ゼロ!」と監督が叫んだ。
 はじめお祖母さんはなんのことか合点がいかないでいたが、監督が台の上にあったほかの金といっしょに、自分の四千グルデンをかき寄せてしまったのを見て、あんな長いこと出なかったゼロが、――今までにかれこれ二百フリードリッヒ・ドルもつぎ込んだゼロが、悪態をついて断念するやいなや、わざと当てつけたようにひょっこり出たのがわかった。お祖母さんはあっと叫んで、広間ぜんたいに響くような大きな音を立てて、両手を打ち鳴らした。まわりで笑い声さえ起った。
「ああ、なんてことだろう! 今になって出て来るなんて、人をばかにしてる!」とお祖母さんは悲鳴を上げた。「ほんとになんていまいましい! これというのも、おまえさんのせいだよ! 何もかもおまえさんのせいだよ!」と彼女は両手を振りまわしながら、猛然と私にくってかかった。「おまえさんがよせっていうものだから」
「お祖母さん、ぼくはただ物の道理をいっただけなんですよ。その時その時の勝負運を、どうしてぼくにいちいち保証できるものですか?」
「勝負運が聞いてあきれらあ!」と彼女は物すごい声でささやいた。「あっちい行っておしまい」
「じゃ、さようなら、お祖母さん」ぼくはくるりと背を向けて、そばを離れた。
「アレクセイ・イヴァーノヴィッチ、アレクセイ・イヴァーノヴィッチ、やっぱり行かないでおくれ、いったいおまえさんどこへ行こうっていうの? え、どうしたの、どうしたっていうの? すぐに腹なんか立ててさ! ばかだねえ! さあ、いておくれ、いておくれ、怒らないでさ。わたしのほうこそばかだったんだから! さあ、そこで聞かせておくれよ。今度はどうしたらいいんだえ?」
「お祖母さん、ぼくはもう助言しないことにします、後でかえってうらまれますから。どうかご自分でやってください。ぼくはご命令どおりに賭けますから」
「わかった、わかった! じゃ、もう一度、赤に四千グルデンお賭け! さあ、ここに紙入があるから、取っておくれ」と彼女は懐中から紙入を取り出して、わたしに渡した。「さあ、早く取っておくれ、その中に現金で二万ルーブリはいっているからね」
「お祖母さん」とわたしはへどもどしてつぶやいた。「そんな大きな賭を……」
「わたしゃ死んでも、取り返さずにはおかないから……お賭け!」
 で、賭けたが、また負けた。
「お賭け、お賭け、八千グルデンすっかりお賭け!」
「だめです、お祖母さん、最高四千グルデンですから!………」
「じゃ、四千グルデン!」
 今度は勝った。お祖母さんは元気づいた。
「それ、ごらん、それ、ごらん!」と彼女はわたしを突っついた。
「また四千賭けておくれな!」
 賭けて、――負けた。それから次も、また次も負けた。
「お祖母さん、もう一万二千、すっかり出払ってしまいましたよ」とわたしは報告した。
「わかってるよ、すっかり出払ったってことは」と彼女は、もし、こういうことがいえるとすれば、狂憤の平静に返ってこういった。「わかってるよ、おまえさん、わかってるよ」じっと目の前を見つめたまま、瞑想でもするようにつぶやいた。「ええっ! 死んでもこのまま帰りゃしないから、もう一度四千グルデンお賭け!」
「だって、もう金がないんですよ、お祖母さん。紙入の中にはロシヤの五分利公債と、それから何か送金手形があるだけで、現金はありません」
「がま口の中には?」
「小銭が残っているきりです、お祖母さん」
「ここには両替屋があるだろう? ロシヤの金を両替することができると聞いているんだけれど」とお祖母さんは断固たる調子でたずねた。
「ええ、そりゃいくらでも。しかし、割引でどれだけ損をなさるか、それこそ……ユダヤ人でもぞっとするくらいですよ!」
「つまらないことを! 取り返してしまうよ! さあ、連れてっておくれ! あのまぬけどもを呼んでおくれ!」
 わたしは安楽いすを押した。人夫が姿を現わした。こうして私たちは停車場を出た。
「早く、早く、早く!」と、お祖母さんは号令した。「道を教えておくれ、アレクセイ・イヴァーノヴィッチ、なるべく近道をしてね……遠方なのかい?」
「ほんのひと足ですよ、お祖母さん」
 広場から並木道へ出る曲り角のところで、ひょっくり仲間の連中に出会った。将軍と、ド・グリエと、ブランシュ嬢とその母親。ポリーナはいなかった。ミスター・アストレイも同様だった。
「さあ、さあ、さあ! 止めるんじゃない!」とお祖母さんは叫んだ。「いったいまあなんの用なんだえ? おまえさんたちと、話をしている暇なんかないんだよ!」
 わたしは後からついて歩いていたが、ド・グリエがそばへやって来た。
