『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

『シュン@ひろしまタイムライン』の1945年5月30日ー1945年6月19日のツイート(作業いったん終わり)

75年前の日記の原文(広島の中学1年生 新井俊一郎さん)。ご本人の生の言葉です。1945年5月30日~6月5日 | 被爆75年ブログ|NHKブログ
75年前の日記の原文(広島の中学1年生 新井俊一郎さん)。ご本人の生の言葉です。1945年6月6~12日 | 被爆75年ブログ|NHKブログ
終戦の年の日記。1945年、広島で中学1年生だった新井俊一郎さんの日記原文です。1945年6月13~19日 | 被爆75年ブログ|NHKブログ

【1945年5月30日】

十日間の農園作業が終わり、今日は久々の授業だったので気が緩んだ。確かに、一日中炎天下の中での作業は、とてもくたびれる。

【1945年5月30日】

いや、だめだ。恩師の早瀬先生がおっしゃっていた「そのようなことで戦争に勝てるか」という言葉を思い出す。そうだ、これくらいの作業でへこたれていては日本を背負っていくことは出来ないのだ。そうだ、反省だ。

【1945年5月31日】

遂に本日一日は学業を休んだ。
実に今日というほど自分が情けない日はなかった。いくら農園作業はくたびれるといっても、たったあれだけの作業で倒れるとは!情けない。本当に情けない。「そのようなことで戦争に勝てるか。」まったくだ。

【1945年5月31日】

またも敵機B29がやって来た。「今日こそやられるかもしれない」という恐怖が体中を駆け巡り、防空壕へ隠れようと走る方向を変えたその時だった。

【1945年5月31日】

なんと爆弾ではなく大量のビラが降ってきたのだ。紙片が光を反射して空いっぱいに飛び散る様子は、空に銀色の粉を振りまいたようで、とても美しかった。

【1945年5月31日】

なんと爆弾ではなく大量のビラが降ってきたのだ。紙片が光を反射して空いっぱいに飛び散る様子は、空に銀色の粉を振りまいたようで、とても美しかった。

【1945年5月31日】

米兵め、日本の特攻精神、大和魂を考えてみろ。そのくらいのごまかしで動揺するような日本人ではないのだ。いやいや、英米にとってはいくら考えてもわからないものだろうな。

【1945年6月1日】

帰宅した。と、思いきや警戒警報解除。
敵に振り回された。やれやれ…。
よし。登校だ!

【1945年6月2日】

二限の書道が国文に変更。三限の歴史は秦の国と、前漢の歴史。前漢の発展した有様が、ありありと眼前に浮かぶ。六限に大掃除をして帰宅。

【1945年6月3日】

歴史の授業時間が余ったので話し方の練習をする。
柳ヶ坪君が作った文を彼が読む。「亡き父よ、亡き母よ、永遠にわれを守り給へ」
彼は想像して泣いていた。

【1945年6月3日】

彼の語る様を見てみな泣いた。もし我の父母が亡くなってみよ。思うだけで胸が締め付けられる。
涙が引くと、拳を握っていた事に気付いた。少し痛かった。

【1945年6月4日】

いよいよテストまで一週間。
作業動員で期末考査がないかもしれない。
だとしたら中間考査で頑張るしかない。
そして、父母や先生の顔に泥を塗らぬためにも勉強に集中だ!

【1945年6月5日】

数学IIと物象の計算問題を勉強する。
難しい計算は先にやるのが鉄則である。
物象の暗記の方はまた明日にする。

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【1945年6月6日】

数学IIの見直しと生物をやった。
昨日の物象の暗記がまた出来ずに終わる。
なんとしてでも明日には覚える。

【1945年6月7日】

昼飯を前にして2機の爆撃機が来た。
次は僕たちが殺される番だと思い必死に逃げた。
気づけば通り過ぎ去っていた。

【1945年6月7日】

数学Iと国漢を勉強した。
ずれにずれた物象の暗記は
無事終了した。
一安心である。

【1945年6月8日】

数学Iの見直しと地歴を勉強した。
早く終わったので漢文の復習を行う。

【1945年6月9日】

大掃除が終わった。と思ったら今度は服装検査がある。
服装検査では学校の決まりに外れた者は列の前に出され、もしもひとつでも制服のボタンが外れていたらビンタをくらう。

