『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

『スチェパンチコヴォ村とその住人』P201ーP224(1回目の校正完了)

手もとに捧げた。叔父とナスチャはまた膝をついた。こうして、式はペレペリーツィナのうやうやしげな指導のもとに、とどこおりなく行なわれた。彼女は、『もっと足をおかがめなさい、聖像に口をおつけなさい、お母様の手に接吻なさい!』などとのべついいつづけていた。花婿花嫁の後から、バフチェエフ氏も聖像に口をつけるのを義務と感じた。そして、ついでに、将軍夫人の手にも接吻したものである。彼は筆紙に尽くし難いほどの喜びに、うちょうてんになっていた。
「ウラー!」と彼はまたわめいた。「さあ、今度こそシャンパンを飲むんだ!」
 とはいえ、だれもかれもがうちょうてんになっていた。将軍夫人は相変わらず泣いていたが、今ではもう嬉し泣きだった。フォマーの祝福を受けたこの縁結びは、たちまち彼女の目に難の打ちどころのない、神聖なものに思われてきたのである。何より肝腎なのは、フォマーが立派な行ないをしたので、今こそ永久に自分と別れることはない、とこう感じた点なのである。食客の女たちも見受けたところでは、一同の歓喜を頒っているらしかった。叔父は母の前に膝を突いて、その両手に接吻しているかと思うと、すぐにまた駆け出して、わたしや、バフチェエフや、ミジンチコフや、エジェヴィーキンなどを抱きしめるのであった。イリューシャなどは、父の抱擁のために、ほとんど絞め殺されないばかりであった。サーシャはナスチェンカに飛びついて、相手を抱きしめながら接吻した。プラスコーヴィヤ叔母はさめざめと泣き濡れていた。それに気のついたバフチェエフ氏は、叔母のそばへ寄って、その手に接吻した。エジェヴィーキン老人はすっかり感きわまって、片隅に隠れて泣きながら、昨日の格子縞のハンカチで、しきりに目をおし拭っていた。また一方の隅では、ガヴリーラがしくしく涙にくれながら、まるで神様でも見るような目つきで、フォマー・フォミッチを眺めていた。ファラレイはありったけの声を張りあげて、泣きじゃくりながら、みんなのそばへ寄って行っては、同じようにその手を接吻していた。一同は溢れ来る感情に圧倒された形だった。まだだれひとり話を始める者もなければ、だれひとり自分の気持ちを語ろうとする者もなかった。もう何もかも語られてしまった、というような気がしたのである。ただ喜びの叫びがここかしこに響くばかりであった。どうしてこんなに早く、突然ことが収まったのか、まだだれひとり合点がいかなかった。ただ一つわかっていたのは、これがすべてフォマー・フォミッチのわざであり、しかも確固として動かすべからざる事実だ、ということばかりだった。
 けれども、一同の幸福が訪れてから、まだ五分とたたない時、不意にタチヤーナ・イヴァーノヴナがわたしたちの間に姿を現わした。いったいどんなふうにして、どんな直覚力があって、二階の居間に坐っていたこの女が、ここの愛と結婚の空気を嗅ぎつけたのか、それはわからないけれども、彼女は輝き渡るばかりの顔つきをして、目に喜びの涙を湛え、見とれるばかり優美な身支度をして(もうこの間に二階で衣裳がえをしたのである)高らかな叫び声とともに、いきなりナスチェンカに飛びかかって、両腕に抱きしめた。
「ナスチェンカ、ナスチェンカ! あんたはあの人を愛していたのね。わたしちっとも知らなかったわ!」と彼女は叫んだ。
「まあ、なんてことでしょう! 二人は互いに愛し合って、人知れずそっと苦しんでいたのよ! だって、みんなが邪魔をしたんですもの! 素敵なローマンスだこと! ナスチャ、あんたいい子だから、わたしにすっかり話してちょうだい、いったいあんたは本当にこの向こう見ずな人を愛しているの?」
 ナスチャは答えの代わりに、相手を抱きしめて接吻した。
「まあ、なんてチャーミングなローマンスでしょう!」とタチヤーナは歓喜の情に堪えかねて、思わず両手を打ち鳴らした。
「ねえ、ナスチャ、かわいい天使、わたしのいうことを聞いてちょうだい。男ってものはだれもかれも一人残らず恩知らずの悪党で、わたしたちの愛なんか受ける値打ちはありゃしないのよ。だけど、この人はその中でもいいほうかもしれないわ。さあ、この向こう見ずな男、わたしの傍へいらっしゃい!」叔父のほうへ向いてその手を握りながら、彼女はこう叫んだ。「いったいあんたは恋してるの? あんたに恋なんかできて? わたしのほうをごらんなさい、わたしはあんたの目が見たいの。その目が嘘をついてるかどうか試してあげるから! いえ、いえ、嘘をついちゃいない、――この目の中には愛が輝いている。ああ、わたしはなんて幸福なんだろう! ナスチェンカ、ねえ、よくって、あんたはお金持ちじゃないから、わたしあんたに三万ルーブリあげるわ。後生だから取ってちょうだい! わたしいらないの、いらないのよ。わたしにはまだたくさん残ってるから。いけない、いけない! いけない」ナスチャが辞退しそうな様子を見て、彼女は両手を振り廻しながら叫んだ。「あんたも黙ってらっしゃい、エゴール・イリッチ、これはあんたの知ったことじゃないんだから。駄目よ、ナスチャ、わたしあんたに上げようと、もうちゃんと決めてたんですもの、前から上げたかったんだけれど、ただあんたの初恋を待っていたのよ……わたしあんたの幸福が見たいの。もし取ってくれなければ、それはわたしを侮辱することになってよ。わたし泣き出すわ、ナスチャ……だめ、だめ、だめ、だめだってばさ!」
 タチヤーナ・イヴァーノヴナは歓喜の絶頂に達していたので、少なくともこの瞬間、彼女に言葉を返すのは不可能だったばかりか、むしろ気の毒な気がするくらいだった。けれど、それは当人たちも決心をつけかねて、次の時まで延ばすことにした。彼女は将軍夫人や、ペレペリーツィナや、――その他われわれ一同に飛びついて接吻した。バフチェエフはこの上もないうやうやしい態度で、人々を押し分けて彼女のそばへ寄り、その手に接吻の許しを乞うた。
「なんて立派な人だ! なんてかわいい人だ! さっきのことは、こんな馬鹿だと思って、ゆるしてください、――わたしはあんたのそうした美しい心を知らなかったよ!」
「向こう見ずな男! わたしはせんからあんたを知り抜いてるわ」とタチヤーナは歓喜にまかせた蓮葉な調子でそういいながら、バフチェエフの鼻を手袋で軽く打つと、華やかな衣裳でさっと彼の顔を撫でながら、微風の女神のように、そのそばを飛びのいてしまった。
 太っちょはうやうやしく体をわきへよけた。
「実に見上げた婦人だ!」と彼は感に堪えたようにつぶやいた。
「例のドイツ人の鼻は、もう糊でくっつけたからね!」さも嬉しそうにわたしの目を見つめながら、大事をうち明けるような調子でわたしの耳にささやいた。
「鼻とはなんです? ドイツ人ってだれのことです?」とわたしは面くらってたずねた。
「ほら、わしがわざわざ贈り物にとり寄せた、例の別嬪の手を接吻している人形さ。女のほうはハンカチで涙を拭いてるって、話して聞かせたじゃないか。もう昨日のうちに、エヴドキームが直してくれたよ。さっき、追っ手から帰って来るとすぐ、使いの者を馬で取りにやったよ……やがて今に持って来るだろう。素晴らしいものだよ!」
フォマー!」と叔父は歓喜のほとばしるにまかせて叫んだ。「きみはわたしたちの幸福の恩人だ! いったいなんできみに酬いたらいいんだろう?」
「何もいりませんよ、大佐」とフォマーは渋い顔をして答えた。「どうか相変わらずわたしには注意を向けないで[#「相変わらずわたしには注意を向けないで」に傍点]、フォマー抜きの幸福を築いてください」
 彼はどうやら中っ腹らしかった、――一同がわれさきにと感激を漲らしている中で、彼一人はまるで忘れられたような形だった。
「それというのも、みんな嬉しさのあまりだよ、フォマー!」と叔父は叫んだ。「わたしなどは、きみ、どこに立っているか、それさえ覚えがないくらいだよ。ねえ、フォマー、わたしはきみを侮辱した。きみの侮辱感を満足させるためには、わたしの全生命をなげうっても、体じゅうの血を流しても、まだ足りないくらいだ。だから、わたしは沈黙を守って、あやまりもしないくらいだよ。しかし、いつかきみのためにわたしの首が、わたしの命が必要だったら、――もしきみの代わりに無限の深淵に飛びこむ必要があったら、どうかわたしに命令してくれたまえ、その時こそきみはその目で……わたしはもうこれ以上なんにもいわないよ、フォマー」
 叔父は自分の気持ちをより以上強く表白するために、今さら何もつけ加えることは不可能だと心の底から感じながら、諦めたように片手を振った。彼はただ感謝の涙に充ちた目で、フォマーを見つめるばかりだった。
「ほんとにこの方はなんという天使なんでしょう!」これも人に劣るまいと、ペレペリーツィナ嬢は黄いろい声で、フォマーに讃辞を捧げた。