「さっきの勝ちをすっかり負けてしまって、その上あたらしく一万二千グルデンすっちまったんです。いま五分利公債を両替に行くとこなんで」とわたしは早口にささやいた。
 ド・グリエはとんと一つじだんだを踏んで、将軍へ知らせにかけだした。わたしたちはずんずんお祖母さんの安楽いすを押して行った。
「止めてくれたまえ! 止めてくれたまえ!」と将軍は躍起となってわたしにささやいた。「止められるなら止めてご覧なさい」とわたしはささやき返した。「伯母さん!」と将軍はそばへ寄っていった。「伯母さん……わたしたちはこれから……わたしたちはこれから……」という声はふるえて、とぎれがちであった。「馬車をやとって、郊外へ出かけるとこなんです……すばらしい景色なんで……例のポアント……わたしたちはみんなであなたをお誘いに来たんですが?」
「うるさいね、おまえさんなんか、そのポアントとやらを持って、どこなと行っておしまい!」とお祖母さんはいらだたしげに、手で払いのけるような恰好をした。
「そこは田舎でしてね……みんなでお茶を飲むんです……」と将軍はもう完全に絶望の色を浮かべて、言葉をつづけるのであった。
「〔Nous boirons du lait, sur l’herbe frai^che〕(わたしたちは、牛乳を飲むんですよ、青々とした草の上でね)」とド・グリエは無気味な微笑を浮かべてつけくわえた。
 〔Du lait, de l’herbe frai^che〕(牛乳、青々とした草)、これがパリのブルジョアにとって、何よりも理想的な牧歌情調の象徴なのである。この中に周知のごとく、〔nature et la ve'rite'〕(自然と真実)に対する彼らの見解が残りなく含まれているのだ。
「ちょっ、おまえさん牛乳といっしょにどこへなとうせるがいい! 自分で勝手に飲みくらうがいいのさ、わたしゃそんなものを飲んだら腹が痛くなるばかりだ。いったいなんだってひとに付きまとうんだろう?!」と、お祖母さんはどなった。「そんな暇はないっていってるじゃないか!」
「さあ、来ました、お祖母さん!」と私はさけんだ。「ここです!」
 わたしたちは安楽いすを銀行の入口へ押して行った。わたしは両替に入って行き、お祖母さんは車寄せで待っていた。ド・グリエと、将軍と、ブランシュ嬢は、どうしたらいいかわからないので、わきのほうにたたずんでいた。お祖母さんがこわい目でにらみつけると、彼らは停車場のほうへ行ってしまった。
 割引の歩合は恐ろしいものだったので、わたしは独断でははかりかねて、指令をあおぐため、お祖母さんのところへ引っかえした。
「ちょっ、なんて強盗どもだろう!」と彼女は両手を打ち鳴らして叫んだ。「でも、かまわない、両替しておもらい!」と彼女はきっぱりと命じた。「ああ、ちょっと待っておくれ、ここへ頭取を呼んでもらおう」
「行員のだれかを呼ぶんでしょう、お祖母さん?」
「まあ、行員でもいい、おんなじことだ。ちょっ、なんて強盗だろう!」
 行員は、自分で歩くことのできない病身の老伯爵夫人と聞いて、出て来ることを承知した。お祖母さんは長いこと、いかにも腹の立つらしい大きな声で、ロシヤ語とフランス語とドイツ語とちゃんぽんに使いながら、銀行は詐欺だ強盗だとののしりながら、いろいろ押問答をつづけた。そのあいだ、わたしはおりおり助け船に出て通訳した。まじめらしい行員は、じっとわたしたちふたりを見つめながら、黙って首をひねっていた。お祖母さんを見る目つきはあまりにも好奇心をむき出しにして、しかも、吸いついたように離れないので、もうぶしつけといってもいいほどであった。とうとうしまいには、にやにや笑い出した。
「とっとと行っておしまい!」、とお祖母さんは叫んだ。「ひとの金で腹をふくらまそうと思ったって、のどにひっかけて息をつまらすのがせきのやまだよ! アレクセイ・イヴァーノヴィッチ、両替してしまいなさい、もう時間がない、それとも、ほかの銀行へいって見るかねえ……」
「あの行員の話だと、ほかじゃもっと安いってことですよ」
 その時の割引歩合をはっきりと覚えてはいないが、とにかくひどいものであった。わたしは金貨紙幣とり交ぜて一万二千フロリン両替し、計算書を持ってお祖母さんのところへ引っ返した。
「いや、いや、いや! 勘定なんかすることは、いりゃしない」と彼女は両手を振った。
「早く、早く、早く!」
「もう二度とあのいまいましいゼロに賭けやしない。そして、赤もおやめだ」と停車場に近づいた時、彼女はこんな言葉をもらした。