【1945年6月9日】

服装検査に引っ掛からなかった!やった!皆の前に出されなくて済んだ。
服装検査終了後、作業の特配あり!
『米』だ!
配給には長い時間がかかった。その後に紙や鉛筆の配給もあった!
さぁ家に帰るぞ、17時過ぎてるぞ。

【1945年6月10日】

今日は休校日だから、明日に迫った試験のためにも全力を尽くそう。
父母や北組のために。
自分の力の及ぶ限り、うんと勉強をして良き成果を挙げなければならない。
我々が附中に入学して初めての考査である。

【1945年6月10日】

北組の皆、落第点などは取らんと言って頑張っている。
うんと頑張ろう。

国民学校の時の友達持田君が家に来る。

【1945年6月11日】

今日はいつもより十数分早く家を出る。
遂に試験の日になった。動員になったとき、この中間考査の成績が1学期の点になるそうである。

【1945年6月11日】

1時間目の地歴はフン族征伐、ヨーロッパ中心地への移動などが出題された。

【1945年6月11日】

2時間目は数学I、少し難しかった。特に第3問目が難しかった。75点ぐらいか。

【1945年6月11日】

3時間目の生物はナズナの数と松の花の相違、トウゴマとトウモロコシの研究などが出題された。
3時間で下校。さぁ、明日も頑張ろう!

【1945年6月12日】

本日は中間考査の最終日。
成績を皆の前で発表されるそうだ。
だから大いに張り切って試験に取り組む。
附属中学校に入学して最初の試験に不良点を取ることは不名誉だ。
父母や先生に合わす顔がない。

【1945年6月12日】

僕は自分の力の限り、精一杯に戦ったつもりだ。
どんな点を取ったとしてもそれが今の学力だ。
もしも悪い点を取ったら、今よりもっともっと頑張って取り返さなければならない。

【1945年6月12日】

試験終了後、明日の吉島飛行場への動員のことについて教官から説明を受ける。
5月14日の牛田への動員の配給で増配があった。米に紙と鉛筆だ!
とてもありがたい。
明日のためにしっかり休もう。

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【1945年6月13日】

本日より指折り数えて楽しみにしていた吉島飛行場での動員であるのに、雨が降り始めた。
ちくしょう、どうか止んでほしいものだ。
明日のためにしっかり休もう。

【1945年6月13日】

晴れた!いざ、クワを担いで吉島の飛行場へ向かうのだ!
飛行場では何の作業を行うのかな。
クワを持ち寄るところを見ると、滑走路でも作るのだろうか。

【1945年6月13日】

もうすぐ吉島飛行場へつきそうだ。
作業はなんと、甘藷畑造りであるらしい。南大橋からここまで、歌を歌いながら行進してきたがあっという間であった。
学徒動員の歌の「君は鍬とれ吾は槌」という歌詞が我々を鼓舞しているかのように感じる。

【1945年6月13日】

飛行場に練習機の赤とんぼというやつがとめてあったので、級友と順番に、教官に悟られぬよう注意してよじ登った。
僕は飛行機の操縦席というものを初めて見たのだが、電線や計器のようなものが複雑に入り組んでいて大変難しそうだ。

【1945年6月13日】

誰か操縦桿を動かした者があったらしく、尾翼がガタッと動いたので教官が鬼の形相で飛んできた。
捕まったらえらいことだ。
なんとか逃げきれた。

【1945年6月13日】

なんとか今日の分の作業が終わったので、相撲を取ることになった。
野球においては敗北を喫した我らが北組だが、相撲では負けるまい。

【1945年6月13日】

敗北。無念。

【1945年6月13日】

作業のご褒美ということで菓子の配給があった。
少しばかり甘みがあるが、黒い粉を練った苦みの強いものである。
しかしこの時局では、こんなものでも口に入るだけ有り難い。
早速級友が土地の名をとって「江波ダンゴ」と名付けていた。