「そうよ、そうよ!」とサーシェンカが引きとった。「フォマー・フォミッチ、あなたがこんないい人だとは、あたしも知らなかったものだから、つい失礼なことをいっちまって、堪忍してちょうだいね、フォマー・フォミッチ。もうこれからは心底からあなたが好きになるわ。それを信じてちょうだいね。今あたしがどんなにあなたを尊敬しているか、とてもあなたにはわからないくらいよ!」
「そうだよ、フォマー!」と、バフチェエフが引きとった。「きみもこの馬鹿なわしをゆるしてくれたまえ! わしはきみという人を見そこなった、実に見そこなったよ! フォマー・フォミッチ、きみはただ学者だというばかりじゃない、まさに一個の英雄だよ! もうこれからは家じゅうの者が、きみのためにはなんでもするよ。きみ、いっそ明後日あたりわしの家へ来てくれたまえ。そうだ、将軍夫人もいっしょに、それから花嫁花婿もひっぱって来るがいい、――何をいちいちことわるんだ! 家じゅう総出で遊びに来てもらおう! つまり、みんなで飯でも食おうじゃないか、――いまから仰々しく吹聴はせんけれど、ただ一つ断わっておくよ、ただ小鳥の乳だけは、いくら諸君のためでも手に入れるわけにはいかんからね! これだけは神かけて誓言しておくよ!」
 こうした感激の充ちあふれた中に、ナスチェンカもフォマー・フォミッチに近寄って、そのうえ言葉を加えようともせず、強く彼を抱きしめて接吻した。
フォマー・フォミッチ」と彼女はいった。「あなたはわたしたちの恩人です。あなたはわたしたちのために、言葉に尽くせぬほどのことをしてくださいましたので、なんでそのお礼をしていいやら見当もつかないくらいでございます。ただ一つ間違いのないことは、これからあなたのために、またと二人ないほど優しい恭順な妹になる、ということだけです
わ……」
 彼女は最後までいい終わらなかった。涙に声がつまったのである。フォマーはその髪に接吻しながら、思わず涙ぐんだ。
「わたしのかわいい子供たち、わたしの心の子供たち!」と彼はいった。「どうか無事に暮らして、一家の隆盛を計ってください。そして、ご自分たちの幸福な折々は、このかわいそうな流人のことを思い出してください! 自分のことをいわせてもらうならば、不幸は徳行の母かもしれませんよ。これは確かゴーゴリがいった言葉らしい。軽はずみな作家だったが、時とすると、珠玉のごとき名言を吐いた男ですな。流浪はまさに不幸です! わたしは一本の杖を友として、これから地上を漂泊するのだ。それに、わたしはこの不幸のお蔭で、いっそう有徳な人間になるかもしれん! この想念こそは、わたしに残された唯一の慰藉ですわい!」
「しかし……いったいきみは、どこへ行くつもりだね、フォマー?」と叔父はびっくりして叫んだ。
 一同は思わずぎょっとして、フォマーに視線を向けた。
「しかし、さっきあなたからああいう取扱いを受けた後で、のめのめとこの家に残っておられましょうか、大佐?」なみなみならぬ威厳を見せながら、フォマーはこう反問した。
 けれど、一同はしまいまでいい切らせなかった。異口同音の叫びが彼の言葉を揉み消してしまった。人々は彼を肘掛けいすに落ちつかして、哀願したり、同情の涙を流したり、――その他ありとあらゆる方法を尽くしたが、わたしはもういちいち覚えていない。もちろん、『この家』を出て行こうなどという考えは、彼の心にもうとうなかったのである。そんな気はついさっきもなかったし、昨日もなかったし、菜園の土掘りをしていた当時もなかったのである。今こそみんなが敬虔の念を抱きながら、しがみつくようにして引きとめるに相違ないということを、彼はちゃんと心得ていたのである。ことに、彼がすべての人を幸福にして、再び一同の信仰を回復した今となっては、なおさら自信を固めたのである。実際、みんなは彼を両手に捧げないばかりの勢いで、しかもそれを名誉か幸福のように考えていたのである。しかし、さきほど雷にびっくりして意気地なく引っ返して来たことが、いくらか彼の自尊心を傷つけたので、まだどうかして英雄ぶりを見せたくて、たまらなかったらしい。第一、もう一芝居うてるという誘惑が、前に控えているのだからたまらない。弁舌さわやかなところを見せて、縦横無尽にしゃべりまくり、自画自讃をする機会を与えられたので、この誘惑に抵抗するのは不可能なわざだった。で、彼もそれに抵抗しようとしなかったのである。引きとめようとする人々の手をふり払いながら、一本の杖をくれ、自由の境涯にしてもらいたい、勝手に自分の好きな所へ行かしてもらいたいと哀願した。自分は『この家』で名誉を毀損され、さんざんに打ちのめされた。自分がもう一ど引っ返したのは、ただ一同に幸福を授けるためにすぎなかったのだ。いったいこんな『忘恩の家に踏みとどまって、滋味に富んではいるけれど、打擲で味つけしたスープを啜ることができるだろうか?』とこんなことをわめき散らすのであった。とうとう彼は身をもがくのをやめた。人々はまた彼を肘掛けいすに坐らしたが、彼の雄弁は尽くるところを知らなかった。
「いったいわたしはここで侮辱を受けなかったと思いますか?」と彼はわめいた。「赤い舌を出してからかわれなかったと思いますか? 現に、大佐、あなただって、あなたご自身だって、裏街を駆け廻る賤しい町人の子供のように、毎時、毎分、わたしに赤んべをして見せたじゃありませんか。そうですとも、大佐! わたしがこの比較を主張するのはほかでもない、たといあなたは肉体的にそんなことをしなかったにもせよ、精神的に赤んべをしたに相違ありませんよ。この精神的な赤んべは、時と場合によれば、肉体的なやつよりもっとひどい侮辱になりますぞ。殴打を受けたことなどは、今さら改めていいますまい……」
フォマー! フォマー!」と叔父は叫んだ。「そんな過ぎ去ったことをいいたてて、わたしを苦しめないでくれたまえ。わたしは全身の血を流し尽くしても、この侮辱を洗い落とすことはできないって、もうそういったじゃないか。どうか度量を大きく持ってくれたまえ! いっさいを忘れてゆるしてもらいたい。そして、わたしたちの幸福を眺めて楽しむように、ここに残っていてくれたまえ! それはきみの産み出した結果じゃないか、フォマー……」
「わたしは愛したい、人間を愛したいのだ」とフォマーは叫んだ。「ところが、わたしには愛させてくれないのだ、愛をさし止めようとするのだ、わたしの愛そうとする人間を、横どりするのだ! 人間をくれ、わたしが愛することができるように、人間をよこしてくれ! いったいその人間はどこにいるのだ? どこにその人間は隠れたのだ! 提灯を持って歩いたディオゲネス([#割り注]「樽の中のディオゲネス」といわれたギリシャの哲学者、諧謔と機智で知られている[#割り注終わり])のように、わたしは生涯その人間をさがし廻っておるが、どうしても見つけることができん。だから、その人間を見つけるまでは、だれも愛するわけにいかんのだ。わたしを嫌人主義者にした人間は、禍なるかなだ! わたしが、人間をくれ、愛したいと叫ぶと、ファラレイなどを突きつけるじゃないか! わたしがファラレイなど愛すると思うのか? ファラレイなどを愛する気持ちになれると思うのか? よしんばまた、仮りにその気持ちになったとしても、わたしにファラレイを愛することができると思うか? できるわけはない。なぜできんかというと、それがファラレイだからなんだ。なぜわたしが人類を愛さんかというと、ほかでもない、この世のものは何もかもファラレイか、それでなければ、ファラレイに似たものばかりだからだ。わたしはファラレイなぞいやだ、わたしはファラレイを憎む、わたしはファラレイに唾を吐きかけてやる、わたしはファラレイをひねり潰してやる。もし二人のうちどちらかを選べとなったら、わたしはファラレイよりも、むしろアスモディ([#割り注]ユダヤ神話に属する情欲の悪魔、結婚の破壊者[#割り注終わり])を愛してやる! 来い、こっちへ来い、年中わしを苦しめる憎いやつめ、こっちへ来い!」フォマーをとり巻く群集の陰から、爪立ちをしながら無邪気な表情で覗いているファラレイのほうへ、出しぬけにくるりと振り向くなり、彼はこうどなりつけた。「こっちへ来い! 大佐、ひとつあなたに証明して見せましょう」恐怖のあまり気の遠くなったファラレイを、片手でむずと引き寄せながら、フォマーは叫んだ。「わたしがいつも愚弄され、嘲笑されているといった言葉の正しさを、今あなたに証明して見せましょうわい! さあ、ファラレイ、いってみろ、今日ゆめに何を見たか、正直にいってみろ。さあ、見てごらんなさい、大佐、あなたの努力の結晶を、見てごらんなさい! さあ、ファラレイ、いわんか!」
 かわいそうな少年は、恐怖に身を慄わせながら、だれか助けてくれるものはないかと、絶望したような目つきであたりを見廻した。けれども、一座の人々はただ戦々兢々として、さも恐ろしそうに彼の答えを待っているばかりであった。
「さあ、ファラレイ、待っておるんだぞ!」
 返事の代わりに、ファラレイは顔をしかめて、口をへの字なりにしたかと思うと、仔牛のような声で泣き出した。
「大佐! この強情さをごらんなさい。これがいったい自然なものといえましょうか? ファラレイ、最後にもう一度たずねるが、きょういったいどんな夢を見た?」