 こんど、わたしは言葉をつくして、できるだけ少なく賭けるように、運がまわって来たらいつでも大きく賭けることができるのだから、と勧めた。しかし、お祖母さんはまるでこらえしょうがなく、はじめはいくらかいうこともきいていたけれど、だんだん勝負が進んでくると、もう手綱をしめることができなくなってしまった。フリードリッヒ・ドル十枚か二十枚の賭けが、自分の勝ちになり始めるが早いか、彼女はさっそく、「そらね! そらね!」と、わたしを突っつくのであった。「そらね、勝ったろう。十フリードリッヒ・ドルでなしに四百フロリンかけていたら、四千の勝ちになっていたものを、これだからいやになってしまう! これというのも、みんなおまえさんのせいだよ、みんなおまえさんだよ!」
 お祖母さんの賭けぶりを見ていると業がにえてきたけれども、わたしはいよいよ沈黙を守ることにはらをきめて、もういっさい忠言めいたことをいわなかった。
 とつぜん、ド・グリエがちょこちょことそばへ寄って来た。彼らは三人ともそのへんにいたのである。わたしはマドモアゼル・ブランシュが母親と連れ立って、小柄な公爵に愛嬌をふりまいているのに気がついた。将軍はあきらかにご不興をこうむって、ほとんど追放された形になっているらしい。将軍がいっしょうけんめいにそばでちょこちっこしているのに、ブランシュは一瞥すら与えようとしない。気の毒な将軍! 彼は青くなったり、赤くなったりして、戦々恐々たるありさまで、もうお祖母さんの勝負に注意するどころではなかった。とどのつまり、ブランシュと公爵は出て行った。将軍はその後を追ってかけだした。
「Madame, madame」とド・グリエはお祖母さんのほうへ人ごみをかき分けて来ると、蜜のような声でその耳にささやいた。「madame、そんなやり方じゃ当りっこありません……いけません、いけません、それだめです……」と彼はなまりたくさんのロシヤ語でいった。「だめです!」
「じゃ、どうなの? さあ、教えておくれ!」
 ド・グリエはいきなり早口にフランス語でしゃべりながら、おせっかいに忠言を呈しはじめた。勝運がまわってくるのを待たなければならないといって、何かしら数字を並べ立てたが……お祖母さんはなに一つ合点がいかなかった。彼はひっきりなしにわたしのほうへ振りむいて、通訳してくれと頼んだり、指で台を突っついて見せたりしていたが、とどのつまり、紙と鉛筆を取り出して何かの計算をしはじめた。お祖母さんはとうとう勘忍袋の緒を切らしてしまった。
「ちょっ、どいておくれ、くだらないことばかりいってさ! マダム、マダムって、そのくせご自分のほうでなんにもわかっちゃいないんだ。どいておくれ!」
「Mais, madame(でも、奥さん)」とド・グリエはさえずりはじめ、また指で突っついて見せるのであった。
 もういても立ってもいられないらしかった。
「じゃ、一度あの男のいうように賭けてご覧」と、お祖母さんはわたしに命令した。「一つ見てみようよ。ほんとうにあたるかもしれないから」
 ド・グリエはただお祖母さんをすかして、大きな賭をさせまいと思っただけなのである。彼が勧めたのは、いろいろな数に飛び飛びに賭けたり、ひとまとめにして賭けたりする法であった。わたしは彼の言葉に従って、はじめの十二までの寄数にフリードリッヒ・ドルを一枚ずつ賭け、十二から十八までと、十八から二十四までを一とまとめにして五ドルずつ賭けた。いっさいで十六フリードリッヒ・ドルであった。
 円盤がまわり出した。
「ゼロ!」と監督が叫んだ。
 わたしたちは全部とられてしまったのである。
「なんてまぬけだろう!」とお祖母さんはド・グリエに向かってどなりつけた。
「ほんとうに、いまいましいフランス人たらありゃしない! それで人に忠告がましいことをいってき! おどき! おどき! なんにもわからないくせに、いっぱし出しゃばるんだからねえ!」
 かんかんに腹を立てたド・グリエは、ひょいと肩をすくめて、さも軽蔑したようにお祖母さんを見ると、向うへ行ってしまった。こんな事にかかり合ったのが、自分でも、恥ずかしくなったらしい、ついついもう見るに見かねたとはいうものの。
 わたしたちはいろいろもがいてみたけれども、一時間もたったころには、きれいにはたき上げてしまった。
「もう帰るんだ!」とお祖母さんは叫んだ。
 並木道にさしかかるまで、彼女はひと口もものをいわなかった。並木道へはいって、もうホテルに近くなった時分、彼女の口からさまざまな叫び声がもれはじめた。
「なんてばかだろう! なんてあほうだろう! いいばかだ、ほんとうにもうろく婆さんだ!」
 自分の部屋へ帰るといきなり、
