『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

インターネットとツイッターのある社会の中をどう生きるか(草稿その3)

これは何度でもいうが、インターネット文化が約30年間の間に、田中一村なみの再評価ができなかったことは、非常に悪いことだった。

だいたい1970年ごろから再評価された作家には、佐藤泰志金子文子藤澤清造、山下菊栄、尾崎翠永山則夫島尾敏雄柳宗悦、鶴彬、小林多喜二高木仁三郎網野善彦岡本太郎マルクスサルトル、「アジア主義者」(このカテゴリは要注意人物)、そして梶村秀樹先生などがいる(異論はあると思われるが、いちおうおいておく)。いろいろしらべたのだが、どうもインターネット文化より、出版文化、マスコミ文化の関係者のほうがはるかに再評価に役に立った。いちおう、大学関係者は出版文化側にいれたうえでの話である。
要するに、インターネット文化はうすっぺらだと思われても平気、なのである。実態としてうすっぺら、ではない。(外部から)うすっぺらだと思われても平気、である。こっちのほうが悪い。
たとえば、ユーチューバーやマインクラフトでの作品群をみて、インターネット文化に資金や活力それ自体が無いと考えることはほぼできないだろう。活力の分敗の仕方がおかしい。
わたしなどは、マインクラフトの作品を見て、シュヴァルの理想宮を思い出すのだが……。
まあとにかく、たとえばインターネット文化に属していて、自分はマルコム・カウリー(作家兼編集者、ウィリアム・フォークナーの再発見者)やヴィルヘルム・ウーデ(画商、アンリ・ルソーほか素朴派の発見者)なみになるんだ、という人を探すことはかなり難しい。いるのかもしれないが、そういう人をちゃんと支援しようという動きはインターネット上で検索してもほとんど見えないようになっている。国家と資本による単純な抑圧や誘導、というだけで説明がつかない。
マスコミ文化とインターネット文化は、両方に属することは可能だという実態から考えても、インターネット文化におけるコミュニケーションが長い間無償部門に属していた、あるいは属するべきだと考えていた、つまりインターネット文化は自由のために原則金を払わなくてもすむようにしないといけないと考えていた(これは私の理想化あるいはかんちがいだとも判断しているが)ということを考えても、かなりおかしい。

再評価という現象自体を再評価しないといけない。物質に基礎をおかないといけない文化が長く範囲が広かったことを考えても、絶対におかしい。



これはゴシップ的な話なのだが、上野千鶴子氏が特に近年おかしい、という話のなかで、だれだったか名前は忘れたが、ある女性運動家にわたしが「鈴木裕子先生(金子文子山川菊栄の再評価に絶大な功績のあった歴史家)をちゃんと評価しないといけませんね」といったのだが、ぱっと筋のいい返事がかえってこないで、わたしのほうが少なからず困惑したことがあった。雑談めいた話だったのでそれ以上話はすすまなかったのだが。その人はたしかフットワークが軽い人だったとわたしは判断したし、再評価には金や支援者が必要だうんぬんの話は一切でなかった。とにかく、再評価という活動自体に主観的にはともかく客観的にはあとまわしにしている印象だった。
以上、すべて私のメモのようなもので、厳密な分析というわけではない。もちろん批判がある人は多いと思う。ただし、これは言っておく。私は「私自身が語ること」と「私よりすごい人に語らせる」のと、どっちをとるかといわれたら、「私よりすごい人に語らせる」ことが正しい、これは当然の感覚だと思っている。これは当然のことのはずなのだが、たとえば、いまのSNS批判における「承認欲求分析」などをみると、そうでない人が多いらしいことに非常におどろいている。


メモ
電子書籍業界に、三島由紀夫の版権取得をしようという独自のうごきがないと推測されるのだが、このことは意外と重要だと思われる。別に、三島由紀夫が広く読まれるべきだ、という話ではなく、電子書籍業界に独自の版権交渉をしようという動きがない、というのが不思議であり不気味でもある、ということだ。電子書籍の流通業者は、出版社に資本関係がにぎられているわけではないはず。

メモ
「こころ」「人間失格」「銀河鉄道の夜」「ドグラ・マグラ」「蟹工船」「吾輩は猫である」「坊っちゃん」「草枕」「学問のすすめ」「」「斜陽」「方丈記」「夢十夜」「土佐日記」「河童」は、青空文庫では、2009年から2022年の間、毎年約1万から30万の閲覧回数。出版社側(とくに新潮社)が、そのことについて触れたコメントをだしたことはない。私が調べた限り。
だいたい、出版上の平均値として、一刷500部から10000部、平均3000部だときいたことがある。マンガだったかな、この数字は。
ドラえもん」第1巻(てんとう虫コミックス)が2020年3月に約1.1万部、これが2001年以降、単月で最大の売り上げ。小説ならば、もう少し少ない数字だと推測していいだろう。

50周年を迎えた『ドラえもん』1年間の発行部数が500万部突破 「100年ドラえもん」の最終受注数は1万超に | ほんのひきだし

その結果、2019年12月~2020年11月の1年間におけるてんとう虫コミックスドラえもん』シリーズの発行部数が141万部超に。関連本まであわせると、合計発行部数が500万部を突破していることが明らかになりました(紙のみ/電子版は含まない)。

これを牽引したのは、やはり『ドラえもん』第0巻。「幻の第1話が全部で6種類存在する」という事実のインパクトもあいまって話題を呼び、2度の発売前重版を経て発売。1年間で累計63.1万部(紙のみ)を売り上げました。3月からの全国一斉休校の影響もあり児童向け書籍・漫画の売上が伸びたなか、既刊(第1巻~第45巻)もたびたび重版され、特に第1巻は2020年3月に、“21世紀最大の単月実売数”となる1.1万部超を記録しています。


公共展示物、という問題。
芸術作品を公共展示してはいけない、などと理論はすくなくとも印象派以後、なかった。工業デザインならば、なおさらそうだ。
サブカルチャーで、性的表現を公共展示物にすべきでない、という意見についての対立があった。その問題自体重要だが、いったんおいておく。
公共展示物に適する文化、と消費文化は意外と相性がわるい。消費文化は基本的に、本当に買いたくない奴は買わなくて結構、というもの。たとえば、ディエゴ・リベやラシケイロスのような作品が「消費文化」の中ではつくりにくいだろうし、受容されにくいだろう。
このシケイロスという人、岡本太郎氏と交友があった。

被爆60周年 明日の神話 岡本太郎のヒロシマ 第1部 壁画の誕生 <3> ムラリスモ | 中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター



メモ
オバケのQ太郎内田百間(百けん)、兼子歩氏のアメリカにおけるリンチについての論文