「あの……」
「わしの夢を見たといえ」とバフチェエフが入知恵した。
「あなたの善行を見たといいなさい!」とエジェヴィーキンがいま一方の耳にささやいた。
 ファラレイはただきょろきょろと、あたりを見廻すばかりであった。
「あの……あなたの善……白い牡牛の夢を見ましたあ!」とうとう彼は唸るようにこういって、苦い涙を流しながら、さめざめと泣き出した。
 一同はあっと叫んだ。けれど、フォマー・フォミッチは、いつにない寛大の発作に襲われていた。
「少なくとも、お前の正直なことだけは認めるよ、ファラレイ」と彼はいった。「ほかの人には認められん正直さだ。勝手にするがいい! もし、お前がほかの人の人知恵で、わしをからかうためにそんな夢を持ち出すのなら、お前もそのほかの人間も、神罰を受けんけりゃならんが、もしそうでなければ、お前の正直さを尊敬するぞ。お前のような賤しい存在の中にさえ、わしは神に似せて造られた尊い姿を、見わけ慣れておるからな……わしはお前をゆるしてやるぞ、ファラレイ! わたしの心の子供たち、どうか抱きしめてください。わたしは居残ることにしましたぞ!………」
「居残るって!」と一同は歓喜の叫びをあげた。
「居残ります、そしてゆるしてあげます。大佐、ファラレイに砂糖を褒美にやってくださらんか。こんなにみんなが幸福になった日に、泣いたりしておっちゃいかんからね」
 この寛大ぶりに一同が驚嘆したのは、いうまでもないことである。こういう[#「こういう」に傍点]瞬間に、これほどまで[#「これほどまで」に傍点]心を配るとは! しかも、その対象はだれかといえば、ファラレイ風情ではないか! 叔父はすぐに飛んで行って、砂糖の命令を実行した。たちまち、――どこから出て来たのか、――プラスコーヴィヤ叔母の手に、銀の砂糖入れが現われた。叔父は顫える手でまず二つ取り出し、それから更に三つ出したが、最後にみんな取り落としてしまった。興奮のあまり、何一つすることができないのを、自分でも悟ったのである。
「ええっ!」彼は叫んだ。「もうこういう日だからかまうものか! さあ、いいか、ファラレイ!」こういいながら、彼は容器《いれもの》にありったけの砂糖を、少年の懐ろへぶちまけてしまった。
「これはお前の正直のご褒美だ」と彼は訓戒めいた調子でいい添えた。
「コローフキン様がおいでです!」と、不意に戸口へ現われたヴィドプリャーソフが披露した。
 一座に軽い動揺が生じた。コローフキンの訪問は明瞭に折が悪かった。一同はもの問いたげに叔父を見やった。
「コローフキンだって!」いくらかまごついた様子で叔父は叫んだ。「むろん、わたしは愉快だが……」おずおずとフォマーの目色をうかがいながら、叔父はこういい足した。「だが、今この場合、通したものかどうか、わたしにもわかりかねるな、きみはどう思う、フォマー?」
「かまわんですよ、かまわんですよ!」とフォマーは快く答えた。「コローフキンもお通しなさい。やはり一同の幸福を頒たしてやるがよろしい」
 手っとり早くいえば、フォマーは天使のような上々の機嫌だったのである。
「さし出がましゅうございますが」とヴィドプリャーソフが口をいれた。「コローフキン様は正体もないご様子でいらっしゃいます」
「正体もない様子だって? そりゃなんのことだ? 何を出たらめいってるんだ?」と叔父はどなった。
「いえ、まったくでございます、しらふじゃいらっしゃいません……」
 叔父が顔を真っ赤にして、すっかりあわててまごつきながら、口を開いて何かいおうとする間もなく、たちまち謎が解かれてしまった。戸口に当のコローフキンが現われて、ヴィドプリャーソフを片手で押しのけながら、あっけにとられている人々の前に立ちはだかった。それは白髪まじりの暗色の髪を五分刈にした、年のころ四十前後の男だった。背は高くないが、肉づきのいい体で、紫色をした丸い顔に血走った小さな目を光らせ、羽や乾草くずだらけの、恐ろしくくたびれきった、脇の下に大きな綻びのある燕尾服を着こみ、うしろを金具でとめた馬の毛織のネクタイを大きく結び、Pantalon impossible と呼ばれるズボンをはき、お話にならないほど脂じみた制帽を手に持っていた。男はぐでんぐでんに酔っぱらっていた。部屋の真ん中まで進み出ると、彼は立ちどまって、体を前後にゆらゆらさせながら、酔っぱらいの瞑想という恰好で、しきりに鼻で空《くう》をつっ突いていたが、やがてゆったりと満面に微笑を浮かべた。
「皆さん、真っぴらごめん」と彼はいい出した。「わたしは……その……(ここで彼はカラーをぽんとはじいた([#割り注]一杯やったという意味を表わす[#割り注終わり])こいつを頂戴したので!」
 将軍夫人はさっそく、尊厳を傷つけられた、という表情をした。フォマーは肘掛けいすに坐ったまま、このとっぴな客人を、皮肉な目つきでじろじろ見廻していた。バフチェエフは、合点のいかぬという顔つきをしていたが、その陰から多少同感らしい気持ちが覗いていた。けれど、叔父の当惑は想像以上だった。彼はコローフキンのために心底から苦しんでいた。
「コローフキン!」と彼はいいかけた。「ねえ、きみ!」
「|お待ちあれ《アタンデ》」とコローフキンはさえぎった。「自己紹介をつかまつろう。かくいうそれがしは自然の子……だが、ちょっと待てよ。ここにはご婦人がたがわたらせられる……この悪党め、なぜご婦人方がおられるということを、おれにいってくれなかったんだ?」小悪党らしい微笑を浮かべて叔父を眺めながら、彼はこういい足した。「かまうもんか! びくびくするこたあない!……女性《にょしょう》の方々にも見参いたそう、あでやかなるご婦人たち!」やっとのことで舌を廻しながら、一語一語言葉を縺らして、彼はこう切り出した。「ここにごらんの人物は不幸な男で、それは……いや、まあ、そういったようなわけでさあ……後はいわぬが花と……楽隊! ポルカだ!」
「ときに、眠くはありませんか?」落ちつき払ってコローフキンのそばへ寄りながら、ミジンチコフが問いかけた。
「眠いかって! いったいきみは人を侮辱するつもりかね?」
「どういたしまして。ただ歩いた後は体のためにいいからですよ……」
「だれが寝るものか!」コローフキンは憤然として答えた。「お前はおれが酔っぱらっていると思うのか?――どうしてどうして……もっとも、ここじゃどこに寝るんだね?」
「行きましょう、すぐに案内してあげます」
「どこへさ? 物置かね? だめだよ、その手に乗ってたまるものか! そういう所なら、もう泊ったことがあるよ……もっとも、案内してもらおうか……親切な人といっしょに行ってならんという法はないからな……枕はいらないよ。武士に枕は不要と……ただね、きみ、ちょいとした長いすを、長いすを一つ工面してもらいたい……だがね、ものは相談だ」と彼は足を停めながら、こういい足した。「お見受けしたところ、きみは親切ないい男らしい。一つその、肝いってくれないか……わかるだろう、ロメオ? ただ虫を抑えるだけなんだ……ただほんの虫抑えに、それ、一杯だけな」
「よろしい、よろしい!」とミジンチコフは答えた。
「よろしい……だが、きみ、待ってくれたまえ。お別れをいわなくちゃ。Adieus mesdames et mesdemoiselles!(さらば、貴夫人淑女がた!)……あなた方は、なんというか、拙者の胸を貫かれましたよ……いや、こんなことをいったって始まらない! 後でまたよく話し合いましょう……ただし、始まる時に拙者を起こしてください……いや、始まる五分前にお願いしたい……拙者を待たずに始めたら承知しませんぞ! よろしいか? 承知しませんぞ!………」
 こういって陽気な紳士は、ミジンチコフの後について姿を隠した。
 一同は黙っていた。怪訝の気分はまだつづいていた。とうとうフォマーが声をたてないで、ひひひと忍び笑いを始めた。その笑いがしだいしだいに大きくなって、ついに破裂するような哄笑になった。将軍夫人もそれを見て、浮き浮きして来たけれど、尊厳を傷つけられたという表情は、依然としてその顔に残っていた。つい釣りこまれたような笑い方が、四方から起こって来た。叔父は度胆を抜かれたようにつっ立って、目に涙がにじむほどあかくなりながら、しばらくの間は口もきけないくらいだった。
「なんということだ!」彼はやっとのことでこういった。「これはだれだって思いがけなかろうじゃないか。しかし、なんといっても、なんといっても、これはだれにでもあり勝ちのことだからね。フォマー、誓っていうけれど、あれは正直この上ない、潔白無比の、おまけに大した博覧強記の人問なんだよ、フォマー……今にわかるから!」
「今でもわかりますわい、わかりますわい」笑いにむせ返りながら、フォマーは答えた。「大した博覧強記だ、まったく博覧強記だ!」
「鉄道の話などさしたら、大したものですよ!」とエジェヴィーキンが小声に口をいれた。
フォマー……」と叔父はいいかけたが、一同の割れるような哄笑が、彼の言葉を消してしまった。フォマー・フォミッチは際限なしに笑いつづけた。それを見て、叔父も笑ってしまった。