「お茶をおくれ!」とお祖母さんはさけんだ。「そしてすぐに支度をするんだ! 出かけるんだから!」
「奥様、どちらへお出かけでございますか!」とマルファがたずねた。
「おまえなんかの知ったことじゃないよ! 己れの分際を知るもんだ! ポタープィチ、すっかり支度をおし、荷物を残らずこしらえておしまい。帰るんだ、モスクワへ帰るんだ。わたしゃ一万五千ルーブリふいにしてしまったよ」
「一万五千ルーブリでございますって、奥様! いやはやどうも!」とポタープィチは感に堪えたように、両手を打ち鳴らして叫んだ。おそらく、これでご機嫌を取り結ぶつもりだったのであろう。
「ちょっ、ちょっ、ばか! おまけに泣き言まで並べ立てにかかったよ! お黙り! 支度をするんだ。勘定を早く、早くさ!」
「この次の汽車は九時十五分に出るんですが、お祖母さん」彼女のかんしゃくをしずめようと思って、わたしはこう口を出した。
「いま何時だえ?」
「七時半です」
「なんていまいましい! まあ、どうだって同じだ! アレクセイ・イヴァーノヴィッチ、わたしはお金が一コペイカもなくなってしまった。さあ、ここに送金手形が二枚あるから、またあすこへひと走り行って、これも両替して来ておくれな、さもないと、旅費からしてありゃしない」
 わたしは出かけた。三十分ばかりしてホテルへ帰って見ると、仲間の連中がうちそろって、お祖母さんのところに集まっていた。お祖母さんがこれっきりモスクワへ帰ってしまうと聞いて、彼らはお祖母さんが博奕に負けたと知らされた時より、もっと強いショックを受けたらしかった。この出発によって、彼女の財産は救われたかもしれないが、その代り将軍はこれからどうなるのだろう? ド・グリエに借りた金はだれが払ってくれるのだ? マドモアゼル・ブランシュはもちろん、お祖母さんが死ぬまで待ってくれはしないから、こうなれば、きっと公爵がだれかと手に手を取って、どろんをきめこむに相違ない。彼らはお祖母さんの前に立って、慰めたり口説いたりしていた。ポリーナは今度もいなかった。お祖母さんは物すごい声で一同をどなりつけた。
「うるさい、行っておくれ、ちくしょう! おまえたちになんの用があるんだえ? この山羊鬚め、なんだって人に付きまとうんだろう」と彼女は大声でド・グリエにきめつけた。「またおまえさんも何用だえ、この田鳧《たげり》めが」今度はブランジュ嬢のほうへ振りむいた。「なんだってそこらへんをちょこちょこしておるの?」
「Diantre!(ちくしょう)」とブランシュ嬢は、ものすごく目を光らせてこうつぶやくと、出しぬけにからからと高笑いして、部屋を出てしまった。
「Elle vivra cent ans!(あの婆さんは百までも生き延びるわ!)」と、戸口から出て行きしなに、彼女は将軍にこう叫んだ。
「ああ、おまえさんはわたしが死ぬのを、当て込んでいたのだね?」とお祖母さんは将軍に向かって金切声でわめいた。「出て行け! あいつらをみんな追い出しておしまい、アレクセイ・イヴァーノヴィッチ! 何もおまえさんたちの関係したことじゃありゃしない。わたしがすったのは自分の金で、おまえさんたちのものじゃないじゃないか!」
 将軍はひょいと肩をすくめ、身をかがめて出て行った。ド・グリエもそれにつづいた。
「プラスコーヴィヤをお呼び」とお祖母さんはマルファに命じた。
 五分ばかりして、マルファはポリーナといっしょに引っかえした。ポリーナはずっとそのあいだ子供たちの相手をして、自分の部屋に引きこもり、わざと一日そとへ出ないことにはらを決めていたらしい。その顔は沈んできまじめで、何か心配そうであった。
「プラスコーヴィヤ」とお祖母さんは切り出した。「さっきわたしは、ちょっとわきのほうから聞き込んだんだけれど、あれはほんとうのことなのかえ、あのばかが、おまえさんの義理の父親が、あのいやらしい尻軽のフランス女と結婚するつもりでいるっていうのは?(いったいあれは女優ででもあるのかえ、それとも、もっと卑しい身性なのかね?)さあ、いいなさい、ほんとうなの?」
「たしかなことは知りませんけれど、お祖母さん」とポリーナはこたえた。「当のマドモアゼル・ブランシュの話によりますと、――あのひとは別にかくし立てをしようとしませんから、――やっぱり……」
