したとき、すこしして、「どこが手抜きだったのでしょうか、教えていただけませんか」という返事がきた。
そのときは少しではなく、かなりショックで混乱して、それに対して返信はしなかった。運動上の先輩でもあったし……。
反差別運動が反差別だけやるべきとも思っているのだろうか、それは狭いものの見方と思う。しかし一方、おそらくテレビや新聞で取材不足などのだったら、すぐ気がついただろう。反差別運動でそういう例というと、ぱっと思い出すのは「吉田清治報道」あたりだろうか。
なんでこういうことが起きるか、「SNS(そしてインターネット文化)は、なめられてもしょうがないよね」とほぼ全員が思い込んでいることだ。明らかな誤りや捏造はアウトだが、それ以外はかなりゆるい。それこそ、政治的思想は関係ない。
根拠をしめそう。たぶんあなたは、学歴なんか気にするな、といわれたことはあるが、「いいね」の数なんか気にしちゃだめだ、と正面から言われた事は無い。それは、本当におそろしいことだと思う。原子力だから特別、というのと、かなり近い問題を感じる。
おれたちはTwitterでなにがしたかったのか? | Books&Apps
おれがTwitterを見るようになってすぐのころ、相互フォローしている数少ない人がこんなことをつぶやいた。
あるアニメの初回放送のときだった。「自分は数十人しかフォローしていないが、一度に数人がこのアニメに反応した。これがTwitterか」。
そのアニメについてつぶやいて、そういうコメントを見たおれは、「これがTwitterなのだな」と思った。
おれのTwitter観にはそれが根底にある。そういう、ゆるい繋がりのようなもの。
(略)
Twitterの記入欄には「いまどうしている?」というプレースホルダーがある。あくまで「いまどうしている?」というつぶやきが本来なのだ。すごくおとなしいSNSといえるかもしれない。本来は。
この人は、すさんだ生活をしている反面、筋の通った事をいうことを信念としている求道的な一面があるひとだが、そういう人でも、「そういうもの(ツイッターでのやり取り)は、それだけのものでしかないが……」とつとめて客観的に見る視点を捨てている。
わたしは、これが違和感の正体か、と思った。妙な緊張感のなさ。