「いや、何もいうことはない!」と、彼は夢中になっていった。「きみは度量の広い人間だよ、フォマー。きみは大きな心を持っている。きみはわたしに幸福を授けてくれた人だから……コローフキンもゆるしてくれるだろうね」
 笑わなかったのは、ただナスチェンカばかりだった。彼女は愛に充ちた目で未来の夫を眺めながら、こういいたそうな様子だった。
『でも、あんたはなんて立派な、なんて親切な、なんて心の綺麗な人でしょう! わたし、どんなにあんたを愛してるかしれないわ!』
[#3字下げ]6 エピローグ[#「6 エピローグ」は中見出し]
 フォマーの勝利は完全な揺ぎないものだった。実際のところ、もし彼がいなかったら、何一つまとまる気づかいはなかったのだから、目前に成立した事実は、いっさいの疑念と反対論を圧倒してしまったのである。彼に幸福を授けられた人人の感謝は、果てしがないくらいだった。わたしがほんのちょっとでも、どんな経過を辿ってフォマーがこの縁談を承知したか、ということをほのめかそうとするが早いか、叔父とナスチェンカは、まるで蠅でも追うように両手をふり廻して、わたしを黙らせるのであった。サーシェンカは、『フォマー・フォミッチはいい人ね、ほんとにいい人だわ。あたしあの人に毛糸の刺繍のクッションを造ってあげるわ!』と叫びながら、わたしを心の冷たい人間だといって、恥ずかしめたほどである。すっかり宗旨換えをしたバフチェエフなどは、もしわたしがこの人の前で、フォマー・フォミッチのことを悪しざまにいおうものなら、いきなり絞め殺しかねない勢いだった。彼はいま犬ころのようにフォマーの後について廻って、敬虔の念に溢れた目で彼を眺め、彼のいうひと言ひと言に、『きみは高潔無比な人間だよ、フォマー! きみは大した学者だよ、フォマー!』といい添えるのであった。エジェヴィーキンはどうかというと、歓喜のあまりうちょうてんになっていた。老人はずっと前から、ナスチェンカがエゴール・イリッチを夢中にさせているのを見てとって、それからというものは寝てもさめても、どうかして娘を叔父に娶らせたいと、ただそればかり空想していた。彼は根かぎりできるとこまで持ちこたえたあげく、もうどうしても諦めなければならなくなった時に、泣く泣く断念したのである。それをフォマーがすっかり持ち直してくれたのではないか。もちろん、老人はうちょうてんになってはいたけれど、フォマー・フォミッチという人間を腹の底まで見抜いていた。一口にいえば、フォマーが永久にこの家へ根をおろしたことになるので、これから彼の横暴ぶりは際限なしだということを、はっきり見透かしたのである。どんなに不愉快なわがままな人間でも、その希望をいれてもらった時は、たとい一時でもおとなしくなるのは周知の事実である。ところが、フォマー・フォミッチはまったくその正反対で、有卦に入れば入るほど、ますます馬鹿になり、ますます高慢の鼻を高くするのであった。食事のすぐ前に肌着をとりかえて着替えをすますと、彼は肘掛けいすにゆったりおさまって、叔父を呼びつけ、家じゅうの者のいる前で、また新しくお説教を始めた。
「大佐!」と彼はいい出した。「あなたはこれから正当の結婚生活に入ろうとしておられるが、あなたはその義務を諒解しておられますかな……」
 云々、云々というふうに際限がない。読者よ、『|時評雑誌《ジュルナール・ド・デバ》』くらいの大きさの本に、うんと小さな活字で、思いきって馬鹿げた囈《たわ》言をぎっしり詰めこんだところを、想像して見たまえ。その中には結婚生活の義務なんかまるっきりなくて、ただフォマー・フォミッチご自身の頭脳と、謙抑と、寛大と、勇気と、無欲恬淡に対する、無恥の極みともいうべき讃辞に充ちているのだ。みんな腹をへらして、早く食事がしたくてたまらなかったけれど、それにもかかわらず、だれひとりあえて言葉を返すものもなく、この囈言をしまいまでうやうやしく聴いたものである。もの凄い食欲を持ったバフチェエフさえ、敬虔そのものといった恰好で、身動きもせずに坐り通した。自分の雄弁に満足したフォマー・フォミッチは、やっと浮き浮きして来て、食事の時には、かなり十分にきこしめし、思いきりとっぴな乾杯を提唱した。彼は皮肉をいったり、からかったりし始めたが、それはもちろん、未来の花嫁花婿にあてたものである。一同はきゃっきゃっと笑いながら、拍手を送った。けれど、その冗談の中には、あまりにあくどく露骨なのが混っていたので、バフチェエフさえはにかんだくらいである。とうとうナスチェンカはたまりかねてテーブルを立ち、部屋から逃げ出してしまった。これがまたフォマー・フォミッチを、筆紙に尽くしがたい歓喜に導いたのである。けれども、彼はすぐに気がついて、簡単ながら力強い言葉で、ナスチェンカの美点を説き、席を立った美女の健康のために乾杯を唱えた。一分前までもじもじして、困りきっていた叔父は、さっそくフォマー・フォミッチを抱きしめかねない様子になった。全体に、この婚約の二人は、まるで互いをはじ、自分の幸福を恥じているようなあんばいだった。それに、わたしの観察によると、彼らは祝福を受けたその瞬間から、まだお互い同士ひと口も言葉を交わさず、互いの顔を見合うことさえ避けているようなふうだった。一同が食卓を離れた時、叔父は不意にどこともなく姿を消した。わたしはそれをさがしながら、ぶらぶらとテラスへ出て見ると、そこでは一杯機嫌のフォマーがコーヒーを前にして、肘掛けいすに埋まりながら雄弁を揮っていた。彼を囲んでいるのはエジェヴィーキンと、バフチェエフと、ミジンチコフの三人きりだった。わたしは足を停めて聞き始めた。
「いったいなぜ」とフォマーはどなった。「なぜわたしは自己の信念のために、すぐにも焚火の中へ飛びこむ覚悟があると思いますな? またなぜ諸君のうちだれ一人として、焚火の中へ飛びこむ勇気がないのでしょうか? いったいなぜです、なぜだと思いますな?」
「でも、それは無駄なことじゃごわせんか、フォマー・フォミッチ、焚火へ飛びこむなんて!」とエジェヴィーキンがからかった。「ねえ、意味がないじゃごわせんか。第一、痛いし、それに焼かれたら何が残りましょう?」
「何が残るかって? 高潔な灰が残るじゃないか。しかし、きみなんかはわたしを理解できるはずがない、きみなんかにわたしを評価できるわけがないて! きみなんかの目から見ると、どこかのシーザーとか、アレクサンダー大王などのほかには、偉大は存在しないんだからな! いったいきみのシーザー輩が何をした? だれを幸福にしたね? またきみたちの担ぐアレクサンダーにしても、いったいどんなことをしたのだ? 全世界を征服したというのかね? なに、あれと同じような密集陣をよこしてくれたら、わたしだって征服して見せるよ。きみだって征服できるし、あの男にだって征服できるさ……彼は徳行あるクレイトス([#割り注]マケドニアの武将、酒席で大王と口論して殺される[#割り注終わり])を殺したが、わたしは徳行あるクレイトスを殺さなかったからな……なに、あんなのは小僧っ子だよ! 山師だよ! あんなのには、笞でも食らわしてやるのが本当で、世界歴史で担ぎあげるべきじゃない………ソーサーだって同じ仲間さ」
「せめてシーザーだけは容赦してくださいよ、フォマー・フォミッチ!」
「馬鹿者には容赦がならん!」とフォマーはわめいた。
「容赦することが要るものか!」同様に一杯機嫌のバフチェエフは、熱くなってこう引きとった。「何もやつらを容赦することはありゃしない。やつらはみんな飛びあがり者で、ただ片足でぐるぐる廻るくらいしか芸はありゃせん! 腸詰め野郎め! 現にさっきも一人、何か知らん奨学資金を設定するとかいいやがった。ぜんたい奨学資金とはなんだ? なんのことやらわけがわかりゃせん! わしは賭けでもするが、 きっと何か目新しいインチキ仕事に相違ない。それからもう一人は、さっき立派な人たちのいる前で、ふらふら千鳥足か何かしながら、ラムをくれなどとぬかしおった! わしなんかにいわせりゃ、飲むのはいっこうかまやせん。だから、きみも飲め、大いに飲め。だが、食うものは一まず腹につめとくんだ。その後で、まあ、もう一ど飲むんだな……なんにもやつらを容赦することはいらん! みんな詐欺師ばかりだ! ただきみ一人だけは学者だよ、フォマー!」
 バフチェエフは一たんだれかに傾倒したとなると、もう無条件にいっさい批判ぬきで、全身的に傾倒してしまう男だった。
 わたしは庭の一ばん奥まった池のそばで、叔父をさがし出した。彼はナスチェンカといっしょだった。わたしの姿を見ると、ナスチェンカはまるで悪いことでもしていたように、いきなり灌木の繁みの間へ飛びこんだ。叔父は満面えみ輝きながら、わたしのほうへやって来た。その目には歓喜の涙が宿っていた。彼はわたしの両手をとって、ぎゅっと固く握りしめた。