「もうたくさん!」とお祖母さんは断固たる調子でさえぎった。「何もかもわかった! わたしはつね日頃からあの男を、それこそ仕様のない空っぽな、軽はずみな人間だと見抜いていたのさ。将軍だというので(それも長いこと大佐でいて、やっと予備になるとき進級させてもらったくせに)、もったいぶってえらそうにしているがね。わたしはなにもかも知っているよ、おまえさんたちが後から後からモスクワへ電報を打ったことはね、『もうまもなく、お祖母さんがお陀仏になりはしないか』ってわけさ。つまり、遺産を待ち受けていたんだよ。何しろ、お金がなかったら、あのくされあま、ええと、なんといったっけ、ド・コマンシュとかいったね、――あんな男なんか下男にも使ってくれやしないよ、おまけに入れ歯までしているんだものね。なんでも人の話じゃ、あの女自身はしこたまお金を持っていて、高い利息でに貸しては、いいもうけをしているそうじゃないか。わたしはね、プラスコーヴィヤ、おまえさんを責めてるんじゃないよ。何もおまえさんが電報を打ったというわけじゃなしさ。それに、済んでしまったことをくどくどいうのもきらいだからね。わたしはちゃんと知ってるがね。おまえには性根があるよ、感心しない性根がね、――まるで虻《あぶ》だ! 刺したらはれあがるのさ。でも、わたしゃおまえさんがかわいそうなんだよ。なくなったカチェリーナ、おまえのお母さんが好きだったんでね。どうだろう、ものは相談だけれど、おまえさんここのことは何もかもうっちゃらかして、わたしといっしょに立たないかえ? だって、おまえさん身の置場がないだろう。今さらあの連中といっしょにいるのはぶしつけというもんだよ。ちょっとお待ち!」とお祖母さんは、何か答えようとするポリーナを押しとどめた。「まだしまいまでいってないんだから。おまえさんには、何も要求することなんかないのさ。わたしのモスクワの家は御殿のように広いから、二階ぜんぶ使ったってかまやしないし、もしわたしの気性がおまえさんの御意に召さなかったら、二週間でも、三週間でも、顔を出さなくたっていいんだよ! さあ、いやか応か?」
「その前にちょっとおききさしていただきますが、今すぐお立ちになるんですの?」
「わたしが冗談をいうとでも思っておいでかえ? 立つといったら立つんだから。今日、わたしはあのいまいましいルレットで、一万五千ルーブリふいにしてしまったんだよ。五年前、モスクワ郊外の領地にある木造の教会を石造に直すと約束したのに、それをする代りに、ここで大金をはたいてしまうなんて、今度こそ帰ったら、建ててあげなくちゃ」
「でも、湯治のほうは、お祖母さま? だって、ここへ鉱泉を飲みにいらしたんでしょう?」
「ふん、そんな鉱泉なんて、どこかへ吹っ飛んでしまうがいい! おまえさん人をいらいらさせないでおくれよ、プラスコーヴィヤ、いったいわざとそんなことをいうのかえ、さあ、わたしといっしょに立つかどうかいいなさい」
「お祖母さま、あたしに隠れ家を提供してくだすってありがとうございます、厚くお礼を申します」とポリーナは情のこもった声でいい出した。「あたしの今の立場は、ある程度お察しのとおりですの。ほんとに感謝しますわ。もしかしたら、あたしはあなたのところへ行くかもしれません、それも近いうちにそうするかもしれないほどですわ、まったくのところ。でも、今はある事情が……しかも、重大な事情でございまして、今すぐという決心がつけられませんの。もしお祖母さまが、せめて二週間も滞在なさるようでしたら……」
「つまり、いやなんだね?」
「つまり、できないんでございます。それに、どちらにしたって、あたしは弟と妹をうっちゃってはまいれませんの。というのは……というのは……というのは、ほんとうのところ、あの子たちはだれも構い手がないような身の上になるかもしれないんですもの……その時は、もしあの小さいものといっしょにあたしを引き取ってくだされば、もちろんお祖母さまのところへまいりますわ。そして、誓って申しますが、必ずそのご恩返しはいたします!」と彼女は熱心につけ加えた。「子供をつれずには行かれませんわ、お祖母さま」
「ふん、泣きごとをいいなさんな!(ポリーナは泣きごとなぞいおうとも思っていなかった。それに、かつて泣きごとをいったことがなかった)あんなひなっ子どもにも、居場所はできるよ、大した鶏小屋はいりゃしない。それに、あの子らも学校へあがるころだからね。じゃ、今度は行かないんだね? いいかえ、プラスコーヴィヤ、気をおつけ! わたしはおまえのためよがれと思ったのに。なぜおまえさんが行かないのか、そのわけは知ってるよ! だって、わたしゃ知ってるんだもの、プラスコーヴィヤ。あのフランスつぼはおまえをろくな目に会わしゃしないよ」
 ポリーナはぱっと赤くなった。わたしは思わずぴくりとした。(みんな知ってる! してみると、おれひとりだけがなんにも知らないんだ!)
