『梶村秀樹著作集』完全復刊をめざす会・第6支部[ハンバンパク!!!]

名は体をあらわす。伝説の歴史家・梶村秀樹先生(1935年~1989年)の著作集の完全復刊をめざす会です。ほかにも臨時でいろいろ。

『シュン@ひろしまタイムライン』の1945年8月8日―1945年8月14日のツイート(作業いったん終わり)

「もし75年前にSNSがあったら?」1945年、広島の中学1年生だった新井俊一郎さんの日記原文(1945年8月8~14日) | 被爆75年ブログ|NHKブログ

 

【1945年8月8日】

目が覚めてからずっと気分が優れない
三十七度五分の熱だ
これまで昼寝などできた事がないのに、どうしても起き上がれない

【1945年8月8日】

母ちゃんの作ってくれたクズ湯をのんだ

【1945年8月8日】

胃がむかむかして、吐きそうになる。疲れか?
八日に原村へ帰るようにとの命令であったが、今日は帰れそうにない。

【1945年8月8日】

一中の一年生は全滅とのことだ。
三保君、岩田君、田村君、それに大事な日記帳を僕にくれた、あの正木君も

【1945年8月8日】

僕ももしかしたら一中へ入学していたかもしれなかったのだ。
そうしたら、僕も今頃は

【1945年8月8日】

二中も建物疎開で全滅だと
奥本君、宮家君、谷口君
山崎君、山崎君は? 家は近くだ、帰ってきたらすぐわかるはずなのに

【1945年8月8日】

市立中学の橋本君、酒井君、沓木君
山陽中の坂井君も帰ってこないらしい、前田君も
修道へ行った木村君も

【1945年8月8日】

誰も彼も、行方不明になってしまった
防空壕を貸してくれた松田さんの家でも、道子さんがわからなくなってしまったらしい。

【1945年8月8日】

皆いなくなってしまった

【1945年8月8日】

道子さんは帰ってこられた。よかった

【1945年8月8日】

あれは、独で発明した新兵器を米が手に入れて廣島で試したということだ
試した?

【1945年8月8日】

絶え間ない嘔吐感と発熱、体のだるさもある
当分原村へは帰れないかもしれない

【1945年8月9日】

先日の大空襲で、粟屋市長が戦災死されたそうである。
東組にいた市長の息子のアワヤも、もしかしたら戦死したかもしれない。

【1945年8月9日】

体が鉛のように重く、思うように動かない。
相変わらず外はカンカン照りで、敷いてもらった布団が暑苦しい。
昨日から熱が下がらない。よほど疲れたのだろう。

【1945年8月9日】

酒井先生が重傷、奥様は亡くなられたらしい。
附国の上河内先生も戦死され、川崎先生は負傷、早瀬先生は行方不明…。
学校の教官方の多くが、死傷または行方不明。

【1945年8月9日】

入ってくる話は全て人の死ばかり。
沢山の友達の顔が思い浮かぶ。皆、今頃何をしているのだろう?