「セルゲイ!」と彼はいった。「わたしは今だに、なんだか自分の幸福を信じられないような気持ちがするよ……ナスチャもやはりそうなんだ。わたしたちはただ奇異の感に打たれながら、天帝を讃美するばかりなんだ。今あれは泣いていたんだよ。お前は本当にしないかもしれないが、わたしはなんだか今でも正気がつかないくらいだ、すっかりぼうっとなった形でね。本当にしてるような、してないような気持ちなんだ! いったいこれはなんの酬いだろう? なんのためだろう? いったいわたしがどんないいことをしたというのだ?」
「もしだれか酬いを受ける値打ちのある人がいるとしたら、それはつまり、あなたなんですよ」とわたしは夢中になっていった。
「ぼくはまだ叔父さんのように潔白で、善良で、立派な人を見たことがない……」
「違うよ、セリョージャ、違うよ。それはあんまり分に過ぎている」と彼は気の毒そうな調子で答えた。「つまり、いけないことには、われわれは(いや、わたしは自分だけのことをいってるんだよ)、自分の気持ちがいい時は善良だけれど、気持ちの悪い時ときたら、そばへ近く寄るのも険呑なくらいだからな! つい今し方もナスターシヤと二人で、その話をしていたとこなんだよ。お前は本当にするかどうかと思うが、フォマーがどんなにわたしの前で光輝を放っていたとしても、わたしは今日の日まで、十分にはあの男を信じていなかった。もっとも、あの男の完璧な人となりを、自分ではお前に信じさせようとしていたんだがね。つい昨日、あの男があの贈り物を辞退した時でさえ、わたしは信用しなかったくらいだ! これは自分の恥をうち明けるんだよ、さっきのことを思い出すと、胸が慄えるようだ! あの時、わたしは前後を忘れていたのだ……あの男がナスチャのことをいい出した時、わたしはなんだか心臓を針で刺されたような気がしたのだ。わたしは前後を忘れて、虎のような真似をしてしまったのだ……」
「なあに、叔父さん、それはむしろ自然なくらいかもしれませんさ」
 叔父は両手をふり廻した。
「違うよ、違うよ、お前、そんなことをいってはいけない! あれはただもう、わたしの天性が損われているからだ。わたしが陰気くさいエゴイストで、情欲漢で、見境いなしに自分の情欲に身をまかせるからだよ。フォマーもそういっている(この言葉に対して、なんと返事のしようがあろう?)ねえ、セリョージャ」と彼は深い感情をこめて言葉をつづけた。「わたしがどんなにしょっちゅういらいらして、残酷な、不公平な、傲慢な人間になるか知らないだろう。しかも、それはフォマー一人に対してじゃないんだよ! このことがいま急に思い出されたのだ。こんな幸福を受けても恥ずかしくないようなことは、今までなんにもしなかった。こう思うと、わたしは急に恥ずかしくなって来たよ。ナスチャも今、やはり同じようなことをいったっけ。しかし、まったくのところ、あれにどんな罪があるのか、わからないんだよ。たにしろ、あれは天使で、人間じゃないんだからな! あれはこんなことをいったよ、――わたしたちは神様に恐ろしい借りがあるんだから、これからはもっともっと善良になって、いいことばかりしなけりゃならないって……あれがどんなに熱くなって、立派な話ぶりをしたか、お前に聞かせたいくらいだったよ! ああ、なんという娘だろう!」
 彼は興奮の体で立ちどまった。ややあってまた言葉をつづけた。
「わたしたちはこれから格別フォマーと、お母さんと、タチヤーナ・イヴァーノヴナを、大事にすることに決めたんだよ。ところで、あのタチヤーナ・イヴァーノヴナ! なんという潔白無類な人だろう! ああ、わたしはみんなに対して、実に申しわけないことをしている! お前に対してはことに申しわけがないよ……しかし、今後だれか生意気に、タチヤーナ・イヴァーノヴナを侮辱しようとする者があったら、おお! その時こそは……だが、こんなことをいったって仕方がない……ミジンチコフにも、やはり何かしてやらなくちゃならないな」
「そうですね、叔父さん、ぼくもタチヤーナ・イヴァーノヴナについては、すっかり意見を変えましたよ。あのひとを尊敬しないわけにいきません、同情しないわけにいきません!」
「そのとおりだ、そのとおりだ!」と、叔父は熱くなって引き取った。「尊敬しないわけにはいかないとも! 早い話が、あのコローフキンだ。お前はもうあの男のことを笑ってるんだろう」おずおずとわたしの顔を覗きこみながら、彼はこういい添えた。「それに、わたしたちもみんなさっきあの男を笑ったが、これは実際、ゆるすべからざることかもしれないよ……実際あれは素晴らしく立派な、善良この上もない人間かもしれないのだが、運命の廻り合わせで不幸を経験したのだよ……お一回は本当にしないかもしれんが、これは本当にそうなんだよ」
「いや、叔父さん、本当にしないわけはありませんよ!」
 そこで、わたしは熱のこもった調子で、どんなに堕落した人間の内部にも、高尚な人間的な感情が保存されているかもしれない、ということを、滔々と論じ始めた。人心の深みはさぐり尽くされないほどだから、淪落の人を軽蔑することはできないばかりか、むしろ反対に、その美点をさがし出して、更新させなければならない。一般に行なわれている善悪とか、道徳性とかの標準は、けっして正しいものじゃない、云々、云々、――一口にいえば、わたしは感激にまかせて、自然派のことまで持ち出したのである。
 結論として、詩まで朗読した。

[#2字下げ]迷いの闇を破りつつ云々……

 叔父は言葉に尽くされぬほど感激してしまった。
「セルゲイ、セリョージャ!」と彼は感きわまっていい出した。「お前は完全にわたしを諒解してくれた。それどころか、わたしがいおうと思ったことを一つ残さず、わたしよりうまく話してくれたよ。そうだ、そうだ! ああ、なぜ人間はこんなに意地悪なんだろう? 親切にすれば、こんなにいい気持ちで、こんなに素敵なのに、どうしてわたしはしょっちゅう意地悪になるんだろう? 現にナスチャもたった今、同じようなことをいってたよ……だが、ごらん、ここは実に素晴らしい場所じゃないか」あたりを見廻しながら、彼はこういい足した。「なんという自然だろう! まるで、絵だ! どえらい木じゃないか! ごらん、一かかえもありそうだよ! あの瑞々しさ、あの豊かな葉! あの太陽! 夕立の後で、あたりのものが何もかも埃を洗い落とされて、あの楽しそうにしている様子はどうだ!……考えてみると妙だね。木立もやはり何か心の中で理解したり、感じたりして、生を享楽しているんだからな……それとも違うかね――え? お前どう思う?」
「大きにそうかもしれませんよ、叔父さん。むろん独得のやり方ですがね」
「うん、そりゃもちろん独得のやり方さ……ああ、造物主は真に驚嘆すべきかなだ!……だが、お前はこの庭を隅から隅まで、よく知り抜いてるはずだね、セリョージャ。お前がまだ小さかった時分、始終そこら辺で遊戯をしたり、駆け廻ったりしたものだ! わたしはお前が小さかった時のことを、いまでもちゃんと覚えているよ」言葉に尽くせない愛と幸福の表情でわたしの顔を見つめながら、彼はいい添えた。「ただ池のほうだけは、お前一人で行かしてもらえなかったものだね。ところで、覚えているかい、――ある日の夕方、亡くなったカーチャがお前をそばへ呼んで、頭を撫でたり、頬ずりしたりし始めたっけ……お前はその前にのべつ庭じゅうを駆け廻っていたので、上気して真っ赤な顔をしていた。しかも、明るく光る髪の毛が房々と渦を巻いているのだ……カーチャはその髪をしきりにいじり廻していたが、やがてこういったものだ。『あなたがこのみなし児をお引きとりになったのは、本当にようございましたね』って。お前おぼえているか、どうだい?」
「ごくかすかにね、叔父さん」
「その時はちょうど夕方で、太陽がお前たち二人を鮮やかに照らしているのだ。わたしは片隅に腰かけて、パイプを吹かしながら、お前たちを眺めていたっけ……わたしはね、セリョージャ、毎月あれの墓詣りに町へ出かけて行くんだよ」と彼は声々低めていい足したが、その中には無理に呑みこむ涙と、魂の戦慄が響いていた。「わたしは今もその話をナスチャにしたばかりだ。あれは、これからいっしょにお墓詣りをしようといったよ……」
 興奮をおしつけようと努めながら、叔父は口をつぐんだ。
 この時ヴィドプリャーソフがそばへ寄って来た。
「ヴィドプリャーソフ!」と叔父はぴくりとして叫んだ。「お前フォマー・フォミッチの使いで来たのかい?」
「いえ、おもに自分の用でまいりました」
「ああ、それならよかった! 一つコローフキンの様子を聞こうじゃないか。わたしはさっきもたずねたかったんだよ……わたしはね、セリョージャ、コローフキンをそれとなしに見張るようにって、この男にいいつけたんだよ。いったいどんなふうだね、ヴィドプリャーソフ?」
「恐れながら申上げますが」とヴィドプリャーソフはいった。「きのう旦那様はわたくしのお願いにつきまして、お言葉を下さいました。つまり、わたくしが毎日毎日辱しめを受けるにつきまして、ご庇護を垂れてくださいますよう、お約束なされたのでございます」
「いったいお前はまた苗字のことをいってるのかい!」叔父はぎょっとして叫んだ。