【1945年6月14日】

飛行場作業には我々皆希望に燃えており、そして前から楽しみにしていたので作業は大いにはかどっている。

【1945年6月14日】

本日は飛行場への行進が非常によかったと教官に批評を受けた。
学徒動員の歌で自らを鼓舞したためだろうか。
まるで我らのために書かれたかのような歌である。

【1945年6月14日】

せっかく順調に進んでいたのに、昼食を食べてすぐ教官に集められ、時局の悪化とのことで解散となった。
敵機の大襲来でもあったに違いない!
どうして奴らはいつも、僕達の務めを丁度邪魔しに訪れるのだろうか。

【1945年6月15日】

朝から雨が降り、空襲警報が出たので雨の中を学校まで行ったり来たりすることになった。
敵のB29が毎日決まったように来襲してくるのは、日本国民の敵機に対する警戒感を鈍化させようとしているに違いない。
くそっ、忌々しいことこの上ない。

【1945年6月15日】

しかしこう頻繁に警報が鳴るのでは、学校の勉強が遅れてしまうな。

【1945年6月16日】

本日は朝早くから広島駅に集合した。どこかに動員に行くようだが、行き先が告げられていないということは軍の機密作業なのだろうか。
気を引き締めて臨まねばなるまい。

【1945年6月16日】

着いた。けれどここがどこかは口外してはならないらしい。
既に大人たちが大きな穴を掘り進めている。
話す言葉によるとどうやら朝鮮人のようだ。

【1945年6月16日】

それにしても大きな穴だ。
軍需物資の貯蔵にでも使うのだろうか。
機密なので誰も何も言わない。

【1945年6月16日】

朝鮮人の奴らは「この戦争はすぐに終わるヨ」「日本は負けるヨ」と平気で言い放つ。
思わずかっとなり、怒りに任せて言い返そうとしたが、多勢に無勢。
しかも相手が朝鮮人では返す言葉が見つからない。奥歯を噛みしめた。

【1945年6月16日】

誰かが一米半もある大きな蛇を捕まえた。
朝鮮人との奪い合いの軍配はなんと僕達中学生に上がり、勇気のある一人が蒲焼にして配っていた。
気味が悪いので僕は食べられなかったが、そこかしこで旨いと声が上がった。

【1945年6月17日】

本日は日曜日だが、この情勢の中では日曜といっても遊んでいるわけにはいかない。
日曜は月に二,三度もあれば充分である。
というので本日は授業日である。
学校に向かう。

【1945年6月17日】

このように沖縄の戦局が悪化しているというのに勤労の合間に学べるのは実に有難いことである。
我々は、心より天皇陛下と勇敢なる陸海の勇士に感謝しつつ学習をしていこう。

【1945年6月18日】

皇族に生まれ、陸軍の長老であらせられた閑院元帥宮殿下が遂に永久の眠りにつかれた。
明治、大正、昭和の三代の陛下にお仕え申した偉大な方であったのに、皇国の勝利の日を待たずその御英霊はお鎮まりになってしまった。
なんという悲しいことか……

【1945年6月18日】

今日僕らは基町へ倉庫整理の勤労動員に赴いた。
国葬日に一心に働き、帰宅するときの気持ちと言ったらとても一言に表せるものではない。
国のために戦える喜びと国葬日の喪に服せない無念、相反する二つで板挟みになった心持ちである。

【1945年6月19日】

今朝の新聞に昨日の故関院元師宮殿下の国葬の様子が詳しく出ていた。
これを見るとまた悲しみに胸が一杯になるのだ。
また、沖縄の戦局は次第に困難になっている。

【1945年6月19日】

英語の試験。A、B、Cなどの書き取りや意味などをやっていると、その時にサイレン。警戒警報だ。
またやってきたのかヤンキーめ。
サイレンの音を聞くと、限りないほどの憤りを覚える。

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ツイートのもとになった新井俊一郎さん(1945年当時13歳)の日記原文(6/13~19)

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コメント、6月5日-6月8日の分のツイートは、【なし】のほうがよかったのではないか。演劇をきちんと学習したならば異化効果も知っているはずだ。正直、ずっこけてしまった。