【1945年8月9日】

なんと、ソ連が我が国に宣戦布告!!
今のこのような状態でまた攻撃を受けるとなると、一体僕たちはどうなるのだ?
近所の人達が「もう駄目だ」と口にしている。

【1945年8月10日】

今日も熱が下がらない。

【1945年8月10日】

今日は、先日のあの特殊爆弾でめちゃめちゃになった家の大掃除をした。
八畳の間には、家財道具や本、壁土、天井板などが散乱していてとても足の踏み場もない。

【1945年8月10日】

瓦はもう散乱していて、雨が降ったら完全に家の中が水浸しになってしまう。
道具は比較的雨漏りが少ない場所に避難させた。

【1945年8月10日】

頭がぼうっとして、体が思うように動かない。熱い。

少し疲れた

【1945年8月10日】

明日は熱が下がるだろうか。
動員先の原村に戻らなければならない日はとうに過ぎている。心配でならない。
父母が「心配せずに寝ていなさい」と言ってくれた。

【1945年8月10日】

なんと、夕飯に大好物のオハギが!
あまり甘味はないが、小豆を使っているのでとても美味しい…はずなのに、食欲が出ない。

一つ残してしまう。

【1945年8月11日】

まだ気分がよくないが、明日、原村へ帰るので用意をしないといけない。
父が駅へ切符を取りに行った。

【1945年8月11日】

父が帰ってきた。
何度も交渉したが、罹災証明書がないと汽車に乗せてもらえないという。
とりあえず、非常用の一口パンを多めに作っておこう。

【1945年8月11日】

粉を練って、伸ばして広くし、乾パンくらいの大きさに切って、それを油でカラッと揚げる。
二缶ほど出来た。

【1945年8月11日】

用意するものは本、シャツ、食料くらいでいいかな。
少し多いくらいにリュックに詰めた。
父がまたどこかへ出かけた。

【1945年8月11日】

父が今度は罹災証明書を貰ってきた。
そのおかげで、明朝九時二十九分の列車に乗って帰れることになった。
まだ本調子ではないし、今日は早めに寝よう。

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【1945年8月12日】

いよいよ原村に帰る日だ。
まだ熱があるので長く寝るつもりでいたが、笠間君が来てしまった。
早く朝食を食べないと。

【1945年8月12日】

赤飯を食べた。母が宇品線で広島駅まで送ってくれるらしい。

【1945年8月12日】

駅はがらんどうで、外だけが残っている。
昨日父が貰ってきた罹災証明のおかげですんなりと列車に乗れそうだ。

【1945年8月12日】

倉田という兵隊さんが大阪方面に行かれるらしいので、一緒に八本松まで行ってもらうことになった。

【1945年8月12日】

いよいよ発車のときだ。
ハンカチを振る母を見ていると、胸が熱くなってくる。

【1945年8月12日】

今朝の新聞に八月九日 日ソ開戦とあった。
やはり本当だったのだ。
新聞を見せたら、原村の皆は驚くだろう。
大変なことになってしまった。

【1945年8月12日】

八本松についた。
ここからは重いリュックサックを担いで徒歩である。
熱があるので、少しふらふらする。
笠間君が肩を貸してくれる。有難い。

【1945年8月12日】

教順寺だ!

【1945年8月12日】

寺に着くなり皆に取り囲まれてもみくちゃになった。
皆揃って廣島のことを聞くが、答えるすべがない。
何より、皆様子はおおかた察しているようだった。

【1945年8月12日】

原村の皆は、七日に教官から「諸君は自分が孤児になったと覚悟せよ」との訓示を受けたらしい。
緊急連絡で飛び帰ったのか、よく見ると何人かの友が消えていた。

【1945年8月13日】

今日からまた寺での生活だ。
調子も戻ってきて、朝食を山盛り一杯食べた。

【1945年8月13日】

今日は誰も出動がない。三中隊も、二中隊もである。

【1945年8月13日】

三木教官が来られた。
とても久しぶりに会ったような気がする。

【1945年8月13日】

あの日、共に廣島へ帰った高田君が帰ってきた。
鉄砲町の家はやはり駄目で、お父上が戦災死を遂げられたという。

何かが違えば、僕達の父や母も
そう思うと、かける言葉もない。

【1945年8月13日】

米田達六人が廣島へ帰省した。
実家の安否確認のためである。
見送って手旗信号の練習をしていると、入れ替わりのように久保君が帰ってきた。

【1945年8月13日】

日本軍がマリアナ基地を爆撃したとのことだ。嬉しい。
これは仇討ちだ。もっと完膚なきまでに
あの憎い、憎い米を

【1945年8月14日】

本日も出動はなし。
ただし、三木教官が国民学校前の塩屋に塩とカツオブシを買いに行かれるというので同行する。

【1945年8月14日】

塩は重い。皆大騒ぎだ。

【1945年8月14日】

B29の大編隊が空を埋め尽くしている。
五十機どころではない。七十機以上はいるような感じである。
憎々しいほどに落ち着いて、悠々と飛んでいる。
しゃくに障る。昼食が不味い。

【1945年8月14日】

西本君の見せてくれた小説に、ロケットが出てきた。
ロケットは想像の中のものだが、宇宙に飛び出すただひとつの機械である。

【1945年8月14日】

村田が突然「日本は負けるぞ」と口走りながら部屋に飛び込んできた。皆何を言うか嘘を言うなと怒り心頭である。
村田はたくさん殴られて、鼻血を流している。

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シュンちゃんのツイートは1945年に新井俊一郎さん(当時13)が書いた日記をもとにしています

日記の原文👇8/8~14
https://nhk.or.jp/hibaku-blog/timeline/genbun/shun/434156.html

広島ゆかりの10代5人が日記や資料、聞き取り等をもとに作成し、3月から毎日発信中
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