「どうもいたし方がございません! 毎時毎分、やみ間なしに辱しめを受けますので……」
「ああ、ヴィドプリャーソフ、ヴィドプリャーソフ! お前という人間は、まあ、どうしたらいいんだろう?」と叔父は情けなさそうにいった。「え、お前が何も辱しめなど受けるわけがないじゃないか。それじゃ結局、気がちがってしまって、瘋癲病院で果敢ない最期を遂げることになるだろうぜ!」
「わたくしの頭は何も……」とヴィドプリャーソフはいいかけた。
「いや、そこなんだよ、そこなんだよ!」と叔父はさえぎった。
「わたしはただちょっといってみただけで、何もお前を侮辱する気じゃない、かえってお前のためを思ってのことなんだよ。さあ、いったいどんな辱しめを受けたんだい? わたしはこの首でも請けるが、きっと何か愚にもつかんことだろう?」
「道も歩けないような有様なので」
「だれのせいで?」
「だれもかれもでございますが、とりわけマトリョーナが一番ひどいので。あの女のお蔭で、この世が苦しみになってしまいました。旦那様もご承知のとおり、幼い頃からわたくしを知っている人で、もののわかった方々は、みんな口を揃えて、わたくしのことを、外国人に似ている、わけても顔かたちが似ていると、そういったものでございます。ところが、旦那様、どうでございましょう? 今わたくしはそのために、外を歩くこともできなくなりました。わたくしが通りかかるのを見つけるが早いか、みんながうしろから悪口雑言をまき散らすのでございます。鞭でひっぱたいて、折檻でもしてやらなくちゃならないような餓鬼どもまでが、生意気に悪態をつくという始末で……現にただ今も、わたくしがこちらへまいりますと、囃したてるのでございます……もう精も根も尽きはててしまいました。どうか旦那様のご威光でお助けを願います!」
「ああ、ヴィドプリャーソフ!……まあ、いったいどんなことをいって囃すんだい? きっと何か馬鹿げたことに違いない。そんなのを気にすることはいらないよ」
「あまりぶしつけで、申し上げられません」
「でも、まあ、どんなことだい?」
「口にするのも穢らわしゅうございます」
「だが、まあ、いってごらん!」
「オランダ人のグリーシュカ、ころんでぐりぐりこさえたか!」
「ちょっ、なんて男だ! わたしはまたどんなえらいことかと思っていたよ! それなら、お前、唾でも吐いて、さっさと通り過ぎるがいいじゃないか」
「唾を吐いたのでございますが、やつらはなお余計に囃したてます」
「ねえ、どうでしょう、叔父さん」とわたしはいった。「この男は、ここじゃ生きてる空もないというんだから、しばらくモスクワへでもやったらいいじゃありませんか。例の書家のところへ。だって、もと書家か何かのところにいたと、そうおっしゃいましたね」
「いや、お前、その男もやはり悲惨な最期を遂げたんだよ!」
「いったいどうしました?」
「あの方は因果なことに」とヴィドプリャーソフは答えた。「他人の金品を着服しまして、そのために大した腕を持っていながら、監獄へ送られてしまいまして、そこで果敢ない最期を遂げられました」
「よろしい、よろしい、ヴィドプリャーソフ。まあ、安心するがいい、わたしがすっかり裁きをつけて、まるく収めてやるから」と叔父はいった。「ちゃんと約束しておくよ! ところで、コローフキンはどうした? 寝ているかね?」
「いえ、そうではございません。あの方はたった今お出かけになりました。わたくしもつまり、それをお知らせにまいりましたのです」
「なに、出かけた? お前は何をいうんだ? いったいなんだって手放してしまったんだ?」と叔父はどなった。
「つまり、人がいいからでございます。まったく見る目も哀れなくらいだったので。目をさまして、あの時の始末をすっかり思い出すと、すぐにわれとわが頭を叩いて、死にもの狂いの声でわめき出しました……」
「死にもの狂いの声で!……」
「もっと綺麗な言葉づかいをいたしますなら、種々さまざまな悲鳴をあげましたので。『どうしてこれから女性《にょしょう》の方々に顔が合わされよう?』と叫ぶかと思うと、今度は、『おれは人類に値しない男だ!』といい添えるのでございます。なんでもそういったようなことを、一粒選りの言葉を使って、哀れっぽくいいつづけておられました」
「実にデリケートな人間だ! セルゲイ、わたしがいつも話していたとおりだろう……だが、ヴィドプリャーソフ、わたしがあれほど番をしていろといいつけたのに、なぜお前は手放してしまったのだ? ああ、困った、困った!」
「それというのも、惻隠の情のためでございます。いってくれるなと口留めされましたので。あの人の乗って来た辻馬車屋が、馬にかいばをやって、馬車の支度をしてしまったのでございます。ところで、あの人は、三日前にお手渡しなさいましたお金のことで、たいそう丁寧に礼をおっしゃって、着き次第郵便でお返しするからと、くれぐれもお言づけがございました」
「いったいそれはどうした金なんです、叔父さん?」
「なんでも二十五ルーブリだとかおっしゃいました」とヴィドプリャーソフはいった。
「それはね、セルゲイ、あのときわたしが停車場で貸してやったんだよ。金が足りないといってたものだから。もちろん着き次第、郵便で返して来るさ……ああ、実にどうも残念だ! 後から追っかけさしたものだろうか、セリョージャ!」
「いや、叔父さん、よしたほうがいいでしょう」
「わたしも自分でそう思うよ。ねえ、セリョージャ、わたしはもちろん哲学者じゃないけれど、どんな人でも見かけよりずっと余計に、善良さを持っていると思うよ。現にコローフキンだってそうだ。あの男も恥ずかしいという気にうち克てなかったんだよ……しかし、それにしても、そろそろフォマーのところへ出かけよう! 少しゆっくりしすぎたね。恩を知らないやつだ、人をないがしろにするといって、腹をたてるかもしれないからね……さあ、行こう! ああ、コローフキン、コローフキン!」
        ――――――――――
 物語は終わった。恋人同士は結婚して、フォマー・フォミッチなる徳性の天才は、いや応なく一家に君臨することとなうた。ここでいろいろと、もっともらしい説明を試みることもできるはずなのだが、実際のところ、今となっては、そういう説明もまったく蛇足にすぎない。それが少なくともわたしの意見である。いっさい説明めいたことをぬきにして、わたしは自分の物語に登場した各人物のその後について、数言を試みることとしよう。周知のごとく、これがなければ、いかなる小説といえども大団円になり得ないので、ほとんど不変の法則といってもいいくらいである。
「幸福を授けられた」二人の結婚は、前に述べた事件の六週間後に挙行された。すべてひっそりと内輪にすませて、あまり華やかなこともしなければ、余計な客も呼ばなかった。わたしはナスチェンカの介添人となり、叔父の介添としてはミジンチコフが推された。もっとも、客も招待はした。しかし、もっとも大切な重要人物というのは、むろん、フォマー・フォミッチであった。人々は何くれと彼の世話を焼いて、ほとんど手の上に担ぎ上げないばかりだった。けれど、どうしたものか、ふとした間違いで、シャンパンを注いで廻る折に一度彼をぬかしてしまった。すると、たちまち大騒動が持ちあがって、泣いたり、わめいたり、責めたりしたあげく、フォマーは自分の部屋へ逃げこんでしまった。そして、戸にぴんと鍵をかけて、自分は馬鹿にされている、今度はもう「新しい人たち」が入って来たので、自分などは木っぱも同然、おっぽり出されるよりほかに仕方がないのだ、などとわめきたてるのであった。叔父はとほうに暮れてしまうし、ナスチェンカは泣き出すし、将軍夫人は例のとおり痙攣を起こす……というような有様で、婚礼の祝宴は葬式のようになってしまった。総じて、恩人フォマー・フォミッチとの同居生活は、こういったふうの有様で、叔父とナスチェンカはかわいそうにまる七年間も、こうした運命に甘んじなければならなかったのである。最後の息をひき取るまで(フォマー・フォミッチは去年死んだのである)、彼はすねたり、渋っ面をしたり、あまのじゃくをいってみたり、腹をたてたり、悪態をついたりしつづけた。しかし、「幸福を授けられた」二人の彼に対する尊敬は、けっして衰えるどころか、彼の気まぐれに正比例して、日とともに増していくばかりだった。エゴール・イリッチとナスチェンカは、互いに幸福の頂上に達していたので、自分の幸福がそら恐ろしいくらいだった。そして、これでは神様の恵みが多すぎる、自分たちはこれほどの恵みを受ける値打ちがないと感じて、ことによったら、さきざき苦痛の十字架で、自分の幸福を贖わねばならぬかもしれない、などと取越し苦労をする始末だった。フォマー・フォミッチがこの謙抑の宿で、勝手放題のことをしたのはいうまでもない。彼はこの七年間に、ありとあらゆることをし尽くした! 無為に飽満した彼の心は、精神的ルクルス式([#割り注]前一世紀のローマの将軍、奢侈生活者の代名詞[#割り注終わり])ともいうべき、凝りにこった気まぐれを考え出すのに、どれだけ奔放な空想を駆使したか、ほとんど想像もつかないくらいである。