「まあま、そんなに顔をしかめなさんな。あまりしつこくはいやしないから。ただ気をおつけ、悪いことにならないようにね。わかったかえ? おまえさんは利口な子なんだから。さもないと、おまえがかわいそうになってくるから。さあ、もうたくさん、おまえたちの顔なんか、だれのだって見たくないんだよ! さあ、お行き、さよなら!」
「あたしは、お祖母さま、まだお見送りしますわ」とポリーナはいった。
「いらないよ、じゃましないでおくれ。それに、おまえさんたちにはもうあきあきしたよ」
 ポリーナはお祖母さんの手に接吻したが、こちらはその手を振り離し、自分のほうからポリーナのほおに接吻した。
 わたしのそばをとおりぬけながら、ポリーナはちらとわたしのほうを見て、すぐ目をそらした。「じゃ、アレクセイ・イヴァーノヴィッチ、あんたにもさようならをいっておこう。出発までもう一時間しかありゃしない。それに、おまえさんもわたしの世話でくたびれただろうよ。さあ、この金貨を五十枚とってお置き」
「ありがとうございます、お祖母さん、しかしどうも気がさして……」
「さあ、さあ!」とお祖母さんは叫んだ。しかも、声を激ましてこわい顔をしたので、わたしはいい抜ける勇気がなく、受け取った。
「もしモスクワで口がなくて、あちこちかけずりまわるようだったら、わたしのところへおいで。どこかへ世話してあげるから。さあ、とっとと行きなさい!」
 わたしは自分の部屋へ帰って、ベッドへ横になった。わたしはどうやら半時間も、両手を頭の後にかって、あおむけにねていたらしい。カタストロフはすでに襲って来たのだから、わたしとしても考えることがあったわけだ。わたしは、明日こそポリーナと真剣に話し合おうと決心した。ああ! あのフランスっぽか! して見ると、あれはほんとうだったんだな! しかし、それにしても、どんなことが起るんだろう? ポリーナとド・グリエ! ああ、なんという組合せだろう!
 それは何もかもあり得ない話だった。わたしは急にわれを忘れて躍りあがった。すぐさまミスター・アストレイをさがし出して、是が非でもほんとうのことをいわせよう、というつもりだった。彼はもちろん、この点についても、わたしよりは余計に知っているに相違ない。そもそもミスター・アストレイとは何者か? これがまたわたしには謎なのだ! けれども、とつぜん、戸口にノックの音が響いた。見ると、ポタープィチである。
「もし、アレクセイ・イヴァーノヴィッチ、奥様がお召しでございます!」
「なんの用だろう? そろそろお立ちなのかしら? 汽車にはまだ二十分あるんだが」
「何かしらん落ちつかぬご様子で、じっとすわっていらっしゃれないのでござります。『早く、早く!』とおっしゃりまして、――つまり、あなた様をお呼びして来いということなので、お願いでござります、どうぞ一刻もご猶予なしに」
 すぐさまわたしは階段をかけおりた。お祖母さんはもう廊下へかつぎ出されていた。手には紙入を握っている。
「アレクセイ・イヴァーノヴィッチ、先に立ちなさい、出かけよう……」
「どこへです、お祖母さん?」
「わたしゃ死んだってあの負けを取り返すのだよ! さあ、お行き、根掘り葉掘りきかないでさ! あすこじゃ夜中までやってるんだろう?」
 わたしはあきれて棒立ちになった。しばらく考えたが、すぐはらがきまった。
アントニーダ・ヴァシーリエヴナ、なんとおっしゃっても、わたしは行きません」
「そりゃなんとしたわけで? そりゃまたどういうことだえ? おまえさんたちはみんなきちがいなす[#「きちがいなす」に傍点]でも食べたんだろう!」
「お怒りかもしれませんが、ぼくは後で自分を責めるようなことはしたくありません。いやです。ぼくはそんなこと見たくもないし、かかり合いたくもありません、ご免こうむります、アントニーダ・ヴァシーリエヴナ。さあ、あなたから頂いた五十フリードリッヒ・ドルをお返しします。ご機嫌よう!」
 わたしは金貨の包みを、お祖母さんの安楽いすのそばの小机に載せると、会釈して向うへ行った。
「なんてばからしい! わたしゃひとりだって道くらいわかるから! ポタープィチ、いっしょにおいで! さあ、持ち上げて、さあ、お出かけ!」
