『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

「ツキ」と「ガチャ」をイコールだとして語る、そのすさんだかんがえかたについて(メモ)

毒親」と「親ガチャ」という言葉の同じであることとちがっていること。
わたしは、「親」が問題なのではなく、「ガチャ」という言葉を「ツキ」とイコールだとして語るその点が問題だと思う。わたしはこの問題を考えると、そういうイコールで考えるしかたを「ふざけるな!」と叫びたくなる怒りに似たものがある。

わたしの考えている例をひいて考えている。「出版ガチャ」、つまり、出版したあと、すぐに忘れられるか、途中で「思い出」されて30年、70年、100年と読まれるということはどういうことか。それは、本の「ツキ」のあるなしだといえる。
20世紀では、重要な例が2人いる。フランツ・カフカウィリアム・フォークナー
カフカの場合、カフカ没後のマックス・ブロートの尽力があったことも大きいが、個々の作品自体の「力」自体が発言力のある作家たちを、いわば「ひきよせた」といっていい。わたしは文学の歴史について3冊ぐらいしか読んでいないが、ある作家Aに対して、発言力のある作家Bが、推薦をすっとばして、作品を翻訳してくれる、という例は、カフカ以外はエドガー・ポーぐらいだろうか。カフカ作品がちょっと見ると「ふつうの(リアリズム)小説」のように見えることや、小品・短編・中編・長編3作という残された作品の束のある種のバランスの良さも、多くの読者に。げんに、わたしは『変身』『断食芸人』あたりから読みはじめてカフカの価値がわかるようになった。
ここで、「作品の力」を「カフカの才能」とイコールだとして語らないでほしい。いや、「才能」は「才能」なのだろうし、「努力」や「苦労」だけで「作品の力」が語れるわけでもないが。

フォークナーの場合、まずあの読みにくさは1930年~1950年でも、読みたいという読者は少なかっただろう。マルカム・カウリーの尽力は非常に重要だ。

なんどもいうが、「作品の力」イコール「作者の才能」、とくに「生まれもっての才能」などというのは、ある種のせまい人間観で語っている。せめて「エネルギー」いう単語といっしょにいってほしい。ひとをひきよせるのは、整理された「才能」だけではない



現在、フランツ・カフカの作品の主だったものは日本語訳され(42歳で亡くなった原田義人氏による翻訳)、青空文庫で通読できる。このこと一つとっても、カフカの作品がさまざまな人を強くひきよせる作品だということは明らかである。
(メモ放棄するかも)