『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

『シュン@ひろしまタイムライン』の検証――1945年7月19日-1945年7月31日および1945年8月6日-1945年8月7日との比較(追記予定)

1945年7月19日-1945年7月31日の期間の日記は教官の検閲をうけている。しかし、ツイッターの文章にはこのことがまったく書かれていない。これは、ツイッターの読者への重大な説明不足である。
もう一つ、『はだしのゲン』第1巻(ゲンの兄、中岡昭の疎開の部分)とよみくらべると、食料事情が良すぎるようにおもえる。1945年7月下旬の時点で、食料に困った様子がほとんどない、というのは、正直疑わしい。ここで教官の検閲が入ったのではないか? この点こそ読者の誤解を招く。それと、これは高度な問題だが、『神聖喜劇』(大西巨人)に、ある兵士が「大根の葉が食事に出た」という手紙を書いて上官から攻めれらる場面がある(この点は記憶で書いているが、大きな間違いではないはず)。ツイートの執筆者と監督者はそういう可能性も考えたのか? 「ゆるふわ」という批判は、7月25日前後の記述にもすべきである。

1945年8月6日-1945年8月7日のこのツイートは問題である。

「キサマたち、廣島には入れぬ。帰るんだ、わかったか!」
憲兵はいくら説明しても全く聞く耳を持たない
「こんな時に中学生が何をウロウロしている。どこの学校だ!」
くそっ!子供だと思っているんだろう!

憲兵の前で、隠しもせずにツイートをかきこんでいることになる。ありえないことだ。考証不足、想像力不足である。


記録をつくって、そこから文章を考えるということについて、基本ができていない。
参考になったインタビューを見ないと判断できないことが多いということもあるが、あまりに基本ができていないので、情けなくなった。戦争証言アーカイブは、いろいろ不足している部分はあるにせよ、しっかりした仕事だった。それなのに……。
 
 
 
以下、引用。証拠保存、ともいう。
 
「もし75年前にSNSがあったら?」1945年、広島の中学1年生だった新井俊一郎さんの日記原文(1945年7月11~24日) | 被爆75年ブログ|NHKブログ

7月19日(木) 晴のち雨
 いよいよ明日、朝九時半、出発に決まる。ああ待つこと久し、といふやうな気持ちが皆の胸の中にも通ってゐるであらう。校舎付近の燃えさうな物品を校庭にて燃やせり。ものすごき勢いにて燃ゆるため、四年生が窓から首を覗かせたやうなありさまである。学校からの持参品を荷作せり。
 学校の図書を各人で持って行くこととなった。それは我々に読ませるためと疎開との両方を兼ねて持参した。小谷先生が、駅に明日の打ち合はせをしに行かれたのに仲々帰へられぬため、三時頃まで待機せり。
 本日、荷物を持って行くやうに等と言はれた(帰へられてから)ので、大急ぎで駅に持参した。外、方々に本の貸借のキリをつけた。父の帰宅後、雨が降り始めた時に又、警報が発令さる。明日を待て。

【注記:「学用ノート統制株式会社」の「文運堂製四十枚、定価貳拾六銭」のノートを利用した日記帳は、この日が最終ページ。以降は1930年版の「ライオン当用日記」を使用している。これは家屋疎開転居に際し正木義虎君から贈られたもの。7月20~21日の二日間は、原村への大移動・混乱と多忙のためか、日記の記載なし。一年北組と南組は賀茂郡原村の教順寺、東組は真光神社で合宿生活に入る。寺の庫裏には北組の三木温美・南組の田中清三郎両教官が、神社には小谷等教官が宿泊。俊一郎は古いトランクとリュックに生活用品と煎豆を詰め、本堂横外の廊下を占拠した。】

