『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

『シュン@ひろしまタイムライン』の1945年8月7日のツイート(作業いったん終わり)

「もし75年前にSNSがあったら?」1945年、広島の中学1年生だった新井俊一郎さんの日記原文(1945年8月1~7日) | 被爆75年ブログ|NHKブログ

【1945年8月7日】

ほとんど眠ることができなかった。
昨日の疲れもあり、パッとしない。
止水栓から水が溢れているから、あの水で体を覚まそう。

【1945年8月7日】

広島を地獄に変えたものは一体何なんだ。
近所の人の間で「石油が降った」「毒ガスがまかれた」などの噂が広がっている。


【1945年8月7日】

ん?気のせいだろうか?
すぐ近くのハス畑のハスの葉が同じ方向に変色して、ねじ曲がっている。
あれは街の中心部がある方だな。

【1945年8月7日】

近所がざわつく。
表札の文字だけが焼け抜けているのだ。
ハスの葉の変色といい、みんなが「何か変だ」と思い始めているようだ。

【1945年8月7日】

笠間君が息を切らして僕のところまでやってきた。
「一中の新久君がもうダメらしい」

嘘だ。
信じられない。
嘘だろう、笠間君

【1945年8月7日】

新久の家へ急ぐ。
彼は昨日の空襲で全身火傷を負ったものの、なんとか自宅まで辿り着いたそう。

【1945年8月7日】

ああ、そんな…
新久君

【1945年8月7日】

これが、これが新久君か?

【1945年8月7日】

「悔しい」が新久君の最後の言葉だったらしい。
負けず嫌いの彼らしい。
顔を包帯でグルグル巻の、あんな酷い火傷を負っても、ここまで歩いて帰ってきた。


【1945年8月7日】

部屋の隅に座って新久君の顔をみていると
「新井さん、この仇はきっと取って下さいね」
新久のお母さんが僕に言った
涙が込み上げた

よくも新久を。よくも大切な親友を。
必ず。仇は必ずきっと…

【1945年8月7日】

父と母の出血はやっと止まった。
しかし、父はガラスの破片が背中に。母は右目を強打し、顔半分が倍に腫れている。
ガラスも半身に受けている。

【1945年8月7日】

公文書。疎開先から預かった公文書を学校に届けなければ!
すっかり忘れていた。

【1945年8月7日】

学校に向かおうとゲートルを巻いていたところ、心配して引き止めようとする父母と一悶着あり。
僕はどうしてもこの公文書を届けなければならないのだ。

【1945年8月7日】

危なかったらすぐに引き返すと約束して、父に借りた鉄兜をしっかりと被る。
学校へ出発だ!


【1945年8月7日】

大河小学校から大きな煙
猛烈な匂い
遺体を火葬している

【1945年8月7日】

うちの家の周りと同じだ。
比治山の南側でも、葉の変色や、表札が焼け抜けているのが分かる。
これはパラパラと爆弾を落としたような被害ではなさそうだ。
もしかして、全市が一挙にやられたのか?

【1945年8月7日】

なんてことだ。昨日は必死だったから気付かなかったのだ。

ガレキだらけで道なんてものが無い。
慎重に歩かなければ、ケガをしてしまいそうだ。

街中が全て平地になっている。まだ煙もあちこちで出ている。


【1945年8月7日】

あれは似島安芸小富士か?
ここからあの三角の山が見えるなんて。
比治山橋の向こうは完全に焼け野原だ。

1945年8月7日】

馬が四本の脚を宙に向けて焼け死んでいる。
腹もパンパンに腫れている。気持ちが悪い。

比治山橋は無事に渡れた。
が、ここは昭和町だろうか。建物が無く、どこなのか見当がつかない。

【1945年8月7日】

あ!あれは!附国と文理科大の校舎だ!焼け残っている。
北門まで行こう!


【1945年8月7日】

うっ。
門の下に黒焦げの死体の手足が。
だめだ。見ないように走って通ろう。

【1945年8月7日】

無い。
ねじれた鉄柱と立木のみ。
附中の校舎が消えている!


【1945年8月7日】

中年の男性に肩をたたかれる。
僕の胸の名札を見て、ニコッと声をかけてくれた。
高師か文理科大の先生のようで、公文書を届けに来たというと、附中の先生は皆、文理科大の建物に避難していると教えていただく。
少し安心した

【1945年8月7日】

理科大もボロボロになっている。
先生はいらっしゃるだろうか。

【1945年8月7日】

理科大の玄関にはテントがかかっている。
みんながこちらを見るが、誰が誰だか分からない。
「教官はいらっしゃいませんか」と叫ぶと
「奥の部屋にいる」と頭の包帯から血をにじませた若い人が教えてくださる。

【1945年8月7日】

部屋に入り敬礼し、叫ぶ。

廣島高等師範学校附属中学校一年北組生徒、名列番号一〇二番、新井俊一郎、動員先の原村から連絡のために到着しました!附属中学校の先生はおられませんか!」

【1945年8月7日】

「えっ、原村からだって?」
一人の先生が立ち上がった。見覚えのない先生だ。


【1945年8月7日】

「みんな元気か?」
「来たのは君だけか?」
矢継ぎ早に質問されたので、昨日からのことをかいつまんで説明し、公文書もしっかりと渡した。

【1945年8月7日】

附中のことについて聞いた。
市内に残っていた一年生が大勢、南門付近でやられたらしい。いま一所懸命捜索中とのこと。
知っている先生方も亡くなられたそうだ。
くそうくそうくそうくそうっ

【1945年8月7日】

公文書を学校に届けるという任務を成し遂げられた。

しかし、新久も、先生方も、同級生も
僕はたくさんの人を失った