 ミスター・アストレイが見つからなかったので、わたしは宿へ引っ返した。その晩おそく、もう夜中すぎて、わたしはポタープィチの口から、この日の首尾がどうであったかということを知った。お祖母さんは先ほどわたしが両替して来た金を、すってんてんにすってしまった。それはロシヤの貨幣にして、一万ルーブリがものはあったのだ。先だってお祖母さんにフリードリッヒ・ドル二枚もらった例のポーランド人が、今度は指南番になって、しじゅう彼女の勝負に助言した。はじめこのポーランド人が来るまでは、ポタープィチを無理にそばへすわらせたが、まもなく追っ払ってしまった。そこで、さっそくポーランド人が飛んで来たわけである。まるでわざとあつらえたように、この男はロシヤ語がわかったし、おまけに三か国語をちゃんぽんにしゃべることができたので、ふたりはどうやらこうやら意志が疎通した。ポーランド人は絶えず「奥様の足もとに平身低頭していた」にもかかわらず、お祖母さんはしじゅう彼を情け容赦なく罵倒したものである。
「どうして、アレクセイ・イヴァーノヴィッチ、あなた様とは比べものになりは致しませんよ」とポタープィチが話して聞かせた。「あなた様に対する奥様のお取扱いは、まるでだんな様扱い[#「だんな様扱い」に傍点]でございましたが、あいつときたら、それこそもう、――ほんとうでございますよ、うそだったらこの場で神罰に当って死んでもよろしゅうございます、――現在目の前の台にあるお金を盗んだのでございますよ。奥様もご自身二度までその現場をお見つけになりまして、それこそあなた、ひどい言葉でくそ味噌にやっつけなさいましてな、一度なぞは髪の毛をつかんで、引っ張りさえなさいましたよ、まったく、うそ偽りは申しません、まわりの人がどっと笑ったくらいでございます。でも、すっかり負けておしまいになりました、何もかも根こそげに。あなた様の両替しておあげなされた金を、全部のこらず取られておしまいなすったので。わたくしどもがここまでお連れ申したとき、やっと水を一杯くれとおっしゃっただけで、十字を切って、お床へはいってしまわれました。よくよくお疲れになったものでござりましょうか、すぐとお寝《よ》ってしまわれましたが、どうぞ神様、奥様によい夢をお授け下さりますように! やれやれこの外国にはこりごりでございますよ!」とポタープィチは結んだ。「ろくなことはあるまいと申していましたが、案の定このとおりで。もう一刻も早くモスクワへ帰りとうございます! モスクワには、それこそなんだってないものはございませんからなあ。公園にしても、花にしても、ここにないようなものがあって、その匂いと申しましたら! それに、だんだん林檎の実が熟してまいりますし、広々として、――ほんに、何も外国三界へまで来ることはなかったものを、やれ、やれ、やれ!………」
[#4字下げ]第13章[#「第13章」は中見出し]
 わたしがこの手記を途中で投げ出してから、もうほとんどまるひと月たった。この手記の動機となった印象は混沌としてはいたけれども、しかし、強烈なものであった。あの当時、わたしの予想していた破局は、まさしく襲ってきた。が、想像したより百倍も恐ろしい、思いがけないものであった。少くともわたしの身になってみれば、何もかもすべて奇怪な、見苦しい、むしろ悲劇的とさえいえるようなものだった。つまり、わたしの身の上に幾多の事件が起ったわけだが、それはほとんど奇跡に近いくらいなものだったのである。少なくとも、わたしは今日までそういうふうに見ているのだ。しかし、また別の観点からすると、ことに当時わたしが巻き込まれていたあの物すごい波乱からいえば、それもまあ、さして平凡なものではない、といった程度なのかもしれない。が、何よりも不思議なのは、そうした事件に対する当時のわたし自身の態度である。自分でもいまだに自分の気が知れない! しかし、それもこれも、夢のように過ぎ去ってしまった。そして、わたしの情熱も。その情熱は激しい真剣なものだったのに……いったいどこへ行ってしまったのだろう? もっとも、時々どうかすると、『ひょっとしたら、おれはあの時分気がちがっていたのじゃあるまいか。もしかしたらあのころずうっと、どこかの瘋癲病院にはいっていたのじゃあるまいか。いや、いまでも現にはいっているのかもしれないぞ。――そうとすれば、これは何もかもただそんな気がした[#「そんな気がした」に傍点]だけにすぎない、それどころか、今でもそんな気がしている[#「そんな気がしている」に傍点]までの話だぞ……』といった想念が頭にひらめくことがある。
