『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「「朝鮮と日本のあるべき関係」を求めて : 梶村秀樹による물레 (ムルレ) の会および指紋押捺拒否運動への活動従事を手がかりに」(大槻和也)の紹介

「朝鮮と日本のあるべき関係」を求めて : 梶村秀樹による물레 (ムルレ) の会および指紋押捺拒否運動への活動従事を手がかりに | CiNii Research

本稿は梶村秀樹による「물레(ムルレ)の会」「指紋押捺制度撤廃を求める調布市民の会」「指紋押捺拒否予定者会議」および「神奈川指紋拒否者相談センター」での活動を手がかりに、梶村の指紋押捺拒否運動への積極的活動の足跡と意味を当時の運動資料をもとに明らかにした。朝鮮と日本とのあるべき関係を目標とした彼の活動のあり方は既存の知識人像に省察を迫るものであり、また指紋押捺拒否者に徹底して寄り添う運動を仲間とともに作っていったものであることを明らかにした。

特集 植民地主義の歴史と現在

(略)大槻和也(2017)9)は梶村の在日朝鮮人史研究と彼が参加した社会運動とがいかに影響しあっているのかという観点から,梶村が 1985 年に提起した「国境をまたぐ生活圏」概念の起点として金嬉老裁判における梶村の思索と執筆活動を位置づけている。しかし梶村が指紋押捺拒否運動にいかに関わったのかについては,まだ本格的な研究が手つかずの状態である。梶村が 1980年代以降,最も積極的かつ献身的に活動したのがまさに指紋押捺拒否運動である。生涯,社会運動に積極的に関わり続けた知識人としての梶村秀樹のあり方について考察する際には,指紋押捺拒否運動への活動従事の経験は避けて通れない研究課題となる。
(略)

終わりに

 本稿では,梶村秀樹による指紋押捺拒否運動への活動に関する一断面を提示した。仲間とともに梶村は,地域に根ざした下からの運動体である号司の会を作り主導的に活動した。号司の会での活動,それに密接にリンクした調布市民の会における指紋押捺拒否運動への参加からは,生活者としての在日朝鮮人一人一人に寄り添うという梶村の活動姿勢を読み取ることができる。裏方業務も積極的かつ能動的にこなす梶村の姿からはサイードのいう知識人としてのあり方をみることができる。また外堀としての間接的な影響圈構築,内堀にあたる具体的な法制度の変革,そして本丸にあたる究極的目標として「朝鮮と日本のあるべき関係」の構築という運動戦略をもちつつ梶村が活動していたことも明らかにした。さらに指紋押捺拒否予定者会議での「日本人への呼びかけ」からは,過去の運動の歴史から得られた日本人による連帯の不在という教訓を現在の運動によって克服していこうとする梶村の問題意識を浮き彫りにした。加えて相談センターでの「労力を要する地味な作業」である要望書や意見書の執筆や要請行動,そこでの活動で得られた〈実践知〉を他地域の様々な媒体で共有することで在日朝鮮人との信頼関係を構築していく梶村の活動家・知識人としてのあり方は,参照点とすべきものである。
 梶村秀樹の学術的業績は現時点で参照できるものではなく,参照できるものがあるとしたらそれは彼の「現場感覚」のみである,という日本人研究者の評価を耳にしたことがある。現場感覚やそれにもとづく〈実践知〉を内在化できない「知識人」に,梶村が求めたような真理を探究できるのかと問い返したい。本論で言及した〈実践知〉の重要性を看過するとすれば,知識人の役割を自ら致命的に狭めることになる。
 これとは対照的な文章がある。法政大学の韓国文化研究会と朝鮮文化研究会,新宿の外国人登録法問題を考える連絡会の連名で市ヶ谷キャンパスに掲げられた,梶村の死を悼む立て看板である。

氏は,抑圧民族と被抑圧民族との立場にある,日本人と朝鮮人にとって乗り越えられないといわれた壁を,その卓越した知識と,我々を理解しようと努力された真摯で謙虚な姿勢によって,見事に打ち砕いてしまった。それ故に日本人としての氏の存在は,我々にとっては革命的でさえあった。我々は,梶村氏によって日本人を信じることができたのだ。103)

 南北それぞれの立場から民族差別撤廃と統一を目指す在日朝鮮人学生団体に「革命的」であり「梶村氏によって日本人を信じることができたのだ」と言わしめた梶村の「知識」と「真摯で謙虚な姿勢」,そしてその表現としての活動目録は,差別と分断を克服しうるよすがとなる。日本人によって幾度でも振り返られるべきであろう。

比喩的に「外登法違反は日本人だってできる」と説いている。

簡単なコメント
表現の自由」という権利自体、文化といったほうがいいとは思うが、そこには「真摯で謙虚な姿勢」の擁護は一切ふくまれない。運用者による、としかいえない。もちろん、「真摯で謙虚な姿勢」を実行しない人間は、はっきりいって卑しい。