叔父の結婚から三年たって、祖母が永眠した。一人ぼっち取り残されたフォマーは、激しい打撃を受けて、気も狂わんばかりであった。今でも叔父の家では、その当時の彼の様子を回想して、さも恐ろしそうに話し合っているほどである。墓穴に土をかけ始めた時、彼はその中へ飛び込もうと身をもがきながら、自分もいっしょに埋めてくれと叫んだ。まる一か月の間、彼にはナイフもフォークも持たせなかった。一度なぞ四人がかりで、無理やりに彼の口を開かせ、懸命に呑み込もうとするピンを取りだしたこともある。この闘争をそばで見ていたある人の観察によると、フォマー・フォミッチはこの騒動の間に、いくらでもピンを呑みこむ余裕があったのに、結局のみ込まなかったということである。けれど、こんな臆測を聞いた人々は、すっかり憤慨してしまって、すぐその場で、そんなことをいった人間の冷酷な心と、不作法な態度を難詰したものである。ただ、ナスチェンカばかりは沈黙を守って、ほんの心もちにたりと笑った。それに気のついた叔父は、いくらか不安そうな様子で、ちらとその顔を見やった。全体に断わっておかなければならないが、フォマーは相変わらずえらそうなことをいって、わがままや気まぐれをし散らしていたけれど、もと叔父に仕向けていたように、ずうずうしく頭ごなしにやっつけるような態度は、最早なくなってしまった。フォマーは愚痴をこぼしたり、泣いたり、とがめたり、貴めたり、反省を促したりしたが、もとのように喧嘩腰ではなくなった、――例の「閣下」のような場面は跡を絶ってしまった。それは、どうやら、ナスチェンカの業績らしかった。彼女は目に見えぬようにじりじりと、少しずつフォマーに譲歩させ、服従させるように仕向けたのである。彼女は夫の屈辱を見るのがいやさに、どこまでも自分の希望を押し通したのである。フォマーは、彼女が自分をほとんど見抜いているのを、はっきりと悟ったのである。わたしがほとんど[#「ほとんど」に傍点]といったのは、ほかでもない。ナスチェンカもやはりフォマーを甘やかして、夫がわが家の賢人を夢中になって褒めそやす時、いつもそれを支持するようにしていた。彼女は、夫のすることなら一から十まで、他人にも尊敬させなければ気がすまなかったので、彼のフォマーに対する愛着までも、正しいと認めさせるように努めたのである。しかし、ナスチェンカの美しい心は、前に受けた侮辱をさらりと忘れてしまったに違いない。わたしはそれを密かに確信している。フォマーが彼女を叔父と結びつけた時、すべてをゆるしてしまったばかりでなく、「受難者」であり、もとの道化である人間から、あまり多くを求めるわけにいかない、それどころか、むしろその魂を癒してやらなければならないという叔父の思想に、心底から共鳴したらしかった。不幸なナスチェンカは、自分でも虐げられた人々[#「虐げられた人々」に傍点]の一人で、苦しい体験を味わい、かつそれを忘れずにいるのであった。一月ばかりたってから、フォマーは急に静かになったばかりか、優しくつつましやかにさえなった。が、その代わり、まったく別な思いがけない癖が始まった。彼は何か妙な睡眠病の発作に襲われ始めて、みんなの胆を冷やさした。たとえばこの受難者は、なにか話をしたり、笑ったりしているかと思うと、不意に化石でもしたようになる。しかも、発作が起こる最後の瞬間にとっていた姿のままで、化石のような不動の姿勢になるのであった。たとえば、今まで笑っていたとすると、そのままいつまでも唇に微笑を浮かべているのである。ところで、もし何かフォークのようなものでも持っていたとすれば、フォークは宙に持ちあげた手に握られたままなのである。むろん、あとで手はだんだん下るけれど、フォマー・フォミッチは手が下ったことを感じもしなければ、後で覚えてもいない。じっと坐って、目を開いているばかりでなく、瞬きまでするのだけれど、いっさいものもいわなければ、人のいうことも聞こえず、まるで覚えがなくなってしまう。そういうことが時によると、まる一時間も続くのであった。むろん、家じゅうの者は恐ろしさのあまり、ほとんど死にそうな思いをしながら、息を殺し、爪立ちあるきをして、涙までこぼす騒ぎである。そのうちに、フォマーは恐ろしい衰弱を感じながら目をさまして、その間ずっと何一つ見も聞きもしなかったと、一生懸命にいい張るのであった。こんなにまで妙な芝居をして、頼まれもしないのに、一時間も二時間も苦しい目を好んで我慢するというのは、いったいなんのためだろう、――ほかでもない、ただ後で、『わたしをごらん、わたしはあんた方より上等な感覚を持ってるぞ!』といいたいがためなのである。とうとうフォマー・フォミッチは、『毎時、毎分ひとを侮辱して不遜の態度をとる』とかいって叔父を呪ったあげく、バフチェエフ氏のところへ引っ越して行った。バフチェエフ氏は、叔父の結婚後、もう幾度となくフォマーといさかいをしたが、いつもとどのつまりは自分から謝罪することに決まっていたので、今度も恐ろしくやっきとなって、この問題を引き受けた。彼はうちょうてんになってフォマーを迎え、たらふくご馳走をした上、すぐさま正式に叔父と喧嘩をして、訴訟まで起こそうと決心したのである。この二人の間に係争問題となっている小さな地所がどこかにあった。もっとも、叔父がいっさい文句なしに、頭からバフチェエフ氏に譲歩していたため、かつて一度も、いがみ合うようなことはなくてすんだのである。ところが、バフチェエフ氏は一言の挨拶もなく、いきなり幌馬車の用意をいいつけて町へ駆けつけ、そこで書面を即座に書きあげて、訴訟をおっぱじめてしまった。つまり、正式に地所が自分のものだという判決を下して、訴訟費はもちろんいっさいの損害を賠償させ、叔父の勝手気ままな貪欲あくなき遣り口を罰してもらいたいと、裁判所へ願い出たものである。ところが、フォマーはさっそくその翌日、バフチェエフ氏の家で里心を起こし、前非を悔いて来た叔父の謝罪をいれて、いっしょにスチェパンチコヴォ村へ帰って行った。町から帰って、この始末を聞いたバフチェエフ氏の憤慨は、もの凄いものであった。けれど、三日後に、彼は前非を悔いてスチェパンチコヴォ村を訪れ、涙をこぼしながら叔父にゆるしを乞うた上、訴訟を取り下げてしまった。叔父はさっそくその日のうちに、彼をフォマーと和睦させた。それから、バフチェエフ氏はまたもや犬ころのように、フォマーの後にくっついて歩きながら、相変わらずひと口ごとに、『きみは賢い人間だよ、フォマー! きみは大した学者だよ!』と口癖のようにいっていた。
 フォマー・フォミッチはいま将軍夫人と並んで、墓の中に眠っている。その遺骨の上には一面に、いろんなものから抜いて来た哀悼の辞や、讃辞を刻みこんだ白大理石の高価な墓標が立っている。時々エゴール・イリッチとナスチェンカは、散歩のついでに、敬虔な気持ちで教会の石垣のなかへ立ち寄り、フォマーの幕前にぬかずくのである。二人は今だに彼のことを話すたびに、特殊な感慨を禁じることができず、彼の言葉を一つ一つ思い起こし、彼がどんなものを食べていたか、どんなものが好きだったか、などというような追懐に耽っている。彼の遺愛の品は、まるで貴重品のように保存されている。叔父とナスチャは、天涯によるべない身の上になったような気がして、前よりいっそうたがいに愛着を感じて来た。神は二人に子宝を授けなかった。彼らはそれを心から嘆いてはいたけれど、かりにも不平がましいことは口にしなかった。サーシェンカはもうずっと前に、ある立派な青年と結婚した。イリューシャはモスクワで勉学中である。こういうわけで、叔父とナスチャは水入らずの暮らしをして、はた目にも羨しいほどの睦じい仲である。二人が互いのことを気づかい合う有様はなんだか病的な感じがするくらいだった。ナスチャは絶えず祈祷ばかりしている。もし二人のうちどちらか先に死んだら、相手は一週間と生き延びることはできまい、と思われるほどだった。しかし、神は彼らに仮《か》すに長命をもってするだろう! 彼らはありとあらゆる人に、心底から好意を示しながら、不幸な人といえばだれにでも、自分たちの持っているものを、ありったけ頒けてしまうのもいとわないかと思われるばかりだった。ナスチェンカは好んで聖者伝を読み、当たり前のいいことをしただけでは足りない、ありたけの財産を乞食に頒けてやって、清貧の中で幸福を感じなければ本当でないとさもつらそうにいいいいした。もしイリューシャとサーシェンカのことを気づかわなかったら、叔父はとっくの昔にそれを実行したに相違ない。なぜなら、彼は万事につけて、完全に妻と意見の一致を保っていたからである。プラスコーヴィヤ・イリーニチナは彼らといっしょに暮らしながら、何から何まで喜んで、兄夫婦の気に入るように努めていた。この家の家政を切り盛っているのも、やはり彼女であった。バフチェエフ氏は叔父の結婚後間もなく、彼女に結婚を申し込んだが、こちらはきっぱりと断わってしまった。みんなはそれを見て、きっと尼僧院へでも入るつもりに相違ないと決め込んだが、別段そういうこともなかった。