 わたしは自分の草稿を取り集めて、読みかえしてみた(もしかしたら、これは瘋癲病院で書いたものでないということを、自分自身に確かめるためだったかもしれない)。いまわたしはまったくのひとりぼっちだ。秋が訪れて、木々は黄葉してゆく。このわびしい田舎町にいかりを下ろして(ああ、ドイツの田舎町のわびしいことったらない!)これからとるべき一歩を考えようともしないで、最近経験したばかりの感覚、生々しい追憶の魅力から抜け切れないで暮らしている。わたしをあの波乱重畳の中へほうりこんで、またそこからいずくともなく投げ出したあの旋風が、いまだにその名残りをわたしの内部にとどめているのだ。わたしは今でも時折りこんな気持ちがしてならない、今にもふいにあの旋風が再び襲って来て、通り過ぎざまその一方の翼でわたしをわしづかみにしてしまう、すると、わたしはまたもや秩序も中庸の感覚もなくしてしまって、くるくる、くるくると舞い狂いはじめるのだといった気持が……
 とはいうものの、もしこの一か月間に起ったいっさいの事件を、できるだけ正確に整頓し評価したら、あるいは、わたしもしっかりした足場に立って、ひょうひょうと旋転することをやめるかもしれない。わたしはまた執筆欲を感じ始めた。それに、また晩になると、まるで何もすることのなくなる時が多いのだ。不思議なことには、所在なさの時間つぶしに、町のけちくさい図書館からポール・ド・コックの小説(ドイツ訳)を借りて来る。わたしはこの作家が大きらいなのだが、それでも読んでいる。そして、われながらあきれているのだ。それはちょうど、まじめな書物やまじめな仕事で、過ぎてほどない事件の魅惑をこわすまいと苦心してでもいるかのようだ。あの醜悪な夢魔と、そのあとに残ったすべての印象が、わたしにとってこの上もない貴重なものででもあるかのように、ほかの新しいものの接触でそれを霧散させてはならぬと、戦々恐々としているような形である。いったいあれがわたしにとってそれほど貴重なのだろうか? もちろん、貴重なのにきまっている。もしかしたら、四十年たっても思い起すかもしれないくらいだ……
 では、また書きはじめるとしよう。もっとも、今となったら、この事件もかいつまんで簡単に話すことができる。印象がまるっきり別なものになってしまっているから……

 第一に、お祖母さんの一件を片づけてしまうおう。あの翌日、お祖母さんは全部すってんてんに負けてしまった。それは当然かくあるべきであった。いったんこの道へ落ち込んだものは、あたかもそりに乗って雪の山をすべるように、だんだん早く落ちて行くばかりだ。彼女は終日、晩の八時まで勝負を争った。わたしはその勝負に立ち合わなかった、ただ人の話で知っているばかりである。
 ポタープィチは終日《いちんち》彼女のそばにつき添いながら、停車場で張番した。お祖母さんを指導したポーランド人どもは、この日の中にいくたびか入れ代った。彼女はまず手始めに、例の髪を引っぱったポーランド人を追っ払って、別なのをやとった。ところが、この別なのはほとんど前のに劣るくらいであった。こいつを追っ払って、また前のを採用した。この男は追放されている間じゅう、いっこう立ち去ろうともせずお祖母さんの安楽いすのうしろで人々を突きのけはねのけしながら、のべつお祖母さんのほうへ首を突き出していたものである。――お祖母さんはついに完全な絶望に陥ってしまった。追放された第二のポーランド人も、こんりんざい、立ちのこうとしなかったので、ひとりは右側、ひとりは左側に陣取った。彼らは絶えず賭金や行き方であらそい、ののしり合い、互いにワイダク([#割り注]ろくでなし、ポーランド語[#割り注終わり])とか、その他さまざまな悪態をつき合っていたが、それからまた和睦して、めちゃくちゃに金をほうり出し、でたらめに勝手なまねをした。喧嘩をすると、彼らはめいめい自分勝手に賭けた。たとえば、ひとりが赤に賭けると、もうひとりは即座に黒に賭ける、というふうである。とどのつまり、ふたりはお祖母さんの目をまわさせ、何がなんやらわからなくさせてしまったので、とうとうお祖母さんは涙ながら年とった監督に、どうかわたしを保護してください、あいつらを追っ払ってください、と頼んだほどである。すると、たちまち、彼らはどなったり抗議したりした甲斐もなく、ほんとうに追っ払われてしまった。ふたりはふたりながら一時に、お祖母さんこそおれたちに借りが