7月22日(日) 晴 「日曜のため休日」「炭本」 負傷、警報三度発令
 日曜日のため今日は一日休日と決定す。我は今週の金曜まで教官室当番なり。今朝は教官室へ行きし時、未だ三木教官は寝て居られた。食事多量のため満腹す。科一に聞かせたら、さぞ羨ましがるであらうと思った。
 本日は休日のため、のらりくらりと遊ぶ、といふ表現につきるであろう。暇で退屈のため、家より持参せる大小二個のハーモニカを吹けり。警報三度、発令さる。広島に来たりしか心配なり。炭本が眉の上方に負傷す。出血あり。
 (反省)我々の農村出動は、農村の人々に好影響を与へたりしや。その点、はなはだ疑問である。我の見聞せし所によると、農民の人達の感情は良好なりしや否や、はなはだ疑問なり。『6時起床、8時就寝』

【注記:反省日記として、日記帳の検閲がつづく】

 
「もし75年前にSNSがあったら?」1945年、広島の中学1年生だった新井俊一郎さんの日記原文(1945年7月25~31日) | 被爆75年ブログ|NHKブログ

(略)
7月31日(火) 晴 母へ手紙
 今日の出動には自分は出動せず、寺に残った。今朝は食事係の間違ひのため、我々残留組の食事は少し遅れた。母へ手紙を今日、出した。
 昨日は多くの父兄が来られ、今日帰へられた。約三人位であった。退屈なので図書を読んで遊んでゐた。昼食はオカユ。午後お寺の田の除草を機械でやった。半日作業なり。教官に呼ばれたので行くと、自分に「教官室当番をよくやってくれた」とお誉めの言葉と、トマトを御馳走になった。実にうれしく思ふ。
 今晩、怪談があった。これによって、胆の太いといふことは実に大切であるといふ事がわかった。寝。

《七月の感想》
 本月は、我々に取って最も大切な行事が起こった月であって、真に感の深い月である。まずやはり、農村出動といふことである。我々一年生に取っては、最初の出動であるため、一時は驚いてあわてたが、しかし平静にもどり、国民学校五年生の弟の疎開の経験によって、さっそく支度が出来たが、我々はなにせ最初であるため一時はあわてた。
 しかしいざ来てみると、農村の人々は、とてもやさしく我々にあたってくれ、お寺さんなどは風呂までたいてくれた。我々のやうな年の若い、力の少ない少年にまでとても信頼してくれた。本当に我等は、この農村の人々のご親切に対しても、一心にわきめもふらず増産に敢闘しなければならないと我々は固く決心したのである。感想、終、
  【担任の、三木教官の検閲印】

 
「もし75年前にSNSがあったら?」1945年、広島の中学1年生だった新井俊一郎さんの日記原文(1945年8月1~7日) | 被爆75年ブログ|NHKブログ

(略)
8月6日(月) 晴 帰省「廣島大空襲、全滅」 起床五時半、就床九時
 今朝、我々五名の第一回帰省者は、八時三十八分の下り列車にて帰省す。八本松駅にて廣島方面にて物凄き煙の立ち上るを見、ショックを感ずる。乗車、ただ瀬野駅にて直ちに途中下車。そこより、徒歩にて廣島に向ふ。海田市が爆撃されつつあり、と駅員さんは話してゐた。しかし、いざ廣島に着くと、これは廣島がやられたのであった。
 まだ市中はエンエンと燃えてゐた。顔や手足に大ヤケドをした人々がたくさん通る。我の家では、父母が少し負傷しただけで、その外、家が破損しただけで無事であった。實に大騒ぎであった。

8月7日(火) 晴 「新久死去」行方不明者多数 起床六時、就床九時半
 今日もまだ町では、火がエンエンと天を焦がしてゐる。笠間君が大変な情報を持って来た。これは、新久が大火傷をして帰へって来たが、遂に昨晩十一時頃、戦災死してしまったさうである。實に我は驚いた。
 大急ぎで新久の宅へ行ってみた。やはり真実であった。よその小母さんが花を持って来てゐた。負けず嫌いの新久は、全身大火傷をしても、やっと家までたどりついて、そして遂に夜十一時半頃に死亡したさうである。山崎も三保も行方不明。大変なことである。
 学校に行って見た。途中、馬の焼死体と人間の死体一体を見た。気持ち悪し。比治山橋から向かふは、全部、焼け野原になり、さかんにくすぶってゐる。附中は全焼なり。大学は無事。町の焼け跡に四年生がゐられた。

 
 
 
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s3731127306973.hatenablog.com
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