プラスコーヴィヤ叔母は、生まれつき感心な性質を持っていた。というのは、自分の愛する人の前では完全におのれを無にして、絶えず自己を滅却さしてしまうことだった。愛する人の顔色をうかがって、ありとあらゆる気まぐれを従順に受け容れ、根気よく世話をしながら、まめまめしく仕えるのであった。こんど母親の将軍夫人が亡くなってから、彼女は兄と別れないようにして、万事につけてナスチェンカの機嫌をとるのが、自分の義務だと心得ていた。エジェヴィーキン老人はまだ生きている。最近ではだんだんと足繁く、娘を訪ねて来るようになった。はじめの間、彼は自分はいうに及ばず、雑魚《ざこ》ども(彼は自分の子供たちをそう呼んでいた)まで、すっかりスチェパンチコヴォ村へ出入りさせないようにして、叔父を絶望せんばかりに悲しませたものである。叔父がどんなに呼んでも招いてもさらに利きめがなかった。彼は誇りが強いというよりも、むしろ神経質で疑り深いたちなのであった。自分のような貧乏人を金持ちの家で出入りさせるのは、ほんのお情けにすぎないので、内々はずうずうしいうるさい人間だと思うに相違ない、――こう考えると、いても立ってもいられなかった。時によると、彼はナスチェンカの補助さえも辞退して、ほんのなくてはならないものだけしか受け取らなかった。叔父からは何ひとつ断固として受け取ろうとはしなかった。いつかナスチェンカが庭でわたしに会った時、自分の父親を批評しながら、あの人はわたしのために[#「わたしのために」に傍点]道化の真似をしているのだといったのは、大変な思い違いである。むろんあの当時、ナスチェンカを叔父にやりたくてたまらなかったのは間違いのない事実だけれど、彼が自分から道化の役廻りを演じたのは、はらの中に積りつもった癇癪に捌け口を与えようという内部の要求から出たものにすぎなかった。冷笑と皮肉[#「皮肉」に傍点]の要求は、もともと生まれながら彼の心内に宿っていたのである。早い話が、彼は思いきって陋劣卑屈なおべっか者の真似をしてみせながら、それと同時に、これは思惑があってするのだと、明瞭に公言していた。で、彼の追従《ついしょう》が卑屈になればなるほど、その中につつまれた冷笑はいよいよ露骨に、毒々しく顔を覗けるのであった。それは、もうどうにもならない彼の性癖なのである。彼は自分の子供たちをモスクワとペテルブルグで一流の学校に入れることができたが、それというのもナスチェンカが事理明白に、これは自分の財産でしてあげるのだからといって、やっと納得させたからである。というのはタチヤーナ・イヴァーノヴナからもらった三万ルーブリという金があったお蔭である。この三万ルーブリは本当のところをいうと、直接タチヤーナからもらったわけではなかった。叔父夫婦は、タチヤーナを落胆させたり、怒らせたりしまいと思って、もし思いがけない家政上の必要が生じたら、さっそく助力を乞うことにするからと約束して、やっとのことでなだめ賺したものであるが、事実そのとおりに実行した。別々な時機に二度ばかり、ほんの体裁ばかりではあったけれど、かなり大きな金額を彼女から借金したのである。けれどタチヤーナ・イヴァーノヴナが三年前に死んだ時、ナスチャは結局、三万ルーブリを受け取った。薄命なタチヤーナの死は、きわめて突然に訪れたのである。あるとき家内じゅうで、隣村の地主の舞踏会へ行くことになった。彼女が夜会服を身につけて、白薔薇で編んだ目のさめるような花環を頭にのせるが早いか、とつぜん気分が悪くなって、肘掛けいすに腰をおろしたかと思うと、それきり息を引きとってしまった。この花環を頭につけたまま、彼女は懇ろに埋葬された。ナスチャは絶望のあまり、気も狂わんばかりであった。家じゅうの者はタチヤーナ・イヴァーノヴナを大事にして、まるで子供の世話でもするように、いたわっていたのである。彼女は分別の深い遺言をして、一同を驚かした。ナスチェンカに贈った三万ルーブリを除けて、三十万紙幣ルーブリに近い財産の全部を、不幸なみなし児の娘の教育と、学校卒業後の扶助金配与の事業にあてたのである。彼女の死んだ年に、ペレペリーツィナ嬢も結婚した。将軍夫人の死後、彼女はタチヤーナの懐ろに食い入ろうと思って、叔父の家に引続き暮らしていたが、その頃ミーシノ、――例のタチヤーナ奪回事件でオブノースキン親子と一場の活劇を演じた小村の、地主になった官吏あがりの男が、細君に死なれて男やもめになった。この官吏は大変な三百代言型の男で、先妻との間に六人の子供を持っていた。ペレペリーツィナが小金を持っていると睨んだので、彼は人を介して結婚を申しこんだ。こちらはさっそく、二つ返事で承知してしまった。ところが、ペレペリーツィナはまったく裸の花嫁で、持っている物といったら、けにも晴れにも三百ルーブリの銀貨ばかり、それもナスチェンカから婚礼のお祝いにもらったのである。今この夫婦は朝から晩までいがみ合って、ペレペリーツィナは子供たちの髪の毛をひっぱったり、拳固の雨を浴びせたりしている。亭主に向かっては(少なくとも世間ではそういっている)顔を爪で引っ掻きながら、しょっちゅう中佐の娘をかさにきて、いためつけている。ミジンチコフもやはり身のきまりをつけた。彼はさすが分別のある男だけに、タチヤーナ目あての魂胆をさらりと捨ててしまって、ぼつぼつと農村経営の勉強を始めた。叔父はある裕福な伯爵に彼を紹介した。これはスチェパンチコヴォ村から八十露里離れたところに三千人から農奴をかかえている地主で、自分の領地へはほんの時々やって来るばかりだった。ミジンチコフに才能があるらしいのを認めた上、叔父の紹介にも敬意を表して、伯爵は彼に領地支配人の位置を与えた。この位置は以前、一人のドイツ人が占めていたのだが、ドイツ人の正直という定評があるにもかかわらず、まるで菩提樹の皮でも剥ぐように、伯爵の身代をこっそり剥いでいた。で、伯爵はこの男を追い出すことにしたのである。五年後には、この領地が見違えるばかりになった。百姓たちは裕福になるし、以前は夢想することもできなかったような副業がいろいろ殖えていって、収入はほとんど倍近くなった、――ひと口にいえば、新支配人はその経営の才でたちまち頭角を現わし、県一円に名を轟かしたのである。しかし、伯爵の驚愕と失望はどんなだったろう、――かっきり五年たった時、ミジンチコフはどんなに頼まれても、増俸を約束されても、断固として勤続を辞退し、さっさと辞職してしまったのである! 伯爵は近在の地主か、ことによったら他県の地主に、引き抜かれたのだと思っていたが、ミジンチコフの辞職から二か月ばかりたった時、彼自身が農奴百人ばかりの立派な村の持主になりすましたのを見て、人々は開いた口がふさがらなかった! それは、伯爵の領地からちょうど四十露里のところにあって、破産した昔馴染みの軽騎兵から買い取ったのである。この百人の農奴を、彼はすぐ抵当に入れて、一年もたった時には、更に近在で六十人の農奴をかかえる身分となった。今では彼もれっきとした地主で、その経営ぶりは類と真似手がない。彼がどうして急にまとまった金を手に入れたのかと、みんな不思議がっている。中には、うさんくさそうに、首ばかり捻っている者もある。しかし、ミジンチコフは落ちつきすましたもので、いっこうに疚しそうな様子もない。彼はモスクワから妹を呼び寄せた。それは、彼がスチェパンチコヴォヘ向けて立つ時に、靴代としてなけなしの三ルーブリを兄にやったきわめて可憐な娘である。もうごく若いというわけにはいかないが、おとなしくて、愛情がこまやかで、相当に教育もあった。ただ恐ろしく臆病になりきっていた。彼女は、自分の恩人にあたる婦人の話し相手を勤めて、始終モスクワのどこかで、浮き草のような生活をしていたのである。今では兄を神のように敬って、その家政を切り盛りしていき、兄の意志を動かすべからざる法則のように遵奉しながら、自分ではすっかり幸福になったと信じている。兄は彼女に甘い顔を見せないで、多少虐待している形だが、当人はそんなことに気がつかないでいる。スチェパンチコヴォ村の人はすっかり彼女が好きになって、バフチェエフなどは、だいぶ思し召しがあるという噂である。彼は結婚の申込みもしかねないのだが、ただ断わりを食うのが怖しさに控えている。もっとも、バフチェエフ氏についてはまた別の機会に、別の物語の中でもっと詳しく話したいと思っている。
 さて、これでみんな一わたりすんだらしい……そうだ! 忘れていた。ガヴリーラはすっかり老いこんで、ケランス[#「ケランス」はママ]語の会話は綺麗に忘れてしまった。ファラレイは立派な一人前の馭者になった。ヴィドプリャーソフはかわいそうに、とっくのむかし瘋癲病院に入って、そこで死んでしまったらしい……近日スチェパンチコヴォ村へ出向くから、必ず叔父にこの男のことをきいてみるつもりだ。



底本:「ドストエーフスキー全集 2」河出書房新社
   1970(昭和45)年8月25日初版
入力:いとうおちゃ
校正:
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